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羊歯石 (会話 | 投稿記録)
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位階
 
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| 就任日 = [[1957年]][[7月10日]]
| 退任日 = [[1973年]][[7月9日]]
}}'''長野 正義'''(ながの まさよし、[[1900年]]〈[[明治]]33年〉[[11月3日]]<ref name="全国">『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、162頁。</ref><ref name=":1">{{国立国会図書館デジタルコレクション|3044973/1765|産経日本紳士年鑑 第1版 1765コマ|format=EXTERNAL}}</ref> - [[2000年]]〈[[平成]]12年〉[[11月10日]]{{R|全国}})は、[[日本]]の[[政治家]]。[[1957年]]から[[1973年]]まで4期16年の間、[[横須賀市]]長を務めた。[[位階]]は[[正五位]]
 
==経歴==
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=== 1957年横須賀市長選挙 ===
[[1957年]](昭和32年)に横須賀市長選に[[日本社会党|社会党]]の推薦と一部の[[自由民主党 (日本)|自民党]]員([[{{Efn|小泉純也]]衆議院議員に近い保守系無所属の地方議員<ref>変革の人·小泉三代記(12) 神奈川新聞 2001年5月27日における斉藤正元社会党神奈川県議の証言</ref>)}}の支持を受け立候補、当時の現職市長で自民党公認の[[梅津芳三]]を破って当選した<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|2941577/33|神奈川年鑑 昭和34年度版 33コマ|format=EXTERNAL}}</ref><ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|2941577/34|神奈川年鑑 昭和34年度版 34コマ|format=EXTERNAL}}</ref>。
 
{{選挙結果 (日本の首長)|当日有権者数=-|最終投票率=-|前回比=-|当選者名=長野正義|当選者年齢=56|当選者所属=無所属|当選者新旧別=新|当選者得票数=44,409|当選者得票率=50.7|当選者推薦・支持=社会推薦|落選者名=梅津芳三|落選者年齢=65|落選者所属=自由民主党|落選者新旧別=現|落選者得票数=33,185|落選者得票率=37.9|落選者推薦・支持=-|2落選者名=大久保英俊|2落選者年齢=-|2落選者所属=無所属|2落選者新旧別=-|2落選者得票数=9,738|2落選者得票率=11.1|2落選者推薦・支持=-|3落選者名=肥後亨|3落選者年齢=-|3落選者所属=諸派|3落選者新旧別=-|3落選者得票数=227|3落選者得票率=0.3|3落選者推薦・支持=-}}
同年7月10日に就任した<ref name=":0">{{国立国会図書館デジタルコレクション|11897478/536|日本の歴代市長 : 市制施行百年の歩み 第1巻 536コマ|format=EXTERNAL}}</ref>。
 
教育や文化に力を入れる市政を掲げるも、米軍基地を抱える横須賀市における[[革新]]系市長として米軍占領地返還交渉などさまざまな苦労に終始した。それを象徴する出来事が、米軍占領水域返還を条件とした空母[[ミッドウェイ (空母)|ミッドウェイ]]の母港化を認めるという苦渋の選択であった。[[1972年]][[11月22日]]外務省や関係官庁に「現状から見てやむを得ない」と了解する旨、文書あった。通知し、その中で「空母ミッドウェー乗組員·家族が横須賀に移住することで横須賀市民が風紀や保安、物価などに不安を抱かないようにして欲しい。また原子力推進空エンタープライズの寄は今後絶対にないよう」要望した。また、横須賀基地艦船修理部(SRF)の一部ドックを自衛隊が使用することは、「中間的措置としてやむを得ない」とし「具体的な仕様形態について早急に調整するように」と望み支持追浜の制限水域解除受け要望した。また、同日17時からの記者会見で「自分としは初心を貫き得たと思う。この機会をのがせば追浜地区を埋立て、そこを工業団地に転換するとう市の計画に重大な危機を迎えるところだっ」と語った。<ref>毎日新聞[[1972年]][[11月23日]]朝刊1面</ref>。なお、当時の政府は「空母エンタープライズの寄港は、おおむね3年で米兵家族の居住計画によるもの(1973年12月19日 参議院決算委員。[[大河原良雄]]外務省アメリカ局長答弁)」「新たな施設や区域猛反発提供要するものではない(1972年11月15日 付の長野市長に対する外務省文書)」との対応をしていた<ref>「しんぶん赤旗」オンライン2018年10月23日</ref>[[1973年]](昭和48年)7月9日に市長を退任した<ref name=":0" />。後任の市長選では、助役であった[[横山和夫]]と木村敬がそれぞれ保守系([[民社党]]推薦、[[自由民主党]]支持)、革新系([[日本社会党]]·[[日本共産党]]推薦、[[公明党]]支持)候補<ref>[[1973年]][[7月2日]] 読売新聞夕刊1面</ref>として、共に「長野後継」を掲げ、保守系の[[横山和夫]](長野市政の助役)が当選した<ref>「昭和48年7月1日執行 横須賀市長選挙及び横須賀市議会議員補欠選挙結果調」p57 横須賀市選挙管理委員会</ref>
 
2000年11月死去。死没日付をもって正七位から正五位に進階した<ref>平成12年 2000年12月21日付 官報 本紙 第3021号 9頁</ref>。
 
== エピソード ==
旧制中学([[神奈川県立希望ケ丘高等学校|神奈川県立横浜第一中学校]])教員時代に足に障のある生徒が受験を希望してきた。周囲は前例がないと反対したが、長野が自分が担任となり責任を持つと発言したことで受験が可能となったという。その生徒は、後に横浜市長・社会党委員長となる[[飛鳥田一雄]]であった。財界人[[中村房次郎]]の顧問弁護士だった飛鳥田の父 飛鳥田喜一はいたく感激し、長野に長男一雄の仲人(新婦は横浜一中で一雄の同級生だった[[寺田透]]の妹)を依頼した。喜一の社会的立場から政財界に広い交友がある中、一雄の仲人を頼まれた長野は非常に緊張したという。さらに後の横須賀市長転身の契機が、当時社会党衆議院議員であった飛鳥田一雄の薦めであり、彼も師の選挙を手伝ったという<ref>『生々流転 飛鳥田一雄回想録』p15・17</ref>。また、長野を事実上側面支援した[[小泉純也]]は、義父の[[小泉又次郎]]は戦前と共に[[立憲民政党]]所属していたことがあり、飛鳥田喜一も顧問弁護士をしていた[[中村房次郎]]の薦めで[[立憲民政党]]系の横浜市議に立候補し当選している。
 
横浜市中区の米軍本牧住宅返還について、横浜市長になった[[飛鳥田一雄]]が、住宅の移転先が決まらないことにより返還が延びに延びたことで、内々で長野市長に移させて欲しいと頼んだが了承しなかった。後日、横須賀基地内に埋立地を造って移すことになった<ref>飛鳥田一雄 「生々流転 飛鳥田一雄回顧録」p71</ref>。
 
== 脚注 ==
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[[Category:日本の中等教育の教員]]
[[Category:横須賀市長]]
[[Category:正五位受位者]]
[[Category:広島高等師範学校出身の人物]]
[[Category:横浜市出身の人物]]