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{{Infobox 人物
|氏名
|ふりがな
|出生名 = 横井 千市
|画像 = ▼
|画像
|画像
|生年月日 = [[1913年]][[7月1日]]
|生誕地 |没年月日
|死
|
|
|出身校 = [[高等小学校]]
|親 = 横井 鉞次郎・まさ
|配偶者
|子供
|親戚
}}
'''横井 英樹'''(よこい ひでき、[[1913年]]([[大正]]2年)[[7月1日]] - [[1998年]]([[平成]]10年)[[11月30日]])は、[[日本]]の[[実業家]]。[[1953年]](昭和28年)の老舗百貨店、[[白木屋 (デパート)|白木屋]](のちの[[東急百貨店]]日本橋店)の株買占めや東洋郵船設立による海運業への進出で脚光を浴びた
== 来歴・人物 ==
=== 生い立ち ===
[[愛知県]][[中島郡 (愛知県)|中島郡]]
父親の鉞次郎(えつじろう)は
母の
=== 横井商店開業 ===
地元では、[[高等小学校]]は[[1927年]](昭和2年)に他人の援助で出たと言われ{{Sfn|溝口|2009|p=24}}、高小卒業後、父の姉である境野古登を頼って上京{{Sfn|溝口|2009|p=24}}。この伯母は横井を一晩泊めただけで、翌日には[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]のメリヤス問屋「渡辺商会」に[[丁稚]]奉公させる{{Sfn|溝口|2009|p=25}}。[[1930年]](昭和5年)3月10日、独立し繊維問屋「横井商店」を開業。17歳のときであった{{Sfn|溝口|2009|p=40}}。1934年~35年、37年~40年と、2度[[召集]]を受け、中国南部から[[仏印]]([[ベトナム]])を転戦するが{{Sfn|溝口|2009|p=41}}、出征中は店員が業務をみて、支障が出ることはなかったという{{Sfn|溝口|2009|p=41}}。[[1940年]](昭和15年)に除隊となり{{Sfn|溝口|2009|p=41}}、翌年4月、[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]のたび屋・佐藤哲の長女路子と結婚する{{Sfn|溝口|2009|p=33}}。
上京後、英樹に改名。[[東京]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]のメリヤス問屋「渡辺商会」へ[[丁稚]]奉公。1930年(昭和5年)3月10日、独立し「横井商店」を開業。17歳のときであった。1942年(昭和17年)、29歳のとき、第二次世界大戦をきっかけにボロ儲けのチャンスを得る。それまで経営していた繊維問屋をたたみ、軍需品の製造に専念することになる。「横井商店」を「横井産業」に変更し陸海軍、軍需省の管理会社として全国各地に工場を建設し3000人の職員を擁するまでになった。横井は海軍中将にうまく取り入り御用商人となった。戦争で南方に行く海軍陸戦隊の防暑服の製造を一手に引き受けた。また現地で接収してきた電動ミシンを何百台と手に入れた。大宮の工場で女学生を[[徴用|勤労動員]]させ、接収した電動ミシンを使い防暑服を大量生産をした。これで横井は人生最初の大儲けをし、いわゆる[[成金|戦争成金]]となった。終戦後は進駐軍御用工場となるが、繊維業界が先細りとなることを察知し全工場を閉鎖させた。横井は不動産の暴騰を見越し不動産業に乗り出す。▼
▲
横井は[[鎌倉市|鎌倉]]、[[熱海市|熱海]]、[[軽井沢町|軽井沢]] ([[梨本伊都子]]の回想によると旧梨本宮の別荘のみならず車も買い取り、宮家の紋章をつけたまま乗り回していたという)、[[箱根町|箱根]]の土地を買いあさり、[[銀座]]のビルをも買収した。横井の土地の買い方は全て5年月賦で支払い、払い終わる前に土地の値段が暴騰し、資産は20億円以上になっていた。この資金が白木屋買収の足掛かりとなった。▼
▲終戦後は、[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍]]の設営工場となって[[成増]]、[[代々木]]、横
=== 白木屋乗っ取り事件 ===
{{出典の明記|date=2025年7月|section=1}}
横井は財を築いたとはいえ、財界からはただの成り上がりにしか
白木屋の社長である
その一方で白木屋の社長の鏡山は、[[総会屋]]の大物である
翌年の1954年(昭和29年)3月31日、浜町中央クラブにて白木屋の株主総会が行われた。横井側の財界人は[[千葉銀行]]の[[古荘四郎彦]]、[[SMBCフレンド証券|山種証券]]の[[山崎種二]]、高利貸しの[[森脇将光]]、のちの買い占め王となる
1956年(昭和31年)1月半ば、五島は築地にある料亭に横井と鈴木一弘を招き、五島は「君たち“五島学校”に入学せんかね、君たちのような生きの良い若い勝負師と組んで、まだまだ面白い仕事をしてみたい」と言い、それを聞いた横井は「五島会長、お言葉ありがたく
1957年(昭和32年)には[[東洋精糖]]の株買占めに乗り出す。買占め側にも、一方秋山正太郎をはじめとする経営陣側にも、総会屋や[[ヤクザ]]、[[右翼]]が大勢絡む格好となり、さながらオールスター総出演の様相を見せていた(株主総会でも平気な顔で座っていたらしく、面の皮の厚さを見せつけた)。ところが後一歩で経営権を取得できるところまでいったところで、五島が急死。東急を継いだ五島の長男[[五島昇|昇]]は、東急が横井に協力して買い占めていた東洋精糖の株式を東洋精糖の経営陣側に譲渡するなどの調停案([[岸信介]]の絡みで[[永田雅一]]がまとめた)で合意し、東急は乗っ取りから撤退、東洋精糖の乗っ取りは結局横井が一人孤立してしまう格好になってしまう。このため、五島邸へ直接出向いて抗議している。
五島の急死が誤算だったのはいわずもがな、衝撃なのは長男の昇から横井は出入りを終生断られたことである。しかし同じ五島門下生である、国際興業社主である[[小佐野賢治]]は昇から敬意が払われ、後に富士屋ホテルの買収で対立することになる。▼
▲横井にとって五島慶太の急死
{{main|[[横井英樹襲撃事件]]}}
横井は1956年、[[東和石油販売|東和石油]]、[[大協石油]]の買い占めに成功し、翌年には上述、東洋精糖株にのりだす。だが、それに相前後して関係した[[蜂須賀家]]の財産問題にからんで、[[1958年]](昭和33年)6月11日、[[安藤組]]の配下に銃撃され{{Sfn|溝口|2009|p=48}}、力尽き倒れ、以後3週間生死の境をさまよった{{Sfn|溝口|2009|p=49}}。
=== 富士屋ホテル事件 ===
同じ五島慶太を師に仰ぎ、その五島から[[箱根]]の[[強羅ホテル]]を買った小佐野賢治が
[[1964年]](昭和39年)12月に[[株主総会]]が
[[1966年]](昭和41年)4月27日に児玉邸で株の受け渡しが行われた。横井は株を小佐野に渡して4億5千万円を受け取ることになるが、なんと現金での支払いを要求した。ところが横井は万札を一枚一枚、児玉、小佐野の目の前で数えて、朝の4時から夕方の4時までかかった{{Sfn|溝口|2009|p=51}}<ref name="example" />。その上、横井の持ってきた株券が足りなかったのを、現金で返せばいいものを、小切手で払おうとした{{Sfn|溝口|2009|p=51}}。この件を横井は銀行の封をしてあるのに、ばらして一枚一枚数えたりはしなかったし、現金を要求したのは、仲間がいて分けねばならなかったし、すぐしなければならない支払いもあったからだと弁解した{{Sfn|溝口|2009|p=51}}。だが、これによって横井は男を落とし、小佐野や児玉など財界主流とはとうてい言いかねる人物たちからも軽くみられることになった{{Sfn|溝口|2009|p=51}}。
[[1970年]]には[[京都府|京都]]にあるネジのトップメーカーである山科精工所(現・[[ヤマシナ]])を乗っ取り、自らが会長に就任し長男の邦彦を取締役に据えるなど役員を肉親で固めた<ref>[[2000年]]に邦彦は社長になるが、わずか3か月後に臨時取締役会で社長の座を追われ、[[2008年]]に[[自殺]]している。</ref>。▼
=== 山科精工所乗っ取り ===
▲[[1970年]](昭和45年)には[[京都府|京都]]にあるネジのトップメーカーである山科精工所(現・[[
=== ホテルニュージャパン火災事件 ===
{{main|ホテルニュージャパン火災}}
[[1979年]](昭和54年)、政治家でもあった[[藤山愛一郎]]の長男
[[1982年]]
=== 晩年 ===
[[田園調布]]駅前の一等地に構えた豪邸は、死去する1か月ほど前には手放し、その後は弟夫婦と暮らしていた。自宅跡はのちに[[鈴木その子]]が購入している<ref>{{Cite news |title=創刊56周年特別企画 日本の栄枯盛衰をずっと見てきた 東の田園調布、西の芦屋六麓荘「大金持ち」が住む街を歩く(上) |url=https://gendai.media/articles/-/42935?page=5 |newspaper=現代ビジネス |publisher=講談社 |date=2015-04-18 |accessdate=2023-03-09}}</ref>。資産のほとんどは安値で売却され、最後まで所有していたのはダイエー碑文谷店と池上のボウリング場のみ<ref group="注釈">「トーヨーボール」を全国展開していたが、最後に残ったのが池上店である。ダイエー碑文谷店も元は「トーヨーボール」として建築されたものである。2008年に閉鎖されたトーヨーボール池上は、横井没後の2000年に[[関東連合]]によるトーヨーボール事件が起こった場所である。</ref>であった。
=== 女性関係 ===
路子と結婚後、連続して4人の子を儲け、夫婦仲の睦まじさをうかがわせるが、それも終戦後しばらくまでの好関係だった{{Sfn|溝口|2009|p=33}}。横井は酒も飲まず、タバコも吸わず、バクチもやらなかったが、女の問題だけはどうしようもなかった{{Sfn|溝口|2009|p=35}}。路子がこの面で横井をボロクソに言って、子どもを育てたため、子どもにも路子の横井観が伝わり、子どもたちは横井を事業家として尊敬していたが、人間としてはまるで信用していなかった{{Sfn|溝口|2009|p=35}}。
[[1947年]](昭和22年)頃、銀座のキャバレー「美松」で働いていたダンサーT・C子を秘書として引き抜き、妾にして[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]に囲った{{Sfn|溝口|2009|p=34}}。T・C子は[[1953年]](昭和28年)11月、[[東映ニューフェース]]に採用され、園ゆき子の芸名をもらうが、横井との関係が取り沙汰され、[[1955年]](昭和30年)には芸能界から姿を消した{{Sfn|溝口|2009|p=34}}。[[1974年]](昭和49年)[[ミス・インターナショナル]]日本代表に選ばれたモデルの[[樹れい子]]も、横井と愛人関係にあったといわれ、横井は彼女の芸名に自分の名の一字を贈った{{Sfn|溝口|2009|p=36}}。[[ミス・コンテスト|ミスコン]]好きで有名であり、コンテストにはスポンサーとして欠かさず出席し、参加者をしばしば愛人にしていた。晩年には[[叶姉妹]]とも交流があったとも伝えられ、パーティーの写真が[[週刊誌]]に載ったこともある。
[[溝口敦]]が横井本人に女性問題を質すと、彼は不機嫌そうにこう答えた{{Sfn|溝口|2009|p=39}}。「ぼくは68まで生きてるんだからね。その間、女性を愛することだってありますよ。そうでしょう。誰だって同じですよ。ただぼくが君らとちがうのは不特定多数じゃなくて、特定少数だってことね。ちゃんとしたもんですよ。何人かだって? 5人くらいなもんだ。ぼくにいえることは、ぼくにだまされたという女は1人もいない、このことですね」{{Sfn|溝口|2009|p=40}}。
== その他のエピソード ==
[[1972年]](昭和47年)、生家近くに240レーン、東洋一といわれた大ボウリング場「ナゴヤトーヨーボール」をつくり、付近の畑を借りて、コンクリートで固めて付設の駐車場とした。生家も豪邸に建て直し、村中に祝いの反物を配って歩いたりした{{Sfn|溝口|2009|p=23}}。
[[1991年]]には、秘密裡に[[ニューヨーク]]の[[エンパイア・ステート・ビルディング|エンパイアステートビル]]を共同購入者の一人として買収。愛人の娘、中原キイ子にプレゼントすると横井が言った言わないで裁判になる<ref>ミッシェル・パーチェル著『エンパイア』</ref>。ただし、同ビルは所有権と賃借権が分離しており、賃借権のない横井ら所有者はほとんど利益が出ないまま撤退。このときの共同購入者が[[ドナルド・トランプ]]で、賃借権を持つ[[レオナ・ヘルムズリー|ヘルムズリー夫婦]]を訴えて7年闘ったが撤退した<ref>『熱狂の王 ドナルド・トランプ』マイケル・ダントニオ、クロスメディア・パブリッシング(インプレス), 2016/09/28, p63 </ref>。トランプは売り投げて利益を出したと言われる<ref>『トランプ大統領とアメリカの真実』副島隆彦、日本文芸社, 2016/07/10, p104</ref>。▼
1980年代に横井は[[ヨーロッパ]]の古城を15城買った。うち9城が[[フランス]]の城で、当時フランスでは文化財保護費が不足して古城の老朽化が進んでいたため、城の所有者たちは修復再生を期待して横井の日本産業
▲[[1991年]](平成3年)には、秘密
[[ボウ|蝶ネクタイ]]姿で知られた。本人の弁では「時は金なり、結ぶ手間がもったいない」ことが愛用の理由だった。また、[[スリ]]に狙われないため、ズボンは尻ポケットをなくした前ポケットのものを特注していた。▼
▲[[ボウ|蝶ネクタイ]](着用が簡単なピアネス・タイ)姿で知られた。本人の弁では「時は金なり、結ぶ手間がもったいない」ことが愛用の理由だった。また、[[スリ]]に狙われないため、ズボンは尻ポケットをなくした前ポケットのものを特注していた。
== 横井系企業 ==
▲1980年代に横井はヨーロッパの古城を15城買った。うち9城がフランスの城で、当時フランスでは文化財保護費が不足して古城の老朽化が進んでいたため、城の所有者たちは修復再生を期待して横井の日本産業株式会社へ売却した。その交渉に当たった横井の娘とその夫(仏系米国人)は高級ホテルとして再生させるとしていたが、横井がホテルニュージャパン火災で逮捕されたため、資金が枯渇し、城の調度品をオークションで売却、城は手つかずのまま放置された。そのため不法侵入者による盗難や占拠により城はさらに荒廃し、横井の娘夫婦は詐欺などの疑いで逮捕収監された。フランスの法律では文化財維持のための売却は許されているが、文化省への報告義務があり、フランス国外へ持ち出していいかどうかは国が決める<ref name=paris/><ref name=ny>[https://www.nytimes.com/1996/02/15/world/versailles-journal-proud-castles-stripped-and-france-is-scandalized.html Versailles Journal;Proud Castles Stripped, and France Is Scandalized]The New York Times, Feb. 15, 1996</ref><ref>[https://apnews.com/b6868ee602cffc73516d04911dcaf2cd Japanese Heiress Jailed in French Chateau-Stripping Scandal]AP,February 18, 1996</ref><ref>[https://www.leparisien.fr/yvelines-78/la-justice-dedouane-les-anciens-proprietaires-23-02-2002-2002841629.php La justice dédouane les anciens propriétaires]Le Parisian, Le 23 février 2002</ref>。
[[丸の内]]の[[国際ビルヂング|国際ビル]]に本社を構えた東洋郵船のほか{{Sfn|溝口|2009|p=18}}、ホテルニュージャパン、山科精工所、富士観光、日本産業、横井産業、鴨川産業、東洋不動産、大日本産業、東洋建物、内外スポーツ新聞などがあった{{Sfn|溝口|2009|p=28}}。[[帝国データバンク]]の調査によれば、横井本人を含めた一族の総資産は1045億8794万円であった{{Sfn|溝口|2009|p=27}}。
==
* 父・鉞次郎
* 母・まさ - のちに田園調布の横井邸近くの豪邸に引きとられ、女中2人がついて、錦紗の着物を普段着にするような恵まれた晩年を送った。彼女は[[キャデラック]]で行く芝居見物にも飽きると、近所の同年配の婦人を訪ねて、茶のみ話に花を咲かせた{{Sfn|溝口|2009|p=21 - 22}}。
* 妻・路子
* 長男・邦彦 - [[
* 長女・智津子 - [[1944年]]生まれ。1978年に[[建築家]]の[[坂倉竹之助]]と結婚<ref>[https://www.tokyoweekender.com/wp-content/uploads/2017/03/1.pdf
* 次男・裕彦 - [[1945年]]生まれ。慶應義塾大学卒{{Sfn|溝口|2009|p=31}}。トーヨーボール、[[ホテルニュージャパン]]、東洋郵船などの社長を務めた。邦彦同様、帝国ホテル「孔雀の間」で1200人を招き、結婚式を挙げるが、やはり8メートルのケーキで大日本製糖に祝わせた{{Sfn|溝口|2009|p=33}}。[[2000年]]に、東洋郵船所有の[[船原ホテル]]の金の浴槽が盗まれたと届け出た。英樹の死後、目黒区の繊維取引会社であり、ダイエー碑文谷店の家主でもあった横井産業の社長に就任。[[2004年]]にパチンコ業のビッグウェーブとの賃貸契約書不正の疑いで家宅捜査。1956年に英樹が設立した日本産業の社長も務めていたが、2019年に破産した<ref>
* 次女 - [[1948年]]生まれ{{Sfn|溝口|2009|p=33}}。
* [[庶子]]・中原キイ子 - [[1945年]]生まれ。英樹が[[エンパイア・ステート・ビルディング|エンパイア・ステート・ビル]]やヨーロッパの[[古城]]を買い漁った際、
* 孫・[[Zeebra
* 孫・[[SPHERE (ラッパー)|SPHERE]](本名:坂倉友之) - ラッパー。英樹の長女と坂倉竹之助との子供。
*曾孫・リマ(本名:中林里茉) - [[NiziU]]のメンバー。[[韓国]]の大手[[芸能事務所]][[JYPエンターテインメント|JYP]]主催のオーディション[[Nizi Project]]でデビュー。ZEEBRAとモデルの[[中林美和]]の二女。
== 脚注 ==
{{
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author= [[見沢知廉]]|title=囚人狂時代|series= [[新潮文庫]]|publisher=[[新潮社]]|date=1998-3|isbn=4-10147-321-8|ref={{sfnref|見沢|1998}}}}
* 『愚連隊伝説』[[洋泉社]] [[1999年]] ISBN 4-89691-408-2▼
* [[大下英治]]「最後の銭ゲバ横井英樹の奇矯な生涯」『[[月刊現代|現代]]』1999年2月号, 33巻(2) ,p.75-90
* [[山平重樹]]『一徹ヤクザ伝・高橋岩太郎』[[幻冬舎]]<アウトロー文庫>、[[2004年]]、ISBN 4-344-40596-X▼
* {{Cite book|和書|author=ミッ
* {{Cite book|和書|author= [[溝口敦]]|title=昭和梟雄録|series= [[講談社+α文庫]]|publisher=[[講談社]]|date=2009-11|isbn=978-4062813280|ref={{sfnref|溝口|2009}}}}
* {{Cite book|和書|author= [[副島隆彦]]|title=トランプ大統領とアメリカの真実|series= |publisher=[[日本文芸社]]|date=2016-7|isbn=978-4537261530|ref={{sfnref|副島|2016}}}}
* {{Cite book|和書|author=[[:en:Michael D'Antonio|マイケル・ダントニオ]] |translator=高取芳彦、吉川南|title=熱狂の王 ドナルド・トランプ|series= |publisher=[[クロスメディア・パブリッシング]]|date=2016-9|isbn=978-4844374985|ref={{sfnref|マイケル・ダントニオ|2016}}}}
▲* [[横井英樹襲撃事件]]
{{デフォルトソート:よこい ひてき}}▼
{{Normdaten}}
[[Category:20世紀日本の実業家]]
[[Category:日本の栄典を褫奪された人物]]
[[Category:愛知県出身の人物]]
[[Category:1913年生]]
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