「刈和野奪回戦」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m Category:大仙市の歴史を追加 (HotCat使用) |
UNICORN008 (会話 | 投稿記録) m →鶴岡開城 |
||
(3人の利用者による、間の4版が非表示) | |||
1行目:
'''刈和野奪回戦'''
==経緯==
[[明治]]元年9月14日([[1868年]]
9月15日
午後2時頃、刈和野付近で
新政府軍は
酒井吉之丞は病床にあったので、副将の[[竹内茂祐]](右膳)が指揮を執った。新政府軍は前回のように[[胸壁陣地]]を築く暇がなく、[[遮蔽物]]がない
100メートルの距離で、新政府軍と
9月16日、庄内軍は川を
新政府軍は、薩摩軍が戦死者3名・負傷者5名、福岡軍が戦死者4名・負傷者4名、大村軍は戦死者7名・負傷者32名、平戸軍は戦死者14名の被害を出した。
この戦闘の後、[[山本登雲助]]([[長州藩|山口藩]]士。奥羽鎮撫隊監軍すなわち前線指揮官であるが、見当違いの采配が多くこの頃には発言力を失っていた)は、「庄内兵の勢いが以前にも増して強く抗し難い、[[久保田城]]は風前の灯であろう」と弱音を吐いた。しかし[[前山清一郎]]([[佐賀藩]]参謀。山本に代わる実質的な指揮官)は、「越後口の新政府軍が進軍してきているため庄内兵は撤退しようとしている。勢いが増したのは撤退時に追撃されるのを恐れてのことだ」と看破して、追撃を命じた。
==撤退戦==
一番大隊も、新政府軍の追撃を食い止め引き上げを容易にするために撤退戦を行っていた。午前10時頃、新政府軍が襲来して銃撃戦が始まった。新政府軍の兵力が増加しつつあったので、午後2時頃からひそかに撤退を開始した。一番大隊は9月17日午前3時に、二番大隊は午前2時に刈和野を出発して帰国の途についた。
[[新庄市|新庄]]方面が新政府軍の制圧下にあるという情報が入ったため、18日西へ迂回して、22日に[[酒田市|酒田]]に到着し、二番大隊も21日に酒田に帰った。三番大隊と四番大隊は国境の警備を行った。
==鶴岡開城==
9月29日に[[鶴ヶ岡城]]は開城して、[[西郷隆盛|西郷吉之助]]、[[黒田清隆|黒田了介]]、[[船越衛|船越洋之助]]が大軍を率いて入場した。[[庄内藩]]主の[[酒井忠篤 (庄内藩主)|酒井忠篤]]は城を出て[[禅龍寺]]で謹慎した。黒田らは
翌年、酒井忠篤の弟
==参考文献==
35 ⟶ 37行目:
[[Category:秋田戦争]]
[[Category:大仙市の歴史]]
[[Category:1868年の戦闘]]
|