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|battle_name = 土木の変
|campaign =
|image = [[ファイル:Tumu Crisis.jpg|thumb|300px|明軍とオイラト軍の進路]]
|caption
|conflict = [[明]]の対異民族戦争
|date = [[正統 (明)|正統]]14年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]([[1449年]][[9月
|place = [[懐来県|土木堡]]
|result = [[オイラト]]の勝利
|combatant1 = [[オイラト]]
|combatant2 = [[明]]
|commander1 = [[エセン・ハーン]]
|commander2 = [[英宗 (明)|正統帝]]<br />[[王振]]
|strength1 = 約30,000
|strength2 = 約500,000
|casualties1 =
|casualties2 = ほぼ全滅、正統帝は捕虜、王振はオイラトによる包囲中に死亡。
|}}
'''土木の変'''(どぼくのへん)は、[[1449年]][[9月1日]]([[正統 (明)|正統]]14年
明の兵部尚書[[于謙]]が果断な対処を行ったために、エセンは大勝を収めたにもかかわらず正統帝を無条件釈放せざるを得ず、この戦いは明にとっては致命的な打撃には至らなかったが、明がその後100年以上にわたり[[モンゴル高原]]の[[遊牧民]](いわゆる「北虜」)の間断ない侵攻に悩まされる端緒となった。
== 戦いの原因 ==
オイラトは、[[遊牧国家]]の常としてその経済を交易に依存して
しかしエセンは明との朝貢貿易の利益によってオイラトの統一を維持する必要があったため、明の方針転換はその統治体制に影響を与える重大な問題となった。そのため、明に侵攻し、略奪した戦利品を分配することで支配下の遊牧民の求心力を維持するとともに、軍事的圧力で従来の厚遇を明に迫ろうとした。またこの軍事行動には、婚姻を拒絶されたことによって損なわれた名誉の回復と、明に対する報復という側面もあった。
== 明軍の出撃 ==
▲[[1449年]]([[正統]]12年)7月、エセンは名目上の主君である[[モンゴル]]の[[ハーン|大ハーン]]、トクトア・ブハと協力し、[[陝西省|陝]][[山西省|晋]][[遼東省|遼]]の3方面より明領へ侵入した。中央軍を率いて山西に侵攻したエセンは、8月に騎兵2万により[[大同市|大同]]へ進軍する。当時明の権力を掌握していた[[宦官]]の[[王振]]は正統帝に親征を要請。朝廷内の反対を押し切って王振を総司令官とし、50万と号する大軍が召集され、20人の武官と多くの文官とともに出撃した。
明軍内部では、豪雨による泥濘とそれに伴う食糧輸送の困難のため動揺が発生していた。居庸関では、文武諸官が北京への帰還を要求したが、王振はその意見
== 土木堡 ==
兵部尚書[[鄺
明軍の遠征は十分に計画が練られ準備されたものではなく、総司令官が専門の軍人ではない王振だったことなどが、この大敗を招いた。50万と号される明軍に対し、オイラト軍はわずか2万の騎兵であったため、勝利したエセンにとっても予想外の事態であった
▲兵部尚書[[鄺堃一]]は居庸関に入ることを提案したが、王振はこの提言を退けた。土木堡は台地になっていて水源に乏しい上に、土木堡の南にある河川周辺はオイラト軍に占拠されていたため、明軍は深刻な飲料水の不足に苦しんだ。翌日、エセン率いるオイラト軍は明軍を包囲し、攻撃をしかけた。明軍は疲労し、王振と反王振派に内部分裂しており、士気も低かったため、この攻撃を防ぎきれず、大敗した。明軍の兵士は半数が戦死し、百名を超す文武諸官も数人を除いて全員が戦死した。英宗は捕虜となり、エセンの幕営に連行された。王振は護衛将軍[[樊忠]]によって殺害されたが、樊忠も戦死した。また、大量の物資がオイラト軍によって奪われた。
▲明軍の遠征は十分に計画が練られ準備されたものではなく、総司令官が専門の軍人ではない王振だったことなどが、この大敗を招いた。50万と号される明軍に対し、オイラト軍はわずか2万の騎兵であったため、勝利したエセンにとっても予想外の事態であった。ただし兵数は号数であり、実数は不明である。中国の歴史上、号数の半分もいない例も多く、数分の一程度の場合もある。また明軍はほとんどが歩兵のため、ほとんど全員が騎兵のオイラト軍は、機動力において圧倒的に有利である。
== 北京防衛戦 ==
{{see|{{仮リンク|北京防衛戦|en|Defense of Beijing}}}}
エセンは明の朝廷に英宗の[[身代金]]を要求し、有利な条件で講和を結ぼうと図った。一方、北京では皇帝捕わるの報で朝廷内に動揺が走ったが、[[兵部]]尚書[[于謙]]、[[吏部]]尚書[[王文]]らは[[景泰帝|朱祁鈺]]を即位させ、英宗を太上皇として人心の動揺を収めた。また、王振糾弾の声が高まり、王振の財産は没収され、王振の甥であった王山は[[凌遅刑]]に処せられた。▼
[[ファイル:Yu Qian.jpg|thumb|150px|于謙]]
▲エセンは明の朝廷に英宗の[[身代金]]を要求し、有利な条件で講和を結ぼうと図った。一方、北京では皇帝捕わるの報で朝廷内に動揺が走ったが、[[兵部]]尚書[[于謙]]
同年10月、オイラト軍は英宗を人質としたまま北京を攻撃した。明側には[[南京市|南京]]への遷都を主張する者たちと、北京を守って戦おうという主張する者たちとの意見の対立があったが、主戦派は于謙を中心に住民の協力を得て北京を防衛することに成功した。結局エセンは英宗を連れて北方に撤退した。
明の朝廷は、トクトア・ブハ・ハーンらエセン以外のモンゴル高原の有力者と接触して朝貢貿易を部分的に復活させ、和平交渉が膠着していたエセンが孤立することを画策した。孤立化を恐れたエセンは
== 英宗の帰還 ==
英宗の帰国によって微妙な立場に立たされた景泰帝は、英宗に「[[罪己詔|己を罪する詔勅]]」の起草を求め、また帰還後の英宗を南宮(崇質宮)に幽閉させた。
== エセンのその後 ==
土木の変の前後に[[トクトア・ブハ|トクトア・ブハ・ハーン]]との関係が悪化していたエセンは、のちにハーンを殺害し、
==影響==
土木の変以後、明の北方民族に対する影響力が低下すると、明と北方民族の交易が急激に衰えた。日本では製鉄技術を持たない[[アイヌ]]はそれまで鉄製品を北方民族や和人との交易に頼っていたが、北方民族からの入手が困難になり和人への依存度が高まったことで価格交渉で不利となり、[[コシャマインの戦い]]が起きたとされる。
== 参考文献 ==
* 三田村泰助『世界の歴史14 明と清』河出書房新社、1969年([[河出文庫]]、1990年)
* 若松寛(責任編集)『アジアの歴史と文化7 北アジア史』[[同朋舎]]、1999年
== 外部リンク ==
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* {{Kotobank}}
▲{{DEFAULTSORT:とほくのへん}}
[[Category:11-15世紀の戦争]]▼
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[[Category:明朝]]▼
[[Category:モンゴルの歴史]]
[[Category:万里の長城]]
[[Category:1449年の中国]]
[[Category:張家口の歴史]]
[[Category:明の英宗]]
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