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靖国神社は、広大な都心の一等地をそのまま与えられる形で民間施設化した。政府としての戦没者慰霊のためにはときに公会堂等で公開式典が行われたりする<ref>{{Cite news|和書 |title=祈りの8月15日 正午、静かな黙とう |newspaper=読売新聞 |date=1963-8-15 |edition=夕刊}}</ref>他、アメリカの「アーリントン墓地」やフランスの「無名戦士の墓」のような施設を作ることを企図して、1959年には特定宗派色を払拭した千鳥ヶ淵戦没者墓苑が作られた。しかし、靖国神社側からは国家ないし政府としての公式参拝や靖国神社法案の成立を望む声も強く、特に右派を中心にそれに対する支持が強かった。これに対し、ほとんどのキリスト教、仏教、新宗教関係者らは反対し、それを左派が支持するという傾向が見られた<ref>{{Cite news|和書 |title=シンポジウムから 靖国問題を考える |newspaper=読売新聞 |date=1972-3-26 |edition=朝刊}}</ref>。なお、神道側もあくまで靖国神社側の希望であり、例えば、神社本庁などは個人の信教の自由の問題として中立との姿勢をとっている。政府は、憲法の条項との兼ね合いもあるものの保守系・右派系の自民党政治家の顔色を窺って曖昧な態度に終始していた<ref>{{Cite news|和書 |title=[サイドライト]靖国神社の"墓参" |newspaper=読売新聞 |date=1966-7-6}}</ref>。そのため、右派・保守系からの支持を気にする首相ないし現役閣僚らは、終戦記念日を避けて春秋の祭典に出席する、あるいは終戦記念日に千鳥ヶ淵戦没者墓苑とともに靖国には私的なものとして行く等の便法をとり、その際に公的な肩書を記名した、公的な支出あるいは公用車を利用したのではないかといったことが、たびたび政治問題化していた<ref>{{Cite news|和書 |title=首相の靖国参拝 公人にも見え、私人にも・・・ |newspaper=読売新聞 |date=1978-8-1 |edition=朝刊}}</ref>。
 
1975年の日本国内メディアからの「政教分離」の原則にはんするのではないかとする[[内政]]理由の批判<ref>2019年に政教分離違反を唱えた原告らの敗訴が、最高裁で確定した。</ref>から始まり、さらに1978年に靖国神社が密かにA級戦犯を合祀していたことが明らかになる<ref>{{Cite web |url=https://www.gentosha.jp/article/16194/?srsltid=AfmBOooDC-klBL3e_KA8pYsNxzJh3_oenzGCjII651ylGhkJ9ymauOMU |title=昭和53年、ひそかに進められた靖国神社「A級戦犯」合祀プロジェクト|靖国神社|島田裕巳 - 幻冬舎plus |access-date=2025-6-5 |publisher=(株)幻冬舎}}</ref>と、この点に対する議論も強まり<ref>{{Cite news|和書 |title=[デスク討論]靖国神社 歴史上、特異な性格 |newspaper=読売新聞 |date=1979-4-22 |edition=朝刊}}</ref>、1985年の中曽根康弘首相による公的参拝発言後に日本国内でも[[日本社会党]]が与党[[自民党]]を批判、大きな政治問題となった。1985年以降から中国や韓国は「靖国神社に[[A級戦犯]]が合祀されている」との主張で批判、それまでの国内問題にとどまらず、国際問題化することとなった。{{要出典|date=2025年6月|中韓国民への世論調査からはそもそも「戦前の日本軍人を慰霊すること」自体に反発していること、「1985年の朝日新聞による靖国批判報道」で靖国神社自体を知り反発し始めたものであることが指摘されている。}}以降、中韓政府は日本の政治家による参拝が行われる度に反発している(諸外国の反応の詳細については後述の[[#日本政府の見解]]を参照)<ref name=":0" />。自民党も2006年に「靖国問題」は中韓との問題だとし、両国が「靖国」を持ち出すのは、日本による「[[竹島不法占拠]]や[[東シナ海ガス田問題|東シナ海の一方的なガス田開発]]など両国による日本に対する[[不法行為]]」への批判に対して、それしか対抗に使えそうな外交的カードが無いからだと指摘している<ref name=":1" />。実際に、1979年4月にA級戦犯の合祀が公になってから1985年7月までの'''6年4月間'''、[[大平正芳]]、[[鈴木善幸]]、[[中曽根康弘]]が首相在任中に計21回参拝をしているが、1985年8月に中曽根が参拝時の朝日新聞の報道までは、中韓からも非難はされていなかった。具体的に1985年の参拝に対して、それに先立つ同年[[8月7日]]の[[朝日新聞]]が『靖国問題』を[[報道]]すると、一週間後の8月14日、[[中国共産党]]政府が史上初めて靖国神社の参拝への非難を表明した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tkfd.or.jp/research/eurasia/a00690detail.php?id=4141918|title=安倍首相の靖国参拝に対する中国側反応における深層|publisher=東京財団|accessdate=2017年6月22日}}</ref>。一方で、1979年にA級戦犯合祀公表以降も靖国神社へ戦没者を慰霊追悼・顕彰するため、外国の[[要人]]も訪れている<ref>{{Cite web|url=http://bbs.tianya.cn/post-56-552968-1.shtml|title= 七嘴八舌 靖国神社公式参拝関係年表(资料,请妥善保存)(转载)|publisher=天涯社区|accessdate=2017年6月22日}}</ref>。なお、戦没者を慰霊追悼・顕彰するための施設及びシンボルとする解釈が現在だけでなく[[戦前]]からも一般的だが、神社側としては「国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝える」場所<ref>https://www.yasukuni.or.jp/history/index.html</ref>、および「日本の独立を誓う場所」との認識が正しいとのことである<ref>『偕行』昭和20年7月「靖国神社について」より</ref>。
 
== 争点 ==
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; 岩手県靖国神社訴訟
{{Main|岩手県靖国神社訴訟}}
[[1979年]]([[昭和]]54年)[[12月19日]]、岩手県議会が国に靖国神社公式参拝を実現するよう意見書を採択し、政府に陳情書を届けたことと、[[1962年]](昭和37年)から靖国神社の要請で玉串料や献灯料を支出していたことは、政教分離原則に反するとして、その費用を返還するよう住民らが提訴した。[[1987年]](昭和62年)[[3月5日]]、[[盛岡地方裁判所]]は'''合憲判決'''を示し、住民らの訴えを全面的に退けた<ref>[https://www.courts.go.jp/apphanrei/hanrei_jp36059/detail5?id=36059/index.html 盛岡地判昭和62年3月5日]</ref>。[[1991年]](平成3年)[[1月10日]]、仙台高裁([[糟谷忠男]]裁判長)は、判決主文にて住民側の控訴に対して被告の岩手県への公費返還請求を棄却したが、公式参拝・玉串料公費支出は違憲であるという[[傍論]]を示した<ref>[https://www.courts.go.jp/apphanrei/hanrei_jp16653/detail5?id=16653/index.html 仙台高判平成3年1月10日]</ref>。
 
勝訴したが違憲とされた県は、違憲とする傍論が示されたのは不利益で、最高裁で判断を仰ぐ必要があるとして上告した。仙台高裁は不適法として却下した。県は高裁の決定を不服として[[特別抗告]]したが、最高裁第2小法廷は「抗告の理由がない」として棄却した。
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; 福岡地方裁判所判決
[[2004年]](平成16年)[[4月7日]][[福岡地方裁判所]](裁判長[[亀川清長]])は原告の[[損害賠償]]請求を棄却した<ref name="fukuoka"/>。しかし[[傍論]]において首相の参拝について政教分離に違反し違憲と述べた<ref name="fukuoka">[https://www.courts.go.jp/apphanrei/hanrei_jp8141/detail4?id=8141/index.html 福岡地判平成16年4月7日 平成13年(ワ)第3932号 損害賠償等事件 判時1859・76]</ref>。総理大臣の公式参拝を[[傍論]]で違憲とする判断は[[1991年]](平成3年)の仙台高裁判決に次いで二例目であった(下級裁判所が[[傍論]]で違憲を論じる問題点については[[傍論#下級裁判所における「ねじれ判決」]]を参照)。
 
2004年(平成16年)[[10月21日]]、福岡地裁判決が傍論において「参拝は違憲」としたことに対し、国民運動団体「[[英霊にこたえる会]]」(会長:[[堀江正夫]]元参院議員)が国会の裁判官訴追委員会に裁判を担当した3裁判官の[[罷免]]を求める訴追請求状6036通を提出した。請求状によれば、訴追理由について「判決は(形式上勝訴で控訴が封じられ)被告の憲法第32条『裁判を受ける権利』を奪うもので憲法違反」、「政治的目的で判決を書くことは越権行為。司法の中立性、独立を危うくした」としている(''[[弾劾裁判]]''も参照)。
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天皇が親拝を止めた原因をA級戦犯の合祀とする見解への反論も存在する。
 
[[櫻井よしこ]]は、メモに「Pressの会見」と題がつけられ、富田と覚しき人物が「記者も申しておりました」と会見での記者の反応も書き記していることから、記者会見のメモだと思われるとし、メモ執筆当日の4月28日に昭和天皇が会見していない事実を挙げ、富田が書きとめた言葉の主が、昭和天皇ではない別人の可能性もあると主張している<ref>{{Cite journal|和書| author = [[櫻井よしこ]] | title = 富田メモ、今や必要な全面公開 | journal = [[週刊新潮]] | issue = 2006年8月10日号 | url = httphttps://yoshiko-sakurai.jp/2006/08/10/510 | accessdate = 2014-01-12 }}</ref>。また、『[[産経新聞]]』は、「昭和天皇がA級戦犯の何人かを批判されていたとの記述があったとしても、いわば断片情報のメモからだけで、合祀そのものを“不快”に感じておられたと断定するには疑問が残る」「合祀がご親拝とりやめの原因なら、その後も春秋例大祭に勅使が派遣され、現在に至っていることや、皇族方が参拝されていた事実を、どう説明するのか」という疑問を呈している<ref name="chuchousan">[https://web.archive.org/web/20130815102632/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130815/plc13081503100005-n1.htm 『産経新聞』2013年8月15日【主張】] </ref>。
 
昭和天皇の側近で、戦後「A級戦犯」に指定された[[木戸幸一]]元内大臣に対し昭和天皇が、「米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」と述べたとの記述が『木戸日記』にあり<ref name="chuchousan"/>、[[鈴木貫太郎]]内閣の内閣書記官長だった[[迫水久常]]によれば、昭和天皇は[[ポツダム宣言]]受諾に関する[[御前会議]](8月9日~10日)において、次のように発言した<ref>迫水久常著『機関銃下の首相官邸――二・二六事件から終戦まで』</ref>。
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[[第二次世界大戦]]後の[[極東国際軍事裁判]](東京裁判)において処刑された人々(特に[[A級戦犯]])が、[[1978年]](昭和53年)[[10月17日]]に国家の犠牲者『[[昭和殉難者]]』として合祀されている。
 
=== 旧日本植民地出身の軍人軍属の合祀 ===
第二次大戦期に日本兵として戦った[[朝鮮人日本兵]]や[[台湾人日本兵]](軍属を含む)も多数祀られているが、中には生存者が含まれていたり、遺族の一部からは反発も出ている。
 
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:第82代内閣総理大臣:[[橋本龍太郎]]が自身の59歳の誕生日に靖国神社参拝。11年ぶり。
; [[1997年]][[4月2日]]
:[[愛媛県|愛媛]]玉串料訴訟で違憲判決。最高裁大法廷判決「たとえ戦歿者遺族の慰藉が目的であっても県が靖国神社・護国神社などに玉串料を公費から支出したことは憲法が禁止した宗教活動にあたり、違憲である」<ref>[https://www.courts.go.jp/apphanrei/hanrei_jp54777/detail2?id=54777/index.html 最大判平成9年4月2日、平成4(行ツ)156、民集第51巻4号1673頁]</ref>。
; [[1999年]][[8月6日]]
:官房長官:[[野中広務]]、記者会見で個人的見解と断りつつ、「首相はじめすべての国民が心から慰霊できるよう、あり方を考える非常に重要な時期にさしかかっている」、「A級戦犯を分祀し、靖国が宗教法人格を外して純粋な特殊法人として国家の犠牲になった人々を国家の責任においてお祀りし、国民全体が慰霊を行い、各国首脳に献花してもらえる環境を作るべきではないか」と述べた<ref>『毎日新聞』 1999年8月17日</ref>。