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'''ライン演習作戦'''(独:Unternehmen Rheinübung)とは[[第二次世界大戦]]中の[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]の作戦名の一つを指す。ドイツの大河である[[ライン川]]に由来する。
==概要==
[[File:Rheinuebung Karte2.png|thumb|300px|ライン演習作戦。赤の線はゴーテンハーフェンを出て北欧沿岸を進み、イギリスを迂回してグリーンランド・アイスランド間のデンマーク海峡から大西洋へ抜けようとしたビスマルクとプリンツ・オイゲンの航路。黄色の線はこれを阻もうとしたイギリス艦隊の航路]]
作戦目的は大西洋上で、水上艦隊により、英国本土への補給を断つことにある。このために、ドイツ海軍軍令部は、[[戦艦]][[ビスマルク (戦艦)|ビスマルク]]、[[ティルピッツ (戦艦)|ティルピッツ]]、[[戦艦]][[シャルンホルスト (戦艦)|シャルンホルスト]]、[[グナイゼナウ (戦艦)|グナイゼナウ]]、[[重巡洋艦]][[プリンツ・オイゲン (重巡洋艦)|プリンツ・オイゲン]]等の戦艦や巡洋艦を[[通商破壊]]戦に投入するプランを作成していた。
しかし、シャルンホルストは先の通商破壊戦の結果機関の大修理が必要であり、グナイゼナウもブレスト港内で英軍の航空機攻撃を受けて長期の修理が必要となった。また、テルピッツは訓練中で4ヶ月以上先の就役予定であった。そのため、ドイツ艦隊の戦力の充足の後、少なくともシャルンホルストの修理後に艦隊の出撃を司令長官[[ギュンター・リュッチェンス]][[中将]]に要請した。
しかし、徐々に増強される英艦隊、高緯度地方特有の短くなる夜、アメリカ参戦の可能性、地中海の英海軍のおびき出しの可能性を主張する海軍総司令官[[エーリヒ・レーダー]]元帥の指令で、ビスマルク (戦艦)とプリンツ・オイゲン (重巡洋艦)の2艦のみで、1941年5月18日に[[ゴーテンハーフェン]]を、ヒトラーの不安をよそに出撃した。
24日[[デンマーク海峡]]で、戦艦[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]]、[[巡洋戦艦]][[フッド (巡洋戦艦)|フッド]]、[[駆逐艦]]4隻からなるイギリス艦隊と遭遇し戦闘となった。この戦闘で、ビスマルクはフッドを[[撃沈]]したが、自らも被弾して小さくない損傷を受けてしまった([[デンマーク海峡海戦]])。この被害による燃料タンクの破損から大西洋での通商破壊作戦は中止された。この後ビスマルクは[[イギリス海軍]]の追撃を受け、25日錯誤により無線封鎖を解除した結果26日基地飛行艇に発見され、さらに[[ジブラルタル]]艦隊の空母[[アーク・ロイヤル (空母・初代)|アークロイヤル]]機からの攻撃により舵に被雷し、操舵不能に陥った。27日に英水上艦隊に捕捉される。英戦艦[[ロドニー (戦艦)|ロドニー]]、[[キング・ジョージ5世 (戦艦)|キング・ジョージ五世]]、英巡洋艦[[サフォーク (重巡洋艦)|サフォーク]]、[[ドーセットシャー (重巡洋艦)|ドーセットシャー]]との砲戦ののち(猛烈な砲火を受けてすぐに沈黙してしまった)、英巡洋艦ドーセットシャーからの雷撃をうけたが沈没には到らなかった。しかし、航行不能となったためビスマルクは自沈(あくまでドイツ側発表)する。なお、プリンツ・オイゲンは24日にビスマルクと別れ、6月1日に[[ブレスト_(フランス)|ブレスト]]に帰港している。
戦闘については[[ビスマルク (戦艦)|ビスマルク]]の項が詳しい。
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{{Commons|Category:Operation Rheinübung}}
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[[Category:1941年の戦闘]]
[[Category:第二次世界大戦の海戦]]
[[Category:大西洋の戦い (第二次世界大戦)]]
[[Category:1941年5月]]
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