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{{ActorActress
{{中華圏の人物
| 芸名 = ズビグニェフ・ザマホフスキ<br>Zbigniew Zamachowski
| 名前=呉忠信
| ふりがな =
| 画像=[[File:Wu Zhongxin.jpg|180px]]
| 画像ファイル = 00 Zbig Zamachowski.jpg
| 画像の説明=
| 画像サイズ =
| 出生=[[1884年]][[3月15日]]<br>([[清]][[光緒]]10年2月18日)
| 画像コメント =
| 死去=[[1959年]]([[中華民国暦|民国]]48年)[[12月16日]]<br>{{CHN1928}}[[台北市]]
| 本名 =
| 出身地={{QIN1890}}[[安徽省]][[合肥市|廬州府合肥県]]
| 別名義 =
| 職業=軍人・政治家
| 出生地 = [[ウッチ県]]
| 簡体字={{lang|zh|吴忠信}}
| 死没地 =
| 繁体字={{lang|zh-tw|吳忠信}}
| 国籍 = [[画像:Flag of Poland (1928-1980).svg|25x20px|ポーランドの旗]] [[ポーランド]]
| ピン音=Wú Zhōngxīn
| 身長 =
| 通用=Wú Jhōngsīn
| 血液型 =
| 注音=ㄨˊ ㄓㄨㄥ ㄒㄧㄣ
| 生年 = 1961
| 注音二式=
| 生月 = 7
| 和名=ご ちゅうしん
| 生日 = 17
| 発音=ウー ヂョンシン
| 没年 =
| ラテン字=
| 英語名没月 =
| 没日 =
|}}
| 職業 =
| ジャンル =
| 活動期間 =
| 活動内容 =
| 配偶者 =
| 著名な家族 =
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力-->
| 備考 =
}}
'''ズビグニェフ・ザマホフスキ''' ('''Zbigniew Zamachowski''', [[1961年]][[7月17日]] - )は[[ポーランド]]・[[ウッチ県]]出身の[[俳優|男優]]。
 
== 略歴 ==
'''呉 忠信'''(ご ちゅうしん)は、[[中華民国]]の軍人・政治家。[[中国同盟会]]以来の革命派人士。初期は軍人として活躍したが、[[国民政府]]成立後は各省政府主席を歴任している。[[字]]は'''礼卿'''、'''守堅'''。号は'''恕庵'''。
ウッチ県で演技を学び、1981年から俳優としてのキャリアをスタートさせ、1988年に[[クシシュトフ・キェシロフスキ]]の『デカローグ』にキャスティングされて以来、キェシロフスキ映画に多く出演した。
 
彼は[[ワルシャワ]]の国立劇場のメンバーでもある。
== 事跡 ==
=== 革命派としての活動 ===
[[1900年]]([[光緒]]26年)、[[南京市|南京]]の江南将弁学堂に入学する。[[1905年]](光緒31年)に卒業後は、新軍第9鎮で任官した。その翌年に[[中国同盟会]]に秘密裏に加入している。[[1908年]](光緒34年)、二等参謀官に昇進した。[[1911年]]([[宣統]]3年)の[[辛亥革命]]においては、第9鎮統制徐紹楨に従って革命派として蜂起し、南京で[[張勲 (清末民初)|張勲]]率いる清軍と交戦した。
 
== 主な出演作品 ==
翌[[1912年]]([[中華民国暦|民国]]元年)、南京に中華民国臨時政府が成立すると、呉忠信は警察総監に任命された。[[袁世凱]]が臨時大総統となると、寧鎮澄淞四路要塞司令に任命される。その一方で[[上海市|上海]]を拠点とする同盟会機関報『民立報』の経理兼社長代理となり、[[于右任]]の補佐を務めた。
*悪霊 ''Les Possédés'' (1988)
*[[デカローグ]] ''Dekalog'' (1988)
*[[コルチャック先生]] ''Korczak''(1990)
*[[トリコロール/白の愛]] ''Trzy kolory: Bialy'' (1994)
*[[プルーフ・オブ・ライフ]] ''Proof of Life'' (2000)
*コンクエスタドール ''Wiedzmin'' (2001)
*[[戦場のピアニスト]] ''The Pianist'' (2002)
*[[杉原千畝 スギハラチウネ]] (2015)
 
== 外部リンク ==
[[1913年]](民国2年)の二次革命([[第二革命]])にも、呉忠信は革命派として参加したが、敗北して日本へ亡命した。翌[[1914年]](民国3年)に[[孫文]](孫中山)が[[中華革命党]]を創設すると、呉もこれに参加している。[[1915年]](民国4年)、孫文の命により上海へ戻り、[[陳其美]]を補佐して反袁の蜂起を行った。
* {{imdb name|id=0952498|name=Zbigniew Zamachowski}}
 
{{Normdaten}}
=== 護法運動を経て政治家へ ===
{{DEFAULTSORT:さまほふすき すひくにえふ}}
[[1917年]](民国6年)、孫文が[[護法運動]]を開始すると、呉忠信もこれに参加し、粤軍上校参謀に任命された。以後、各地を転戦し、[[1921年]](民国10年)に桂林衛戌司令兼大本営憲兵司令に抜擢された。[[1922年]](民国11年)に孫文、[[張作霖]]、[[段祺瑞]]の三角同盟が結成されると、呉が孫文側の全権軍事代表に任じられる。しかし、まもなく呉は病に倒れ、3年間[[蘇州市|蘇州]]で療養に努めざるを得なかった。
[[Category:ポーランドの男優]]
 
[[Category:ウッチ県出身の人物]]
[[1926年]](民国15年)夏、広州[[国民政府]]が北伐を開始する。呉忠信は[[南昌市|南昌]]の[[蒋介石]]の招聘に応じ、その幕僚となった。[[1929年]](民国18年)2月、呉は海外視察に赴いている。[[1932年]](民国21年)3月、[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]政府主席に任命され、地方制度整備や公道整備、歳出削減に尽力した。しかし、次第に省内の官吏と財政引締めをめぐって対立し、[[1933年]](民国22年)5月、辞任した。
[[Category:1961年生]]
 
[[Category:存命人物]]
[[1935年]](民国24年)4月、[[貴州省 (中華民国)|貴州省]]政府主席に就任した。そこでもやはり綱紀粛正、公道整備、地方経済振興に尽力した。その一方で、隣接する[[広西省]]の[[新広西派]]との関係調整にも心を配っている。
 
=== 蒙蔵委員会委員長、新疆省政府主席 ===
[[1936年]](民国25年)8月、呉忠信は[[蒙蔵委員会]]委員長に就任し、内地に亡命してきていた[[パンチェン・ラマ9世]]を[[チベット]]に戻す事業に取り組んだ。翌[[1937年]](民国26年)に9世は円寂したが、呉はその霊柩をチベットに帰還させている。また、[[中華民国考試院|考試院]]院長[[戴季陶]]に[[西康省]]へ祭祀のために赴くよう依頼した。
 
[[1940年]](民国29年)2月、[[ダライ・ラマ14世]]の即位式が[[ラサ]]で挙行されると、呉は国民政府代表として即位式に参列した<ref>なお中国側見解では、呉忠信はこの際に即位式を取り仕切ったとされるが(例として、沈荊唐「呉忠信」)、チベット側はこれを否定している([http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/hh_and_pl.html ダライ・ラマ法王日本代表部事務所「ダライ・ラマ法王とチベット」])。</ref>。[[1941年]](民国30年)9月、甘寧青区党政工作考察団団長に任命され、その翌年には[[新疆省]]の[[盛世才]]との交渉も行っている。同年12月には、中国辺政学会理事長となり、月刊雑誌『辺政公論』を創刊した。
 
[[1944年]](民国33年)8月、盛世才の後任として、呉忠信は新疆省政府主席兼保安総司令に任命された(保安総司令は、[[抗日戦争第8戦区|第8戦区]]司令長官[[朱紹良]]が代理)。呉は、盛に逮捕されていた[[ボルハン]]など各民族、各界の人物を釈放し、宥和政策をとる。しかし、同年11月に三区革命により[[東トルキスタン共和国]]が建国されると、呉はその勢いを止めることができなかった。結局、[[ソビエト連邦|ソ連]]と国民政府の交渉により、東トルキスタン共和国への対処は一時解決したが、[[1946年]](民国35年)3月、呉は新疆省政府主席を辞任した。
 
その後も、呉忠信は[[中華民国総統府|総統府]]秘書長などをつとめる。蒋介石に従って[[台湾]]に逃れてからは、総統府資政、国民党中央評議委員、中央紀律委員会主任委員などを歴任した。
 
[[1959年]](民国48年)12月16日、[[台北市|台北]]で病没。享年76(満75歳)。 
 
== 注 ==
{{reflist}}
 
== 参考文献 ==
* <span style="font-size:90%;">沈荊唐「呉忠信」{{Cite book|和書|author = [[中国社会科学院]]近代史研究所|title = 民国人物伝 第10巻|year = 2000|publisher = [[中華書局]]|isbn = 7-101-02114-X}}</span>
* <span style="font-size:90%;">{{Cite book|和書|author = 徐友春主編|title = 民国人物大辞典 増訂版|year = 2007|publisher = 河北人民出版社|isbn = 978-7-202-03014-1}}</span>
* <span style="font-size:90%;">{{Cite book|和書|author = 劉寿林ほか編|title = 民国職官年表|year = 1995|publisher = 中華書局|isbn = 7-101-01320-1}}</span>
*<span style="font-size:90%;">[http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/hh_and_pl.html ダライ・ラマ法王日本代表部事務所「ダライ・ラマ法王とチベット」]</span>
 
{| class="wikitable" style="margin:0 auto"
|-
! {{CHN1928}}([[国民政府]])
{{先代次代|[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]政府主席|<small>[[1932年]]4月 - [[1933年]]5月</small>|[[陳調元]]|[[劉鎮華]]}}
{{先代次代|[[貴州省 (中華民国)|貴州省]]政府主席|<small>[[1935年]]4月 - [[1936年]]8月</small>|[[王家烈]]|[[顧祝同]]}}
{{先代次代|[[蒙蔵委員会]]委員長|<small>[[1936年]]8月 - [[1944年]]12月</small>|[[林雲ガイ|林雲陔]]|[[羅良鑑]]}}
{{先代次代|[[新疆省]]政府主席|<small>[[1944年]]8月 - [[1946年]]3月</small>|[[盛世才]]|[[張治中]]}}
{{先代次代|総統府秘書長|<small>[[1948年]]12月 - [[1949年]]1月</small>|[[呉鼎信]]|[[翁文コウ|翁文{{lang|zh|灝}}]]}}
|}
 
{{DEFAULTSORT:こ ちゆうしん}}
[[Category:辛亥革命の人物]]
[[Category:中国の軍人]]
[[Category:中国国民党の政治家]]
[[Category:中華革命党の人物]]
[[Category:中国同盟会の人物]]
[[Category:安徽省出身の人物]]
[[Category:1884年生]]
[[Category:1959年没]]
 
[[en:Wu Zhongxin]]
[[fr:Wu Zhongxin]]
[[zh:吴忠信]]