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'''張本 勲'''(はりもと いさお、[[1940年]][[6月19日]]<ref>[https://kotobank.jp/word/張本勲-605418 張本勲] - [[コトバンク]]</ref> - )は、[[広島県]][[広島市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[外野手]])<ref name="hall-of-famers">[https://baseball-museum.or.jp/hall-of-famers/hof-099/ 野球殿堂 張本勲] - [[野球殿堂博物館 (日本)|公益財団法人野球殿堂博物館]]</ref>、[[野球解説者]]・[[野球評論家]]。[[韓国野球委員会]]
元[[在日韓国・朝鮮人|在日韓国人]]二世であるが、現在は日本に帰化している<ref name="帰化">
== 概要 ==
[[日本プロ野球|NPB]]唯一の'''通算3000安打'''達成者<ref name="hall-of-famers"/><ref name="npbphoto">[http://fan.npb.or.jp/photohistory/contents/harimoto.html 張本 勲 - フォトヒストリー - NPB]</ref> で、通算安打のNPB記録保持者(3085本)。またNPB唯一の'''500本塁打300盗塁'''達成者。さらに史上最多の'''16度のシーズン[[打率]]3割'''、史上最長の'''9年連続打率3割'''のNPB記録保持者。NPBで最多タイ記録となる[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]を7回獲得{{R|hall-of-famers}}。パ・リーグ最多記録となる[[最高出塁率 (日本プロ野球)|最高出塁数]](現在の最高出塁率)を9回獲得している。猛打賞の最多記録者でもある<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/202009210001140.html 巨人坂本が若松に並ぶ159度目猛打賞、1位張本]</ref>。広角に放つ打撃で「安打製造機」の異名をとった{{R|hall-of-famers}}。
[[愛称]]は「'''ハリさん'''(漢字表記で'''張さん''')」<ref name="goikenban">[https://web.archive.org/web/20051226161932/http://www.tbs.co.jp/sunday/sports.html 『週刊 御意見番』コーナーのページ] - TBS『サンデーモーニング』公式サイト内</ref>、「'''ハリ'''」、「'''ハリやん'''」、「'''ハリー'''」。血液型はO型。
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=== 生い立ち ===
両親は[[大韓民国|韓国]][[慶尚南道]][[昌寧郡]]大合面出身<ref name="yomiuri20150809">{{Cite web ja |title=「戦後70年 あの夏」<8>熱風私をかばった母…元プロ野球選手 張本勲さん |website=[[読売新聞]] |date=2015-08-09 |author=結城和香子 |url=http://www.yomiuri.co.jp/matome/sengo70/20150808-OYT8T50000.html |accessdate=2015-10-30 |publisher=[[YOMIURI ONLINE]] |archiveurl=https://archive.fo/20151029163827/http://www.yomiuri.co.jp/matome/sengo70/20150808-OYT8T50000.html |archivedate=2015-10-29}}</ref><ref name="W現代800612">{{Cite journal |和書 |author = 大刀川正明・戸部良也・冨田伸二 |title = 独占告白!3000本安打男・
張本勲の母・朴南田さん(80)の『息子と私』 |journal = [[週刊現代]] |issue = 1980年6月12日号 |publisher = [[講談社]] |pages = 44–47 }}</ref><ref name="globalpeace">{{Cite web ja |title=体験記を読む バット一筋 張本勲 |website=国立広島・原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク |date= |author= |url=https://www.global-peace.go.jp/taikenki/taikenki_syousai.php?gbID=311&dt=171231054350 |accessdate=2021-11-28 |publisher=[[国立広島原爆死没者追悼平和祈念館]] |archiveurl=https://archive.ph/jCO3Z |archivedate=2021-08-08}}</ref><ref name="サンデー毎日19760620">「シリーズ劇的人間 張本勲とその母 『中傷のヤジは許さない!』 復活ジャイアンツの目 被爆選手36年の汗と涙」『[[サンデー毎日]]』1976年6月20日号、[[毎日新聞出版]]、p114-121</ref><ref>[[吉田豪]]『男気万字固め』[[エンターブレイン]]、2001年、p90</ref>。[[本貫]]は[[仁同張氏]]<ref>{{Cite web ja |title=Why 전설의 오른손… 손가락이 하나 안보였다 |url=https://www.chosun.com/site/data/html_dir/2018/06/15/2018061501808.html |website=조선일보 |date=2018-06-16 |access-date=2022-07-18 |language=ko}}</ref>。父・張相禎が単身来日していたことから{{R|W現代800612}}、1939年3月{{R|W現代800612}}、母・朴南田{{Efn2|
* {{Cite news|和書|title=被爆の記憶日本軍の戦果に熱狂した「軍都」は戦況傾き一変、そして迎えた「あの日」…「加害と被害は表裏一体」|date=2025年6月27日|url=https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/news/20250626-OYO1T50062/|accessdate=2025年8月10日|newspaper=[[読売新聞オンライン]]|publisher=[[読売新聞社]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20250705220934/https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/news/20250626-OYO1T50062/|archivedate=2025年7月5日}} * {{Cite news|和書|title=女性活躍の先進地「原爆以前」の軍都・広島に光当てる 女子大生5人が研究成果を書籍化|author=矢田幸己|date=2025年2月6日|url=https://www.sankei.com/article/20250206-NN5UDKWK3JKF3HZTT2YC22HTEA/|accessdate=2025年8月10日|newspaper=[[産経新聞]]|publisher=[[産業経済新聞社]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20250207231251/https://www.sankei.com/article/20250206-NN5UDKWK3JKF3HZTT2YC22HTEA/|archivedate=2025年2月7日}} * {{Cite news|和書|title=伝えるヒロシマ(9) 寄せられた記録 軍都の8・6が浮かぶ|date=2023年1月12日|url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/258514|accessdate=2025年8月10日|newspaper=中国新聞デジタル|publisher=中国新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20250323162525/https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/258514|archivedate=2025年3月23日}} * {{Cite news|和書|title=【私たちの国の長く苦い思い出】 近代の日本と軍都広島|newspaper=中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター|date=2011-01-04|url=https://www.hiroshimapeacemedia.jp/abom/97abom/peace/03/omoide.htm|accessdate=2023-04-16|website=|publisher=中国新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190307100111/https://www.hiroshimapeacemedia.jp/abom/97abom/peace/03/omoide.htm|archivedate=2019-03-07}} * * {{Cite web|和書|url=https:/ * {{Cite web|和書|title=このまちアーカイブス 広島県 広島 「軍都」の様相を呈する、広島の街|date=|url=https://smtrc.jp/town-archives/city/hiroshima/p02.html|accessdate=2023-04-16|website=国際平和拠点ひろしま|publisher=三井住友トラスト不動産|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210503123724/https://smtrc.jp/town-archives/city/hiroshima/p02.html|archivedate=2021-05-03}} * {{Cite web|和書|author=ブルームバーグ|title=平和都市広島の知られざる顔、実は軍需産業の一大拠点も 日本製鋼所は大砲の増産に備え|date=2023年5月19日|url=https://shikiho.toyokeizai.net/news/0/673871|website=[[東洋経済新報社#会社四季報|会社四季報オンライン]]|publisher=[[東洋経済新報社]]|accessdate=2025年8月10日|archiveurl=https://megalodon.jp/2025-0810-0817-44/https://shikiho.toyokeizai.net:443/news/0/673871|archivedate=2025年8月10日}} * {{Cite web|和書|author=池上彰|authorlink=池上彰|title=池上さんに聞いてみた。岸田首相の“しゃもじプレゼント作戦”、池上さんはどう思いますか?|date=2023-04-04|url=https://bunshun.jp/articles/-/61801|website=[[文春オンライン]]|publisher=文藝春秋|accessdate=2023-04-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230403213028/https://bunshun.jp/articles/-/61801|archivedate=2023-04-03}}</ref>、[[太平洋戦争]] 1945年8月6日、5歳の夏、爆心地から約2kmの広島市段原新町(現在の[[南区 (広島市)|南区]][[段原]])で[[広島市への原子爆弾投下|被爆]]{{R|mediacenter|globalpeace|smartflash20191119}}<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/08/06/kiji/K20120806003842900.html 核廃絶訴える張本氏が始球式「魂を感じて投げました」 スポニチ]</ref><ref name="sinbun">[[毎日新聞]]、2008年8月2日、13頁。[[読売新聞]]、2007年8月4日、21頁。</ref>。[[比治山]]の影となっていた段原は直接の熱線が届かなかったが、爆風に見舞われ家は倒壊した{{R|mainichi20200222|globalpeace}}<ref name="nhkarchives">[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001130339_00000 「戦争はまだ終わっていない」] - [[NHKアーカイブスポータル#テーマ|NHK戦争証言アーカイブス]]</ref>。張本は赤い閃光を見た直後に意識を失い、意識が戻った後に記憶しているのは、張本をかばって覆いかぶさり、[[ガラス]]の破片で出血していた母の血の赤い色だった<ref name="yomiuri250810">{{Cite web|title=忘れられない臭いとうめき声、5歳で目の当たりにした原爆の惨状…元プロ野球選手・張本勲さん|url=https://www.yomiuri.co.jp/sengo/20250803-OYT1T50023/|website=読売新聞オンライン|date=2025-08-03|access-date=2025-08-10|language=ja}}</ref>。その直後に避難場所で経験した人肉の焼ける強烈な臭い、叫声を上げながら[[猿猴川]]に飛び込み亡くなっていく人々、夜通し続く呻き声
終戦後、広島に来ていた親戚や知人は次々に朝鮮に帰国{{R|W現代800612}}。父親も朝鮮半島に戻り{{R|W現代800612}}、生活基盤を整えてから一家も呼び寄せることになっていたが、父親が帰国後、[[タチウオ|太刀魚]]の骨が[[食道]]を突き破って急死し{{R|yomiuri20150809}}、またヤミ船が[[下関市|下関]]沖で転覆した事件を受けて、母親が子供3人の身を案じて帰国を諦めることになった{{R|mediacenter}}。母親は[[広島駅]]前の[[闇市]]で牛や豚の[[臓物]]を仕入れて自宅で[[大工]]や[[工員]]相手に[[焼酎#カストリ|カストリ]]飲み屋を始めた{{R|mainichi20200222|yomiuri20150809|W現代800612|globalpeace|nichirei}}<ref>{{Cite web ja |title=ヒバクシャ 16冬/1 張本勲さん(その2止) 忘れ得ぬ母の赤い手足 人は幸せへ切磋琢磨を |website=[[毎日新聞]] |date=2016-02-09 |author=平川哲也 |url=https://mainichi.jp/articles/20160209/ddn/041/040/008000c |accessdate=2017-04-19 |publisher=[[毎日新聞社]]}}</ref>。客の目当ては[[密造酒|ヤミ酒]]だった{{R|globalpeace}}。
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子供の時から体が大きく、[[ガキ大将]]としていつも大勢の子分を連れて歩いた{{R|globalpeace|smartflash20191119}}。広島市立比治山小学校5年のときに町内の野球チーム(同世代のチームではなく、社会人が趣味で集まっていたチーム)に誘われたのをきっかけに野球を始める<ref name="我が道3">[[スポーツニッポン]]連載『張本勲の我が道』(3)、2008年11月13日</ref>。当初は右投げ左打ちだったが、右手の怪我の影響で[[球種 (野球)|変化球]]を投げづらかった(鷲掴みにしか出来ない)ことから、[[サウスポー]]に転向{{R|nishinippon20200528|我が道3}}。[[利き手]]を変える大改造を行なった。
[[水泳]]が一番得意だったが、進学した[[広島市立段原中学校|段原中学校]]
この頃、[[広島東洋カープ|広島カープ]]の当時の[[本拠地]]・[[広島県総合グランド野球場|広島総合球場]]の場外の木によじのぼり、よく試合の無料見物をしていた
=== 高校時代 ===
甲子園出場を夢に、地元の強豪・[[広島県立広島商業高等学校|広島商業]]、[[広陵高等学校 (広島県)|広陵高校]]への入学を希望したが<ref name="dailyshincho20230115">{{Cite web ja |author=久保田龍雄 |date=2023-01-15 |url=https://www.dailyshincho.jp/article/2023/01251700/?all=1 |title=岡田彰布、張本勲、江本孟紀…プロ球界レジェンドが味わった“幻のセンバツ”という悲哀 |website=[[週刊新潮|デイリー新潮]] |publisher=新潮社 |accessdate=2024-05-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230327230247/https://www.dailyshincho.jp/article/2023/01251700/?all=1 |archivedate=2023-03-27}}</ref>、中学時代の素行不良が理由で叶わず{{R|mediacenter|新家の履歴書}}<ref>スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(5)、2008年11月15日</ref>、野球では全く無名の松本商業高校(現・[[広島県瀬戸内高等学校|瀬戸内高校]])[[高等学校#定時制|定時制]]に進学{{R|smartflash20191119}}<ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=106-20200525-01 “一打無敵”のご意見番が球界を斬る 張本勲の喝!!張本勲コラム 「打者の一番の商売道具。バットに正解はないがそれぞれに意図がある」]</ref>。入学後1か月ケンカしなかったら[[普通科 (学校)#普通科|普通科]]に転入させる
この時のいきさつだが、張本は「大阪に行きたい!」と家に帰ってすぐに兄にいったところ、[[タクシー#乗務員|タクシー運転手]]の兄は「何、寝言言っとるん。生活もできないくらいなのに、どこにそんな金があるんや」といい、母も大反対であった{{R|W現代800612}}。食べていくだけで精いっぱいの生活であったが、張本があまりにも泣いてすがるものなので、兄は松本商業の横田泉監督の所に相談に行った<ref name="話の肖像画 張本勲<6>">[https://www.sankei.com/article/20241206-L2373ZT44BIQNGTU7GJFOJQA4E/?outputType=theme_portrait 産経新聞 2024/12/6 話の肖像画 元プロ野球選手・張本勲(84)<6>]</ref>。そこで、横田監督から「いや、お兄さん、弟さんを浪商に行かせてやってください。ひょっとしたら、鍛えたら化けます。プロになれる力を持ってます。このままならもったいない」と真剣な顔でいわれた
浪商転校後、最初の挨拶で野球部の上級生に「オレは3発までは黙って殴られる。しかしそれ以上やったら殴り返す」と凄んだ{{R|W現代800612}}。広島のみならず、「大阪でも一番喧嘩が強い」と名を轟かせ、他校のワルから決闘を申し込まれたが<ref name="number20231230">{{Cite web ja |author=細田昌志 |authorlink=細田昌志 |date=2023-12-30 |url=https://number.bunshun.jp/articles/-/860205 |title=格闘技PRESS「おい、張本おれへんのか」“大阪で一番ケンカが強い”張本勲との決闘未遂…大阪のヤンチャな高校生がアントニオ猪木と同門レスラーになった日 |website=[[Sports Graphic Number|Number Web]] |publisher=文藝春秋 |accessdate=2024-05-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20240331013931/https://number.bunshun.jp/articles/-/860205 |archivedate=2024-03-31}}</ref>、野球で忙しく相手をする暇はなかった{{R|number20231230}}。
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恩師である中島春雄浪商監督は「当時から張本の打撃のセンスは大変なものだった」と述べ{{R|W現代800612}}、浪商では1年の終わり頃に4番になるが、張本が入部する前の部内の暴力事件で1年間の対外試合禁止処分(1年の秋から2年の秋)を受け{{R|W現代800612|smartflash20191119|dailyshincho20230115}}、この際に中島も監督の座を退くことになった。甲子園出場のチャンスは3年の[[選抜高等学校野球大会|春]]と[[全国高等学校野球選手権大会|夏]]の2回だけになった{{R|dailyshincho20230115}}。
{{by|1957年}}、2年の初夏に中島の戦友であり、度々同校を訪ねていた当時[[読売ジャイアンツ]]監督の[[水原茂]]に、高校を中退して左投手として
3年時の1958年[[第40回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園府予選]]は決勝で[[大阪府立寝屋川高等学校|寝屋川高]]に辛勝、念願の甲子園に出場
張本
逆算してまで、部長は張本を試合に出さないようにしていたのである。張本の言によると「心底腹が立った。許せない。露骨な仕打ちです。そのときだけは〝敵(かたき)をとる〟。そして自分も死のうって。そうでもしない限り、この怒り、悔しさ、抑えきれない気持ちになっていたんです」
同事件によって甲子園の夢を絶たれ、自殺も考えるほどのショックを受けたが{{R|nishinippon20200528}}、野球部の同級生で同じく休部処分を受けた友人の[[山本集]]{{Efn2|[[オリジナルビデオ|Vシネマ]]にもなった山本の自伝的著書『浪商のヤマモトじゃ!』(南風社、2002年)では、張本に関する数々のエピソードがフィクションも交えて紹介されている。}}が親身になって張本の相談に乗り、張本は話を聞いてもらっている内に涙が出てきて母校のグラウンドで夜通し走っ
張本は山本に「敵討ちをしようと思う」と相談すると、山本は「張なぁ、そんなことはやめとけ。お前が死んだら、お前の好きなお母さんが嘆くぞ。3年間仕送りした兄貴だって。お前には野球があるやろ。俺は野球がだめだから他の道に進むけど、お前はプロに入って、3年間死ぬほど必死でやって、それでダメだったらそれから敵討ちに行っても遅くないだろう」といわれ、思い止まった<ref name="話の肖像画 張本勲<8>">[https://www.sankei.com/article/20241208-AUEXEZ74QNL5JERMBLUHF44BCE/?outputType=theme_portrait 産経新聞 2024/12/8 話の肖像画 元プロ野球選手・張本勲(84)<8>]</ref>。
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山本は[[奈良]]の金持ちの子で、浪商近くに一軒家を借りて姉と住んでいたが、張本は1年生の時に「張よ、下宿代5千円はもったいない。部屋が空いているし、うちに来ないか」といわれて張本は2階に住んでいた。ところが2年生になって山本は補欠で、張本はレギュラーに選ばれた。しかも山本の姉が作った弁当を持って試合に行った。次第にばつが悪くなった張本は1年ちょっとでそこを出ている。また、同じく野球部の同級生で友人に、後に[[北海道]][[新冠町]]に[[太陽の森 ディマシオ美術館]]を創立した[[谷本勲]]がいる。張本勲、山本集、谷本勲と全部名前に「本」が付くことから「3本悪」と呼ばれていた<ref name="話の肖像画 張本勲<8>"/>。
この年、[[在日韓国・朝鮮人|在日韓国人]]高校生で構成する日韓親善高校野球の選手に選抜されて渡韓し、生まれて初めて「祖国の土」を踏む{{R|mediacenter|サンデー毎日19760620}}。主軸打者として韓国各地を転戦、選抜チームも14勝1敗と圧勝した{{R|新家の履歴書}}。張本のバッティングは祖国の野球ファンも驚かせ、韓国メディアも大きく報道した<ref name="韓国野球の源流">大島裕史著 『韓国野球の源流』 新幹社、2006年、p154頁</ref>。
=== プロ野球選手時代 ===
==== 東映・日拓・日本ハム時代 ====
[[File:장훈.png|thumb|180px|1960年日米野球]]
天性の素質を見出され複数のプロ球団の争奪戦となる{{R|hall-of-famers}}。地元の[[広島東洋カープ|広島カープ]]に行きたい
[[松木謙治郎]]打撃コーチの「[[打率]]も残せて、[[本塁打|ホームラン]]も打て、[[盗塁]]もできる完璧な打者を目指せ」
大川博オーナーの意向もあって一軍に抜擢され、高卒の新人外野手ながら[[開幕戦]]の[[スタメン]]に名を連ねた{{Efn2|同年、王貞治も新人で開幕スタメン出場。NPBで18歳の高卒新人の開幕スタメンは以後1965年の[[飯田幸夫]]、1988年の[[立浪和義]]、2006年の[[炭谷銀仁朗]]、2011年の[[後藤駿太|駿太]]、2013年の[[大谷翔平]]、2022年の[[松川虎生]]しかいない。高卒新人外野手としては駿太まで以後52年間出なかった。}}。デビュー戦は阪急戦で、[[米田哲也]]の剛速球に全くついていけず三振、直後の守備でバンザイをして即交代させられた。翌日の阪急戦で第1打席で[[秋本祐作]]から二塁打を打ち初ヒット、第2打席で[[石井茂雄]]から初本塁打を放つ。6月23日からは4番を打つ。入団1年目からレギュラーに定着して規定打席に到達し、高卒新人で2桁本塁打の13本塁打を放つなど活躍して[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]を獲得した。
2年目に
4年目の{{by|1962年}}は本塁打、打点ともに[[野村克也]]に次ぐリーグ2位を記録。同年は21[[故意四球|敬遠]]で当時のパ・リーグ記録に並んだ{{Efn2|[[豊田泰光]]の記録に3年ぶりに並んだ}}。広島で行われた[[1962年のオールスターゲーム (日本プロ野球)#第2戦|オールスターゲーム第2戦]]では親族一同を招待し大活躍、[[オールスターゲーム (日本プロ野球)#各種表彰|MVP]]に輝き、故郷に錦を飾った{{R|sponichi20200510}}。チームのリーグ初優勝に貢献し、リーグ[[最優秀選手 (野球)|MVP]]と、同年から新設された[[最高出塁率 (日本プロ野球)|最高出塁率]]を獲得した。同年の[[阪神タイガース]]との[[1962年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では全7試合に4番打者として出場。第6戦で[[太田紘一]]から2点本塁打を放つなど26打数12安打と活躍し、チーム日本一の原動力としてシリーズ技能賞を獲得した。
{{by|1963年}}に
{{by|1970年}}、打率.383、本塁打34本、打点100
{{by|1972年}}8月19日の[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]戦で、[[東尾修]]から史上7人目となる2000本[[安打]]を達成。同年の[[猛打賞#日本プロ野球|猛打賞]]22回は[[与那嶺要]]に20年ぶりに並び、{{by|1996年}}に[[イチロー]]に更新されるまで日本記録だった。{{by|1974年}}に
日拓ホームフライヤーズとなった{{by|1973年}}の後期{{Efn2|1973年から1982年まで、パ・リーグでは[[2シーズン制|前後期制]]を採用していた。}}からは、選手兼任でコーチ(ヘッド兼打撃コーチ)を務めた<ref name="ichiro">『イチロー論 一流とはなにか プロフェッショナルとはなにか』青志社、2009年</ref>。コーチになった理由は後期から監督になった[[土橋正幸]]に「おまえは兼任でヘッドコーチをやれ。選手をまとめろ。2、3年でバトンタッチするから」と言われたためであった。
次いで{{by|1975年}}の前期リーグ終了後に
前年のオフに[[大杉勝男]]・[[白仁天]]らが移籍し、張本はこの時について「日本ハムに身売りになって、三原さんが社長になって、娘婿の中西さんが監督になって、土橋さんも球団から去って。チームもバラバラ。みんなチームからいなくなって。自分もチームから出ないと行けないと思った」と述べている<ref>日本ハム70年史 上巻―東映フライヤーズ全史、2015年、ベースボールマガジン社、P19</ref>。張本が「もし不要なら出してほしい」と直訴すると、三原に「希望する球団に行かせよう」と言われ、強さへの憧れからファンでもあった巨人を挙げた。また、張本は当時[[阪神タイガース]]監督の[[吉田義男]]に誘われて一時は阪神行きを決意し、[[兵庫県]][[宝塚市]]に80坪の土地まで用意した
1975年オフに
==== 巨人時代 ====
{{by|1975年}}シーズン終了後、[[長嶋茂雄]]監督が「王の前に大砲が欲しい」と希望し{{R|sundaymainichi}}、東日貿易の[[久保正雄]]社長の仲介により<ref name="news-postseven20240922"/><ref>{{Cite web ja |date=2020-09-15 |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=106-20200921-01 |title=“一打無敵”のご意見番が球界を斬る 張本勲の喝!! 張本勲コラム「思い出深い2度のトレード。その際にかけられた温かい言葉は今も心に強く残っている」 |website=週刊ベースボールONLINE |publisher=ベースボール・マガジン社 |accessdate=2024-05-11}}</ref>、11月25日に[[高橋一三]]・[[富田勝]]との交換トレードで[[読売ジャイアンツ|巨人]]へ移籍<ref>{{Cite web ja |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=001-20131223-04 |title=ビッグトレードの当事者が語る「1975」 |publisher=週刊ベースボールONLINE |date=2013-12-12 |accessdate=2021-10-01}}</ref><ref>スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(14)、2008年11月24日</ref>。憧れであった巨人に入団したことで発奮し、オフやキャンプで徹底した走り込みを敢行した。それまで首位打者を7回も獲得したにも関わらず、自伝を含め書籍は一冊も刊行されず{{R|林}}。
{{by|1976年}}は自己最高の安打数を更新し、同年6月10日の阪神戦で、当時史上2人目となる2500本安打を達成<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=aCKfPG6jGwM その試合映像]</ref>。
{{by|1978年}}に
==== ロッテ時代 ====
{{by|1980年}}1月5日、オーナーの[[重光武雄]]の強い誘いと3000安打を達成したかった張本の意向もあり<ref>張本著、プロフェッショナル真の仕事とは何か:勝者のための鉄則55、[[日之出出版]]、2013年、P99</ref>、[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]に移籍。同年5月28日、地元[[川崎球場]]での[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]との対戦
張本は当時の[[山内一弘]]監督に采配の指示を出し<ref name="number20230616">{{Cite web ja |author=岡野誠 |date=2023-06-16 |url=https://number.bunshun.jp/articles/-/857784?page=3 |title=野球PRESS選手時代の張本勲は「監督に指示出してました」…元ロッテ選手が語る“張本・落合”の強烈エピソード「打球が飛ばないんです」「じゃあ野球辞めな」 |website=Sports Graphic Number |publisher=文藝春秋 |accessdate=2025-04-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230617152600/https://number.bunshun.jp/articles/-/857784?page=3 |archivedate=2023-06-17 }}</ref>、山内も「おお、そうか」と聞いていた
{{by|1981年}}に[[現役引退]]。現役最後の安打は[[森繁和]]から打っている。[[野球の背番号|背番号]]はプロ1年目から引退まで一貫して'''10'''を着用した。そのままロッテの監督に昇格の話もあったが、実現はしなかった<ref name="文春1981123">「オレは新選組"特注"局長だ」『週刊文春』1981年12月3日号、文藝春秋、p16-19</ref>。
23年間のプロ野球現役人生を振り返り「うれしいことは1回もないわ。悲しい、辛いことばっかりじゃないですか」「私はなんで、こんな競技をやったのか? 野球のない国に行きたいなと思ったことは100回や200回じゃない」「苦しいから。辛いから。明日、打てるかな、打てないかな。明日、勝てるかな、負けるかな。朝から晩まで野球のことしか考えない。今、考えたら、その時代が幸せだったのかも分からんね。野球しか考えなかったから。でも、1万何回、打席に立ったけど、1回も楽しいと思ったことはない」と話した<ref>{{Cite
通算打率は歴代3位(4000打数以上)であり、7000打数以上では歴代1位である。通算打撃部門の全ての上位に名を連ねていることから、日本プロ野球史上屈指の強打者との誉れが高い。通算安打は'''3085本'''で日本記録である{{Efn2|2009年に[[シアトル・マリナーズ]]のイチローが日米通算3086安打を記録し、日本メディアは「日本記録更新」と報道したが、NPBでは日本記録と認められておらず、NPBの最高責任者である[[加藤良三]][[プロ野球コミッショナー]]も張本の3085安打が日本記録だと明言している(『週刊現代』2009年5月9日号、講談社)。}}。自身も通算最多安打を記録していることを誇りに思っており、「[[イチロー]]がたとえ日米通算4000本安打を記録しても、日本記録保持者は私ですから」とコメントしているが、
=== 引退後 ===
引退発表した1981年オフ、ロッテから監督要請を受けるが、[[山内一弘]]を更迭しての要請であったため、辞退し、1982年より[[TBSホールディングス|東京放送]]([[TBSテレビ]]・[[TBSラジオ]]){{Efn2|2001年9月まで、[[ラテ兼営|ラジオ・テレビ兼営放送局]]であったが、10月にラジオを[[子会社]]として分離、2009年4月には[[放送持株会社|持株会社]]化(東京放送ホールディングス→TBSホールディングスへの社名変更)に伴いテレビも子会社として分離(TBSの略称もTBSテレビに継承)された。}}野球解説者、[[スポーツニッポン]]野球評論家を務める。1983年オフに辞任した[[山本一義]]の後任とした再度ロッテから監督要請を受けるが、ベンチ裏から野球を勉強したい理由で再度固辞する、この時、辞退するなら代わりの候補者を出すようフロントから言われ、[[土橋正幸]]と[[稲尾和久]]を推薦する(土橋は[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]に入閣することが決まっていたため、稲尾の監督就任となった。)。1984年オフに
* 『プロ野球選手カラー名鑑2007』
* 『週刊ベースボール』プロ野球全選手写真名鑑(2009年版のみ解説者・評論家名鑑は未掲載)
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2001年にスタートした[[プロ野球マスターズリーグ]]では、[[東京ドリームス]]に選手兼任コーチとして所属し、試合にも出場している。中々ヒットが打てなかったが、2005年に5年越しの初[[安打]]を放った。もっとも本人は「(投手の)[[星野伸之]](元オリックス)が手加減してくれた」とコメントしている。
臨時コーチを何度も務めている。[[中日ドラゴンズ|中日]]の沖縄秋季キャンプの臨時コーチを務めた1992年に
: 一度目は現役引退直後の1981年、ロッテから[[山内一弘]]の後任として。
: 二度目も再びロッテから、[[山本一義]]が辞任した後の[[1983年]]オフ。
: 三度目は張本曰く、[[1980年代]]後半頃に日本ハムから。
: 四度目は三たびロッテから、[[有藤通世]]が辞任した後の[[1989年]]オフ。
1982年に発足した韓国プロ野球統括団体である、KBOのコミッショナー特別補佐官を2005年まで務めた<ref name="ugbc">[http://ugbc.net/event/pdf/07_0516.pdf 記 念 講 演 誇り~胸を張って歩んだ道のり~]</ref><ref name="simoda">[[下田武三]]『プロ野球回顧録』ベースボール・マガジン社、1988年、p121-124、165-168</ref><ref>スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(18)、2008年11月28日</ref>。2007年、民間人に与えられる韓国最高の勲章である[[国民勲章]]第1等の「無窮花章」が授与された{{R|mainichi20200222}}<ref name="Sponichi20080123">[https://archive.fo/20151029163933/http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2008/01/23/kiji/K20080123Z00001530.html 張本氏祝賀会でONと豪華3ショット - スポニチ Sponichi Annex](Internet Archive)</ref><ref>[http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?newsid=9235 無窮花章受勲張勲氏を祝う 都内のホテルで - mindan]</ref>。韓国プロ野球創設の際の組織作り・人材派遣などの支援等、日韓のスポーツ界並びに在日韓国人社会の発展に貢献した功績によるものだった{{R|yomiuri20150809}}。「無窮花章」は日本の[[勲等|勲一等]]にあたる{{R|Sponichi20080123}}。日本のスポーツ選手として、韓国の勲章を受けた唯一の人物となる。
韓国の野球発展にも多大な功績を残し{{R|mediacenter}}、1982年から始まった[[韓国野球委員会|韓国プロ野球]]は、李容一初代事務総長、李虎憲同次長、張本の3人で立ち上げ
2021年11月28日放送の『サンデーモーニング』のスポーツコーナー『ご意見番』で、同コーナーを年内で卒業すると発表した<ref>{{Cite web ja |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202111280000314.html |title=張本勲氏が「あっぱれ!」年内で卒業 サンデーモーニングで生報告 |date=2021-11-28 |accessdate=2021-11-28 |publisher=日刊スポーツ}}</ref>。張本本人は老後をゆっくり過ごしたいと
2024年春に腰の手術を行っており、退院後の5月28日に東京ドームで行われた読売巨人軍の創設90周年を記念する「王貞治デー」の一戦でファーストピッチに参加した際は、『サンデーモーニング』レギュラー時代とは一変した激痩せして老け込んだ姿を見せた<ref>{{Cite web |url=https://www.daily.co.jp/baseball/2024/05/29/0017708222.shtml |title=張本勲氏83歳 始球式で見せた近影にファン「涙した」ご意見番として鋭いコメント「長生きしてほしい」の声も |publisher =デイリースポーツ |date=2024-05-29 |accessdate=2024-07-08}}</ref>が、メディアの取材に対し張本本人は「腰の手術をしたため年齢のせいもあって筋肉が落ち、杖をつくことになったが特に大病をしたわけではない」と語っていた<ref>{{Cite web |url=https://bunshun.jp/articles/-/71474 |title=大病で激ヤセ説も…杖をついて歩く張本勲(83)を直撃した |publisher =週刊文春 |date=2024-06-13 |accessdate=2024-07-08}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.chunichi.co.jp/article/907435 |title=張本勲さん、巨人―ソフトバンク戦での始球式を『サンデーモーニング』が紹介 「見た目はだいぶほっそりしましたが」 |publisher =中日新聞 |date=2024-06-02 |accessdate=2024-07-08}}</ref>。
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== 選手としての特徴 ==
=== 打撃 ===
バットを高く構えて捕手寄りに倒して始動し、水平に振り抜く独特の打法から、右へ左へと自在にボールを打ち分けた<ref>[https://www.jiji.com/jc/v4?id=ichiro_kiseki0006 もう一人の天才、張本勲] 時事ドットコム</ref>。このため上記の「安打製造機」のほか、「'''[[打撃 (野球)#技術と戦術|広角打法]]'''」<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/f-bb-tp2-20090416-483180.html 張本勲氏略歴~ハリさんはこんなにすごい]</ref>、「スプレー打法」、「扇打法」と
元[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]事務局長の村田繁は張本について、「広角打法の最高峰を極めた打撃王であると認定していい」と評している<ref>『20世紀のプロ野球名選手100人』[[日本スポーツ出版社]]、2000年、102頁</ref>。通算[[RC (野球)#RCWIN|RCWIN]]傑出度では[[王貞治]]に次ぐ歴代2位の数値を記録するなど、打撃
東映入団1年目から20年連続シーズン100安打以上を放っており、打率3割以上を16回記録した。走塁
現役時代は多くのシーズンで首位打者以外のタイトル争いにも絡み、毎年打撃部門で上位に位置していたが、本塁打王と打点王のタイトルは1度も獲得できなかった。通算1676打点は、打点王のタイトルを獲得していない選手の中では史上最多である。また、1500打点を2368試合目で迎えたが、これは2012年に[[金本知憲]]が2501試合目で1500打点をとるまでは一番遅い試合数での達成記録だった<ref>{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/tigers/2020/04/21/0013285352.shtml |title=【きょうは何の日】2010年阪神 鉄人金本知憲4月21日の再スタート |publisher=デイリースポーツ online |date=2020-04-21 |accessdate=2022-06-21}}</ref>。
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現役時代に打撃のコツについて教えを乞いに行ったことがある<ref>{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/baseball/showa50/2017/04/04/0010083904.shtml |title=【4】ブルーム |website=デイリースポーツ |date=2017-04-04 |accessdate=2022-09-14}}</ref>。その相手は当時[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]に在籍していた[[ジャック・ブルーム]]で、張本はブルームの外角打ちの上手さに感心し、外角打ちのコツを聞きに行った。それに対してブルームは、「外角を打つにはまず内角打ちが上手くなければいけない。それは、外角に的を絞っているときに内角にストレートが来ると絶対に手が出ないからだ。相手投手は、こっちが内角打ちが上手いと、内角に投げるのを嫌がって外角に投げてくる。そこを狙い打つのだ」と回答。その後、張本は首位打者の常連となっている。
バントの上手さについては[[王貞治]]からも認められており<ref name="hari">[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/11/08/kiji/K20141108009243870.html ムネリン “バントの師”張本氏と対談「米国に骨埋めるなんて…」]</ref>、2003年のキャンプでは[[川﨑宗則]]にセーフティーバントの指導をした。川崎は後年に「張本さんといえば『豪打』のイメージでしたが、あれでセーフティーバントの確率がぐっと上がった。僕のヒットの何本も、張本さんのおかげで打てたようなものです」と語っている{{R|hari}}。
打撃のコツについては、後年、バッターボックスでの構えについて「'''雨の日の立ち小便'''」(リラックスしながら腰を落とす)のように構えるとよい、と語ったこともある。現役時代、天才または運と呼ばれたことに対して、「ある日突然バッティングの才能が目覚めるなんてことは絶対ない。半狂乱になってバットを振って振って振りまくった人だけに打撃の極意というものは見えるんです」と語っている<ref>文春ビジュアル文庫「豪打列伝」[[文藝春秋社]]</ref>。キャンプなどでも張本は布団の横にバットを置いていて、夜もたびたび起き上がって素振りをしていた
張本自身は、本人曰く「張本シフト」として外野2人、内野5人の右寄りのシフトを敷かれていたことがあり、これは「[[王シフト]]よりも前だ」として(当時は人気の無かったパ・リーグだったので話題にならなかったとしている)、「これをセ・リーグのスコアラーが見て王シフトのヒントにしたのではないか」と述べている<ref>[[週刊ベースボール]] 2022年12月19日号 連載『張本勲の喝!!』(41頁)</ref>。
=== 守備 ===
このようなハンディがありながらも、守備率を示すRF(刺殺+補殺+失策)÷試合数の数値では、1964〜1967年(24歳〜27歳時)に4年連続で2点以上(これは平均以上の数値であり、2.5を越えれば一流と言われる)を記録し、1959年(19歳時)の1.41から大幅に上昇させている<ref name="baseballstats2011.jp">http://baseballstats2011.jp/archives/36039976.html</ref>。
ただし、1975年にパ・リーグで導入されたDH制のため1年間守備が免除された後、巨人に移籍し左翼の守備に返り咲いた翌年の1976年以降は、守備力の衰えが顕著になる。例えば1966年(26歳時)に
阪神との[[1962年の日本シリーズ]]第7戦(1点リードから同点に追い付かれた)では、10回裏にベンチに下げられ、
== 人物 ==
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来歴の節で記したように、幼少期に大火傷を負っている。右手以外は完治したものの、右手のみに後遺症が残り、親指・人差し指は完全に伸びず、薬指と小指は癒着したままである。野球を本格的に始めてからは誰にも見せないようにしていた。プロ1年目のオフ後、母親と談笑しているときに「この指がまともだったら、もっと良い成績が残せるのになぁ」と呟いたところ、母親が「母親なのに息子をちゃんと見ていないからこうなってしまった」と罪悪感を抱き、号泣してしまった。まずいことを言ったと反省した張本はそれ以降、家族にも右手を晒さなくなった{{R|nishinippon20200528}}。
NHKの番組で張本の右手を取り上げる企画が予定されたが、張本は拒否。その後、NHKの解説者を務めていた[[川上哲治]]にだけ、現役引退後の座談会で右手を見せた。川上は「よくもそんな手で…」と涙を流しながら絶句し
プロ野球出身者で直接の被爆により[[被爆者健康手帳]]を交付されたのは、張本と[[濃人渉]]の2人のみとされている(直接被爆者自体は他にも、1954年に[[広島東洋カープ|広島カープ]]へ入団した[[原田高史]]と1965年に[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]へ入団した[[福富邦夫]]がおり、原爆投下後に被爆地に入った「入市被爆者」では[[岩本義行]]が交付を受けている)。『[[週刊現代]]』1980年6月12日号に
被爆者に対する差別を目の当たりにしたことから、被爆者であることを
家族を尊敬しており、長姉の点子に対しても敬意を払っており2014年に
2024年、[[日本原水爆被害者団体協議会]](被団協)が[[ノーベル平和賞]]を受賞したことを受けて、「世界中で戦争が絶えない中で、人類のために本当に良いことだと思う。むしろ、感謝したい。『ありがとう』と言いたいです」、「今、外国では戦争が起きている。私は個人として最後のメッセンジャーとして、これからも戦争の悲惨さを伝えていきたい」などのコメントを発表した<ref>{{Cite web |title=張本勲さん「人類のために本当に良い」 日本被団協にノーベル平和賞 |url=https://mainichi.jp/articles/20241011/k00/00m/040/241000c |website=毎日新聞 |access-date=2024-10-12 |date=2024-10-11 |author=岸本悠}}</ref><ref>{{Cite web |title=張本勲さん「ようやく世界に発信してもらえる」美輪明宏さん「あの光景を忘れることはない」…被爆した2人が談話 |url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20241011-OYT1T50210/ |website=読売新聞 |date=2024-10-11 |access-date=2024-10-12}}</ref>。
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ロッテへ移籍した1980年、当時の監督だった[[山内一弘]]や[[金田正一]]など多くの評論家が酷評した[[落合博満]]の特異な打撃フォームを「素晴らしい、このままのスイングで打てる」と絶賛していた。その後に落合は[[三冠王]]を3度獲得し、当時から張本は落合の非凡な才能を見抜いていたことが証明された形となった。後年、落合が三冠王を獲得した頃に自分の手について「柔らかいでしょう。とてもたくさん素振りしているような手ではないですよね」と語っていることに対して、張本は「あれは落合の謙遜。彼の手は本当にバットを振り込んだ手だ」と述べている。
現役時代、毎日午前3時または4時頃に起きてバットを振り、引退するまで子どもとは別の部屋だった
非常に腕っぷしが強く、中学時代に練習場の奪い合いで、一級上のサッカー部のキャプテン相手に暴力沙汰を起こしたことがあり{{R|mediacenter}}<ref name="男気96">『男気万字固め』p96-97</ref>、中学時代からヤクザのチンピラとケンカをしていた
: [[土橋正幸]]は、自身より5歳年下の張本に「マウンドでモタモタしていると、どやされたもんです」と話している<ref>『闘技場の人』佐山一郎、[[河出書房新社]]、1992年12月、205頁</ref>。ただ張本にとっては、土橋がプロ入りして初めて憧れて男として惚れた存在であるとして、ずっと「{{ruby|兄|あん}}ちゃん」と呼んで慕っていた<ref>[[週刊ベースボール]] 2020年6月8日号 連載『張本勲の喝!!』(50 - 51頁)</ref>。
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: [[村田兆治]]は、「内角を突くと睨みつけ、もう一度続けるとマウンドに向かってくる。同じ広島出身ということで可愛がってもらった」と話してる<ref>[[スポーツニッポン]]、村田兆治の我が道、2017年7月16日</ref>。張本と村田はロッテ時代の2年間チームメイトだった。
: [[江本孟紀]]が阪神に在籍していたとき、対読売ジャイアンツ戦で両軍選手入り混じっての乱闘になった。グラウンドに出た江本のところに張本が近くに来て耳打ちで「おい、〇〇を殴れ」と言ってきた
: [[愛甲猛]]は、ロッテの選手が乗ったバスがヤクザの車に道を塞がれたことがあって、張本が一人でバスを降りて怒ってるヤクザのとこへ行くと、「5〜6分ほどでカタをつけて、何事もなかったかのようにバスに戻って来た」と話している<ref>[[週刊アサヒ芸能]] 2012年9月6日号、76頁</ref>。
: [[高田文夫]]は、小学生の頃、[[駒澤野球場|駒沢球場]]から負け試合の後、球団の若手選手寮に真暗な田んぼの中をトボトボ帰っていく選手たちの中に張本を見つけ、寄っていき「おい、なんであそこで打てねぇんだよ。しっかり打てよ」など言い放った途端、張本に頭をパッカーンと殴られた
: [[佐々木信也]]は、友人から聞いた[[銀座]]であったド派手なケンカの目撃談として「大の男がぶん投げられて宙を舞っているぐらいの大ゲンカ。人だかりの中に入ってよく見ると、輪の中心で大暴れしていたのは東映フライヤーズ時代の張本だったそうです。当時から『張本を怒らせるな』という言葉は聞いていたけど、やっぱり本当にケンカは強かったんだね。銀座のど真ん中で、大の男を何人もぶん投げるなんて、今の時代では絶対に考えられない話ですよ(笑)」と話している<ref name="dot.asahi240823">{{Cite web|和書|url=https://dot.asahi.com/articles/-/231572?page=1|author=長谷川晶一|authorlink=長谷川晶一|title=酒豪1位は王貞治、ギャンブラー1位は張本勲、では好色家1位は…野球解説者(90)が見たスター選手のウラの顔 「野村克也の怖いものは、キムチ、女房、鶴岡一人」|accessdate=2024-09-24|website=[[AERA dot.]]|publisher=[[朝日新聞出版]]|date=2024-08-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20240831033449/https://dot.asahi.com/articles/-/231572?page=1|archivedate=2024-08-31}}</ref>。また「球界ナンバーワン[[賭博|ギャンブラー]]は張本かな? あるとき、[[背広]]の内ポケットいっぱいの札束を見せてもらったことがあったなぁ。『佐々木さん、コレ見てよ。[[日本の競馬|競馬]]で勝ったんだ』って言ってたね」などと証言している<ref name="dot.asahi240823"/>。
[[江本孟紀]]が入団1年目(1971年)のキャンプのフリーバッティングに登板した際、[[大杉勝男]]、[[白仁天]]に対して1球もストライクが入らなかった。江本は白に「バカヤロー、プロかお前」と怒鳴られ、投手コーチの[[土橋正幸]]からも怒られ、「次にストライクが入らなかったら辞めます」と言うつもりでいたところ、次の打者が張本だった。そのため足が震えたまま投球し、案の定ストライクにならなかったが、張本はストライクゾーンに入っていないボールを片手で打ち、その後も投げるボールを文句も言わずに当てて、そのうちに江本はストライクが入るようになった
[[野村克也]]が用いた「ささやき戦術」に数々の打者が悩まされていた頃、野村は張本にも例外なくそれを行った。それに対し、試合で張本はわざと大きな空振りをして野村の頭をバットで殴った<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/12/07/kiji/K20121207004724130.html 張本氏、東尾氏が現役時代裏話 バットでノムさん叩いた!?] - スポニチ</ref>。その後、野村は張本に対してささやき戦術を行うことはなくなった。これについて張本は[[サンデーモーニング]]で「私の現役時代にもね、一人いたんですよ。たちの悪いのが(野村克也)」「空振りのふりをしてバットでガツーンと叩いてやりましたら、もう二度と(ささやき戦術を)やらなくなりましたけどね。(野村は)殺されると思ったんでしょうね」とコメントしている。
かつて、[[パシフィック・リーグ#「実力のパ」|「人気のセ」「実力のパ」]]と言われ<ref>[http://pentasports.net/member/1006/p04-01.html 実力のパ? 野球入魂 - Digital PENTA]</ref>、[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター戦]]で、「[[セ・リーグ]]に負けるな」と本気で闘った[[パ・リーグ]]選手の先頭に立っていたのは、張本であると[[野村克也]]は話している<ref>『[[S☆1]]』、[[TBSテレビ|TBS]]、2014年5月19日放送</ref>。
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選手の才能とは別に人事の重要性も述べている<ref>{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/baseball/2017/03/26/0010036582.shtml |title=張本氏、侍首脳陣の不和を暴露 「監督の言うこと聞かないコーチがいた」 |website=デイリースポーツ online |publisher=株式会社デイリースポーツ |date=2017-03-26 |accessdate=2023-02-24}}</ref>。自身の著書の中で監督業について、「私も現役時代11人の監督に仕えていたからわかるが、確かにヘボ監督はいる。野球ほど監督の采配ひとつで戦況や勝敗が180度変わるものはないだろう」と述べ<ref>プロフェッショナル真の仕事とは何か:勝者のための鉄則55、P99</ref>、「現役時代名選手だったのに、指揮官になったとたん、動揺して信じられないような采配をする監督がいる。本名を出すのは憚れるので、ここでは[[中西太|N監督]]としよう。こちらが一打逆転の場面なのに落ち着いてベンチから見ていられない。ベンチ裏に引っ込んで小窓から覗きながらマネージャーにカウントを確認し、ここで逆転できないとどうしようと不安でたまらず直視できない。監督がこんな状態ならベンチにいる選手も戦う気になれない」、「[[田宮謙次郎|T監督]]は冷静さを欠いて4回に起用した代打を8回に再び起用しようとした」、「[[大下弘|O監督]]は延長戦で右と左のバッターを呼んでじゃんけんさせた。じゃんけんで勝った方を代打で使うと決めていたようだ。たまたま左バッターが勝ってサヨナラヒットを打ったから良いようなものの。何をいわんやである」と名前は伏せているが、3人の監督を例に出している<ref>プロフェッショナル真の仕事とは何か:勝者のための鉄則55、P180-P182</ref>。
若い頃は[[ゴルフ]]を「止まったボールを打って穴に入れるだけの誰にでもできるスポーツ」と馬鹿にし、さらに「打者がゴルフをやるとフォームが崩れる」と
==== トラブル・事件 ====
[[退場]]処分を受けたことは1度もないが、東映時代の1964年3月26日の阪急戦の9回表、張本は牽制球で三本間に挟まれ本塁に突入した際、捕手の[[山下健]]に体当たりした<ref name="日本プロ野球事件史">日本プロ野球事件史―1934-2013、2013年、ベースボール・マガジン社、P86</ref>。この行為で[[足立光宏]]が「ひどいじゃないか」と言うと、張本は激高して足立を数回小突いた。[[ダリル・スペンサー]]が「ノープッシュ」と言うと、張本は岩下光一からバットを奪ってスペンサーを殴ろうとした。東映ナインがなだめ、一時はベンチに戻るも、またベンチからバットを持ち出してスペンサーにめがけて走り出し、これも寸前で止められ、大事に
張本は球審の判定に抗議をする際
巨人時代の1976年、警察の取り調べを受けたことがある。4月16日の[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]での広島戦の試合後、宿舎に帰るために停まっていた巨人選手の乗ったバスが、試合中の判定トラブルから広島のファン500人に包囲された際、広島ファンが「張本に殴られた」と騒ぎ立てた件である{{R|林|新潮45_200901}}<ref name="東スポ20080117">東京スポーツ・2008年1月17日付 3面「加藤初・鉄仮面の告白」第7回</ref><ref name="sankei20220815">{{Cite web ja |title=小林繁伝張本、書類送検で不起訴処分…襲われた側がなぜ?虎番疾風録其の四(90) |date=2022-08-15 |author=田所龍一 |url=https://www.sankei.com/article/20220815-VN26EPJ3RNOTDACYWZEKMNKICE/ |accessdate=2023-04-16 |website=産経ニュース |publisher=産業経済新聞社 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220815015530/https://www.sankei.com/article/20220815-VN26EPJ3RNOTDACYWZEKMNKICE/ |archivedate=2022-08-15}}</ref>。この広島での事件は、張本が[[セ・リーグ]]の巨人に移籍して最初の広島遠征だった日で、故郷に錦を飾っただけに母や兄も招待していた{{R|在日はなぜ}}<ref name="週刊朝日197557">「ジャイアンツ"張本暴行事件"にみる現代版"藪の中"」『週刊朝日』1975年5月7日号、朝日新聞出版、p22-23</ref>。張本自身も「僕は頭のテッペンから足の先まで広島県人です。お前は憎い巨人だが、広島県人だからガンバレぐらいの暖かく見てくれるのでは」と期待していた{{R|林}}。ところが故郷に錦を飾るどころか、張本は広島ファンに目の敵にされ、民族蔑視的なヤジを集中的に受けた{{R|林|在日はなぜ|週刊朝日197557}}。張本の母はショックで途中で帰宅し寝込んだ{{R|林}}。6-4と広島リードの9回表に巨人が1点を返し、
また日本ハム時代の1974年5月、試合中に汚い野次を飛ばしたとしてロッテの[[城之内邦雄]]を試合前の練習中に蹴り上げる
プライベートでは[[傷害罪]]で現行犯逮捕されている。1965年7月9日の午後10時、港区榎坂町4の溜池通りで車を運転していた張本が[[タクシー]]とぶつかりそうになり、張本はタクシーを蹴り上げて出てきた運転手に暴行を加えて1週間のけがを負わせた。後続車の飲食業の男性2人が仲裁に入ったが、張本はこの2人も殴って1週間のけがを負わせて検挙された。張本自身は相手の帽子を張っただけで手は出していないと話している<ref>『男気万字固め』p120-121</ref>。この年、張本は[[1965年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]を辞退している。
1983年7月22日、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[芝公園]]の[[東京プリンスホテル]]で「[[日本プロ野球名球会]]」の総会が開かれた<ref name="週刊朝日19830819">「野次馬最前線 張本が堀内を『生意気だ』とぶん殴る!! 野球は格闘技と改めて教えた『名球会』」『週刊朝日』1983年8月19日号、朝日新聞出版、p148</ref>。午後4時の開会直後、恒例の[[記念写真|記念撮影]]が行われたが、[[堀内恒夫]]がいないことに気付き、メンバーが手分けしてホテル内をくまなく捜した。
=== 交友関係 ===
現役時代は他チームの選手とは口をきかないようにしていた。特に投手に対しては、少しでも隙を見せないようにとその思いを強くしていた
==== 王貞治との関係 ====
プロの同期であり同学年、互いに出自を日本以外の国に持ち、巨人時代
実績を残し始め、やや慢心が見えていた1963年のオールスターゲームでの打撃練習で、王が張本とは明らかにレベルの違う打球を連発していた。張本はその打球を見て「何を俺は一流打者面をして甘ったれていたんだ」と改心した
1979年オフ、網膜の病気で視野が狭くなり成績が落ちたため{{Efn2|当時は年齢による衰えと思われていた。後に視野は回復した。}}、ロッテへの放出が内定していた。ところが巨人軍の納会の席で、それまで一回もフロントに意見したことのなかった王が、当時オーナーの[[正力亨]]に「張本君に巨人で3000本安打を達成させてあげてください」と張本の巨人残留を必死に直訴した。この王の発言に正力は「王君どうしたんだ?酔っているのか?」と驚いたが、王は「いえオーナー、私は酔っていません、お願いです」と迫った。張本は思いがけない展開に感動のあまり、泣きながらそれを止めた
[[メジャーリーグベースボール]]や[[ギネス世界記録|ギネスブック]]に対し、王が放った868本の本塁打記録を正式な世界記録として認定するようにテレビ出演時に度々訴えている。
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東映時代、宿舎でメンバーがプロレスごっこで遊んでいる時、目付け役の張本が「お前ら何をしとる! 全員そこに並べ!」と整列させ、鉄拳を見舞ったが、大杉だけは「お前はあっちにいっとれ」と制裁を避けたほど、大杉を可愛がっていた<ref>『大杉勝男のバット人生』</ref>。張本は大杉の死後、「永い付き合いだった。もう兄弟のように。これほど純粋で素朴なホームランバッターは過去にいませんでしたね。それと、新聞記者泣かせなんですよね。だいたい8回裏9回表は勝負が決まるんですよね、だから流れをみて原稿を書いちゃうんですよね。そこへ同点2ラン逆転3ランばっかり彼(大杉)はやるもんですから、原稿を洗いざらいしなくちゃならない。だから新聞記者泣かせの勝負強いバッターだったですね。」と振り返っている。
1973年、大杉と当時[[阪神タイガース|阪神]]の[[江夏豊]]とのトレードが水面下で進んで話が付き、あとはオフに発表を待つだけ
==== 大豊泰昭との関係 ====
大豊は1992年秋から打法改造に取り込んだが、それを勧めたのが張本だった。大豊
当初、大豊は張本を信用しなかったが、張本は大豊と共に悩み、行き詰ったら王に電話してアドバイスを求めるなどして信頼関係を作り、打法改造に取り組んだ。
大豊は打法改造に成功し、1994年に
==== その他との関係 ====
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=== 在日韓国人として ===
張本はプロ入り前はもとより、幼少期から在日韓国人を隠さずに名乗っており{{R|林|朝鮮日報20230513}}、母親の影響もあって{{R|W現代800612|朝鮮日報20230513}}<ref name="hari02">[http://shinsho.shueisha.co.jp/column/zainichi2/001/ 在日二世の記憶 001 張本勲] 集英社新書 {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20150809144725/http://shinsho.shueisha.co.jp/column/zainichi2/001/ |date=2015-08-09}}</ref>{{Efn2|母は勲に「朝鮮人としての誇りを忘れるな」「帰化することも罷りならん」と口グセのように言い聞かせたという{{R|W現代800612}}。}}、長らく韓国(大韓民国)国籍であったが、日本国籍を取得したことを2024年末の[[産経新聞]]の取材で明らかにした<ref name="帰化" />。現代では、自らを在日韓国人と明かす者が増えてきているが、張本の時代に始めから出自を公表した人間は極めて稀である{{R|在日はなぜ}}。水原茂は「張本は『こら、ちょーせん』と野次られても、堂々と『俺は[[朝鮮民族]]だ!』という。国籍を隠したがる人間が多い中で、彼の態度は立派です」と述べている{{R|W現代800612}}。[[井筒和幸]]監督による[[2007年]]の映画『[[パッチギ! LOVE&PEACE]]』は、「朝鮮人として名乗りたくても名乗れない人々が朝鮮人としてはっきり名乗る物語」がテーマで{{R|林}}、主人公の理想のモデルとして張本をモデルにした
民族教育は受けなかったが、家庭内では幼い頃から[[朝鮮語|韓国語]]で育ち、韓国語にも堪能である。1991年に日本で行われた[[日韓プロ野球スーパーゲーム|第1回日韓野球スーパーゲーム]]の中継では、韓国テレビ局側の野球解説者として出演した。
同胞のプロレスラー・[[力道山]]は張本を可愛がり{{R|男気92}}、力道山が東京にいる時はいつもついて回った<ref name="我が道13">スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(13)、2008年11月23日</ref>。18歳の時に後援会長の紹介により銀座の焼肉屋で出会った<ref name="rikiabaren">[https://hochi.news/articles/20240826-OHT1T51246.html?page=1 張本勲さん、「弟のようにかわいがってくれた」レジェンド明かすも「怖かったですよ。あんな短気な人はいないよ」] 2024年8月27日 6時0分スポーツ報知 (2024年8月28日閲覧)</ref>。初めて力道山の邸宅に招かれ、六十畳ほどある居間で飲んでいると、力道山はお手伝いを帰してドアに鍵をかけた。ラジオのつまみを回すと韓国の放送が流れてきて、力道山は軽音楽に合わせて機嫌よく踊り始めた。出自を伏せていた力道山から韓国人{{Efn2|ただし、力道山が生まれ育ったのはのちの[[朝鮮民主主義人民共和国]]である。}}だと告げられると、張本は「噂は本当だったんだ」と嬉しくなり、高揚した気分で「韓国人なら韓国人と言えば良いじゃないですか」{{Efn2|実際には、力道山は[[太平洋戦争]]が激化する前に日本に移住して大相撲に入門しており、結果的に日本統治時代の朝鮮での日本の役人や日本軍による過酷な扱いの全盛時代を予め逃れる形となっている。}}と口に出した{{R|我が道13}}。すると力道山は「お前は植民地時代の苦労をろくに知らないから、そんなことが言えるんだ! 生意気なこと言うな!」と激怒して張本の肩を突き飛ばした{{R|hari02|我が道13}}。その後、2人の間で民族の話が出ることは2度となかった
張本は力道山が好んで使った「闘魂」
[[在日本大韓民国民団]]顧問の[[松山眞一]]は[[極真空手]]創始者の[[大山倍達]]、そして力道山と並び張本を物心両面で助けてきたことを韓国の月刊誌「[[月刊朝鮮]]」のインタビューにて語っている<ref>{{Cite web ja |title=일본 최대 노점상 야쿠자 極東會 지휘하는 在日교포 曺圭化 회장 |url=http://monthly.chosun.com/client/news/viw.asp?ctcd=E&nNewsNumb=201110100022 |website=monthly.chosun.com |date=2011-09-18 |accessdate=2022-01-11 |language=ko}}</ref>。
=== 韓国野球の発展に貢献 ===
韓国政府より長年、張本に対して日本のプロ野球選手を連れて韓国に遠征し、韓国の野球ファンにプレーを見せてもらいたいと打診を受けていた<ref name="張本監督">[[朝日新聞]]縮刷版p825 昭和50年10月25日朝刊17面「'''スポーツ短信 ☆訪韓のロッテ勝つ'''」</ref><ref name="サンスポ19751008">{{Cite news |author = |title = 韓国系選抜軍、ふるさと遠征 張本監督さっそく人選 23日に出発ノンプロ選抜と2試合 |date = 1975年10月8日 |newspaper = [[サンケイスポーツ]] |publisher = [[産業経済新聞社]] |page = 3 }}</ref>。張本もこれを実現したいと夢を抱いた<ref name="サンスポ19751008"/>。[[野球#韓国|韓国野球]]は1975年にようやく[[アマチュア|ノンプロチーム]]、[[ロッテ・ジャイアンツ]]が創設されたばかりだったが<ref name="サンスポ19751008"/>、1975年の夏に韓国政府高官より、張本と[[重光武雄]]ロッテオーナーに「日本球界で活躍する韓国系選手の選抜チームを率いて是非、韓国へ遠征して欲しい。プロ野球の真髄を見せてもらいたい」と張本を喜ばせる具体的な意向打診があった<ref name="サンスポ19751008"/>。これを受け、張本は1975年10月7日、銀座朝日ビルの[[パシフィック・リーグ|パ]]・[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]を訪れ、[[岡野祐]]パリーグ会長、[[鈴木龍二]]セ・リーグ会長と個別に会い、遠征実現へ全面的な協力を取り付けた<ref name="サンスポ19751008"/>。当初はロッテー[[埼玉西武ライオンズ|太平洋]]、ロッテー日ハムの帯同遠征を計画していたが、選抜軍に方向転換した<ref name="サンスポ19751008"/>。一行の世話役として各方面に積極的に働きかけ、15–16人の選抜メンバーの人選に取り掛かった<ref name="サンスポ19751008"/>。遠征期間は[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]開催時期と重なったが、これ以降は韓国は寒くて野球が出来ないため<ref name="サンスポ19751008"/>、日本シリーズ出場の可能性のある広島・中日・[[オリックス・バファローズ|阪急]]・[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]以外の8球団から選出した<ref name="サンスポ19751008"/>。張本は監督([[選手兼任監督|プレーイング‐マネージャー]]、重光団長)を務め<ref name="張本監督"/><ref name="サンスポ19751008"/>、10月23日に同行するロッテと共に韓国へ出発した<ref name="張本監督"/><ref>『日本プロ野球70年史』[[ベースボール・マガジン社]]、2004年12月22日、ISBN 4583038089、p391。</ref>。
韓国プロ野球コミッショナー特別補佐官として{{R|ugbc|simoda}}、1982年に設立が予定された[[韓国野球委員会|KBO]]発足に先立ち、当時の[[コミッショナー (日本プロ野球)|日本プロ野球コミッショナー]]・[[下田武三]]に「日本球団の韓国籍選手を新発足の韓国プロ野球にまわして欲しい」と協力を要請した。これに対する日本側の好意的反応を確かめたのち、KBOは、日米両国との間に選手協定の締結交渉を行い、まず野球の先進国たるアメリカとの間で最初の選手協定を結び、次に日本との間で日韓協定を1983年に締結させた{{R|simoda}}。また韓国野球界との太いパイプを生かして、日本のプロ野球でプレーした在日選手を数多く母国に紹介した{{R|在日はなぜ}}。「先輩!自分のおじいちゃん、おばあちゃんの国でやってみたいんです」と言われ「そうか、やってくれるか」と送り出し、在日の選手は韓国で大歓迎されると思っていたら、母国で「パンチョッパリ(半分だけ日本人/チョッパリは日本人を侮蔑する言葉)」などと疎んじられ「我々の国籍は日本海ですか」と訴えられた{{R|在日はなぜ}}。
このように韓国の野球界にも長く、かつ多くの支援を行った{{R|yomiuri20150809}}。[[長嶋茂雄]]は「僕は張が韓国プロ野球実現のために努力していることに対して、陰ながら拍手を送っていたんですよ」と韓国政府の要請を受けて<ref name="文春1982211">「張本勲がゆく番外篇 聞きにくいことばかり聞いてみた 長嶋茂雄の『わが胸中』 人生はトータル。一年二年がなんだ!」『[[週刊文春]]』1982年2月11日号、[[文藝春秋]]、p136-139</ref>、張本の仲介で1982年1月、韓国[[ソウル特別市|ソウル]]で野球セミナーを行った{{R|文春1982211}}。韓国球界の至宝・重鎮と言われ、[[中日ドラゴンズ]]で活躍した[[宣銅烈]]も、張本の前では直立不動だった
その一方、韓国球界に渡った在日韓国人が、通過儀礼である兵役の義務を果たしていないことなどを理由に、差別を受けてしまう負の問題にも切り込み、(韓国プロ野球の)シーズンオフの関係者会議に「同じ韓国人で韓国の言葉が分からないと誰が言ったのか。日本で生まれ教育されて、習う機会がどこにある?それをパンチョッパリ、半日本人だといった人の顔が見たい。『お前たち、よく帰ってきたな。随分苦労したな』と応援してくれるのが普通なのに『日本でのうのうと暮らしやがって、我々は苦しい思いをしたんだ』なんぞと冗談じゃない。あんた方は小さな国ひとつ守れなかったじゃないか、しかもまっぷたつに切られて」と怒鳴り込んだことがある<ref>[[船戸与一]]対談集「諸士乱想」p16</ref>。
2018年の[[日本大学フェニックス反則タックル問題|日大アメフト部の悪質タックル問題]]に
2023年5月、張本は出身地の広島で行われる第49回[[主要国首脳会議|先進国首脳会議]]([[第49回先進国首脳会議|G7広島サミット]])に先駆けて行われた[[朝鮮日報]]とのインタビュー
=== サンデーモーニング ===
TBS系列のテレビ番組『サンデーモーニング』のスポーツコーナー「週刊御意見番」で
張本のコメントの中でも最も批判される類のものは「走り込み」などの[[根性論]]を過度に信仰するコメントである。2018年6月に大谷翔平が右肘を故障した際にも「走らないから」と苦言を呈し「(右肘の故障と走り込みは)関係ない」と批判が噴出した<ref>[https://sirabee.com/2019/04/11/20162061151/ 張本勲氏が強攻に主張する「走り込み至上主義」 野球選手に必要だと思うか聞いてみると…] しらべぇ 2019/04/11 10:00(2019年12月30日閲覧)</ref>。因みに張本自身は走り込みを非常に嫌っていたが、現役時代は生活が懸かっていたため必死に走った
[[ダルビッシュ有]]は、しばし張本の意見に反発する声を挙げており、張本が2019年甲子園決勝で投手の肩肘の消耗を考慮しない発言をした時、「[[神龍 (ドラゴンボール)|シェンロン]]が一つ願いごとを叶えてあげるって言ってきたら迷いなくこのコーナー(同番組のスポーツコーナー)を消してくださいと言う」と[[Twitter]]で発言したこともある<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/201907280000676.html ダルビッシュ、佐々木登板回避で張本氏意見に“喝”] 日刊スポーツ 2021年8月16日閲覧</ref>。これに張本が文春のインタビューで「ベラベラ喋りすぎ」と反応し、ダルビッシュは「日本球界の成長を止めてきた原因」と返す応酬が繰り広げられた<ref>{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/mlb/2019/08/03/0012574757.shtml |title=ダル 張本氏とネット場外舌戦「日本球界の成長止めた原因」インタビュー記事に反論 |website=デイリースポーツ |date=2019-08-03 |accessdate=2024-05-11}}</ref>。
[[野村克也]]は「朝の番組でいろいろ言ってるけど、彼に選手を批判する資格はないですよ。張本はバッティングだけしか興味がない。守備はいないも同然。"おまえ、人のこと言えるのか?"とテレビに向かって文句言ってるよ<ref>[http://www.excite.co.jp/News/sports_g/20150803/Taishu_16713.html?_p=4 御意見番の舌戦!野村克也VS張本勲 プロ野球「猛毒トーク」バチバチ対決]</ref>」「(張本が)ピッチャーゴロをカーンと打つだろ。あいつは一歩も走らない。ベンチ帰っちゃう。日曜日に喝とかやってるじゃない。お前にそんなことを言う権利はあるか<ref>{{Cite web ja |title=ノムさん、巨人・阿部の走塁に「張本になっちゃったな」 |url=https://baseballking.jp/ns/112772/ |publisher=BASEBALL KING |date=2017-04-17 |accessdate=2017-04-17}}</ref>」と痛烈に批判しているが、1982年4月7日
; 江川紹子との対立
2010年5月23日放送分で、途中降板した[[岩隈久志]]へ「エースとしてマウンドを守るべきである!」と「喝!」を入れた。この際、出演者である[[江川紹子]]は「えーっ」と驚き「途中降板もありなのではないでしょうか」と意見を述べた。放映中
; 三浦知良への引退勧告
2015年4月12日放送分では、[[J2リーグ]]・[[横浜FC]]の[[三浦知良]]に「カズファンには悪いけども、もうお辞めなさい。[[J2リーグ|J2]]はプロ野球でいうと[[二軍]]だから話題性がない」と引退を促す発言をし<ref name="sanspo20150412">[https://www.sanspo.com/article/20150412-NIAJPLN5Z5M2VBWD5MXCL3P3EU/ 張本氏がカズに「もうお辞めなさい」発言 ネットで炎上] - [[サンケイスポーツ]] 2015年4月12日付</ref>、その直後、司会の[[関口宏]]から「今カズファンから(TBSテレビに)わぁと電話きてますよ」と苦笑されるも、張本は「(電話が)鳴ってもいいんですよ」と自身の発言を撤回することはなかった<ref>[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1460455.html 張本氏がカズに“引退勧告” ネットで批判が続出] - 『[[日刊スポーツ]]』2015年4月12日付</ref>。これに対し、J2を「野球で言えば二軍」と表現した点などについて、ネット上では張本に対する批判の声が相次いだ{{R|sanspo20150412}}。
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のちに保守論壇雑誌である「[[WiLL (雑誌)|WiLL]]」2017年12月号<ref>[http://web-wac.co.jp/magazine/will/?y=2017 ワック・マガジンズ]</ref> および「[[Hanada]]」2017年12月号<ref>[https://twitter.com/hanada_asuka/status/923376379604844545 2017年10月25日のツイート]</ref> のインタビューを受け、再び安倍首相を称えている。
; 水谷隼のガッツポーズをめぐる騒動
2016年8月14日放送分で、[[2016年リオデジャネイロオリンピック|リオ五輪]]の[[卓球]]男子シングルスで3位決定戦に勝利した[[水谷隼]]が、試合直後に[[ガッツポーズ]]し床に仰向けになり大の字のポーズで[[銅メダル]]獲得の喜びを表現する映像が流れた後、張本が厳しい表情で「スポーツ選手の先輩として、卓球の水谷にね」と切り出して「あんなガッツポーズはダメだよ。いけない」と「喝!」を入れた。「手はね、肩から上に上げちゃダメなのよ。『やっつけた!』っていう態度、とっちゃダメ」「この国(日本)は礼に始まって礼に終わる。やっぱりガッツポーズは肩の下まで」とコメントした。
; 中央大学の箱根駅伝予選敗退
2016年10月16日放送分で、前日の10月15日開催の[[第93回東京箱根間往復大学駅伝競走|第93回箱根駅伝]]・予選会で[[中央大学]]が11位に終わり、箱根駅伝本戦連続出場が87回で途切れた中央大に対して、張本は「あの歴史ある中大は一体どうしました?歴史ある名門校がね、話になりませんよね」等と『喝』を与えた<ref>[https://web.archive.org/web/20161018204130/http://www.hochi.co.jp/entertainment/20161016-OHT1T50014.html 張本氏、箱根連続出場途切れた中大に“喝”「話になりません」] スポーツ報知 10月16日</ref>。その上で張本は「情報によると内紛もあるそうだから、よく考えて立て直した方が良い」と中大に苦言を呈していた。
この張本の忠告に対し、中大法科大学院教授で当大学陸上部・部長担当の[[野村修也]]は「事実無根」とTBSテレビに対し、訂正と謝罪を要求したことを自身のTwitterで表明。また野村は「それ(内紛)が敗因のように伝えましたが、全く根拠の無い話です。精一杯頑張った選手と大学の名誉を著しく傷つけるもので到底看過できません」等とツイート。「我々中大陸上部は、直前の部員会で短距離選手も交え円陣を組み健闘を誓い合いました。当日朝も選手や監督とコーチ、前監督も一緒に円陣を組んで出陣しました。一体どこに内紛があったのでしょう?」と一丸となって予選会に臨んだ様子も紹介。さらに野村は「(張本氏の)発言直後サンデーモーニングに電話し訂正を求めましたが、叶いませんでした」と生放送中に抗議したが、撤回しなかった
; 浦和レッズの選手の態度を批判
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; 女子ボクシングに対する揶揄発言
2021年8月8日放送分で、8月3日の[[2020年東京オリンピックのボクシング競技|東京オリンピックのボクシング競技]]・女子フェザー級決勝戦にて[[入江聖奈]]が日本の女子ボクシング界初の金メダルを獲得したことに対し「女性でも殴り合い好きな人がいるんだね」と訝しげな顔で発言し、「見ててどうするのかな。嫁入り前のお嬢ちゃんが顔を殴り合ってね。こんな競技好きな人がいるんだ」と続けた{{R|daily20210808}}<ref>{{Cite web ja |title=張本勲氏、女子ボクシング初の金メダルを獲得した入江聖奈に「女性でも殴り合いが好きな人がいるんだね」 |website=スポーツ報知 |date=2021-08-08 |url=https://hochi.news/articles/20210808-OHT1T51058.html?page=1 |accessdate=2021-08-11}}</ref>。
この発言を揶揄と受け取った[[日本ボクシング連盟]]会長の[[内田貞信]]は、10日、TBSテレビ社長の[[佐々木卓]]宛に抗議文を送付。内田は「もう少し理解をもって女性ボクサーを見ていただきたい」「入江聖奈選手と[[並木月海]]選手(女子フライ級銅メダリスト)ともに、競技の強さのみならず、謙虚な立ち居振る舞いや、他人への配慮ができる素晴らしい人」「サンデーモーニング内で、ボクシング競技のみならず、すべてのスポーツの楽しさや価値を伝え続けていただけることを楽しみにしております」と苦言を呈した<ref>{{Cite web ja |title=日本ボクシング連盟が張本氏の「サンデーモーニング」に抗議文 発言巡り |website=日刊スポーツ |date=2021-08-11 |url=https://www.nikkansports.com/sports/news/202108110000248.html |accessdate=2021-08-11}}</ref><ref>{{Cite web ja |title=張本勲、女子ボクシングを「こんな競技」呼ばわり 元プロら怒り「お粗末で耐えられない発言」 |website=J-CAST ニュース |date=2021-08-11 |url=https://www.j-cast.com/2021/08/11418064.html?p=all |accessdate=2021-08-11}}</ref><ref>{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2021/08/11/0014583673.shtml |title=ボクシング連盟の抗議文にTBS「真摯に対応させていただきたい」 |publisher=デイリースポーツ |date=2021-08-11 |accessdate=2021-08-11}}</ref><ref>{{Cite web ja |title=張本勲氏の発言は「女性とボクシング競技を蔑視」。日本ボクシング連盟が抗議(全文) |website=ハフポスト |date=2021-08-11 |url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/jabf_jp_61136e15e4b005ed4905c77e |accessdate=2021-08-14}}</ref>。
これを受けて番組制作プロデューサーの[[金富隆]]は、12日、張本の反省コメントを添えた謝罪文を連盟に送付した。この謝罪文に連名でも佐々木の名前はなく、佐々木が管理責任を逃れて、番組制作サイドに責任を押し付けたような形になっている。さらに、番組内でのコメントについて「言葉足らず」と張本が釈明した点など説明がつきにくい箇所があることなどについてネット上では非難の声が挙がった。
2021年8月15日放送分では、スポーツコーナー開始前に、司会の関口宏が「番組からお詫びがある」旨を告げ<ref>{{Cite web ja |title=「サンモニ」張本勲氏発言の謝罪文を唐橋ユミアナ読み上げ、SNS上で同情と疑問 |url=https://hochi.news/articles/20210815-OHT1T51042.html?page=1 |website=スポーツ報知 |date=2021-08-15 |accessdate=2021-08-15}}</ref>、サブキャスターを務める[[フリーアナウンサー]]の[[唐橋ユミ]]が「先週のスポーツコーナーで張本勲さんのコメントの中に女性、およびボクシング競技を蔑視したと受け取られかねない部分があり、日本ボクシング連盟より抗議文が寄せられました。不快に思われた関係者の皆さま、そして視聴者の皆さま、大変申し訳ございませんでした」と謝罪のコメントを読み上げた<ref>{{Cite web ja |title=「唐橋さん」がトレンド入り 「サンデーモーニング」でおわびコメント - 女子アナ |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202108150000298.html |website=日刊スポーツ |date=2021-08-15 |accessdate=2021-08-15}}</ref>。関口が張本に話を向けると<ref>{{Cite web ja |title=張本勲氏 「反省しています」 女子ボクシング発言「サンモニ」で謝罪 |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2021/08/15/0014593069.shtml |website=デイリースポーツ |date=2021-08-15 |accessdate=2021-08-15}}</ref> 張本は「今回は言い方を間違えて反省しています。以後気をつけます」と述べた<ref>{{Cite web ja |title=張本勲氏「今回は言い方を間違えて反省」女子ボクシング侮辱発言で謝罪 - 芸能 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202108140001218.html |website=日刊スポーツ |date=2021-08-14 |accessdate=2021-08-15}}</ref> ものの、具体的な反省点に
当日番組に出演したフォトジャーナリストの[[安田菜津紀]]は、放送終了後にツイッターを更新し、張本本人でなく唐橋がコメントを読み上げたことなどについて「番組内で発言の機会がありませんでしたが、張本さんの発言を『蔑視と“受け取られかねない”』ものと表現されたこと、それを女性のキャスターの方が伝える形をとったことは、再発防止にはつながりえないものだと私は考えます」と批判的に論じた<ref>{{Cite web ja |title=2021年8月15日10:09の投稿 |url=https://twitter.com/natsukiyasuda/status/1426712586859413505 |website=Twitter |date= |accessdate=2021-08-15}}</ref><ref>{{Cite web ja |title=「再発防止につながらない」サンモニ出演の安田菜津紀さんが“謝罪”に異論 - 芸能 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202108150000581.html |website=日刊スポーツ |date=2021-08-15 |accessdate=2021-08-15}}</ref>。
かつて番組に出演し、張本との対立が取り沙汰された<ref>{{Cite web ja |title=張本氏の「喝」で…江川紹子さん“降板” - 芸能ニュース |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20100619-643045.html |website=日刊スポーツ |date=2010-06-19 |accessdate=2021-08-15}}</ref> 江川紹子もツイッターを更新し「軽いな〜。番組としては、あの張本氏になんとか「反省」という言葉を言ってもらいましたー、だからもう忘れてちょ、ということでしょう」と番組の姿勢を論難した<ref>{{Cite web ja |title=2021年8月15日9:27の投稿 |url=https://twitter.com/amneris84/status/1426702104555515908 |website=Twitter |date= |accessdate=2021-08-15}}</ref><ref>{{Cite web ja |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/79950 |title=張本勲氏 ナマ謝罪も批判拡大 それでも「サンモニ」が反省シーン5秒に縮めたワケ |publisher=東京スポーツ |date=2021-08-16 |accessdate=2021-10-01}}</ref>。
同日[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列で放送された『[[ワイドナショー]]』は、12日の文書による張本のコメントについて取り上げた。[[コメンテーター]]の[[松本人志]]は「これが許されるなら何を言ってもいいですよね。ボロクソ、何を言おうが、それで怒られたら、あれは本当は真逆の意味で言っています。言葉足らずですみません、で、全部行けちゃう。万能の言葉です」としている<ref>{{Cite web ja |title=松本人志 張本氏の女子ボクシング謝罪文に「これが許されるなら何言ってもいい」 |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2021/08/15/0014593245.shtml |website=デイリースポーツ online |date=2021-08-15 |accessdate=2021-08-15}}</ref><ref>{{Cite web ja |title=松本人志、張本勲氏の謝罪コメントに疑問「これが許されるなら何を言ってもいい」 |url=https://hochi.news/articles/20210815-OHT1T51054.html?page=1 |website=スポーツ報知 |date=2021-08-15 |accessdate=2021-08-15}}</ref>。
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=== MLBに対しての考え ===
[[メジャーリーグベースボール]](MLB)に対しては、先の『サンデーモーニング』の2019年12月29日放送分ではゲストで巨人の後輩である[[上原浩治]]から「相変わらずメジャーリーグに対しては“喝”が多いなと」と指摘され、さらに「同じ野球なんでね、もうちょっとおおらかに見てほしいな」と注文を付けられた。本人は「お願いしてもダメ。アメリカに行ってほしくないから。日本のプロ野球が大事だから」と上原の訴えを拒否する<ref>[https://sirabee.com/2019/12/29/20162227265/ 上原浩治氏、MLB嫌いの張本勲氏に「おおらかに見て」 回答は「ダメ」] しらべぇ 2019/12/29 11:30 (2020年1月4日閲覧)</ref> といったMLB嫌いと見られがちな発言をしていたが、
=== 俳優 ===
プロ野球選手時代から、俳優として何度か[[映画]]に出演した。東映フライヤーズ在籍中の[[1966年]]に親会社{{Efn2|厳密には、所有権を持つ東急ベースボール倶楽部株式会社([[東京急行電鉄]]の[[子会社]])から運営権を受託された東映興業株式会社。}}の[[東映]]製作で公開された『地獄の野良犬』では、監督の[[水原茂]]やエースピッチャーの[[尾崎行雄 (野球)|尾崎行雄]]とともに本人役で[[クレジットタイトル#特別出演|特別出演]]している。また東映つながりで、同郷の[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]東映社長(当時)から[[1973年]]の『[[仁義なき戦い]]』が[[撮影#映像撮影|クランクイン]]する前に「お前が(映画の舞台となる)広島の言葉を[[菅原文太]]に教えてやってくれ」と頼まれた<ref name="sportiva20220331">{{Cite web ja |title=張本勲が終生の友、江藤慎一を語る。「慎ちゃんも俺も白いメシを腹いっぱい食べたいと思ってプロを目指した」 |date=2022-03-31 |author=木村元彦 |authorlink=木村元彦 |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2022/03/31/post_86/index_7.php |accessdate=2023-04-16 |website=[[Sportiva|Web Sportiva]] |publisher=集英社 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220331034219/https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2022/03/31/post_86/index_7.php |archivedate=2022-03-31}}</ref>。広島出身の岡田は『仁義なき戦い』における[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]の[[脚本]]の肝は、[[広島弁]]の[[セリフ]]にあると看破しており、[[宮城県]][[仙台市]]出身の菅原に身につけさせる必要性を考えていた{{R|sportiva20220331}}。それを切っ掛けとして張本は菅原と一緒に広島や[[呉市|呉]]を訪問して、何度も広島弁を指導し親しい間柄になった
現役引退した1981年に東映時代から「兄貴」と慕った[[萬屋錦之介]]に口説かれて{{R|文春1981123}}<ref name="サンデー毎日1981126">「必殺の白刃はバットに通ず 張本の扇流剣法」『サンデー毎日』1981年12月6日号、毎日新聞出版、p193-195</ref>、萬屋主演の「[[新春ワイド時代劇]]」『[[竜馬がゆく#1982年版|竜馬がゆく]]』([[テレビ東京|東京12チャンネル]]、1982年1月2日放送)に[[新選組]]局長・[[近藤勇]]役で友情出演した{{R|文春1981123|サンデー毎日1981126}}ほか、その後も東映製作の[[ヤクザ映画]]に複数出演している{{R|sponichi20141202}}。名球会の協力により制作された野球映画『[[ドリーム・スタジアム]]』にも同会員のひとり(本人役)として出演した。
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=== 背番号 ===
* '''10'''(1959年 - 1981年)
** 本人によると、東映入団時に3つほど提示された番号のうち、同郷の先輩の[[藤村富美男]]と同じ番号だから
== 関連情報 ==
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