「与謝野馨」の版間の差分
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| 国略称 = {{JPN}}
| 生年月日 = {{生年月日|1938|8|22}}
| 出生地 = {{
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1938|8|22|2017|5|21}}<ref name="sankei_20170530"
| 死没地 =
| 出身校 = [[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]]第3類卒業
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| 称号・勲章 = [[正三位]]<br>[[ファイル:JPN Kyokujitsu-sho 1Class BAR.svg|40px]] [[旭日大綬章]]<br>[[学士(法学)|法学士]](東京大学・[[1963年]])
| 配偶者 =
| 子女 = 長男・[[与謝野優]]
| 親族(政治家) = 曽祖父・[[与謝野礼厳]]
| サイン =
| ウェブサイト = http://www.yosano.gr.jp/
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| 退任日7 = [[1999年]][[10月5日]]
| 国旗8 = JPN1947
| その他職歴3 = 第
| 就任日8 = [[村山内閣]])<br>([[1994年]][[6月30日]]
| 退任日8 = [[1995年]][[8月8日]]
| 国旗9 = JPN
| その他職歴4 = [[内閣官房副長官]](政務担当)
| その他職歴4 = [[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]<br>'''([[東京都第1区 (中選挙区)|旧東京1区]]→)<br>([[東京都第1区|東京1区]]→)<br>([[比例東京ブロック]]→)<br>(東京1区→)<br>比例東京ブロック<br>当選回数 10回''' '' ''▼
| 就任日9 = [[
| 退任日9 =
| 国旗10 = JPN
| その他職歴5 = [[ファイル:Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.svg|20px]] 第46代 [[自由民主党政務調査会#政務調査会長|自由民主党政務調査会長]]<br>'''(総裁:[[小泉純一郎]])''' '' ''▼
▲| その他職歴
| 就任日10 = [[2004年]][[9月27日]]▼
| 就任日10 = [[1976年]][[12月10日]] - [[1979年]][[9月7日]])<br>([[1980年]][[6月23日]] - [[2000年]][[6月2日]])<br />([[2003年]][[11月10日]]
| 退任日10 = [[2005年]][[10月31日]]▼
| 退任日10 = [[2012年]][[11月16日]]
▲| その他職歴
| 就任日11 = [[2006年]][[9月]]
| 退任日11 = 2006年[[11月]]
| その他職歴7 = [[ファイル:Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.svg|20px]] 第46代 [[自由民主党政務調査会長]]<br>'''総裁:[[小泉純一郎]]''' '' ''
}}
'''
[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]](10期)、[[議院運営委員会|衆議院議院運営委員長]](第50代)、[[文部大臣]]([[村山内閣|第117代]])、[[内閣官房副長官]]、[[経済産業大臣|通商産業大臣]]([[小渕内閣|第61代]])、[[自由民主党金融調査会#会長|自由民主党金融調査会長]](第2代)、[[
著名な[[歌人]]である[[与謝野晶子]]・[[与謝野鉄幹]]の孫(次男の子)にあたる。
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== 来歴 ==
=== 生い立ち ===
[[東京府]][[東京市]][[麹町区]](現
生後すぐに父が[[北京市|北京]]に赴任し、0歳で北京に移る。日本に帰国した4歳の頃、祖母の晶子が死去している。祖父の鉄幹は馨が生まれる3年前に死去して会っておらず、晶子との思い出も殆どなく、祖父母は身内ではなく、教科書に載っている歴史上の人物であるような気がすると自身の著書で著している。父は戦時中に[[ベルリン]]の日本大使館に勤務していたが、日本に残された家族の生活は困窮し、無賃乗車で母とともに交番へ連れて行かれたこともあったという。戦争末期に[[東京大空襲]]に遭遇している。[[港区立麻布小学校]]卒業後、[[麻布中学校・高等学校|麻布中学校]]に進学。
父が[[エジプト]]勤務になったときは、[[カイロ]]郊外・[[ヘリオポリス]]のイングリッシュスクールに編入学している。このころ、自分が敗戦国の国民であることを強烈に感じ、日本の文化・経済を一流にしたいという想いが生まれたという。その後、イギリスの[[オックスフォード大学]]への進学を目指し、一次試験までパスするが、考えを変えて日本に帰国。[[麻布中学校・高等学校|麻布高等学校]]に編入学し、[[平沼赳夫]]の同級生となる。東大受験に失敗するが、平沼によれば卒業式で表彰されるような優等生だった。駿台高等予備校(現・[[駿台予備学校]])で1年間の浪人を経て[[東京大学文科一
[[1963年]]、[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]]第3類
会社の命により、[[民社党]]の[[核拡散防止条約]]に関する訪欧調査団に原子力の専門家・通訳として同行、スイス、ユーゴスラビア、イギリス、イタリア、ドイツなどを訪問した。調査団メンバーは後の委員長[[佐々木良作]]を始め[[曽祢益]]、[[岡沢完治]]、[[渡辺朗]]。与謝野にとっては政治家と深く関わった第一歩であり、こうした民社党の面々とは政界入り後も親しい関係が続くことになる。佐々木と共にドイツ滞在中に中曽根康弘と邂逅、2人の政治家の食事のお供などをしたが、このことが政界入りの直接の契機となった。中曽根とは就職の斡旋以来、勉強会などを通じて親交があったが、帰国後にやはり同じ勉強会のメンバーであった[[渡邉恒雄]]を通じて秘書にならないかと誘いを受けた。
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[[ファイル:Yosano Kaoru 2007.jpg|200px|thumb|2007年8月27日、内閣官房長官就任時]]
[[ファイル:Kaoru Yosano.JPG|200px|thumb|[[2008年]][[9月11日]]、[[2008年自由民主党総裁選挙|自由民主党総裁選挙]]での立会演説にて]]
[[2000年]]6月の[[第42回衆議院議員総選挙]]で[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の
浪人時代はCS放送「[[朝日ニュースター]]」を始めマスメディアにしばしば登場、その頃誕生した小泉内閣の構造改革に当初は批判的であったが、徐々に方針転換して改革にも一定の理解を示すようになったほか、復活を期した2003年の総選挙前に派閥を離脱した。これは当時所属派閥であった[[志帥会]]における[[亀井静香]]との権力抗争に敗北し、以前に亀井が所属していた[[清和政策研究会]]の小泉首相に接近する事情もあった。
[[2003年]]11月の[[第43回衆議院議員総選挙]]で選挙区では僅差で海江田に敗れたが、[[重複立候補制度#復活当選|比例復活]]で3年ぶり
2006年9月26日に[[第1次安倍内閣|安倍政権]]が発足、安倍とは[[通信傍受法]]の成立にあたって協力したほか、[[財界]]との勉強会である「四季の会」を通じて親しい関係であるため、[[内閣官房長官]]として与謝野を起用する構想があったとされるが、与謝野の官僚寄りの姿勢を警戒して、小泉が待ったをかけたという<ref>{{Cite news |title=論功組閣 盟友も重用 |newspaper=読売新聞 |date=2006-9-27 |url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe6900/fe_ab_06092701.htm |accessdate=2010-4-11 |author=村尾新一 |author2=林博英 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070402092111/http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe6900/fe_ab_06092701.htm |archivedate=2007-04-02}}</ref>。結局
[[2007年]]1月初旬に退院した後も自宅療養を続け、4月13日の衆院本会議に出席し政治活動を再開し、6月8日に発売された『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』7月号に寄せた随筆「告知」にて、喉頭癌による入院だったことを公表した。
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=== 野党時代 ===
自民党下野後は[[衆議院]][[予算委員会]]に所属した。[[2010年]]2月12日の衆院予算委員会において、当時の[[鳩山由紀夫]]首相の偽装献金問題を追及し、鳩山首相を「平成の脱税王」と呼んだ。さらに、その弟で与謝野と当選同期の[[鳩山邦夫]]の「うちの兄貴はしょっちゅう[[鳩山安子|母]]のところへ行って子分に配る金、子分を養成する金が必要だと言って金をもらっていた」という発言を引き合いに出し、鳩山を厳しく追及した<ref group="注">鳩山兄弟の母・安子は[[ブリヂストン]]創業者の[[石橋正二郎]]の長女であり、鳩山兄弟は石橋の外孫にあたる</ref>。
文藝春秋(2010年4月号)で自民党執行部を批判する記事を書き、同年4月3日[[自由民主党総裁|総裁]]の[[谷垣禎一]]と直接会談し、4月7日付で離党届を提出<ref>{{Cite news |title=与謝野氏が離党届提出 |newspaper=MSN産経ニュース |date=2010-04-03 |url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100403/stt1004031242010-n1.htm |accessdate=2010-04-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101203181536/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100403/stt1004031242010-n1.htm |archivedate=2010-12-03}}</ref>。会談で与謝野は谷垣に「自民党分裂とはとらないでください、大げさに感じないでください<ref>{{Cite news |title=「自民党分裂ではない」…与謝野氏発言要旨 |newspaper=読売新聞 |date=2010-04-03 |url=http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100403-OYT1T00521.htm |accessdate=2010-04-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110917083258/http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100403-OYT1T00521.htm |archivedate=2011-09-17}}</ref>」と述べ、会談後も記者に「“自民党の分裂ではなく、一個人・与謝野馨が去ったということだと考えてほしい”と伝えた<ref>{{Cite news |title=与謝野氏 7日付けで離党へ |newspaper=NHK |date=2010-04-03 |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20100403/t10013614671000.html |accessdate=2010-04-05}}{{リンク切れ|date=2010年4月}}</ref>」と述べ、自身らの離党は自民党分裂ではないとした。4月10日の午前に「反民主・非自民を貫く」と述べ、結成を予定する新党は反民主の党であるとの認識を示し<ref>{{Cite news|title=平沼新党、午後に旗揚げ=与謝野氏「反民主・非自民貫く」 |newspaper=時事通信 |date=2010-04-10 |url=http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010041000047 |accessdate=2010-04-10}}{{リンク切れ|date=2017年5月}}</ref><ref>{{Cite news |title=「反民主」平沼新党、きょう夕に結成会見 |newspaper=読売新聞 |date=2010-04-10 |url=http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100410-OYT1T00347.htm |accessdate=2010-04-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110917063422/http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100410-OYT1T00347.htm |archivedate=2011-09-17}}</ref>、4月10日午後、[[平沼赳夫]]、[[園田博之]]らとともに、新党「[[たちあがれ日本]]」の結党を正式に発表した。そして[[4月27日]]、自民党党紀委員会は政党票で当選した比例選出議員であることや新党結党首謀者として他の自民党国会議員([[園田博之]]・[[藤井孝男]]・[[中川義雄]])に対して新党結党のために自民党離党を促したことを反党行為として、賛成9票・反対3票で与謝野に対して[[除名]]処分を下した<ref>{{Cite news |title=自民党が与謝野、舛添両氏を除名処分 |newspaper=MSN産経ニュース |date=2010-04-27 |url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100427/stt1004271059004-n1.htm |accessdate=2010-04-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101119123418/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100427/stt1004271059004-n1.htm |archivedate=2010-11-19}}</ref>。
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[[2017年]]4月30日に自民党の党紀委員会は、与謝野の近年の同党への貢献を評価して与謝野の復党を了承した<ref>{{Cite news |title=与謝野馨氏、7年ぶり復党 自民党紀委員会が了承 |newspaper=産経新聞 |date=2017-05-01|url=https://www.sankei.com/article/20170501-WYOVCV2E4NKDPB5UWV2J6EPSYA/ |accessdate=2017-05-02}}</ref>。国会議員として自民党を除名された人物の復党は[[綿貫民輔]]に次いで2例目となる。
同年5月24日、関係者が与謝野の死去を明らかにした<ref name="nhk20170524"
[[日本国政府]]は、同年6月16日の閣議において、[[正三位]]に叙することを決定した<ref>[http://www.jiji.com/jc/article?k=2017061600612&g=pol 故与謝野馨氏に正三位] - 時事ドットコム 2017年6月16日{{リンク切れ|date=2021-7}}</ref>。墓所は[[港区 (東京都)|港区]][[賢崇寺]]。
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;囲碁
:囲碁の腕前はアマ七段で、政界最強とも評されている。2007年10月に実力者の[[小沢一郎]]と勝負したが敗北した。小沢はアマ六段なので「政治的配慮ではないか」との憶測も流れたが、与謝野本人は「本当に負けた」と認めている<ref>『堂々たる政治』pp.131-132</ref>。最近はインターネットの囲碁対局サイトも利用し、[[ハンドルネーム]]は「かおる」を使用しているため対戦相手から女性と誤解されることが多いらしく、[[麻生太郎]]にネタにされている<ref>{{Youtube|H3O2MUr-0kE|J-NSC 設立総会 麻生太郎最高顧問就任挨拶(2010.6.9)}} 自民党YouTubeチャンネル</ref>。2009年[[日本棋院]]から[[大倉喜七郎賞]]を受賞。
;パソコン
402 ⟶ 409行目:
}}
{{succession box
| title = [[自由民主党政務調査会長]]
| before = [[額賀福志郎]]
| years = 第46代:2004年 - 2005年
410 ⟶ 417行目:
| title = [[自由民主党税制調査会]]長
| before = [[柳澤伯夫]]
| years = 第
| after = [[津島雄二]]
}}
460 ⟶ 467行目:
[[Category:平成時代の衆議院議員]]
[[Category:たちあがれ日本の国会議員]]
[[Category:東京大学野球部の選手]]
[[Category:与謝野家|かおる]]
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