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{{基礎情報 ラジオ番組
{{Infobox baseball player
|番組名=おはようパーソナリティ<br/>古川昌希です
| 選手名 = 渡辺 智男
|画像=[[画像:Asahi Broadcasting Corporation headquarter.JPG|250px]]
| 所属球団 =
|画像説明=生放送に使用している[[朝日放送ラジオ]]本社<br />(大阪・[[ほたるまち]])
| 背番号 =
|愛称=おはパソ
| 国籍 = {{JPN}}
|ジャンル=ワイド・バラエティ
| 出身地 = [[高知県]][[高岡郡]][[佐川町]]
|放送方式=[[生放送]]
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1967|6|23}}
|放送時間=金曜日 6:30 - 9:00(150分)
| 没年月日 =
|企画=
| 身長 = 178
|プロデューサー=
| 体重 = 80
|ディレクター=
| 利き腕 = 右
|パーソナリティ=[[古川昌希]]
| 打席 = 左
|出演=[[去来川奈央]]
| 守備位置 = [[投手]]
|テーマ曲=
| プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1988}}
|放送局=[[朝日放送ラジオ]](ABCラジオ)
| ドラフト順位 = ドラフト1位
|ネットワーク=
| 初出場 = 1989年6月2日
|制作=
| 最終出場 = 1997年8月30日
|放送期間=[[2022年]][[4月1日]] -
| 経歴 =
|放送回数=
* [[高知県立伊野商業高等学校]]
|スポンサー=
* [[NTT四国硬式野球部|NTT四国]]
|公式サイト=https://www.abc1008.com/ohapaso/
* [[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]] (1989 - 1993)
|特記事項=
* [[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]] (1994 - 1997)
* 西武ライオンズ (1998)
}}
『'''おはようパーソナリティ古川昌希です'''』(おはようパーソナリティふるかわまさきです)は、[[朝日放送ラジオ]](ABCラジオ)で[[2022年]]([[令和4年]])[[4月1日]]から毎週[[金曜日]]の6:30 - 9:00([[JST]])に放送中の生ワイド番組。『[[おはようパーソナリティ]]』シリーズの第3代に当たる番組の一つ(『[[おはようパーソナリティ道上洋三です]]』金曜分の後継番組)で、[[古川昌希]]([[朝日放送テレビ]]アナウンサー)の[[冠番組]]でもある。
{{MedalTop}}
== 概要 ==
{{MedalSport|男子 [[野球]]}}
{{see also|おはようパーソナリティ小縣裕介です}}
{{MedalSilver|[[ソウルオリンピック|1988]]|野球}}
{{MedalBottom}}
'''渡辺 智男'''(わたなべ とみお、[[1967年]][[6月23日]] - )は、[[高知県]][[高岡郡]][[佐川町]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])。
 
1971年に放送を開始した『[[おはようパーソナリティ中村鋭一です]]』、1977年にその後継ぎとして放送を開始した『[[おはようパーソナリティ道上洋三です]]』の後継ぎである。
愛称は、「'''ナベトミ'''」。[[1988年ソウルオリンピックの野球競技|ソウルオリンピック]]野球の銀メダリスト。
 
放送開始まで至る流れは上記を参照。[[小縣裕介]]がスポーツアナウンサーを兼務することを鑑みてか、当番組では月~木と金曜で分割することとなり<ref name="sanspo_20220225">{{Cite web |url=https://www.sanspo.com/article/20220225-FEXRSPRT2NMCJMGJD3Y5ICHK2Q/ |title=道上洋三アナの後任は小縣裕介、古川昌希両アナ ABCラジオ「おはようパーソナリティ」 |publisher=サンケイスポーツ |date=2022-02-25 |accessdate=2022-03-01}}</ref>、金曜日は[[古川昌希]]がメインを担当。アシスタントもそれぞれで分割することとなり、これまで5曜日通しで担当していた[[オフィスキイワード]]所属のフリーアナウンサー・いがらしあみは小縣の担当曜日に出演。金曜日は[[松竹芸能]]所属タレントの[[去来川奈央]]とのコンビで伝統の『おはようパーソナリティ』のタイトルを引き継いで『'''おはようパーソナリティ古川昌希です'''』を始めることとなった<ref name="sanspo_20220225" />。また、この編成開始により、『[[朝も早よから 中原秀一郎です|朝も早よから 桂紗綾です]]』から『[[岩本・西森の金曜日のパパたち]]』まで、デイタイムの番組すべてが月~木と金曜日で分割される構成となる。
== 経歴 ==
=== プロ入り前 ===
[[高知県]][[高岡郡]]で[[イチゴ]]などを栽培する農家の長男として生まれる<ref name="base_19890918_117">週刊ベースボール、1989年9月18日号、P.117</ref><ref>矢崎良一『不惑 : 桑田・清原と戦った男たち』ぴあ、14ページ、2008年、ISBN 978-4-8356-1692-6</ref>。中学校時代にヒジを剥離骨折し、[[投手]]にならないという条件で[[高知県立伊野商業高等学校|伊野商業高校]]に進学した<ref name="base_20030825_24">週刊ベースボール、2003年8月25日号、P.24</ref>。しかし、2年の春になってから投手として練習するようになり、秋にはエースナンバーをもらった<ref name="base_20030825_24"/>。県内の同学年の投手には[[高知市立高知商業高等学校|高知商]]の[[中山裕章]]や[[明徳義塾中学校・高等学校|明徳義塾高]]の[[山本誠]]がおり、[[球速]]は中山、制球力や変化球は山本の方が上だと感じたため、球持ちの良さや[[速球]]のキレに磨きをかけたという<ref name="base_20030825_24"/>。
 
ちなみに、古川・小縣とも第3代の「[[おはようパーソナリティ]]」に当たるが、シリーズ史上初めて月 - 木曜日と金曜日でパーソナリティを分担<ref name="sanspo_20220225" />。小縣が50歳で担当を始めるのに対して、古川は道上と同じく、34歳で「おはようパーソナリティ」の座を継承する。さらに、『 - 道上洋三です』までのシリーズ番組から一転して、「リスナーから寄せられた疑問を放送中に解決する『問題解決型ラジオ』」というコンセプトを『 - 小縣裕介です』と共に打ち出している<ref>{{Cite web |url= https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000212.000040629.html|title= ABCラジオ春の新番組のお知らせ|publisher= 朝日放送ラジオ|date= 2022-03-23|accessdate=2022-03-24}}</ref>。
3年春に[[第57回選抜高等学校野球大会|選抜高校野球大会]]に出場し、これが同校初の全国大会となった。渡辺自身を含めチームは1回戦突破を目標としていたが<ref name="base_20030825_24"/>、抽選の結果、初戦の相手はチーム打率が4割を超す[[東海大学付属浦安高等学校・中等部|東海大浦安]]となった。しかし1回表に渡辺の[[本塁打]]で先制して流れをつかみ、5対1で勝利。これによってチームの緊張が解け、落ち着いてプレーできたという<ref name="base_20030825_24"/>。準決勝では[[清原和博]]、[[桑田真澄]]らを擁する[[PL学園中学校・高等学校|PL学園]]と対戦。伊野商が初出場だった事もあり、下馬評では圧倒的有利だったPL側は投手対策を特に立てておらず<ref name="base_20030825_24"/>、渡辺が清原を3三振に封じ込めるなどわずか1失点の好投で勝利した。決勝の対[[帝京中学校・高等学校|帝京]]戦では自ら[[本塁打]]を放ち<ref>[http://www2.asahi.com/koshien/game/1985/300/9919/ asahi.com 選抜決勝記録]</ref>、[[小林昭則]]との投げ合いを13奪三振の[[完封]]で制して優勝した。
 
==出演者==
3年夏の[[全国高等学校野球選手権高知大会|高知県大会]]は決勝で高知商に敗れ、卒業後は[[社会人野球]]の[[NTT四国硬式野球部|NTT四国]]に進んだ。在籍した3年間、チームは毎年[[都市対抗野球大会|都市対抗]]に出場し、{{by|1988年}}の[[第59回都市対抗野球大会|大会]]では初戦で勝利投手となっている。また同年は[[ソウルオリンピック野球日本代表|ソウル五輪代表]]にも選ばれたが、直前の7月にエースとして<ref name="base_19890522_25">週刊ベースボール、1989年5月22日号、P.25</ref>参加した[[IBAFワールドカップ]]で右ひじを故障した<ref name="base_19890410_51">週刊ベースボール、1989年4月10日号、P.51</ref>。この怪我などを理由に[[1988年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]を前にプロ入り拒否を打ち出した。これに対し[[埼玉西武ライオンズ|西武]]がドラフト1位で強行指名したため、NTT四国の西田優監督が激怒したという<ref name="base_19890116_26">週刊ベースボール、1989年1月16日号、P.26</ref>。もっとも、ドラフト指名の約1ヶ月前の[[10月29日]]に[[日本大学医学部附属板橋病院|日大板橋病院]]で渡辺の右ヒジ遊離[[軟骨]]除去手術を担当したのが西武のチームドクターだったため、この指名に関しては密約説もささやかれていた<ref name="base_19890116_26"/><ref>[http://www.asagei.com/excerpt/45506 プロ野球”黒いドラフト”封印された真相「根本陸夫氏が使ったドラフトの裏技とは?」]</ref>。球団側は同じ手術を経験した二軍投手コーチの[[森繁和]]の直接指導、専属トレーナーの付与などを約束し<ref name="base_19890116_26"/>、最終的には同じくプロ入り拒否を打ち出していた2位指名の[[石井丈裕]]とともに入団を決めている。なお契約金と年俸はそれぞれ石井と同額の7,000万円、840万円(いずれも推定)となった<ref name="base_19890116_26"/>。なお、[[野球の背番号|背番号]]は同年で引退した[[東尾修]]の21を受け継いでいる。
*[[古川昌希]](パーソナリティ、[[朝日放送テレビ]]アナウンサー)<ref name="sanspo_20220225"/>
**愛称は(苗字の古川にちなんで)「ふるぽん」で、「おはようパーソナリティ」には、前任者の道上と同じく34歳で就任。[[2019年]]には、朝日放送テレビを含む[[オールニッポン・ニュース・ネットワーク|ANN]]加盟局の優秀なアナウンサーを表彰する[[ANNアナウンサー賞]]で、第18回の大賞を受賞している。
***朝日放送テレビでは、『[[キャスト (テレビ番組)|キャスト]]』(平日夕方の関西ローカル向け報道・情報番組)で[[2013年]][[10月28日]]([[月曜日]])からサブキャスター([[キャスト (テレビ番組)#浦川の降板に伴う暫定措置(2018年1 - 3月)|2018年1月から3ヶ月間のみメインキャスター]])を最終回(当番組開始2日前の[[2022年]][[3月30日]])まで担当。後継番組の『[[news おかえり]]』でも、当番組への出演と並行しながら、初回([[4月4日]])から平日の全曜日(金曜日は当番組の本番後)にサブキャスター(スタジオ進行)やフィールドキャスターを務める。
***朝日放送ラジオの生放送番組でも、当番組の放送開始前週([[2022年]][[3月26日]])まで半年間にわたって『[[古川音座衛門]]』([[土曜日]]17時台の[[音楽番組]])のパーソナリティを担当。『おはようパーソナリティ道上洋三です』では、[[2016年]]・[[2017年]](いずれも道上の夏季休暇中)と[[2022年]][[3月1日]]([[火曜日]])放送分でパーソナリティ代理を経験していた。
*[[去来川奈央]](アシスタント、[[松竹芸能]]に所属する[[フリーアナウンサー]])<ref name="sanspo_20220225"/>
**[[同志社大学]]からの卒業後に、[[NHK岐阜放送局]]と[[NHK京都放送局]]の契約キャスターを経てフリーアナウンサーへ転身。氏名を「いさがわ なお」と読ませる。
**朝日放送テレビでは[[2017年]][[4月6日]]([[木曜日]])から、『[[おはようコールABC]]』(生放送による平日早朝の関西ローカル向け情報番組)のニュースキャスターを([[産前産後休暇]]をはさんで)[[2020年]][[10月2日]](金曜日)の最終回まで週に2日(休暇からの復帰後は1日)担当。朝日放送テレビ総務局員(元・アナウンサー)の[[八塚彩美]]は、同志社大学および、学内の放送局(同志社学生放送局)での同期生に当たる。
*[[桂紗綾]](ニュースキャスター、朝日放送テレビアナウンサー)
**『おはようパーソナリティ道上洋三です』が放送されていた[[2019年]][[1月]]から、金曜日の前枠で『[[朝も早よから 桂紗綾です]]』(朝日放送ラジオが自社で制作する生ワイド番組)のパーソナリティを務めながら、本番後に『おはようパーソナリティ』枠内の定時ニュース(7時台・8時台の「[[ABCニュース (朝日放送ラジオ)|ABCニュース]]」を担当。
*[[清水とおる]](7時台後半の「ABC天気予報」にのみ出演)
**朝日放送グループと契約している[[気象予報士]]で、『おはようパーソナリティ道上洋三です』時代の[[2006年]]から出演しているほか、『おはようパーソナリティ小縣裕介です』でも7時台後半の「ABC天気予報」を担当。[[俳句]]や[[歳時記]]の鑑賞が趣味で、『キャスト』では(古川のキャスター就任前から)一貫して気象キャスターを務めていた。
 
=== 西武時代タイムテーブル ===
コーナーについては、特記しない限り、『[[おはようパーソナリティ道上洋三です]]』(『 - 道上洋三です』)の金曜分からスポンサーごと継承。生放送番組のため、コーナーの放送時間を変更したり、コーナーを休止したりすることがある。また、古川/去来川が休演する日の放送では、以下に記す「古川」「去来川」の役割をパーソナリティ/アシスタントの代理者が担当。
プロ1年目の{{by|1989年}}のキャンプは右ヒジ周辺の[[筋肉]]強化などのリハビリで始まり、[[楠城徹]]スカウトが専属コーチを務めた<ref name="base_19890410_51"/>。3月中旬には捕手を座らせた状態で一日50球以上を投げられるまでに回復し<ref name="base_19890410_51"/>、[[4月24日]]には[[イースタン・リーグ]]の対[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦で初登板している。さらに[[5月3日]]の[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦では初先発で5回を1安打に抑え、[[5月26日]]に一軍に昇格すると初登板となる[[6月2日]]の対[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]戦で先発を任された<ref name="base_19890918_116">週刊ベースボール、1989年9月18日号、P.116</ref>。この試合はわずか1回1/3で7点を奪われ敗戦投手となったが、次の[[6月9日]]の対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]戦では敗れはしたものの[[自責点]]1の内容で155球を投げて完投している<ref name="base_19890918_116"/>。続く[[6月17日]]の対ダイエー戦で初勝利を[[完投]]で飾ると先発に定着し、同年は19試合の登板ながら[[規定投球回]]にも到達して10勝を挙げている。なお、[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]の選考では惜しくも[[酒井勉]]に敗れたが、契約更改では酒井と同額の年俸2,000万円となった<ref>読売新聞、1989年12月16日付朝刊、P.18</ref>。
=== 6時台 ===
*6:30 オープニング
:『[[おはようパーソナリティ中村鋭一です]]』(『 - 中村鋭一です』)の時代から、パーソナリティ(○○)による「おはようパーソナリティ、○○です」という番組タイトルの読み上げが挨拶を兼ねている。ちなみに、古川が『 - 道上洋三です』で道上の代役を務めた期間中は、「『おはようパーソナリティ、道上洋三です』。ピンチヒッターの古川昌希です」と名乗っていた。
:古川は『 - 道上洋三です』のパーソナリティ代理時代から、アシスタントとの間でトークをひとしきり展開した後に、リスナーから募集するメッセージのテーマを決めている。
*6:40 今日の朝刊
:放送日に大阪で発行された一般紙朝刊(最終版)の1面([[新聞休刊日]]にはスポーツ紙の即売版と[[共同通信社]]の配信記事)から、古川が私見を交えながら注目の記事を取り上げる。当コーナーで伝え切れなかった場合には、7時台のフリーゾーンにまで持ち越す。
*6:50 「ABC天気予報」
:基本として、札幌・東京・福岡・大阪の当日の空模様を去来川が紹介。
*6:53 「おでかけインフォメーション」
:交通情報全般を扱うコーナー。最初に、朝日放送ラジオの平日生ワイド番組で最も早く、[[日本道路交通情報センター]]から担当者が最新の道路情報を伝える。その後で、去来川が当番組のスタジオから関西圏の航空便・鉄道の発着情報を入れる。
*6:55 「おはよう朝一番」
:放送開始までにハガキ・電子メール・FAXで届いたリスナーからのメッセージを紹介。
=== 7時台 ===
*7:00 「おはようメッセージ」
:オープニングで決めたメッセージテーマを改めて告知するとともに、「おはよう朝一番」に続いて、リスナーから寄せられたメッセージから一部を紹介。
*7:05 「[[ABCニュース (朝日放送ラジオ)|ABCニュース]]」
:2019年1月以降の『 - 道上洋三です』に続いて、『朝も早よから 桂紗綾です』パーソナリティの桂が8時台を含めて担当。
*7:10 「ABC天気予報」
:6時台と同様に、去来川が天気予報の原稿を読む。
:この時間の天気予報のみ、「今週のお天気ミュージック」として、ヒット曲などの[[インストゥルメンタル]]1曲を1週間(『 - 小縣裕介です』と)共通のBGMとして流す。
*7:13 「[[ABC交通情報]]」
*7:15 フリーゾーン
:放送日に発行された一般紙朝刊の記事(新聞休刊日にはスポーツ紙の即売版と共同通信社の配信記事)から、気になる話題を1つ取り上げる。
*7:25 「スポーツの話題」
:『 - 中村鋭一です』の時代から、[[日本プロ野球|日本プロ野球(NPB)]]のシーズン中で[[阪神タイガース]]が前日に組まれていた試合に勝利した場合に、パーソナリティとアシスタントが(代演者を含めて)球団歌の『[[阪神タイガースの歌|六甲おろし]]』を熱唱することで知られるコーナー。「阪神ファン見習い」を自称している古川も、この伝統を引き継ぐ<ref group="注釈">実際には[[劇団四季]]などの[[ミュージカル]]作品を鑑賞することが趣味で、「[[美女と野獣 (ミュージカル)|美女と野獣]]」に使われている『ひとりぼっちの晩餐会』を台詞付きで歌うことを特技に挙げている。もっとも、『おはようパーソナリティ道上洋三です』のパーソナリティ代理を始めるまで、『六甲おろし』を日常生活で歌うことはなかったという。本人によれば、「小学生時代に実家で同居していた祖父が[[読売ジャイアンツ|読売ジャイアンツ(巨人)]]ファン・祖母が阪神ファンで、『阪神と巨人が戦う試合のテレビ中継を祖父と祖母が別々の部屋で見る』という有様だったので、実家で野球について話すこと自体がタブーになっていた」とのことである(当番組放送初日の『[[日刊スポーツ]]』[[日刊スポーツ西日本|大阪本社]]発行版18ページに掲載された全面特集でのインタビューより)。</ref>。『 - 道上洋三です』時代に続いて、[[淀川製鋼所]]がこのコーナーを提供。
:
*7:40 リスナーからのメッセージ紹介
:放送日によっては、「スポーツの話題」の続きに充てる。
*7:50 「ABC交通情報」
*7:53 「ABC天気予報」
:『 - 道上洋三です』時代の2009年10月4日(月曜日)放送分から、清水がこの時間にのみ出演。主な放送対象地域である関西地方が異常気象(台風や豪雨など)に見舞われている場合や、放送の時点で異常気象の発生が予想される場合を除いて、放送時点での季節・天気に関する俳句や歳時記の一節を織り交ぜながら当日の気象概況を伝える。
を担当。
*7:55 「こどもの詩(うた)」
:『 - 道上洋三です』時代の1982年から放送されているコーナーで、当番組では、小学生から寄せられた作文から毎日1編を去来川が代読。作文を読まれた小学生には、5, 000円分の図書カードと、代読の模様を録音したCDを進呈している。
 
=== 8時台 ===
2年目の{{by|1990年}}、開幕から[[先発ローテーション]]に入り、[[工藤公康]]と登板日を交換して前年優勝争いをした[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]や[[オリックス・バファローズ|オリックス]]との試合に先発する<ref name="base_19900521_129">週刊ベースボール、1990年5月21日号、P.129</ref>など、[[森祇晶]]監督から厚い信頼を受けていた。これに応えて[[5月11日]]の対ダイエー戦まで開幕5連勝(前年から通算9連勝)を記録し、[[1990年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に初出場を果たしている。シーズン通算ではキャリアハイの13勝を挙げ、先発した[[1990年の日本シリーズ #第3戦|同年の日本シリーズ第3戦]]は春の甲子園以来の[[桑田真澄]]との投げ合いとなり、史上8人目の初登板初完封で勝利した。なお同シリーズでは西武の選手がこぞって活躍し、渡辺は完封を記録しながら優秀選手賞に選ばれないという珍しいケースとなっている([[1990年の日本シリーズ #第1戦|同年の日本シリーズ第1戦]]で同じく完封勝利を達成した[[渡辺久信|渡辺久]]は優秀選手賞に選ばれている)。また、後に渡辺自身はこの完封勝利を現役時代一番の思い出だと語っている<ref name="base_19981207_61">週刊ベースボール、1998年12月7日号、P.61</ref>。
*8:00 「話のダイジェスト」
:『[[話題のアンテナ 日本全国8時です]]』(朝日放送ラジオが加盟する[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN]]のネットワークセールス番組)の[[企画ネット]]による日替わりの特集コーナーで、同番組のCMのみ放送。
*8:20 「健康道場」
:健康に関する話題や情報を取り上げる[[サンスター]]単独提供のコーナーで、『 - 道上洋三です』の時代から放送されている。
:朝日放送ラジオで2014年10月から毎週土曜日の7:00 - 7:30に放送されている『[[道上洋三の健康道場]]』は、このコーナーから派生したサンスター単独提供の事前収録番組で、道上の氏名を番組のタイトルに冠したまま2022年4月から[[伊藤史隆]](アナウンサーとしての古川の先輩)をメインパーソナリティ代理に迎えている。
*8:20 古川・去来川がスタジオから伝える[[インフォマーシャル]] 
*8:30 「ABCニュース」
*8:35 「ABC天気予報」
:『 - 道上洋三です』時代の2021年4月1日から[[牛乳石鹸共進社]]が単独で提供している関係で、沼光絵理佳(ピアニスト)のアレンジ・ピアノ演奏による「[[牛乳石鹸共進社#CMソング「牛乳石鹸のうた」|牛乳石鹸のうた]]」を「お天気ミュージック」に使用。6時台・7時台の前半に続いて、いがらしが天気予報を伝える。
*8:40 「ABC交通情報」(6時台の「おでかけインフォメーション」と同じ構成)
*8:45 「話のマーケット」
:『 - 道上洋三です』で長らく放送されていたものの、最終盤(2021年頃)に休止していたコーナーを復活。実際には、リスナーからのメッセージ紹介やインフォマーシャルに充てる。
*8:50 「[[ジャパネットたかた]]ラジオショッピング」
:『 - 道上洋三です』時代の2011年4月から放送。他のラジオ番組と同様に、ジャパネットたかた本社([[長崎県]][[佐世保市]])のラジオスタジオから、同社の「MC社員」が中継で出演している。『 - 道上洋三です』の放送末期からは、[[鹿児島放送]](朝日放送テレビと同じ[[テレビ朝日系列]]のテレビ単営局)のアナウンサーからジャパネットたかたの「MC社員」に転身した[[馬場雄二]]が、ラジオ専任のMCとして主に商品の紹介を担当。
*8:57 エンディング
:翌週の月曜日に『 - 小縣裕介です』内の「話のダイジェスト」で取り上げる予定のテーマを紹介したうえで、後続番組のパーソナリティ(『[[横山太一のピカイチ☆ブランチ!]]』の[[横山太一]])に向けて古川がコメントを残す。
::横山は古川の先輩アナウンサーで、『おはようコールABC』の最終メインキャスター時代に去来川と毎週金曜日に共演していたほか、2022年4月から『news おかえり』のメインキャスターへ就任。金曜日には、『ピカイチ☆ブランチ!』への本番後に、『news おかえり』で古川と共演する。
*8:59 番組終了
 
== テーマ曲 ==
{{by|1991年}}、[[5月22日]]までに全て完投で5勝を挙げるなど順調なスタートを切ったが、[[7月16日]]の対近鉄戦で右手中指の[[肉刺|マメ]]が潰れ、登録を抹消されるとともに同年のオールスターゲーム出場を辞退することになった<ref>読売新聞、1991年7月18日付朝刊、P.21</ref>最終的には新人から3年連続となる二桁勝利を挙げ、さらに初のタイトルとなる[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]を獲得した。[[1991年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]では第4戦に先発したが、2回0/3を投げて5安打2四球、2失点の内容で敗戦投手となっている。オフには1,920万円増の年俸6,120万円で契約を更改した<ref>読売新聞、1991年12月10日付朝刊、P.21</ref>。
*「[[クラリネット・ポルカ]]」
**『おはようパーソナリティ中村鋭一です』の初回から、『おはようパーソナリティ』シリーズの共通テーマ曲としてオープニングとエンディングに放送。
 
== 時刻の告知方法 ==
{{by|1992年}}は前半戦で7勝を挙げて[[最多勝利]]も期待されたが、シーズン後半からストライクが全く入らない状態に陥ってしまった<ref name="base_19931220_116">週刊ベースボール、1993年12月20日号、P.116</ref>。さらに右ひじ痛が発覚<ref name="base_19981207_61"/>し、後半戦は未勝利に終わった。[[1992年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]でも第4戦に先発したが、2安打3四球の内容で前年と同じく3回途中での降板となっている。同年は初のダウンとなる年俸5,400万円(推定)で契約を更改した<ref name="base_19931220_116"/>。
当番組を含む『おはようパーソナリティ』シリーズは平日早朝の生放送番組であるため、[[朝日放送ラジオ#時報|正時(0分)の時報]]とは別に、7時台に5分単位・8時台に10分単位で時刻を告知している。正時以外の時刻の告知には、[[サウンドエフェクト|サウンドエフェクト(効果音)]]と合成音声を使用。時刻が7:05の場合には、効果音に続いて、合成音声で「7時、5分。」とだけ伝えている。
 
効果音は流す季節に応じた素材(カッコウの鳴き声や蒸気機関車の警笛音など)を用いていて、番組の進行にかかかわらず、上記の時刻に差し掛かると強制的に流れるようになっている。そのため、当該時刻でCMを放送していても、CMの音源に効果音と合成音声を重ねる格好で時刻を伝えている。
コントロールの悪化は腰痛をかばってフォームが崩れた事が原因と考え、{{by|1993年}}はキャンプから修正を繰り返したが状態は改善せず、[[イースタン・リーグ]]でも四球でランナーをためて打たれ、プロ入り初の一軍での登板は無しでシーズンを終えた<ref name="base_19931220_116"/>。投球[[ノイローゼ]]のような状態だったとも言われる<ref name="base_19931220_117">週刊ベースボール、1993年12月20日号、P.117</ref>。オフに[[佐々木誠 (野球)|佐々木誠]]、[[村田勝喜]]、[[橋本武広]]3選手との大型交換トレードで[[秋山幸二]]、[[内山智之]]両選手とともにダイエーに移籍した。このトレードにともない、年俸は200万円増の5,600万円となっている<ref>予選リーグ1993年12月22日付夕刊、P.3</ref>。
 
=== ダイエー時代 ===
{{by|1994年}}、移籍1年目の[[5月5日]]の対ロッテ戦で1年11ヶ月振りの勝利を無四球完封で飾り<ref>読売新聞、1994年5月6日付夕刊、P.18</ref>復活の兆しを見せたものの、投球のムラが激しく負けが先行、[[8月3日]]の対近鉄戦で右足首を痛めて以降はチームの好調もあり登板がなかった<ref>読売新聞、1995年4月15日付朝刊、P.19</ref>。同年の契約更改では現状維持となっている<ref>朝日新聞、1994年12月11日付朝刊、P.27</ref>。
 
{{by|1995年}}、右足首の状態からキャンプでの調整が遅れ、初登板となった[[4月14日]]の対近鉄戦で7回途中まで3安打無失点に抑える<ref>読売新聞、1995年4月15日付朝刊、P.19</ref>も、その後は成績が低迷一軍登板ではプロ入り初の0勝に終わる。
 
{{by|1996年}}、キャンプ中に腰を痛めて2軍での調整が続き、7月には再起をかけて自ら[[サイドスロー]]への転向を決めた<ref name="base_19960902">週刊ベースボール、1996年9月2日号、グラビア</ref>。しかしシーズン初登板となった[[8月13日]]の対日本ハム戦で先発すると8安打5失点で3回途中での降板となり、続く[[8月17日]]の対オリックス戦は中継ぎで1回2/3を投げ2失点と投球内容は改善せず、同年の一軍登板はこの2試合だけとなった<ref name="base_19960902"/>。翌年には一軍ではプロ入り初の先発登板無しに終わる。
 
=== 西武復帰 ===
{{by|1997年}}オフに金銭トレードで西武に復帰したが一軍登板のないまま、{{by|1998年}}限りで現役を引退。西武のスカウトに転身した<ref name="shuube20140324_P18">週刊ベースボール2014年3月24日号 P18</ref>。
 
=== 引退後 ===
[[2009年]][[8月22日]]の[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦には[[ライオンズ・クラシック]]の一環として復刻ユニフォームを着て打席に[[清原和博]]を迎えて投手を務め始球式を行った。また、[[2011年]][[5月31日]]の[[セ・パ交流戦]]での[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦では試合前に「OB一打席対決」として打席に[[篠塚和典]]を迎えて始球式を行った。
 
== 選手としての特徴 ==
身長178cmとプロの投手として大柄ではなかった<ref name="base_19900205_115">週刊ベースボール、1990年2月5日号、P.115</ref>が、高校時代からキレの良い[[速球]]を持ち味とし、社会人時代は常時140km/h台後半の速球と[[スライダー_(球種)|スライダー]]で多くの[[三振]]を奪っていた<ref name="base_19890522_25"/>。プロ入り後は更に球威が増し、150km/hを超える速球と落差の大きい[[カーブ_(球種)|カーブ]]、鋭いスライダーで1年目から活躍している<ref name="base_19981207_61"/>。プロでは走者がいない時や下位打線を相手とする場面で力をセーブし、メリハリをつけながら130プラスマイナス10球の球数で完投する事を心がけていた<ref name="base_19900611_36">週刊ベースボール、1990年6月11日号、P.36</ref>。
 
新人時代は[[渡辺久信]]や[[村田兆治]]を目標の選手に挙げ、本格派として長く活躍する事を目指していた<ref name="base_19890918_117"/>。高校時代から続く[[腰痛]]には[[気功]]療法を行っていた<ref name="base_19890918_117"/>が、{{by|1992年}}に起きた投球イップスの影響により身体のバランスを失い、以降右ひじ痛や右肩痛、足首故障など度重なる故障により、プロでの活躍期間は短かった。
 
また、高校時代は眼鏡を付けて投球していたが、社会人時代から[[コンタクトレンズ]]を付けて投球するようになり、眼鏡を付けずに投球するようになった(日常生活では眼鏡着用)。しかし、プロ入り後にたびたび乱視が起こり、制球が定まらなくなって自滅するケースもあった。
 
== 評価など ==
[[1990年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1990年のオールスターゲーム]]で対戦した[[阪神タイガース|阪神]]の[[岡田彰布]]は、同年それぞれ[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]を獲得した[[与田剛]]や[[野茂英雄]]よりも、渡辺の方が[[速球]]の力が上だったと評している<ref name="base_19900917_18">週刊ベースボール、1990年9月17日号、P.18</ref>。また、[[清原和博]]は甲子園での対戦を後に振り返り、「力で抑えられたのはあの時だけ」と語っている<ref name="base_19900917_17">週刊ベースボール、1990年9月17日号、P.17</ref>。また2019年に[[片岡篤史]]のYouTubeチャンネルに登場した際には「(清原にしては珍しい見逃し三振は)全く手が出なかった」「(高校時代の)球筋は[[藤川球児]]に似てる」「ここ(バッター近辺を差し)からが凄い感じ」などと解説している。
 
[[中日ドラゴンズ|中日]]のチーフスコアラーだった[[江崎照雄]]は、「球の出し入れの駆け引きには天才的なものがある」と渡辺の投球術を評価している<ref name="base_19900917_18"/>。しかし、下位打線に対して力を抜く投球は[[江川卓 (野球)|江川卓]]のようだと言われ、[[森祇晶]]監督に苦言を呈される事もしばしばあった<ref name="base_19900917_18"/>。
 
== 詳細情報 ==
=== 年度別投手成績 ===
{| {{投手成績|リーグ=日本プロ野球}}
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1989}}
|rowspan="4" style="text-align:center;"|[[埼玉西武ライオンズ|西武]]
|19||17||7||1||1||10||7||0||--||.588||568||138.0||129||12||41||3||2||101||2||0||55||54||3.52||1.23
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1990}}
|24||22||12||0||1||13||7||1||--||.650||724||176.0||156||21||52||3||4||130||4||0||74||66||3.38||1.18
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1991}}
|22||20||11||3||2||11||6||1||--||.647||638||157.0||117||11||60||5||6||119||3||0||46||41||'''2.35'''||1.13
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1992}}
|20||15||1||0||0||7||5||0||--||.583||397||85.0||81||8||61||2||8||58||5||0||54||46||4.87||1.67
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1994}}
|rowspan="4" style="text-align:center; white-space:nowrap;"|[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]
|16||16||3||2||'''3'''||4||9||0||--||.308||393||93.2||84||6||40||0||5||47||5||0||49||44||4.23||1.32
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1995}}
|14||12||1||0||0||0||5||0||--||.000||316||69.1||75||8||29||1||5||42||2||1||44||40||5.19||1.50
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1996}}
|2||1||0||0||0||0||1||0||--||.000||27||4.1||12||1||3||0||0||4||0||0||7||7||14.54||3.46
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1997}}
|6||0||0||0||0||0||0||0||--||----||17||2.1||6||0||5||0||0||1||3||0||3||3||11.57||4.71
|-
!colspan="2"|通算:8年
|123||103||35||6||7||45||40||2||--||.529||3080||725.2||660||67||291||14||30||502||24||1||332||301||3.73||1.31
|}
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高
 
=== タイトル ===
* [[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]:1回 (1991年)
 
=== 記録 ===
; 初記録
* 初登板・初先発登板:1989年6月2日、対[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]8回戦([[西武ドーム|西武ライオンズ球場]])、1回1/3を7失点で敗戦投手
* 初完投:1989年6月9日、対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]8回戦([[東京ドーム]])、8回2失点で敗戦投手
* 初勝利・初先発勝利・初完投勝利:1989年6月17日、対福岡ダイエーホークス11回戦(西武ライオンズ球場)、9回2失点
* 初完封勝利:1989年9月27日、対[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]22回戦([[藤井寺球場]])
* 初セーブ:1990年10月11日、対近鉄バファローズ26回戦(西武ライオンズ球場)、6回表に2番手で救援登板・完了、4回無失点
; その他の記録
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:1回 ([[1990年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1990年]]) ※[[1991年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1991年]]も選出されるも出場辞退<ref>[[ベースボール・レコード・ブック]]1992、1991年12月発売、P.788</ref>
 
=== 背番号 ===
* '''21''' (1989年 - 1993年)
* '''18''' (1994年 - 1997年)
* '''39''' (1998年)
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 関連項目 ==
* [[高知県出身の人物一覧]]
* [[埼玉西武ライオンズの選手一覧]]
* [[福岡ソフトバンクホークスの選手一覧]]
 
== 外部リンク ==
* [https://www.abc1008.com/ohapaso/ 公式サイト]
{{NPB|15113868}}
{{BASEBALLstats|brjpn=watana000tom}}
 
{{前後番組
{{パシフィック・リーグ最優秀防御率}}
|放送局=[[朝日放送ラジオ]]
{{Navboxes|title={{Flagicon|JPN}} 野球日本代表
|放送枠=金曜日6:30 - 9:00([[おはようパーソナリティ]]枠)
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|番組名=おはようパーソナリティ古川昌希です
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|前番組=[[おはようパーソナリティ道上洋三です]]
{{第30回IBAFワールドカップ日本代表}}
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}}
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{{西武ライオンズ1988年ドラフト指名選手}}
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[[Category:朝日放送ラジオの番組]]
{{デフォルトソート:わたなへ とみお}}
[[Category:2022年のラジオ番組 (日本の野球選手)]]
[[Category:NTT四国硬式野球部及びその前身チームの選手]]
[[Category:埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手]]
[[Category:福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手]]
[[Category:最優秀防御率 (NPB)]]
[[Category:NPBオールスターゲーム選出選手]]
[[Category:野球日本代表選手]]
[[Category:オリンピック野球日本代表選手]]
[[Category:日本のオリンピック銀メダリスト]]
[[Category:野球のオリンピックメダリスト]]
[[Category:高知県出身の人物]]
[[Category:1967年生]]
[[Category:存命人物]]