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'''伊奈 忠辰'''(いな ただとき、[[宝永]]2年([[1705年]]) - [[明和]]4年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]([[1767年]][[12月5日]]))は[[江戸時代]]中期の[[関東郡代]]。通称半十郎、半左衛門。▼
[[File:Thank you monument of Heiemon and Tadatoki in Myohoji.jpg|thumb|[[川崎定孝|川崎平右衛門]]と伊奈忠辰の謝恩塔(東京都国分寺市の妙法寺)]]
▲'''伊奈 忠辰'''(いな ただとき、[[宝永]]2年([[1705年]])
== 来歴 ==
[[伊奈忠順]]の長男として生まれ、[[寛延]]3年([[1750年]])7月30日、[[関東郡代]][[伊奈忠逵]]が退任し、その跡を継ぎ、関東郡代となり、奥右筆頭組次席を兼ねた。[[宝暦]]4年([[1754年]])9月5日致仕し、忠逵の子の[[伊奈忠宥]]が跡を継いだ。治世としてはわずか4年余であった。なお、このころの伊奈家が郡代として管理する幕府領は27万石、開発新田2万石で、その1割が[[役料]]、その他家禄4000石と家臣400人を召抱えており、実質大名並みの権勢を誇っていた。墓所は深川の[[玄信寺]]。
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[[Category:伊奈
[[Category:江戸幕府旗本]]
[[Category:関東郡代]]
[[Category:奥右筆]]
[[Category:武蔵国の人物]]
[[Category:1705年生]]
[[Category:1767年没]]
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