「藤原東子 (藤原南家)」の版間の差分

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[[天平宝字]]5年(761年)1月2日、妹の額とともに叙位され、無位から従五位上となる<ref>『続日本紀』天平宝字五年正月戊子条「…無位藤原恵美朝臣東子従五位上。無位藤原恵美朝臣額。橘宿禰真都我並従五位下。…」</ref>。
 
[[天平宝字]]8年([[764年]])9月の[[藤原仲麻呂の乱]]において、父・仲麻呂は[[刑|刑死]]し、兄弟も[[戦死]]・死罪または[[流罪]]とされた。仲麻呂の娘たちには処罰の記録はなく、この後も宮廷に出仕していたかどうかは不明である。
 
『日本紀略』には、弘仁7年(816年)4月28日、藤原朝臣東子が散事従四位下で卒したことが記されるが<ref>『日本紀略』弘仁七年四月癸亥条「散事従四位下藤原朝臣東子卒。」</ref>、同時代に同名の女性([[藤原種継]]の娘)がいるため同一人かどうかは不詳。
 
== 水鏡における伝承 ==
『[[水鏡]]』によると、仲麻呂の娘の一人は美女として有名であったが、[[鑑真]]に「このお方は千人の男と[[性行為|姦淫]]に及ぶことになるだろう」と予言された。[[藤原仲麻呂の乱]]において父が敗死したとき、敵方の軍勢の男すべてがこの仲麻呂の娘を[[性的暴行強姦|凌辱]]し、その人数は千人に及んで鑑真の予言は的中したという。
 
200年以上後世に書かれた『水鏡』のみに記載されているため、事実かどうかは疑問視されている。
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[[category:藤原南家|ひかしこ]]
[[Category:奈良時代の女官]]
[[Category:藤原仲麻呂の子女|とうし]]