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生涯: 「ピアノ協奏曲第3番」もシェルイによって完成された、ということを明記。
 
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{{ActorActress
{{ハンガリー人の姓名|バルトーク|ベーラ}}
| 芸名 = ズビグニェフ・ザマホフスキ<br>Zbigniew Zamachowski
{{クラシック音楽}}
| ふりがな =
[[Image:Bartók Béla 1927.jpg|thumb|1927年のバルトーク(当時46歳)]]
| 画像ファイル = 00 Zbig Zamachowski.jpg
'''バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ'''(Bart&#243;k B&#233;la Viktor János, [[1881年]][[3月25日]] - [[1945年]][[9月26日]])は[[ハンガリー王国|ハンガリー]]領[[トランシルヴァニア]](正確には[[バナート]])のナジセントミクローシュに生まれ、[[ニューヨーク]]で没した[[クラシック音楽]]の[[作曲家]]、[[ピアノ演奏家]]、[[民俗音楽]]研究家。
| 画像サイズ =
| 画像コメント =
| 本名 =
| 別名義 =
| 出生地 = [[ウッチ県]]
| 死没地 =
| 国籍 = [[画像:Flag of Poland (1928-1980).svg|25x20px|ポーランドの旗]] [[ポーランド]]
| 身長 =
| 血液型 =
| 生年 = 1961
| 生月 = 7
| 生日 = 17
| 没年 =
| 没月 =
| 没日 =
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| 活動内容 =
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| 公式サイト =
| 主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力-->
| 備考 =
}}
'''ズビグニェフ・ザマホフスキ''' ('''Zbigniew Zamachowski''', [[1961年]][[7月17日]] - )は[[ポーランド]]・[[ウッチ県]]出身の[[俳優|男優]]。
 
== 略歴 ==
作曲以外にも、学問分野としての民俗音楽学の祖の1人として、[[東ヨーロッパ]]の民俗音楽を収集・分析し、[[アフリカ]]の[[アルジェリア]]まで足を伸ばすなどの精力的な活動を行った。また[[フランツ・リスト]]の弟子[[トマーン・イシュトバーン]]から教えを受けた、[[ドイツ]]・[[オーストリア]]音楽の伝統を受け継ぐピアニストでもあり、コンサートピアニストやピアノ教師として活動した。[[ドメニコ・スカルラッティ]]、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J・S・バッハ]]らの作品の校訂なども行っている。
ウッチ県で演技を学び、1981年から俳優としてのキャリアをスタートさせ、1988年に[[クシシュトフ・キェシロフスキ]]の『デカローグ』にキャスティングされて以来、キェシロフスキ映画に多く出演した。
 
彼は[[ワルシャワ]]の国立劇場のメンバーでもある。
ヨーロッパ風に、'''ベラ・バルトーク'''や'''ベーラ・バルトーク'''と表記されることもある。<!--表記の経緯についてはノートを確認して下さい-->
 
== 生涯主な出演作品 ==
*悪霊 ''Les Possédés'' (1988)
[[1881年]]、ナジセントミクローシュ(現在の[[ルーマニア]]、[[ティミシュ県]]の[[スンニコラウ・マレ]]([[:en:Sânnicolau Mare|Sânnicolau Mare]]))に農学校校長だった父ベーラとピアノ教師の母パウラの間に生まれる。父もチェロをたしなむ人物であったこともあり、早くから母の教えでピアノを学ぶ。7歳の時に父が病気で死亡。10歳の時にはピアニストとしての初舞台を踏む。[[1894年]]、母と共に[[ブラチスラヴァ|ポジョニ]]へ移転。[[1898年]]には[[ウィーン音楽院]]に入学を許可されたが、友人の[[エルンスト・フォン・ドホナーニ]]に従い、翌年ブダペスト王立音楽院(後の[[リスト音楽院]])に入学する。ワグネリアンの学長から[[リヒャルト・ワーグナー]]の洗礼を受けるが、既に[[ヨハネス・ブラームス]]の影響を脱して先に進もうとしていた彼に、ワーグナーは答えをくれなかったと回想している。
*[[デカローグ]] ''Dekalog'' (1988)
 
*[[コルチャック先生]] ''Korczak''(1990)
[[1902年]]、21歳の時に[[リヒャルト・シュトラウス]]の《[[ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)|ツァラトゥストラはこう語った]]》に強烈な衝撃を受け、[[交響詩]]《コシュート》を作曲。[[1848年]]の[[ハンガリー独立運動]]の英雄[[コシュート・ラヨシュ]]への賛歌であった為、当時[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク帝政]]の支配下にあった[[ブダペスト]]の世論を騒がせた。[[1904年]]にはゲルリーツェプスタ(現在[[スロヴァキア]]領)で初めて[[トランシルヴァニア]]出身者の歌うマジャール民謡に触れる。
*[[トリコロール/白の愛]] ''Trzy kolory: Bialy'' (1994)
 
*[[プルーフ・オブ・ライフ]] ''Proof of Life'' (2000)
[[1905年]]、[[パリ]]の[[ルビンシュタイン音楽コンクール]]にピアノ部門と作曲部門で出場。作曲部門では入賞せず、ピアノ部門では2位であった(優勝者は[[ヴィルヘルム・バックハウス]])。自分の人生をピアニストとして描いていたため、優勝を果たせずかなり落胆したようである。しかし、ハンガリーでは知られていなかった[[クロード・ドビュッシー]]の音楽を知るという収穫を得た。また民謡について科学的アプローチを始めていた[[コダーイ・ゾルターン]]に出会う。
*コンクエスタドール ''Wiedzmin'' (2001)
 
*[[戦場のピアニスト]] ''The Pianist'' (2002)
1906年からコダーイやその他の研究者達と共にハンガリー各地の農民音楽の採集を始める。1913年に[[アルジェリア]]へ赴いた他は、専ら当時のハンガリー国内で民族音楽を採集していた。
*[[杉原千畝 スギハラチウネ]] (2015)
 
1907年、26歳でブダペスト音楽院ピアノ科教授となる。ピアニストとして各地を旅するのではなく、ハンガリーに留まったことで、更なる民謡の採集が進み、民謡の編曲なども行う。この時点でも、彼の大規模な管弦楽作品はまだブラームスやリヒャルト・シュトラウス、さらにはドビュッシーの影響を感じさせるものであるが、ピアノ小品や親しかった女性ヴァイオリン奏者[[シュテフィ・ゲイエル]]に贈った[[ヴァイオリン協奏曲第1番 (バルトーク)|ヴァイオリン協奏曲第1番]](ゲイエルの死後発表)の2楽章などでははっきりと民謡採集の影響が表れている。1908年の[[弦楽四重奏曲第1番 (バルトーク)|弦楽四重奏曲第1番]]にも民謡風要素が含まれている。また[[フェルッチョ・ブゾーニ]]の推挙も得て、ピアニストとしてだけではなく作曲家としての名も次第に浸透し始める。
 
1909年、ツィーグレル・マールタ(Ziegler Márta)と結婚。翌1910年には長男ベーラ(バルトーク・ジュニア)が生まれる。この年、[[フレデリック・ディーリアス]]と知り合い、彼の作品の影響も受ける。
 
1911年、ただ1つの[[オペラ]]となった《[[青ひげ公の城]]》を書き、ハンガリー芸術委員会賞のために提出したが、演奏不可能という事で拒絶された。結局この曲は1918年まで演奏されなかった。当時バルトークは、政治的見解から台本の作家[[バラージュ・ベーラ]]の名を伏せるように政府より圧力をかけられていたが、これを拒否し、同時に公的な立場から身を引いた。その後の人生でバルトークは民謡への愛着は別として、ハンガリー政府や組織とは深く関わらないようにしている。芸術委員会賞に失望した後2、3年の間、作曲をせず、民謡の収集と整理に集中していた。
 
1914年、[[第一次世界大戦]]の勃発により、民謡の収集活動が難しくなったため作曲活動に戻り、1914年から16年にかけてバレエ音楽《[[かかし王子]]》、1915年から17年には《[[弦楽四重奏曲第2番 (バルトーク)|弦楽四重奏曲第2番]]》を書いている(採集活動自体は1918年まで行っている)。1918年には《かかし王子》の初演が成功し、ある程度国際的な名声を得た。引き続き《青ひげ公の城》が初演され、これも好評を博す。同年、[[レンジェル・メニヘールト]]の台本によるパントマイム《[[中国の不思議な役人]]》の作曲を開始する。しかし第1次世界大戦で敗戦国となったハンガリーは[[トリアノン条約]]による国土の大幅な縮小とその前後の政治の混乱に巻き込まれ、ピアニストや民俗音楽の研究家としての名声とは裏腹に、本人としては不本意な時期が続く。
 
1921年から22年にかけてヴァイオリンのためのソナタを2つ書き、[[イェリー・ダラーニ]]のヴァイオリンと自らのピアノで初演。更に彼女に同行してイギリスやフランスで演奏旅行を行う(この際、[[モーリス・ラヴェル]]やストラヴィンスキーと会っている)。これはそれまでに作曲した中で和声上、構成上最も複雑な作品である。また民謡的要素を自分の作品の中で生かすということに自信を深めたのか、それまで編曲作品と自作を区別するために付けていた[[作品番号]]を、ソナタ第1番からは付けなくなった。
 
1923年、ツィーグレル・マールタと離婚し、ピアノの生徒であったパーストリ・ディッタ(P&#225;sztory Ditta)と結婚。翌1924年には次男ペーテル(バルトーク・ペーテル、Bart&#243;k P&#233;ter)が誕生している(ペーテル(ピーター)は後年アメリカで録音技師として活躍し、父親の作品を中心に優秀な録音を世に出した。また楽譜の校訂にも大きな功績がある。)。
 
同じ1923年には、政府からの委嘱により、ブダペスト市政50年祭のために《[[舞踏組曲 (バルトーク)|舞踏組曲]]》を提出。この後、1926年にピアノ・ソナタや[[ピアノ協奏曲第1番 (バルトーク)|ピアノ協奏曲第1番]]などを発表するまで3年ほど作品を発表せず、演奏会活動にやや力を入れるが、1927年から翌年にかけて、彼の弦楽四重奏曲としてもっとも高い評価を受けている[[弦楽四重奏曲第3番 (バルトーク)|第3番]]と[[弦楽四重奏曲第4番 (バルトーク)|第4番]]を作曲した。またピアノ協奏曲第1番を[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]の指揮と自らのピアノで初演する。
 
1929年から30年には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[ソビエト連邦|ソヴィエト]]への演奏旅行を行い、[[ヨゼフ・シゲティ]]や[[パブロ・カザルス]]らと共演する。帰国後[[ピアノ協奏曲第2番 (バルトーク)|ピアノ協奏曲第2番]]を作曲。
 
1934年には、いくぶん伝統に帰った《[[弦楽四重奏曲第5番 (バルトーク)|弦楽四重奏曲第5番]]》を作曲。この年には音楽院ピアノ科教授の任から離れ、科学アカデミーの民俗音楽研究員となり、作曲とピアノ以外は自分や後進の研究者達が収集したコレクションの整理に取り組める環境を得る。1936年、バーゼル室内管弦楽団を率いていた[[パウル・ザッハー]]の委嘱で《[[弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽|弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽]]》を作曲。翌年ザッハーの手で初演が行われた。1939年には《[[弦楽四重奏曲第6番 (バルトーク)|弦楽四重奏曲第6番]]》を作曲し、これがヨーロッパで書いた最後の作品となる。
 
同年に母が没し、[[第二次世界大戦]]も勃発。民俗音楽の研究を出来る環境を求めており、また[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]嫌いでもあり、ヨーロッパを去ることを考え始める。この頃、[[反ユダヤ主義]]者との対話の中で、自らの祖父が[[ユダヤ人]]だったことを示唆しているが、実際は[[マジャル人]]と[[クロアチア人]]の混血で、ユダヤ人の祖父はいなかった。政治的に硬化していくハンガリーの情勢を嫌ったバルトークは、1940年春にアメリカ合衆国への演奏旅行の際、友人達にアメリカへ移住する旨を打診。その協力で[[コロンビア大学]]の客員研究員としての南スラブの民俗音楽の研究に取り組む手はずを整えると一端帰国。10月にブダペストで告別コンサートを開き、長男とコダーイに後を託し、妻と共に不本意ながらアメリカ合衆国へ移住した。
 
少々自己中心的で人と打ち解けるタイプではなかったバルトークにとって、アメリカは決して居心地は良くなかったし、研究や講演以外はピアニストとして生計を立てるつもりだったとはいえ、作曲する気にもならなかったようで、先のコロンビア大学での研究の他、ヨーロッパから持ち込んだ民俗音楽の研究に没頭する。しかし1943年初頭、健康を害して入院してそれらの活動はすべて中断する。
 
[[フリッツ・ライナー]]などバルトークの友人たちは、収入源の無くなってしまった彼を支援するため「作曲者・著作者・出版者の為のアメリカ協会 (the American Society for Composers, Authors, and Publishers) 」に医療費を負担させるよう働きかけ、更に当時[[ボストン交響楽団]]を率いていた指揮者[[セルゲイ・クーセヴィツキー]]に、彼の財団と夫人の思い出のための作品をバルトークに依頼させる。すると驚異的なスピードで《[[管弦楽のための協奏曲 (バルトーク)|管弦楽のための協奏曲]]》を完成。この依頼があって作曲への意欲が引き起こされたようで、ヴァイオリン・ソナタを演奏会で取り上げる際にアドヴァイスを求めに来て親しくなった[[ユーディ・メニューイン]]の依頼で《[[無伴奏ヴァイオリンソナタ (バルトーク)|無伴奏ヴァイオリンソナタ]]》にも着手し、1944年には両曲の初演にそれぞれ立ち会う。出版社との新しい契約で収入面の不安もやや改善され、健康状態も小康を取り戻して民俗音楽の研究も再開した。しかし、その病は[[白血病]]だった。
 
[[1945年]]、《子供のために》や《管弦楽のための協奏曲》の改訂をする傍ら、妻の誕生日プレゼントにしようと軽やかで新古典派的な《[[ピアノ協奏曲第3番 (バルトーク)|ピアノ協奏曲第3番]]》、[[ウィリアム・プリムローズ]]から依頼された《[[ヴィオラ協奏曲 (バルトーク)|ヴィオラ協奏曲]]》に着手するが、ともに完成させることができずに、[[9月26日]]、ニューヨークのブルックリン病院で没した。前者はほとんどできあがっており([[管弦楽法|オーケストレーション]]が17小節残された)、草稿段階にとどまった後者とともに、友人でハンガリー系の作曲家[[シェルイ・ティボール|タイバー・セアリー]](シェールイ・ティボール、S&#233;rly Tib&#243;r )によって補筆完成された。
 
遺体はニューヨーク州[[ハーツデイル]]の[[ファーンクリフ墓地]]に埋葬されたが、40年後の共産主義体制の崩壊後、指揮者[[ゲオルグ・ショルティ]]らの尽力で亡骸が[[1988年]][[7月7日]]ハンガリーに移送され、国葬によりブダペストの[[ファルカシュレーティ墓地]]に埋葬された(ファーンクリフには記念碑が残されている)。
 
== 作風 ==
ドイツ・オーストリア音楽の強い影響から出発したが、ハンガリー民族や[[ハンガリー王国]]内の少数民族の民謡をはじめとした民俗音楽を科学的に分析し、その語法を自分のものにしていった側面と、同時期の音楽の影響を受けた側面のバランスの中で作品を生み出す、という独自の道を歩んだ。ただし、彼の楽曲は[[ソナタ形式]]を活用するなど、西洋の音楽技法の発展系の上で成立しており、音楽史的には[[新古典主義音楽|新古典主義]]の流れの1人と位置付けても間違いではないだろう。
 
作品の変遷は大まかに以下のように区分できる。
* ~1905年
*: [[ヨハネス・ブラームス]]や[[リヒャルト・シュトラウス]]の影響が強い、後期ロマン主義的な作風。ハンガリー民族としての意識を曲で表現しようとする作品もあったが、まだ先人達同様にジプシー音楽的な要素を取り入れる形であった。
* 1906年~1923年頃
*: 友人[[コダーイ・ゾルターン]]と共に、当時の[[ハンガリー王国]]の各地から民謡収集を行い、一方では民謡を編曲したピアノ曲などを作り、他方では民謡の語法を科学的に分析した形で自身の作品に活かし出した時期。また自身の作品には、民謡以外にも[[クロード・ドビュッシー]]や[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]、[[新ウィーン楽派]]など当時の最先端の音楽の影響も強く反映されている。
*: この末期には民謡の語法を消化し、独自のスタイルをほぼ確立する。
* 1926年~1930年頃
*: 無調的な和声(バルトークの作品には厳密な意味での「無調」は存在しない)と荒々しいまでの強烈な推進力を持ちながら、緻密な構造を持つ数々の作品を生み出した。バロック音楽や古典派の影響など、新古典主義の流れに乗っている面も見られる。
* 1930年~1940年
*: その前の時代と同様に緻密な楽曲構造を持ちながら、もう少し和声的にも明快で、より新古典的なスタイルを打ち出した時期。数々の傑作を発表している。
* 1943年~1945年
*: アメリカ時代。傾向としてはその前の時代の延長線上にある。より明快、明朗に大衆に受ける方向へ変化したとも言われるが、曲によってはそれ以前の厳しい顔をのぞかせる。
 
音楽学者レンドヴァイ・エルネーは、バルトークは作品の構成([[楽式]])から[[和音]]の構成に至るまで[[黄金分割]]を基礎に置き、そのために[[フィボナッチ数列]]を活用したとの論文を発表している。ただし、これについては当てはまらない作品がかなりあり、この説の妥当性を示唆するような有力な証拠(スケッチの書き込み等)も見当たらないため、現在ではハンガリー国内・国外いずれにおいても、専門の研究者でこの説を支持する人はあまり多くない。
 
なお、彼はアメリカ移住前に手紙で吐露しているように「作曲は教えるものではないし、私には不可能です」という考えの持ち主で、その生涯で作曲を教える立場に立ったことがない(先述のシェルイを「弟子」とする記述も多いが、それは正しくない)。そのため作曲の理論的な面については自身では明らかにしていない点が多い。
 
== ピアニストとして ==
リスト直系の弟子であったことから、ドイツ・オーストリア音楽をレパートリーとしていたが、スカルラッティの編纂を行って自ら演奏したり、自らに多大な影響を与えたドビュッシーの作品も多く取り上げていた。自作のピアノ曲も自身が演奏会に取り上げるために書かれたものが少なくない。手紙などでは伴奏家としての腕前も自負していたようで、多くのソリストと共演している。録音も残しているため、彼の演奏はCDなどで聴くことが出来る。
 
また作曲は教えなかったが、リスト音楽院ではピアノの教授として多くの弟子を育てた。[[シャーンドル・ジェルジ]]や[[リリー・クラウス]]、[[ゲザ・アンダ]]などのピアニストを直接指導したほか、指揮者の[[ドラーティ・アンタル|アンタル・ドラティ]]や作曲家[[ヴェレッシュ・シャーンドル]]もピアノの弟子である。また、指揮者[[ゲオルグ・ショルティ]]は直接の弟子ではなかったが、指導教授の代役として一時バルトークのピアノのレッスンを受けたことがあったことを回想している。
 
== 年譜 ==
* [[1881年]] ナジセントミクローシュに生まれる。
* [[1888年]](7歳) 父死亡。
* [[1894年]](13歳) [[ポジョニ]]へ引っ越す。
* [[1899年]](18歳) ブダペスト王立音楽院に入学。
* [[1902年]](21歳) [[交響詩]]《コシュート》を作曲。世論を騒がせる。
* [[1904年]](23歳) 初めてマジャール民謡に触れる。
* [[1905年]](24歳) [[コダーイ・ゾルターン]]と知り合う。[[ルビンシュタイン音楽コンクール]]にピアノ部門と作曲部門で出場、ピアノ部門2位。
* [[1906年]](25歳) コダーイと連名で組織的民謡研究の必要性を説くアピールを発表。彼や他の研究者と共にハンガリー各地の農民音楽を採集し始める。
* [[1907年]](26歳) ブダペスト音楽院ピアノ科教授に就任。民謡の採集を進める。
* [[1908年]](27歳) [[弦楽四重奏曲第1番 (バルトーク)|弦楽四重奏曲第1番]]。
* [[1909年]](28歳) ツィーグレル・マールタ(Ziegler Mártá)と結婚。
* [[1910年]](29歳) 長男ベーラJr誕生。
* [[1911年]](30歳) ハンガリー芸術委員会賞のために《[[青ひげ公の城]]》を作曲するも演奏を拒否される。公的な立場から身を引き、民謡の収集と整理に集中。
* [[1913年]](32歳)[[アルジェリア]]にて民謡採集。
* [[1914年]](33歳) 第1次世界大戦勃発。作曲活動に戻り、《[[かかし王子]]》の作曲にとりかかる。
* [[1917年]](36歳)[[ユニテリアン主義|ユニテリアン教会]]の信徒となる。
* [[1918年]] (37歳)オーストリアの[[ウニフェルザル出版社]]と楽譜出版契約を結ぶ。《かかし王子》、《青ひげ公の城》初演。《[[中国の不思議な役人]]》作曲開始。
* [[1919年]]-[[1920年]](38歳-39歳)[[クン・ベーラ]]らによるハンガリー革命で音楽監理委員会に参加。その後の[[ホルティ・ミクローシュ]]による反革命によるハンガリーの混乱を嫌い[[ベルリン]]への移住を計画するが断念する。
* [[1921年]]-[[1922年]] (40歳-41歳)ヴァイオリンのためのソナタを2つ書き、[[イェリー・ダラーニ]]とイギリスやフランスで演奏旅行を行う。
* [[1923年]](42歳) ツィーグレル・マールタと離婚。パーストリ・ディッタ(P&#225;sztory Ditta)と結婚。《[[舞踏組曲 (バルトーク)|舞踏組曲]]》。
* [[1924年]](43歳) 次男ペーテル誕生。
* [[1926年]](45歳) ピアノ・ソナタ、ピアノ協奏曲第1番など発表。
* [[1927年]]-[[1928年]](46歳-47歳) [[弦楽四重奏曲第3番 (バルトーク)|第3番]]・[[弦楽四重奏曲第4番 (バルトーク)|第4番]]作曲。[[ピアノ協奏曲第1番 (バルトーク)|ピアノ協奏曲第1番]]を[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー|フルトヴェングラー]]の指揮で初演。
* [[1929年]]-[[1930年]](48歳-49歳) [[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[ソビエト連邦|ソヴィエト]]へ演奏旅行。[[ヨゼフ・シゲティ]]や[[パブロ・カザルス]]らと共演。帰国後[[ピアノ協奏曲第2番 (バルトーク)|ピアノ協奏曲第2番]]を作曲。
* [[1931年]](50歳) モントゼーで行われた夏期講習会でピアノ講師を行うかたわら旧作ピアノ曲のオーケストラ編曲を行い、またヴァイオリン教育家エーリヒ・ドフレインの求めに応じて[[44のバイオリン二重奏曲]]を作曲。
* [[1934年]](53歳) 《[[弦楽四重奏曲第5番 (バルトーク)|弦楽四重奏曲第5番]]》作曲。科学アカデミーの民俗音楽研究員就任。
* [[1936年]](55歳) 《[[弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽|弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽]]》作曲。[[トルコ]]への演奏旅行と講演、民俗音楽採集を行う。
* [[1938年]](57歳) [[アンシュルス|オーストリア併合]]に際し、ウニフェルザル出版社との契約をあきらめ、同社のロンドン代理店業務を担当していたイギリスの[[ブージー・アンド・ホークス]]と契約を結ぶ。
* [[1939年]](58歳) 《[[弦楽のためのディヴェルティメント]]》《[[弦楽四重奏曲第6番 (バルトーク)|弦楽四重奏曲第6番]]》作曲。母没。
* [[1940年]](59歳) 5月から6月にかけてアメリカ合衆国で演奏会。10月に夫妻で同国へ移住。[[コロンビア大学]]から民俗音楽研究についての名誉博士号を授与され、客員教授として民俗音楽の研究を開始。
* [[1943年]](62歳) [[ハーバード大学]]での連続講演期間中に[[白血病]]により入院。《[[管弦楽のための協奏曲 (バルトーク)|管弦楽のための協奏曲]]》を完成。《[[無伴奏ヴァイオリンソナタ (バルトーク)|無伴奏ヴァイオリンソナタ]]》にも着手。
* [[1944年]](63歳) 《無伴奏ヴァイオリンソナタ》・《管弦楽のための協奏曲》初演。
* [[1945年]](64歳) [[9月26日]]、ニューヨークにて没。完成寸前の[[ピアノ協奏曲第3番 (バルトーク)|ピアノ協奏曲第3番]]、スケッチのみの[[ヴィオラ協奏曲 (バルトーク)|ヴィオラ協奏曲]]を遺す(いずれも[[シェルイ・ティボール]]により補筆完成)
* [[1988年]][[7月7日]] ハンガリー国葬。[[サー・ゲオルク・ショルティ]]により遺骨が母国へ持ち帰られる。
 
== 作品 ==
バルトークは当初オリジナルの作品には作品番号を付け、民謡からの編曲作品には付けないというルール付けを行っていたが、前述のようにヴァイオリン・ソナタ第1番の出版の際からこれを止める。そのため彼の作品は後年学者達が分類する番号が付けられることも多い。ここではハンガリーの作曲家[[:hu:Szőllősy András|セーレーシ・アンドラーシュ]] が作成した「バルトークの音楽作品と音楽学論文の目録」での付番「Sz.」を付記する。
 
=== 交響曲 ===
* 交響曲変ホ長調 [[1902年]]-[[1903年]] Sz.16 ※未完で楽譜自体紛失。スケルツォ楽章のみ現存(Sz.17)
 
=== 管弦楽曲 ===
* 交響詩『コシュート』 (1903年) Sz.21
* 管弦楽のための組曲第1番 ([[1905年]]、[[1920年]]改訂) Op.3 Sz.31
* 小管弦楽のための組曲第2番 (1905年-[[1907年]]、[[1943年]]改訂) Op.4 Sz.34
* 管弦楽のための[[2つの肖像]] (1907年-[[1911年]]) Op.5 Sz.37
*: 第1曲はヴァイオリン協奏曲第1番の第1楽章を流用。第2曲はピアノ曲『14のバガテル』最終曲の編曲
* 管弦楽のための[[2つの映像 (バルトーク)|2つの映像]] ([[1910年]]) Op.10 Sz.46
* ルーマニア舞曲 (1910年) Sz.47a
*: 『2つのルーマニア舞曲』の第1曲を編曲
* 4つの小品 (作曲[[1912年]]、管弦楽化[[1921年]]) Op.12 Sz.51
* [[ルーマニア民俗舞曲]] (1917年) Sz.68
*: ピアノ版(Sz.56)の編曲
* [[舞踏組曲 (バルトーク)|舞踏組曲]] ([[1923年]]) Sz.77
* [[ソナチネ (バルトーク)|トランシルヴァニア舞曲]] ([[1931年]]) Sz.96
*: ピアノ曲『[[ソナチネ (バルトーク)|ソナチネ]]』の編曲
* [[ハンガリーの風景]] (1931年) Sz.97
*: ピアノ曲集の『10のやさしい小品』『3つのブルレスク』『4つの挽歌』『子供のために』より5曲を抜粋して編曲
* 9つのハンガリーの農民歌 ( [[1933年]]) Sz.100
*: ピアノ曲『15のハンガリー農民歌』の後半9曲を編曲
* [[弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽|弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽]] ([[1936年]]) Sz.106
* 弦楽のための[[ディヴェルティメント (バルトーク)|ディヴェルティメント]] (1939年) Sz.113
* [[管弦楽のための協奏曲 (バルトーク)|管弦楽のための協奏曲]] (1943年) Sz.116
 
=== 協奏曲 ===
協奏曲に類するものも含む。
* ピアノと管弦楽のためのラプソディー ([[1904年]]) Op.1 Sz.27
*: 『ピアノのためのラプソディー』の編曲
* ピアノと管弦楽のためのスケルツォ(ブルレスク)(1904年) Op.2 Sz.28
* [[ヴァイオリン協奏曲第1番 (バルトーク)|ヴァイオリン協奏曲第1番]] (1907年-[[1908年]]) Sz.36
* [[ピアノ協奏曲第1番 (バルトーク)|ピアノ協奏曲第1番]] ([[1926年]]) Sz.83
* ヴァイオリンとオーケストラのためのラプソディー 第1番 ([[1928年]]) Sz.87
*: 『ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー 第1番』の編曲
* ヴァイオリンとオーケストラのためのラプソディー 第2番 (1928年、1944年改訂) Sz.90
*: 『ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー 第2番』の編曲
* [[ピアノ協奏曲第2番 (バルトーク)|ピアノ協奏曲第2番]] (1930年-1931年) Sz.95
* [[ヴァイオリン協奏曲第2番 (バルトーク)|ヴァイオリン協奏曲第2番]] ([[1937年]]-[[1938年]]) Sz.112
* [[2台のピアノと打楽器のための協奏曲|2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲]][[1940年]] Sz.115
*: 『2台のピアノと打楽器のためのソナタ』の編曲
* [[ピアノ協奏曲第3番 (バルトーク)|ピアノ協奏曲第3番]] ([[1945年]]) Sz.119
*: 残り17小節の管弦楽についてのみティボール・シェルイが補筆
* [[ヴィオラ協奏曲 (バルトーク)|ヴィオラ協奏曲]] (1945年) Sz.120
*: 未完。ティボール・シェルイによって完成。他にも複数のバージョンがある。
 
=== 舞台作品 ===
* オペラ『[[青ひげ公の城]]』 (1911年) Op.11 Sz.48
* バレエ『[[かかし王子]]』 ([[1914年]]-[[1916年]]、1931年改訂) Op.13 Sz.60
*: 改訂時に一部を抜粋した演奏会版を作成している
* パントマイム『[[中国の不思議な役人]]』(1918年-1924年、1931年改訂) Op.19 Sz.73
*: 一部をカットした演奏会版がある。
 
=== 室内楽曲 ===
* [[弦楽四重奏曲第1番 (バルトーク)|弦楽四重奏曲第1番]] ([[1908年]]-[[1909年]]) Op.7 Sz.40
* [[弦楽四重奏曲第2番 (バルトーク)|弦楽四重奏曲第2番]] ([[1915年]]-[[1917年]]) Op.17 Sz.67
* [[ヴァイオリンソナタ第1番 (バルトーク)|ヴァイオリン・ソナタ第1番]] (Vn.&Pf) ([[1921年]]) Sz.75
*: 初演時のプログラムにはOp.21とあったが、出版時に削除。
* [[ヴァイオリンソナタ第2番 (バルトーク)|ヴァイオリン・ソナタ第2番]] (Vn.&Pf) ([[1922年]]) Sz.76
* [[弦楽四重奏曲第3番 (バルトーク)|弦楽四重奏曲第3番]] ([[1927年]]) Sz.85
* ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー 第1番 ([[1928年]]) Sz.86
*: [[ヨゼフ・シゲティ]]に献呈
* チェロとピアノのためのラプソディー 第1番 (1928年) Sz.88
*: 演奏会で共演した[[パブロ・カザルス]]のためにヴァイオリンからチェロ用に編曲
* ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー 第2番 (1928年、1944年改訂) Sz.89
*: ゾルターン・セーケイに献呈
* [[弦楽四重奏曲第4番 (バルトーク)|弦楽四重奏曲第4番]] (1928年) Sz.91
* 44のヴァイオリン二重奏曲 [[1931年]] Sz.98
* [[弦楽四重奏曲第5番 (バルトーク)|弦楽四重奏曲第5番]] ([[1934年]]) Sz.102
* [[2台のピアノと打楽器のためのソナタ]] ([[1937年]]) Sz.110
* ヴァイオリンとクラリネットとピアノの為の[[コントラスツ]] 1938年 Sz.111
*: シゲティと[[ベニー・グッドマン]]に献呈
* [[弦楽四重奏曲第6番 (バルトーク)|弦楽四重奏曲第6番]] [[1939年]] Sz.114
* [[無伴奏ヴァイオリンソナタ (バルトーク)|無伴奏ヴァイオリン・ソナタ]] [[1944年]] Sz.117
*: ユーディ・メニューインに献呈
 
=== ピアノ曲 ===
ピアニストで教育者でもあったバルトークは、ここに挙げた以外にも多数の作品(教則本含む)がある
* ピアノのためのラプソディー (1904年) Op.1 Sz.26
* 14のバガテル (1908年) Op.6 Sz.38
* 10のやさしい小品 (1908年) Sz.39
* 2つのエレジー (1908年) Sz.41
* 子供のために (1908年-[[1909年]]) Sz.42
*: 民謡の影響が濃厚な子供の教育用教本。死の[[1945年]]まで何度も改訂している。
* 2つのルーマニア舞曲 (1910年) Op.8a Sz.43
* 4つの挽歌 (1910年) Op.9a Sz.45
* 3つのブルレスク (1911年) Op.8c Sz.47
* [[アレグロ・バルバロ]] (1911年) Sz.49
*: 題名はフランスの新聞にバルトークとコダーイの作品の演奏会時に「ハンガリーの若き2人の野蛮人」と書かれたことに対する皮肉。
* ピアノの初歩 (1913年) Sz.53
* [[ソナチネ (バルトーク)|ソナチネ]] (1915年) Sz.55
* [[ルーマニア民俗舞曲]] (1914年) Sz.56
* ルーマニアのクリスマス・キャロル (1915年) Sz.57
* ピアノのための組曲 ([[1916年]]) Op.14 Sz.62
* [[15のハンガリーの農民の歌]] (1918年) Sz.71
* ハンガリー民謡による8つの即興曲 (1920年) Op.20 Sz.74
* [[ピアノソナタ (バルトーク)|ピアノ・ソナタ]] (1926年) Sz.80
* 組曲『戸外にて』 (1926年) Sz.81
* 9つのピアノ小品 (1926年) Sz.82
*: 8曲目に「タンバリン」という曲があるが、バルトークがスペインを訪れた際の印象を元にしたもの。
* [[ミクロコスモス (バルトーク)|ミクロコスモス]] (1926年-1939年) Sz.107
 
=== 声楽曲 ===
ここに挙げた以外にも多数。
* 民謡様式による3つの歌 (1904年) Sz.24
* ハンガリー民謡 (1906年-1907年) Sz.33
* 5つの歌曲 (1915年) Sz.61
* [[エンドレ・アディ]]の詞による5つの歌曲 (1915年) Sz.62
* 8つのハンガリー民謡 (1908年-1916年) Sz.64
* 村の情景 (1924年) Sz.78
* 室内管弦楽と女声合唱のための『3つの村の情景』 (1926年) Sz.79
*: 『村の情景』より3曲を抜粋し、伴奏を管弦楽化したもの
* カンタータ・プロファーナ [[1930年]] Sz.94
* 声とオーケストラのための5つのハンガリー民謡 (1933年) Sz.101
 
== 参考資料 ==
* 『バルトークの作曲技法』(レンドヴァイ・エルネー、谷本一之 / [[全音楽譜出版社]] / ISBN 4118000806 / [[1998年]][[12月10日]])
* 『バルトーク晩年の悲劇』(アガサ・ファセット、野水瑞穂 / [[みすず書房]] / ISBN 4622003600 / [[1993年]][[8月]])
* 『バルトーク―歌のなる木と亡命の日々』(ひのまどか / [[リブリオ出版]] / ISBN 4897840694 / 1989年8月)
* 『バルトーク―民謡を「発見」した辺境の作曲家』(伊東信宏 / [[中央公論社]]([[中公新書]] 1370) / ISBN 4121013700 / 1997年7月)
* 『バルトーク音楽論集』(岩城肇 / [[御茶の水書房]](あごら叢書) / ISBN 4275007980 / 1988年5月)
* 『バルトーク音楽論集』(ベーラ・バルトーク 著、岩城肇 訳 / 御茶の水書房 / ISBN 4275014774 / 1992年8月)
* 『バルトーク物語』 音楽選書(セーケイ・ユーリア (著)、羽仁協子・大熊進子(翻訳) / [[音楽之友社]] / ISBN 4-276-37062-0 / 1992年4月)(絶版、重版未定)
* 『音のシンメトリー』(レンドヴァイ・エルネー、森本覚 / [[全音楽譜出版社]] / ISBN 4118000814 / [[2002年]][[2月22日]]
 
== 外部リンク ==
* {{imdb name|id=0952498|name=Zbigniew Zamachowski}}
{{commons|Béla Bartók}}
{{Normdaten}}
* {{IMSLP| id=Bartók,_Béla | cname=バルトーク}}
{{DEFAULTSORT:さまほふすき すひくにえふ}}
* [http://www.allpianoscores.com Bela Bartok] Piano scores
[[Category:ポーランドの男優]]
 
[[Category:ウッチ県出身の人物]]
 
[[Category:1961年生]]
{{DEFAULTSORT:はるとく へら}}
[[Category:ハンガリーの作曲家存命人物]]
[[Category:民族音楽]]
[[Category:近現代の作曲家]]
[[Category:新古典主義の作曲家]]
[[Category:オペラ作曲家]]
[[Category:1881年生]]
[[Category:1945年没]]
 
{{Link FA|hu}}
 
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