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{{Infobox University |
[[Image:Daigo Fukuryu Maru.jpg|thumb|250px|当時の第五福竜丸]]
| name = {{big|上海外国语大学}}<br>Shanghai International Studies University
<div class="thumb tright">
| nickname = 上外、SISU
{| class="wikitable" style="margin: 0em; width: 300px; background:#ffffff"
|image= [[File:SISU gate.jpg|200px]]
|colspan="2" align="center"|
| motto = '''格高志远 学贯中外'''
|-
| mottoeng = Integrity, Vision and Academic Excellence
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|船歴
| established = {{PRC}}1949年12月
|-
| affiliations = [[中華人民共和国教育部]]
|建造所||和歌山県<ref name=syusi>[http://d5f.org/top.htm 東京都立第五福竜丸展示館 展示の趣旨]</ref>
| type = 公立大学
|-
| president = [[曹德明]]
|起工||不明
| head_label = [[党委書記]]
|-
| head = [[呉友富]]
|進水||1947
| ___location = {{PRC}}[[上海市]]
|-
| Campus =
|竣工||1947年<ref name=syusi/>
| colors= <span style="background-color:#0064dc;border:1px;color:#FFFFFF;padding:2px 20px">上外蓝</span><ref>{{Cite web |url=http://www.shisu.edu.cn/culture/2011/2011,culture,000125.shtml | title=上外标识_走进上外_上海外国语大学 | publisher=上海外国语大学官方网站 | accessdate=2011-10-7 }}</ref>
|-
| faculty = 1,305人
|除籍||1967年
|undergrad = 5,972人
|-
|postgrad = 2,827人
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元
|campus = 74.7ha
|-
|website = [http://en.shisu.edu.cn/ en.shisu.edu.cn]
|[[トン数#容積トン数|総トン数]]||140トン<ref name=syusi/>
}}
|-
|[[トン数#容積トン数|純トン数]]||
|-
|[[トン数#重量トン数|載貨重量]]||
|-
|[[排水量]]||
|-
|[[船舶工学#長さ|登録長]]||約30[[メートル|m]]<ref name=syusi/>
|-
|[[船舶工学#幅|型幅]]||15m<ref name=syusi/>
|-
|[[船舶工学#深さ|登録深]]||6m<ref name=syusi/>
|-
<!--|[[喫水]]||
|-
|機関||
|-
|出力||
|-
|速力||
|-
|乗員||
|-
|乗客||
|-
|同型船||
|-
|出典||<ref name=syusi>[http://d5f.org/top.htm 東京都立第五福竜丸展示館 展示の趣旨]</ref>-->
|}
</div>
 
'''上海外国語大学'''(シャンハイがいこくごだいがく)とは、[[中華人民共和国教育部]]が、直属する[[上海市]]と共同で建設した[[重点大学]]。
'''第五福竜丸'''('''第五福龍丸'''、だいごふくりゅうまる)は、[[1954年]][[3月1日]]に、[[アメリカ軍]]の[[水素爆弾]]実験によって発生した多量の[[放射性降下物]](いわゆる死の灰)を浴びた、遠洋[[マグロ]][[漁船]]の[[船名]]である。無線長だった[[久保山愛吉]](くぼやま あいきち、[[1914年]][[6月21日]]生まれ)がこの半年後の[[9月23日]]に死亡した。
 
[[中華人民共和国]]成立後の1949年12月に、[[ロシア語]]に堪能な人材の育成を目的として、[[中国共産党]]中央華東局と上海市委員会が設立した。
== 沿革 ==
[[1947年]]、[[和歌山県]][[東牟婁郡]][[古座町]](現:[[串本町]])で[[カツオ]]漁船'''第七事代丸'''(だいななことしろまる)として進水。その後[[静岡県]][[焼津市]]で[[マグロ]]漁船に改造され、第五福竜丸(第五福龍丸)となる。
 
[[1954年]][[3月1日]]に、[[ビキニ環礁]]での[[アメリカ軍|米軍]]による水爆実験「[[キャッスル作戦]]」に巻き込まれて被爆。[[3月14日]]に焼津港に帰還し、[[静岡大学]]の塩川孝信と山崎文男によって検査を受けた。3月16日の検査では船体から30m離れた場所で[[放射線]]を検出したことから、塩川は人家から離れた場所へ係留するよう指示をし、[[鉄条網]]が張られた状態で係留された。その後、[[文部省]](現:[[文部科学省]])が船を買い上げ、8月に東京水産大学(現:[[東京海洋大学]])品川岸壁に移される。
 
この後さらに検査と放射能除去が行われた後に[[三重県]][[伊勢市]][[大湊 (伊勢市)|大湊町]]の強力造船所(現:株式会社ゴーリキ)<ref>[https://web.archive.org/web/20070224120712/http://d5f.org/event.htm 第五福竜丸の航跡をたどる『廃船』を観る会 6月10日] - 東京都立第五福竜丸展示館</ref>で改造され、東京水産大学の練習船'''はやぶさ丸'''となる。この時代の母港は[[千葉県]][[館山市]]。
 
[[1967年]]に老朽化により廃船となり、使用可能な部品が抜き取られた後に[[東京都]][[江東区]][[夢の島]]の隣の第十五号埋立地に打ち捨てられるが、同年、東京都職員らによって再発見されると保存運動が起こり、現在は東京都によって[[夢の島公園]]の「[[東京都立第五福竜丸展示館|第五福竜丸展示館]]」に永久展示されている。
 
心臓部であるエンジン部分は廃船時に船体から切り離されて[[貨物船]]「第三千代川丸」に搭載されていたが、この貨物船は[[1968年]]に航海途上の[[三重県]][[熊野灘]]沖で座礁、沈没した。その28年後の[[1996年]]12月、民間有志(「第五福竜丸エンジンを東京・夢の島へ」和歌山県民・東京都民運動)によって海底から引き揚げられ、第五福竜丸展示館の脇に展示された。
 
* 総トン数 - 140.86t
* 全長 - 28.56m
* 幅 - 5.9m
* 馬力 - 250
* 速力 - 5[[ノット]]
<gallery heights="200px" heiths="350px">
Daigo Fukuryū Maru 02.JPG|第五福竜丸展示館
Daigo Fukuryū Maru 01.JPG|第五福竜丸船首
Daigo Fukuryū Maru engine.jpg|第五福竜丸エンジン
</gallery>
 
== 被爆事件 ==
[[Image:Castle Bravo Blast.jpg|thumb|220px|キャッスル作戦・ブラボー(ビキニ環礁)]]
[[File:Map showing the expansion of A-test danger zone notified by U.S. on 19 March 1954.jpg|thumb|250px|核実験現場と第五福竜丸の位置。被爆を受けて危険区域が拡大された。]]
[[1954年]][[3月1日]]、第五福竜丸は[[マーシャル諸島]]近海において操業中に[[ビキニ環礁]]でアメリカ軍により行われた水爆実験([[キャッスル作戦]]・ブラボー (BRAVO)、1954年3月1日3時42分実施)に遭遇し、船体・船員・捕獲した魚類が放射性降下物に[[被爆]]<ref>原水爆に限らず[[爆弾]]などの爆発に直接晒されることを「被爆」、放射線に曝(さら)されることを「[[被曝]]」という。東京都立第五福竜丸展示館での表記は「被爆」のため、本項目ではこの記載に統一する。</ref>した。実験当時、第五福竜丸は[[アメリカ合衆国]]が設定した危険水域の外で操業していた。危険を察知して海域からの脱出を図ったが、延縄の収容に時間がかかり、数時間に渡って放射性降下物の降灰を受け続けることとなり、第五福竜丸の船員23名は全員被爆した。後にアメリカは危険水域を拡大、第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの漁船が操業していたことが明らかとなった。この水爆実験で放射性降下物を浴びた漁船は数百隻にのぼるとみられ、被爆者は2万人を越えるとみられている。
 
予想以上に深刻な被害が発生した原因は、当初アメリカ軍がこの[[爆弾]]の威力を4 - 8[[メガトン|Mt]]と見積もり、危険区域を狭く設定したことにある。爆弾の実際の威力はその予想を遥かに超える15Mtであった為、安全区域にいたはずの多くの人々が被爆することとなった。
 
第五福竜丸がアメリカ軍による水爆実験に巻き込まれて被爆した出来事は、日本国内で[[反核運動]]が萌芽する動機になった(→[[#被爆の影響|被爆の影響]])。反核運動が[[反米]]運動へと転化することを恐れたアメリカ政府は、[[日本の政治|日本政府]]との間で被爆者補償の交渉を急いだ。一方の日本政府も、復興のためにアメリカ経済に依存せざるを得ない状況であり、かつ平和的利用の為に原子力技術をアメリカから導入できる可能性も出てきた時期でもあったことからアメリカを刺激したくないという思惑もあった<ref>[http://pc.nikkeibp.co.jp/article/column/20121225/1074966/?P=3 「原子力発電を考える(第17回)電力事業の歴史を追う――第五福竜丸事件と反核運動の成立」、松浦晋也]、日経PC Online、2013年3月13日閲覧</ref>。結果、両者は「日本政府はアメリカ政府の責任を追及しない」確約のもと、事件の決着を図った。[[1955年]]に200万ドル(当時約7億2000万円)が支払われた<ref name=mainichi20150207>{{cite web|url=http://mainichi.jp/select/news/20150208k0000m040079000c.html|title=ビキニ水爆実験:元漁船員原告で国賠訴訟へ 市民団体方針|publisher=[[毎日新聞]]|date=2015-2-7|accessdate=2015-2-22}}</ref>が、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]による占領からの主権回復後間もなかったこともあり、賠償金でなく「好意による (ex gratia)」見舞金として支払われた。また事件が一般に報道されると、焼津では「放射能マグロ」による[[風評被害]]が発生した。
 
[[File:Kuboyama Aikichi.JPG|thumb|250px|left|久保山愛吉(死の直前)]]
[[File:Bereaved family of Kuboyama.JPG|thumb|200px|久保山の訃報に泣き崩れる妻と母]]
[[File:Kumatori Toshiyuki and Miyosi Kazuo.JPG|thumb|150px|久保山の死に際し、「もう何も言えません」と語る主治医の熊取敏之([[東京大学医学部]]教授、[[国立東京第一病院]]、左)と、それを支える[[三好和夫]]([[徳島大学]]医学部教授、右)]]
これに対してアメリカ政府は、第五福竜丸の被爆を矮小化するために、[[4月22日]]の時点でアメリカの[[アメリカ国家安全保障会議|国家安全保障会議]]{{仮リンク|国家安全保障会議作戦調整委員会|label=作戦調整委員会|en|Operations Coordinating Board}} (OCB) は「水爆や関連する開発への日本人の好ましくない態度を相殺するためのアメリカ政府の行動リスト」を起草し、科学的対策として「日本人患者の発病の原因は、[[放射性物質|放射能]]よりもむしろ[[サンゴ]]の塵の化学的影響とする」と嘘の内容を明記し、「放射線の影響を受けた日本の漁師が死んだ場合、日米合同の病理解剖や死因についての共同声明の発表の準備も含め、非常事態対策案を練る」と決めていた。実際、同年9月に久保山無線長が死亡した際に、日本人医師団は死因を「[[放射線障害|放射能症]]」と発表したが、アメリカ政府は現在まで「放射線が直接の原因ではない」との見解を取り続けており<ref>毎日新聞[[2005年]][[7月23日]]「第五福竜丸:『発症原因は放射能ではない』米公文書で判明」</ref>、またこの件に対する明確な謝罪も行っていない。
 
米公文書が放射能が直接の原因ではないとの見解を出している理由は、そもそも、久保山無線長の死因の直接原因は重度の急性[[肝機能障害]]であること、日本医師団が診断した放射能症(放射線障害)の主な症状は[[白血球]]や[[血小板]]と言った[[血球]]数の減少、[[小腸]]からの[[出血]]、[[脱毛]]等で、肝機能障害は放射線障害特有の特徴的症状ではないこと、被曝が原因で肝機能障害が起きたなら、同様に被曝したはずのマーシャルの被曝者にも多数の肝機能障害を起こした被曝患者が居るはずであるが、実際はマーシャルの被爆者に重度の肝機能障害の患者は全く発生せず、第五福竜丸の被災者17名でのみ発生し、治療中の死亡に至っては久保山無線長のみだからである。
 
重度の肝機能障害を起こす[[肝炎]]、[[肝癌]]、[[肝硬変]]の原因因子はそのほとんどが[[肝炎ウイルス]]の感染であり、[[アルコール]]や[[非アルコール性脂肪性肝炎|NASH]]は肝癌、肝硬変の原因としては全体から見れば少数派であり、放射線被曝での発症率はアルコールよりも低く放射線被曝が原因での肝炎肝癌発症の症例はほぼ皆無である。また、事件当時は医療器具、特に[[注射針]]に関してはディスポ(使い捨て)は殆ど行われず、消毒して使い回しされることもしばしばであり、各種法定予防[[ワクチン]]の集団[[接種]]で使い回しされた注射針が原因で[[B型肝炎]]ウィルス感染が引き起こされ[[集団訴訟]]になったのは周知の事実<!-- 直後の出典に書かれている表現か? でなければ[[WP:OR]]-->である。第五福竜丸乗組員17名が重度の肝機能障害を引き起こした原因は、ウィルス感染した[[売血]]による[[輸血]]であるという指摘も存在する<ref>[[高田純 (物理学者)|高田純]] 『福島 嘘と真実』 医療科学社 78 - 79頁</ref>。
 
第五福竜丸被爆者22名の事故後の健康状態調査は、[[放射線医学総合研究所]]により長期継続的に行われている。また、[[2004年]]度の明石真言博士らの研究所報告によれば、2004年までに12名が死亡、その内訳は、肝癌6名、肝硬変2名、[[肝線維症]]1名、[[大腸癌]]1名、[[心不全]]1名、[[交通事故]]1名である。また、生存者の多くには肝機能障害があり、肝炎ウィルス検査では、A, B, C型とも陽性率が異常に高い。
 
第五福竜丸は被爆後、救難信号 ([[SOS]]) を発することなく他の数百隻の漁船同様に自力で[[焼津漁港]]に帰港した。これは、船員が実験海域での被爆の事実を隠蔽しようとする[[アメリカ軍|米軍]]に撃沈されることを恐れていたためであるともいわれている<ref>絵本『ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸』の記述による。背景には、当時の日本漁船乗組員の中には久保山を始めとして[[太平洋戦争]]で[[徴用]]され、戦場での体験が豊富な者が多かったため、米軍側が水爆実験の詳細を隠すために第五福竜丸を[[拿捕]]・[[撃沈]]する可能性が高いと判断したものとされる。乗組員らが監修した、映画『[[第五福竜丸 (映画)|第五福竜丸]]』でも、無電を使わない理由として言及するシーンがある。</ref>。
<gallery widths="210px">
The crew of Daigo Fukuryu-maru.JPG|放射線検査を受ける乗組員
The head of the crew of Daigo Fukuryu-maru.JPG|皮膚が剥がれ落ちた乗組員の頭部
</gallery>
 
== 被爆の影響 ==
[[ファイル:Daigo Fukuryu Maru Monument.jpg|thumb|200px|[[築地市場]]にある第五福竜丸のプレート]]
[[焼津市|焼津]]の漁船・第五福竜丸の[[キャッスル作戦|水爆実験]]による被爆は、[[長崎市への原子爆弾投下|長崎への原爆投下]]に次ぐ「''日本を巻き込んだ第三の[[原子力災害]]''」となり、日本は[[原子爆弾]]と[[水素爆弾]]の両方の兵器による原子力災害([[被爆]]と[[被曝]])を経験した国となった。
 
そして、第五福竜丸の被爆、特に久保山愛吉無線長(当時40歳)が「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と[[遺言]]して死んだ出来事(1954年[[9月23日]])は、日本で[[反核運動]]が始まる動機になった。[[東京都]][[杉並区]]の主婦による反核運動や、[[1955年]]に設立された[[原水禁]]に代表される反米色が強い[[:Category:反核兵器運動|反核兵器運動]]も、この第五福竜丸の被爆が動機である。
 
第五福竜丸の被爆により、焼津や東京では「汚染マグロ」が大量廃棄された。特に[[3月15日]]に[[築地市場]]に[[マグロ]]や[[ヨシキリザメ]]水揚げされてしまった際にはセリは中断され、流通する前に行政の指示で場内の地中に埋められた。また他の水産物も軒並み相場は値つかずとなった。埋めた地点には第五福竜丸の事件を後世に伝えるため「原爆マグロ」の塚が建立された(市場再整備等により[[夢の島]][[第五福竜丸展示館]]に移設され、市場にはプレートが設置された)。
 
第五福竜丸が浴びた[[放射性物質]]とその被害は、映画「[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]」が制作される動機にもなった。
 
汚染マグロは、第五福竜丸以外の太平洋上で漁をしている漁船でもあったが、アメリカ政府からの見舞金は第五福竜丸だけに支払われ、当時としては破格の金額一人当たり200万円だったために他の漁船からのやっかみがあり、また放射能が伝染すると間違った情報で、第五福竜丸乗組員は将来の病気の恐怖を抱えながら焼津と漁師の仕事を離れなければならなかった<ref name=kintoku>[http://www.nhk.or.jp/nagoya/kintoku/archives/2013/20140314/index.html 金とく 証言ビキニ事件]</ref>。
 
[[室戸]]など[[遠洋漁業]]中心の港では風評を恐れたりして、被爆は公にならなかった。
 
焼津港で「原爆マグロ」の放射線調査を行なった放射線生物物理学が専門の[[西脇安]](当時[[大阪市立大学]]教授)は、第二次世界大戦中に[[日本の原子爆弾開発]]に参加し、戦後は原子力政策に関わった人物である<ref>[http://www.titech.ac.jp/news/2014/029157.html 「核時代を生きた科学者 西脇安」展 開催報告 | 東工大ニュース | 東京工業大学]</ref>。
 
<gallery widths="210px">
Atmic tunas in Osaka Central Market.JPG|大阪中央市場に水揚げされた汚染水産物
The notice about Atomic tunas in Yaizu.JPG|「原子マグロ」を取り扱わない旨を看板に掲げた焼津の魚屋
Inspection of Atomic tunas.JPG|焼津港で「原爆マグロ」の放射線調査を行う西脇ら
</gallery>
 
== 記念碑、展示館 ==
1976年、[[東京都立第五福竜丸展示館]]が開館した。
 
「原爆マグロ塚」の石碑が「マグロ塚を作る会」によって全国の子供達の10円募金を元に作成されたが、築地市場は整備中を理由に設置を認めず、石碑は東京都によって展示館敷地内の屋外に暫定的に設置された。
 
作る会はその後も築地市場内への石碑の設置を検討したが、市場の通行の邪魔になるという理由で許可は下りなかった。その後1999年に、市場内の壁に金属製の記念プレートが新たに設置された。
 
== 他の漁船の被爆 ==
[[高知県]]の[[高等学校]][[教諭]][[山下正寿]]は、アメリカが1946年-1958年にビキニ環礁やエニウェトク環礁で計67回行った一連の核実験で被爆したとみられる県内の船員への聞き取り調査、アメリカの公文書の分析、厚生労働省への情報公開請求に取り組み、被災の実態を明らかにしてきた。山下がビキニ核実験から34年後に第五福竜丸以外の漁船員204名を調べた結果は、[[癌]]などの病気で3割(61人)が既に死亡。約13000人に1人発症するとされる[[白血病]]で3人も亡くなっていた。
 
[[厚生労働省]]は他の漁船では船体と漁獲物のみ放射能を測定し、乗組員を測った記録は存在しないとしてきたが、[[外務省]]を通じて[[アメリカ国立公文書館]]に保管され[[国家機密]]が解除された文書からアメリカに提供したデータには乗組員の被爆の記録もあった事から、外務省に情報公開を求めたところ見つかった<ref>[http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0806/index.html 水爆実験 60年目の真実~ヒロシマが迫る"埋もれた被ばく"~] - NHKスペシャル(2014年8月6日22:00放送)</ref>。[[2014年]][[9月19日]]厚生労働省からもビキニ被爆の他の船体や船員の文書が見つかる<ref name=chunichi20140920>{{cite web|url=http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20140922132251959|title=ビキニ被ばく文書「あった」|publisher=[[中日新聞]]朝刊2面|date=2014-9-20|accessdate=2015-2-22}}</ref>。
 
[[水産庁]]は他の日本漁船の被爆記録の存在を否定し続けていたが、[[2015年]][[2月22日]]、約40点の行政文書の存在が明らかとなった。1954年[[11月30日]]付水産庁文書の別紙には、被災漁船総数が1423隻になると記載されていた。また、「毎分100カウント以上の放射能が検出された漁獲物は廃棄処分とした」として、汚染魚を廃棄した漁船は992隻と記録されていた<ref name=akahata20150222>{{cite web|url=http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2015-02-22/2015022201_03_1.html|title=ビキニ核実験 被災は1423隻 文書に記載 紙議員に水産庁初めて提出|publisher=[[しんぶん赤旗]]|date=2015-2-22|accessdate=2015-2-22}}</ref>。
 
== 第五福竜丸を主題とした作品 ==
* [[ベン・シャーン]]により同船を主題とした連作絵画『ラッキードラゴン』が描かれている。(1957年-1958年)
* 『[[第五福竜丸 (映画)|第五福竜丸]]』:事件の5年後の[[1959年]]に[[新藤兼人]]監督によって同名の[[映画]]が作られ、事件の半年後に死亡した久保山愛吉を[[宇野重吉]]が演じた。
* {{仮リンク|ヘルベルト・アイメルト|de|Herbert Eimert}} 久保山愛吉のための墓碑銘 ''Epitaph für Aikichi Kuboyama''(朗読を伴う[[電子音楽]]作品、1960年-1962年)
* NHK・特集ドキュメンタリー「[[廃船]]」1969年3月22日放送。東京・夢の島に打ち捨てられた第五福竜丸と、乗組員のその後を追う。
* [[岡本太郎]]作「[[明日の神話]]」(絵画、1969年)
* 『おーい、まっしろぶね』[[山口勇子]]作・[[童心社]](1981年):第五福竜丸を題材にした、子供向けの反核童話絵本。
* [[トビウオのぼうやはびょうきです]] - [[いぬいとみこ]]・著、[[津田櫓冬]]・絵 [[金の星社]] [[1982年]]刊行の[[絵本]]。および同名のアニメ映画。
*: 擬人化された[[トビウオ]]の子供と魚たちが主人公。結末では第五福竜丸の事故が語られ、死の灰により魚たちは皆死に、トビウオのぼうやも原爆症に苦しむ。アニメではトビウオが海上を飛ぶ時に写実的な画風に変化する演出がある。教育映画として小学校での回覧上映もされた。
* 『わすれないで-第五福竜丸ものがたり』[[赤坂三好]]、金の星社(1989年):第五福竜丸事件を題材にした子供向けの絵本。大人向けの解説と資料も詳しい。
* ベン・シャーンの連作絵画『ラッキードラゴン』などを用いた創作絵本『ここが家だ-ベン・シャーンの第五福竜丸』(2006年)
*: 絵=ベン・シャーン、構成・文=[[アーサー・ビナード]]([[中原中也賞]]受賞の、米国生まれの日本語詩人)
* 「ラッキードラゴン〜第五福竜丸の記憶」 福島弘和(2009年):ベン・シャーンのラッキードラゴンから受けた印象を元に創られた[[福島弘和]]の[[吹奏楽曲]]。[[春日部共栄中学高等学校|春日部共栄高等学校]]吹奏楽部委嘱作品。
* [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]・[[NNNドキュメント]]「放射線を浴びたX年後 ビキニ水爆実験、そして…」(制作:[[南海放送]]、2012年1月29日放送)<ref>[http://www.ntv.co.jp/document/back/201201.html 放射線を浴びたX年後 ビキニ水爆実験、そして・・・] - 日本テレビ NNNドキュメント 2012年1月29日(日)/55分枠 24:50~</ref><ref>[http://mainichi.jp/enta/geinou/news/20120128dde012200019000c.html ワイド視聴室:NNNドキュメント'12「放射線を浴びたX年後」] - 毎日新聞 2012年1月28日 東京夕刊</ref>
* NHK [[金とく]]「証言ビキニ事件」(2014年3月14日20時愛知県、三重県、静岡県、富山県放送)<ref name=kintoku/>
* [http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0806/index.html 「水爆実験 60年目の真実~ヒロシマが迫る"埋もれた被ばく"~」] - [[NHKスペシャル]](2014年8月6日22:00放送)。
 
== 日本との関係 ==
上海外国語大学は旧日本人居留地に存在しており、敷地内にはかつて第二日本高等女学校が存在した。
== 著名な関係者 ==
=== 著名な卒業生 ===
{{See also
|[[:zh:Category:上海外国语大学校友|中国語版ウィキペディア 上海外国語大学出身の人物一覧]]
}}
* [[ジョアン・チェン]] - 女優
* [[莫邦富]] - 経済ジャーナリスト
===著名な教員 ===
* 莫邦富 - 経済ジャーナリスト
* [[フォルカー・ライヒェルト]] - ドイツの歴史学者
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 関連項目外部リンク ==
{{commonscat}}
* [[キャッスル作戦]]
*[http://www.shisu.edu.cn/ 上海外国語大学]
* [[アメリカ原子力委員会]]
* [[築地市場]] - 外壁に慰霊プレートがある。
* [[第二幸成丸]] - 高知室戸船籍
* [[非核三原則]]
* [[ゴジラ (1954年の映画)]]
* [[広島市への原子爆弾投下]](1945年)
* [[長崎市への原子爆弾投下]](1945年)
* [[スリーマイル島原子力発電所事故]](1979年)
* [[チェルノブイリ原子力発電所事故]](1986年)
* [[むつ (原子力船)]](1974年)
* [[東海村JCO臨界事故]](1999年)
* [[福島第一原子力発電所事故]](2011年)
 
{{中華人民共和国国家重点大学}}
== 外部リンク ==
 
* [http://d5f.org/index.html 東京都立第五福竜丸展示館]
{{DEFAULTSORT:しやんはいかいこくこたいかく}}
* [http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030006_00000 第五福竜丸 ビキニで被曝 - NHKニュース(動画・静止画)  NHKアーカイブス]
[[Category:国家重点大学]]
*[http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009040280_00000 NHKスペシャル 又七の海~死の灰を浴びた男の38年~ - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]
[[Category:上海の大学]]
{{commons|Category:Daigo Fukuryū Maru (ship, 1947)}}
[[Category:学校記事]]
{{日本の反核運動}}
[[Category:1949年設立]]
{{放射線}}
 
{{univ-stub}}
{{DEFAULTSORT:たいこふくりゆうまる}}
<!--船舶-->
[[Category:船舶の歴史]]
[[Category:日本の漁船]]
[[Category:1947年竣工船]]
<!--冷戦、核関連-->
[[Category:水素爆弾]]
[[Category:アメリカ合衆国の核実験]]
[[Category:原子力安全]]
[[Category:日本の反核運動]]
[[Category:第二次世界大戦後の昭和時代]]
<!--焼津関連-->
[[Category:焼津市の歴史]]
<!--1954年の出来事-->
[[Category:1954年の日本]]
[[Category:第五福竜丸|*]]