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{{出典の明記|date=2025-10}}
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
|名前 = 上原 敏
|画像 = 上原敏.jpg
|画像説明 = 上原敏(1930年代のブロマイドより
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'''上原 敏'''(うえはら びん、本名:松本 力治(まつもと りきじ)、[[1908年]]〈明治41年〉[[8月26日]] - [[1944年]]〈昭和19年〉[[7月29日]])は、[[秋田県]]出身の[[歌手]]。「妻恋道中」「裏町人生」のヒットを持つ戦前に活躍した流行歌手。最終学歴は[[専修大学]]卒業
 
戦前に活躍した流行歌手で「妻恋道中」「裏町人生」などのヒット曲を持つが、[[第二次世界大戦]]で行方不明(のちに死亡認定)となった。最終学歴は[[専修大学]]卒業。
== 経歴 ==
昭和10年代([[1930年代]]後半から1940年代前半)に一世を風靡した歌手。
 
== 経歴 ==
秋田県[[北秋田郡]][[大館町]](現・[[大館市]])の商家「ネリヤ」に生まれる。大館中学(現・[[秋田県立大館鳳鳴高等学校]])在学中からバイオリンに熱中。音楽の素養を身に付けた。スポーツは中学時代から野球を得意とし、専修大学[[商学部]]に入学後も得意の野球を楽しみ、[[東都大学野球連盟|大学リーグ]]に選手として出場している。ポジションは[[投手]]で、1933年春と1934年春の東京五大学リーグ戦優勝に貢献した<ref>[http://sawamuraeiji.yomibitoshirazu.com/irei.htm 戦没野球選手慰霊(沢村栄治記念館のページ)]松本力治(上原敏)の項を参照</ref>。なお、4年時には主将を務めた。
=== 藤田との出会いは野球 ===
[[1908年]](明治41年)に[[秋田県]][[北秋田郡]][[大館町]](現・[[:秋田県大館市]])の商家「ネリヤ」生まれる。大館中学(現・[[秋田県立大館鳳鳴高等学校|旧制秋田県立大館中学校]]在学中から[[ヴァイオリン]]になり、音楽の素養を身にけた。スポーツは中学時代から[[野球]]を得意とし、[[専修大学]][[商学部]]に入学後も得意の野球を楽しみ、[[東都大学野球連盟|大学リーグ]]に選手として出場している。ポジションは[[投手]]で、[[1933年]](昭和8年)春と[[1934年]](昭和9年)春の東京五大学リーグ戦優勝に貢献し<ref>[http://sawamuraeiji.yomibitoshirazu.com/irei.htm 戦没野球選手慰霊(沢村栄治記念館のページ)]松本力治(上原敏)の項を参照</ref>。なお4時に生では主将を務めた。
 
大学卒業後の[[1936年]](昭和11年)に[[わかもと製薬]]宣伝部入社し、普通のサラリーマンとして社会人なったが野球は社会人野球チームに所属して続けある日の試合でレコード会社の[[ポリドール]]野球部と対戦した。その際に、上原の遠縁の親戚でポリドールの幹部であった浪曲作家[[秩父重剛]]から作詞家[[藤田まさと]]を紹介され、レコード込みを勧められる。当時ポリドール[[東海林太郎]]・[[新橋喜代三]]というスター歌手を抱えていたが、新たなスター発掘することにかなり注力していた時期でもあったからである。
 
=== 歌手デビューポスト東海林太郎 ===
[[1936年]](昭和11年)にテスト盤として「須坂小唄」など4曲をレコーディングし、同年さらに[[浅草〆香]]、[[山中みゆき]]らと共演した「しゃんつく踊り」で[[ポリドール]]からデビューした。芸名は訳詩集「[[海潮音 (詩集)|海潮音]]」の作者・[[上田敏]]に、当時の映画俳優・[[上原謙]]をもじったものである「上原敏」とした当時、前述のように「2[[東海林太郎]]」の育成に躍起だったポリドールは上原のデビューよりに[[タイヘイレコード]]から引き抜いてきた[[橋本一郎|河崎一郎]]の宣伝に。ところを注いでいたが、河崎の人気が上昇しかけた矢先に河崎を巡って訴訟問題が起こり、自然とポスト・東海林太郎の目自然に上原に注がれていった。上原は義太夫好きだった父の影響を受けて[[邦楽]]の素養もあり、[[広沢虎造]]を意識した小節を利かせた歌い方は、正統派の東海林と違ってより大衆的なカラーが強かった。この時点上原は「遠い湯の町」「恋の絵日傘」などのヒット曲は存在する出していたがのの東海林の模倣と評されるなど伸び悩んでいた。
 
そんな上原に幸運が訪れる。[[1937年]](昭和12年)に東海林が当時の子役・[[高峰秀子]]を養女をむかに迎るこようした際にトラブルが起き、東海林藤田と意見が対立した。一歩も引かない東海林に対して藤田は、東海林のために用意していた「妻恋道中」の吹き込みに上原を抜擢した。妻恋道中は発売されるや25万枚を超える大ヒットとなり、上原は流行歌手としての地位を確立した。
 
=== スター歌手に ===
[[Image:上原敏・佐野周二.jpg|200px|right|thumb|「愛馬の唄」宣伝用スチール(右は[[佐野周二]]、1938年)]]
その後は立て続けに松竹映画主題歌の「流転」、[[結城道子]]がソロでレコーディングする予定だった「裏町人生」と連続して大ヒットを続け、その素人くささの中に軟らかさを持った歌声が全国に流れた。この頃に[[秩父重剛]]の義妹・澄子と結婚、それを祝うかのように発売された翌年の「鴛鴦道中」は、新人・[[青葉笙子]]とのデュエットによりこれも大ヒットとなった。上原の快進撃はこの後も続き、「上海だより」「南京だより」「波止場気質」「徳利の別れ」「俺は船乗り」と1937年から1939年にかけては東海林を追い越す勢いで、ヒットを出し続けた。
 
上原はその後、立て続けに松竹映画の主題歌である流転」、[[結城道子]]がソロでレコーディングする予定だった「裏町人生」と連続して大ヒット曲を出し、その素人臭さの中に柔らかさを持った上原の歌声が全国に流れた。この頃に秩父の義妹・澄子と結婚すると、それを祝うかのように発売された翌年の「鴛鴦道中」は、新人の[[青葉笙子]]とのデュエットで大ヒットとなった。上原の快進撃はまだ続き、前述の妻恋道中や「波止場気質」をはじめとしたヤクザもの([[股旅もの]]に、「波止場気質」などのマドロスもの、「上海だより」に始ま「南京だより」などのいわゆる“たより”もの、そして「流沙の護り」「聲なき凱旋」などの[[戦時歌謡]]、それ以外にも「徳利の別れ」「俺は船乗り」など、[[1937年]](昭和12年)から[[1939年]](昭和14年)にかけて東海林を追越す勢いでヒット曲を量産した。このよ異なるジャンルの流行歌を上手く歌い分け、幅広いファン層を獲得していった。人気とともく上原銀幕への出演依頼多くなり増え、[[東宝映画]]「[[ロッパ歌の都へ行く]]」「金語楼の大番頭」、[[松竹映画]]「弥次喜多六十四州唄栗毛」「弥次喜多怪談道中」などに特別出演している。中でも「ロッパ歌の都へ行く」には本職の流行歌手として出演し、「親恋道中」を歌う上原のステージを偲ぶことができる。また、同じポリドールに所属していた[[榎本健一]]の舞台にも出演し、秋田なまりの朴訥とした台詞まわしで人気を博していた。
 
=== 近づく戦争の足音 ===
[[1938年]]3月から1942年まで、上原は中国大陸を戦地慰問のため通算7回訪れ、数多くの将兵の前で歌った。しかし、青葉笙子、山中みゆき、[[浅草染千代]]らと何度も戦地を慰問しては帰国後すぐにレコーディングを行うハードなスケジュールをこなした上原は徐々に健康を害し、多くの薬を常用するようになっていった。そのために、[[1941年]]にヒットした「仏印だより」の頃にはだいぶ声が荒れ、デビュー当時の軟らかな歌声は失われてしまっている。日米開戦後、勇壮な軍歌や叙情的な歌曲が中心となると上原が得意とした股旅歌謡は衰退、彼の歌い方も時局に合わなくなり人気も凋落していった。
[[1938年]](昭和13年)3月から[[1942年]](昭和17年)まで、上原は[[中国大陸]]を戦地[[慰問]]で通算7度訪問し、数多くの将兵の前で歌った。
 
[[1938年]]3月から1942年まで、上原は中国大陸を戦地慰問のため通算7回訪れ、数多くの将兵の前で歌った。しかし青葉笙子、山中みゆき、[[浅草染千代]]らと何度も戦地を慰問しては帰国すぐにからレコーディングを行うするハードなスケジュールをこな消化ていた上原は徐々に健康体調害し崩すようになり、多の薬を常用するようになっていった。そのために[[1941年]](昭和16年)にヒットした「仏印だより」の頃にだいぶ声が荒れ、デビュー当時のらかな歌声は失われてしまっている。日米さらに[[第二次世界大戦]]が開戦すると世間は勇壮な軍歌や叙情的な歌曲が中心となるとって上原が得意とした股旅歌謡は衰退さらに上原の歌い方そのものも時局に合わなくなって人気も凋落していった。
性格は生真面目で、歌手というよりもサラリーマンのような質素な生活を続け、借家暮らしを通した上原であったが、いずれ歌手を廃業するつもりであったのか、千葉県で牧場を経営することを検討していたと夫人が述懐している。酒好きで、後輩の面倒見も良かった上原は、誰からも「敏さん」と呼ばれて慕われていた。律儀な人柄でも知られ、1939年に[[日本コロムビア|コロムビア]]と[[テイチク]]が多額の支度金を用意して上原を引き抜こうとした際にも、「こうして歌手として成功したのもポリドールのお陰です」と全く応じることがなかった。
 
上原の性格は生真面目で、歌手というよりも元々がサラリーマンのようなだったこともあって流行歌手といっても質素な生活を続け、借家暮らしを通した上原であったが、いずれ歌手を廃業するつもりであったのか、[[千葉県]][[牧場]]を経営することを検討していたと夫人澄子が述懐している。酒好きで後輩の面倒見も良かった上原は、誰からも「敏さん」と呼ばれて慕われていた。おり、さらに律儀な人柄でも知られたことから[[1939年]](昭和14年)に[[日本コロムビア|コロムビア]]と[[テイチク]]が多額の支度金を用意して上原を引き抜こうとした際にも、「こうして歌手として成功したのもポリドールのお陰です」と全く応じることがなかった。
 
=== 召集、戦地へ ===
[[1942年]](昭和17年)[[東京市|東京]]・[[渋谷区|渋谷]]の劇場に出演後、してから[[大久保 (新宿区)|大久保]]の自宅に帰ったところ、澄子から[[召集令状]]が来ていることを夫人から告げられた。しかし上原は顔色も変えずにそのまま支度を始めたという(夫人澄子の証言)。
 
ポリドール社長の鈴木社長、幾三郎や山中みゆきらに[[上野駅]]で見送られ、地元秋田で[[入営]]するため夫人澄子ともに帰郷したが、積極的な慰問活動の実績や30も過ぎ代を迎えての召集には不可解な面があも存在す。しかしこれはのちに上原敏と本名の松本力治を別人物と判断した[[秋田県]]のミスであったことが判明した。)
 
入隊後は、上原が流行歌手であることを知っていた上官から何度も「貴殿は報道班員として内地に残るように」と勧められたが、上原自ら戦地行きを自ら希望し、[[輜重兵]]として[[ニューギニア島|ニューギニア]]戦線に赴いている。現地では様々な先で気軽に慰問に応じ、最前線の将兵を励まし続けた。
 
[[1944年]]1(昭和19年)1月には夫人澄子に宛てた軍事郵便が届き、現地の食糧事情の苦しさを知らせてきている。さらに戦地では[[マラリア]]に感染し死線を彷徨った。日本軍の敗色が濃厚となってきた1944年7月、上原はウエワク方面で連合国軍の上陸による激しい戦闘に巻き込まれ消息を絶った。
 
=== 戦死とその後 ===
[[Image:上原敏の顕彰碑.jpg|200px|right|thumb|上原敏の顕彰碑]]
終戦後の[[1947年]](昭和22年)妻の澄子夫人宛に「昭和19年7月29日、補充兵長・松本力治はニューギニア方面にて戦病死」との公報が届いた。ただ帰還した戦友が夫人澄子に語ったところによれば戦病死ではなく空襲を受けての戦死だったともいい、没し」「亡くなった日4月30日であったとの証言もあり、詳細な最期は不明である。好敵手であった東海林太郎が歌手としてデビューした年齢と同じ36歳という年齢での無念の死である。東海林太郎、同じ会社ポリドール同僚としてその死を悼み「上原君はどうも帰って来られなくなったらしい。大衆の心を捉える歌い方をするいい歌手だった」と知人に語ったという。
 
「鴛鴦道中」で上原とともにスターとなった青葉笙子は、結婚のために[[1941年]](昭和16年)に芸能界を引退しており、上原が出征したことも知らなかったが、終戦直後偶然にも上原敏戦死の見ていた新聞記事で上原の戦死見つけ知った。わず青葉は、僅か7年間の歌手生活を駆け抜けた上原を偲び、青葉笙子は上原敏のんで顕彰活動を続け、平成に入ってからも澄子未亡人ともに上原の終焉の地を訪れ、英霊に届けとばかりに「流転」を歌って、その死を悼んだ。上原の人生は、サラリーマンから芸能界という華やかな世界に転しながらも、一人の小市民として戦争の時代という抵抗できない波の中に消されてしまった。
 
[[1976年]](昭和51年)、上原の故郷である秋田県大館市の[[桂城公園]]に上原の顕彰碑が建立された。現在は、上原の戦死した日とされる7月29日に、慰霊祭である流転忌が毎年行われている。没後80年を迎えた2024年の流転忌には、20代の若者<ref>[[秋田魁新報]] 2024年8月5日「上原敏しのびファン合唱 出身地・大館で「流転忌」」p.20</ref>や留学生<ref>[[北鹿新聞]] 2024年7月30日「上原敏歌い継ぐ 大館で「流転忌」没後80年にしのぶ」p.9</ref>も参加しており、世代を超えた人気の高さを示している。
[[1976年]]、上原の故郷である秋田県大館市の[[桂城公園]]に、上原敏の顕彰碑が建立された。
[[2000年]](平成12年)[[9月26日]]には、ドキュメンタリー番組「ジャングルの鎮魂歌 ~上原敏と戦後~」([[秋田テレビ]]制作)<ref>[https://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/backnumber/back/00-298.html FNSFNSドキュメンタリー大賞]</ref>が放送されたほか、上原の没後70年を迎えた[[2014年]](平成26年)には、母校の専修大学で企画展が開催され、多くの来場者を集めた。また、[[大館郷土博物館]]内の先人顕彰のコーナーでも、上原は[[小林多喜二]]、[[佐藤周子]]らとともに紹介されている
現在は上原の戦死した日とされる7月29日に、慰霊祭である流転忌が毎年行われている。
[[2000年]][[9月26日]]には、ドキュメンタリー番組「ジャングルの鎮魂歌 ~上原敏と戦後~」([[秋田テレビ]]制作)<ref>[https://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/backnumber/back/00-298.html FNSドキュメンタリー大賞]</ref>が放送されたほか、上原の没後70年を迎えた[[2014年]]には、母校の専修大学で企画展が開催され、多くの来場者を集めた。
 
== 代表曲 ==
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*:作詞:[[松坂直美]]/作曲:[[大村能章]]/編曲:
*'''恋の絵日傘''' (1936.12)
*:作詞:[[矢島寵児]]/作曲:[[島口駒夫]]/編曲:
*'''妻恋道中''' (1937.4)
*:作詞:[[藤田まさと]]/作曲:[[阿部武雄]]/編曲:阿部武雄
*'''声なき凱旋''' (1937.6)
*:作詞:[[島田磬也]]/作曲:[[能代八郎|佐藤富房]]/編曲:[[細田定雄]]
*'''流転''' (1937.7)
*:作詞:藤田まさと/作曲:阿部武雄/編曲:
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*:作詞:島田磬也/作曲:阿部武雄/編曲:阿部武雄
*'''流沙の護り''' (1937.10)
*:作詞:[[紫室代介]]/作曲:佐藤富房/編曲:細田定雄
*'''上海だより''' (1938.1)
*:作詞:[[佐藤惣之助]]/作曲:[[三界稔]]/編曲:三界稔
*'''鴛鴦道中''' 共演:[[青葉笙子]] (1938.1)
*:作詞:藤田まさと/作曲:阿部武雄/編曲:阿部武雄
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*:作詞:[[清水みのる]]/作曲:山田栄一/編曲:山田栄一
*'''北満だより''' (1938.12)
*:作詞:佐藤惣之助/作曲:三界稔/編曲:三界稔:(1938)
*'''部隊長と兵隊''' (1938) 共演:東海林太郎 (1938)
*:作詞:佐藤惣之助/作曲:飯田景応/編曲:飯田景応
*'''俺は船乗り''' (1939.2)
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*:作詞:藤田まさと/作曲:服部逸郎/編曲:服部逸郎
*'''男船乗り''' (1939.12)
*:作詞:[[樋口晴雄]]/作曲:飯田景応/編曲:飯田景応
*'''鴛鴦春姿''' 共演:青葉笙子 (1940)
*:作詞:藤田まさと/作曲:長津義司/編曲:
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*:作詞:[[小島政二郎]]/作曲:飯田景応/編曲:飯田景応
*'''南海の護り''' (1942.5)
*:作詞:[[逵原実]]/作曲:[[東條武士]]/編曲:
*'''潜水艦日記''' (1943.3)
*:作詞:[[矢島寵兒]]/作曲:若倉晴生/編曲:倉若晴生
 
== 脚注 ==
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* 今西英造「演歌に生きた男たち その栄光と挫折の時代」 中公文庫
* 伊多波英夫「密林の絶唱 上原敏」 あきたさきがけブック16 [[秋田魁新報]]
* 大西功「アイケ・コプチャタの唄 - 歌手・上原敏の数奇な生涯を追って」 秋田魁新報社
 
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20010117034400/http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/uehara.htm 上原敏の戦時歌謡]
 
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[[Category:日本の男性歌手]]
[[Category:戦前の流行歌手]]
[[Category:秋田県出身の人物]]
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[[Category:太平洋戦争で戦死した人物]]
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[[Category:1908年生]]
[[Category:1944年没]]