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| image_size = 200px
| caption = 小林一茶の肖像(村松春甫画)
| birth_name = 小林 弥太郎(こばやし やたろう)
| birth_date = [[1763年]][[6月15日]]
| birth_place = [[信濃国]][[柏原村 (長野県)|柏原]]
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}}
'''小林 一茶'''(こばやし いっさ、[[宝暦]]13年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]
[[信濃国]]柏原で中農の子として生まれた。15歳の時に奉公のために江戸へ出て、やがて[[俳諧]]と出会い、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立して[[松尾芭蕉]]、[[与謝蕪村]]と並ぶ[[江戸時代]]を代表する[[俳諧師]]の一人となった<ref>小林(2002)pp.4-8、p.10</ref>。
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1月15日(1795年3月5日)には[[松山市|松山]]の栗田樗堂を尋ねた。樗堂は本業として酒造業を営んでいる松山有数の富豪であり、その一方で当時全国的に名が知られた俳人でもあった。片や松山有数の豪商、片や北信濃生まれの無一文に近い俳人であったが、樗堂は一茶と親友となり、長く親しい交際を続けることになる。前述の専念寺の梅五、そして[[馬橋]]の大川立砂や後に最も親しく交際していく夏目成美など、一茶は先輩の有力俳人たちに可愛がられた。これは如才のなさ、世渡り上手という一面があるのは否めないが、才能ある先輩俳人たちに可愛がられたということは、やはり一茶には確かな実力に加えて誠実さがあったものと考えられる<ref>小林(1986)p.72、矢羽(2004)pp.50-51、金子(2014)p.28</ref>。
伊予の各地を回った一茶は、2月末には観音寺の専念寺に戻るが、その後大坂に向かった。[[丸亀]]から船に乗って[[下津井地区|下津井]]([[倉敷市]])で下船し、その後徒歩で大坂を目指した。途中、夜間大坂への道を急ぐ中で眠気に耐えられず、民家の軒先を借りて野宿する一幕もあった<ref>矢羽(2004)pp.51-57、渡邊(2015)p.96</ref>。大坂に到着した一茶はその後、大坂を始め京都や大津、そして[[摂津国|摂津]]、[[河内国|河内]]、[[大和国|大和]]、[[播磨国|播磨]]といった近畿地方各地を回って、広く俳人との交流を深めた。交流した俳人は一茶が所属していた葛飾派の俳人ばかりではなく、他派の人たちも多かった。これは一茶の西国行脚中の寛政5年(1793年)が芭蕉百回忌に当たっていて、俳句界全体で芭蕉へ帰れという運動が巻き起こっていたことが幸いした。そのような俳句界の機運は流派同士の垣根を下げ、もともと比較的自由な気風があった関西の俳壇に身を置く形となった一茶は、流派を超えて広く俳人たちとの交流を行うことが可能な境遇に恵まれたのである<ref>矢羽(2004)pp.57-63、p.68</ref>。
寛政7年、一茶は寛政4年からの西国俳諧修行の旅の成果を「たびしうゐ(旅拾遺)」という本にまとめ、出版する。当時、句集を出版する場合には句の作者は一句ごとにお金を支払う、いわば出句料を拠出する習慣があった。つまりたびしうゐで紹介された句の作者は応分の出句料を一茶に支払ったものであると考えられるが、実際問題として一茶自身も相当額の自己資金を拠出したと考えられている。西国俳諧修行中、一茶は各地の俳人を巡る中でいわば俳諧の先生として受け入れられ、報酬を得ながら旅を続けてきた。一茶は多くの俳人からその実力を認められ、相当額の報酬を手に入れることが出来たため、たびしうゐの出版に漕ぎつけられたものと考えられている<ref>矢羽(2004)p.63、渡邊(2015)pp.97-98</ref>。
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前述のように一茶は父の死去とそれに伴う遺産を巡る継母、弟との骨肉の争いを「[[父の終焉日記]]」にまとめている<ref group="†">矢羽(2004)p.162によれば、父の終焉日記という題名は[[束松露香]]によるものであり、束松の命名が定着している。</ref>。親族間の遺産相続における争いごとは比較的ありふれた出来事ではあるが、江戸期以前の日本では文学の題材として取り上げられることが無かった題材であった。赤裸々に描かれた遺産を巡る親族間の骨肉の争いは読者にやるせない思いを抱かせるものである一面、極めて人間的なテーマを[[私小説]]風にまとめ上げており、「父の終焉日記」は日本の[[自然主義文学]]の草分けであるとの評価がなされるようになった<ref>小林(1986)p.93、矢羽(2004)p.80、pp.163-165</ref>,<ref>[[マブソン青眼]]「『父の終焉日記』の文体にみる比喩表現」、俳文学会刊行『連歌俳諧研究』・100号・2001年2月</ref>。もちろん「父の終焉日記」は一茶の視点によって書かれたものであり、内容的にも創作が見られ、遺産相続問題において、一茶が善人、継母と弟が欲にまみれた悪人であるように描かれた記述は慎重に読まねばならない<ref>小林(1986)p.95、矢羽(2004)pp.80-81、p.165</ref>。
現実問題として父が倒れた時期は農繁期に当たっていて、継母と弟は日々の農作業に追われ、勢い、父の看病は一茶に任される形となった。これは継母、弟にとって終始父の看病に当たっている一茶が重態の父を
父、弥五兵衛は一茶に対してかねがね妻を娶って柏原に落ち着くように勧めていた。一茶自身も父に対して「病気が治ったら、元の弥太郎に戻って農業に精を出し、父上を安心させたい」と語り、帰郷の意思があることを表明した。そして家を離れ、俳諧師として浮草のような生活を続けていることについて反省を述べている。農民の子として生まれながら、汗して田畑を耕すことなく生きていくことに対する罪悪感は、一茶の脳裏を一生離れることが無かった<ref>小林(1986)pp.89-90、矢羽(2004)pp.81-82、青木(2013b)p.49</ref>。このような一茶の姿を見た父は、一茶と弟、仙六とで財産を均分するよう指示した遺言状をしたため、一茶に手渡したと考えられている<ref group="†">父の終焉日記には、父の遺言状について特に記載されていない。後藤、宗村(2016)p.142 では、その後の遺産相続問題の経緯から見て、遺産を均分相続させるとの内容の遺言状が実在したことは間違いないと判断している。</ref><ref>小林(1986)p.93</ref>。
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文政元年5月4日([[1818年]]6月7日)、妻、菊は女の子を生む。女の子は「賢くなれ」との願いを込め、さとと名付けられた。愛児さとの生と死を主題とした俳文「おらが春」は、一茶渾身の作といってよい内容であり、文字通り代表作とされている<ref>小林(1986)pp.203-205、丸山(2000)p.14、矢羽(2004)p.140</ref>。
さとは最初のうちはすくすくと成長する。おらが春ではあどけないさとの姿と、目に入れても痛くない父、一茶自らの親馬鹿ぶり、そして母の菊が
{{Quotation|蚤(のみ)の跡かぞへながらも添乳かな}}
愛児さとが蚤に食われた跡を数えつつ
ところがまもなく運命は暗転する。文政2年([[1819年]])5月末、さとは[[天然痘]]に感染する。天然痘自体は6月に入ってかさぶたが落ち、小康状態になったかに見えたが、体調は一向に回復せず、治療を尽くしたにもかかわらず6月21日(1819年8月11日)に亡くなってしまった。一茶はおらが春に愛しいわが子を失った親としての嘆きを綴った上で、
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今後の一茶研究の課題としては、まず蕪村などよりも進んでいるとされる伝記面の研究に対して、作品研究が立ち遅れているとの指摘がある。中でも個々の作品、著作についての研究の深化とともに、遅れが目立つとされている連句の研究を進めていくこと、一茶が俳壇に身を投じた天明期から亡くなる文政期までの俳壇における位置づけの確認などといった課題が挙げられている<ref>矢羽(1993)p.557、高橋(2013)p.43</ref>。また一茶の資料的なものはほぼ出揃った感がある中で、学際的な研究を進めていって、文学的方面ばかりではなく、より広い視野から一茶の実像を見直していくことが求められているとされている<ref>渡邊(2006)pp.142-144</ref>。
[[2025年]]6月24日放送の『[[開運!なんでも鑑定団]]([[テレビ東京]])』において、依頼者がネットオークションで購入した『小林一茶の書』が鑑定に出された。[[愛知東邦大学]]客員教授・増田孝氏による鑑定が行われ、一茶による未発見の発句であると診断された。同書には文頭に「東都にかへる人をおくる」とあり、そこから
{{Quotation|むくかたや 一足 ツヽに 花盛り}}
と続く。日付は「閏正月十五日」と記載されていることから[[1822年]]の作と推測され、署名部分には「志那のゝ一茶」と記されている<ref>{{Cite web |title=小林一茶の書|開運!なんでも鑑定団|テレビ東京 |url=https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20250624/03.html |website=テレビ東京 |access-date=2025-06-25 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=5000円が300万円に!小林一茶「新発見の句」:開運!なんでも鑑定団(テレ東プラス)|dメニューニュース |url=https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/tvtokyo/entertainment/tvtokyo-17117 |website=topics.smt.docomo.ne.jp |access-date=2025-06-25 |language=ja |last=テレ東プラス}}</ref>。
== 句の特徴 ==
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としてオープンした。一茶双樹記念館では秋元家の家業であった[[みりん]]関連の資料とともに一茶にまつわる俳句資料が展示され、流山市民の句会や茶会などにも利用されている<ref>流山市立博物館(2015)pp.163-166、pp.172-173、p.175</ref>
また[[東京都]][[足立区]][[竹ノ塚]]の炎天寺では、昭和37年([[1962年]])から一茶まつりを行っており、また小動物や子どもを詠んだ一茶の句が子どもの情操教育に役立つという見地から、翌昭和38年([[1963年]])以降一茶まつりの中で、全国小中学生俳句大会を開催している<ref>[https://www.city.adachi.tokyo.jp/hodo/29issa-matsuri.html 足立区、2017、『全国から一茶ファン・俳句ファンが集結!小林一茶ゆかりの炎天寺で毎年恒例の「一茶まつり」が開催されました。] 2018年1月7日閲覧、[
== 著作 ==
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== 登場作品 ==
=== 小説、戯曲 ===
:*『一茶』[[藤沢周平]]、昭和53年([[1978年]])、[[文藝春秋|文芸春秋社]]<ref name="yaba_1993 _588">矢羽(1993)p.588</ref>
:*『小林一茶』[[井上ひさし]]、昭和55年([[1980年]])、[[中央公論新社|中央公論社]]<ref name="yaba_1993 _588" />
:*『一茶下総旅日記』[[伊藤晃 (作家)|伊藤晃]]、昭和57年([[1982年]])、[[崙書房]]<ref name="yaba_1993 _588" />
:*『俳人一茶捕物帳』[[笹沢左保]]、[[平成]]元年([[1989年]])、[[光文社]]<ref name="yaba_1993 _588" />
:**『
:*『
:*『ひねくれ一茶』[[田辺聖子]]、平成4年([[1992年]])、[[講談社]]<ref name="yaba_1993 _588" />
:*『小林一茶』[[童門冬二]]、平成10年([[1998年]])、[[毎日新聞社]]<ref name="watanabe_2006 _140" />
=== 映画・テレビなど ===
:* 『信濃風土記より 小林一茶』1941年16mm 製作:[[東宝]]、監督:[[亀井文夫]]、解説:[[徳川夢声]]
:* 『[[まんが偉人物語
:* 『一茶と歩む 信濃奥紀行』1998年 DVD [[テイチクエンタテインメント]]、ナレーション・歌:[[さだまさし]]
:* 『[[おらが春~小林一茶~]]』2002年、[[NHK正月時代劇]]、原作:田辺聖子『ひねくれ一茶』、脚本:[[市川森一]]、
:* 『一茶』原作:[[藤沢周平]]、監督:[[吉村芳之]]、主演:[[リリー・フランキー]](2017年公開予定だったが、製作会社破綻により現在も公開されていない)<ref>{{Cite web|和書|title=お蔵入り 映画「一茶」で 地元泣く |url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO29658720Q8A420C1L31000/ |website=日本経済新聞 |date=2018-04-21 |access-date=2023-02-26 |language=ja}}</ref>
=== 歌 ===
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:* 「旅ゆく一茶」 歌:[[三橋美智也]]、作詞:[[伊吹とおる]]、作曲:[[佐伯としを]]<ref>信濃町誌編纂委員会(1968)p.1174、一茶ゆかりの里(2012)p.69</ref>
:* 「一茶さんと子どもたち」 歌:[[田中星児]]、作詞:[[横山健]]、作曲:田中星児<ref>一茶ゆかりの里(2012)p.70</ref>
:* 「一茶の雀」 歌:[[小錦八十吉 (
:* 「信濃山国――俳諧寺一茶」 歌:[[岡本敦郎]]、作詞:[[石原広文]]、補作詞:[[草井吟南]]、作曲:[[町田等]]<ref>[
== 脚注 ==
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* 栗山理一「一茶」『鑑賞 日本古典文学第32巻 蕪村・一茶』角川書店、1976
* 後藤泰一、宗村和弘「諏訪の末子相続と北信濃の均分相続 河合曽良と小林一茶の場合」『信州大学法学論集』27、信州大学大学院法曹法務研究科、2016
* 小林計一郎『小林一茶』[[人物叢書]] [[吉川弘文館]]、1986(新装版。初版は1961年刊)、オンデマンド版 ISBN
* 小林計一郎「青年期の一茶」『一茶の総合研究』信濃毎日新聞社、1987a
* 小林計一郎「村方史料から見た一茶の経済生活」『一茶の総合研究』信濃毎日新聞社、1987b
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== 関連項目 ==
{{Wikiquote|小林一茶}}▼
{{Commonscat|Kobayashi Issa}}▼
*[[俳人の一覧]]
*[[
*[[徳本#徳本と小林一茶]]
== 外部リンク ==
▲{{Commonscat|Kobayashi Issa}}
▲{{Wikiquote|小林一茶}}
* {{Kotobank}}
* [http://www.issakinenkan.com/ 一茶記念館]
* [https://nagareyama-td.com/issasouju/ 一茶双樹記念館] - 『流山本町 観光情報』〔㈱流山ツーリズムデザイン〕より
* [http://www.kobayashi-issa.jp/ 歴史公園信州高山「一茶ゆかりの里 一茶館」](一茶の真筆50点余りを収蔵、公開)
* [https://adeac.jp/shinshu-chiiki/table-of-contents/mh088000/d100080-mh088000 【おらが春】(テキスト目次)] - NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ
* [https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK0102222775 一茶一代全集] - 『信州デジタルコモンズ』([[県立長野図書館]])より
* [https://www.youtube.com/watch?v=b-SdGBnEJbs Web法話〔寺本正尚 師〕小林一茶の念仏①]・[https://www.youtube.com/watch?v=AIualNKN9Mk ②] - [[本願寺津村別院|北御堂]]YouTube内公式アカウントより
{{浄土教2}}
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