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また、国語辞典・百科事典に[[大東流合気柔術]]・合気道があっても、合気の意味(由来)の説明はない。『剣道事典』の合気は相気の資料があり、大東流の合気は調査していない。近年、大東流合気武道本部の情報公開、武田惣角の前半生、[[会津藩]][[御式内]]、宮司[[保科近悳]]の研究もあり、大東流における合気の意味の歴史的考察は以下のとおり明らかになった。なお、故郷[[会津坂下町]]の郷土学習副読本に、武田惣角は[[大東流合気柔術]]中興の祖から創始者に訂正(2017年7月21日)されたこともあり、以下の通り、説明は長くなる。
# [[大正2年]]、武田惣角は教授代理佐川子之吉のノートに、「アイキ」の技を教えた記述がある。また、大正11年、神道系の[[出口王仁三郎]]が[[植芝盛平]]に教えた合気の意味は、双方の史料に見られないという研究・論文がある。しかし、当時、合気の意味(由来)に関する文献は多数発表されている。
# [[平成22年]]、[[月刊秘伝|『月刊秘伝』]]に武田惣角の後継者・大東流合気武道宗家の「[[武田時宗]]遺稿集」が発表された。父惣角は自筆文献を残さなかったが、惣角遺言、秘伝中伝、「武田惣角一代記」などが初公開された。伝承の大東流歴史と異なる内容が見られ、合気の意味、大東流創始者を示唆している。武田は[[民間療法]]、[[占い]]、[[真言密教]](マントラ・ヨーガ)、[[神道]]、[[瞑想]]、[[呼吸法]]、[[修験道]]の気合術・[[九字護身法]]の早九字・[[呪術]]の足止め術などを修行したという。事例として、高弟[[佐川幸義]]は「武田大先生の記録」にそろばん占いを見た。[[易学]]を20年研究して、合気の原理は易と同じ森羅万象との調和といわれる。大東流合気武道会報7号の合気の秘法にも、人の生は気によるもの、気を養うことである。呼吸法により臍下[[丹田]]に気を充実させ、気力集中をはかり精神統一。不迷不怖の不動心、無念無想の神気境地に到達せしめ、天地万物の気に合わせ、吉凶禍福を悟り、これに対処する身の軽重、人心透視、未来予知の秘法に至るとある。
# '''「[[武田惣角]]一代記」'''は、時宗が父惣角の前半生の口伝を記録したものである。大東流歴史に語られていない生家同居人の藩士佐藤家(藩主護衛役の御供番、[[居合術]]の先生、[[御式内]])、父惣角の助手になった妻の実家も調査した。また、父惣角の超能力開発法(密教念力)の修行は、指導を受けた人物の記述がない。父惣角の晩年の口伝、時宗の調査・独自研究が混在しており、武道専門家、大学教授でも時宗の独自研究を見抜くことは難しい。それでも情報非公開の壁があった大東流の研究に、期待された史料を公開した。注目されるのは、実技の鍛錬法に'''気合の法は気吸い上段右足から打ち込み「ヤア」、合気法は真言密教のヨーガ・チャクラの呼吸法'''で、初の文献として歴史的資料の価値がある。ところが、「武田惣角一代記」をコメントした専門家は見当たらない。
# 武田惣角が修行した専門分野は、武術・民間療法・気合術・易学・修験道・九字護身法・真言密教・[[ヨーガ]]・[[神道]]・呪術・[[忍術]]([[忍者八門]])・瞑想法・呼吸法・[[民俗]]学など多岐にわたる。[[日本武道学会]]の雑誌「武道学研究(論文14件)」、[[国際日本文化研究センター]]などの研究を見ると、大学教授は大東流歴史に疑問を感じても、故郷会津、合気の意味(由来)、武田の超能力開発法、[[国立国会図書館#国立国会図書館デジタルコレクション|国立国会図書館デジタルコレクション]]の文献を調査した形跡がない。合気の意味(由来)は民間療法と関係が深く、武道学会の医学博士なら容易に理解できる。[[武道学科|武道学会]]は最新の情報収集、科学的な研究を行うが、専門分野が多岐に渡り、宗家・子弟制度の壁もあり、研究されない事例が次のとおりである。昭和62年、大東流合気武道の歴史が初めて故郷[[会津]]に紹介された結果、生家武田家の先祖、[[墓石]]・墓碑、父力士隊長、藩政時代の生家身分などは、郷土史料との相違点が多い。武田は故郷会津で警察署・陸軍部隊・武術関係者に指導した形跡がない。会津の地元関係者は、大東流は会津発祥であると[[武田時宗]]が証言したという。したがって、戦前に見られる仮託・創作の歴史である。地元関係者の間で、武田は[[大東流合気柔術]]中興の祖ではなく、創始者の明確な結論が出ている。しかし、戸籍、地元関係者、[[御式内]]の証拠、合気の意味などが不明のため、故郷会津における大東流の評価は低い。武田を中興の祖とする作品も、故郷会津では評価されていない。意外なことは、この事実を武道学会、大学教授、出版社などは認識していない。結果として、合気柔術を創始した武田の正当な評価、地元が期待する大東流発祥の記念碑建立、観光開発、大東流の組織拡大などの阻害要因になっている。見識の高い作家の小説・評伝は大東流創始者に修正した。
# 高弟[[佐川幸義]]は、[[保科近悳]](身長約140センチ)の容姿の写真を見て、武田に合気柔術を教えた説に疑問を呈した。調査の結果、武田の[[壬申戸籍]](明治5年)控は「摠角」、現在の原戸籍も[[万延]]元年([[1860年]])[[10月10日]]生まれ。生家は農民、屋敷神(御伊勢宮)、藩政時代は斎藤姓、幕末は竹田姓、明治5年に初めて武田姓になった。戦後、宗家を継承した[[佐川幸義]]、[[武田時宗]]は会津の長男宗清に面会した時、指導したとされる惣右衛門の墓石(父惣吉が生まれる前に死去)、柳津円蔵寺の小野派一刀流奉納額(旧竹田姓、隣の佐藤忠孝)、母コンの実家は隣の藩士佐藤家(御供番、義兄忠孝)を見て、武田は大東流創始者ではないかと思った可能性がある。
# [[霊山神社|福島県霊山神社]]宮司保科近悳(元[[西郷頼母]])は、武田に大東流の名称・歴史・甲斐武田家子孫を与えた。また、保科が与えた和歌「しるや人 川の流れを打てばとて 水に跡ある物なら那久耳」は、武術の技とは無関係で、『[[方丈記]]』「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」から引用、人生の無常観を詠った。さらに、保科の生涯日誌(全646名)に、武田惣角、[[武術]]、民間療法 、[[真言密教]]、修験道の記述は見られない。保科が武田に修験道の修行、御式内の秘術を伝授したといわれる福島県霊山寺([[天台宗]])は、江戸時代以降、修験者・修験道場が存在しない。このことから、保科が武田に合気柔術を教えた可能性は低い。
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*『歴史春秋№95』「易師中川万之丞の業績」池月映 会津史学会編 歴史春秋社 2024
*『会津人群像№48』「昭和の易聖加藤大岳(著書は佐川幸義も研究)」池月映 歴史春秋社 2024
*『我が故郷の文化のあゆみ』「明治5年から御池田全戸籍名簿」大東流合気武道坂下支部幹事長佐藤衛 1996
*『佐藤ノブの百年の歩み』佐藤武雄(武田惣角妻コンの実家、同居人会津藩士佐藤金右衛門) 2003
==脚注==
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