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| image_size = 200px
| caption = 小林一茶の肖像(村松春甫画)
| birth_name = 小林 弥太郎(こばやし やたろう)
| birth_date = [[1763年]][[6月15日]]
| birth_place = [[信濃国]][[柏原村 (長野県)|柏原]]
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}}
'''小林 一茶'''(こばやし いっさ、[[宝暦]]13年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]][[1763年]][[6月15日]]- [[文政]]10年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]][[1828年]][[1月5日]]))〉)は、[[日本]]の[[江戸時代]]後期の[[俳句|俳人]]。本名は'''小林 弥太郎'''(こばやし やたろう)<ref group="†">「父の終焉日記」の前書き部分で、一茶は自らのことを「信之」と名乗っているが、信之という名乗りはこの時のみである上に、農民の名として似つかわしくないことから、小林(1986)p.23では一茶の作り話としている。</ref>一茶は[[俳号]]である。別号は圯橋<ref name="kobayashi_2002 _4">小林(2002)p.4</ref>、菊明<ref name="kobayashi_2002 _4" />、新羅坊<ref name="yaba_1993 _11">矢羽(1993)p.11</ref>、亜堂<ref name="yaba_1993 _11" />。庵号は二六庵<ref>小林(2002)p.2</ref>、俳諧寺<ref>小林(2002)p.29</ref>。
 
[[信濃国]]柏原で中農の子として生まれた。15歳の時に奉公のために江戸へ出て、やがて[[俳諧]]と出会い、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立して[[松尾芭蕉]]、[[与謝蕪村]]と並ぶ[[江戸時代]]を代表する[[俳諧師]]の一人となった<ref>小林(2002)pp.4-8、p.10</ref>。
 
* 文中の年代については、明治6年以前は何日の出来事であったか明記したものについて和暦(西暦)の形で日まで表記し、日まで表記し[[]]かったものは和暦の年号をもとに和暦(西暦)で標示した。また明治6年の[[明治改暦]]以降についても、明治6年以前の表記と統一性を持た[[]]るために和暦(西暦)の表記とした。また、文中の年齢は[[数え年]]で表記した。
 
== 概要 ==
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{{familytree |border=0|01||||| 01=善右衛門}}
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1月15日(1795年3月5日)には[[松山市|松山]]の栗田樗堂を尋ねた。樗堂は本業として酒造業を営んでいる松山有数の富豪であり、その一方で当時全国的に名が知られた俳人でもあった。片や松山有数の豪商、片や北信濃生まれの無一文に近い俳人であったが、樗堂は一茶と親友となり、長く親しい交際を続けることになる。前述の専念寺の梅五、そして[[馬橋]]の大川立砂や後に最も親しく交際していく夏目成美など、一茶は先輩の有力俳人たちに可愛がられた。これは如才のなさ、世渡り上手という一面があるのは否めないが、才能ある先輩俳人たちに可愛がられたということは、やはり一茶には確かな実力に加えて誠実さがあったものと考えられる<ref>小林(1986)p.72、矢羽(2004)pp.50-51、金子(2014)p.28</ref>。
 
伊予の各地を回った一茶は、2月末には観音寺の専念寺に戻るが、その後大坂に向かった。[[丸亀]]から船に乗って[[下津井地区|下津井]]([[倉敷市]])で下船し、その後徒歩で大坂を目指した。途中、夜間大坂への道を急ぐ中で眠気に耐えられず、民家の軒先を借りて野宿する一幕もあった<ref>矢羽(2004)pp.51-57、渡邊(2015)p.96</ref>。大坂に到着した一茶はその後、大坂を始め京都や大津、そして[[摂津国|摂津]]、[[河内国|河内]]、[[大和国|大和]]、[[播磨国|播磨]]といった近畿地方各地を回って、広く俳人との交流を深めた。交流した俳人は一茶が所属していた葛飾派の俳人ばかりではなく、他派の人たちも多かった。これは一茶の西国行脚中の寛政5年(1793年)が芭蕉百回忌に当たっていて、俳句界全体で芭蕉へ帰れという運動が巻き起こっていたことが幸いした。そのような俳句界の機運は流派同士の垣根を下げ、もともと比較的自由な気風があった関西の俳壇に身を置く形となった一茶は、流派を超えて広く俳人たちとの交流を行うことが可能な境遇に恵まれたのである<ref>矢羽(2004)pp.57-63、p.68</ref>。
 
寛政7年、一茶は寛政4年からの西国俳諧修行の旅の成果を「たびしうゐ(旅拾遺)」という本にまとめ、出版する。当時、句集を出版する場合には句の作者は一句ごとにお金を支払う、いわば出句料を拠出する習慣があった。つまりたびしうゐで紹介された句の作者は応分の出句料を一茶に支払ったものであると考えられるが、実際問題として一茶自身も相当額の自己資金を拠出したと考えられている。西国俳諧修行中、一茶は各地の俳人を巡る中でいわば俳諧の先生として受け入れられ、報酬を得ながら旅を続けてきた。一茶は多くの俳人からその実力を認められ、相当額の報酬を手に入れることが出来たため、たびしうゐの出版に漕ぎつけられたものと考えられている<ref>矢羽(2004)p.63、渡邊(2015)pp.97-98</ref>。
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ところで安永6年(1777年)の春に一茶が故郷、柏原から江戸に奉公に出た後、一茶の父弥五兵衛ばかりではなく、継母のはつと腹違いの弟である仙六は懸命に働き、一家を盛り立てていた。実際、一茶が故郷を出た時分には3.71石であった持高が、約9~10石にまで増加し、柏原の中でも有力な農民となった。これは働き者であった継母のはつと、仙六の貢献が大きかったと見られている<ref>小林(2002)pp.60-61</ref>。寛政末期から享和にかけて持高はやや減少し、享和元年([[1801年]])には7.09石となっている。これは父弥五兵衛の病気により近隣でも名医を呼ぶなどしたためであると考えられるが、それでも一茶が故郷を離れた時よりも大幅に財産を増やしていた。このような経過から、継母のはつと腹違いの弟、仙六は小林家の財産は自らが増やしたものとの自負を持っていた<ref>小林(2002)pp.60-61、矢羽(2004)p.81</ref>。
 
一茶は安永6年に江戸へ奉公に出た後も、柏原の[[宗門改め]]時に作成される宗門帳にその名を残し続けていた。これは一茶が江戸奉公に、そして俳諧修行の旅に出るなどして、故郷柏原に居住の実態が無いにもかかわらず、住民の一員としての地位を維持していたことを意味している<ref>小林(2002)pp.61-62</ref>。
 
一茶は享和元年(1801年)3月頃、一茶は故郷柏原に帰省した。帰省の経緯ははっきりとしていないが、父、弥五兵衛の病気の知らせを受けてのことであったとの説がある。ただし一茶が父の死去の経緯について書いた「父の終焉日記」では、一茶が帰省中の4月23日(1801年6月4日)、父が農作業中に突然倒れたとしている<ref>小林(1986)p.86</ref>。享和元年の帰郷は父の病気との関係は無く、本来の目的は帰郷しての後の生活維持のために一茶を師匠とした俳諧結社、いわゆる一茶社中の結成を開始するためであったとの説もある<ref>渡邊(2006)pp.326-329</ref>。
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前述のように一茶は父の死去とそれに伴う遺産を巡る継母、弟との骨肉の争いを「[[父の終焉日記]]」にまとめている<ref group="†">矢羽(2004)p.162によれば、父の終焉日記という題名は[[束松露香]]によるものであり、束松の命名が定着している。</ref>。親族間の遺産相続における争いごとは比較的ありふれた出来事ではあるが、江戸期以前の日本では文学の題材として取り上げられることが無かった題材であった。赤裸々に描かれた遺産を巡る親族間の骨肉の争いは読者にやるせない思いを抱かせるものである一面、極めて人間的なテーマを[[私小説]]風にまとめ上げており、「父の終焉日記」は日本の[[自然主義文学]]の草分けであるとの評価がなされるようになった<ref>小林(1986)p.93、矢羽(2004)p.80、pp.163-165</ref>,<ref>[[マブソン青眼]]「『父の終焉日記』の文体にみる比喩表現」、俳文学会刊行『連歌俳諧研究』・100号・2001年2月</ref>。もちろん「父の終焉日記」は一茶の視点によって書かれたものであり、内容的にも創作が見られ、遺産相続問題において、一茶が善人、継母と弟が欲にまみれた悪人であるように描かれた記述は慎重に読まねばならない<ref>小林(1986)p.95、矢羽(2004)pp.80-81、p.165</ref>。
 
現実問題として父が倒れた時期は農繁期に当たっていて、継母と弟は日々の農作業に追われ、勢い、父の看病は一茶に任される形となった。これは継母、弟にとって終始父の看病に当たっている一茶が重態の父を絡するのではないかとの疑心暗鬼を深めることにも繋がった。しかし遺産を兄弟で二分せよと意思を示した父、弥五兵衛にはしっかりとした考えがあった。父としてはわずか15歳で一茶を江戸奉公に出し、これまで苦労をさせてしまったとの負い目があった。そして北信濃の遺産分割の習慣は基本的に均分相続であり、事実、一茶の一族、小林家は祖父の代も財産を均分に分割して相続している。父の遺産相続における判断は、北信濃で一般的であった遺産相続方法、そしてこれまで小林家で行われてきた相続方法から見ても妥当なものとも言えた<ref>小林(1986)p.89、小林(2002)pp.58-59、矢羽(2004)p.81、後藤、宗村(2016)p.136</ref>。
 
父、弥五兵衛は一茶に対してかねがね妻を娶って柏原に落ち着くように勧めていた。一茶自身も父に対して「病気が治ったら、元の弥太郎に戻って農業に精を出し、父上を安心させたい」と語り、帰郷の意思があることを表明した。そして家を離れ、俳諧師として浮草のような生活を続けていることについて反省を述べている。農民の子として生まれながら、汗して田畑を耕すことなく生きていくことに対する罪悪感は、一茶の脳裏を一生離れることが無かった<ref>小林(1986)pp.89-90、矢羽(2004)pp.81-82、青木(2013b)p.49</ref>。このような一茶の姿を見た父は、一茶と弟、仙六とで財産を均分するよう指示した遺言状をしたため、一茶に手渡したと考えられている<ref group="†">父の終焉日記には、父の遺言状について特に記載されていない。後藤、宗村(2016)p.142 では、その後の遺産相続問題の経緯から見て、遺産を均分相続させるとの内容の遺言状が実在したことは間違いないと判断している。</ref><ref>小林(1986)p.93</ref>。
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=== 俳諧師としての成功と帰郷 ===
==== 難航する遺産相続問題 ====
一茶は文化5年(1808年)12月、200日あまりもの間留守にしていた相生町5丁目の家に戻ってみたところ、留守中に大家は他人に家を貸してしまい、一茶が戻るはずであった家が無くなってしまった。困り果てた一茶はやむを得ず夏目成美を頼り、成美宅で年を越した。翌文化6年([[1809年]])成美宅で正月を迎えた一茶は、1月8日から立て続けに下総、上総方面に俳諧行脚の旅に出た。3月19日に房総行脚は一段落したものの、今度は4月5日に実家のある柏原へと向かった。この時の帰郷では、一茶はまず柏原へ向かったにもかかわらず、前年の遺産分割の結果、居住権を得ていた実家に行こうとはせず、仁之倉のいとこ、徳左衛門の家に泊まった<ref>小林(1986)p.132、矢羽(1993)pp.51-53、矢羽(2004)pp.110-111</ref>。
 
その後一茶は精力的に北信濃一帯の俳諧愛好者のところを廻る。もちろん柏原には時々戻ったものの、いとこの徳左衛門宅、実家の隣であった園右衛門の家に泊まり、実家で過ごそうとはしなかった。それどころか5月18日には柏原で借家を借りるほどであった。これは弟との交渉が難航していたからであると考えられる。文化6年の帰郷もかなりの長期間に及んだ、一茶がいつ江戸に戻ったのかははっきりとしないが、9月末まで北信濃にいたことは確認されており、冬には江戸に戻っていた<ref>小林(1986)p.133、矢羽(1993)pp.54-56、矢羽(2004)p.111</ref>。
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文政元年5月4日([[1818年]]6月7日)、妻、菊は女の子を生む。女の子は「賢くなれ」との願いを込め、さとと名付けられた。愛児さとの生と死を主題とした俳文「おらが春」は、一茶渾身の作といってよい内容であり、文字通り代表作とされている<ref>小林(1986)pp.203-205、丸山(2000)p.14、矢羽(2004)p.140</ref>。
 
さとは最初のうちはすくすくと成長する。おらが春ではあどけないさとの姿と、目に入れても痛くない父、一茶自らの親馬鹿ぶり、そして母の菊がおっぱい母乳をあげる姿を丹念に描写し、
 
{{Quotation|蚤(のみ)の跡かぞへながらも添乳かな}}
 
愛児さとが蚤に食われた跡を数えつつ乳をあげている、子をいつくしむ母の姿を詠んだ<ref>小林(1986)pp.208-209、矢羽(2004)pp.207-211</ref>。
 
ところがまもなく運命は暗転する。文政2年([[1819年]])5月末、さとは[[天然痘]]に感染する。天然痘自体は6月に入ってかさぶたが落ち、小康状態になったかに見えたが、体調は一向に回復せず、治療を尽くしたにもかかわらず6月21日(1819年8月11日)に亡くなってしまった。一茶はおらが春に愛しいわが子を失った親としての嘆きを綴った上で、
 
{{Quotation|露の世は露の世ながらさりながら}}
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文政4年もおしつまった12月29日([[1822年]]1月21日)、一茶は一通の嘆願書を本陣の中村六左衛門利賓に提出した。嘆願の内容は、柏原宿の伝馬屋敷の住民たちの義務とされた伝馬役金に関するものであった。伝馬屋敷に住む者は、前述のように地子免除の特典を受けられる代わりに伝馬役の務めが課せられていた。一茶の時代になると一般的には伝馬役の役儀ではなく伝馬役金を納める形になっていた。一茶も享和元年(1801年)の父の死後、きちんと伝馬役金を納め続けていた<ref>小林(1986)pp.215-218、高橋(2017)pp.52-53、pp.125-126</ref>。
 
一茶の嘆願は、自らに課せられた伝馬役金の免除を願い出て、その分を小林家本家の弥市に払わせて欲しいという内容であった。弥市は伝馬役金を納めていないのにもかかわらず、祭りの際には桟敷席に座り散財をしているとして、桟敷に座ることが出来ない自分が役金を納め続けているのは不合理であると申し立て、更に中風で体も不自由となり、外出時には駕籠代が嵩み、その上子どもの誕生、死去が重なったこともあって生活に困っていると訴えた<ref>小林(1986)pp.215-219、高橋(2017)pp.125-129</ref>。
 
実際問題として弥市が伝馬役金を納めていなかったとは考えにくく、一茶は遺産問題で弟、仙六側についた本家の弥市のことを根に持っていたことがこの嘆願書が出された原因のひとつと考えられている。また嘆願書の中に記されているように、柏原では鎮守の諏訪社の祭礼時に桟敷が設けられたが、有力者は桟敷に上がって祭礼を見物し、その他一般の見物客は立ち見であった。弥市は桟敷席であり、また遺産分割後も新たな資産獲得に努めていた弟、仙六も桟敷に座るようになっていた。一茶は弥市、仙六が桟敷席であるのにもかかわらず、自分が立ち見であることに劣等感を募らせていた。嘆願書には本家や弟の後塵を拝し、不遇な己を嘆く卑屈な心象も垣間見える<ref>小林(1986)pp.218-220、矢羽(1993)p.468、小林(2002)pp.67-68、p.170高橋(2017)p.129</ref>。
 
過失があったのは事実であるとしても、妻を激しく罵倒する文章を書いたり、自らの困窮を理由に伝馬役金の免除を願い出る嘆願書に、本家の弥市を引き合いに出して中傷するような内容を記すなど、一茶には利己主義的な面が強く、また激情に駆られると抑えが効かなくなることがあるのは否めない。前述のように柏原宿の存亡を賭けた訴訟時に一茶は本陣の中村六左衛門利賓らに協力をしており、仲も良かった。そのためある意味気軽に書いてしまったという一面もあるものの、やはり弥市を貶めんとし、卑屈さが感じられる内容の嘆願書は評判が悪く、一茶の人物評価にマイナスとなった<ref>小林(1986)pp.218-219、矢羽(1993)pp.467-468、丸山(2000)p.30、高橋(2017)p.129</ref>。
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と、これまでの自らの人生を愚に生きてきたとし、そしてまた愚に帰っていくのだと詠んだ<ref>小林(1986)pp.223-224、玉城(2013)pp.30-31</ref>。この句は一茶が深く信仰していた浄土真宗の教えに密接な関わり合いがある。一茶は様々な欲にまみれ、利己主義的で激情の抑えが効かないといった大きな欠点を抱えた人物ではあったが、自らの深い罪業を直視する目も持っていた。愚に生きることの告白ともいえる句は、自らを愚禿と称した宗祖[[親鸞]]が唱えた、「悲しいときは泣き、嬉しいときは喜び、そして苦しいときは苦しんで生きられる、絶対安心の境地」である「自然法爾」を表現したと言われている<ref>加藤(2001)pp.346-348、伊藤(2003)p.3、矢羽(2004)pp.192-193</ref>。
 
2月19日(1823年3月31日)、妻の菊が病に倒れた。病名は[[痛風]]であったと伝えられている。病状は一時改善するものの、3月に入ると悪化し、医師の診察を受けたり様々な薬を飲んでみたにもかかわらず、病状は悪化していった。菊の病状が悪化すると、俳諧師として門人宅回りを欠かすことが出来ない一茶では子どもの世話を行うことがままならないため、やむを得ず知人宅に預けることにした。そして妻の菊も実家に帰って療養することになった。一茶は夫としてしばしば妻の見舞いに行ったが、病状は悪化するばかりで結局5月12日(1823年6月20日)、37歳で亡くなった<ref>小林(1986)pp.225-226、矢羽(2004)p.144</ref>。
 
妻を失った後、一茶は、
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と、小言を言う相手が居なくなってしまったと嘆く句を作った<ref>加藤(2001)pp.350-351、玉城(2013)p.341</ref>。
 
ところで菊の没後、葬儀の際に息子、金三郎が知人宅から戻ってきた。しかし金三郎はすっかりやせこけ、骨と皮ばかりで息も絶え絶えの様子である。一茶は知人が乳が出ないのにもかかわらず保育料欲しさに金三郎を預かったとして、例によって知人のことを人面獣心と断罪するなど口を極めて罵った俳文を書く。これもさすがに乳を飲ませなかったとは考えにくく、金三郎自身が虚弱であったのではと考えられる<ref>小林(1986)pp.225-228、矢羽(1993)pp.436-440</ref>。
 
結局知人宅から息子金三郎を取り返した一茶は、改めて別の乳母に預けることにした。金三郎は一時容体を取り戻したものの、結局12月21日([[1824年]]1月21日)に亡くなってしまった。文政6年、一茶は妻と息子の2回、葬儀を出すことになってしまった<ref>小林(1986)p.228、矢羽(2004)p.144</ref>。
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9年間連れ添った妻の菊とその間にできた4人の子どもたちを全て亡くし、文政7年の正月を一人で迎え、「もともと自分は独り者であった」との思いを俳句にした一茶であったが、正月早々後添い探しを始めた。一茶は再婚したいとの希望をあちこちに語っていたというが、1月6日(1824年2月5日)には知人である関川([[新潟県]][[妙高市]])の浄善寺の住職に、急ぎお返事くださいと後妻の紹介を依頼する手紙を送っている<ref>小林(1986)pp.230-231、小林(2002)p.168</ref>。
 
結果として浄善寺の住職に依頼した再婚相手の紹介話は実らなかったが、意外なところから再婚話が持ち上がってくる。これまで弟との遺産相続問題で弟側に立ったり、伝馬役金の免除問題などがあり、一茶との関係が良くなかったと推測されている本家の弥市が一茶の再婚を支援したのである。4月28日(1824年5月26日)、弥市は自らの娘が重い病の床に就いていたのにもかかわらず、一茶の縁談の話をまとめるために[[飯山市|飯山]]に行っている。なお弥市の娘はその後まもなく5月2日(1824年5月29日)に亡くなった<ref>小林(2002)p.169</ref>。
 
弥市の娘の葬儀は5月3日(1824年5月30日)に行われた。そのようなあわただしい中、5月12日(1824年6月8日)、再婚相手が飯山からやって来て、待望の再婚を果たした。一茶の日記によると再婚相手は雪という名で、[[飯山藩]]士田中氏の娘であり、年齢は38歳と記録している。つまり雪は武士の娘であった。一茶の研究家である小林計一郎、矢羽勝幸の研究によって、雪は飯山藩士田中義条の娘であったと推定されている<ref>矢羽(1995)pp.175-177、p.182、小林(2002)p.168、p.170</ref>。
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今後の一茶研究の課題としては、まず蕪村などよりも進んでいるとされる伝記面の研究に対して、作品研究が立ち遅れているとの指摘がある。中でも個々の作品、著作についての研究の深化とともに、遅れが目立つとされている連句の研究を進めていくこと、一茶が俳壇に身を投じた天明期から亡くなる文政期までの俳壇における位置づけの確認などといった課題が挙げられている<ref>矢羽(1993)p.557、高橋(2013)p.43</ref>。また一茶の資料的なものはほぼ出揃った感がある中で、学際的な研究を進めていって、文学的方面ばかりではなく、より広い視野から一茶の実像を見直していくことが求められているとされている<ref>渡邊(2006)pp.142-144</ref>。
 
[[2025年]]6月24日放送の『[[開運!なんでも鑑定団]]([[テレビ東京]])』において、依頼者がネットオークションで購入した『小林一茶の書』が鑑定に出された。[[愛知東邦大学]]客員教授・増田孝氏による鑑定が行われ、一茶による未発見の発句であると診断された。同書には文頭に「東都にかへる人をおくる」とあり、そこから
 
{{Quotation|むくかたや 一足 ツヽに 花盛り}}
 
と続く。日付は「閏正月十五日」と記載されていることから[[1822年]]の作と推測され、署名部分には「志那のゝ一茶」と記されている<ref>{{Cite web |title=小林一茶の書|開運!なんでも鑑定団|テレビ東京 |url=https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20250624/03.html |website=テレビ東京 |access-date=2025-06-25 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=5000円が300万円に!小林一茶「新発見の句」:開運!なんでも鑑定団(テレ東プラス)|dメニューニュース |url=https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/tvtokyo/entertainment/tvtokyo-17117 |website=topics.smt.docomo.ne.jp |access-date=2025-06-25 |language=ja |last=テレ東プラス}}</ref>。
 
== 句の特徴 ==
1,076 ⟶ 1,083行目:
明治後期以降、一茶の句は俳句界の枠を超え、多くの人々に親しまれるようになった。そして芭蕉、蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳人であるとの評価も固まっていく。しかし近代俳句の主流が客観写生から精密かつ静的な花鳥諷詠へと移行していく中で、俳句界からは一茶の句は異端視され、一部を除いてその影響力は小さかった。近代俳句の中で一茶の影響を指摘できるのは[[村上鬼城]]である<ref group="†">栗山(1976)pp.294-296では、近代俳句の中でオノマトペを上手く用いたとされる[[川端茅舍]]と一茶の句との比較検討がされている。</ref>。鬼城は生活苦と身体的な障害に苦しみながら、俳壇の主流とは大きく異なる優れた境涯句を詠み続けた。一茶の句と鬼城の句には類似点が多く指摘され、一茶の作風が鬼城に大きな影響を及ぼしたものとみられている<ref>栗山(1976)pp.308-310、丸山(2000)p.70</ref>。
 
いずれにしても一茶には高い知名度があり、更には芭蕉、蕪村と並ぶ傑出した個性、独自の俳風が認められているのにもかかわらず、芭蕉、蕪村と比較して俳壇、文学史に与えた影響力は小さかった<ref>山下(1976)p.397、p.405</ref>。
 
=== 批判的な意見 ===
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一茶の資料館は故郷、長野県信濃町以外でも建設されている。長野県[[高山村 (長野県)|高山村]]では、「父の終焉日記」など一茶の門人であった久保田春耕が所蔵していた一茶の遺墨や、一茶が活躍した江戸時代後期の北信濃の文化についてなどを紹介する展示を行っている[[一茶ゆかりの里 一茶館]]が、平成8年([[1996年]])にオープンしている。また一茶ゆかりの里 一茶館には、一茶も滞在した久保田家の離れ家が移築されている<ref>一茶ゆかりの里(1997)pp.55-56、p.58、p.61</ref>。
 
一茶の下総方面の俳諧行脚先のひとつで、一茶と親密であった秋元双樹宅があった千葉県流山市では、平成2年([[1990年]])、旧秋元家を「小林一茶寄寓先」として市の史跡に指定した。流山市では旧秋元家を解体、復元工事を実施し、茶室や庭園を整備して平成7年([[1995年]])、一茶双樹記念館としてオープンした。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.nagareyama.chiba.jp/institution/1004311/1004320/1004322.html |title=施設案内 一茶双樹記念館では秋元家の家業であった[[みりん]]関連の資料とともに|流山市 |publisher= 流山市役所 |access-date=2024-03-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://nagareyamakankou.com/tourism-information/issasoju-atorie/ |title=一茶にまつわる俳句資料が展示双樹記念館・杜のアトリエ黎明 – ときめき流山れ、んぽ | 流山市民の句会や茶観光協などにも利用されている<ref>【公式】 |publisher= 流山市立博物館(2015)pp.163観光協会 |access-166、pp.172date=2024-173、p.17503-19}}</ref>
としてオープンした。一茶双樹記念館では秋元家の家業であった[[みりん]]関連の資料とともに一茶にまつわる俳句資料が展示され、流山市民の句会や茶会などにも利用されている<ref>流山市立博物館(2015)pp.163-166、pp.172-173、p.175</ref>
 
また[[東京都]][[足立区]][[竹ノ塚]]の炎天寺では、昭和37年([[1962年]])から一茶まつりを行っており、また小動物や子どもを詠んだ一茶の句が子どもの情操教育に役立つという見地から、翌昭和38年([[1963年]])以降一茶まつりの中で、全国小中学生俳句大会を開催している<ref>[https://www.city.adachi.tokyo.jp/hodo/29issa-matsuri.html 足立区、2017、『全国から一茶ファン・俳句ファンが集結!小林一茶ゆかりの炎天寺で毎年恒例の「一茶まつり」が開催されました。] 2018年1月7日閲覧、[httphttps://www.adachi-asahi.jp/?p=14812 足立朝日、2012、『一茶まつり50周年記念祝賀会を開く 炎天寺』] 2018年1月7日閲覧</ref>。そして平成24年([[2012年]])までに全国に一茶の句碑が合計348基、建立されていることが確認されている<ref>一茶記念館(2012)p.77</ref>。
 
== 著作 ==
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== 登場作品 ==
=== 小説、戯曲 ===
:*『一茶』[[藤沢周平]]、昭和53年([[1978年]])、[[文藝春秋|文芸春秋社]]<ref name="yaba_1993 _588">矢羽(1993)p.588</ref>
:*『小林一茶』[[井上ひさし]]、昭和55年([[1980年]])、[[中央公論|中央公論社]]<ref name="yaba_1993 _588" />
:*『一茶下総旅日記』[[伊藤晃 (作家)|伊藤晃]]、昭和57年([[1982年]])、[[崙書房]]<ref name="yaba_1993 _588" />
:*『俳人一茶捕物帳』[[笹沢左保]]、[[平成]]元年([[1989年]])、[[光文社]]<ref name="yaba_1993 _588" />
:**『小林新・一茶捕物帳 青い春の雨[[矢代静一]]笹沢左保、平成3年(1991年)、[[1991年角川書店]])、河出書房新社<ref name="yaba_1993 _588" />
:*『新・小林一茶捕物帳 青い春の雨笹沢左保[[矢代静一]]、平成3年(1991([[1991]])、角川[[河出房新社]]<ref name="yaba_1993 _588" />
:*『ひねくれ一茶』[[田辺聖子]]、平成4年([[1992年]])、[[講談社]]<ref name="yaba_1993 _588" />
:*『小林一茶』[[童門冬二]]、平成10年([[1998年]])、[[毎日新聞社]]<ref name="watanabe_2006 _140" />
 
=== 映画・テレビなど ===
:* 『信濃風土記より 小林一茶』1941年16mm 製作:[[東宝]]、監督:[[亀井文夫]]、解説:[[徳川夢声]]
:* 『[[まんが偉人物語 ]] 小林一茶』1978年、[[毎日放送]]、[[TBSテレビ|TBS]]
:* 『一茶と歩む 信濃奥紀行』1998年 DVD [[テイチクエンタテインメント]]、ナレーション・歌:[[さだまさし]]
:* 『[[おらが春~小林一茶~]]』2002年、[[NHK正月時代劇]]、原作:田辺聖子『ひねくれ一茶』、脚本:[[市川森一]]、 小林一茶:[[西田敏行]]
:* 『一茶』原作:[[藤沢周平]]、監督:[[吉村芳之]]、主演:[[リリー・フランキー]](2017年公開予定だったが、製作会社破綻により現在も公開されていない)<ref>{{Cite web |和書|title=お蔵入り 映画「一茶」で 地元泣く |url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO29658720Q8A420C1L31000/ |website=日本経済新聞 |date=2018-04-21 |access-date=2023-02-26 |language=ja}}</ref>
:* 『[[ねこねこ日本史]]』 [[そにしけんじ]]原作、[[Eテレ]]のテレビアニメ版、小林一茶:[[杉田智和]]
 
=== 歌 ===
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:* 「旅ゆく一茶」 歌:[[三橋美智也]]、作詞:[[伊吹とおる]]、作曲:[[佐伯としを]]<ref>信濃町誌編纂委員会(1968)p.1174、一茶ゆかりの里(2012)p.69</ref>
:* 「一茶さんと子どもたち」 歌:[[田中星児]]、作詞:[[横山健]]、作曲:田中星児<ref>一茶ゆかりの里(2012)p.70</ref>
:* 「一茶の雀」 歌:[[小錦八十吉 (6代1963年生)|KONISHIKI]]、作詞:[[日暮真三]]、作曲:[[BANANA ICE]]<ref>一茶ゆかりの里(2012)p.71</ref>
:* 「信濃山国――俳諧寺一茶」 歌:[[岡本敦郎]]、作詞:[[石原広文]]、補作詞:[[草井吟南]]、作曲:[[町田等]]<ref>[httphttps://duarbo.air-nifty.com/songs/2013/06/post-64ca.html 信濃山国――俳諧寺一茶: 二木紘三のうた物語]</ref>
 
== 脚注 ==
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* 栗山理一「一茶」『鑑賞 日本古典文学第32巻 蕪村・一茶』角川書店、1976
* 後藤泰一、宗村和弘「諏訪の末子相続と北信濃の均分相続 河合曽良と小林一茶の場合」『信州大学法学論集』27、信州大学大学院法曹法務研究科、2016
* 小林計一郎『小林一茶』[[人物叢書]] [[吉川弘文館]]、1986(新装版。初版は1961年刊)、オンデマンド版 ISBN 4-642-05028-09784642750288
* 小林計一郎「青年期の一茶」『一茶の総合研究』信濃毎日新聞社、1987a
* 小林計一郎「村方史料から見た一茶の経済生活」『一茶の総合研究』信濃毎日新聞社、1987b
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== 関連項目 ==
{{Wikiquote|小林一茶}}
{{Commonscat|Kobayashi Issa}}
*[[俳人の一覧]]
*[[善光寺|善光寺#小林一茶]]
*[[徳本#徳本と小林一茶]]
 
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Kobayashi Issa}}
{{Wikiquote|小林一茶}}
* {{Kotobank}}
* [http://www.issakinenkan.com/ 一茶記念館]
* [https://nagareyama-td.com/issasouju/ 一茶双樹記念館] - 『流山本町 観光情報』〔㈱流山ツーリズムデザイン〕より
* [http://www.kobayashi-issa.jp/ 歴史公園信州高山「一茶ゆかりの里 一茶館」](一茶の真筆50点余りを収蔵、公開)
* [https://adeac.jp/shinshu-chiiki/table-of-contents/mh088000/d100080-mh088000 【おらが春】(テキスト目次)] - NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ
* [https://web.archive.org/web/20090223080949/http://www.town.shinanomachi.nagano.jp/ 信濃町オフィシャルホームページ]
* [https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK0102222775 一茶一代全集] - 『信州デジタルコモンズ』([[県立長野図書館]])より
* [http://www.issasoju-leimei.com/issa/issa_index.html 一茶双樹記念館]
* [https://www.youtube.com/watch?v=b-SdGBnEJbs Web法話〔寺本正尚 師〕小林一茶の念仏①]・[https://www.youtube.com/watch?v=AIualNKN9Mk ②] - [[本願寺津村別院|北御堂]]YouTube内公式アカウントより
* [https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index 国指定文化財等データベース]
 
 
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