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羊歯石 (会話 | 投稿記録)
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位階
 
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| 就任日 = [[1957年]][[7月10日]]
| 退任日 = [[1973年]][[7月9日]]
}}'''長野 正義'''(ながの まさよし、[[1900年]]〈[[明治]]33年〉[[11月3日]]<ref name="全国">『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、162頁。</ref><ref name=":1">{{国立国会図書館デジタルコレクション|3044973/1765|産経日本紳士年鑑 第1版 1765コマ|format=EXTERNAL}}</ref> - [[2000年]]〈[[平成]]12年〉[[11月10日]]{{R|全国}})は、[[日本]]の[[政治家]]。[[1957年]]から[[1973年]]まで4期16年の間、[[横須賀市]]長を務めた。[[位階]]は[[正五位]]
 
==経歴==
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教育や文化に力を入れる市政を掲げるも、米軍基地を抱える横須賀市における[[革新]]系市長として米軍占領地返還交渉などさまざまな苦労に終始した。それを象徴する出来事が、米軍占領水域返還を条件とした空母[[ミッドウェイ (空母)|ミッドウェイ]]の母港化を認めるという苦渋の選択であった。[[1972年]][[11月22日]]外務省や関係官庁に「現状から見てやむを得ない」と了解する旨、文書で通知し、その中で「空母ミッドウェーの乗組員·家族が横須賀に移住することで横須賀市民が風紀や保安、物価などに不安を抱かないようにして欲しい。また原子力推進空母エンタープライズの寄港は今後絶対にないよう」要望した。また、横須賀基地艦船修理部(SRF)の一部ドックを自衛隊が使用することは、「中間的措置としてやむを得ない」とし「具体的な仕様形態について早急に調整するように」と望み、追浜の制限水域解除を要望した。また、同日17時からの記者会見で「自分としては初心を貫き得たと思う。この機会をのがせば追浜地区を埋立て、そこを工業団地に転換するという市の計画に重大な危機を迎えるところだった」と語った。<ref>毎日新聞[[1972年]][[11月23日]]朝刊1面</ref>。なお、当時の政府は「空母エンタープライズの寄港は、おおむね3年で米兵家族の居住計画によるもの(1973年12月19日 参議院決算委員会。[[大河原良雄]]外務省アメリカ局長答弁)」「新たな施設や区域の提供を要するものではない(1972年11月15日 付けの長野市長に対する外務省文書)」との対応をしていた<ref>「しんぶん赤旗」オンライン2018年10月23日</ref>[[1973年]](昭和48年)7月9日に市長を退任した<ref name=":0" />。後任の市長選では、助役であった[[横山和夫]]と木村敬がそれぞれ保守系([[民社党]]推薦、[[自由民主党]]支持)、革新系([[日本社会党]]·[[日本共産党]]推薦、[[公明党]]支持)候補<ref>[[1973年]][[7月2日]] 読売新聞夕刊1面</ref>として、共に「長野後継」を掲げ、横山和夫が当選した<ref>「昭和48年7月1日執行 横須賀市長選挙及び横須賀市議会議員補欠選挙結果調」p57 横須賀市選挙管理委員会</ref>。
 
2000年11月死去。死没日付をもって正七位から正五位に進階した<ref>平成12年 2000年12月21日付 官報 本紙 第3021号 9頁</ref>。
 
== エピソード ==
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[[Category:日本の中等教育の教員]]
[[Category:横須賀市長]]
[[Category:正五位受位者]]
[[Category:広島高等師範学校出身の人物]]
[[Category:横浜市出身の人物]]