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{{基礎情報 朝鮮半島の君主 ラジオ番組
|番組名=おはようパーソナリティ<br/>古川昌希です
|名=高宗 李㷩
|画像=[[画像:Asahi Broadcasting Corporation headquarter.JPG|250px]]
|代数=第26
|画像説明=生放送に使用している[[朝日放送ラジオ]]本社<br />(大阪・[[ほたるまち]])
|呼称=[[朝鮮の君主一覧|国王]]/初代[[大韓帝国]][[朝鮮国王の廟号と諡号の一覧|皇帝]]
|愛称=おはパソ
|画像=[[ファイル:Gojong of the Korean Empire 02.jpg|200px]]
|ジャンル=ワイド・バラエティ
|説明=高宗光武太皇帝
|放送方式=[[生放送]]
|王朝=[[李氏朝鮮|李朝]]
|放送時間=金曜日 6:30 - 9:00(150分)
|在位期間=[[1863年]][[12月13日 (旧暦)|12月13日]] - [[1897年]][[10月12日]](朝鮮王)<br/>[[1897年]][[10月12日]] - [[1907年]][[7月20日]](大韓皇帝)
|企画=
|都城=[[昌徳宮]]<br />[[景福宮]]<br />[[徳寿宮|慶運宮]]
|プロデューサー=
|諱=李命福 ({{Lang|ko|명복}}、[[幼名]])<br/>→李載晃 ({{Lang|ko|이재황}}、初名)<br/>→李㷩({{Lang|ko|이형}})
|ディレクター=
|字=明夫({{Lang|ko|명부}})→聖臨({{Lang|ko|성림}})
|パーソナリティ=[[古川昌希]]
|諡号=[[朝鮮国王の廟号と諡号の一覧|統天隆運肇極敦倫正聖光義明功大徳堯峻舜徽禹謨湯敬応命立紀至化神烈巍勲洪業啓基宣暦乾行坤定英毅弘休寿康文憲武章仁翼貞孝太皇帝]]<!--{{Lang|ko|통천융운조극돈륜정성광의명공대덕요준순휘우모탕경응명입기지화신열외훈홍업계기선력건행곤정영의홍휴수강문헌무장인익정효태황제}} -->
|出演=[[去来川奈央]]
|廟号=高宗({{Lang|ko|고종}})
|テーマ曲=
|生年=[[咸豊]]2年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]<br/>([[1852年]][[9月8日]])
|放送局=[[朝日放送ラジオ]](ABCラジオ)
|没年=[[大正]]8年([[1919年]])[[1月21日]]
|ネットワーク=
|父=[[興宣大院君]]李昰応
|制作=
|母={{仮リンク|驪興府大夫人閔氏|ko|여흥부대부인}}
|放送期間=[[2022年]][[4月1日]] -
|王后={{Collapsible list|title = 一覧を見る|[[閔妃|明成皇后]][[驪興閔氏|閔氏]]<br />[[純献皇貴妃]]嚴氏<br />永保堂{{仮リンク|李順娥|zh|李順娥|label=貴人李氏}}<br />[[:zh:貴人張氏 (朝鮮高宗)|貴人張氏]]<br />內安堂貴人李氏<br />寶賢堂[[:zh:貴人鄭氏 (朝鮮高宗)|貴人鄭氏]]<br />福寧堂[[貴人梁氏]]<br />光華堂{{仮リンク|李完興|zh|李完興|label=貴人李氏}}<br />三祝堂{{仮リンク|金玉基|zh|金玉基|label=尚宮金氏}}<br />貞和堂尚宮金氏<br />宮人廉氏<br />宮人徐氏<br />宮人金氏<br />宮人張氏}}
|放送回数=
|陵墓=[[朝鮮王陵|洪陵]]
|スポンサー=
|年号=[[開国 (李氏朝鮮)|開国]] : [[1894年]] - [[1896年]]<br />[[建陽]] : [[1896年]] - [[1897年]]<br />[[光武 (元号)|光武]] : [[1897年]] - [[1907年]]
|公式サイト=https://www.abc1008.com/ohapaso/
|注釈=
|特記事項=
}}
『'''おはようパーソナリティ古川昌希です'''』(おはようパーソナリティふるかわまさきです)は、[[朝日放送ラジオ]](ABCラジオ)で[[2022年]]([[令和4年]])[[4月1日]]から毎週[[金曜日]]の6:30 - 9:00([[JST]])に放送中の生ワイド番組。『[[おはようパーソナリティ]]』シリーズの第3代に当たる番組の一つ(『[[おはようパーソナリティ道上洋三です]]』金曜分の後継番組)で、[[古川昌希]]([[朝日放送テレビ]]アナウンサー)の[[冠番組]]でもある。
{{基礎情報 皇族・貴族
|人名=李㷩
|各国語表記={{Lang|ko|이형}}
|家名・爵位=
|画像=
|画像サイズ=
|画像説明=
|続柄=
|称号=[[王公族|徳寿宮李太王]]
|全名=李㷩
|身位=太王
|敬称=殿下
|出生日={{生年月日と年齢|1852|9|8|no}}
|生地={{GJS}}、[[漢城府]]、[[雲峴宮]]
|死亡日={{死亡年月日と没年齢|1852|9|8|1919|1|21}}
|没地={{KOR1910}}、[[京畿道 (日本統治時代)|京畿道]]、[[京城府]]、[[徳寿宮]]
|埋葬日=[[1919年]][[3月3日]]
|埋葬地={{KOR1910}}、[[京畿道]][[南楊州市]]金谷洞、[[朝鮮王陵|洪陵]]
|子女={{Collapsible list|title = 一覧を見る|皇太子[[純宗 (朝鮮王)|李坧]]<br />{{仮リンク|完親王|zh|完親王}}李墡<br />[[李堈|義親王]]李堈<br />[[李垠|英親王]]李垠<br />皇子李堉<br />皇子李堣<br />{{仮リンク|李文鎔|ko|이문용}}<br />[[徳恵翁主]]}}
|役職=
}}
'''高宗'''(こうそう、コジョン、고종、[[1852年]][[9月8日]]〈旧暦[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]〉 - [[1919年]][[2月21日]]〈旧暦[[1月21日]]〉)は、[[朝鮮王朝]]第26代[[朝鮮の君主一覧|国王]](在位:[[1863年]][[12月13日 (旧暦)|12月13日]] - [[1897年]][[10月12日]])、後に[[大韓帝国]]初代[[皇帝]](在位:[[1897年]][[10月12日]] - [[1907年]][[7月20日]])。[[韓国併合]]後は太王([[王公族|王族]])の称号を与えられ、'''徳壽宮李太王'''と称された<ref name="mypedia">[https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E5%AE%97-496241#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 百科事典マイペディア 高宗 (コトバンク)]</ref><ref name="nihonkokugo">[https://kotobank.jp/word/%E7%8E%8B%E5%85%AC%E6%97%8F-448882#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 精選版 日本国語大辞典 王公族 (コトバンク)]</ref>。
 
[[姓]]は[[全州李氏|李]]({{Lang|ko|이}}〈イ〉)、[[諱]]は㷩<ref>熙の異体字(れっかではなく火)</ref>({{Lang|ko|희}}〈ヒ〉)、初諱は載晃({{Lang|ko|재황}}〈チェファン〉)、[[幼名]]は命福({{Lang|ko|명복}}〈ミョンボク〉)、小字は明夫({{Lang|ko|명부}}〈ミョンブ〉)、[[字 (人名)|字]]は聖臨({{Lang|ko|성림}}〈ソンニム〉)、[[号 (称号)|号]]は珠淵({{Lang|ko|주연}}〈チュヨン〉)。[[諡]]は統天隆運肇極敦倫正聖光義明功大徳堯峻舜徽禹謨湯敬応命立紀至化神烈巍勲洪業啓基宣暦乾行坤定英毅弘休寿康文憲武章仁翼貞孝太皇帝<ref>{{Lang|ko|통천융운조극돈륜정성광의명공대덕요준순휘우모탕경응명입기지화신열외훈홍업계기선력건행곤정영의홍휴수강문헌무장인익정효태황제}}(トンチョニュンウンジョグクトンニュンジョンソングァンウイミョンゴンデドギョジュンスンフィウモタンギョンウンミョンイプキジファシニョルェフンホンオプケギソンニョッコンヘンゴンジョンヨンウイホンヒュスガンムンホンムジャンイニクチョンヒョテファンジェ)。</ref>。即位時の年号をとって'''光武皇帝'''(こうぶこうてい、{{Lang|ko|광무황제}}〈クァンムファンジェ〉)と呼ぶこともある。即位前は'''翼成君'''(よくせいくん、{{Lang|ko|익성군}}〈イクソングン〉)に封じられていた。
 
== 概要 ==
{{see also|おはようパーソナリティ小縣裕介です}}
第21代王[[英祖 (朝鮮王)|英祖]]の子・[[荘献世子]]の三男・恩信君の養子・[[南延君]](元は[[仁祖]]の七世孫)の四男・[[興宣大院君]](李{{Lang|ko|昰}}応)の次男。母は驪興府大夫人閔氏。
 
1971年に放送を開始した『[[おはようパーソナリティ中村鋭一です]]』、1977年にその後継ぎとして放送を開始した『[[おはようパーソナリティ道上洋三です]]』の後継ぎである。
祖父の南延君(李球)は、[[三田渡の盟約]]を結んだ第16代王・仁祖の三男・麟坪大君(李{{Lang|ko|㴭}})の六世孫にあたる。よって高宗は麟坪大君の八世孫、仁祖から数えると九世孫にあたる。血統上は先々代の[[憲宗 (朝鮮王)|憲宗]]や先代の[[哲宗 (朝鮮王)|哲宗]]から見れば、仁祖まで遡らなければ血が繋がらず、遠く隔たった傍系子孫である(それまでの王位に関する争いや病気による夭折といった事に起因する男子王族の不足も原因)。
 
放送開始まで至る流れは上記を参照。[[小縣裕介]]がスポーツアナウンサーを兼務することを鑑みてか、当番組では月~木と金曜で分割することとなり<ref name="sanspo_20220225">{{Cite web |url=https://www.sanspo.com/article/20220225-FEXRSPRT2NMCJMGJD3Y5ICHK2Q/ |title=道上洋三アナの後任は小縣裕介、古川昌希両アナ ABCラジオ「おはようパーソナリティ」 |publisher=サンケイスポーツ |date=2022-02-25 |accessdate=2022-03-01}}</ref>、金曜日は[[古川昌希]]がメインを担当。アシスタントもそれぞれで分割することとなり、これまで5曜日通しで担当していた[[オフィスキイワード]]所属のフリーアナウンサー・いがらしあみは小縣の担当曜日に出演。金曜日は[[松竹芸能]]所属タレントの[[去来川奈央]]とのコンビで伝統の『おはようパーソナリティ』のタイトルを引き継いで『'''おはようパーソナリティ古川昌希です'''』を始めることとなった<ref name="sanspo_20220225" />。また、この編成開始により、『[[朝も早よから 中原秀一郎です|朝も早よから 桂紗綾です]]』から『[[岩本・西森の金曜日のパパたち]]』まで、デイタイムの番組すべてが月~木と金曜日で分割される構成となる。
正妃は明成皇后閔氏([[閔妃]])。子に[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]、[[李垠]]らがいる。
 
ちなみに、古川・小縣とも第3代の「[[おはようパーソナリティ]]」に当たるが、シリーズ史上初めて月 - 木曜日と金曜日でパーソナリティを分担<ref name="sanspo_20220225" />。小縣が50歳で担当を始めるのに対して、古川は道上と同じく、34歳で「おはようパーソナリティ」の座を継承する。さらに、『 - 道上洋三です』までのシリーズ番組から一転して、「リスナーから寄せられた疑問を放送中に解決する『問題解決型ラジオ』」というコンセプトを『 - 小縣裕介です』と共に打ち出している<ref>{{Cite web |url= https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000212.000040629.html|title= ABCラジオ春の新番組のお知らせ|publisher= 朝日放送ラジオ|date= 2022-03-23|accessdate=2022-03-24}}</ref>。
在任中は近代化競争時代だったが、近代国家への改革ではなく王権拡大に予算を費やした。独立後には、専制君主憲法を公布したり親露政策をとったりと、国際情勢に反する行動をした為英米の不信を招き、結果[[日本]]に併合された<ref name=":1" /><ref name=":0" />。
 
== 生涯 出演者==
*[[古川昌希]](パーソナリティ、[[朝日放送テレビ]]アナウンサー)<ref name="sanspo_20220225"/>
=== 勢道政治 ===
**愛称は(苗字の古川にちなんで)「ふるぽん」で、「おはようパーソナリティ」には、前任者の道上と同じく34歳で就任。[[2019年]]には、朝日放送テレビを含む[[オールニッポン・ニュース・ネットワーク|ANN]]加盟局の優秀なアナウンサーを表彰する[[ANNアナウンサー賞]]で、第18回の大賞を受賞している。
先王[[哲宗 (朝鮮王)|哲宗]]の時代は、安東を[[本貫]]にする[[安東金氏]]が[[外戚]]として政権を掌握し、[[勢道政治]]を行っていた。その期間は59年間に及び政治は荒れ果てており、王族の中からも安東金氏の打破を望む勢力が生まれていた。その中の筆頭が興宣君李{{Lang|ko|昰}}応(のちの[[興宣大院君]])と先々代王[[憲宗 (朝鮮王)|憲宗]]の母で[[孝明世子]]嬪であった神貞王后趙氏であった。
***朝日放送テレビでは、『[[キャスト (テレビ番組)|キャスト]]』(平日夕方の関西ローカル向け報道・情報番組)で[[2013年]][[10月28日]]([[月曜日]])からサブキャスター([[キャスト (テレビ番組)#浦川の降板に伴う暫定措置(2018年1 - 3月)|2018年1月から3ヶ月間のみメインキャスター]])を最終回(当番組開始2日前の[[2022年]][[3月30日]])まで担当。後継番組の『[[news おかえり]]』でも、当番組への出演と並行しながら、初回([[4月4日]])から平日の全曜日(金曜日は当番組の本番後)にサブキャスター(スタジオ進行)やフィールドキャスターを務める。
***朝日放送ラジオの生放送番組でも、当番組の放送開始前週([[2022年]][[3月26日]])まで半年間にわたって『[[古川音座衛門]]』([[土曜日]]17時台の[[音楽番組]])のパーソナリティを担当。『おはようパーソナリティ道上洋三です』では、[[2016年]]・[[2017年]](いずれも道上の夏季休暇中)と[[2022年]][[3月1日]]([[火曜日]])放送分でパーソナリティ代理を経験していた。
*[[去来川奈央]](アシスタント、[[松竹芸能]]に所属する[[フリーアナウンサー]])<ref name="sanspo_20220225"/>
**[[同志社大学]]からの卒業後に、[[NHK岐阜放送局]]と[[NHK京都放送局]]の契約キャスターを経てフリーアナウンサーへ転身。氏名を「いさがわ なお」と読ませる。
**朝日放送テレビでは[[2017年]][[4月6日]]([[木曜日]])から、『[[おはようコールABC]]』(生放送による平日早朝の関西ローカル向け情報番組)のニュースキャスターを([[産前産後休暇]]をはさんで)[[2020年]][[10月2日]](金曜日)の最終回まで週に2日(休暇からの復帰後は1日)担当。朝日放送テレビ総務局員(元・アナウンサー)の[[八塚彩美]]は、同志社大学および、学内の放送局(同志社学生放送局)での同期生に当たる。
*[[桂紗綾]](ニュースキャスター、朝日放送テレビアナウンサー)
**『おはようパーソナリティ道上洋三です』が放送されていた[[2019年]][[1月]]から、金曜日の前枠で『[[朝も早よから 桂紗綾です]]』(朝日放送ラジオが自社で制作する生ワイド番組)のパーソナリティを務めながら、本番後に『おはようパーソナリティ』枠内の定時ニュース(7時台・8時台の「[[ABCニュース (朝日放送ラジオ)|ABCニュース]]」を担当。
*[[清水とおる]](7時台後半の「ABC天気予報」にのみ出演)
**朝日放送グループと契約している[[気象予報士]]で、『おはようパーソナリティ道上洋三です』時代の[[2006年]]から出演しているほか、『おはようパーソナリティ小縣裕介です』でも7時台後半の「ABC天気予報」を担当。[[俳句]]や[[歳時記]]の鑑賞が趣味で、『キャスト』では(古川のキャスター就任前から)一貫して気象キャスターを務めていた。
 
=== 即位タイムテーブル ===
コーナーについては、特記しない限り、『[[おはようパーソナリティ道上洋三です]]』(『 - 道上洋三です』)の金曜分からスポンサーごと継承。生放送番組のため、コーナーの放送時間を変更したり、コーナーを休止したりすることがある。また、古川/去来川が休演する日の放送では、以下に記す「古川」「去来川」の役割をパーソナリティ/アシスタントの代理者が担当。
[[ファイル:Heungseon Daewongun Portrait.jpg|thumb|left|180px|興宣大院君]]
=== 6時台 ===
[[1863年]][[12月8日 (旧暦)|12月8日]]に[[哲宗 (朝鮮王)|哲宗]]が32歳で崩御した。哲宗の子は娘1人だけで、息子5人は全員夭折していたため、直系の世継ぎ候補がいなかった。そのため傍系王族の誰かを王位につける必要が生じた。当時李王家一族の最年長で、世子(跡継ぎ)が決められていない場合の王位継承の決定権を持っていた神貞王后趙氏は李{{Lang|ko|昰}}応(興宣大院君)と謀り、李{{Lang|ko|昰}}応の次男命福を自分と亡夫[[孝明世子]]([[憲宗 (朝鮮王)|憲宗]]の父)の養子にした上で、[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]に即位させた。これが高宗である。形式上、高宗は先代の哲宗の叔父にあたる。
*6:30 オープニング
:『[[おはようパーソナリティ中村鋭一です]]』(『 - 中村鋭一です』)の時代から、パーソナリティ(○○)による「おはようパーソナリティ、○○です」という番組タイトルの読み上げが挨拶を兼ねている。ちなみに、古川が『 - 道上洋三です』で道上の代役を務めた期間中は、「『おはようパーソナリティ、道上洋三です』。ピンチヒッターの古川昌希です」と名乗っていた。
:古川は『 - 道上洋三です』のパーソナリティ代理時代から、アシスタントとの間でトークをひとしきり展開した後に、リスナーから募集するメッセージのテーマを決めている。
*6:40 今日の朝刊
:放送日に大阪で発行された一般紙朝刊(最終版)の1面([[新聞休刊日]]にはスポーツ紙の即売版と[[共同通信社]]の配信記事)から、古川が私見を交えながら注目の記事を取り上げる。当コーナーで伝え切れなかった場合には、7時台のフリーゾーンにまで持ち越す。
*6:50 「ABC天気予報」
:基本として、札幌・東京・福岡・大阪の当日の空模様を去来川が紹介。
*6:53 「おでかけインフォメーション」
:交通情報全般を扱うコーナー。最初に、朝日放送ラジオの平日生ワイド番組で最も早く、[[日本道路交通情報センター]]から担当者が最新の道路情報を伝える。その後で、去来川が当番組のスタジオから関西圏の航空便・鉄道の発着情報を入れる。
*6:55 「おはよう朝一番」
:放送開始までにハガキ・電子メール・FAXで届いたリスナーからのメッセージを紹介。
=== 7時台 ===
*7:00 「おはようメッセージ」
:オープニングで決めたメッセージテーマを改めて告知するとともに、「おはよう朝一番」に続いて、リスナーから寄せられたメッセージから一部を紹介。
*7:05 「[[ABCニュース (朝日放送ラジオ)|ABCニュース]]」
:2019年1月以降の『 - 道上洋三です』に続いて、『朝も早よから 桂紗綾です』パーソナリティの桂が8時台を含めて担当。
*7:10 「ABC天気予報」
:6時台と同様に、去来川が天気予報の原稿を読む。
:この時間の天気予報のみ、「今週のお天気ミュージック」として、ヒット曲などの[[インストゥルメンタル]]1曲を1週間(『 - 小縣裕介です』と)共通のBGMとして流す。
*7:13 「[[ABC交通情報]]」
*7:15 フリーゾーン
:放送日に発行された一般紙朝刊の記事(新聞休刊日にはスポーツ紙の即売版と共同通信社の配信記事)から、気になる話題を1つ取り上げる。
*7:25 「スポーツの話題」
:『 - 中村鋭一です』の時代から、[[日本プロ野球|日本プロ野球(NPB)]]のシーズン中で[[阪神タイガース]]が前日に組まれていた試合に勝利した場合に、パーソナリティとアシスタントが(代演者を含めて)球団歌の『[[阪神タイガースの歌|六甲おろし]]』を熱唱することで知られるコーナー。「阪神ファン見習い」を自称している古川も、この伝統を引き継ぐ<ref group="注釈">実際には[[劇団四季]]などの[[ミュージカル]]作品を鑑賞することが趣味で、「[[美女と野獣 (ミュージカル)|美女と野獣]]」に使われている『ひとりぼっちの晩餐会』を台詞付きで歌うことを特技に挙げている。もっとも、『おはようパーソナリティ道上洋三です』のパーソナリティ代理を始めるまで、『六甲おろし』を日常生活で歌うことはなかったという。本人によれば、「小学生時代に実家で同居していた祖父が[[読売ジャイアンツ|読売ジャイアンツ(巨人)]]ファン・祖母が阪神ファンで、『阪神と巨人が戦う試合のテレビ中継を祖父と祖母が別々の部屋で見る』という有様だったので、実家で野球について話すこと自体がタブーになっていた」とのことである(当番組放送初日の『[[日刊スポーツ]]』[[日刊スポーツ西日本|大阪本社]]発行版18ページに掲載された全面特集でのインタビューより)。</ref>。『 - 道上洋三です』時代に続いて、[[淀川製鋼所]]がこのコーナーを提供。
:
*7:40 リスナーからのメッセージ紹介
:放送日によっては、「スポーツの話題」の続きに充てる。
*7:50 「ABC交通情報」
*7:53 「ABC天気予報」
:『 - 道上洋三です』時代の2009年10月4日(月曜日)放送分から、清水がこの時間にのみ出演。主な放送対象地域である関西地方が異常気象(台風や豪雨など)に見舞われている場合や、放送の時点で異常気象の発生が予想される場合を除いて、放送時点での季節・天気に関する俳句や歳時記の一節を織り交ぜながら当日の気象概況を伝える。
を担当。
*7:55 「こどもの詩(うた)」
:『 - 道上洋三です』時代の1982年から放送されているコーナーで、当番組では、小学生から寄せられた作文から毎日1編を去来川が代読。作文を読まれた小学生には、5, 000円分の図書カードと、代読の模様を録音したCDを進呈している。
 
=== 8時台 ===
このとき高宗は11歳であったため、即位後2年間は神貞王后が[[垂簾聴政]]を執ったが、興宣大院君(「[[大院君]]」は、王の実父が王ではなかった場合に王の実父に与えられる称号)に封ぜられた父の李{{Lang|ko|昰}}応が政治の実権を掌握した(大院君執政期)。
*8:00 「話のダイジェスト」
:『[[話題のアンテナ 日本全国8時です]]』(朝日放送ラジオが加盟する[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN]]のネットワークセールス番組)の[[企画ネット]]による日替わりの特集コーナーで、同番組のCMのみ放送。
*8:20 「健康道場」
:健康に関する話題や情報を取り上げる[[サンスター]]単独提供のコーナーで、『 - 道上洋三です』の時代から放送されている。
:朝日放送ラジオで2014年10月から毎週土曜日の7:00 - 7:30に放送されている『[[道上洋三の健康道場]]』は、このコーナーから派生したサンスター単独提供の事前収録番組で、道上の氏名を番組のタイトルに冠したまま2022年4月から[[伊藤史隆]](アナウンサーとしての古川の先輩)をメインパーソナリティ代理に迎えている。
*8:20 古川・去来川がスタジオから伝える[[インフォマーシャル]] 
*8:30 「ABCニュース」
*8:35 「ABC天気予報」
:『 - 道上洋三です』時代の2021年4月1日から[[牛乳石鹸共進社]]が単独で提供している関係で、沼光絵理佳(ピアニスト)のアレンジ・ピアノ演奏による「[[牛乳石鹸共進社#CMソング「牛乳石鹸のうた」|牛乳石鹸のうた]]」を「お天気ミュージック」に使用。6時台・7時台の前半に続いて、いがらしが天気予報を伝える。
*8:40 「ABC交通情報」(6時台の「おでかけインフォメーション」と同じ構成)
*8:45 「話のマーケット」
:『 - 道上洋三です』で長らく放送されていたものの、最終盤(2021年頃)に休止していたコーナーを復活。実際には、リスナーからのメッセージ紹介やインフォマーシャルに充てる。
*8:50 「[[ジャパネットたかた]]ラジオショッピング」
:『 - 道上洋三です』時代の2011年4月から放送。他のラジオ番組と同様に、ジャパネットたかた本社([[長崎県]][[佐世保市]])のラジオスタジオから、同社の「MC社員」が中継で出演している。『 - 道上洋三です』の放送末期からは、[[鹿児島放送]](朝日放送テレビと同じ[[テレビ朝日系列]]のテレビ単営局)のアナウンサーからジャパネットたかたの「MC社員」に転身した[[馬場雄二]]が、ラジオ専任のMCとして主に商品の紹介を担当。
*8:57 エンディング
:翌週の月曜日に『 - 小縣裕介です』内の「話のダイジェスト」で取り上げる予定のテーマを紹介したうえで、後続番組のパーソナリティ(『[[横山太一のピカイチ☆ブランチ!]]』の[[横山太一]])に向けて古川がコメントを残す。
::横山は古川の先輩アナウンサーで、『おはようコールABC』の最終メインキャスター時代に去来川と毎週金曜日に共演していたほか、2022年4月から『news おかえり』のメインキャスターへ就任。金曜日には、『ピカイチ☆ブランチ!』への本番後に、『news おかえり』で古川と共演する。
*8:59 番組終了
 
== テーマ曲 ==
=== 興宣大院君の鎖国政策 ===
*「[[クラリネット・ポルカ]]」
興宣大院君は安東金氏の勢道政治を打破し、国内改革を行っていたが、迫り来る西洋の列強諸国に対する対外策はあくまでも[[鎖国]]・[[攘夷]]であり、決して国交を結ぼうとしなかった。また、[[カトリック教会|カトリック]]の弾圧を繰り返し行った。[[1866年]]にフランス人神父らを殺害([[丙寅教獄|丙寅邪獄]])すると、その報復としてフランス艦隊が軍艦7隻でもって[[江華島]]を占領したものの、これを追い払った([[丙寅洋擾]])。
**『おはようパーソナリティ中村鋭一です』の初回から、『おはようパーソナリティ』シリーズの共通テーマ曲としてオープニングとエンディングに放送。
 
== 時刻の告知方法 ==
また、同時期に通商を求めてきた商船ジェネラル・シャーマン号も焼き討ちして沈めてしまう([[ジェネラル・シャーマン号事件]])。この抗議として[[1871年]]、アメリカ軍は賠償と通商を求め、軍艦5隻でもって江華島を占領するが([[辛未洋擾]])、大院君は交渉に応じず、アメリカ軍も1か月で引き上げざるを得なかった。
当番組を含む『おはようパーソナリティ』シリーズは平日早朝の生放送番組であるため、[[朝日放送ラジオ#時報|正時(0分)の時報]]とは別に、7時台に5分単位・8時台に10分単位で時刻を告知している。正時以外の時刻の告知には、[[サウンドエフェクト|サウンドエフェクト(効果音)]]と合成音声を使用。時刻が7:05の場合には、効果音に続いて、合成音声で「7時、5分。」とだけ伝えている。
 
効果音は流す季節に応じた素材(カッコウの鳴き声や蒸気機関車の警笛音など)を用いていて、番組の進行にかかかわらず、上記の時刻に差し掛かると強制的に流れるようになっている。そのため、当該時刻でCMを放送していても、CMの音源に効果音と合成音声を重ねる格好で時刻を伝えている。
=== 閔氏一族の時代 ===
[[1866年]]に[[閔妃]](明成皇后)が王妃として王宮へ入ると、大院君は閔妃と対立を始め、閔妃を中心とした閔氏一族と[[崔益鉉]]らの[[儒学者|儒者]]勢力、政敵安東金氏の勢力を中心に、大院君排除のための動きを見せていた。これらの勢力が結託し、[[1873年]]、高宗が成人すると親政を宣言し、崔益鉉の弾劾を機に大院君は追放される。代わりに政権を握ったのは閔妃の一族である閔氏であった。高宗は性格的に気の強い閔妃に頼るところが多く、政権を握った閔妃は閔氏一族を要職につけ、以後閔氏一族による勢道政治が始まる。
 
閔妃派が勢力を握ると、国内の情勢は鎖国から開国へ傾きかけ、開化派勢力が台頭してくる。[[1876年]]、[[日朝修好条規]](江華島条約)が締結される。これをきっかけに、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[ロシア帝国|ロシア]]とも通商条約を立て続けに結んでいくことになる。ロシアの南下政策に対し、[[清]]・日本・アメリカと協力しこれに対抗するという動きも見せ始めた。しかし国内の政治は、開化派と守旧派勢力(衛正斥邪派)との対立が深刻化していた。大院君もこの動きに連動し、高宗の異母兄を王位につける国王廃立の動きを見せていた。高宗と閔氏一族は、衛正斥邪派を弾圧することによって政局混乱の収拾を試みるが、政治の混乱はさらに激しくなった。
 
[[1882年]]、新式軍隊(近代式軍隊)に対する旧式軍隊の差別待遇、賃金未払いなどに対して、不満を募らせた旧式軍隊と衛正斥邪派・大院君の勢力が結託し、閔妃暗殺、閔氏一族・開化派勢力の追放をもくろんだ[[壬午事変]]が発生する。壬午事変によって一時的に大院君は復権するが、殺されたと思われていた閔妃は清の[[袁世凱]]に介入を要請。清軍が出撃しこれらの勢力を排除する。大院君は清へ連れ去られ、清は朝鮮の治安維持の目的で、3000の兵を朝鮮国内に駐屯させた。一方、この事変により日本公使館を襲撃され、多くの日本人が殺害された。日本も軍艦を朝鮮半島へ向かわせ、賠償を要求。[[済物浦条約]]により賠償金の支払いと邦人保護のための軍隊駐留を認めさせる。この事件により、清と日本の軍隊が朝鮮国内に駐留することになり、朝鮮の軍事権は深刻なダメージを受けた。
 
=== 事大政策 ===
一方閔妃は、この事件により清に[[事大主義|事大]]していくことになり、開化派の反発を受けるようになる。[[1884年]]、開化派[[金玉均]]を中心とした勢力は[[甲申政変]]を起こして閔氏一族を排し、一時政権を握ったものの、駐留清軍により駆逐され失敗に終わる。
 
高宗と閔妃は清への[[事大主義]]に傾倒していくが、対外政策も国内政策も混乱を極め、国内では[[東学党]]を中心とした勢力が農民の間に広まり、「保国安民」と「弊政改革」を旗頭に[[1894年]]、[[甲午農民戦争]](東学党の乱)を勃発させる。この混乱を朝鮮王朝は自力で収拾できず、清軍へ援軍を依頼した。清軍が投入されたことで日本は邦人保護のために軍隊を動員し、[[日清戦争]]([[1894年]]-[[1895年]])の原因を生み出す。朝鮮日報によると高宗は米国公館に避難しようとし、独自の兵力では不可能なために戦時や内乱のたびに外国軍を招いた<ref name=":1">{{Cite web|title=【コラム】高宗に問うべき三つの罪-Chosun online 朝鮮日報|url=https://archive.is/CcP2e|website=archive.is|date=2019-02-06|accessdate=2019-02-07}}</ref>。
 
この戦争は、欧米列強の支持を受けた日本軍の勝利に終わり、[[下関条約]]を締結することになる。これにより朝鮮は、清の[[従属国]]の立場から独立国家として承認されることになるが、清の後盾を失った閔妃は、今度はロシアと結んで日本に対抗しようとした。
 
この動きを警戒した[[日本]]公使・[[三浦梧楼]]や開化派、大院君などの勢力が閔妃排斥の動きに出て、[[1895年]][[10月8日 (旧暦)|10月8日]]、閔妃暗殺事件([[乙未事変]])が起こっている。[[金弘集 (政治家)|金弘集]]内閣は犯人として李周会・朴銑・尹錫禹の三名を死刑とし、日本国内では三浦らを嫌疑不十分として釈放した。
 
閔妃暗殺事件に日本軍が関わっていたと報じられると、国内は[[親日派]]勢力と[[抗日]]勢力が対立し、カウンタークーデターとして[[春生門事件]](1895年11月28日)を起こし、金弘集総理らを殺害し王を奪おうとした。しかし、この計画は親衛隊大隊長の李軫鎬の内通により、失敗に終わった。
 
=== 親露政策 ===
この後、李範晋はロシア公館に逃げ込み、次のような順番で高宗奪回を試みた。
* 2月5日、李範晋はロシアの指示で春川、忠清道で暴動を起こし、日本の電信線を切断。
** 各地での暴動
* 2月10日、ロシアは107名の水兵、20名の食料担当兵、大砲一門を[[漢城府|漢城]]に搬入。ロシア兵150名となる。
** 宮女ゲン(元?)金明載より「各大臣等日本兵が密かに国王を廃位しようとしているので甚だ危険なり。速かに露館に播遷し回避されたし」旨の書状を高宗に届ける。
* 2月11日、高宗と世子(純宗)が宮女用のかごに乗り、ロシア公使館へ。
** 以下の勅令をだす。
**# 閔妃殺害事件の犯人として特赦された趙羲淵・[[禹範善]]・李斗{{Lang|ko|璜}}・李軫鎬・李範来・権{{Lang|ko|濚}}鎮の首を持ってロシア公館に持参せよ。
**# 新内閣の公示
** 前総理・金弘集と前農商工部大臣・鄭秉夏は亡命せず、警務庁前で暴徒に捕まり惨殺、遺体は焼却。
* 2月18日 仁川に4000余名の暴徒蜂起、官衙官宅を毀壊。
* 2月22日 内閣体制の更新。[[李範晋]]は法部大臣兼警務使となり大院君派の粛清を開始。
 
この計画は成功し、高宗はロシアと内通してロシア領事館に逃げ込み、反ロシア派は一掃された('''[[露館播遷]]''')。しかし、親露政策は、英国・米国など海洋勢力の警戒心を引き起こした。日本は逆に1902年に日英同盟を締結することで、日露戦争勝利の布石を打った<ref name="archive.is">{{Cite web|title=【コラム】高宗に問うべき三つの罪-Chosun online 朝鮮日報|url=https://archive.is/4PFF2|website=archive.is|date=2019-02-06|accessdate=2019-02-07}}</ref>
 
ロシア領事館の保護下で、高宗は親露政策を取り、様々な契約をロシアと締結した。開化派の金弘集などは殺された。多くの権益がロシアに奪われ、民衆は親露政権に対しても反発の動きを見せたため、高宗は王宮へ戻らざるを得なくなった。こうした自主独立の動きに押され、高宗は[[1897年]][[10月12日]]、朝鮮初となる[[皇帝]]に即位、14日に国号を[[大韓帝国]]と改め、年号を[[光武 (元号)|光武]]とした。しかし、王権拡大憲法とされる「{{仮リンク|大韓国国制|ko|대한국 국제}}」を公布して専制君主国家への動きを見せ始める<ref name=":1"/><ref name=":0">{{Cite web|title=【コラム】韓国政府が北の政権と三・一運動を記念する喜劇|url=http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/02/01/2019020180180.html|website=www.chosunonline.com|accessdate=2019-02-07|language=ja|last=朝鮮日報/朝鮮日報日本語版}}</ref>。
 
また、乙未事変の再調査を行い、日本人壮士らに閔妃が殺害されたという「王宮事変に関する公報」を政府として公表しようとするが、日本公使[[小村壽太郎|小村寿太郎]]の圧力によって英文雑誌に記事を掲載させるにとどまったとも言われる。一方で高宗は、1906年、韓国統監代理[[長谷川好道]]を謁見した際に「我臣僚中不逞の徒(私の部下の中に犯人が居た)」と述べている<ref>1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告</ref>。
 
=== 初代大韓帝国皇帝 ===
[[File:Korean Emperor Kojong and Crown Prince Yi Wang.jpg|thumb|高宗と息子の[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]]]
 
「{{仮リンク|大韓国国制|ko|대한국 국제}}」では、第2条で「大韓帝国の政治は万世不変の専制政治」、第3条で「大韓国大皇帝は無限の君権を享有」、第4条で「君権を害する臣民は、既に行ったかいまだ行っていないかを問わず、臣民の道理を失った者と見なす」として王権をさらに拡大した。朝鮮日報は「近代を拒否し、古代へ回帰した」と表現している<ref name=":0" />。皇帝になってからも高宗の周辺は安定せず、[[1898年]]7月には[[高宗譲位計画事件|皇帝譲位計画]]が、9月には[[金鴻陸]]による[[毒茶事件]](高宗・皇太子暗殺未遂事件)が起こっている。また、[[独立協会]]を中心とした独立派に対する守旧派の妨害によって政府内は暴力的政争の状態になり、ついには独立協会は解散、議会政治への道も閉ざされてしまう。高宗は[[光武改革]]という近代化政策を推し進めるが、財源の一元化の失敗、脆弱な財政基盤を強化するための増税が民衆反乱を招き、改革は頓挫してしまう。
 
東学の残党も活発な運動を続け、[[1899年]]に英学の反乱を起こしている。
[[file:Gojong of the Korean Empire.jpg|200px|thumb|[[ドイツ]]軍服を着用した高宗(1904年)]]
 
一方、[[満州]]と朝鮮を挟んで、ロシアと日本の帝国主義国家間対立は深刻化し、[[1904年]] - [[1905年]]に[[日露戦争]]が勃発した。朝鮮日報によると今度はフランス公館へと逃亡しようとした<ref name="archive.is"/>。
 
地政学的な国策から対朝鮮政策を強化したい日本は、戦局が優位に進む中[[1905年]]4月に韓国保護権確立を閣議決定、[[7月29日]]には、アメリカとの間で、[[桂・タフト協定]]を結び、アメリカの[[フィリピン]]での権益を認める代わりに朝鮮での権益を認めさせ、8月には第2回[[日英同盟]]を締結し、ロシアの南下に対抗する拠点として朝鮮支配の確約を得た。また日露戦争中に高宗はロシアに事大するための密使を派遣していたが、日本は高宗の密使を発見し、高宗の条約違反という弱みを握ることとなった。
 
列強の支持を取り付けた日本は、[[日露戦争]]勝利後、[[11月17日]][[第二次日韓協約]](乙巳保護条約)を締結し、韓国の外交権を剥奪し、日本の[[保護国]]とした。承政院日記には、高宗が保護条約反対派の大臣を宥める記述が残っている。
 
一方、これらの動きの中で高宗は、[[1907年]]6月に行われる第2回万国平和会議に秘密裏に特使を派遣し、[[ハーグ密使事件]]を起こすが、既に日本の権益を認めていた列強からは相手にされなかった。この事件により、日本の意を受けた[[李完用]]などの勢力は、皇帝退位へと動き、[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]皇太子[[純宗 (朝鮮王)|李坧]]への譲位に追い込まれ[[太上皇|太皇帝]]となる。
 
=== 韓国併合 ===
[[file:Gojong of the Korean Empire 01.jpg|thumb|right|200px|日本の[[大礼服]]を着用した高宗]]
[[1910年]](明治43年)8月の[[韓国併合]]にともない、太王([[王公族|王族]])の称号を与えられ、「徳寿宮李太王」と称された<ref name="mypedia"/><ref name="nihonkokugo"/>。
 
[[ファイル:Funeral for Gojong.JPG|thumb|right|240px|1919年の高宗の葬列]]
[[1919年]][[1月21日]]、[[三・一独立運動|三・一運動]]の起きるおよそ1ヶ月前に67歳で[[薨去]]した<ref name=":0" />。日本の[[王公族]]徳寿宮李太王㷩として1919年(大正8年)3月3日に[[国葬]]が執り行われた。薨去に際して日本による毒殺説が流布され、葬儀の日に三・一独立運動を引き起こすきっかけとなった<ref name="mypedia"/>。
 
御陵は洪陵。 なお、日本政府の立場においては、「高宗」の廟号および「皇帝」の名称を含む諡号を公認するものではなかったが、李王家の「私儀」として黙認した。しかし、墓を「洪陵」と命名し、その石碑を立てる動きが起こるに及び、宮内省は皇族待遇の李王家の前当主には「天皇陵」と同等の呼称は許されないとして(皇族なら「墓」になる)、「陵」の呼称の差し止めを図った。しかし、洪陵の管理人が独断で建碑したという形で、「大韓高宗太皇帝洪陵」の碑が建った。これは、[[朝鮮独立運動|民族独立]]の機運が高まる中、事態の紛糾と[[朝鮮貴族]]の離反を恐れた朝鮮総督府の黙認のもと、朝鮮貴族らが協力して実現したことであり、総督府の働きかけにより宮内省も妥協することになった<ref>(李昇燁「滅びし王朝の君主一族」『歴史学への招待』世界思想社 </ref>。
 
== 人物 ==
1890年代後半に東洋を旅し、高宗とも面会した[[イザベラ・バード]]は、「背が低くて顔色が悪く、平凡な人で、落ち着きがなく、両手をしきりにひきつらせていたが、居ずまいやものごしに威厳がないわけではなく、愛想がよく、生来の人のよさがある」「心やさしく温和だが性格が弱く、人の言いなり」「性格的な強さと知性があれば名君になれたかもしれないが意志薄弱なのが致命的」などの感想を抱き、聡明な妻・[[閔妃]]の強い影響下にあると述べている<ref>『[[朝鮮紀行]]〜英国婦人の見た李朝末期』イザベラ・バード、講談社 (1998/8/10)</ref>。
 
戦時では米仏露の公館にそれぞれ逃げ込み、日米欧の列強諸国や宮廷内の権力争いの間に翻弄されて、立憲君主制の時代に専制君主へ回帰するなどして朝鮮がもっとも国力疲労している時に国家予算を国家改革ではなく権威拡大に使って国を失った。外国勢力に頼りすぎる主体性の無さがかえって国内の混乱を招き、対外干渉を受け国を失った亡国の主という批判もある。朝鮮日報は高宗が王権拡大の専制君主憲法を制定したことを時代回帰とし、議会・近代的司法システムを整備するなど近代文明国へと転換せずに連携すべき友好勢力の独立協会・万民共同会を「下からの改革要求が君主権を侵害すると判断」して弾圧したと批判している。朝鮮日報は「徹底して味方と敵を分ける陣営政治の先頭に立った」と表現している<ref name=":1"/><ref name=":0" />。朝鮮日報は韓国は民主共和国として変革に成功したが、「領土と人民は金氏一家の私有、財政も金氏一家の私的な収入」の北朝鮮(の[[金王朝 (曖昧さ回避)|金王朝]])は朝鮮時代をそのまま継承したと表現している<ref>{{Cite web|title=【コラム】韓国政府が北の政権と三・一運動を記念する喜劇 p3|url=http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/02/01/2019020180180.html|website=www.chosunonline.com|accessdate=2019-02-07|language=ja|last=朝鮮日報/朝鮮日報日本語版|publisher=}}</ref>。
 
1905年に訪朝したセオドア・ルーズベルト大統領の末娘アリスは「皇帝らしい存在感はほとんどなく、哀れで、鈍感な様子だった」と述べている。親露政策をとっていた大韓帝国を信用していなかったルーズベルト大統領は「日本が大韓帝国を取ることを望む」と手紙に書いている。朝鮮日報は高宗を「国際情勢に疎かった人物」、「何かあれば外国公使館への避難・亡命説が出回る国家指導者」として、高宗美化は史実を誤解させると警告している<ref name=":1"/><ref name="archive.is"/>。
 
== 家系 ==
[[ファイル:Choseon Imperial family.jpg|thumb|right|240px|高宗と家人]]
 
* 祖父: 南延君 [[李球]](1788年 - 1836年)
* 祖母: 郡夫人[[驪興閔氏]](1784年 - 1831年)
* 父: [[興宣大院君]] 李昰応(1821年 - 1898年)
* 母: {{仮リンク|驪興府大夫人閔氏|ko|여흥부대부인}}(1818年 - 1898年)
* 兄: 完興君 [[李載冕]](1845年 - 1912年)
* 妹: 趙慶鎬正室
* 妹: 趙鼎九正室
 
=== 宗室 ===
* 正室: [[閔妃|明成皇后]] 驪興閔氏(1851年 - 1895年)
** 皇太子 [[純宗 (朝鮮王)|{{Lang|ko|李坧}}]](1874年 - 1926年)
* 後宮: [[純献皇貴妃]] 嚴氏(1854年 - 1911年)
** [[李垠|英親王]] {{Lang|ko|李垠}}(1897年 - 1970年)
* 後宮: 永保堂 [[:ko:귀인 이씨 (영보당)|{{Lang|ko|貴人李氏}}]](1849年 - 1928年)
** {{仮リンク|完親王|zh|完親王}} {{Lang|ko|李墡}}(1868年 - 1880年)
* 後宮: {{仮リンク|貴人張氏|ko|귀인 장씨}}(生没年不詳)
** [[李堈|義親王]] {{Lang|ko|李堈}}(1877年 - 1955年)
* 後宮: 内安堂 [[:ko:귀인 이씨 (내안당)|{{Lang|ko|貴人李氏}}]](1847年 - 1914年)
* 後宮: 宝賢堂 [[:ko:귀인 정씨 (고종)|{{Lang|ko|貴人鄭氏}}]](1882年 - 1943年)
** 皇子 [[:ko:이우 (1915년)|{{Lang|ko|李堣}}]](1915年 - 1916年) - 夭折
* 後宮: 福寧堂 [[貴人梁氏]](1882年 - 1929年)
** [[徳恵翁主]](1912年 - 1989年)
* 後宮: 光華堂 [[:ko:귀인 이씨 (광화당)|{{Lang|ko|貴人李氏}}]](1885年 - 1967年)
** 皇子 [[:ko:이육 (1914년)|{{Lang|ko|李堉}}]](1914年 - 1916年) - 夭折
* 後宮: 三祝堂 [[:ko:삼축당 김씨|{{Lang|ko|尚宮金氏}}]](1890年 - 1970年)
* 後宮: 貞和堂 [[:ko:정화당 김씨|{{Lang|ko|尚宮金氏}}]](生没年不詳)
* 後宮: {{Lang|ko|宮人廉氏}}
* 後宮: {{Lang|ko|宮人徐氏}}
* 後宮: {{Lang|ko|宮人金氏}}
* 後宮: {{Lang|ko|宮人張氏}}
* 生母不明
** 皇女 {{仮リンク|李文鎔|ko|이문용}}(1900年 - 1987年)
 
== 系図 ==
高宗の親類・近親・祖先の詳細
{{璿源譜略/荘祖}}
 
[[荘献世子]]━┳22代[[正祖]]━23代[[純祖]]━[[孝明世子]](翼宗)━24代[[憲宗 (朝鮮王)|憲宗]]
       ┃
       ┣[[恩彦君]]━[[全渓大院君]]━25代[[哲宗 (朝鮮王)|哲宗]]
       ┃
       ┗恩信君━[[南延君]](養子)━[[興宣大院君]]━26代/初代皇帝 '''高宗'''━2代皇帝 [[純宗 (朝鮮王)|純宗]]
 
{{李氏朝鮮後期系図}}
 
== 登場作品 ==
=== 映画 ===
* 『[[韓半島 -HANBANDO-]]』(2006年)演:[[キム・サンジュン]]
* 『[[炎のように蝶のように]]』(2009年)演:[[キム・ヨンミン]]
* 『[[GABI〜国境の愛〜]]』(2012年)演:[[パク・ヒスン]]
* 『[[ラスト・プリンセス 大韓帝国最後の皇女]]』(2016年)演:[[ペク・ユンシク]]
 
=== テレビドラマ ===
* 『[[明成皇后 (テレビドラマ)|明成皇后]]』(KBSドラマ、2001年)演:[[イ・ジヌ]]/(幼少期)[[イ・ジュン]]
* 『[[済衆院 (テレビドラマ)|済衆院]]』(SBSドラマ、2010年)演:[[チェ・ジョンファン]]
* 『[[JIN-仁-#2012年のテレビドラマ(Dr. JIN)|Dr.JIN]]』(MBCドラマ、2012年)演:[[イ・ヒョンソク]]
* 『[[朝鮮ガンマン]]』(KBSドラマ、2014年)演:[[イ・ミヌ (俳優)|イ・ミヌ]]
* 『[[ミスター・サンシャイン]]』([[tvN]]ドラマ、2018年)演:[[イ・スンジュン]]
* 『[[緑豆の花]]』(SBSドラマ、2019年)演:[[イ・チャニョン]]
* 『[[風と雲と雨]]』([[TV朝鮮]]ドラマ、2020年)演:[[パク・サンフン]]
 
== 脚注 ==
{{Reflist | 2脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
* [https://www.abc1008.com/ohapaso/ 公式サイト]
 
{{前後番組
== 関連項目 ==
|放送局=[[朝日放送ラジオ]]
{{commonscat|Gojong of the Korean Empire|高宗}}
|放送枠=金曜日6:30 - 9:00([[おはようパーソナリティ]]枠)
* [[カール・イバノビッチ・ヴェーバー]]
|番組名=おはようパーソナリティ古川昌希です
* [[パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ]]
|前番組=[[おはようパーソナリティ道上洋三です]]
* [[露朝密約事件]]
|次番組=-
 
}}
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{{radio-stub}}
 
{{DEFAULTSORT:おはようはあそなりていふるかわまさきてす}}
{{S-bef|rows=1|before=[[哲宗 (朝鮮王)|哲宗]]}}
[[Category:朝日放送ラジオの番組]]
{{S-ttl|title=[[李氏朝鮮]]の[[朝鮮の君主一覧|国王]]|years=第26代:[[1863年]] - [[1897年]]}}
[[Category:2022年のラジオ番組 (日本)]]
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[[Category:高宗 (朝鮮)|*]]
[[Category:朝鮮国王]]
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[[Category:廃位された君主]]
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[[Category:閔妃]]
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[[Category:19世紀アジアの君主]]
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[[Category:1852年生]]
[[Category:1919年没]]