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{{日本複数氏族問題
| 出典の明記 = 2016年8月
|家名= 伏見宮家
| 参照方法 = 2020年2月
|家紋= Jūroku-yō Ura-giku inverted.png
|更新=2020-09-19
|家紋名称= {{ruby|伏見宮十四裏菊|ふしみのみやじゅうよんうらぎく}}
|本姓=
|家祖= [[伏見宮栄仁親王|栄仁親王]]<br />([[北朝 (日本)|北朝]]第3代[[崇光天皇]]の第一皇子)
|種別= [[皇族]]([[世襲親王家]]・[[直宮家]])
|出身地= [[京都]]([[山城国]])
|根拠地= 山城国[[伏見荘|伏見御領]]<br />[[東京府]][[東京市]][[麹町区]][[紀尾井町]]<br />(現:[[東京都]][[千代田区]]紀尾井町)
|人物= [[貞成親王]]<br />[[貞敬親王]]<br />[[邦家親王]]<br />[[貞愛親王]]<br />[[博恭王]]
|支流= [[梨本宮]]<br />[[山階宮]]<br />[[久邇宮]]<br />[[華頂宮]]<br />[[小松宮]]<br />[[北白川宮]]<br />[[東伏見宮]]<br />[[賀陽宮]]<br />[[朝香宮]]<br />[[竹田宮]]<br />[[東久邇宮]]<br />[[閑院宮]]<!-- 正しくは単に「〜宮」-->
}}
{{注意|image=Nuvola apps important.svg|[[Wikipedia:検証可能性|検証可能性]]を満たさない路線移管情報の反映は厳に慎んでください。}}
'''伏見宮'''(ふしみのみや)は、かつてあった[[日本]]の[[宮家]]の一つ。宮家御紋は[[:File:Fushimi-no-miya Ura-gigku inverted.png|伏見宮十四裏菊]]。[[世襲親王家]]の4家の中では最も歴史が古く、[[持明院統]]の正嫡に定められた[[北朝 (日本)|北朝]]第3代[[崇光天皇]]の第一皇子、[[伏見宮栄仁親王]]を初代とする。宮号はその所領だった[[伏見荘|伏見御領]]に因む。[[菩提寺]]は[[広義門院]]創建の[[大光明寺]]。
[[ファイル:Tokyu Bus Ebara depot.jpg|thumb|right|荏原営業所]]
[[ファイル:Tokyubus ebara-dept.jpg|thumb|right|建て替え前の荏原営業所]]
'''東急バス荏原営業所'''(とうきゅうバスえばらえいぎょうしょ)は、[[東京都]][[品川区]][[二葉 (品川区)|二葉]]四丁目27番1号に位置する[[東急バス]]の[[営業所]]のひとつ。品川・[[大田区|大田]]の両区と[[国道1号|第二京浜]]国道([[国道1号]])上の路線を担当する。同社内での営業所略号は「'''E'''」。
 
== 沿革 ==
第3代[[貞成親王]]・[[庭田幸子]]([[庭田家]]出身)の第一王子の彦仁王は、嗣子のない[[称光天皇]]の崩御の後、[[後小松上皇]]の[[猶子]]となって[[後花園天皇]]として践祚し、この皇統が今日の[[皇室]]に連なっている。一方、第二王子の[[貞常親王]](後花園天皇の弟)の系統は以後代々と伏見宮を継承し、明治になるとそこから数多くの[[連枝]]が新宮家を創設した。
=== 目黒蒲田電鉄初のバス事業 ===
現在の東急バスになってからまとめられた社史『東急バス10年の歩み』によると、開設日は[[1948年]](昭和23年)[[6月1日]]となっているが、戦前にも同名の営業所があり、その歴史は昭和初期まで遡る。
 
[[目黒蒲田電鉄]]は[[1927年]](昭和2年)7月、[[東急大井町線|大井町線]]を開業させた。そこで、大井町線に並行する道路にバス路線を設け、鉄道の営業を防衛するという意味を込め、目黒蒲田電鉄は自社での乗合自動車事業に参入することになる。こうして1929年6月、目黒蒲田電鉄は東京府[[荏原区|荏原町]]の現在地至近に車庫を確保し、バス大井町線の運行を始めた(後述)。{{main|東急大井町線#年表|東急バス#目黒蒲田電鉄のバス事業}}
昭和22年([[1947年]])に[[昭和天皇]]及びその弟宮たる直宮3家(秩父宮・高松宮・三笠宮)を除いたすべての[[傍系]]宮家が[[GHQ]]の指令に基づいて皇籍を離脱することになったことに伴い、第26代[[博明王]]が臣籍に下って伏見博明を名乗った。このとき[[皇籍離脱]]した[[旧皇族]]11宮家はいずれも第20代[[邦家親王]]を男系の祖として新たに創設された伏見宮家系統である([[閑院宮家]]も[[閑院宮載仁親王|載仁親王]]の実父は邦家親王)。
 
翌[[1930年]](昭和5年)には、荏原町車庫を核に馬込を経由して池上方面へ向かう路線が開通。荏原町線の基礎となる。また、荏原町車庫より西にも路線があり、[[大岡山駅]]や[[洗足駅]]、目黒蒲田電鉄の前身の[[田園都市 (企業)|田園都市会社]]が手掛けた[[洗足田園都市]]にも乗り入れていた。{{see also|田園都市 (企業)#沿革|洗足田園都市#田園都市株式会社の洗足田園都市への本社移転}}
== 歴史 ==
{{seealso|旧皇族#歴史|世襲親王家}}
=== 成立(中世) ===
南北朝時代における[[持明院統]]の当主で、京都で[[北朝 (日本)|北朝]]を開いていた[[光厳上皇]]は、かねてより名目上[[花園法皇]]の皇子とされる[[直仁親王]](光厳上皇は直仁親王が実子であると崇光に告白していた)への皇位継承を望み、持明院統の将来の正嫡に定めた上で、第一皇子である北朝3代[[崇光天皇]]の[[皇太弟]]とした{{Refnest|group="注釈"|第一皇子である崇光天皇ではなく、名目上は花園法皇の皇子で持明院統の傍系にあたり、実子だとしても光厳の第二皇子である直仁親王に皇位継承させようとしていた光厳上皇の皇位継承計画は、[[伏見天皇]]以来男系での直系継承を重視していた持明院統にとって不自然であった。光厳の狙いについては、幼少期に光厳が花園より受けていた帝王教育に対する報恩説、直仁親王の足利将軍家との外戚関係を利用しようとした説などがある。}}。<br>
しかし、[[正平一統]]後の三上皇及び廃太子直仁親王の拉致によって親王の皇位継承が困難となると、改めて第一皇子の崇光上皇を[[持明院統]]([[北朝 (日本)|北朝]][[天皇家]])の正嫡と定めた。この際、光厳法皇は崇光上皇に持明院統正嫡が修得する[[琵琶]]の秘曲([[石上流泉]]・[[上原石上流泉]]・[[楊真操|太常博士楊真操]]・[[啄木]])を伝授し、持明院統伝来の膨大な記録類を継承させた{{Refnest|group="注釈"|以降、伏見宮は琵琶を家芸とし、記録類も一部は明治時代まで継承され、現在は宮内庁書陵部にて伏見宮本として管理されている。}}。さらに、[[長講堂領]]や法金剛院領などの持明院統の所領を相続させたが、伏見御領をそれらの所領とは分けて崇光上皇の子孫が管領するように命じた<ref>深津睦夫『光厳天皇』2014、p.234。</ref><ref>秦野『乱世の天皇』2020,p.75</ref>。伏見御領とは、長講堂領に属していた荘園であり、その領域内にある伏見殿は、[[後深草院]]以来持明院統の歴代[[治天の君]]に愛されてきた離宮である。<br>
その後、崇光上皇が弟の[[後光厳天皇]]との皇位継承争いに敗れると、崇光上皇は伏見御領にある離宮の伏見殿に逼塞し、'''伏見殿'''と呼ばれるようになった<ref>桃崎有一郎『室町の覇者足利義満』2020、p.83。</ref>。崇光上皇の崩御後、崇光上皇の第一皇子である栄仁親王は、長講堂領などの所領を後光厳天皇の孫である[[後小松天皇]]に、伏見御領を後光厳天皇皇統の皇位継承を支持する[[足利義満]]に没収されたが、義満の死後に亡き光厳法皇の命令をもとに伏見御領は返還され、崇光の子孫も主に伏見殿に住む。
 
=== 城南乗合自動車 ===
後光厳天皇皇統の断絶によって、伏見宮貞成親王の第一王子彦仁王が後小松上皇の猶子として即位した([[後花園天皇]])。後小松上皇の崩御の際には、正嫡である崇光天皇皇統が皇位継承するべきとする貞成の本望が叶わず、後花園天皇が後光厳天皇皇統の後継であると再確認された{{Refnest|group="注釈"|天皇の実の父母の[[崩御]]に対しては、[[諒闇]]という服喪が執り行われる。後小松上皇の崩御の際、後小松上皇の「猶子」として即位した後花園天皇を後小松上皇の「実子」と見なして諒闇を実施するか、あくまで後小松上皇の「養子」として後小松上皇との親子関係を認めず諒闇を実施しないかで、後花園天皇を後光厳天皇皇統の後継としたい後光厳天皇皇統支持者と、後花園天皇を崇光天皇皇統からの即位と確定させたい伏見宮とそれを支持する足利義教との間で意見が割れた。最終的には籤引きで諒闇の実施が決定し、後花園天皇は血縁上崇光天皇の子孫でありながらも、後光厳天皇皇統の後継者と定まった<ref>秦野裕介『乱世の天皇』2020、pp.151-152。</ref>。}}。しかし、貞成親王は京都の旧後小松上皇御所の隣の邸宅に移住し、やがて後花園の兄として[[尊号|尊号宣下]]がなされ{{Refnest|group="注釈"|後花園天皇自身にも後光厳天皇系統の後継者としての意識があったため、あえて貞成親王を実の父としてでなく、兄として尊号宣下を行った。この際、[[後亀山天皇|熙成王]]が後小松天皇の親族として尊号宣下された先例が参考にされたという。(田村航「伏見宮貞成親王の尊号宣下」2018年、参考)}}、貞成は皇位を踏まずして[[太上天皇]]となった<ref>田村航「伏見宮貞成親王の尊号宣下」『史学雑誌(127編11号)』2018, p.4(1672)</ref>。その後、貞成の第二王子で後花園天皇の実弟にあたる[[貞常親王]]が4代目となったが、貞常親王は後花園天皇から永世「伏見殿」と称することを勅許され<ref>田村航「伏見宮貞成親王の尊号宣下」『史学雑誌(127編11号)』2018年、p.13(1681)</ref>、伏見宮には天皇との「水魚」の関係、すなわち天皇を支える立場となることが期待された<ref>田村航「伏見宮貞成親王の尊号宣下」『史学雑誌(127編11号)』2018年、p.14(1682)</ref>。
一方、目黒蒲田電鉄大井町線が開業する前年の[[1926年]](大正15年)、東京府荏原郡[[大井町 (東京府)|大井町]]で創業したのが、'''城南乗合自動車'''である。
 
大井町では、大井の大仏として知られる[[養玉院]]が[[1922年]](大正11年)に[[東京市]][[下谷区]]から移転してきた。その後先に[[芝区]]高輪から移転した如来寺と合併するが、合併後に増えた参拝客の足を確保するため、乗合自動車の構想が持ち上がった。そして、1926年三原次郎吉が中心となって城南乗合自動車商会が設立され、9月28日に同社の手によって大仏と倉田の間で運行が始まったものである。{{main|養玉院#歴史}}
=== 近世 ===
宝暦10年([[1760年]])、他の宮家とは異なり、伏見宮は[[伏見宮邦忠親王|邦忠親王]]まで全て実系で宮家を継承してきたが、邦忠親王が王子を残さず薨去すると、世襲親王家との血縁を近くしたい天皇の意向もあって、桃園天皇の皇子である[[貞行親王]]が伏見宮を嗣いだ。貞行親王が夭逝したのちも、朝廷はまだ誕生していない後桃園天皇の皇子を伏見宮の後継者とするように定めた。ところが、崇光天皇以来持明院統の嫡流であり、しかも実系で宮家を継承してきたという矜持を持つ伏見宮家側は、幕府との血縁を利用して、実系継承に戻すよう、幕府に工作する。そして、邦忠親王の弟である寛宝法親王を還俗させ、[[伏見宮邦頼親王|邦頼親王]]として家督を継承させることに成功した。伏見宮は15年ぶりに崇光上皇以来の実系に戻ったのであった<ref>以上、[[浅見雅男]]『伏見宮 もうひとつの天皇家』([[講談社]]、2012年)ISBN 978-4-06-218005-4。[[ちくま文庫]]、2020年、pp.39-43</ref>。
 
ちなみに、倉田というのは現在の[[大井町駅]]の南側、品川区大井4丁目付近の旧地名である。{{main|大井 (品川区)#住居表示実施前後の町名の変遷}}
=== 近代 ===
[[幕末]]から[[明治維新]]の時の19代[[伏見宮貞敬親王|貞敬親王]]および20代・23代邦家親王は多くの子女に恵まれ、守脩親王からは[[梨本宮|梨本宮家]]、邦家親王からは[[山階宮|山階宮家]]・[[久邇宮|久邇宮家]]・[[華頂宮|華頂宮家]]・[[小松宮|小松宮家]]・[[北白川宮|北白川宮家]]・[[東伏見宮|東伏見宮家]]がそれぞれ創設されたほか、幕末に断絶していた閑院宮家をも継承して再興している。また久邇宮からはさらに[[賀陽宮|賀陽宮家]]・[[東久邇宮|東久邇宮家]]・[[朝香宮|朝香宮家]]が創設され、北白川宮家からはさらに[[竹田宮|竹田宮家]]が創設された。維新後に創設された宮家はそのすべてが伏見宮家の系統である([[旧皇族|伏見宮系皇族]])。
 
同社は[[1928年]](昭和3年)6月23日に株式会社となった。以降も大井町駅を起点とした3路線5.8㎞を営業しているだけの小規模な会社ながら、既成市街地を走っていたため営業成績は良好だった。<br>
邦家親王の跡を継いだ24代[[伏見宮貞愛親王|貞愛親王]]は、[[元帥 (日本)|元帥]]・[[陸軍大将]]に累進。[[明治天皇]]および[[大正天皇]]の信任も厚く、[[皇族]]の重鎮として、[[大日本農会]]・[[在郷軍人会]]総裁を歴任した。
営業路線<br>
*大井町駅 - 元警察署前(大井町駅東口) - 元芝(大井消防署前) - 南浜川(立会川) - 大井倉田町(大井第一小学校) - 原(西大井二丁目) - 馬込町(荏原営業所)※元芝 - 大井倉田町間は[[1948年]][[6月1日]]大東急再編成に伴い[[京浜急行電鉄]]に譲渡
*元警察署前 - 青物横町(青物横丁。ただし旧東海道)
*原 - 大森山王(馬込銀座。現在の同名バス停とは位置が異なる)
 
[[1939年]](昭和14年)6月16日、城南乗合自動車は目黒蒲田電鉄に買収され、子会社となった。
貞愛親王の跡を継いだのが、25代[[伏見宮博恭王|博恭王]]である。博恭王は当初、[[華頂宮|華頂宮家]]を継承していたが、伏見宮家の継嗣とされていた弟の[[邦芳王]]の不治の疾患のため、伏見宮に復帰して継嗣となった。元帥・[[海軍大将]]・[[軍令部]]総長として昭和期の海軍における実力者であった。博恭王は、日本の敗戦後の[[1946年]](昭和21年)8月16日に[[崩御#薨去|薨去]]すると、博恭王の第一王子の[[博義王]]は父よりも早く薨去していたので、博義王の第一王子の[[伏見宮博明王|博明王]]が26代となった。
 
=== 神明営業所誕生 ===
最後の当主である博明王は、[[連合国軍占領下の日本|連合国占領下]]において[[1947年]](昭和22年)10月14日、[[臣籍降下]](いわゆる皇籍離脱){{efn|形式上、自発的な意思により現行[[皇室典範]]の規定に基づく降下。}}し、'''伏見姓'''を名乗る。
目黒蒲田電鉄バス荏原町車庫は、目蒲乗合の時代を経て目黒蒲田電鉄に戻され、'''神明営業所'''と名前を変えていた。神明というのは、営業所のある品川区二葉に古くからある[[蛇窪神社]]と、[[下神明天祖神社]]に由来するもので、これは東急大井町線[[下神明駅]]の駅名の由来でもある。{{see also|蛇窪神社#由緒}}
 
[[1942年]](昭和17年)、目黒蒲田電鉄の後身の[[東京横浜電鉄]]を中心とした戦時統合私鉄[[東京急行電鉄]]([[大東急]])が発足する際、城南乗合自動車は大東急本体に吸収され解散した。城南乗合自動車の営業所は営業エリアが被っていた神明営業所に吸収され、大井町線の基礎が出来上がった。{{main|東急バス#東横・目蒲の合併 - 大東急へ|大東急#バス営業所}}
== 伏見宮家邸宅 ==
江戸時代の伏見宮家は[[京都御所]]周辺に2ヶ所の邸宅を有しており、その時の当主の都合で、どちらかを本邸として使用していた。御所東部と御所北部に、その邸宅は存在した。御所北部の邸宅は現在、[[同志社女子大学]]の敷地の一部となっている。周囲には[[桂宮|桂宮家]]と[[摂家|五摂家]]の[[二条家]]と[[近衛家]]の邸宅があった。
 
=== 復興と第二京浜 ===
御所東部(出町北鴨口)の邸宅は戦後に[[了徳寺 (京都市上京区)|了徳寺]]になったが、現在は廃寺になっている。邸宅跡地付近には、「妙音弁財天」を祀る伏見宮家の鎮守社が今も残る。
本土空襲により壊滅的な被害を受けた東京山手線外の復興を担うため、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]は都内の主要道路から都心、特に東京駅へ直通するバス路線を新設するように指示していた。東急は同じ品川区にあった[[東急バス中延営業所|中延営業所]]と[[東京都交通局]]([[都営バス]])の共管で雪が谷線を新設。[[東急バス池上営業所|池上営業所]]の池上線がこれに続き、神明営業所管下でも都心直通路線の要望が出た。こうして神明営業所の前を走る[[国道1号|第二京浜国道]]を経由して、[[東京駅]]直通のバスを運行することが企画された。
 
[[1950年]](昭和25年)、東京駅 - 久が原(現・池上警察署)間で都営共管の多摩川大橋線が運行を開始する。また、久が原から先は東急単独で[[横浜駅]]まで運転され、横浜線となった。
[[明治|明治時代]]初期以降の伏見宮邸の跡地は、[[ホテルニューオータニ]]となっており、庭園にその名残がある。なおこの場所には、はじめ[[加藤清正]]の下屋敷があり、後には井伊家中屋敷があった。
 
一方、大井町線は[[1951年]](昭和26年)に戦前の目黒蒲田電鉄の路線と城南乗合自動車の路線をつなげた循環線として復活。荏原町線は臼田坂を下りたところに設けられた[[大田区役所]](現・大田文化の森)を経由して[[日本国有鉄道|国鉄]][[大森駅 (東京都)|大森駅]]へ向かうというルートに変更されて再開、現在の路線の基礎が早くも完成した。
別邸として[[千葉県]][[銚子市]]に瑞鶴荘を有していた<ref>{{Cite journal |和書|author =鈴木誠|title =旧伏見宮家別邸銚子瑞鶴荘の庭について|date =1984|publisher =日本造園学会|journal =造園雑誌|volume =48|issue =5|doi=10.5632/jila1934.48.5_61|pages =61-66|ref = }}</ref>。
 
=== 神明から荏原へ ===
[[東京都]][[中野区]]小淀町(現・中央1-17-3)にも別邸があり、廃嫡された[[邦芳王]]が主に暮らしていた。元は[[山岡鉄舟]]の邸宅で、1886年に伏見宮家に献上され、邦芳王薨去後、1935年に[[豊島区]]の祥雲寺などに移築され、跡地は2018年現在、高歩院鉄舟会禅道場になっている<ref>[https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000233413 伏見宮家の別邸についての資料を探している]レファレンス協同データペース、2019年02月21日</ref>。
[[1960年]](昭和35年)[[3月25日]]、神明営業所は'''荏原営業所'''と改称された。この頃には、横浜線が[[鶴見駅]]までの運行となり、鶴見線と改められていた。また、多摩川大橋線の変形として五反田駅 - 川崎駅間の五反田線が誕生し、主力路線となっていった。
 
[[1968年]](昭和43年)の[[都営地下鉄]][[都営地下鉄浅草線|浅草線]]西馬込開業で、完全並行となった多摩川大橋線は存続の意味を失い、都営が撤退して廃止。五反田線に吸収された。
夏の別荘として[[長野県]][[軽井沢町]]の[[雲場池]]近くにも邸宅があった(1929年購入)<ref>『町勢要覧軽井沢: 1963年版』(軽井沢印刷, 1963年)4頁</ref>。現在は消失し、その跡地は新たな別荘地となっている。[[静岡県]][[熱海市]]にあった別荘は、戦後[[熱海ホテル]]別館として使用されていたが1977年に解体された。
 
[[1981年]](昭和56年)6月22日の中延営業所廃止に際し、荏原営業所は馬込循環線を引き受けた。
== 歴代当主 ==
# [[伏見宮栄仁親王|栄仁親王]](大通院) - ([[北朝 (日本)|北朝]]第3代[[崇光天皇]]第一[[皇子]])
# [[伏見宮治仁王|治仁王]](葆光院)
# [[伏見宮貞成親王|貞成親王]](後崇光院) - ([[後花園天皇]]父、後崇光[[太上天皇]])
# [[伏見宮貞常親王|貞常親王]](後大通院)
# [[伏見宮邦高親王|邦高親王]](安養院)
# [[伏見宮貞敦親王|貞敦親王]](妙荘厳院)
# [[伏見宮邦輔親王|邦輔親王]](後安養院)
# [[伏見宮貞康親王|貞康親王]](後葆光院)
# [[伏見宮邦房親王|邦房親王]](桂昌院)
# [[伏見宮貞清親王|貞清親王]](後妙荘厳院)
# [[伏見宮邦尚親王|邦尚親王]](乾徳院)
# [[伏見宮邦道親王|邦道親王]](後桂昌院)
# [[伏見宮貞致親王|貞致親王]](円実照院)
# [[伏見宮邦永親王|邦永親王]](得觧脱院)
# [[伏見宮貞建親王|貞建親王]](後乾徳院)
# [[伏見宮邦忠親王|邦忠親王]](円定明院)
# [[伏見宮貞行親王|貞行親王]](真浄明院) - ([[桃園天皇]]第二[[皇子]])
# [[伏見宮邦頼親王|邦頼親王]](究竟覚院) - (15代貞建親王王子)
# [[伏見宮貞敬親王|貞敬親王]]
# [[伏見宮邦家親王|邦家親王]] - ※
# [[伏見宮貞教親王|貞教親王]]
# [[伏見宮貞愛親王|貞愛親王]] - ([[元帥]][[陸軍大将]])
# [[伏見宮博恭王|博恭王]] - ([[元帥]][[海軍大将]]、軍令部総長)
# [[伏見宮博明王|博明王]] - ([[臣籍降下|皇籍離脱]]、伏見氏を名乗る)
 
[[1984年]](昭和59年)10月1日、東京都区内バス共通回数券の運用を開始。共通回数券は10年後の[[1994年]](平成6年)10月1日に[[バス共通カード]]へと発展。そして[[2007年]](平成19年)7月25日、荏原営業所所管路線に[[PASMO]]が導入された。
※ 正確には、邦家親王 → 貞教親王 → 貞愛親王 → 邦家親王(再継承) → 貞愛親王(再継承) → 博恭王という継承が行われた。そのため、系図によっては邦家親王を20代・23代、貞愛親王を22代・24代、博恭王を25代と数えているものもある。
 
[[1986年]]10月には[[川崎駅]]東口駅前広場の整備が完了。[[地下街]]「[[川崎アゼリア]]」が開業し、川崎駅東口バスターミナルが供用開始された。これに伴い川崎駅東口発着路線(当営業所では五反田線)の乗り場が変更された。[[2007年]]4月1日には[[ラゾーナ川崎]]前の西口北バスターミナルが供用開始された。それまで東急バスの川崎駅発着路線は全て東口から発着していたが、この際に全て西口北バスターミナル発着に変更された([[2018年]]4月1日より停留所名を「川崎駅ラゾーナ広場」に改称)。これにより、東急バスは川崎市[[川崎区]]から完全に撤退した。
また11代邦尚親王については、その父である10代貞清親王よりも7か月早く[[崩御#薨去|薨去]]しているので歴代当主に数えない説もある。同様に、24代博明王の父の[[博義王]]については、その父である23代博恭王よりも早く薨去しているが、博義王については歴代当主に数えていない資料が多い。
{{See also|東急バス川崎営業所#川崎線|東急バス高津営業所#川崎線}}
 
=== 営業所史上最大の所管替え ===
== 系図 ==
[[2010年]](平成22年)4月1日、営業所建て替えのため馬込循環線が池上営業所へ移管される。それと同時に、一時的に荏原町線とTOCシャトル、しながわ水族館線が[[東急バス目黒営業所|目黒営業所]]へ移管となった。旧目黒蒲田電鉄以来の伝統路線である荏原町線が荏原営業所の手を離れるのは、路線開設81年目にして初めてのことだった。しかし、目黒に移された後も大森駅からの出入庫便だけは荏原営業所までの運転で、目黒営業所最寄りの清水と荏原営業所の間は営業運行ができず、すべて回送扱いという不便さを伴うことになった。
=== 皇室系図 ===
{{familytree/start|style=font-size:small}}
{{familytree|border=0| |!| | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{familytree|border=0|GOHUS| | | | | | | | | | |
GOHUS={{sup|93}} '''[[後伏見天皇]]'''
}}
{{familytree|border=0| |!| | | | | | | | | | | | | | | |
GODAI={{sup|96}} '''[[後醍醐天皇]]'''
}}
 
その後、建替え終了後の[[2012年]](平成24年)[[10月1日]]、馬込循環線を除く3路線が荏原に戻された。馬込循環線は引き続き池上が運行する。
{{familytree|border=0| |)|-|-|-|.| | | | | | | | | | | | | | |}}
{{familytree|border=0|KOUGO| |KOUMY| | | | | | | | | | | | |
KOUGO='''[[光厳天皇]]''' {{sup|北1}}|
KOUMY='''[[光明天皇]]''' {{sup|北2}}|
GOMUR={{sup|97}} '''[[後村上天皇]]'''
}}
 
2013年(平成25年)現在は、一般路線に限れば馬込循環線を引き受ける前の1970年代後半とほぼ同一の規模になっている。
{{familytree|border=0| |)|-|-|-|-|-|-|-|.| | | | | }}
{{main|東急バス目黒営業所#移管路線}}
{{familytree|border=0|SUKOU| | | | | |GOKOU| | | |
SUKOU='''[[崇光天皇]]''' {{sup|北3}}|
GOKOU='''[[後光厳天皇]]''' {{sup|北4}}|
CHOUK={{sup|98}} '''[[長慶天皇]]'''|
GOKAM={{sup|99}} '''[[後亀山天皇]]'''|
GOSHO=[[惟成親王]]<br />〔[[護聖院宮|護聖院宮家]]〕
}}
 
== 現行路線 ==
{{familytree|border=0| |!| | | | | | | |!| | | | | | | |}}
=== 大井町線 ===
{{familytree|border=0|YOSHI| | | | | |GOENY| | | | ||
[[ファイル:Tokyubus-e366.jpg|thumb|right|大井町線 井05系統]]
YOSHI=(1)[[伏見宮栄仁親王|栄仁親王]]|
[[ファイル:History of oimachi bus line.png|thumb|right|400px|大井町線の変遷]]
GOENY='''[[後円融天皇]]''' {{sup|北5}}|
* 井01:[[大井町駅]] - 東光寺前- [[西大井駅]]入口 - 二葉三丁目 - 荏原営業所
OGURA=[[小倉宮恒敦]]<br />〔[[小倉宮家]]〕|
* 井05:大井町駅 - 大井第一小学校 - [[品川区立伊藤学園|伊藤学園]] - 大井原町 - 西大井駅
TAMAG=(不詳)<br />〔[[玉川宮|玉川宮家]]〕
大井町駅から西へ向かう路線。二葉町内を横断して荏原営業所へ向かう「井01」系統と、西大井地区(かつての伊藤町界隈)を経由して西大井駅に至る「井05」系統の2系統から成り、品川区大井一〜五丁目・二葉・西大井の地域輸送、JR[[京浜東北線]]・[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]大井町駅とJR[[横須賀線]]・[[湘南新宿ライン]]西大井駅を結ぶ鉄道短絡輸送、[[小野学園女子中学・高等学校|小野学園]]、[[朋優学院高等学校|朋優学院]]への通学輸送、[[ニコン]]大井製作所の通勤輸送など多彩な役割を持つ生活路線である。
|boxstyle_YOSHI=background-color: #98fb98
}}
 
路線の北側は目黒蒲田電鉄が最初に開通した路線、南側は[[1939年]](昭和14年)に同社傘下となった[[城南乗合自動車]]の路線が起源という古い歴史を持つ(前述)。神明営業所 - 二葉 - 大井町駅 - 伊藤町 - 神明営業所という大回りの循環路線として[[1951年]](昭和26年)[[3月]]に開業して以来、大井町循環線として運行されていた。当時は営業所を起点に内回りを「伊藤町廻り」、外回りを「二葉町廻り」と呼んでおり、大井町駅からの利用者にはきわめて不親切な状況であった。
{{familytree|border=0| |)|-|-|-|.| | | |!| | | | | | | | | | | | | |}}
{{familytree|border=0|HARU| |SADAN| |GOKOM| | | | | | | | | | | | |
HARU=(2)[[伏見宮治仁王|治仁王]]|
SADAN=(3)[[伏見宮貞成親王|貞成親王]]<br />(後崇光院)|
GOKOM=<sup>100</sup> '''[[後小松天皇]]''' {{sup|北6}}
|boxstyle_HARU=background-color: #98fb98
|boxstyle_SADAN=background-color: #98fb98
 
その後、[[車両制限令]]の適用により、運行が不可能となる区間が生じた。この法令は[[1966年]](昭和41年)[[8月1日]]から路線バスに対しても適用され、東急でもいくつかの路線で経路変更や区間廃止を余儀なくされたが、ことに大井町線に関しては、さまざまな紆余曲折がみられた。
}}
{{familytree|border=0| | | |,|-|'| | | |!| | | | | | | | | |}}
{{familytree|border=0| |,|-|^|-|.| | | |!| | | | | | | | | | | | | |}}
 
同線における抵触区間は、現在すでに廃止となっている[[品鶴線]]以西の西大井六丁目付近であった。各方面と協議のうえ、この区間の道路を一方通行化することで、その後も循環一方向(外回り)の運行を継続させることはできた。また、内回りの代替系統として、荏原営業所 - 大井町駅 - 原小学校(現大井原町)間の折り返し運行を開始することとなった。ところが、原小学校付近に新設する転向場用地の買収が進まず、制限令適用日までに同系統の新設が間に合わない事態となった。これに対し、沿線住民による猛烈な陳情があったことから、暫定的な措置として、[[品川区立伊藤中学校|伊藤中学校]](現・[[品川区立伊藤学園|伊藤学園]])停留所付近から南へ少し入ったところに西大井三丁目停留所を設け、荏原営業所 - 大井町駅 - 西大井三丁目間を路上折返しでひとまず運行させることとなった。
{{familytree|border=0|GOHAN| |SADAT| |SHOUK| | | | | | | | | | | | |
GOHAN={{sup|102}} '''[[後花園天皇]]'''|
SADAT=(4)[[伏見宮貞常親王|貞常親王]]<br />〔[[伏見宮家]]〕|
SHOUK={{sup|101}} '''[[称光天皇]]'''
|boxstyle_SADAT=background-color: #98fb98
}}
 
懸案となった原小学校までの系統は、その後まもなく新設されて大井町線の主力系統となった。[[1986年]][[4月3日]]、西大井駅の開業により同駅まで延長されたのち、循環路線等が整理されてこちらだけが残ることとなった。[[1989年]]([[平成]]元年)[[6月16日]]に西大井側の区間便として井05系統が新設された。その時はラッシュ時のみの運行であったが、[[2000年]][[3月16日]]に運用効率化のため大井町駅を境にした系統分割が実施された際に終日運行となった。これに伴い、井01系統は全便大井町駅 - 荏原営業所の運行となり、現在に至っている。
{{familytree|border=0| |!| | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{familytree|border=0|GOTSU| |邦高| | | | |
GOTSU={{sup|103}} '''[[後土御門天皇]]'''
|邦高=(5)[[伏見宮邦高親王|邦高親王]]
|boxstyle_邦高=background-color: #98fb98
}}
{{familytree|border=0| |!| | | |!| | | | | |}}
 
ほぼ全線にわたり幅員の狭い道路を通るため、中型車限定で運行されている。
 
=== 五反田線 ===
{{familytree/end}}
[[ファイル:Tokyubus-e731.jpg|thumb|right|[[川崎駅]]へ乗り入れる反01系統]]
<!--[[ファイル:unchin.PNG|right|thumb|250px|五反田線の運賃(2006年12月時点、2014年3月31日まで)]]-->
[[ファイル:Bus route map between Kawasaki Station and Toshiba Science Museum.png|right|thumb|200px|「遠藤町経由」と他経路]]
* 反01:[[五反田駅]] - [[中延駅|中延駅前]] - 荏原営業所 - [[池上警察署]] - [[多摩川大橋]] - [[遠藤町]] - [[川崎駅|川崎駅ラゾーナ広場]]
* 反01:五反田駅 - 中延駅前 - 荏原営業所(出入庫)
* 反01:荏原営業所 - 池上警察署 - 多摩川大橋 - 遠藤町 - 川崎駅ラゾーナ広場(出入庫)
* 反02:五反田駅 - 中延駅前 - 荏原営業所 - 池上警察署(深夜バスあり)
* 反02:荏原営業所 - 池上警察署(荏原営業所行きは深夜バスあり)
 
荏原営業所の主力路線で、主に第二京浜([[国道1号]])を走り、五反田駅と川崎駅を結ぶ。[[東京都|東京都内]]にある東急バス営業所が所管する路線で[[神奈川県]]に乗り入れるのは当路線のみとなっている。
 
日中時間帯でも毎時6 - 7本の本数が確保されており、他の路線と接続するバス停も多く利便性が高い。五反田駅 - [[西馬込駅]]間では、道路直下を走る[[都営地下鉄浅草線]]と完全並行しているが、第二京浜は道路幅が片側3車線と広いため運行も比較的スムーズで、この区間の利用者も多い。五反田方では「多摩川大橋経由」、川崎方では「遠藤町経由」と案内され、通称「土手回り」で東芝科学館前([[2007年]][[3月31日]]まで小向交番前) - 河原町団地前で経由地が違う[[東急バス高津営業所|高津営業所]]の川崎線「川31」「川33」「川34」系統と[[川崎市交通局|川崎市バス]][[川崎市バス上平間営業所|上平間営業所]]の小向線「川73」系統、通称「神明町回り」で川崎駅西口北・河原町団地前 - 御幸小学校前間で経由地が違う川崎市バス神明町線「川74」「川75」系統と区別されている。{{main|川崎市バス上平間営業所#小向線(旧埠頭線)|東急バス高津営業所#川崎線}}
=== 伏見宮系図 ===
{{伏見宮系図}}
 
昭和30年代の初め頃に開通した路線で、川崎駅発着便のほかに五反田駅 - [[鶴見駅]]東口という運行が存在していた時代もある。これが初代の「反02」系統で、[[1981年]](昭和56年)5月に廃止された(後述)。その後、[[1989年]][[5月16日]]に2代目の「反02」系統が五反田駅 - 池上警察署の折り返し便として新設され、同区間で[[日本の深夜バス|深夜バス]]の運行も始まった。
== 幕末の領地 ==
[[国立歴史民俗博物館]]の『[[旧高旧領取調帳]]データベース』より算出した[[幕末|幕末期]]の伏見宮領は以下の通り。(12村・1,022石余)
 
2007年4月1日より川崎駅の乗り場が東口から、[[ラゾーナ川崎]]に隣接して新設された「西口北」バスターミナルに変更となった。2018年4月1日、川崎駅西口北の停留所名が「川崎駅ラゾーナ広場」に改称された。
* [[山城国]][[愛宕郡]]のうち - 2村
** 千本廻りのうち - 19石余
** 花園村のうち - 7石余
* 山城国[[葛野郡]]のうち - 4村
** 西院領のうち - 6石余
** 西京村のうち - 5石余
** 朱雀村のうち - 9斗1升8合
** 聚楽廻りのうち - 331石余
* 山城国[[乙訓郡]]のうち - 5村
** 上久世村のうち - 3石余
** 鶏冠井村のうち - 50石
** 今里村のうち - 269石余
** 下海印寺村 - 214石余
** 金ヶ原村 - 60石余
* 山城国[[紀伊郡]]のうち - 1村
** 吉祥院村のうち - 52石余
 
都県境をまたぐため、いくつかの区間ごとに異なる運賃を採用しており、本門寺裏、多摩川大橋の両停留所がその境界となっている<ref>[http://www.tokyubus.co.jp/top/fare_normal/ichuburosen_20130401.htm 普通運賃が異なる「一部の路線」] 東急バス</ref>。前払い制であるため、五反田駅 - 馬込中学校前から川崎駅行きに乗車する場合と、川崎駅 - 御幸公園前から五反田駅行きに乗車する場合には、運転士に降車停留所を申告して運賃を支払う。[[2023年]]4月現在の各停留所間の運賃は、五反田駅 - 馬込中学校前と川崎市内の相互間は「都内・川崎市内渡り運賃」となる大人270円(IC運賃263円)、それ以外(本門寺裏 - 川崎駅間および東京都内のみ、川崎市内のみの利用)は大人220円(現金・IC同額)となる。[[東京都シルバーパス]]の有効区間は、五反田駅 - 多摩川大橋間となる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
「反02」は同線の深夜バスを中心とした系統で、池上警察署を起終点とする便がこの番号を名乗る。平日のみ五反田駅 - 池上警察署および池上警察署→荏原営業所間で深夜バスが運行される。五反田駅では、[[山手線]]内回り最終電車と接続しており、都営地下鉄浅草線の運行が終了した時間帯における沿線の貴重な足となっている。
== 参考文献 ==
{{参照方法|section=1|date=2022年12月}}
* [[野村実|野村實]]『天皇・伏見宮と日本海軍』(文藝春秋、1988年)- 第一部「天皇と伏見宮」
* [[松薗斉]]「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に-」(『[[愛知学院大学]]人間文化研究所紀要・人間文化』25、2010)
* [[浅見雅男]]『伏見宮 もうひとつの天皇家』([[講談社]]、2012年)ISBN 978-4-06-218005-4。[[ちくま文庫]]、2020年
 
なお、戸越銀座停留所の最寄り駅は[[東急池上線]][[戸越銀座駅]]ではなく、[[都営地下鉄浅草線]][[戸越駅]]であり「[[戸越銀座]]商店街北口」という位置にある。また、[[大田区立矢口小学校|矢口小学校]]停留所と[[東急多摩川線]][[矢口渡駅]]は約300mほどしか離れていない。[[京急川崎駅]]へは[[ソリッドスクエア]]停留所が近い(川崎駅ラゾーナ広場行きでその旨が放送される。その一方で川崎市バスはソリッドスクエア前ではなく、川崎駅ラゾーナ広場の手前で京急川崎駅への乗り換え案内が流れる)。なお、現在はJR川崎駅の北改札完成時に東口と西口を繋ぐ連絡通路が整備されたため、川崎駅ラゾーナ広場から京急川崎駅へ行く利用者も増えた。
== 関連項目 ==
*[[世襲親王家]]
*[[旧皇族]](伏見宮系皇族)
*[[持明院統]]
*[[崇光天皇]]
*[[光厳天皇#伏見宮との関係]]
 
全便、大型車のみでの運行となっている。
== 外部リンク ==
{{commonscat|Fushimi no miya}}
* {{コトバンク|伏見宮}}
 
=== 荏原町線 ===
{{宮家一覧}}
[[ファイル:Tokyubus-e652.jpg|thumb|right|荏原町線 森02系統]]
* 森01:大森操車所 - [[大森駅 (東京都)|大森駅]] - 大田文化の森 ー 万福寺前 - [[西馬込駅|西馬込駅前]] - [[池上警察署]] - [[池上駅|池上駅前]] - [[蒲田駅]](平日日中のみ)
* 森01:大森操車所 - [[大森駅 (東京都)|大森駅]] - 大田文化の森 ー 万福寺前 - [[西馬込駅|西馬込駅前]] - [[池上警察署]] (大森駅方向は平日朝ラッシュ時のみ、池上警察署方向は朝夕のみ)
* 森02:大森操車所 - 大森駅 - 大田文化の森 ー 万福寺前 - 馬込橋 - 三本松 - 夫婦坂 - [[荏原町駅]]入口
* 森02:大森操車所 - 大森駅 - 大田文化の森 - 万福寺前 - 馬込橋 - 荏原営業所(出入庫運用)
* 森02:荏原営業所 - 馬込橋 - 三本松 - 荏原町駅入口(出入庫運用)
 
大森から[[東京都道421号東品川下丸子線|池上通り]]を経て馬込地区を結ぶ。大田区[[南馬込]]、[[中馬込]]、[[北馬込]]の地域輸送を担う他、池上営業所の上池上循環線と共に[[リコー]]本社・大森事業所の通勤輸送、[[東京都立大田桜台高等学校|都立大田桜台高校]](旧・[[東京都立南高等学校|都立南高校]])への通学輸送、[[MEGAドン・キホーテ]]大森山王店(旧・[[ダイシン百貨店]])の買い物客輸送といった役割も受け持つ。
 
森02系統が基幹系統となっており、本数も多い。かつては大森操車所 - 万福寺前間の折返し運行となる森01系統も設定されていたが、[[1993年]](平成5年)[[3月15日]]付で廃止、森02系統に一本化された。万福寺前にあった折返所も現在はなくなっている。終点付近の三本松 - 荏原町駅入口間は時計回りに循環して大森方向に戻る経路となっており、一部区間で[[東京都道318号環状七号線|環七通り]]を走行する。途中の馬込第三小学校や夫婦坂などから荏原町駅入口・馬込北台以遠へ乗り通すことも可能である。
 
なお、1998年に蒲田へ移転した大田区役所へのアクセスを確保することを目的として、[[1999年]](平成11年)[[4月1日]]付で蒲田駅 - 大田文化の森 - 荏原町駅入口間に蒲15系統が設定されたが、都営浅草線西馬込駅と蒲田を直結するバス路線を望む住民の声に応えて[[2017年]](平成29年)[[3月1日]]付でリニューアル。森01の系統番号が24年ぶりに再登場した。
また、[[2019年]](令和元年)[[10月1日]]ラッシュ時の西馬込方面から大森駅への通勤輸送を目的として森01系統に大森駅 - 池上警察署の区間便が登場した。大森駅方向は朝ラッシュ時5本のみ、池上警察署方向は朝ラッシュ時1本・夕ラッシュ時3本のみの運行となっている。営業所から池上警察署までは回送で出入庫する。
 
森02系統・森01系統区間便は、原則として大型車または中型ロングノンステップ車だが、ラッシュ時には度々中型車も充当される。森01系統(蒲田系統)は大型車または中型車が充当される。
 
目蒲電鉄荏原町車庫以来の縁で、戦後も神明営業所→荏原営業所が長年所管してきたが、[[2010年]](平成22年)4月1日には荏原営業所の建て替え工事に伴い[[東急バス目黒営業所|目黒営業所]]へいったん移管された。しかし工事終了後の[[2012年]](平成24年)10月1日に再び荏原営業所へ戻されて現在に至る。目黒営業所の所管時代は、路線エリアの地域が目黒営業所から遠く、目黒営業所からの営業上の出入庫運行ができないため、出入庫系統に限っては引き続き荏原営業所発着で運転されていた。
 
乗務員(サービスクルー)交代は森02系統(本線)は[[荏原町駅]]入口で行い、乗務員は荏原営業所と荏原町駅入口バス停間を徒歩か営業所の自転車で移動する。森01系統(蒲田系統)の場合は西馬込駅で行い、乗務員は荏原営業所 - 西馬込駅間の区間を五反田線に便乗する。車両はそのまま運用する。
 
== 受託運行 ==
=== しながわ水族館送迎バス ===
{{Double image aside|right|U-HTS12G-Tokyu-Bus-E6802.jpg|200|tokyubus-e763.jpg|200|しながわ水族館送迎バス(初代専用車)E6802|しながわ水族館送迎バス(2代目専用車)E763}}
* 大井町駅東口 - [[しながわ水族館]]([[京浜急行電鉄]]→[[京浜急行バス]][[京浜急行バス大森営業所|大森営業所]]と共同運行)
しながわ水族館の開業に合わせて、[[1991年]](平成3年)[[10月19日]]に運行開始。[[2021年]](令和3年)3月31日までは京浜急行バスとの共管であったが、乗務員不足により京浜急行バスは撤退し、それ以降は単独の運行となった。{{see also|京浜急行バス大森営業所#しながわ水族館線(契約輸送)}}
[[東京特殊車体]]製の[[ファンタスティックバス|レトロ調ボディ]]を持ついすゞ製の専用車が使われていたが、老朽化に伴い除籍され、2006年(平成18年)より2代目専用車が登場した。先代専用車は収容力に限界があり、多客時には一般路線用の中型車が充当されることも多くなっていたため、2代目専用車(E763号車)は[[いすゞ・エルガミオ]]をベースに塗装を変更したものとなった。
 
かつては[[大崎郵便局]]、平塚中学校、荏原営業所付近及び[[大井町駅]]西口も経由していたが、利用者低迷の影響からか上記のように短縮されている。
 
[[2010年]](平成22年)4月1日付で荏原町線と共に目黒営業所へ移管されたが、2012年(平成24年)10月1日付けで再び荏原営業所の担当となった。
 
日によって運行本数が異なり、時刻表は数パターン停留所に掲出されている。繁忙期には一般車も定期で充当し、その際はバックカメラ付きの大型車が充当する。
 
=== TOCシャトルバス ===
[[ファイル:TOC-Express.jpg|thumb|right|TOCシャトルバス専用車]]
* [[五反田駅]] - [[TOCビル]]
[[五反田]]にあるTOCビルと五反田駅を結ぶ短距離のシャトルバス。平日は専用車(E764号車、E765号車)で運行し、土休日は契約先の問題から一般の中型車での運行となっている。ラッピングしていた関係でE1339号車が専属的に使用されている。
 
乗務員交代の際は、乗務員はTOC本館から大崎広小路まで徒歩で移動し、そこから営業所まで五反田線に便乗する。
 
2010年4月1日に荏原営業所から目黒営業所に移管されたが、2012年10月1日より再び荏原営業所の担当となった。
 
=== 立正高校・中学校スクールバス ===
* [[大崎駅]] - [[立正大学付属立正中学校・高等学校]]馬込キャンパス
[[2013年]](平成25年)、それまで品川区大崎にあった[[立正大学]]付属立正中学校・高等学校が大田区西馬込の現校舎に移転したため、在校生の利便確保を目的に[[学校法人立正大学学園|立正大学学園]]と東急バスが契約し、旧校舎最寄りのJR大崎駅との間で運行を開始した。当時の生徒が全員卒業した[[2015年]](平成27年)以降も継続されている。一般路線用の中型車が充当される。
 
=== MSCセンタービルシャトルバス ===
* [[田町駅]]東口 - MSCセンタービル
[[芝浦ふ頭駅]]近くの[[港区 (東京都)|港区]][[芝浦]]にあるMSCセンタービルとJR田町駅を結ぶシャトルバス。平日に運行され、朝は10分ごと、日中は25 - 30分ごとの運行<ref>[http://www.msc-center-bldg.com/mscc/service02.html MSCセンタービル バス時刻表]</ref>。会社関係者やテナント従業員向けの路線のため、一般客は利用できない。原則として専用車のE8707号車とE8709号車が使用される(登録上は貸切登録なので稀に用途外輸送にも充当される)。専用車が点検等で代走の際はバックカメラ付きの大型車が充当する。
 
=== 荏原病院シャトルバス ===
* [[東京都保健医療公社荏原病院|荏原病院]](構内)- [[洗足池駅]](降車のみ・大岡山駅方面のみ停車)- [[大岡山駅]]
[[東急目黒線]]・[[東急大井町線|大井町線]]大岡山駅と、[[大田区]][[東雪谷]]にある[[東京都保健医療公社荏原病院]]の構内を結ぶ[[無料送迎バス]]で、2006年4月3日に運行を開始した。病院利用者が乗車可能。平日のみ8:00〜17:45の運行(10:55までは荏原病院 - 大岡山駅間の直行便)で、土日祝日と年末年始は運休となる<ref>[http://www.ebara-hp.ota.tokyo.jp/koutsu/ 交通アクセス | 荏原病院]</ref>。
 
原則として[[三菱ふそう・ローザ]]のE6761号車、E6688号車が使用される。
 
2010年4月1日に荏原営業所から目黒営業所に移管されたが、2012年10月1日より再び荏原営業所の担当となった。
 
=== しなバス ===
*西大井駅 - 大井原町 - 伊藤学園 - [[品川区立品川歴史館|品川歴史館北]] - [[大森駅 (東京都)|大森駅北口]]
西大井駅と、大森駅を結ぶ品川区初の[[コミュニティバス]]で、2022年3月28日から運行を開始した<ref>[https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/PC/kankyo/kankyo-toshiseibi/20211220205530.html コミュニティバス(令和4年10月1日よりダイヤを改正しました)]品川区 2022年11月2日閲覧</ref>。
このバスはバス停から距離がある地域や本数が少ない地域、道路幅員等の関係で大型バスを通せない地域を補完する目的がある。
 
バス停は大森駅北口を含め、すべて品川区に所在。
 
運賃は220円で、子供は半額。また東急バスの受託路線なので東急バス一日乗車券が利用可能。
 
原則として専用車で赤、橙、青、緑の4色ある[[日野・ポンチョ]]が使用される。
 
今後の実績次第で新たなルートも検討されることとなっている<ref>[https://shinagawa.keizai.biz/headline/3997/ 西大井~大森で「しなバス」試行運行始まる 品川区初のコミュニティーバス]品川経済新聞 2022年11月2日閲覧</ref>。
 
== 廃止路線 ==
=== 多摩川大橋線 ===
* 122:[[東京駅|東京駅八重洲口]] - [[新橋駅|新橋駅前]] - [[田町駅|田町駅前]] - 三田三丁目 - [[高輪警察署]] - 五反田駅 - 神明営業所(現・荏原営業所) - 馬込橋 - 久が原(現・池上警察署) - [[多摩川大橋]]([[都営バス]][[都営バス品川営業所|品川営業所]]と共同運行)
[[1950年]](昭和25年)、東京都交通局との共管でスタート。当初は久が原(現・池上警察署バス停)打ち切りで、後に多摩川大橋まで延長された。五反田駅と[[田町駅]]の間は後の都営バス反90系統のルートを辿り、田町駅から[[御成門駅|御成門]]まで[[日比谷通り]]を走った後、新橋六丁目から[[国道15号|第一京浜国道]]に戻って東京駅八重洲口まで運行していた。ちなみに、高輪警察署と三田三丁目の間は戦前に目黒営業所の前身の目黒自動車運輸が開設し、目蒲電鉄、東横電鉄を経て[[東京市]]電気局に渡っていたルートの復活だった。{{main|東急バス目黒営業所#目黒通りのバスの始まり|都営バス港南支所#反90系統}}
 
都営地下鉄浅草線泉岳寺 - 西馬込間の開業により代替される形で都営が撤退、[[1970年]](昭和45年)9月20日限りで廃止された。この時に五反田以南は五反田線に吸収された。五反田駅以北は6系統、そして東96系統と系統番号を変えて都営が単独運行した後、交通局第3次再建計画に伴う路線再編成により[[1982年]](昭和57年)12月25日限りで田町駅以北が廃止。その3年前に廃止された橋99系統と組み合わせた形の循環路線・反96系統に変更された。{{main|都営バス品川営業所#東96系統}}
 
その後、循環路線の分割によって五反田と田町の間が独立した形で残り、反90系統へと引き継がれるが、[[港区 (東京都)|港区]]コミュニティバス[[ちぃばす]]高輪ルートとの競合により2015年(平成27年)3月31日限りで廃止され、分割されたもう一方の反94系統(反96系統から独立)のみが残る形となった。{{see also|ちぃばす#高輪ルート|都営バス港南支所#反94系統}}
 
=== 横浜線 ===
* 五反田駅 - 東寺尾 - 横浜駅
鶴見線と[[横浜市営バス]]の7系統・川崎線を、川崎市幸区の国道尻手停留所を軸につなぎ合わせた路線。沿線には複数の公営事業者が存在していたが、終始一貫して東急単独で運行された。[[1950年代]]には[[東京駅]]まで運行していたとの記録も残っている。{{main|東急バス#戦後の復旧|横浜市営バス鶴見営業所#7・29系統}}
 
=== 鶴見線 ===
* 反02:五反田駅 - 御幸小学校前 - 尻手駅入口 - 三ツ池道 - (途中通過) - 鶴見駅
横浜線の運行経路を短縮して立ち上げられた。前述の通り、五反田線の遠藤町からさらに第二京浜国道を下り、三ツ池道で左折して末吉大通りを経由し国鉄鶴見駅へ向かっていた。横浜市営バス29系統と同様に、鶴見駅では東口に発着していた。
 
中延営業所閉鎖に伴うダイヤ改正の際、馬込循環線の移管と引き換えに整理対象となり、[[1981年]](昭和56年)[[5月25日]]限りで廃止された。これにより東急バスは鶴見駅から撤退した。
 
=== 荏原町線(一部系統の廃止) ===
* 森01(旧):大森操車所 - 大森駅 - 大田区役所(現・大田文化の森) - 万福寺前
森02系統の区間便として運行されてきたが、[[1993年]](平成5年)[[3月15日]]付で廃止、森02系統に統合された。
 
* 蒲15:蒲田駅 - 蓮沼駅 - 池上駅 - [[東急バス池上営業所|池上営業所]] - 大田文化の森 - 万福寺前 - 馬込橋 - 三本松 - 荏原町駅入口(平日日中のみ)
蒲15系統は[[1999年]](平成11年)[[4月1日]]付で、前年に蒲田へ移転した大田区役所へのアクセスを確保することを目的として新設された。運行時間帯は区役所の開庁時間に準じており、本数も毎時1 - 2本程度となっていた。開設当初は土曜休日も運行されていたが、廃止の時点では平日の日中のみとなっていた。基本的に中型ノンステップバスが充当されていたが、大型車や中型ロング車で運行される場合もあった。2017年(平成29年)2月28日をもって(新)森01系統に代替される形で廃止。
 
== 移管路線 ==
=== 馬込循環線 ===
* 森08:大森駅→[[大森郵便局 (東京都)|大森郵便局]]→弁天池前→南馬込二丁目→馬込銀座→大森駅(循環)
* 森08(出庫運用):荏原営業所→東馬込二丁目→馬込銀座→大森駅
* 森08(入庫運用):大森駅→大森郵便局→弁天池前→東馬込二丁目→荏原営業所
 
[[1981年]](昭和56年)5月26日付で中延営業所から移管されてきたが、2010年4月1日付けで[[東急バス池上営業所|池上営業所]]に移管、荏原営業所の建て替え工事終了後も現在に至るまで引き続き池上が担当している。中延時代には初の[[ワンマンカー]]が運行された路線でもある。
{{Main|東急バス池上営業所#馬込循環線}}
 
== 車両 ==
{{出典の明記|section=1|date=2016年8月}}
{{更新|section=1|date=2020-09-19}}
[[ファイル:Tokyu-bus-E453.jpg|thumb|right|伝統的にいすゞ車が多く配置されてきた]]
[[ファイル:Tokyubus-e763-2.jpg|thumb|right|しながわ水族館専用車もいすゞ車で導入]]
=== 一般路線車 ===
同じ品川区に本社を置いていた[[いすゞ自動車]]と関係が深く、東京急行電鉄が日産ディーゼル工業(旧:[[民生デイゼル工業]]、現:[[UDトラックス]])製の車両を好んで購入していた[[1970年代]]以前においても、[[いすゞ・BU|BU]]→[[いすゞ・C系|CJM]]→[[いすゞ・キュービック|キュービック]]→[[いすゞ・エルガ|エルガ]]といすゞ車が事実上独占的に納車されてきた。また中型車も[[いすゞ・ジャーニーK|ジャーニーK]]→[[いすゞ・エルガミオ|エルガミオ]]といすゞ車が配置されてきた。
 
また、かつては[[三菱ふそうトラック・バス|三菱ふそう]]製の[[ワンロマ]]車が配置されていた時期もある。
 
その後、2006年より[[日産ディーゼル・スペースランナーRA]]の導入が開始された。
 
2009年6月には、[[東急バス下馬営業所|下馬営業所]]と[[東急バス目黒営業所|目黒営業所]]から[[日野・レインボー#HR系ノンステップバス|日野・レインボーHR]](9m車)が転入したが、新車代替により2014年2月までに全車除籍された。2015年3月には[[東急バス高津営業所|高津営業所]]から再びレインボーHR(10.5m車)が1台転入したが、これも同年8月に除籍されている。
 
原則として、大井町線と荏原町線森01系統は中型車、五反田線と荏原町線森02系統は大型車という使い分けがされているが、森01系統には大型車や中型ロング車も充当されることもある。数台配置がある中型ロング車の[[日産ディーゼル・スペースランナーJP]]は荏原町線(森01・森02系統)で運行される。
 
2013年4月、[[東急バス東山田営業所|東山田営業所]]から[[日野・ブルーリボン#ブルーリボンII|日野・ブルーリボンII]](748号車)が1台転入したが、2013年8月に[[東急バス淡島営業所|淡島営業所]]に転出した。
 
2014年2月現在、路線用にはいすゞとUDトラックスの2メーカーの車両が配置され、大型はエルガ、中型はエルガミオと、いすゞ車が主力となっている。2015年度には[[いすゞ・エルガ#エルガハイブリッド|エルガハイブリッド]]が1台導入された。
 
=== 受託運行用車両 ===
MSCセンタービル契約輸送の車両は、[[東急バス新羽営業所|新羽営業所]]から転属した[[日産ディーゼル・スペースランナーA#KL-UA452A系|日産ディーゼル・UA]](KL-UA452KAN改)が2台配置され、貸切登録されている。
 
[[しながわ水族館]]シャトルバスは専用車のエルガミオノンステップ(E763号車)、[[TOCビル]]シャトルバスは専用車のエルガミオワンステップ(E764・765号車)、[[東京都保健医療公社荏原病院|荏原病院]]シャトルバスは専用車の[[三菱ふそう・ローザ]](E6687)が配置されている。
 
立正高校・中学校馬込キャンパスのスクールバスは、一般路線用の中型車エルガミオで運行される。
 
== 参考文献 ==
{{参照方法|section=1|date=2020年2月}}
* 『東急バス10年の歩み』(東急バス・2002年刊)
 
== 脚注 ==
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{{Reflist}}
 
== 関連項目 ==
* [[東急バス中延営業所]]
* [[しながわ水族館]]
* [[TOCビル]](五反田TOC)
 
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{{DEFAULTSORT:ふしみのみや}}
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[[Category:伏見宮|*]]
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[[Category:宮家]]
[[Category:15世紀の日本の設立東急バス|営えはら]]
[[Category:関東地方のバス営業所|えはら]]
[[Category:品川区の交通]]
[[Category:品川区の建築物]]