削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
 
(25人の利用者による、間の41版が非表示)
4行目:
|画像サイズ= 200px
|本名=
|愛称=フク、ミスター・レッズ、大将、フク
|カタカナ表記=フクダ マサヒロ
|アルファベット表記=FUKUDA Masahiro
14行目:
|身長=176cm<ref name="J2002">『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2002』p40</ref>
|体重=68kg<ref name="J2002"/>
|血液型=AB型
|所属チーム名=
|ポジション=[[フォワード (サッカー)|FW]] / [[ミッドフィールダー|MF]]
|背番号=
|利き足=右足
|ユース年1=1982-1984|ユースクラブ1=[[湘南工科大学附属高等学校|相模工業大学附属高等学校]]
|年1=1989-1992 |クラブ1=[[三菱重工業サッカー部|三菱重工/三菱自動車]]|出場1=59|得点1=50
|ユース年2=19921985-2002 1988|ユースクラブ2=[[浦和レ中央大学学友会サドダイヤモンズカー部|中央大学]]|出場2=228|得点2=93
|年1=1989-2002|クラブ1=[[三菱重工業サッカー部|三菱]] / [[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]]|出場1=287|得点1=143
<!--国内リーグ戦に限る-->
|クラブ成績更新日=2002年12月31日
|代表1={{JPNf}}|代表年1=1990-1995|代表出場1=45|代表得点1=9
|代表年1=1990-1995
|代表出場1=45 |代表得点1=9
|代表成績更新日=1995年10月28日
|監督年1=|監督チーム1=
|監督チーム=
}}
'''福田 正博'''(ふくだ まさひろ、[[1966年]][[12月27日]] - )は、[[日本神奈川県]][[横浜市]][[緑区 (横浜市)|緑区]]出身の元[[サッカー|プロサッカー選手]]である、サッカー解説者。現役時代の[[サッカーのポジション|ポジション]]主に[[フォワード (サッカー)|FWフォワード]]背番号は9番。[[日本プロサドフィルダグ|Jリーグ]]開幕直前の。元[[1989年]]から引退する[[2002年]]まで[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]](三菱自動車サッカー部)の象徴的存在として活躍し、[[サポーター (サッカー)日本代表|サポーター日本代表]]には「'''ミスター・レッズ'''」、「'''大将'''」と呼ばれた
 
[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]開幕前の[[1989年]]から引退する[[2002年]]まで[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]](三菱自動車サッカー部)の象徴的存在として活躍し、[[サポーター (サッカー)|サポーター]]には「'''ミスター・レッズ'''」「'''大将'''」と呼ばれた。
== 来歴 ==
 
== 経歴 ==
=== 学生時代 ===
[[神奈川県]][[横浜市]][[緑区 (横浜市)|緑区]]で生まれる。子供の頃は野球少年だったが小学5年の時に横浜市から[[藤沢市]]に転居し、転校先の小学校でサッカーと出会う。小学校の担任の義兄が[[読売サッカークラブ]]のコーチを務めていた橋本章也という人物で、福田は橋本からサッカー技術を学んでいった<ref>『ミスターレッズ福田正博』14-17頁</ref>。
42 ⟶ 40行目:
高校生活で最も脚光を浴びたのが、3年次の[[国民体育大会サッカー競技|国民体育大会]]であった。神奈川県選抜のセンターフォワードとして6得点を挙げる活躍で決勝進出に導き、決勝では[[静岡県]]選抜を下し初優勝に貢献した。
 
[[1985年]]に[[中央大学]]経済学部へ進学しサッカー部へ入部。1年次からレギュラーとなり秋の[[関東大学サッカーリーグ戦]]ではリーグ戦4位に新人王を獲得する活躍を見せた。この活躍により、それまで各年代の代表チームへ招集される機会のなかった福田は翌[[1986年]]に日本B代表に選ばれ、南米遠征に参加した。しかしながら[[1987年]]には[[ユニバーシアード]]代表候補に選ばれるも最終選考で落選、[[1988年]]には日本B代表としてアジアカップの代表メンバーに選出されたが、試合での出場機会は与えられなかった。
 
また、所属する中央大学では3年次のリーグ戦でアシスト王を受賞、4年次には主将を務めたものの、当時のサッカー部や選手を取り巻く環境は劣悪で、サッカーだけに専念できる状況で無く不本意なものだったという。福田は当時を振り返って「1人の人間としては有意義だったが、サッカー選手としてはマイナスの時期だった」と語っている<ref>『ミスターレッズ福田正博』36-40頁</ref>。
 
卒業後の進路については[[日本サッカーリーグ]]に所属する6チームから勧誘を受け、[[古河電気工業サッカー部]]と[[三菱重工業サッカー部]]に絞った。1980年代後半の日本サッカー界では[[プロフェッショナル (サッカー)|プロ契約]]を結べるようになっており、大学サッカー界の有力選手はプロ志向の強いチームへ入団する傾向にあったが<ref name="『ミスターレッズ福田正博』40-41頁">『ミスターレッズ福田正博』40-41頁</ref>、福田は大学時代の成績から「サッカーで生活する」ことは考えられず終身雇用を希望し、アマチュア志向の強い三菱重工へ入社することになった<ref name="『ミスターレッズ福田正博』40-41頁"/>。また、三菱は前年まで連続で3位になっており、1部残留を確実と考えた事と、ドイツへの1ヶ月の留学をさせてくれる条件があった事が決め手となった
 
=== 現役時代 ===
[[1989年]]、日本サッカーリーグ2部の[[三菱重工業サッカー部]](後に三菱自動車工業へ移管)に加入。ところが1部残留を前提に三菱重工を選択したにも関わらず三菱はこのシーズンから2部へ降格しており、当初予定されていたブンデスリーガのクラブへの留学も取りやめとなっていた。エースの[[原博実]]が[[肝炎]]により戦線を離脱すると[[斉藤和夫]]監督により開幕からレギュラーに抜擢。ルーキーながら36得点という圧倒的な力を見せ得点王に輝き、三菱重工を1年で1部に復帰させる原動力となった。
 
[[1990年]]、[[サッカー日本代表|日本代表]]に初選出。同年7月27日の[[ダイナスティカップ]]の[[サッカー大韓民国代表|韓国]]戦で代表デビューを飾るとレギュラーへ定着し(後述)、同年9月の[[アジア競技大会]]にも出場した。しかし、代表では右ウイングバックという本来とは違うポジションを与えられ得点よりも守備に忙殺されていた。このため福田自身はウイングバックへの起用に不満を抱き代表辞退も考えていた<ref>『ミスターレッズ福田正博』48-52頁</ref>。
63 ⟶ 61行目:
[[1994年]]、浦和では前年同様に成績が低迷。福田はサントリーシリーズ(1stステージ)の[[湘南ベルマーレ|ベルマーレ平塚]]戦で1試合4得点の活躍があったものの、[[スポーツヘルニア]]に苦しみ長期離脱。[[ミヒャエル・ルンメニゲ]]の紹介で[[菊原志郎]]と共にドイツに渡って治療を受けた<ref>『ミスターレッズ福田正博』90-96頁</ref>。代表ではオフトに代わって[[ブラジル]]の[[パウロ・ロベルト・ファルカン]]が監督に就任したが怪我の影響もあって招集されることはなかった。シーズンオフには福田の去就が報じられ、自身も移籍を直訴したが最終的に残留を決断した<ref>『ミスターレッズ福田正博』98-102頁</ref>。
 
[[1995年]]、[[ホルガー・オジェック]]が監督に就任すると福田はそれまでの鬱憤を晴らすかのように実力を発揮。MFの[[ウーベ・バイン]]とのコンビネーションで得点を重ねるなど、日本人選手初のJリーグ得点王となり<ref>{{cite web|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/857200|title=「ちょっと病みつきになる」福田正博が惚れた最高のパサーはラモスでも小野でもなく…森保に慰められたJ2降格、引退を決めたオフトの言葉|website=NUMBER|date=2024-4-24|accessdate=2024-3-26}}</ref>、チームもサントリーシリーズでは優勝争いに絡むなど3位と成績を向上させる原動力となった。シーズン終了後には[[Jリーグベストイレブン]]にも選ばれた。日本代表へも復帰を果たし、2月の[[ダイナスティカップ1995|ダイナスティカップ]]や6月に[[イングランド]]で開催された[[アンブロ・カップ]]に出場。8月に行われた[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]との親善試合では前年のワールドカップ優勝国を相手に得点を記録している。また、同年12月8日には[[アジアサッカー連盟]]の月間最優秀選手に選出されている。
 
[[1996年]]、この時期から福田のサッカー人生は怪我との戦いとなった。1996年シーズン開幕直前に負傷すると8月には練習中に左足首を骨折しリーグ戦4試合の出場に終わった。[[1997年]]は左足首手術の際に埋め込まれたプレートの影響による痛みに終始苦しめられたものの、29試合で21得点を記録した。1996年にはオジェック監督バイン、1997年10月には[[ギド・ブッフバルト]]といった功労者がチームを去っていったが、エースとしてチームを牽引した。[[1998年]]には痛みの原因となっていた左足首のプレートを除去したが、左足付け根の肉離れが再発しリハビリと復帰を繰り返した。
 
[[1999年]]、シーズン途中に原博実監督が成績不振により解任されると後任の[[ア・デモス]]監督との確執もあって、メンバーが外や、控えに回ることが多くなった。チーム内の最多得点者であったが<ref>{{cite web|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2018/01/16/___split_6/?page=3|title=浦和の命運がかかる大一番で下された、エース・福田正博への非情采配 3|website=SPORTIVA|date=2018-1-18|accessdate=2024-3-27}}</ref>、残留をかけて90分以内での勝利が絶体に必要であった、リーグ最終節の[[サンフレッチェ広島]]戦でもベンチスタートとなるなど<ref>{{cite web|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2018/01/16/___split_6/?page=2|title=浦和の命運がかかる大一番で下された、エース・福田正博への非情采配|website=SPORTIVA|date=2018-1-18|accessdate=2024-3-27}}</ref>(この試合で後半36分から出場し、延長戦に入ってVゴールを決めた<ref>{{cite web|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2018/01/15/___split_5/|title=証言・福田正博。あの「何の意味もないVゴール」に至る屈辱のシーズン|website=SPORTIVA|date=2018-1-18|accessdate=2024-3-27}}</ref>。)、チームも2部へと降格した。[[2000年]]に入っても福田のコンディションは上がらず、[[ポーランド]]から[[アンジェイ・クビツァ]]が加入した事もあって12試合の出場に留まった。[[2001年]]、チームも外国人選手、スタッフも従来のヨーロッパ路線からブラジル路線へと転換を図っていたが福田は出場機会を与えられることは少なく14試合出場に留まった。
 
[[2002年]]、日本代表時代に指導を受けたハンス・オフトが監督に就任。「最後のシーズンのつもりで戦う」決意で挑んだシーズンはオフトの下で様々なポジションで適性を試され、拘り続けたストライカーではなく中盤に下がり右サイドハーフを務めるようになり、2ndステージに入ると守備的MFへとポジションを移した。2ndステージでは開幕から9試合負けなし(8勝1分)を成し遂げ首位に立つなど優勝争いに加わり、同年のナビスコカップでは準優勝に貢献した。
73 ⟶ 71行目:
2002年シーズンを最後に、クラブから戦力外通告を受け、レッズ以外でプレーするのは想像できないとして、日本代表時代の同僚であった[[井原正巳]]と共に現役を引退した。翌[[2003年]][[6月15日]]には[[埼玉スタジアム2002]]で、Jリーグ史上最多となる5万人以上の観衆を集めて引退試合が行われた<ref>[http://www.j-league.or.jp/document/jnews/94/02.html J LEAGUE NEWS VOL.94]</ref>。2020年現在もこの記録は破られていない。福田引退関連グッズだけで、1億円以上の売上を記録したといわれる。
 
=== 引退後 ===
引退後は、サッカーの普及活動に協力する[[日本サッカー協会]]の[[JFAアンバサダー]]に就任した(2003年 - 2008年)。サッカー解説者としても、[[TBSテレビ|TBS]]、[[ニッポン放送]]のスポーツ番組などにたびたび出演している。また、[[2004年]][[4月]]にはじまったニュースショー『[[報道ステーション]]』([[テレビ朝日]])と、TBS『[[スーパーサッカー (TBSのサッカー番組)|スーパーサッカー]]』(準レギュラー)では、サッカーコメンテーターを務めた。
 
[[2008年]]シーズンから浦和へコーチとして復帰<ref>{{citeCite web|和書|url=http://www.urawa-reds.co.jp/tools/page_store/news_3704.html|title=福田正博氏がトップチームコーチに就任|work=|publisher=浦和レッドダイヤモンズ公式サイト|accessdate=2010年12月3日}}</ref>
。2009年から監督に就任した[[フォルカー・フィンケ]]の下でもコーチを務めていたが、契約満了に伴い[[2010年]]シーズン限りで浦和を退団する事になった<ref>{{citeCite web|和書|url=http://www.urawa-reds.co.jp/tools/page_store/news_6435.html|title=フィンケ監督との契約について|work=|publisher=浦和レッドダイヤモンズ公式サイト|accessdate=2010年12月3日}}</ref>。
 
その後は[[ソル・スポーツマネージメント]]と契約し、サッカー解説者として活動。
86 ⟶ 84行目:
前述のようにスピードに乗ったドリブル突破を生かし、左右両サイドのウイング(もしくはサイドハーフ)としてプレーができることから「日本最高のウイングプレーヤー」との評価もあった<ref>『Jリーグ最強読本』54-55頁</ref> が、福田自身はサイドよりも中央で持ち味が生きるという自負があり、起用法を巡って監督や指導者と対立することも辞さなかったという<ref>『ミスターレッズ福田正博』25-26頁</ref>。
 
{{要出典範囲|現役時代、多くの得点を[[ペナルティーキック|PK]]を確実に決めることで稼いだ事から「'''PK職人'''」とも呼ばれた|date=2017年9月}}。リーグ戦通算PK得点「26得点」は[[遠藤保仁]]に次ぐJ1歴代2位である。1995年のJリーグ初の日本人得点王となった年も、総得点32得点のうちの14得点をPKで決めている。ペナルティーエリア内で切返しやドリブルを仕掛ける事も多かったため、自分がファウルされて得たPKも多かった。
 
== エピソード ==
* 日本代表に初めて選出した[[横山謙三|横山兼三]]は俊足のフォワードをウイングバックに起用する方針を採っており、福田はそういった選手の中で比較的成功したうちの一人である。後にオフトの下では攻撃的ミッドフィルダー、それ以降は主にフォワードとしてプレーした。
* Jリーグ発足初年度の[[1993年]][[6月9日]]の[[茨城県立カシマサッカースタジアム|カシマスタジアム]]での鹿島アントラーズ戦でJリーグでの自身初ゴールとなる先制点を決めたが、GK[[土田尚史]]以外の全選手が福田に集まってベンチ前で祝福している間にプレーが再開され、わずか8秒で相手FWの[[黒崎久志|黒崎比差支]]に同点ゴールを許した。このことは浦和の低迷を象徴する出来事として、現在もテレビ番組などで紹介されることがある。これ以降各チームはゴールを祝福する時にディフェンス陣は参加しない、祝福の時間を長くしなが短くなったとわれている。なお、ルールではキックオフは全ての選手が自陣にいる状態で行うことになっているので、敵陣のエリアで祝福していれば、遅延行為で警告を受ける可能性はあるにしろプレーが再開されることは絶対にない。ただし、この時は浦和のベンチが自陣側にあったため、プレー再開がルール上可能になっていた。そのため、そのルールを知っていた[[ジーコ]]がプレー再開を指示し得点に至っている。福田自身はそのルールをその時に初めて認識したと後に語っている<ref>[http://www.ninomiyasports.com/sc/modules/bulletin/article.php?storyid=4907 この人と飲みたい(第2、4木曜日) : 福田正博(サッカー解説者)<後編>「いつか監督として再びピッチへ」]、スポーツコミュニケーションズ、2013年5月23日。</ref>。
* [[1994年]][[6月4日]][[平塚競技場]]で行われたベルマーレ平塚戦にて1試合4得点を奪って自身初のハットトリックを達成。1試合4得点は翌年5月にベルマーレ平塚の[[野口幸司]]が5得点を挙げるまで当時のJリーグ新記録であった。
* [[1995年]][[8月9日]][[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立競技場]]で行われたブラジル代表戦にて(1-5)で決めた得点は、国際Aマッチでは日本人として初めてブラジル代表から相手の日本人初ゴールを奪うである
* 浦和がJ2降格の危機に立った[[1999年]][[1999年J1最終節|シーズンの最終節]]、対[[サンフレッチェ広島]]戦では後半から途中出場し、延長戦で[[ゴールデンゴール|Vゴール]]を決めた。しかし福田は表情ひとつ変えず、[[池田学 (サッカー選手)|池田学]]がVゴールを喜んで抱きついてきたのも振り払い、その様子はテレビ中継でも伝えられた。福田を含む浦和の選手は延長戦に入った時点で浦和のJ1残留の可能性が消滅したことを知り、その状況でプレイを続けていたのである。ただし池田本人によると、ルーキーの池田であった自分にはチームの降格知らされなかった([[池田学 (サッカー選手)]]の項を参照)。そ様子事だが、2016年2月放送の「FOOT×BRAIN」内で当時を振り返った福田「分かっていなかったのは池田だけ。この戦いが何なのか分かっていないような選手がピッチに立っていたと言う事が、この時の(ビ中継でも伝えられッズの)レベルだった」と切り捨てた。今日でもそのVゴールは[[1999年J1最終節#その後|世界で一番悲しいVゴール]]と呼ばれることがある。福田自身もこのゴールを「涙のVゴール」と語り [http://www.pia.co.jp/hot_sports/talkbattle/vol26_1.html]、現役引退時の記者会見でも一番印象に残ったシーンにこのゴールを挙げている<ref>『ミスターレッズ福田正博』243-244頁</ref>。なお、このエピソードについては[[1999年J1最終節]]の項目も参照。
* 現役最終年である[[2002年]]シーズン2ndステージ、対[[名古屋グランパスエイト]]戦での得点が、リーグ戦における現役最後のゴールとなった。試合は2-1で浦和が勝利し、ヒーローインタビューを受けた福田は「負けられないよ」と言う所を「負けないよ」と言い間違い、スタジアムを沸かせた。しかし皮肉にもこの試合で首位に立った浦和は以後のリーグ戦に全敗し優勝争いから脱落。決勝まで進んでいたナビスコ杯でも鹿島アントラーズに敗れ、天皇杯も初戦敗退。福田引退後の[[2003年]]にまで及ぶ、公式戦11連敗(リーグ7戦+ナビスコ杯3戦+天皇杯1戦、引き分け挟まず)、12戦未勝利(その期間約6ヶ月)となった。
*引退した福田の背番号「9」(9)を受け継いだのは[[永井雄一郎]]である。しかし9」の背番号9」に染み付いた「ゴールゲッター」「チームの象徴」というイメージがあまりにも強く、当初はFWの選手たちが背番号「9」を引き継ぐのをためらった、とも言われている。
* 現在でも浦和サポーターの間では根強い人気があり、中には「将来は浦和の監督に」という声もある。公式HPによれば福田自身も将来浦和の監督になることを希望しており、[[2007年]][[6月]]にJクラブの監督になるために必要な[[JFA 公認S級コーチ|S級ライセンス]]を取得した。ただし、福田本人からは監督の就任希望を発言したことはない(チーム現監督に対して失礼に当たる本人が考えているため)<ref>{{citeCite web|和書|url=httphttps://web.archive.org/web/20220707022055/https://wwwarchives.bs-asahi.co.jp/jinsei/prg_031.html|title=♯31 元サッカー日本代表 福田正博×ドイツ フランクフルト編|work=|publisher=BS朝日|accessdate=2017年11月12日}}</ref>
* 現役中は体調管理を厳密に行っており、真夏の炎天下の試合でも「体を冷やさないように」と熱い飲み物を飲んでいた。
* 浦和が[[2004年]]シーズン2ndステージで優勝した時には、[[テレビ埼玉]]の解説者として中継席にいた福田に向かってスタジアムの浦和サポーターから「GET GOAL FUKUDA !!」(現役当時の福田の応援)コールが沸き起こった。
* 少年時代は野球と柔道もやっていた(公式HPで少年時代は[[読売ジャイアンツ|巨人]]ファンだったことを明かしている)。だが、柔道に関しては毎年冬に出てくる[[お汁粉]]が苦手だったため辞めてしまった。そのお汁粉嫌いの理由としては「[[こしあん]]は許せても、[[つぶあん]]は許せない」というものである。また、野球に関しては「続けていたら、今頃は巨人の2番でショートを守っていた」と語ったこともある。
* 現在、浦和のメインスポンサーでもある[[トーシンパートナーズ]]のイメージキャラクターも務めている。
 
172 ⟶ 170行目:
{{サッカー代表個人成績|日本|1}}
|-
|[[1990年のサッカー日本代表|1990]]||5||0
|-
|[[1991年のサッカー日本代表|1991]]||2||0
|-
|[[1992年のサッカー日本代表|1992]]||8||3
|-
|[[1993年のサッカー日本代表|1993]]||15||3
|-
|[[1994年のサッカー日本代表|1994]]||0||0
|-
|[[1995年のサッカー日本代表|1995]]||15||3
|-
!通算
|45||9
|}
 
===出場===
{| class="wikitable"
!No.||開催日||開催都市||スタジアム||対戦相手||結果||監督||大会
|-
|1.||1990年07月27日||{{Flagicon|CHN}}[[北京]]||||{{fb|KOR}}||●0-2||rowspan="7"|[[横山謙三]]||ダイナスティカップ
|-
|2.||1990年07月29日||{{Flagicon|CHN}}[[北京]]||||{{fb|CHN}}||●0-1||ダイナスティカップ
|-
|3.||1990年07月31日||{{Flagicon|CHN}}[[北京]]||||{{fb|PRK}}||●0-1||ダイナスティカップ
|-
|4.||1990年09月26日||{{Flagicon|CHN}}[[北京]]||||{{fb|BAN}}||○3-0||アジア大会
|-
|5.||1990年09月28日||{{Flagicon|CHN}}[[北京]]||||{{fb|KSA}}||●0-2||アジア大会
|-
|6.||1991年06月02日||{{Flagicon|JPN}}[[山形県]]||[[山形県総合運動公園陸上競技場]]||{{fb|THA}}||○1-0||キリンカップ
|-
|7.||1991年07月27日||{{Flagicon|JPN}}[[長崎県]]||[[長崎県立総合運動公園陸上競技場]]||{{fb|KOR}}||●0-1||日韓定期戦
|-
|8.||1992年08月22日||{{Flagicon|CHN}}[[北京]]||||{{fb|KOR}}||△0-0||rowspan="23"|[[ハンス・オフト]]||ダイナスティカップ
|-
|9.||1992年08月24日||{{Flagicon|CHN}}[[北京]]||||{{fb|CHN}}||○2-0||ダイナスティカップ
|-
|10.||1992年08月26日||{{Flagicon|CHN}}[[北京]]||||{{fb|PRK}}||○4-1||ダイナスティカップ
|-
|11.||1992年08月29日||{{Flagicon|CHN}}[[北京]]||||{{fb|KOR}}||△2-2(PK4-2)||ダイナスティカップ
|-
|12.||1992年11月01日||{{Flagicon|JPN}}[[広島県]]||[[広島広域公園陸上競技場]]||{{fb|PRK}}||△1-1||アジアカップ
|-
|13.||1992年11月03日||{{Flagicon|JPN}}[[広島県]]||[[広島広域公園陸上競技場]]||{{fb|IRN}}||○1-0||アジアカップ
|-
|14.||1992年11月06日||{{Flagicon|JPN}}[[広島県]]||[[広島県総合グランドメインスタジアム]]||{{fb|CHN}}||○3-2||アジアカップ
|-
|15.||1992年11月08日||{{Flagicon|JPN}}[[広島県]]||[[広島広域公園陸上競技場]]||{{fb|KSA}}||○1-0||アジアカップ
|-
|16.||1993年03月07日||{{Flagicon|JPN}}[[福岡県]]||[[東平尾公園博多の森陸上競技場]]||{{fb|HUN}}||●0-1||キリンカップ
|-
|17.||1993年03月14日||{{Flagicon|JPN}}[[東京都]]||[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]||{{fb|USA}}||○3-1||キリンカップ
|-
|18.||1993年04月08日||{{Flagicon|JPN}}[[愛知県]]||[[神戸総合運動公園ユニバー記念競技場]]||{{fb|THA}}||○1-0||ワールドカップ予選
|-
|19.||1993年04月11日||{{Flagicon|JPN}}[[東京都]]||[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]||{{fb|BAN}}||○8-0||ワールドカップ予選
|-
|20.||1993年04月15日||{{Flagicon|JPN}}[[東京都]]||[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]||{{fb|SRI}}||○5-0||ワールドカップ予選
|-
|21.||1993年04月18日||{{Flagicon|JPN}}[[東京都]]||[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]||{{fb|UAE}}||○2-0||ワールドカップ予選
|-
|22.||1993年04月28日||{{Flagicon|UAE}}[[ドバイ]]||||{{fb|THA}}||○1-0||ワールドカップ予選
|-
|23.||1993年04月30日||{{Flagicon|UAE}}[[ドバイ]]||||{{fb|BAN}}||○4-1||ワールドカップ予選
|-
|24.||1993年05月05日||{{Flagicon|UAE}}[[ドバイ]]||||{{fb|SRI}}||○6-0||ワールドカップ予選
|-
|25.||1993年05月07日||{{Flagicon|UAE}}[[アル・アイン]]||||{{fb|UAE}}||△1-1||ワールドカップ予選
|-
|26.||1993年10月04日||{{Flagicon|JPN}}[[東京都]]||[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]||{{fb|CIV}}||○1-0(延長)||アフロ・アジア選手権
|-
|27.||1993年10月15日||{{Flagicon|QAT}}[[ドーハ]]||||{{fb|KSA}}||△0-0||ワールドカップ予選
|-
|28.||1993年10月18日||{{Flagicon|QAT}}[[ドーハ]]||||{{fb|IRN}}||●1-2||ワールドカップ予選
|-
|29.||1993年10月25日||{{Flagicon|QAT}}[[ドーハ]]||||{{fb|KOR}}||○1-0||ワールドカップ予選
|-
|30.||1993年10月28日||{{Flagicon|QAT}}[[ドーハ]]||||{{fb|IRQ}}||△2-2||ワールドカップ予選
|-
|31.||1995年01月06日||{{Flagicon|KSA}}[[リヤド]]||||{{fb|NGA}}||●0-3||rowspan="15"|[[加茂周]]||インターコンチネンタル選手権
|-
|32.||1995年01月08日||{{Flagicon|KSA}}[[リヤド]]||||{{fb|ARG}}||●1-5||インターコンチネンタル選手権
|-
|33.||1995年02月15日||{{Flagicon|AUS}}[[シドニー]]||||{{fb|AUS}}||●1-2||国際親善試合
|-
|34.||1995年02月21日||{{Flagicon|HKG}}[[香港]]||||{{fb|KOR}}||△1-1||ダイナスティカップ
|-
|35.||1995年02月26日||{{Flagicon|HKG}}[[香港]]||||{{fb|KOR}}||△2-2(PK5-3)||ダイナスティカップ
|-
|36.||1995年05月21日||{{Flagicon|JPN}}[[広島県]]||[[広島広域公園陸上競技場]]||{{fb|SCO}}||△0-0||キリンカップ
|-
|37.||1995年05月28日||{{Flagicon|JPN}}[[東京都]]||[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]||{{fb|ECU}}||○3-0||キリンカップ
|-
|38.||1995年06月03日||{{Flagicon|ENG}}[[ロンドン]]||||{{fb|ENG}}||●1-2||アンブロカップ
|-
|39.||1995年06月06日||{{Flagicon|ENG}}[[リバプール]]||||{{fb|BRA}}||●0-3||アンブロカップ
|-
|40.||1995年06月10日||{{Flagicon|ENG}}[[ノッティンガム]]||||{{fb|SWE}}||△2-2||アンブロカップ
|-
|41.||1995年08月06日||{{Flagicon|JPN}}[[京都府]]||[[京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場]]||{{fb|CRC}}||○3-0||国際親善試合
|-
|42.||1995年08月09日||{{Flagicon|JPN}}[[東京都]]||[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]||{{fb|BRA}}||●1-5||サン・スパークカップ
|-
|43.||1995年09月20日||{{Flagicon|JPN}}[[東京都]]||[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]||{{fb|PAR}}||●1-2||デサント・アディダスマッチ
|-
|44.||1995年10月24日||{{Flagicon|JPN}}[[東京都]]||[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]||{{fb|KSA}}||○2-1||デサント・アディダスマッチ
|-
|45.||1995年10月28日||{{Flagicon|JPN}}[[愛媛県]]||[[愛媛県総合運動公園陸上競技場]]||{{fb|KSA}}||○2-1||デサント・アディダスマッチ
|}
 
232 ⟶ 325行目:
引退後
* [[ノバルティス|ノバルティスファーマ]]・[[ラミシール|テルビナフィンAT]]
* [[ファミリー引越センター]] (2006-2008年)
* [[エコ計画]]
* [[コロプラ]]「[[白猫プロジェクト]]」(2015年)<ref>{{citeCite web|和書|url=httphttps://natalie.mu/owarai/news/155059|title=じゅんいちダビッドソン、「白猫プロジェクト」CMで前園を励ます|publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|お笑いナタリー]]|date=2015-07-26|accessdate=2015-07-27}}</ref>
 
=== テレビ ===
* [[報道ステーション]](2004年4月 - 2008年1月、[[All-nippon News Network|テレビ朝日系列]])
* [[スーパーサッカー (TBSのサッカー番組)|スーパーサッカー]](2006年1月 - 3月、[[Japan News Network|TBS系列]])
** スーパーサッカー J+(2017年4月 - 9月、BS-TBS)
* [[やじうまテレビ!]]→[[グッド!モーニング (テレビ番組)|グッド!モーニング]]([[All-nippon News Network|テレビ朝日系列]])月曜レギュラー
* [[やじうまテレビ!]]→[[グッド!モーニング (テレビ番組)|グッド!モーニング]](2013年4月1日 - 2024年9月、[[All-nippon News Network|テレビ朝日系列]])月曜レギュラー
* [[テレビスポーツ教室]] サッカー(5)フィニッシャーへの道(2014年6月8日、[[NHK Eテレ]]) - 講師
 
249 ⟶ 343行目:
 
== 脚注 ==
{{reflistReflist}}
 
== 参考文献 ==
293 ⟶ 387行目:
 
== 関連項目 ==
* [[神奈川県出身浦和レッドダイヤモンズ人物選手一覧]]
* [[リスト・オブ・ワン・クラブ・マン]]
* [[福永泰]]
* [[山田暢久]]
* [[田中達也 (1982年生のサッカー選手)]]
* [[小野伸二]]
* [[古舘伊知郎]]
324 ⟶ 418行目:
}}
{{報道ステーション}}
 
{{Normdaten}}
 
{{デフォルトソート:ふくた まさひろ}}
[[Category:福田正博|*]]
[[Category:日本のサッカー選手]]
[[Category:サッカー日本代表選手]]
337 ⟶ 434行目:
[[Category:サッカー解説者]]
[[Category:日本のサッカー指導者]]
[[Category:中央大学学友会サッカー部の選手]]
[[Category:湘南工科大学附属高等学校出身の人物]]
[[Category:神奈川県出身のスポーツ選手]]
[[Category:横浜市出身の人物]]
[[Category:1966年生]]