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== 概要と特徴 ==
=== 信者数などの統計 ===
[[日本]]には、約7万5000の[[寺院]]、30万体以上の[[仏像]]が存在する。日本最古の官寺である[[四天王寺]]、世界最古の[[ (建築)|木造]]寺院である[[法隆寺]]があり、最古の仏典古文書も日本に存在する。
 
日本は2013年の統計では約8470万人が仏教徒であるとされる<ref name="yearbook">{{cite book|last=総務省|title=第六十三回 日本統計年鑑 平成26年|year=2013|publisher=日本統計協会|___location=東京|url=https://www.stat.go.jp/data/nenkan/index2.html}}</ref> 。一方、現代の[[日本人]]は特定の信仰宗教、宗教観を持っておらず、自らを[[仏教徒]]と強く意識する機会が少ない人も多いが、[[ブリタニカ]]国際年鑑の2013年度版では99%の日本人が広義の仏教徒とされている<ref>『図解仏教』成美堂出版、32頁。</ref>{{Efn|99%の日本人は神道信者との重複で1%は[[長崎県]]などで多いキリスト教徒とされている。}}。
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浄土系(鎌倉仏教[[浄土教|浄土系]])
* '''[[浄土宗]]''' 開祖は[[法然]](源空・円光大師・黒谷上人・吉水上人とも)、浄土宗(鎮西流)総本山は[[知恩院]]。
: 法然の弟子[[証空]]の門流は[[浄土宗西山派|西山三派]]といわれ、本山は[[光明寺 (長岡京市)|光明寺]]([[西山浄土宗]])、[[禅林寺 (京都市)|禅林寺]]([[浄土宗西山禅林寺派]])、[[誓願寺]]([[浄土宗西山深草派]])。
* '''[[浄土真宗]]''' 真宗・一向宗とも 開祖は[[親鸞]]、本山は本願寺(浄土真宗本願寺派・[[西本願寺]])・真宗本廟(真宗大谷派・[[東本願寺]])ほか。
* '''[[融通念仏宗]]''' 大念仏宗とも(平安仏教系との考えも)開祖は[[良忍]](聖応大師)、本山は[[大念仏寺]]
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[[天武天皇]]は[[大官大寺]](後の大安寺)を建て、[[持統天皇]]は[[薬師寺]]を建てた。このような動きは[[聖武天皇]]の時に頂点に達した。
 
百済からは仏教と寺院建築のために[[瓦]]などの建築技術が伝わった<ref name="himeji">{{Cite web|和書|url=http://himeji.jibasan.jp/kawara/rekishi.html|title=瓦の歴史|publisher=姫路市電子じばさん館(姫路市・公益財団法人 姫路・西はりま地場産業センター)|accessdate=2020-08-03}}</ref>。最初に採用されたのは[[飛鳥寺]]であり、7世紀ごろまでは仏教寺院のみに用いられていた<ref name="himeji" />。
 
日本への公的な仏教伝来は、[[欽明天皇|欽明朝]]のこととして間違いはないが、公伝以前の民間ルートでの仏教伝来が想定できる。すなわち「私伝」説である<ref name="宇佐美正利136-137"/>。[[欽明天皇|欽明朝]]以前の仏教伝来の根拠とされる[[史料]]に『[[扶桑略記]]』記事がある<ref name="宇佐美正利136-137"/>。『[[扶桑略記]]』記事は、もと『[[坂田寺縁起]]』に記され、延暦寺僧『[[禅岑記]]』さらに『[[大日本国法華験記]]』に引用されたものに、『[[扶桑略記]]』が依拠したが、継体天皇十六年壬寅([[522年]])春二月に渡来した[[司馬達等]]が、[[大和国]][[高市郡]][[坂田原]]に草堂を結び、本尊を安置して、帰依礼拝したところ、世人がこれを「大唐の神」なりと呼んだといい、百済の王朝から日本の王朝へという公伝以前に、中国系渡来人によって仏教が既に伝えられていた<ref name="宇佐美正利136-137"/>。また、[[欽明天皇|欽明朝]]以前の仏教伝来について、『[[日本国現報善悪霊異記]]』に、[[敏達天皇|敏達天皇代]]に[[大部屋栖野古|大部屋栖野古連]]が[[和泉国]]の海中から「霹靂に当りし楠」を発見して、これで仏像を制作したいと皇后に上奏したところ、皇后は「願ふ所に依るべし」と許可し、そこで大部屋栖野古連は[[蘇我馬子]]にこのことを告げたところ、蘇我馬子は池辺直氷田を請えて「仏菩薩の三軀の像」を造らせ、像を豊浦寺に置き、諸人が仰ぎ敬ったところ、廃仏派の[[物部守屋]]が「おほよそ仏の像を国の内に置くべからず。なほ遠く棄て退けよ」「今国家に災起るは、隣の国の客神の像を己が国の内に置くに因りてなり。斯の客神の像を出して速忽に棄て、豊国に流せ」と主張した<ref name="宇佐美正利136-137"/>。この「豊国」を[[九州]]の[[豊国]]とすれば、[[大和]]への公伝以前に豊国に仏教が伝わっていて、大和の人々が、[[九州]]を特殊な地域として認識していたとみることもできる。また「豊国」について、[[用明天皇]]が病気になった時に「朕、三宝に帰らむと思ふ。卿達議れ」と述べたところ、[[物部守屋]]と[[中臣勝海]]が「何ぞ国神を背きて、他神を敬びむ。由来、斯の若き事を識らず」と主張し、対して蘇我馬子が「詔に随ひて助け奉るべし。詎か異なる計を生さむ」と反論し、時に[[穴穂部皇子]]が「[[豊国 (僧)|豊国法師]]」を引て、内裏に入ったといい、この「豊国法師」を固有名詞でなく、「[[豊国]]」の[[法師]]と考えるならば、「豊国」は仏教と関係深い国であったことも否定できない<ref name="宇佐美正利136-137"/>。また、[[九州]]の[[修験道]]の行場としてで有名な[[英彦山|彦山]]の開創について[[中国]][[北魏]][[僧]]・[[善正]]が、仏教を日本に弘めるため、渡海して九州北岸に到着したところ、樹木でおおわれた日子山(彦山)の秀麗な姿に心ひかれ、石室を造って住むことになり、これが彦山の[[霊泉寺 (福岡県添田町)|霊泉寺]]のはじまりとされ、その年は[[531年]]である<ref name="宇佐美正利136-137"/>。さらに、[[4世紀]]ないし[[5世紀]]と推定される全国各地の[[古墳]]から出土する漢式鏡に、[[道教]]の[[仙人|神仙]]と異なる仏像が表現されている鏡が含まれていることなどからも公伝以前の仏教伝来を想定出来る<ref name="宇佐美正利136-137">{{Cite journal|和書|author=[[宇佐美正利]]|title=仏教伝来の実情とその影響|journal=[[歴史読本]]|issn=|publisher=[[新人物往来社]]|date=2006-02|volume=51|issue=3|page=136-137}}</ref>。
 
『[[水鏡]]』に[[継体天皇]]治世中に[[唐土|唐]]([[唐土|もろこし]])より仏教が伝来した以下の記事がある。
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[[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|240px|[[エンゲルベルト・ケンペル]]の[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])のスケッチ<ref>ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95</ref>。[[豊臣秀吉]]の発願で造立された。ただし描かれている大仏は江戸時代に再建されたもので、秀吉が造立した頃の大仏ではない。]]
{{main|戦国仏教}}
[[応仁の乱]]後になると、治安が悪化したため、宗教勢力も僧兵を強化し武力を強化した。[[法華宗]]による[[山科本願寺]]焼き討ち、[[天台宗]]による[[天文法華の乱]]など、過激派宗教団体による[[宗教戦争]]も起こった。中でも[[加賀一向一揆|加賀国一揆]]等の[[一向一揆]]は守護大名の[[冨樫氏]]を滅ぼし、約80年間に渡って加賀一国を支配した(主に徴税権と裁判権)。[[石山本願寺]]などは、さながら大名家のような強固な組織となり、彼らの勢力は[[守護大名]]および[[戦国大名]]が国を統治する上で何らかの対応策をとることが必須となるほど大きく、大名の多くは妥協の道をとった。
 
しかし尾張の戦国大名・[[織田信長]]は、「天下布武」という方針の下、実力対抗してくる宗教勢力を徹底的に討伐した。[[比叡山焼き討ち (1571年)|延暦寺焼き討ち]]、[[長島一向一揆]]、[[石山合戦]]などが有名である。また、信長は、[[日蓮宗]]の僧と[[浄土宗]]の僧との宗論を主催した([[安土宗論]])。結果、[[浄土宗]]が勝利したため、信長は法華宗に他宗派を非難しないよう約束させた。これも宗教勢力を抑えるための策だったとされる。
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=== 江戸時代 ===
豊臣秀吉の死後に権勢を掌握した[[徳川家康]]は、宗派・寺院内外間の内紛や争論に関する多数の訴訟に対処することになる。これに対して幕府は[[寺院諸法度]]を制定し、[[寺社奉行]]を置いて、仏教を取り締まっ統制した。人々を必ずいずれかの寺院に登録させるようにし([[寺請制度]])、布教活動を実質的に封じた。[[鎌倉仏教]]にとっては、[[檀家制度]]によって全国に寺院が作られたことで、全面展開がなされた。浄土真宗の[[本願寺の歴史|本願寺]]は、東西に分裂させられ、勢力を弱体化させられたが、現代に至るまで最大の宗派となっている。全国の[[修験道]]は、[[聖護院]]を本山とする[[本山派]]と、[[醍醐寺]]を本山とする[[当山派]]のいずれかに属するように規制された。また、[[朱子学]]や[[国学]]の立場からの排仏論も起こった。
 
[[1665年]]([[寛文]]5年)に江戸幕府は[[寛文印知]]と[[諸宗寺院法度]]の制定を行い、仏教寺院に寺領を安堵する一方で更なる統制([[檀家制度]])を行った。幕府は学問を奨励したため、各宗派で、檀林、学寮などと呼ばれる学校が整備され、教学研究が進んだ一方で、新義・異議は禁止された。[[江戸幕府]]が日蓮の教義を信じない事を理由に従う事を拒絶した日蓮宗の一派の[[不受不施派]]は、[[禁教令]]の[[キリスト教]]と同様に厳しい弾圧を受けた<ref>高埜利彦『近世の朝廷と宗教』吉川弘文館、2014年、P394-397</ref>。
 
これらの幕府の統制により江戸時代の仏教は堕落したという「近世仏教堕落論」は戦前における宗教史の通説であったが、戦後になると多くの批判が行われた。一方で近世仏教思想の再検討は、未だ不十分な段階である<ref>オリオン クラウタル「[https://tohoku.repo.nii.ac.jp/record/2483/files/1347-2992-2008-7-30.pdf 戦後日本における近世仏教堕落論の批判と継承]」『年報日本思想史7号』日本思想史研究会、2008年</ref>。上からの押しつけと解釈されやすい寺請制度だが、社会の安定に伴い菩提寺を求める民衆の意思も無視できない。仏像も規格化されたものが大量生産され各地の寺に収められたが、美術的な観点はともかく信仰の対象が身近に存在する人心安定の意義は大きい。
 
[[1654年]]([[承応]]3年)に来日した明の[[隠元隆琦]]は[[黄檗宗]]を布教している。
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* [[森田療法]] - 日本の仏教思想との親和性が指摘されている[[心理療法]]
* [[神道]]
* [[天理教]]
* [[日本仏教の戒律史]]
 
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[[Category:日本の仏教|*]]