「五箇条の御誓文」の版間の差分
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[[File:Go seimon u.png |thumb|220px|明治元年、京都御所紫宸殿にて'''五箇条の御誓文'''を公布されている様子。 [[聖徳記念絵画館]]蔵]]
'''五箇条の御誓文'''(ごかじょうのごせいもん、{{旧字体| '''五ヶ條ノ御誓文󠄁''' }}、{{lang-en-short|The Charter
▲'''五箇条の御誓文'''(ごかじょうのごせいもん、{{旧字体| '''五ヶ條ノ御誓文󠄁''' }}、{{lang-en-short|The Charter Orth}}、五箇条の誓文とも)は、[[京都御所]]の正殿・紫宸殿で[[1868年]][[4月6日]]([[明治]]元年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]])<ref group="注">原本の日付は「慶応四年戊辰三月」である。ただし、[[1868年]][[10月23日]](慶応4年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]])に出された改元の詔書により、同年は[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]にさかのぼって[[明治元年]]と定められたため、「明治元年」でもある。</ref>に[[明治天皇]]が[[天津神・国津神|天神地祇]]に[[宣誓|誓約]]する形式で、[[公卿]]や[[諸侯]]などに示した[[明治維新#明治政府|明治政府]]の基本方針<ref>{{Cite book|和書 |title=国史大辞典 |year=1985 |publisher=吉川弘文館 |page=582 |volume=5}}</ref>。正式名称は'''御誓文'''であり、以下においては御誓文と表記する<ref>{{Cite web |url=https://www.meijijingu.or.jp/about/3-3.php |title=五箇條の御誓文 |access-date=2023-09-25 |publisher=明治神宮}}</ref>。
== 沿革 ==
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御誓文の原本は、天皇の書道指南役であった有栖川宮幟仁親王が勅命によって儀式前日に清書した<ref name=":0" />。
3月14日、[[京都御所]]の正殿である[[紫宸殿]]にしつらえられた祭壇の前で、「天神地祇御誓祭」と称する儀式が執り行われた。御誓文の内容は、三条実美が神前で読み上げる形式で示された。なお、儀式の前には、天皇の書簡である御宸翰([[億兆安撫国威宣揚の御宸翰]])が披瀝され国民に下される<ref
儀式の式次第は以下の通り。まず、同日正午、京都に所在する公卿・諸侯・徴士ら群臣が着座。[[神祇官 (明治時代)|神祇事務局]]が塩水行事、散米行事、神おろし神歌、献供の儀式を行った後、天皇が出御。議定兼副総裁の三条実美が天皇に代わって神前で御祭文を奉読。天皇みずから幣帛の玉串を捧げて神拝して再び着座。三条が再び神前で御誓文を奉読し、続いて勅語を読み上げた。その後、公卿・諸侯が一人ずつ神位と玉座に拝礼し、奉答書に署名した。その途中で天皇は退出。最後に神祇事務局が神あげ神歌の儀式を行い群臣が退出した。
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御誓文は[[太政官日誌]]([[官報]]の前身)をもって一般に布告された。太政官日誌には「御誓文之御写」が勅語と奉答書とともに掲載されたほか、その前後には天神地祇御誓祭の式次第と[[祭文|御祭文]]や[[宸翰|御宸翰]]が掲載された<ref>[{{NDLDC|787614/39}} 国立国会図書館近代デジタルライブラリー]</ref>。
===
{{quotation
=== 政体書体制での御誓文 ===
慶応4年閏4月21日(1868年[[6月11日]])に明治新政府の政治体制を定めた[[政体書]]は、冒頭で「大いに斯国是を定め制度規律を建てるは御誓文を以て目的とす」と掲げ、続いて御誓文の五箇条全文を引用した。政体書
また、各地の人民に対して出された告諭書にも御誓文を部分的に引用する例がある。例えば、同年[[8月7日 (旧暦)|8月7日]](1868年[[9月22日]])の「奥羽処分ノ詔」は御誓文第一条を元に「広く会議を興し万機公論に決するは素より天下の事一人の私する所にあらざればなり」と述べ、同年10月の「[[京都府下人民告諭大意]]」は御誓文第三条を元に「上下心を一にし、末々に至るまで各其志を遂げさせ」と述べている。
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{{Wikisource|五ヶ條ノ御誓文|御誓文}}
[[ファイル:5jo1.gif|thumb|御誓文(太政官日誌掲載、経論は経綸の誤記)]]
正式な表題は、[[法令全書]]によると、「御誓文」である<ref>[{{NDLDC|787948/81}} 国立国会図書館近代デジタルライブラリー]</ref>。明治天皇自身がこれを呼ぶときは単に「誓文」という(例えば明治8年([[1875年]])の[[立憲政体の詔書]])。よく使われる「五箇条の御誓文」などの呼称は、後の時代の通称である{{Refnest|group="注"|ただし、明治6年([[1873年]])に[[明法寮]]が編纂した『憲法類編』には、「五箇條ノ御誓文」と書かれている<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|3437087/14|憲法類編 第一|format=EXTERNAL}}</ref>。}}。
御誓文の本体は、明治天皇が天神地祇に誓った五つの条文からなる。この他、御誓文には勅語と奉答書が付属している。御誓文の各条および勅語・奉答書について解説すると次の通り。
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* (現代表記)'''旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。'''
** (木戸当初案)旧来の陋習を破り宇内の通義に従ふへし
この条文は由利案や福岡案では存在せず、木戸の修正により登場した。木戸当初案の「宇内(うだい)」は「天下」「世界」の別表現である。「通義(つうぎ)」は「広く一般に通用する道理」という意味である(いずれも三省堂『大辞林』第三版)。なお、木戸自身は、[[久米邦武]]に「[[副島種臣]]の意見を入れたと記憶している」と語っている<ref>[[牧野謙次郎]]著{{国立国会図書館デジタルコレクション|1261882/1|維新伝疑史話(p.101)|format=EXTERNAL}}</ref>。
この条文を、戦前の研究者[[尾佐竹猛]]は、「旧来の陋習」は鎖国攘夷を指し、「'''天地の公道'''」は万国公法すなわち国際法の意味であり、この条文は開国の方針を規定したものとして狭く解釈していた。
しかし、これに対し、[[稲田正次]]・[[松尾正人]]・[[佐々木克]]たちは、「'''天地の公道'''」は開国の方針や国際法を示すことだけではなかったと明確に説明している。その理由として、御誓文と同時に出された宸翰に出てくる「旧来の陋習」の語がそもそも鎖国攘夷の意味に限定されていないこと、また[[木戸孝允]]自身が「打破すべき封建性」「打破すべき閉鎖性」の意味で「旧習」「旧来の陋習」「陋習」という言葉を広く使用していること、また、[[大久保利通]]でさえ木戸の「旧来の陋習」と同じ意味のことを「因循の腐臭」とより痛烈に批判していること、つまり、薩長いずれも密留学をさせ倒幕に立ち上がった開明的雄藩であったにもかかわらず長州の木戸より薩摩の大久保のほうが藩主父子・出身藩の内部事情などのためにより批判的にならざるを得ない危険な封建性・閉鎖性をより自覚していたということ([[寺田屋事件]]~[[西南戦争]])、更に、[[岩倉具視]]も他の文書で「天地の公道」という全く同じ言葉を[[万国公法]]とはおよそ次元の異なる「'''天然自然の条理'''というような意味」で用いていることなどが挙げられている。総じて、「'''天地の公道'''」(木戸当初案では「'''宇内の通義'''」)とは、普遍的な宇宙の摂理に基づく人の道を指しているものと解される。
=== 一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ ===
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* 五箇条の御誓文関係史料「[http://nihonsi.web.fc2.com/m1/goseimon/goseimon.htm 原案および修正案]」
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:こかしようのこせいもん}}
[[Category:日本の旧法令]]
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