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{{基礎情報 書籍
| title = オズの魔法使い
| orig_title = The Wonderful Wizard of Oz
| image = Wizard title page.jpg
| image_size =200px 200
| image_caption = 初版の表紙
| author = [[ライマン・フランク・ボーム]]
| translator =
| illustrator = [[ウィリアム・ウォーレス・デンスロウ|W. W. デンスロウ]]
| series = [[オズ・シリーズの一覧]]
| published = {{flagiconflag|USA}} [[1900年]]5年9171
| publisher = [[ジョージ・M・ヒル・カンパニー]]
| genre = [[幻想文学|ファンタジー]]、[[児童文学]]
| country = {{flagiconflag|USA}}[[アメリカ合衆国]]
| language = 英語
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| followed_by = [[{{仮リンク|オズの虹の国]]|en|The Marvelous Land of Oz}}
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<!--この記事は小説について述べており、映画とは違い異なります。映画で観たことから編集を行なわず、小説を読んでから編集を行なって下さい。-->
『'''オズの魔法使い'''』(オズのまほうつかい、''The Wonderful Wizard of Oz'')は、[[ライマン・フランク・ボーム]]が著し、W. W.デンスロウが挿絵を担当した[[児童文学]]作品。1900年5月17日、[[アメリカ合衆国]][[イリノイ州]][[シカゴ]]のジョージ・M・ヒル・カンパニーから初版が出版され、以降何度も再版された。
 
当初の原題とは異なるが、1902年のミュージカル『[[オズの魔法使い (1902年のミュージカル)|オズの魔法使い]]』(''[[:en:The Wizard of Oz (1902 musical)|The Wizard of Oz]]'')、1939年の映画『[[オズの魔法使]]』(''[[:en:The Wizard of Oz (1939 film)|The Wizard of Oz]]'')から以降は『''The Wizard of Oz'' 』という題名が定着した。
 
== 概要 ==
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== 出版 ==
{{multiple image
| footer = シカゴのジョージ・M・ヒルによる初版表紙(右)と裏表紙(左)
| width1 = 180
| image1 = The Wonderful Wizard of Oz - W.W. Denslow cover (back).jpg
| alt1 = 裏
| width2 = 190
| image2 = Wizard oz 1900 cover.jpg
| alt2 = 表
}}
1900年5月17日、ボーム自身が手作りした最初の本は姉妹のメアリー・ルイズ・ボーム・ブリュスターに贈られた。7月5日から20日にシカゴのパーマー・ハウスで行われたブック・フェアで一般に初公開された。8月1日に著作権を申請し、9月に確立した<ref>Katharine M. Rogers, ''L. Frank Baum,'' pp. 73–94.</ref>。ジョージ・M・ヒル・カンパニーから出版され、1900年9月1日には初版1万部が売り切れた。1900年10月までに1万5千部の第二版がほぼ売り切れた<ref name="NotesSeptember1900">{{cite news |title=Notes and News |newspaper=[[The New York Times]] |date=October 27, 1900 |url=http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9B03E2DF143FE433A25754C2A9669D946197D6CF |accessdate=December 3, 2010 |archiveurl=httphttps://www.webcitation.org/5ui5qtmRE |archivedate=December 3, 2010 }}</ref>。
 
ボームから兄弟のハリーへの手紙によると、出版者のジョージ・M・ヒルは25万部の売り上げを見込んでいた。当初ヒルはこの本が売れるとは思ったが、これほどの大ヒットになるとは予測していなかった。シカゴ・グランド・オペラ・ハウスのマネージャーのフレッド・R・ハムリンは本のさらなる宣伝を兼ねてミュージカル化を打診し、ボームは脚本の執筆に同意した。1902年6月16日、ミュージカル『オズの魔法使い』が初演された。この作品は大人向けの「ミュージカル大作」として製作され、衣裳はデンスロウの挿絵を基にデザインされた。1901年、ヒルの出版社は破産し、ボームとデンスロウは[[インディアナポリス]]のボブス・メリル・カンパニーが出版を引き継ぐことに同意した<ref name="MacFall">{{cite news |title=He created 'The Wizard': L. Frank Baum, Whose Oz Books Have Gladdened Millions, Was Born 100 Years Ago Tuesday |author=MacFall, Russell |newspaper=[[Chicago Tribune]] |date=May 13, 1956 |url=http://image2.newsbank.com/img-ctha/clip/1956/05/13/19560513C007270011100013.pdf |accessdate=November 28, 2010 |archiveurl=httphttps://www.webcitation.org/5uZYJbv6d |archivedate=November 28, 2010 |format=PDF}}</ref>。
 
1944年、ボームの息子ハリー・ニール・ボームは『[[シカゴ・トリビューン]]』紙に父親は本を書く前に子供たちに話をして聞かせていたと語った。ハリーは父親を、『[[6ペンスの唄]]』の[[クロウタドリ|黒ツグミ]]がパイの中で焼き込められた理由を的確に述べることができる、これまで出会った人々の中で最も素晴らしい人物だと語った<ref name="Sweet">{{cite news |title=Tells How Dad Wrote 'Wizard of Oz' Stories |author=Sweet, Oney Fred |newspaper=[[Chicago Tribune]] |date=February 20, 1944 |url=http://image2.newsbank.com/img-ctha/clip/1944/02/20/19440220C007270011300008.pdf |accessdate=November 28, 2010 |archiveurl=httphttps://www.webcitation.org/5uZbon29E |archivedate=November 28, 2010 |format=PDF}}</ref>。
 
1938年まで100万部以上が増刷された<ref name="Verdon">{{cite journal |last=Verdon |first=Michael |year=1991 |title=The Wonderful Wizard of Oz |publisher=[[:en:Salem Press|Salem Press]] }}</ref>。それから20年弱後の1956年には300万部を売り上げた<ref name="MacFall" />。
 
== あらすじ ==
[[アメリカ合衆国]][[カンザス州]]でエム叔母さん、ヘンリー叔父さん、小さな飼い犬のトトと共に少女ドロシーは暮らしている。ある日、ドロシーとトトは[[竜巻]]に家ごと巻き込まれて、不思議なオズ王国の中のマンチキンの国へと飛ばされてしまう。落ちた家は、マンチキンたちを独裁していた東の悪い魔女を圧死させる。北の良い魔女がやってきてマンチキンたちと喜びを分かち合い、悪い魔女が履いていた不思議な力を持つ銀の靴をドロシーに授ける。良い魔女はドロシーに家に帰れる唯一の方法はエメラルドの都に行って壮大な魔力を持つオズの魔法使いに頼むことだと語る。ドロシーは旅に出ることにし、北の良い魔女はドロシーを大事故から守るため、おでこにキスして魔法をかける。
 
黄色いレンガ道を進み、ドロシーはボクという名のマンチキンによるパーティに出席する。翌日ドロシーは棒に引っ掛かったカカシを助け、ブリキの木こりに油をさし、臆病なライオンと出会う。カカシは脳を、ブリキの木こりは心を、ライオンは勇気を手に入れる願いを叶えてもらうため、ドロシーとトトと共に魔法使いに助けを求めにエメラルドの都に向かう。いくつかの冒険を乗り越え、一行はエメラルドの都の門で門番に会うと、街の輝きで目が眩まないように緑の眼鏡をかけるように言われる。1人1人呼ばれ、ドロシーは大理石の王座の上の巨大な頭、カカシは絹の紗に包まれた愛らしい女性、ブリキの木こりは恐ろしい野獣、臆病なライオンは火の玉の形をした魔法使いに会う。魔法使いはもしオズ王国のウィンキーの国を独裁する西の悪い魔女を殺せば全員の願いを叶えると語る。警備員はこれまで誰も西の悪い魔女を倒したことがないと警告する。
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一行がオズの魔法使いに再会した時、トトが王座の隅のスクリーンを倒してしまうと、本物の魔法使いが現れる。彼は平凡な老人の詐欺師で、だいぶ前に[[ネブラスカ州]][[オマハ (ネブラスカ州)|オマハ]]から気球でオズにやってきたと申し訳なさそうに語る。魔法使いはカカシに新しい脳("a lot of bran-new brains"、実際は[[糠]](bran)と針を詰めた頭)を、ブリキの木こりには絹の心(おがくずを詰めたハート型の絹の袋)を、臆病なライオンには勇気が出る薬(四角の緑の瓶から出した液体)を与える。彼らは魔法使いの力を信じているため、これらをもらって喜ぶ。魔法使いはドロシーとトトをエメラルドの都から家に気球で連れていくと語る。離陸時、魔法使いはカカシに自分の代わりにオズ王国の統治を任せると語る。トトが子猫を追い掛け、ドロシーがそれを追うと気球は魔法使いのみを乗せて飛び立つ。
 
ドロシーは再び飛ぶ猿を集めてトトと共に家に飛ぼうとするが、彼らはオズ王国を囲む砂漠を飛び越えることはできないと語る。緑の髭の兵士がドロシーに南の良い魔女グリンダが家に帰らせてくれるかもしれないと助言し、一行はオズのカードリングの国に住むグリンダに会う旅を開始する。道中、臆病なライオンは森の動物たちを脅かす巨大な蜘蛛を殺す。動物たちは臆病なライオンに王になってくれるよう頼み、ドロシーを無事にカンザスに帰したら引き受けると語る。ドロシーはみたび飛ぶ猿を集め、山を越えてグリンダの国へ行く。グリンダは一行に挨拶し、ドロシーが履いている銀の靴こそが望む場所へ連れていってくれると明かす。ドロシーは友人たちと抱き合い、友人たちは黄金の冠を使ってカカシはエメラルドの都へ、ブリキの木こりはウィンキーの国へ、ライオンは森へ、それぞれが新しい国へ行くことになり、黄金の冠は飛ぶ猿の王に与えられる。ドロシーはトトを腕に抱き、かかとを3回合わせ家へ帰ることを唱える。ドロシーは旋回して空中に浮かび、カンザスの平原の芝に転がり、自宅にたどり着く。ドロシーはエム叔母さんに駆け寄り「また家に帰ることができて良かった」と語る。
 
== 挿絵およびデザイン ==
ボームの友人でコラボレーターであるウィリアム・ウォレス・デンスロウが挿絵を担当し、著作権も共同で所有していた。多くのページに挿絵が施され、色彩豊かで当時にしてはデザインが豪華だった。1900年9月、『グランド・ラピッヅ・ヘラルド』はデンスロウの挿絵は文章ととてもよく合っていると記した。社説ではもしデンスロウの挿絵がなければ読者はドロシー、トト、他の登場人物を容易に想像することができなかっただろうと述べた<ref name="1900New">{{cite news |title=New Fairy Stories: "The Wonderful Wizard of Oz" by Authors of "Father Goose." |url=http://imgcache.newsbank.com/cache/ean/fullsize/pl_002022011_2025_31199_120.pdf |newspaper=Grand Rapids Herald |date=September 16, 1900 |accessdate=February 2, 2011 |archiveurl=httphttps://www.webcitation.org/5wD5RJlqr |archivedate=February 2, 2011 |format=PDF}}</ref>。
 
この個性的な挿絵は当時模倣する者も多かった。最も有名なものは『オズ』のデザインや挿絵を模倣したエヴァ・キャサリン・ギブソンの『''Zauberlinda, the Wise Witch'' 』(賢い魔女ゾバリンダ)である<ref name="Bloom9">{{Harvnb|Bloom|1994|p=9}}</ref>。書体は当時新しかったモノタイプ・オールド・スタイルである。デンスロウの挿絵は許可を得て製作された多くのグッズで多くみられた。カカシ、ブリキの木こり、臆病なライオン、魔法使い、ドロシーはゴムや金属の人形が作られた。衣類、装飾品、ロボット、石鹸なども作られた<ref name="Starrett1">{{cite news |title=The Best Loved Books |author=Starrett, Vincent |newspaper=[[Chicago Tribune]] |date=May 2, 1954 |url=http://image2.newsbank.com/img-ctha/clip/1954/05/02/19540502C007270011100006.pdf |accessdate=November 28, 2010 |archiveurl=httphttps://www.webcitation.org/5uZdEcbos |archivedate=November 28, 2010 |format=PDF}}</ref>。
 
1944年、イヴリン・コプルマンの挿絵による新版が登場した<ref>{{cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=bpkVEAaUuMkC&pg=PR63&lpg=PR63&dq=evelyn+copelman+illustrator+wonderful+wizard+of+oz&source=bl&ots=Hy4-zRTzqZ&sig=wSMVoTMg-8GO4gQijXwRmGYWucg&hl=en&sa=X&ei=MhwkUsCtNZCvigKwsIHwCA&redir_esc=y#v=onepage&q=evelyn%20copelman%20illustrator%20wonderful%20wizard%20of%20oz&f=false|title=The Annotated Wizard of Oz: The Wonderful Wizard of Oz – Lyman Frank Baum|website=Google Books}}</ref>。デンスロウの挿絵を基にしたこの挿絵は称賛されたが、著名な1939年の映画『オズの魔法使』により似ていた<ref>[https://web.archive.org/web/20060705212743/http://special.lib.umn.edu/clrc/oz/images/ozbook3.gif Children's Literature Research Collection | University of Minnesota Libraries]</ref>。
 
== イメージおよびアイデアの元 ==
[[ファイル:Cowardly lion2.jpg|right|thumb|250px|初版の、ドロシーが臆病なライオンに出会ったシーン]]
ボームは[[グリム兄弟]]、[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]から影響を受けており、ボームが編集した『[[アメリカン・フェアリー・テイルズ]]』にも彼らの作品からホラー要素を外したものがおさめられている<ref name="annotated">{{Cite book| first=L. Frank |last=Baum |author2=Hearn, Michael Patrick |authorlink2=:en:Michael Patrick Hearn |title=The Annotated Wizard of Oz |page=38 |isbn=0-517-50086-8 |oclc=800451 |authorlink=:en:L. Frank Baum |year=1973 |publisher=C.N. Potter |___location=New York}}</ref>。
 
=== オズ王国などの地 ===
伝説の田舎町であるエメラルドの都として知られるオズはボームが夏季に滞在していた[[ミシガン州]][[ホランド (ミシガン州)|ホランド]]近くのキャッスル・パークの城のような建物を基にしている。黄色いレンガ道は当時舗装で使用された黄色いレンガに因んでいる。これらのレンガ道はボームが通学していたピークスキル陸軍士官学校のある[[ニューヨーク州]]ピークスキルにみられた。ボーム研究者は1893年に開催された[[シカゴ万国博覧会 (1893年)|シカゴ万国博覧会]]のホワイト・シティからエメラルド・シティの着想を得たと言及している。他に[[カリフォルニア州]][[サンディエゴ]]近くのホテル・デル・コロラドからも着想を得ているとされている。ボームはこのホテルにしばしば宿泊し、オズ関連書籍をここで執筆していた<ref>[httphttps://www.sandiegoreader.com/news/2006/nov/02/coronado-and-oz The Writer's Muse: L. Frank Baum and the Hotel del Coronado]</ref>。1903年、『パブリッシャーズ・ウィークリー』のインタビューにて<ref name="Mendelsohn">{{cite news |title=As a piece of fantasy, Baum's life was a working model |author=Mendelsohn, Ink |url=https://news.google.com/newspapers?id=QtwRAAAAIBAJ&sjid=Tu8DAAAAIBAJ&pg=3435,6178650&dq=as-a-piece-of-fantasy-baum's-life-was-a-working-model |newspaper=[[:en:The Spokesman-Review|The Spokesman-Review]] |date=May 24, 1986 |accessdate=February 13, 2011 }}</ref>、「オズ」(Oz)の名の由来は、原作者ボームが近くのファイリング・キャビネットにO-Zと記されているのを見て名づけたと語った<ref name="Schwartz273">{{Harvnb|Schwartz|2009|p=273}}</ref>。
 
何人かの批評家はボームは[[オーストラリア]]からも影響を受けていると語っている。オーストラリアは口語的に「Oz」に近い発音の略語で呼ばれることがある。さらに1907年の『オズのオズマ姫(''Ozma of Oz'')』でドロシーはヘンリー叔父とオーストラリアへ航海中嵐に巻き込まれてオズに戻る。そのためオーストラリアのようにオズはカリフォルニア州より西にあるとされている。オーストラリアのようにオズは島国である。オーストラリアのようにオズは広大な砂漠のそばにある。これらによりボームはオズはオーストラリアまたはオーストラリアの広大な砂漠の中央の魔法の国を想定しているとされる<ref>Algeo, J., "Australia as the Land of Oz", ''American Speech'', Vol.&nbsp;65, No.&nbsp;1, 1990, pp.&nbsp;86–89.</ref>。
 
=== 『不思議の国のアリス』 ===
他に[[ルイス・キャロル]]の1865年の『[[不思議の国のアリス]]』から影響を受けているとされる。1900年9月、『グランド・ラピッズ・ヘラルド』のレビューで、「まさに現代の『不思議の国のアリス』」と評された<ref name="1900New" />。ボームはキャロルの物語の不整合を見つけたが、子供の読者が共感する子供の登場人物である少女アリス自身の人気を認めており、少女ドロシーが主役となる一因となった<ref name="annotated" />。またボームはキャロルの、子供の本は多くの挿絵があれば子供も喜んで読むという信念に影響されている。キャロルは子供の本は子供が子供らしくあることではなくモラルを教えるものというヴィクトリア時代のイデオロギーを拒否していた。文章の他に多くの挿絵のあるキャロルのスタイルと共に、ボームは魔女や魔法使いのようなおとぎ話の登場人物の典型と、カカシやトウモロコシ畑など彼の読者である子供たちの身近な事象を組み合わせた<ref name="Delaney">{{cite journal |last=Delaney |first=Bill |date=March 2002 |title=The Wonderful Wizard of Oz |publisher=[[:en:Salem Press|Salem Press]] |url=http://salempress.com/store/samples/classics_of_science_fiction_and_fantasy_literature/classics_of_science_fiction_and_fantasy_literature_the_wonderful_wizard_of_oz.htm |accessdate=November 25, 2010 |archiveurl=httphttps://www.webcitation.org/5uWBcUewP |archivedate=November 25, 2010 }}</ref>。
 
=== アメリカン・ファンタジー・ストーリー ===
107行目:
 
=== デンスロウからの影響 ===
オリジナルの挿絵を描いたW.W.デンスロウも物語に影響を与え、物語をよりわかりやすくしている。ボームとデンスロウは良い仕事仲間で、文章と挿絵で物語を共に作り上げた。物語の中でも色彩は重要であり、章ごとにテーマカラーが違っていた。ボームが文章で表現していない部分でもデンスロウはその特徴を表現した。例えばエメラルドの都の門や住宅を描く際、文章には登場しない国民の姿も描いた。デンスロウ降板後のオズ続編作品で挿絵を描いた[[ジョン・R・ニール]]も、デンスロウと同様に一般市民も描いた<ref>Riley 1997, p.42.</ref>。
 
=== 19世紀のアメリカ ===
142行目:
経済学者の[[グレゴリー・マンキュー]]は、[[マクロ経済学]]の教科書で『オズの魔法使い』は銀貨鋳造論争を背景にして書かれた童話だと記している<ref>岩田規久男 『日本経済にいま何が起きているのか』 東洋経済新報社、2005年、17頁。</ref>。
 
1880年から1886年にかけて、アメリカ経済は23%もの[[デフレーション]]を経験した。 当時の[[アメリカ合衆国西部|西部]]の農民達のほとんどが、[[アメリカ合衆国東部|東部]]の銀行からの借金で開拓を行っていたが、デフレーションの発生は借金の実質的価値を増大させ、西部の農民は苦しみ、東部の銀行が何もせずに潤うという事態が発生した。当時の人民主義派はこの問題について、不足する貨幣供給量を銀貨の自由鋳造で賄うことで解決するべきだと主張した([[リフレーション]]政策)<ref>[https://web.archive.org/web/20110419202647/http://blogs.jp.reuters.com/blog/2011/04/19/%e3E3%82%aaAA%e3E3%82%baBA%e3E3%81%aeAE%e9E9%adAD%94%e6E6%b3B3%95%e4E4%bdBD%bfBF%e3E3%81%84%e3E3%81%a8A8%e9E9%87%91%e8E8%9e9E%8d8D%e6E6%94%bfBF%e7E7%adAD%96/ オズの魔法使いとリフレ政策]Reuters 2011年4月19日</ref>。
 
銀と金、金本位体制を巡っての論争は、1896年の[[アメリカ合衆国大統領選挙|大統領選挙]]で最も重要な論点となった。[[民主党 (アメリカ合衆国)|民主党]]は銀貨の採用を主張し、[[共和党 (アメリカ合衆国)|共和党]]はあくまでも金本位制にとどまることを主張した。
 
経済史家ヒュー・ロッコフ(Hugh Rockoff)の記述<ref>ROCKOFF, H., 1990, The Wizard of Oz as a Monetary Allegory, in Journal of Political Economy 98 (August 1990) pp 793-60</ref>では、
159行目:
* 黄色いレンガ道:金本位体制
: ドロシーは最後に、家に帰る道を見つけるが、黄色いレンガ道をたどるだけでは見つからなかった。ドロシーは魔法使いオズが役に立たない代わりに、自分の『銀の靴』に魔力があることを知る。
: 結局、民主党は大統領選挙に敗れ、金本位制は維持されることになったが、1898年に[[アラスカ州|アラスカ]]の[[クロンダイク (ユーコン準州)|クロンダイク]]で金が発見され([[クロンダイク・ゴールドラッシュ]])、また、[[カナダ]]や[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の金の採掘量も増え、結果的に貨幣供給量は増大し、デフレは解消されて[[インフレーション|インフレ]]傾向となり、農民は借金を容易に返せるようになった。
としている。
 
169行目:
 
== 版 ==
1902年のジョージ・M・ヒルの破産後、この物語の版権はボブス・メリル・カンパニーに移った。版権移行後の版は色付き文字や挿絵の色彩に欠けるものとなった。1956年にパブリックドメインとなるまで、オリジナルの色彩の再現、新たな挿絵、追加など新版が出ることはなかった。それ以降では1986年、バリー・モーザー<ref>みすず書房・著訳者一覧[https://www.msz.co.jp/book/author/ma/15072.html/]による。</ref>の挿絵によるペニーロイヤル版が有名で、その後カリフォルニア大学出版により増刷された。2000年、オリジナルの色彩の挿絵やデンスロウによる追加の画像などが含まれW.W.ノートンから出版されたマイケル・ペイトリック・ハーン編集の『''Annotated Wizard of Oz'' 』なども有名である。他に100周年を記念したマイケル・マカーディの白黒の挿絵によるカンザス出版大学の『カンザス100周年版』やロバート・サブダの[[飛び出す絵本]]などがある。
 
== 日本語訳 ==
日本では、1962年に[[井伏鱒二]]によって翻訳され、[[講談社]]の『少年少女世界文学全集』第16巻として刊行された<ref>{{Cite web |title=少年少女世界文学全集 16 {{!}} NDLサーチ {{!}} 国立国会図書館 |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I10111100320746 |website=国立国会図書館サーチ(NDLサーチ) |access-date=2025-08-07 |language=ja}}</ref>。しかし、物語はすでに1939年の映画によって日本で知られていたため、挿絵付きの児童向け抄訳版もすでに刊行されていた<ref>{{Cite web |title=オズの魔法使い {{!}} NDLサーチ {{!}} 国立国会図書館 |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000827074 |website=国立国会図書館サーチ(NDLサーチ) |access-date=2025-08-07 |language=ja}}</ref>。
 
== 続編 ==
{{See also|オズ・シリーズの一覧}}
ボームは『オズの魔法使い』を書いた時点では続編のことを全く考えていなかった。この物語を読んだ何千もの子供たちが彼にオズについての別の話を作るようリクエストする手紙を送った。1904年、彼は渋々ながらも期待に応えて初の続編『オズの虹の国(''[[:en:The Marvelous Land of Oz|The Marvelous Land of Oz]]'')』を執筆して出版した<ref name="Littlefield47–48">{{Harvnb|Littlefield|1964|pp=47–48}}</ref>。1907年、1908年、1909年にもさらなる続編を執筆した。1911年の『オズのエメラルドの都(''[[:en:The Emerald City of Oz|The Emerald City of Oz]]'')』では、オズの国が他の国との接触をなくしたため彼はそれ以降の続編を執筆することができなくなった。子供たちはこの物語を受け入れることができず、そのため1913年以降ボームが亡くなる1919年5月までボームは毎年続編を執筆し続け、最終的にその続編は13冊になった。『シカゴ・トリビューン』のラッセル・マクフォールによると、ボームは1897年に姉妹のメアリー・ルイズ・ブリュウスターのためにノートに[[マザー・グース]]の傑作選を書いたのが始まりだった。「子供を喜ばせることは心が温かくなり、自分のためにもなる」<ref name="MacFall" />。1919年に彼が亡くなってから、ボームの出版社は[[ルース・プラムリー・トンプソン]]に以降の続編を委託し、彼女は21冊を執筆した<ref name="Delaney" />。1913年から1942年の間、毎年クリスマスに『オズの魔法使い』が出版されていた<ref name="WatsonBruce">{{cite journal |author=Watson, Bruce |year=2000 |title= The Amazing Author of Oz |journal=[[:en:Smithsonian (magazine)|Smithsonian]] |volume=31 |issue=3 |page=112 |issn=00377333 |publisher=[[Smithsonian Institution]] }}</ref>。1956年まで、オズ・シリーズは英語圏だけでも500万部を売り上げ、8国語圏内で何十万部も売り上げた<ref name="MacFall" />。
 
== 文化的影響 ==
『オズの魔法使い』は<!--『[[ナルニア国物語]]』、『[[ホビットの冒険]]』、『[[指輪物語]]』、『[[ハリー・ポッター・シリーズ]]』など{{citation needed|date=August 2011}}-->多くのファンタジー小説や映画に影響を与えた。50国語以上に翻訳され、その土地に合った改訂が加えられることもある。インドでは短縮版になり、ブリキの木こりは蛇に置き換えられた<ref>{{cite speech |title=Follow the yellow brick road to... |last=Rutter | first=Richard |date=July 2000 | ___location=Indiana Memorial Union, Indiana University, Bloomington, Indiana <!-- see [[User talk:Karenjc/Archive 1#Wizard of Oz]]--> |url=https://web.archive.org/web/20000610131638/www.geocities.com/~ozfan/ozcenten.htm}}</ref>。ロシアではアレキサンダー・ヴォルコフが翻訳して『エメラルドの都の魔法使い』シリーズ5冊を出版し、魔法の国をエリーと犬とトトシュカが旅するなどボーム版とはかけ離れたものとなった。
 
* [[1939年]]の映画『[[オズの魔法使]]』はポピュラー・カルチャーのクラシックとして、1959年から1991年の間、アメリカのテレビで毎年放映され、1999年からは毎年何度か放映されている<ref>[http://www.loc.gov/exhibits/oz/ozsect2.html ''To See The Wizard: Oz on Stage and Film'']. [[Library of Congress]], 2003.</ref>。本作はカラー映画の黎明期にあって、ドロシーがオズの国(マンチキンの場面)に入ると同時に、セピア調の映像が鮮やかな原色に切り替わるという演出を用いた。これは当時の映像技術として画期的であり、観客に強い印象を与えたことで作品の人気を決定づける要因の一つとなったとされる。なお、同年に製作された映画として『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』があり、いずれも現在ではアメリカ映画の傑作として位置付けられている
* [[1967年]]、[[ザ・シーカーズ]]は[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]の『[[歓喜の歌]]』のメロディを使用し、エメラルドの都を訪れる歌詞の『''[[:en:Emerald City (song)|Emerald City]]'' 』をレコーディングした。
 
* [[1982年]]、[[フィリップ・ホセ・ファーマー]]は主人公ハンク・ストヴァーがドロシー・ゲイルの息子という設定の『''[[:en:A Barnstormer in Oz|A Barnstormer in Oz]]'' 』を出版した。ストヴァーが自身の飛行機を操行中、巨大な緑の雲に入ってしまい、オズの国に紛れ込んで内戦に巻き込まれる。
1967年、[[ザ・シーカーズ]]は[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]の『[[歓喜の歌]]』のメロディを使用し、エメラルドの都を訪れる歌詞の『''[[:en:Emerald City (song)|Emerald City]]'' 』をレコーディングした。
* [[1992年]]、イギリスで[[ジェフ・ライマン]]の小説『''[[:en:Was (novel)|Was]]'' 』(邦題『夢の終わりに…』) が出版された。あまり良いとは言い難いドロシー・ゲールの実生活、[[ジュディ・ガーランド]]の子供時代、映画『オズの魔法使』ファンのゲイの男性、3つの物語を織り交ぜている。2014年、スモール・ビア・プレスから再度出版された。
 
* [[1995年]][[グレゴリー・マグワイア]]は修正主義者がオズの国や登場人物を見つける『''[[:en:Wicked (Maguire novel)|Wicked: The Life and Times of the Wicked Witch of the West]]'' 』を出版した。ドロシーではなく未来の西の悪い魔女となるエルファバに焦点を当てている。『[[インデペンデント]]』紙は「社会に入り込めない、適応できない、圧迫を受けている大人が自分と向き合うことができる」小説と評した<ref name="Christie">{{cite news |title=Wicked: tales of the witches of Oz |author=Christie, Nicola |url=http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/theatre-dance/features/wicked--tales-of-the-witches-of-oz-412263.html |newspaper=[[The Independent]] |date=August 17, 2006 |accessdate=February 26, 2011 |archiveurl=httphttps://www.webcitation.org/5wmaaAAsD |archivedate=February 26, 2011 }}</ref>。[[ユニバーサル・スタジオ|ユニバーサル・ピクチャーズ]]はこの小説の映画化権を購入して映画化される予定だった。作詞作曲家スティーブン・シュワルツはその代わりにミュージカル化するようユニバーサルを説得した。シュワルツはミュージカル『[[ウィキッド]]』の作詞作曲をし、2003年10月、ブロードウェイで初演された<ref name="Christie" />。同ミュージカルの[[ジョン・M・チュウ]]監督による映画化『[[ウィキッド ふたりの魔女]]』が2024年に公開された
1982年、[[フィリップ・ホセ・ファーマー]]は主人公ハンク・ストヴァーがドロシー・ゲイルの息子という設定の『''[[:en:A Barnstormer in Oz|A Barnstormer in Oz]]'' 』を出版した。ストヴァーが自身の飛行機を操行中、巨大な緑の雲に入ってしまい、オズの国に紛れ込んで内戦に巻き込まれる。
* [[2014年]]、テレビ・ドラマ『[[スーパーナチュラル]]』第9シーズンのエピソード『''Slumber Party'' 』にドロシー・ゲールと西の悪い魔女が登場した。また『[[ワンス・アポン・ア・タイム (テレビドラマ)|ワンス・アポン・ア・タイム]]』にドロシーとグリンダが脇役として登場した。
 
1992年、イギリスで[[ジェフ・ライマン]]の小説『''[[:en:Was (novel)|Was]]'' 』(邦題『夢の終わりに…』) が出版された。あまり良いとは言い難いドロシー・ゲールの実生活、[[ジュディ・ガーランド]]の子供時代、映画『オズの魔法使』ファンのゲイの男性、3つの物語を織り交ぜている。2014年、スモール・ビア・プレスから再度出版された。
 
1995年、グレゴリー・マグワイアは修正主義者がオズの国や登場人物を見つける『''[[:en:Wicked (Maguire novel)|Wicked: The Life and Times of the Wicked Witch of the West]]'' 』を出版した。ドロシーではなく未来の西の悪い魔女となるエルファバに焦点を当てている。『[[インデペンデント]]』紙は「社会に入り込めない、適応できない、圧迫を受けている大人が自分と向き合うことができる」小説と評した<ref name="Christie">{{cite news |title=Wicked: tales of the witches of Oz |author=Christie, Nicola |url=http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/theatre-dance/features/wicked--tales-of-the-witches-of-oz-412263.html |newspaper=[[The Independent]] |date=August 17, 2006 |accessdate=February 26, 2011 |archiveurl=http://www.webcitation.org/5wmaaAAsD |archivedate=February 26, 2011 }}</ref>。[[ユニバーサル・スタジオ|ユニバーサル・ピクチャーズ]]はこの小説の映画化権を購入して映画化される予定だった。作詞作曲家スティーブン・シュワルツはその代わりにミュージカル化するようユニバーサルを説得した。シュワルツはミュージカル『[[ウィキッド]]』の作詞作曲をし、2003年10月、ブロードウェイで初演された<ref name="Christie" />。
 
2014年、テレビ・ドラマ『[[スーパーナチュラル]]』第9シーズンのエピソード『''Slumber Party'' 』にドロシー・ゲールと西の悪い魔女が登場した。また『[[ワンス・アポン・ア・タイム (テレビドラマ)|ワンス・アポン・ア・タイム]]』にドロシーとグリンダが脇役として登場した。
 
== 派生作品 ==
{{Main|オズ・シリーズを基にした作品}}
[[ファイル:Judy Garland in The Wizard of Oz trailer 2.jpg|thumb|right|ドロシー(ジュディ・ガーランド)とトトが、ここがカンザスではないことに気付く]]
『オズの魔法使い』は何度も派生作品が製作されている。最も著名なものは1939年、[[ジュディ・ガーランド]]、[[レイ・ボルジャー]]、[[ジャック・ヘイリー]]、[[バート・ラー]]が主演する映画『[[オズの魔法使]]』である。それまでも、1902年のミュージカル『[[オズの魔法使い (1902年のミュージカル)|オズの魔法使い]]』やサイレント映画3本を含み多くの舞台作品や映画が製作されてきた。1939年の映画はその音楽、特殊効果、新たな[[テクニカラー]]の使用により当時革新的と言われていた<ref name="Twiddy">{{cite news |title='Wizard of Oz' goes hi-def for 70th anniversary |author=Twiddy, David |url=http://jacksonville.com/entertainment/movies/2009-09-23/story/wizard_of_oz_goes_hi_def_for_70th_birthday |newspaper=[[:en:The Florida Times-Union|The Florida Times-Union]] |agency=Associated Press |date=September 23, 2009 |accessdate=February 13, 2011 |archiveurl=httphttps://www.webcitation.org/5wSqKNxSj |archivedate=February 13, 2011 }}</ref>。
 
様々な国の言語に翻訳され、何度かコミック化もされている。パブリックドメインとなると、登場人物のスピンオフ、非公式続編、再解釈などが製作され、議論の的となることもある。
 
== 評価 ==
{{Quote box |quoted=true |bgcolor=#FFFFF0 |salign=center | align = right| width = 33% | quote =『オズの魔法使い』の物語の最後は平凡な題材を使用して巧妙に作り上げられている。もちろんこれは素晴らしい物語であるが、子供の読者や、母親から読み聞かせされる幼い子供、あるいは子供を相手にする仕事をしている方に強いアピールがあることを確信する。子供が先天的に持つ、物語を愛する心が育つように思える。また最も親しみやすい本の1つであり、子供はいつも続きを聞きたがる。<br /><br />挿絵の色彩の豊かさも文章に負けず劣らず、その結果現代の平均的な児童書よりもはるかに高い水準となっている。<br /><br />...<br /><br />この物語は明るく楽しい雰囲気を持ち、暴力的な行動は描かれていない。充分な冒険はあるが、趣もあり、普通の子供だったら誰でも物語を楽しめる。|source = 1900年9月8日、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』<ref name="1900NYTreview">{{cite news |title=Books and Authors |url=http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9D00E2D9153FE433A2575BC0A96F9C946197D6CF |format=PDF |work=[[The New York Times]] |pages=BR12–13 |date=September 8, 1900 |accessdate=November 26, 2010 |archiveurl=httphttps://www.webcitation.org/5uWPkwlMh |archivedate=November 26, 2010 }}</ref>}}
『オズの魔法使い』はその出版時から好評を受けている。1900年9月、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙は子供の読者およびこれまで文字の読めなかった子供にもアピールできるとして称賛した。また挿絵に関しても文章を楽し気に補足しているとして称賛した<ref name="1900NYTreview" />。
 
1900年に『オズの魔法使い』が出版されてからの50年間、児童文学の研究者らから批判的な分析をされたことがあった。学術誌『サイエンス・フィクション・スタディーズ』のルース・バーマンによると、子供の読者向けおすすめリストにボームの作品が加わったことはない。研究者にはファンタジーについての懸念があり、また長いシリーズものは文学的メリットが少ないとしてリストから外されている<ref name="Berman504">{{Harvnb|Berman|2003|p=504}}</ref>。
 
何年もしばしば非難の的になってきた。1957年、[[ミシガン州]][[デトロイト]]の図書館長は在任中、子供に無利益であるとし、また子供を臆病にさせるとして『オズの魔法使い』を禁じ、この作品を批判する者を支援していた。[[ミシガン州立大学]]のラッセル・B・ナイ教授は「オズの本のメッセージが愛、優しさ、思いやりが世界をより良い場所にするということであれば現代ではもう価値がないというのか。デトロイトの図書館の児童文学リストを覗いて、多くの良書を見直す時が来たのではないか」と反論した<ref name="Starrett2">{{cite news |title=L. Frank Baum's Books Alive |author=Vincent, Starrett |newspaper=[[Chicago Tribune]] |date=May 12, 1957 |url=http://image2.newsbank.com/img-ctha/clip/1957/05/12/19570512C007270011100005.pdf |accessdate=November 28, 2010 |archiveurl=httphttps://www.webcitation.org/5uZe6bJb8 |archivedate=November 28, 2010 |format=PDF}}</ref>。
 
1986年、[[テネシー州]]の[[キリスト教根本主義]]の7家族が『オズの魔法使い』が公立学校の教育要領に含まれているとして訴えた<ref name="Abrams105">{{Harvnb|Abrams|Zimmer|2010|p=105}}</ref><ref name="Culver1988-page97">{{Harvnb|Culver|1988|p=97}}</ref>。彼らは親切な魔女の描写と人間の不可欠な性格を信じることを促すのは神の教えに反すると語った<ref name="Culver1988-page97" />。ある両親は「我が子を神に反する超自然現象に誘惑されたくない」と語った<ref name="Nathanson301">{{Harvnb|Nathanson|1991|p=301}}</ref>。他に女性が男性と平等で、動物が人間のように話せることなどを問題としていた。裁判官は、もし教室でこの物語の話題が出たら、両親は教室から子供を退室させてもよいと判決を出した<ref name="Abrams105" />。
 
漫画家の[[尾田栄一郎]]は探しているものはすぐそばにあるというオチを批判している。<ref>{{Cite web|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/01/09/articles/20190109s00041000339000c.html|title=【記事全文】尾田栄一郎氏 さんまとの対談で「ONE PIECE」最終回に言及「絶対そういうゴールは迎えない」|website=スポニチ Sponichi Annex 芸能|publisher=|date=2025-11-11|accessdate=2025-11-11}}</ref>
 
フェミニスト作家マージリー・アリアンは「平凡な文体の陳腐で非人間的な駄作」と語った<ref>{{Cite book|first=Margery |last=Hourihan |title=Deconstructing the Hero |page=209 |isbn=0-415-14186-9| oclc=36582073}}</ref>。
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|230em}}
 
== 関連項目 ==
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* [[レインボー (バンド)]] -ライヴのオープニングでは映画『オズの魔法使』のセリフ(「We must be over the rainbow」)のリフレインと共に「虹の彼方に」のフレーズを弾いて始まるのが定番となっていた。
* [[オジー・スミス]] -守備がうまいオジーは、捕れないと言われた球も捕ることにちなんで「オズの魔法使い」と言われた
*{{仮リンク|オズの国(テーマパーク)|en|Land of Oz (theme park)}}
<!--関連性が薄い
* [[魔法戦隊マジレンジャー]] -構成メンバーである兄弟姉妹の姓「小津」('''おづ''')、兄弟姉妹の名前の「蒔人('''ま'''きと)」、「芳香('''ほ'''うか)」、「麗('''う'''らら)」、「翼」('''つ'''ばさ)、「魁」('''かい''')の名前の由来は本作から(並べると、'''おづ'''の'''まほうつかい''')。また翼がゲスト出演した『[[轟轟戦隊ボウケンジャーVSスーパー戦隊]]』では、小津家の住所が「東京都'''土呂市観座州'''5-2-13」となっており、「'''土呂市'''」は本作ヒロイン・ドロシー、「'''観座州'''」はドロシーの故郷・カンザス州からそれぞれ取っている。
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[[Category:カンザス州を舞台とした作品]]
[[Category:竜巻]]
[[Category:4人組を主人公とした作品]]
[[Category:孤児を主人公とした作品]]
[[Category:王室を題材とした小説]]