「日本の仏教」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
220.220.35.215 (会話) による ID:88524244 の版を取り消し タグ: 取り消し |
|||
(28人の利用者による、間の44版が非表示) | |||
2行目:
'''日本の仏教'''(にほんのぶっきょう)は、5世紀に[[罽賓|罽賓国]]よりもたらされたとする説や、西暦538年([[日本書紀]]では552年)に[[百済]]よりもたらされたとする[[上宮聖徳法王帝説|説]]などがあるが、宗派により伝来時期や伝来元の地域が異なる。
2013年の統計では約8470万人が仏教徒であるとされる<ref name="yearbook" />。現代では、[[仏教]]と[[神道]]は区別されることが多いが、幕末までは仏と神を一体で不可分とする[[神仏習合]]
伝統的な仏教の宗派
文化庁の宗教年鑑の統計によると、現在の[[日本]]の仏教徒の大半はいわゆる[[鎌倉仏教]]に属し
{{see also|日本の宗教}}
12行目:
== 概要と特徴 ==
=== 信者数などの統計 ===
[[日本]]には、約7万5000の[[寺院]]、30万体以上の[[仏像]]が存在する。日本最古の官寺である[[四天王寺]]、世界最古の[[木構造 (建築)|木造]]寺院である[[法隆寺]]があり、最古の仏典古文書も日本に存在する。
日本は2013年の統計では約8470万人が仏教徒であるとされる<ref name="yearbook">{{cite book|last=総務省|title=第六十三回 日本統計年鑑 平成26年|year=2013|publisher=日本統計協会|___location=東京|url=https://www.stat.go.jp/data/nenkan/index2.html}}</ref> 。一方、現代の[[日本人]]は特定の信仰宗教、宗教観を持っておらず、自らを[[仏教徒]]と強く意識する機会が少ない人も多いが、[[ブリタニカ]]国際年鑑の2013年度版では99%の日本人が広義の仏教徒とされている<ref>『図解仏教』成美堂出版、32頁。</ref>{{Efn|99%の日本人は神道信者との重複で1%は[[長崎県]]などで多いキリスト教徒とされている。}}。
2008年のISSP国際比較調査[宗教](NHK放送文化研究所)によると、宗教を信仰している人は男性の場合40代で19%であるものが50代で41%と急激に数値が上昇し、女性の場合30代の28%から40代で39%と急上昇する結果が出ている。男性は親の葬儀が信仰心を持つきっかけになりやすいとされる<ref name="shimada">島田裕巳『日本人の信仰』pp.57-59 扶桑社新書、2017年、ISBN 978-4594077426</ref>。
=== 系譜・宗派 ===
38 ⟶ 40行目:
浄土系(鎌倉仏教[[浄土教|浄土系]])
* '''[[浄土宗]]''' 開祖は[[法然]](源空・円光大師・黒谷上人・吉水上人とも)、浄土宗(鎮西流)総本山は[[知恩院]]。
: 法然の弟子[[証空]]の門流は[[浄土宗西山派|西山三派]]といわれ、本山は[[光明寺 (長岡京市)|光明寺]]([[西山浄土宗]])、[[禅林寺 (京都市)|禅林寺]]([[浄土宗西山禅林寺派]])、[[誓願寺]]([[浄土宗西山深草派]])。 * '''[[浄土真宗]]''' 真宗・一向宗とも 開祖は[[親鸞]]、本山は本願寺(浄土真宗本願寺派・[[西本願寺]])・真宗本廟(真宗大谷派・[[東本願寺]])ほか。
* '''[[融通念仏宗]]''' 大念仏宗とも(平安仏教系との考えも)開祖は[[良忍]](聖応大師)、本山は[[大念仏寺]]
* '''[[時宗]]''' 開祖は[[一遍]](法諱は智真、証誠大師・円照大師とも)、本山は[[清浄光寺]](遊行寺)
[[禅宗]]系(鎌倉仏教禅系)
* '''[[曹洞宗]]''' 開祖は[[道元]](承陽大師)、本山は[[永平寺]]・[[總持寺]]
* '''[[臨済宗]]''' (日本における)開祖は[[明菴栄西|栄西]](千光国師)ら、本山は建長寺·[[建仁寺]]・[[円覚寺]]・[[妙心寺]]・[[東福寺]]ほか
57 ⟶ 60行目:
このように日本の仏教は、日本の文化的・精神的土壌の中で、固有の展開・発展を遂げたもので、インドで釈迦の説いた[[初期仏教]]と様相を異にしていることは否定できない<ref name=sasaki/>。一方で、例えば、[[親鸞]]の[[他力]]思想や日本における[[禅宗]]の展開・浸透について、日本の精神的土壌が仏教を通じて顕現したものであるとするなど、狭い意味での[[仏教]]の垣根を超えた形で、日本の仏教の意義・価値を積極的に見出そうとする言説もある<ref>鈴木大拙『日本的霊性』(角川ソフィア文庫、2010)</ref>。
また、日本の仏教は、日本の社会・文化全体に有形無形の影響を与えてきたもので、宗教以外の分野への思想的影響の例として、[[禅宗]]の精神を取り入れたとされる[[茶道]]などの伝統文化があるほか、近現代においても、日本の仏教思想が反映された[[心理療法]]とされる[[森田療法]]が挙げられるとともに、[[河合隼雄]]によって日本に普及されたヨーロッパ発祥の[[ユング]]心理学に基づく[[心理療法]]の過程においてさえ、日本人の深層心理への仏教の影響が色濃く見出されるため、仏教の知見・視点が大変有用である旨の指摘がされている<ref>河合隼雄『<心理療法コレクションⅤ>ユング心理学と仏教』(岩波書店、2010)</ref>。また、現代においては、[[仏教]]における[[瞑想]]・[[禅宗]]の手法を基礎としつつ非宗教的な瞑想技法として体系立てた[[マインドフルネス]]が、非仏教国から日本に紹介されるという逆輸入の現象も生じている。
=== 課題 ===
[[仏陀]]が説いた元々の[[初期仏教]]は、人間はなぜ苦しむのかとの問いを分析的に解明した上で、苦しみから解放される方法を提示するものであり、その後に様々な国・地域で多様な展開を見せた仏教各宗派も、世界観や救済観・方法論の違いこそあるものの、[[生老病死]]をはじめとする苦しみからの解放を目的とすることでは本来共通している。しかし、現代の日本の仏教は、[[葬式仏教]]との言葉に象徴されるように、大半の人にとっては、[[葬式]]をはじめとする死後の法要・儀式を行う存在でしかなく、[[仏教]]本来の役割を果たすことはほとんどできていないという指摘がある。
このような課題・現状に対しては、仏教界からも、死という最も重いライフイベントにおいて[[仏教]]が果たしてきた役割を肯定的に捉えつつも、そこにとどまることなく、[[終末医療]]における[[スピリチュアルケア]]、災害などの遺族に対する[[グリーフケア]]、長寿命・[[高齢化社会]]における[[老い]]への向き合い方、つながりが希薄化する地域社会において交流・連携拠点になるなど、現代社会において[[仏教]]だからこそ果たすことのできる役割を積極的に見出していこうとする動きが見られる<ref>[https://www.sotozen-net.or.jp/shakaitekiyakuwari 【連続インタビュー】仏教の社会的役割を見つめ直す(曹洞宗公式サイト)]</ref>ほか、[[初期仏教]]・[[上座部仏教]]・[[チベット仏教]]などでの出家者の集まりである[[僧伽]](さんが)をモデルに、人生に行き詰った際に価値観をリセットする場所(セーフティネット)としての役割を提唱する意見もある<ref name=sasaki/>。
71 ⟶ 74行目:
『日本書紀』には仏教が伝来した際に、起きた騒動についても記されている。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、[[物部尾輿]]と[[中臣鎌子]]ら(神道勢力)は仏教に反対した。一方、[[蘇我稲目]]は、西国では皆が仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか(「西蕃諸國一皆禮之,豐秋日本豈獨背也」)として、仏教に帰依したいと言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を[[寺院|寺]]として仏像を拝んだ。その後、[[疫病]]が流行ると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、[[国津神]]の怒りを買ったのだ(「昔日不須臣計 致斯病死 今不遠而復 必當有慶 宜早投棄 懃求後福」)として、寺を焼き仏像を[[難波の堀江]]に捨てた。
その後、仏教の可否を巡る争いは物部尾輿・蘇我稲目の子供達([[物部守屋]]と[[蘇我馬子]])の代にまで持ち越され、[[
[[天武天皇]]は[[大官大寺]](後の大安寺)を建て、[[持統天皇]]は[[薬師寺]]を建てた。このような動きは[[聖武天皇]]の時に頂点に達した。
百済からは仏教と寺院建築のために[[瓦]]などの建築技術が伝わった<ref name="himeji">{{Cite web|和書|url=http://himeji.jibasan.jp/kawara/rekishi.html|title=瓦の歴史|publisher=姫路市電子じばさん館(姫路市・公益財団法人 姫路・西はりま地場産業センター)|accessdate=2020-08-03}}</ref>。最初に採用されたのは[[飛鳥寺]]であり、7世紀ごろまでは仏教寺院のみに用いられていた<ref name="himeji" />。
日本への公的な仏教伝来は、[[欽明天皇|欽明朝]]のこととして間違いはないが、公伝以前の民間ルートでの仏教伝来が想定できる。すなわち「私伝」説である<ref name="宇佐美正利136-137"/>。[[欽明天皇|欽明朝]]以前の仏教伝来の根拠とされる[[史料]]に『[[扶桑略記]]』記事がある<ref name="宇佐美正利136-137"/>。『扶桑略記』記事は、もと『[[坂田寺縁起]]』に記され、延暦寺僧『[[禅岑記]]』さらに『[[大日本国法華験記]]』に引用されたものに、『扶桑略記』が依拠したが、継体天皇十六年壬寅([[522年]])春二月に渡来した[[司馬達等]]が、[[大和国]][[高市郡]][[坂田原]]に草堂を結び、本尊を安置して、帰依礼拝したところ、世人がこれを「大唐の神」なりと呼んだといい、百済の王朝から日本の王朝へという公伝以前に、中国系渡来人によって仏教が既に伝えられていた<ref name="宇佐美正利136-137"/>。また、[[欽明天皇|欽明朝]]以前の仏教伝来について、『[[日本国現報善悪霊異記]]』に、[[敏達天皇|敏達天皇代]]に[[大部屋栖野古|大部屋栖野古連]]が[[和泉国]]の海中から「霹靂に当りし楠」を発見して、これで仏像を制作したいと皇后に上奏したところ、皇后は「願ふ所に依るべし」と許可し、そこで大部屋栖野古連は[[蘇我馬子]]にこのことを告げたところ、蘇我馬子は池辺直氷田を請えて「仏菩薩の三軀の像」を造らせ、像を豊浦寺に置き、諸人が仰ぎ敬ったところ、廃仏派の[[物部守屋]]が「おほよそ仏の像を国の内に置くべからず。なほ遠く棄て退けよ」「今国家に災起るは、隣の国の客神の像を己が国の内に置くに因りてなり。斯の客神の像を出して速忽に棄て、豊国に流せ」と主張した<ref name="宇佐美正利136-137"/>。この「豊国」を[[九州]]の[[豊国]]とすれば、[[大和]]への公伝以前に豊国に仏教が伝わっていて、大和の人々が、[[九州]]を特殊な地域として認識していたとみることもできる。また「豊国」について、[[用明天皇]]が病気になった時に「朕、三宝に帰らむと思ふ。卿達議れ」と述べたところ、[[物部守屋]]と[[中臣勝海]]が「何ぞ国神を背きて、他神を敬びむ。由来、斯の若き事を識らず」と主張し、対して蘇我馬子が「詔に随ひて助け奉るべし。詎か異なる計を生さむ」と反論し、時に[[穴穂部皇子]]が「[[豊国 (僧)|豊国法師]]」を引て、内裏に入ったといい、この「豊国法師」を固有名詞でなく、「[[豊国]]」の[[法師]]と考えるならば、「豊国」は仏教と関係深い国であったことも否定できない<ref name="宇佐美正利136-137"/>。また、[[九州]]の[[修験道]]の行場としてで有名な[[英彦山|彦山]]の開創について[[中国]][[北魏]][[僧]]・[[善正]]が、仏教を日本に弘めるため、渡海して九州北岸に到着したところ、樹木でおおわれた日子山(彦山)の秀麗な姿に心ひかれ、石室を造って住むことになり、これが彦山の[[霊泉寺 (福岡県添田町)|霊泉寺]]のはじまりとされ、その年は[[531年]]である<ref name="宇佐美正利136-137"/>。さらに、[[4世紀]]ないし[[5世紀]]と推定される全国各地の[[古墳]]から出土する漢式鏡に、[[道教]]の[[仙人|神仙]]と異なる仏像が表現されている鏡が含まれていることなどからも公伝以前の仏教伝来を想定出来る<ref name="宇佐美正利136-137">{{Cite journal|和書|author=[[宇佐美正利]]|title=仏教伝来の実情とその影響|journal=[[歴史読本]]|issn=|publisher=[[新人物往来社]]|date=2006-02|volume=51|issue=3|page=136-137}}</ref>。
『[[水鏡]]』に[[継体天皇]]治世中に[[唐土|唐]]([[唐土|もろこし]])より仏教が伝来した以下の記事がある。
{{quotation|継体天皇ノ御世ニモ唐ヨリ仏経ヲ日本に渡シタリキ、其時人未聖徳太子以前ノ事ナレバ、仏ヲ持シ奉テ崇行、然共時ノ人々只唐ノ神ト名村テ仏共知奉ザリキ、又世ノ中ニモ彼仏ヒロマリ給ハズナリキ<ref>{{Cite book|和書|author=[[江見清風]]|date=1903|title=水鏡詳解|series=|publisher=[[明治書院]]|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992843/75|page=75}}</ref>。|水鏡}}
継体天皇時代に仏教の渡来を示しているが、その年時は記されておらず、継体天皇御治世に、[[唐土]]より仏教が渡ったことを伝えている。一方、『水鏡』の著者は[[中山忠親]]とも、あるいは[[源雅頼]]の作ともいわれ、中山忠親は[[建久]]六年([[1195年]])に源雅頼は建久元年([[1190年]])に薨去しており、継体天皇治世中の唐土からの渡来としても、後代の[[史料]]であることは注意を要する<ref>{{Cite book|和書|author=[[藤原猶雪]]|date=1934|title=仏教渡来史|series=日本宗教講座|publisher=[[東方書院]]|page=10-11}}</ref>。
=== 奈良時代 ===
95 ⟶ 104行目:
これらの宗派では、それまでの宗派と違い、難しい理論や厳しい修行ではなく、在家の信者が生活の合間に実践できるような易しい教え(易行)が説かれている。
特に広まったのは[[念仏]]思想であった。「[[南無阿弥陀仏]]」と[[念仏]]を唱え続ける([[称名念仏]])事で救われるとする[[法然]]の[[浄土宗]]、浄土宗からさらに踏み込んで「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」という[[悪人正機]]{{Efn|『善人→「自力作善」の者=阿弥陀仏を頼りとせず、自分の力で善根功徳を積んでさとりを開こうとする者』でさえ往生できるのだから、悪人→我々のような煩悩を具足のように身にまとった者が往生できるのはいうまでもないことだという思想。}}の教えを説いた[[親鸞]]の[[浄土真宗]](一向宗)、踊りながら念仏を唱える[[融通念仏]]や[[時宗]]があった。
対して、拡大する念仏を警戒した[[日蓮]]は「[[南無妙法蓮華経]]」と唱えることで救われるとする[[日蓮宗]]を創設した。
115 ⟶ 124行目:
=== 戦国時代 ===
[[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|240px|[[エンゲルベルト・ケンペル]]の[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])のスケッチ<ref>ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95</ref>。[[豊臣秀吉]]の発願で造立された。ただし描かれている大仏は江戸時代に再建されたもので、秀吉が造立した頃の大仏ではない。]]
[[応仁の乱]]後になると、治安が悪化したため、宗教勢力も僧兵を強化し武力を強化した。[[法華宗]]による[[山科本願寺]]焼き討ち、[[天台宗]]による[[天文法華の乱]]など、過激派宗教団体による[[宗教戦争]]も起こった。中でも[[加賀国一揆]]等の[[一向一揆]]は守護大名の[[冨樫氏]]を滅ぼし、約80年間に渡って加賀一国を支配した(主に徴税権と裁判権)。[[石山本願寺]]などは、さながら大名家のような強固な組織となり、彼らの勢力は[[守護大名]]および[[戦国大名]]が国を統治する上で何らかの対応策をとることが必須となるほど大きく、大名の多くは妥協の道をとった。▼
{{main|戦国仏教}}
▲[[応仁の乱]]後になると、治安が悪化したため、宗教勢力も僧兵を強化し武力を強化した。[[法華宗]]による[[山科本願寺]]焼き討ち、[[天台宗]]による[[天文法華の乱]]など、過激派宗教団体による[[宗教戦争]]も起こった。中でも[[加賀一向一揆|加賀国一揆]]等の[[一向一揆]]は守護大名の[[冨樫氏]]を滅ぼし、約80年間に渡って加賀一国を支配した(主に徴税権と裁判権)。[[石山本願寺]]などは、さながら大名家のような強固な組織となり、彼らの勢力は[[守護大名]]および[[戦国大名]]が国を統治する上で何らかの対応策をとることが必須となるほど大きく、大名の多くは妥協の道をとった。
しかし尾張の戦国大名・[[織田信長]]は、「天下布武」という方針の下、実力対抗してくる宗教勢力を徹底的に討伐した。[[比叡山焼き討ち (1571年)|延暦寺焼き討ち]]、[[長島一向一揆]]、[[石山合戦]]などが有名である。また、信長は、[[日蓮宗]]の僧と[[浄土宗]]の僧との宗論を主催した([[安土宗論]])。結果、[[浄土宗]]が勝利したため、信長は法華宗に他宗派を非難しないよう約束させた。これも宗教勢力を抑えるための策だったとされる。
=== 安土桃山時代 ===
信長が[[本能寺の変]]で死ぬと、彼の家臣の[[豊臣秀吉]]が実質的な後継者の座についた。秀吉は概ね信長の路線を引き継ぎ、自身に敵対した[[根来寺]]や[[高野山]]を屈服させた。一向一揆は秀吉軍と[[上杉氏|上杉軍]]から挟撃され瓦解した。さらに有力寺社を[[大坂城]]の城下町へ引っ越しさせたり、僧兵の影響力が大きかった大和に弟・[[豊臣秀長]]を派遣したり、[[刀狩]]・[[惣無事令]]によって寺院の武装解除を大きく進めるなど、寺社への統制を強めた。寺院の統制と武装解除は続く[[江戸幕府]]でも大きな問題として引き継がれていく。
[[ルイス・フロイス]]が1585年に著した[[日欧文化比較]]では、この時代の仏教寺院の堕落が指摘されている。
=== 江戸時代 ===
豊臣秀吉の死後に権勢を掌握した[[徳川家康]]は、宗派・寺院内外間の内紛や争論に関する多数の訴訟に対処することになる。これに対して幕府は[[寺院諸法度]]を制定し、[[寺社奉行]]を置
[[1665年]]([[寛文]]5年)に江戸幕府は[[寛文印知]]と[[諸宗寺院法度]]の制定を行い、仏教寺院に寺領を安堵する一方で更なる統制([[檀家制度]])を行った。幕府は学問を奨励したため、各宗派で、檀林、学寮などと呼ばれる学校が整備され、教学研究が進んだ一方で、新義・異議は禁止された。[[江戸幕府]]が日蓮の教義を信じない事を理由に従う事を拒絶した日蓮宗の一派の[[不受不施派]]は、[[禁教令]]の[[キリスト教]]と同様に厳しい弾圧を受けた<ref>高埜利彦『近世の朝廷と宗教』吉川弘文館、2014年、P394-397</ref>。
これらの幕府の統制により江戸時代の仏教は堕落したという「近世仏教堕落論」は戦前における宗教史の通説であったが、戦後になると多くの批判が行われた。一方で近世仏教思想の再検討は、未だ不十分な段階である<ref>オリオン クラウタル「[https://tohoku.repo.nii.ac.jp/record/2483/files/1347-2992-2008-7-30.pdf 戦後日本における近世仏教堕落論の批判と継承]」『年報日本思想史7号』日本思想史研究会、2008年</ref>。上からの押しつけと解釈されやすい寺請制度だが、社会の安定に伴い菩提寺を求める民衆の意思も無視できない。仏像も規格化されたものが大量生産され各地の寺に収められたが、美術的な観点はともかく信仰の対象が身近に存在する人心安定の意義は大きい。
[[1654年]]([[承応]]3年)に来日した明の[[隠元隆琦]]は[[黄檗宗]]を布教している。
143 ⟶ 156行目:
=== 大正時代 ===
明治末年の[[大逆事件]]に[[内山愚童]]らの僧侶が連座したことに衝撃を受けた田中智学は、日蓮の教えを国家や社会活動の基本的な指導理念とする「[[日蓮主義]]」と、ナショナリスティックな仏教的[[国体論]]を結合させたキャンペーン活動を行い、軍人や知識人を中心に大正時代の流行思想となった{{sfn|末木|2011|pp=80-95,118-122}}。日蓮主義者で有名な人物に[[宮沢賢治]]、[[石原莞爾]]がいる。[[1924年]](大正13年)には、法華系新宗教の[[霊友会]]が発足している。
既存宗派も社会福祉事業にコミットすることで、近代的な宗教団体へと変革する取り組みが行われた{{sfn|末木|2011|pp=80-95,118-122}}。[[1915年]](大正4年)には仏教各宗派懇話会を改称した仏教連合会が発足し、政治と宗教に関する諸問題に仏教界の影響力を行使した<ref>大澤広嗣「昭和前期の仏教界と連合組織 : 仏教連合会から大日本戦時宗教報国会まで」『武蔵野大学仏教文化研究所紀要』(31) 武蔵野大学仏教文化研究所 {{NAID|120005897139}} 2015 pp.21-27.</ref>。
149 ⟶ 162行目:
=== 昭和時代(戦前・戦中) ===
近代の政府は、神仏判然令以降、太政官布達や断片的な法令、行政上の通達によって宗教を管理してきたが、統一的な法典としては[[1939年]](昭和14年)の[[宗教団体法]]が最初であった。国家神道体制が確立する過程で神社は宗教ではないということで公法上の営造物法人として扱われたが、仏教、教派神道、キリスト教の宗教団体は民法の[[公益法人]]を適用されないままであった。宗教に関する法律の必要性は政界においても認識されており、[[1899年]](明治32年)には第一次宗教法案が貴族院に提案されたが、否決された。[[1927年]](昭和2年)、[[1929年]](昭和4年)にも宗教法案が議会で提案されるが、審理未了に終わった。宗教団体法の制定によって、一般の宗教団体は初めて法人となり、キリスト教も初めて法的地位を得たが、監督・統制色が強い法律であった。
1932年、[[血盟団事件]]が発生した。
1941年3月24日、大日本仏教会(財団法人)が結成され、10月6日には東京で、仏教徒銃後奉公大会がひらかれた。
156 ⟶ 171行目:
=== 昭和時代(戦後)・平成時代・令和時代 ===
{{節スタブ}}
[[第二次世界大戦]]後、[[1945年]](昭和20年)[[12月28日]]に[[宗教法人令]]が制定・施行され、[[宗教団体]]への規制が撤廃された。1946年2月6日、仏教連合会が結成された<ref>朝日年鑑</ref>。[[1951年]]([[昭和]]26年)に宗教法人令が撤廃され、認証制を導入した[[宗教法人法]]が制定された。[[高度経済成長]]と時を同じくして、[[日蓮正宗]]系[[新宗教]]の[[創価学会]]や[[法華]]系新宗教の[[立正佼成会]]などが大きく勢力を伸ばした。[[創価学会]]は宗教政党[[公明党]]を組織し、政界に影響力を持っている。[[1970年代]]には
[[1980年代]]
== 日本仏教史観の変遷 ==
173 ⟶ 188行目:
=== 出典 ===
<!-- 出典:追加した本文中の情報の後に脚注を導入し、実際に参考にした出典(文献参照ページ)を列挙してください。 -->
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite
== 関連項目 ==
185 ⟶ 200行目:
** [[神仏分離]]
* [[仏教書総目録]]
* [[仏教伝道協会]]
* [[初期仏教]]
* [[森田療法]] - 日本の仏教思想との親和性が指摘されている[[心理療法]]
* [[神道]]
* [[天理教]]
* [[日本仏教の戒律史]] == 外部リンク ==
* [http://www.jbf.ne.jp 公益法人全日本仏教会]
* [https://www.sotozen-net.or.jp/shakaitekiyakuwari 【連続インタビュー】仏教の社会的役割を見つめ直す(曹洞宗公式サイト)]
* [https://web.archive.org/web/20090429085322/http://www.ohaka-im.com/ 日本人の仏教]
{{アジアの題材|仏教||地域別仏教}}
{{buddhism2}}
{{日本関連の項目}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ふつきよう}}
[[Category:日本の仏教|*]]
|