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| 作品名 = 日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声
| 原題 =
[[Image| 画像 =File:Listen to the Voices of the Sea poster.jpg|thumb|250px|映画のポスター。]]
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像解説 =
| 監督 = [[関川秀雄]]
| 製作総指揮 =
| 製作 = [[マキノ満男]]
| 製作担当 = [[岡田茂 (東映)|岡田茂]]
| 脚本 = [[舟橋和郎]]
| 出演者 = [[伊豆肇]]、[[原保美]]、[[杉村春子]]、[[英百合子]]、[[沼田曜一]]、[[花沢徳衛]]
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| 撮影 = 大塚新吉
| 編集 =
|製作会社=[[東横映画]]{{R|特撮世界26}}
| 配給 = {{Flagicon|JPN}} [[東京映画配給]]
| 公開 = {{Flagicon|JPN}} [[1950年]][[6月15日]]{{R|特撮世界26}}
| 上映時間 = 109分
| 製作国 = {{JPN}}
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| 製作費 =
| 興行収入 =
| 配給収入 = 2,000万円(映画入場料70円)<ref>{{Cite journal|和書 |title=東映 主な戦争映画 |journal=AVジャーナル |issue=2004年9月号 |publisher=文化通信社 |page=25 }}</ref>
| 前作 =
| 次作 =
}}
『'''日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声'''』(にほんせんつがくせいのしゅき きけ、わだつみのこえ)は、[[東横映画]]が[[1950年]](昭和25年)に製作し、[[東京映画配給]]が配給した[[日本映画]]である。
 
== 概要 ==
[[1944年]]3月に開始され6月末まで続いた、[[イギリス領インド帝国]]北東部の[[インパール]]攻略を目指した「[[インパール作戦]]」の部隊の学徒兵の敗走と回想シーンで構成される<ref name="{{R|wadas">[http://homepage1.nifty.com/okaysview/cinema1.html 旧 作関川秀雄 監督 『きけ、わだつみの声』 1950年作品]</ref>}}
クレジットは「製作担当」であるが、後の[[東映]]社長・[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]が、入社2年目24歳の時に手掛けた実質的な初プロデュース作品<ref>[http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/200/81379.html 東映の岡田茂名誉会長 死去 | NHK「かぶん」ブログ:NHK]</ref><ref name="インタビュー">[http://dodo-geneki.com/messagejp/archive/pdf/07.pdf 岡田茂(映画界の巨人)インタビュー 映画界へ]、[http://business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060203005275_print.shtml NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】]、[https://www.actibook.net/media/detail?contents_id=103545 東映キネマ旬報 2011年夏号 Vol.17 | 電子ブックポータルサイト ]、[http://ja-jp.facebook.com/note.php?note_id=328099280538067 岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第1回 / 全3回)]</ref><ref name="悔いなき">[[#悔いなき|悔いなき]]、76-83頁</ref><ref name="川北">[[#川北|川北]]、60-61頁</ref>。日本初の「反戦映画」ともいわれる<ref>[[#山根米原|山根米原]]、120頁</ref>。岡田は、戦死した学友たちの話を後世に残さなければ、学友たちが浮かばれない、と[[1947年]]に[[東京大学]]協同組合出版部の編集によって出版された東京大学戦没学徒兵の手記集『はるかなる山河に』刊行後から映画化を決意<ref name="pressnet">[http://www.pressnet.co.jp/osaka/kiji/110514_08.shtml 日本映画界のドン 東映名誉会長・岡田茂さんが死去 - プレスネット]</ref><ref name="風雲">[[#風雲|風雲]]、29-32頁</ref><ref name="クロニクル">[[#クロニクル|クロニクル]]、18-19、21頁</ref>。しかし、[[東京大学]][[全日本学生自治会総連合]]の急先鋒で[[日本戦没学生記念会|わだつみ会]]の会長だった[[氏家齊一郎]]や、副会長だった[[渡邉恒雄]]が「[[天皇制]]批判がない」とクレームを付けたり<ref name="悔いなき"/>、会社の看板スターで役員でもあった[[片岡千恵蔵]]、[[月形龍之介]]とも「会社が潰れかかっているのに、この企画では客は来ない」と猛反対を受けた<ref name="インタビュー"/><ref name="悔いなき"/><ref name="キネ旬201107">『[[キネマ旬報]]』2011年7月上旬号、56-57頁</ref>。当時は大物役者がノーと言えば映画は作れない時代であったが、絶対にこの映画は当たると大見得えを切り、[[マキノ光雄]]の助け舟もあって[[1950年]]、映画を完成させた<ref name="pressnet"/><ref name="キネ旬201107"/>。手記集の続編として[[1949年]]に出版された日本戦歿学生手記編集委員会編『[[きけわだつみのこえ]] 日本戦歿学生の手記』(東京大学協同組合出版部)のタイトルに因んで、映画の題名を『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』に変更し公開した<ref name="インタビュー"/>。本作は珠玉の[[反戦]]映画と評価を得て大ヒット<ref name="pressnet"/>、瀬死の状態にあった東横映画を救ったが、当時まだ配給網を持っていなかった東横映画には、あまりお金が入ってこなかったといわれる<ref name="悔いなき"/><ref name="風雲"/>。しかしこの映画こそ翌1951年創立される東映の原点となり、東映の魂ともなる記念碑的作品となったと評される<ref>[[#論叢36]]、58頁</ref>。
 
== 内容 ==
[[1944年]]3月に開始され6月末まで続いた、インド北東部のインパール攻略を目指した「[[インパール作戦]]」の部隊の学徒兵の敗走と回想シーンで構成される<ref name="wadas">[http://homepage1.nifty.com/okaysview/cinema1.html 旧 作関川秀雄 監督 『きけ、わだつみの声』 1950年作品]</ref>。
 
登場する学徒兵は、東大ばかりではなく、[[第三高等学校 (旧制)|三高]]、[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]、[[早稲田大学高等学院・中学部|早大高等学院]]、[[東京高等師範学校]]など多様なものとなっている<ref name="{{R|wadas"/>}}
<gallery widths="210px" heights="140px">
 
File:Listen to the Voices of the Sea 2.png|
== 逸話 ==
File:Gaho-Gendaishi-Volume8-2.png|
[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]は、東大の後輩でもある[[氏家齊一郎]]ら左翼学生の説得には、彼ら反対派の中から二人を撮影現場に就けるという妥協案でようやく納得させた<ref name="キネ旬19844">『[[キネマ旬報]]』1984年4月上旬号、p143-145頁</ref>。彼らが望むテーマ通りに撮っているかをチェックする監視役という訳で、その1人が[[富本壮吉]]であった。富本はこれが縁で映画界入り、後に『[[家政婦は見た!]]』などのテレビドラマ演出で主に活躍した。なお監視役といっても撮影に入ってしまえばこちらのもので、現場では文句はいわせなかった。むしろ現場の熱気に魅入られ学生たちも手伝うようになったという<ref name="風雲"/>。この映画の[[スタッフ]]には[[脚本]]に[[八木保太郎]]、[[舟橋和郎]]ら、[[映画監督|監督]]に[[関川秀雄]]、[[映画音楽|音楽]]・[[伊福部昭]]と、[[レッドパージ]]で他の映画会社を追われた人たちを起用<ref name="pressnet"/><ref name="風雲"/>。また[[俳優|キャスティング]]は[[劇団俳優座|俳優座]]の[[佐藤正之]]に「スターはいらないんだ。芝居がうまい役者使っていい映画を作って、会社の幹部を見返してやりたいんだ」と訴え、感銘を受けた佐藤が[[新劇]]の若手俳優を説得にまわり低予算で製作に至ったもの。当時は無名だった[[沼田曜一]]・[[信欣三]]・[[佐野浅夫]]・[[大森義夫]]ら[[俳優座]]、[[民芸]]、[[文学座]]の俳優を起用、やはり感銘を受けた[[杉村春子]]も出演した<ref name="pressnet"/><ref name="風雲"/>。スターシステムが各社当然だった時代では異色のキャスティングだった<ref name="キネ旬19844"/><ref>黒井和男『映像の仕掛け人たち』キネマ旬報社、1986年、8-9頁</ref>。こうした新劇の役者も当時[[レッドパージ|パージ]]にあって金に困っていて、[[山城新伍]]に岡田は「いま、金に困ってるから、20~30万出しゃアイツらホイホイ来よるぞ」と言っていたという<ref>[[#男気|男気]]、21頁</ref>。この他、本作の[[ロケーション・ハンティング|ロケハン]]で、[[熊井啓]]を映画界入りさせる切っ掛けを作っている<ref>[[西村雄一郎]]『ぶれない男 熊井啓』[[新潮社]]、2010年、31-32頁</ref>。『きけ、わだつみの声』の試写の際東急会長の[[五島慶太]]は、目に掛けていた次男が戦死した事とオーバーラップさせて号泣。この件で岡田は五島に認められ、出世の糸口を掴んだ。なお、岡田はこの時の金一封を撮影所仲間と共に一晩で使い果たしてしまった<ref name="インタビュー"/><ref>[[#波瀾|波瀾]]、53-54頁</ref>。
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== キャスト ==
[[Image:Listen to the Voices of the Sea poster.jpg|thumb|250px|映画のポスター。]]
*青地軍曹:[[伊豆肇]]
*岸野中尉:[[原保美]]
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*千葉上等兵:[[恩庄正一]]
*矢野敦子:[[沢村契恵子]]
<gallery widths="210px" heights="140px">
File:Hajime Izu (1950).jpg|伊豆肇
File:Yasumi Hara (1950).jpg|原保美
File:Akitake Kono (1950).jpg|河野秋武
File:Kinzō Shin (1950).jpg|信欣三
File:Yuriko Hanabusa (1950).jpg|英百合子
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==脚注 製作 ==
=== 企画 ===
クレジットは「製作担当」であるが、後の[[東映]]社長・[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]が、入社2年目24歳の時に手掛けた実質的な初プロデュース作品{{R|岡田|悔いなき|川北|nikkei941127|時報9503|avj199501|東映キネ旬70|春日|撮影監督}}。冒頭から泥沼で行き倒れになっている兵たちの姿を映し出し、[[背景音楽|バック]]に「[[君が代]]」を流す{{R|春日}}。[[戦後#日本における「戦後」|戦後]]初の[[戦争映画]]で<ref>[https://www.hmv.co.jp/fl/7/419/1/ 創立60周年記念!東映オールスターキャンペーン]</ref>、戦場の[[最前線]]で死にゆく兵たちの姿を映像として映し出した初めての日本映画といわれ{{R|春日}}、日本初の「反戦映画」ともいわれる{{R|大島渚著作集|mainichi19911225|mainichi19930707|jsc199508}}<ref>[[#山根米原|山根米原]]、120頁</ref>。本作の大ヒット以降、「反戦映画」が続々と製作された{{R|大島渚著作集}}。岡田は、戦死した学友たちの話を後世に残さなければ、学友たちが浮かばれないと{{R|春日|mainichi19911225}}、[[1947年]]に[[東京大学]]協同組合出版部の編集によって出版された東京大学戦没学徒兵の手記集『はるかなる山河に』刊行後から映画化を決意{{R|岡田|pressnet|風雲|クロニクル}}。遺稿集の編集にあたった[[東京大学新聞社|東京大学新聞編集部]]の部室に単身乗り込み{{R|岡田}}、「先輩に任せろ」と10万円で映画化権を買い取った{{R|岡田|mainichi19911225|風雲}}。
 
=== トラブル ===
[[脚本|シナリオ]]は、最初は[[八木保太郎]]に頼んだが{{R|脚本家クロニクル}}、八木は[[軍隊]]を知らないため{{R|脚本家クロニクル}}、[[舟橋聖一]]の弟で、戦争経験のある{{R|脚本家クロニクル}}当時は駆け出しの[[脚本家|ライター]]だった[[舟橋和郎]]にまわり{{R|脚本家クロニクル}}、シナリオは完成した{{R|mainichi19911225}}。舟橋も自信作といえる出来で、京都で心配する岡田には「ヨイホンデキタ、アンシンセヨ」と[[電報]]を打った{{R|脚本家クロニクル}}。しかし[[東京大学]][[全日本学生自治会総連合]]の急先鋒で[[日本戦没学生記念会|わだつみ会]]の会長だった[[氏家齊一郎]]や、副会長だった[[渡邉恒雄]]など、編集に関わった幹部が{{R|mainichi19911225}}、「[[天皇制]]批判がない」とクレームを付けてきた{{R|岡田|悔いなき|mainichi19911225}}。岡田が企画して以降、戦没学生の手記についての世の中の注目がはるかに大きくなってしまい{{R|風雲}}、全学連幹部は左翼教条主義的にシナリオの細部を攻撃した{{R|mainichi19911225|風雲}}。岡田は、東大の後輩・氏家ら左翼学生の説得には、彼ら反対派の中から二人を撮影現場に就けるという妥協案でようやく納得させた{{R|キネ旬19844}}。彼らが望むテーマ通りに撮っているかをチェックする監視役という訳で、その1人が[[富本壮吉]]であった。富本はこれが縁で映画界入り、後に『[[家政婦は見た!]]』などの[[テレビドラマ]]演出で主に活躍した{{R|キネ旬19844}}。なお監視役といっても、撮影に入ってしまえばこちらのもので、現場では文句は言わせなかった。むしろ現場の熱気に魅入られ、学生たちも手伝うようになったという{{R|風雲}}。
 
全学連との話し合いは妥協に妥協を重ねて乗り切ったが、次は東横映画内部から批判が上がった{{R|mainichi19911225|風雲}}。当時の東横映画は[[片岡千恵蔵|千恵蔵]]、[[市川右太衛門|右太衛門]]の[[時代劇]]全盛で{{R|mainichi19930707}}、[[黒川渉三]]社長からは「戦争の悲惨さを思い起こさせるような映画が当たるわけない」と批判され{{R|mainichi19911225}}、会社の看板スターで役員でもあった[[片岡千恵蔵]]、[[月形龍之介]]とも「会社が潰れかかっているのに、この企画では客は来ない」「お前は[[共産主義|アカ]]か」などと猛反対を受けた{{R|岡田|悔いなき|mainichi19911225|風雲|キネ旬201107}}。当時は大物役者がノーと言えば映画は作れない時代であったが、絶対にこの映画は当たると大見得えを切り、[[マキノ光雄]]の助け舟もあって[[1950年]]、映画を完成させた{{R|岡田|mainichi19930707|風雲|キネ旬201107}}。
 
=== タイトル ===
手記集の続編として[[1949年]]に出版された日本戦歿学生手記編集委員会編『[[きけ わだつみのこえ|きけ わだつみのこえ 日本戦歿学生の手記]]』(東京大学協同組合出版部)のタイトルに因んで、岡田が映画の題名を『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』に変更した{{R|岡田|悔いなき}}。
 
=== キャスティング等 ===
[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]は、東大の後輩でもある[[氏家齊一郎]]ら左翼学生の説得には、彼ら反対派の中から二人を撮影現場に就けるという妥協案でようやく納得させた<ref name="キネ旬19844">『[[キネマ旬報]]』1984年4月上旬号、p143-145頁</ref>。彼らが望むテーマ通りに撮っているかをチェックする監視役という訳で、その1人[[富本壮吉]]であった。富本はこれが縁で映画界入り、後に『[[家政婦は見た!]]』などのテレビドラマ演出で主に活躍した。なお監視役といっても撮影に入ってしまえばこちらのもので、現場では文句はいわせなかった。むしろ現場の熱気に魅入られ学生たちも手伝うようになったという<ref name="風雲"/>。この映画の[[スタッフ]]には[[脚本]]に[[八木保太郎]]、[[舟橋和郎]]ら、[[映画監督|監督]]に[[関川秀雄]]、[[映画音楽|音楽]]・[[伊福部昭]]と、[[レッドパージ]]で他の映画会社を追われた人たちを起用<ref name="{{R|悔いなき|pressnet"/><ref name="|風雲"/>}}。また[[俳優|キャスティング]]は[[劇団俳優座|俳優座]]の[[佐藤正之]]に「スターはいらないんだ。芝居がうまい役者使っていい映画を作って、会社の幹部を見返してやりたいんだ」と訴え、感銘を受けた佐藤が[[新劇]]の若手俳優を説得にまわり低予算で製作に至ったもの{{R|悔いなき|風雲}}。当時は無名だった[[沼田曜一]]・[[信欣三]]・[[佐野浅夫]]・[[大森義夫]]ら[[俳優座]]、[[民芸]]、[[文学座]]の俳優を起用{{R|悔いなき|風雲}}。やはり感銘を受けた[[杉村春子]]も出演した<ref name="{{R|悔いなき|pressnet"/><ref name="|風雲"/>}}。スターシステムが各社一辺倒の然だった代でスターが出演しない映画は皆無に等しく{{R|悔いなき}}、異色のキャスティングだった<ref name="{{R|キネ旬19844"/>}}<ref>黒井和男『映像の仕掛け人たち』キネマ旬報社、1986年、8-9頁</ref>。こうした新劇の役者も当時[[レッドパージ|パージ]]にあって金に困っていて、[[山城新伍]]に岡田は「いま、金に困ってるから、20~30万出しゃアイツらホイホイ来よるぞ」と言っていたという<ref>[[#男気|男気]]、21頁</ref>。この他、本作の[[ロケーション・ハンティング|ロケハン]]で、[[熊井啓]]を映画界入りさせる切っ掛けを作っている<ref>[[西村雄一郎]]『ぶれない男 熊井啓』[[新潮社]]、2010年、31-32頁</ref>。『きけ、わだつみの声』の試写の際東急会長の[[五島慶太]]は、目に掛けていた次男が戦死した事とオーバーラップさせて号泣。この件で岡田は五島に認められ、出世の糸口を掴んだ。なお、岡田はこの時の金一封を撮影所仲間と共に一晩で使い果たしてしまった<ref name="インタビュー"/><ref>[[#波瀾|波瀾]]、53-54頁</ref>。
 
この他、本作の[[ロケーション・ハンティング|ロケハン]]で、[[熊井啓]]を映画界入りさせるきっかけを作っている<ref>[[西村雄一郎]]『ぶれない男 熊井啓』[[新潮社]]、2010年、31-32頁</ref>。
 
=== 撮影 ===
[[連合国軍占領下の日本|GHQ占領下の時代]]で、映画は国民に大きな影響力があると判断され、台本の段階から厳しい内容のチェックがなされ、当然[[沖縄]]を含めて海外ロケは許可されず{{R|jsc199508}}、予算の問題もあり{{R|悔いなき}}、南方戦線のシーンは[[宮崎県]][[青島 (宮崎県)|青島]]と[[奈良県]]の山中で撮影した{{R|悔いなき|撮影監督}}。費用を出来るだけ切り詰めるため、宿泊は寺を借り、[[宮崎交通]]を始め、宮崎・奈良の現地の人たちから大きな支援を受けた{{R|悔いなき}}。
 
== 内容逸話 ==
『きけ、わだつみの声』の[[試写]]の際、[[東京急行電鉄]]会長の[[五島慶太]]は、目に掛けていた次男が[[ブーゲンビル島]]で戦死した事とオーバーラップさせて号泣{{R|悔いなき}}。この件で岡田は五島に認められ、出世の糸口を掴んだ。なお、岡田はこの時の金一封を、撮影所仲間と共に一晩で使い果たしてしまった{{R|岡田}}<ref>[[#波瀾|波瀾]]、53-54頁</ref>。
 
== 作品の評価 ==
本作は珠玉の[[反戦]]映画と評価を得て、当時の金額で配収2000万円の東横映画史上最大のヒット{{R|nikkei941127|avj199501|mainichi19930707|jsc199508|風雲}}。瀬死の状態にあった東横映画を救ったが{{R|avj199501}}、当時まだ配給網を持っていなかった東横映画には、あまりお金が入ってこなかったといわれる{{R|岡田|悔いなき|風雲}}。しかしこの映画こそ、東映が翌1951年に発足される切っ掛け{{R|時報9503}}、原点となり{{R|avj199501}}、東映の魂ともなる記念碑的作品となったと評される{{R|avj199501}}<ref>[[#論叢36]]、58頁</ref>。[[松島利行]]は「もしもこの映画が製作されなかったら、今日の東映はなかっただろう。少なくとも東映の歴史は全く違ったものになっただろう」と述べている{{R|mainichi19911225}}。[[中島貞夫]]は「東横映画時代に岡田さんが実質的な初プロデュース作として現場を指揮して、それがそのまま会社組織になって翌年『東映』になった。僕はそう認識しています」と述べている{{R|東映キネ旬70}}。[[春日太一]]は「『きけ、わだつみの声』は『[[暁の脱走]]』『[[また逢う日まで (1950年の映画)|また逢う日まで]]』と同じく、[[戦後#日本における「戦後」|戦後]]の日本映画を語る上で重要な作品」と評価している{{R|春日}}。
 
[[戦前#日本史における「戦前」|戦前]]の日本社会では大学の学生はそれ自体[[エリート#日本|エリート]]で[[徴兵]]を猶予されていたが、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]との戦争が始まった後はその特権がなくなった{{R|大島渚著作集}}。本作は[[ジャングル (森林の型)|ジャングル]]と雨と泥濘の[[ビルマの戦い|ビルマ戦線]]を敗走する[[大日本帝国陸軍|日本軍]]の中で、大学からそのまま戦場に送られた[[学徒出陣|学徒兵]]たちが闇の中を姿なく飛来する敵の弾丸に倒れ、病と飢えで死んでゆく。その中で大声では語られぬ戦争への呪詛が囁かれ、果たすことのできなかった学業への悔恨が語られる{{R|大島渚著作集}}。それらの声はあまりにもかぼそく弱々しく、爆撃と銃声と怒号と絶叫の中でかき消される。善玉悪玉的な描き方に問題はあるものの、日本映画として戦後初めて戦争特に戦場の恐怖と悲惨が本格的に描かれたこと、はっきり反戦という立場に立ってなされたことで興行的に大成功し、以降、多くの反戦映画が作られる切っ掛けとなった{{R|大島渚著作集}}。
 
== 逸話出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
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<ref name="wadas">[http://homepage1.nifty.com/okaysview/cinema1.html 旧 作関川秀雄 監督 『きけ、わだつみの声』 1950年作品]</ref>
*<ref name="pressnet">[http://www.pressnet.co.jp/osaka/kiji/110514_08.shtml 日本映画界のドン 東映名誉会長・岡田茂さんが死去 - プレスネット]</ref>
<ref name="岡田">[https://web.archive.org/web/20120214080427/http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/200/81379.html 東映の岡田茂名誉会長 死去 | NHK「かぶん」ブログ:NHK](Internet Archive){{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG09011_Z00C11A5CC0000/|title=岡田茂・東映名誉会長が死去|work=[[日本経済新聞]]|publisher=[[日本経済新聞社]]|date=2011–05–09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150927124006/https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG09011_Z00C11A5CC0000/|accessdate=2021-06-05|archivedate=2015-09-27}}{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E8%8C%82-1736123|title=岡田茂 おかだしげる- コトバンク|publisher=[[朝日新聞社]]|accessdate=2021-06-05}}{{Cite web|和書|url=https://imidas.jp/hotkeyperson/detail/P-00-302-11-05-H050.html|title=岡田茂 時事用語事典 情報・知識&オピニオン|work=[[イミダス]]|publisher=[[集英社]]|accessdate=2021-06-05}}{{Cite web|和書|url=https://megalodon.jp/2014-0824-0151-22/dodo-geneki.com/messagejp/archive/pdf/07.pdf|format=PDF|title=岡田茂(映画界の巨人)インタビュー 映画界へ 聞き手・[[福田和也]]|date=2005-05-15|work=[[メッセージ.jp]]|publisher=[[BSフジ]]|page=|accessdate=2021-06-05}}(archive){{Cite book |和書 | author = [[金田信一郎]] | year = 2006 | title = テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史 | chapter = 岡田茂・東映相談役インタビュー | publisher = 日経BP社 | pages = 211-215 | isbn=4-8222-0158-9 }}([https://megalodon.jp/2014-0618-1041-32/business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060203005275_print.shtml NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとXヤクザ、2つの映画で復活した](Internet Archive)、[https://www.facebook.com/note.php?note_id=315515601796435 『私と東映』 x 沢島忠&吉田達トークイベント(第2回 / 全2回)]、[https://www.facebook.com/notes/328099280538067/ 岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第1回 / 全3回)]{{Cite news |author=岡田敬一|title = 【競うライバル物語】(45)日本アニメの先駆者達(4) |date = 2003年6月5日 |newspaper = [[産業経済新聞]] |publisher = [[産業経済新聞社]] |page = オピニオン2頁 }}{{Cite news |author = |title = 邦画サバイバル(5) 東映、撮影所売却で波紋―打開策欠き苦戦(映画ビッグバン)終 |date = 1999年2月23日 |newspaper = [[日本経済新聞]] |publisher = [[日本経済新聞社]] |page = 3 }}{{Cite journal |和書|author = |title = 追悼特集 プロデューサー、岡田茂 不良性感度と欲望の帝王学 岡田茂論 文・[[高崎俊夫]] |journal = 東映キネマ旬報 2011年夏号 vol.17 |issue = 2011年8月1日|publisher = [[東映ビデオ]] |pages = 4-8頁 }}([https://www.actibook.net/media/detail?contents_id=103545 東映キネマ旬報 2011年夏号 Vol.17 | 電子ブックポータルサイト ])、[http://ja-jp.facebook.com/note.php?note_id=328099280538067 岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第1回 / 全3回)]{{Cite journal|和書|author=|title=特集 戦記映画 <small>スペシャル対談</small> 東宝 松林宗恵 vs 東映 佐藤純彌/<small>人間を描く戦記映画</small> |journal=東映キネマ旬報 2007年秋号 vol.4|issue=2007年8月1日|publisher=[[東映ビデオ]]|page=6}}{{Cite journal | 和書 | author = 布村建 |date = 2014年7月号 | title = 極私的東映および教育映画部回想 | journal = 映画論叢 | volume = 18 | publisher = [[国書刊行会]] | page = 24 }}</ref>
<ref name="東映キネ旬70">[https://www.toei-video.co.jp/kinejun/ 8期生中島貞夫の東映史] – 東映キネマ旬報特別号70周年特集 pp.2–3</ref>
<ref name="クロニクル">[[#クロニクル|クロニクル]]、18-19、21頁</ref>
<ref name="風雲">[[#風雲|風雲]]、29-32頁</ref>
<ref name="脚本家クロニクル">{{Cite book |和書 |author= 桂千穂|authorlink=桂千穂 |year = 1996 |title = にっぽん脚本家クロニクル |chapter = [[舟橋和郎]] |publisher = [[青人社]] |isbn = 4-88296-801-0 |pages = 419-420 }}</ref>
<ref name="悔いなき">[[#悔いなき|悔いなき]]、80-83頁</ref>
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<ref name="nikkei941127">{{cite news |title=怪獣だけが映画じゃない、時代劇が銀幕の黄金時代を築いた (戦後の履歴書) |newspaper=[[日本経済新聞]] |___location=東京 |publisher=[[日本経済新聞社]] |date=1994-11-27 |page=9}}</ref>
<ref name="時報9503">{{Cite journal|和書 |author = 福中邦昭(東映宣伝部長)・中川敬(東宝宣伝部長)、司会・松崎輝夫 |title = <small>映画誕生100年</small> 東宝=東映 スクリーンに平和への祈りを込めて 戦後50周年記念映画で共同戦線 <small>先生!また逢えるよね。</small>『ひめゆりの塔』 <small>涙の数だけ感動があった。</small>『きけ、わだつみの声』 |journal = 映画時報 |issue = 1995年3月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 4–15頁 }}</ref>
<ref name="avj199501">{{Cite journal|和書 |title =GO~STOP☆ゴー~ストップ☆GO~STOP☆ゴー~ストップ 戦後50年記念の大作『きけ、わだつみの声』製作費10億、東映/バンダイが製作発表会 |journal = AVジャーナル |issue = 1995年1月号 |publisher = 文化通信社 |page = 110 }}</ref>
<ref name="mainichi19911225">{{cite news |title=〔用意、スタート〕戦後映画史・外伝 風雲映画城/13わだつみにアカ攻撃|newspaper=[[毎日新聞]] |publisher=[[毎日新聞社]] |date=1991-12-25 |page=4}}</ref>
<ref name="mainichi19930707">{{cite news |title=〔人物交信録〕 高岩淡〈東映の新社長〉 現場育ち、夢実現へ熱い思い|newspaper=[[毎日新聞]] |publisher=[[毎日新聞社]] |date=1993-7-7 |page=25}}</ref>
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<ref name="撮影監督">{{Cite book|和書|author=小野民樹|year=2005|title=撮影監督|chapter=原一民『写真家志望だった』|publisher=[[キネマ旬報社]]|isbn=9784873762579|pages=67–71}}</ref>
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}}
 
== 参考文献・ウェブサイト ==
*{{Cite book|和書|title=クロニクル東映:1947-1991|volume=1, 2, 3|author=東映|publisher=東映|year=1992|id=|ref=クロニク }}
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*『[[キネマ旬報]]』2011年7月上旬号
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*[http://dodo-geneki.com/messagejp/archive/pdf/07.pdf 岡田茂(映画界の巨人)インタビュー 映画界へ]
*[http://business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060203005275_print.shtml NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】]
*[http://www.pressnet.co.jp/osaka/kiji/110514_08.shtml 日本映画界のドン 東映名誉会長・岡田茂さんが死去 - プレスネット]
*[https://www.actibook.net/media/detail?contents_id=103545 東映キネマ旬報 2011年夏号 Vol.17 | 電子ブックポータルサイト ]
*{{Cite journal | 和書 | author = [[富司純子]] [[降旗康男]] [[野上龍雄]][[佐藤純彌]] [[鈴木則文]] [[神波史男]]|date = 2011年8月号 | title = 鎮魂、映画の昭和 <small>岡田茂 安藤庄平 加藤彰 高田純 沖山秀子 長門裕之</small> | journal = [[映画芸術]] | volume = | publisher = 編集プロダクション映芸 |ref = 映画芸術2011}}
*{{Cite journal | 和書 | author = 岡本明久 |date = 2014年7月号 | title = <small>東映東京撮影所の血と骨</small> 泣く 笑う 握る | journal = 映画論叢 | volume = 36 | publisher = [[国書刊行会]] |ref = 論叢36 }}
*{{Cite book|和書|author=春日太一|authorlink=春日太一|year=2020|title=日本の戦争映画|series=[[文春新書]]1272|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4-16-661272-7|ref=春日}}
 
== 関連項目 ==
*[[きけ、わだつみの声 Last Friends]]:1995年の映画。1950年版とはストーリーは全く異なる。
 
== 外部リンク ==
{{Commons category|Listen to the Voices of the Sea}}
{{external media
|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=2gdBNSS7hCo 日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声 (予告編)] - YouTube ムービー
|}}
* {{Allcinema title|160424|日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声}}
* {{Kinejun title|28662|日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声}}
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[[Category:1950年の映画]]
[[Category:東横映画]]
[[Category:日本の学徒動員・学徒出陣を題材とした作品]]
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[[Category:関川秀雄の監督映画]]
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[[Category:日本の旧制教育機関を舞台とした映画作品]]
[[Category:日本の旧制大学|作にほんせんほつかくせいのしゆき]]
[[Category:第二次世界大戦を扱った反戦映画]]