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{{Redirect|南アフリカ|アフリカの南部地方|南部アフリカ}}
{{Otheruseslist|現存する国家|1852年から1902年にかけて存在した「'''南アフリカ共和国'''」を正式名称とする国家|トランスヴァール共和国|1910年から1961年にかけて存在した[[イギリス連邦]]の[[自治領]]|南アフリカ連邦}}
{{基礎情報 国
|略名 = 南アフリカ
|日本語国名 = 南アフリカ共和国
|公式国名 = {{collapsible list
|titlestyle = background:transparent;text-align:left;padding-left:2.5em;font-size:85%;<!--size of [show]/[hide] link-->
|liststyle = text-align:center;white-space:nowrap;
|title = {{native name|en|Republic of South Africa}}
| {{small|{{nobold|''その他、10の公用語による正式名称:''<ref>{{cite web |url=http://www.constitutionalcourt.org.za/site/theconstitution/thetext.htm |title=The Constitution |publisher=Constitutional Court of South Africa |accessdate=3 September 2009}}</ref>}}}}
| {{native name|af|{{small|Republiek van Suid-Afrika}}|fontsize=68%}}
| {{native name|nr|{{small|iRiphabliki yeSewula Afrika}}|fontsize=68%}}
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| {{native name|ve|{{small|Riphabuḽiki ya Afurika Tshipembe}}|fontsize=68%}}
}}
|国旗画像 = Flag of South Africa.svg
|国旗リンク = ([[南アフリカの国旗|国旗]])
|国章画像 = [[File:Coat of arms of South Africa (heraldic).svg|80px]]
|国章リンク = ([[南アフリカの国章|国章]])
|標語 = ''!ke e: ǀxarra ǁke''<br/>([[:en:ǀXam language|カム語]]: 様々な人々が一致協力する)
|国歌 = [[南アフリカの国歌]]<ref group="注">1997年までは[[神よ、アフリカに祝福を]]および[[南アフリカの呼び声]]。</ref><br>''National Anthem of South Africa''<br>{{center|[[ファイル:South African national anthem.oga]]}}
|位置画像 = South Africa (orthographic projection).svg
|公用語 = [[アフリカーンス語]]、[[南アフリカ英語|英語]]、[[バントゥー諸語]]9言語<ref group="注">バントゥー諸語9言語とは、[[ズールー語]]、[[コサ語]]、[[スワジ語]]、[[南ンデベレ語]]、[[ソト語]]、[[北ソト語]]、[[ツォンガ語]]、[[ツワナ語]]、[[ヴェンダ語]]をさす。</ref>
|首都 = [[プレトリア]]([[行政]])<br/>[[ケープタウン]]([[立法]])<br/>[[ブルームフォンテーン]]([[司法]])
|最大都市 = [[ヨハネスブルグ]](2011年)<ref>{{Cite web |url=https://www.citypopulation.de/en/southafrica/cities/ |title=SOUTH AFRICA: Provinces and Major Urban Areas |publisher=Citypopulation.de|date=2021 |accessdate=2021-11-2}}</ref><ref group="注">2000年以降の自治体再編により、ヨハネスブルグが、それまで最大都市であった[[ダーバン]]の人口を超えた。</ref>
|元首等肩書 = [[南アフリカの大統領|大統領]]
|元首等氏名 = [[シリル・ラマポーザ]]
|首相等肩書 = [[南アフリカの副大統領|副大統領]]
|首相等氏名 = ポール・マシャティル
|他元首等肩書1 =[[全国州評議会|全国州評議会議長]]
|他元首等氏名1 =タンディ・モディセ
|他元首等肩書2 =[[国民議会 (南アフリカ)|国民議会議長]]
|他元首等氏名2 =バレカ・ムベテ
|他元首等肩書3 = 最高裁判所長官
|他元首等氏名3 = レイ・ゾンド
|面積順位 = 24
|面積大きさ = 1 E12
|面積値 = 122万(日本の約3.2倍)<ref>{{Cite web |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/s_africa/data.html#section1 |title=南アフリカ連邦共和国 |publisher=外務省 |accessdate=2018-11-05 }}</ref>
|水面積率 = 極僅か
|人口統計年 = 2022
|人口順位 = 26
|人口大きさ = 1 E7
|人口値 = 57,516,665
|人口密度値 = 47.1
|人口追記 = <ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/south-africa/ |title=South Africa |publisher=[[ザ・ワールド・ファクトブック]] |language=en |accessdate=2022年8月19日}}</ref>
|GDP統計年元 = 2020
|GDP値元 = 5兆5210億7500万<ref name="imf202110">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=199,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2018&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database, October 2021|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2021-10|accessdate=2021-11-2}}</ref>
|GDP統計年MER = 2020
|GDP順位MER = 41
|GDP値MER = 3353億4400万<ref name="imf202110" />
|GDP MER/人 = 5,624.500<ref name="imf202110" />
|GDP統計年 = 2020
|GDP順位 = 30
|GDP値 = 7923億3300万<ref name="imf202110" />
|GDP/人 = 13,289.266<ref name="imf202110" />
|建国形態 =
|確立形態1 = [[自治領]][[南アフリカ連邦]]成立
|確立年月日1 = [[1910年]][[5月31日]]
|確立形態2 = <small>[[ウェストミンスター憲章]]</small>
|確立年月日2 = [[1931年]][[12月11日]]
|確立形態3 = {{仮リンク|連邦地位法|en|Status of the Union Act, 1934}}施行<br>(独立国)
|確立年月日3 = [[1934年]][[8月22日]]
|確立形態4 = [[イギリス連邦]]脱退<br>[[共和制]]移行
|確立年月日4 = [[1961年]][[5月31日]]
|確立形態5 = [[ネルソン・マンデラ|マンデラ]]政権成立<br /> イギリス連邦再加盟
|確立年月日5 = [[1994年]][[5月10日]]
|通貨 = [[ランド (通貨)|ランド]]
|通貨コード = ZAR
|時間帯 = +2
|夏時間 = なし
|ISO 3166-1 = ZA / ZAF
|ccTLD = [[.za]]
|国際電話番号 = 27
|注記 = <references group="注" />
}}
'''南アフリカ共和国'''(みなみアフリカきょうわこく、{{lang-en-short|Republic of South Africa}}, {{lang-af|Republiek van Suid-Afrika}})、通称'''南アフリカ'''は、[[アフリカ大陸]]最南部に位置する[[共和制]][[国家]]。
 
北東で[[エスワティニ]]、[[モザンビーク]]、北で[[ジンバブエ]]、[[ボツワナ]]、西で[[ナミビア]]と国境を接し、[[内陸国]][[レソト]]を四方から囲んでいる。北を除く三方は海で、アフリカ大陸最南端[[アガラス岬]]を境に東が[[インド洋]]、西が[[大西洋]]で、南インド洋の[[プリンス・エドワード諸島]]を領有する。
 
[[イギリス連邦]]加盟国の一つ。[[首都]]機能を[[プレトリア]](行政府)、[[ケープタウン]](立法府)、[[ブルームフォンテーン]](司法府)に分散させているが、各国の大使館はプレトリアに置いていることから国を代表する首都はプレトリアと認識されている。
 
[[黒人]]、[[白人]]、[[インド系南アフリカ人|インド系]]などが暮らす[[多民族国家|多人種・多民族国家]]である。かつては白人が[[有色人種]]を差別・支配する[[アパルトヘイト]]政策がとられていた<ref name="読売20210726"/>。
 
== 概要 ==
南アフリカ共和国はかつて有色人種に対する[[人種差別]]で知られていた。それは[[アパルトヘイト]]と呼ばれる1994年まで法制化されていた政策によるものであった<ref>{{Cite web |title=アパルトヘイト |url=https://www.unic.or.jp/activities/humanrights/discrimination/apartheid/ |website=国連広報センター |access-date=2022-09-03 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=アパルトヘイトとは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%88-26567 |website=コトバンク |access-date=2022-09-03 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),旺文社世界史事典 三訂版,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,知恵蔵,デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典 |last=第2版,世界大百科事典内言及}}</ref>。[[ダイヤモンド]]の世界的産地であり<ref>{{Cite web |url=https://www.nhk.or.jp/school/syakai/10min_tiri/kyouzai/001592.pdf |title=南アフリカの豊かな鉱産資源 |access-date=2022-9-3 |publisher=日本放送協会 |page=2 |format=PDF}}</ref>、民主化後の経済発展も注目されている。
 
同国はアフリカ経済の牽引国であり、アフリカ唯一の[[G20]]参加国である。IMF推計による[[2022年]]の[[国内総生産|GDP]]は4,115億ドルであり<ref>{{Cite web |title=Report for Selected Countries and Subjects |url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2022/October/weo-report?c=614,638,616,748,618,624,622,626,628,632,636,634,662,642,643,734,644,646,648,652,656,654,664,666,668,674,676,678,684,688,728,692,694,714,716,722,718,724,199,733,738,742,746,754,698,&s=NGDPD,&sy=2020&ey=2022&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1 |website=IMF |access-date=2022-10-13 |language=en}}</ref>、アフリカでは[[エジプト]]と並び[[ナイジェリア]]に次ぐ経済規模である。アフリカで最も工業化が進んでいる国として[[新興工業国]]と見なされている。
 
経済成長が期待される[[BRICs|BRICS]]([[ブラジル]]('''B'''razil)、[[ロシア]]('''R'''ussia)、[[インド]]('''I'''ndia)、[[中華人民共和国|中国]]('''C'''hina)、南アフリカ('''S'''outh Africa)の1つ。また、BRICSからロシアを除いた'''IBSAC'''('''I'''ndia, '''B'''razil, '''S'''outh '''A'''frica, '''C'''hina)という用語が、[[G7]]で[[イギリス]]によって提唱されたこともある<ref group="注釈">このほか、国際経済研究所による「The United States and the World Economy(2005年1月)」では、BRICsおよび南アフリカの5カ国に[[アルゼンチン]]、[[インドネシア]]、[[大韓民国|韓国]]、[[メキシコ]]、[[サウジアラビア]]、[[トルコ]]を加えた計11カ国が今後の世界経済に大きな影響を及ぼす「LEMs(Large Emerging-Market Economies)」として取り上げられた。 <br> また、BRICs経済研究所の[[門倉貴史]]はBRICsに続くグループ「[[VISTA]]」として、[[ベトナム]] ('''V'''ietnam)、インドネシア ('''I'''ndonesia)、南アフリカ ('''S'''outh Africa)、トルコ ('''T'''urkey)、アルゼンチン ('''A'''rgentina) の5カ国を、[[HSBCホールディングス|HSBC]]は同じく「[[CIVETS]]」として、[[コロンビア]] ('''C'''olombia)、インドネシア ('''I'''ndonesia)、ベトナム ('''V'''ietnam)、[[エジプト]] ('''E'''gypt)、トルコ ('''T'''urkey)、南アフリカ ('''S'''outh Africa) の6カ国を取り上げている。</ref>。
 
一方で[[後天性免疫不全症候群]] (AIDS)の蔓延、教育水準の低い非白人の極端な貧困、平時にもかかわらず1日の他殺による死者数が戦争中レベルで治安が毎年悪化しているなど、懸念材料も多い<ref name=":0" />。
 
== 国名 ==
11の[[公用語]]を採用しており<ref name="#1" />、公用語によって国名の表記も異なる。
* {{Lang-af|Republiek van Suid-Afrika}}
* {{Lang-en|Republic of South Africa}}
* {{Lang-zu|IRiphabliki yaseNingizimu Afrika}}
* [[南ンデベレ語]]: {{Lang|nbl|IRiphabliki yeSewula Afrika}}
* [[北ソト語]]: {{Lang|nso|Rephaboliki ya Afrika-Borwa}}
* [[ソト語]]: {{Lang|st|Rephaboliki ya Afrika Borwa}}
* [[スワジ語]]: {{Lang|ssw|IRiphabhulikhi yeNingizimu Afrika}}
* [[ツォンガ語]]: {{Lang|ts|Riphabliki ra Afrika Dzonga}}
* {{Lang-tn|Rephaboliki ya Aforika Borwa}}
* [[ヴェンダ語]]: {{Lang|ven|Riphabuḽiki ya Afurika Tshipembe}}
* {{Lang-xh|IRiphabliki yaseMzantsi Afrika}}
 
独立後、[[イギリス連邦]]を脱退する1961年までは「[[南アフリカ連邦]]」と呼ばれていた。
 
== 歴史 ==
{{Main|南アフリカ共和国の歴史|南アフリカ共和国年表}}
[[ファイル:Charles Bell - Jan van Riebeeck se aankoms aan die Kaap.jpg|left|220px|thumb|[[ヤン・ファン・リーベック]]のケープ上陸]]
 
紀元前数千年頃から、[[狩猟採集社会|狩猟民族]]の[[サン人]](ブッシュマン)と同系統で[[牧畜]]民族の[[コイコイ人]](ホッテントット:「[[吸着音]]でわけのわからない言葉を話す者」の意)が居住するようになった。また、300年 - 900年代に現在の[[カメルーン]]に相当する[[赤道]]付近に居住していた[[バントゥー系民族|バントゥー系諸民族]]が南下し、現在の南アフリカに定住した。
 
[[ヨーロッパ]]で[[大航海時代]]が始まった[[15世紀]]末の[[1488年]]に、[[ポルトガル人]]の[[バルトロメウ・ディアス]]がアフリカ大陸最南端に近い[[喜望峰]]に到達した。
 
[[1652年]]に[[オランダ東インド会社]]の[[ヤン・ファン・リーベック]]がこの地に到来し、喜望峰を中継基地とした。喜望峰は航海上の重要な拠点として注目されたうえ、気候も比較的ヨーロッパに似ていたためである。以後、オランダ人移民は増加し、[[ケープ植民地]]が成立した。この植民地にて形成された[[ボーア人]](Boer:[[アフリカーンス語]]読みでブール人とも呼ばれるが、本項では以下ボーア人で統一)の勢力拡大とともに、[[コイ人]]やサン人などの先住アフリカ人との争いも起きた。一方で先住アフリカ人とボーア人、また[[オランダ領東インド]]から[[奴隷]]として連れてきた[[インドネシア]]系諸民族とボーア人の[[混血]]も進み、のちに[[カラード (南アフリカ共和国)|カラード]]と呼ばれることになる民族集団が生まれた。
 
[[18世紀]]末には金やダイヤモンドの鉱脈を狙って[[イギリス人]]が到来した。ボーア人とイギリス人は対立し、[[フランス革命戦争]]中の[[1795年]]に[[イギリス]]の{{仮リンク|ウィリアム・ベレスフォード|en|William Beresford, 1st Viscount Beresford}}将軍が[[ケープタウン]]を占領した。
 
[[ファイル:Boercamp1.jpg|thumb|right|260px|[[第二次ボーア戦争]]([[1899年]] - [[1902年]])に際してのイギリスの[[強制収容所]]に送られたボーア人の女性と子ども。イギリスによって建設されたこの強制収容所は、[[20世紀]]の世界各国で建設された強制収容所の先駆となった。]]
[[ナポレオン戦争]]終結後、[[19世紀]]初頭にケープ植民地はオランダからイギリスへ正式に譲渡され、イギリス人が多数移住した。イギリスの植民地になり[[英語]]が公用語となり、同国の[[司法]]制度が持ち込まれるなどイギリスの影響が強まった。イギリス人の増加とともに英語を解さないボーア人は二等国民として差別され、自らを[[アフリカーナー]]と呼ぶようになった(以下ボーア人をアフリカーナーとする)。[[1834年]][[12月1日]]にイギリスが統治するケープ植民地内で奴隷労働が廃止されると、[[奴隷制]]に頼っていたアフリカーナーの農業主はこの[[奴隷制度廃止運動|奴隷制度廃止]]措置に反発し、1830年代から1840年代にかけてイギリスの統治が及ばない北東部の奥地へ大移動を開始した([[グレート・トレック]])。アフリカーナーはバントゥー系の[[ズールー人]]や[[ンデベレ人]]、[[スワジ人]]、[[ツワナ人]]など先住アフリカ人諸民族と戦いながら内陸部へと進み、[[ナタール共和国]](1839年建国)や、[[トランスヴァール共和国]](1852年建国)、[[オレンジ自由国]](1854年建国)などの[[ボーア諸共和国]]を建国した。しかし、[[セシル・ローズ]]に代表されるように南アフリカ全土を領有することを求めたイギリスとの対立から2度にわたる[[ボーア戦争]]に発展し、[[第一次ボーア戦争]]ではアフリカーナーの両国がイギリスを退けたが、[[第二次ボーア戦争]]([[1899年]] - [[1902年]])では敗北し、それらもすべてイギリスの手に落ちた。アフリカーナーのみならず、独立していた先住アフリカ人諸民族のアフリカーナーとイギリス人双方に対する抵抗も続いたが、[[1879年]]の[[ズールー戦争]]のように抵抗した民族は全て敗れ、南アフリカはほぼ完全にイギリスに支配された。
 
[[ファイル:Flag_of_South_Africa_(1928–1994).svg|thumb|right|1994年まで使用された[[南アフリカの国旗 (1928年-1994年)|国旗]]。アパルトヘイトの象徴として悪名高い。]]
[[1910年]]5月31日に、[[ケープ州]]、[[ナタール州]]、[[トランスヴァール州]]、[[フリーステイト州|オレンジ自由州]]の4州からなる'''[[南アフリカ連邦]]'''として統合され、[[イギリス帝国]]内のドミニオン([[自治領]])としてアフリカーナーの[[自治]]を確立した。翌[[1911年]]には、[[鉱山]]における[[白人]]・[[黒人]]間の職種区分と人数比を全国的規模で統一することを目的とした、白人労働者保護のための最初の[[人種主義]]法である「鉱山・労働法」が制定された。それからも人種差別法の制定は続いた。
 
[[第一次世界大戦]]ではアフリカ各地も戦場になった([[アフリカ戦線 (第一次世界大戦)|アフリカ戦線]])。南アフリカから出撃した英軍は[[ドイツ領南西アフリカ]]を占領し、[[南西アフリカ (南アフリカ委任統治領)|南西アフリカ]]として[[ナミビア]]独立まで支配した。
 
[[1931年]]には[[ウェストミンスター憲章]]が採択され、南アフリカ連邦は外交権をはじめイギリスと同格の[[主権]]を獲得。[[1934年]]には[[イギリスの議会]]で[[南アフリカ連邦地位法]]が可決され、正式に主権国家として規定された。1939年に[[第二次世界大戦]]が勃発すると、南アフリカ連邦は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の一員として参戦した。
 
[[ファイル:DurbanSign1989.jpg|thumb|right|220px|[[アパルトヘイト]]時代の人種隔離についての規定が表記されたビーチの看板]]
[[1948年]]にアフリカーナーの農民や都市の貧しい白人を基盤とする[[国民党 (南アフリカ)|国民党]]が政権を握り、[[ダニエル・フランソワ・マラン]]が首相に就任すると、国民党は[[アパルトヘイト]]政策(人種隔離政策)を本格的に推進していった。[[国際連合]]の抗議や[[アフリカ人民評議会]]などの団体の抵抗にもかかわらず、国民党はアパルトヘイト政策をやめることはなかった<ref group="注釈">むしろ反発したこの背景には、ボーア戦争トラウマとも言うべき諸外国への根強い不信感が指摘されている。</ref>。国際関係としては、[[反共主義]]を押し出し、[[自由主義]]陣営として[[朝鮮戦争]]に軍を派遣した。
 
[[1958年]]にマランに続いて[[ヘンドリック・フルウールト]]が首相に就任すると、南アフリカは1960年代から1980年代にかけて強固なアパルトヘイト政策を敷いた。他方、国内では人種平等を求める黒人系の[[アフリカ民族会議]](ANC)による[[民族解放運動]]が進み、[[ゲリラ戦]]が行われた。[[1960年]]の[[シャープビル虐殺事件]]をきっかけに、[[1961年]]にはイギリスから人種主義政策に対する非難を受けたため、[[イギリス連邦]]から脱退し、[[立憲君主制]]に代えて[[共和制]]を採用して新たに国名を'''南アフリカ共和国'''と定めた。一方で、[[日本人]]は白人でないにもかかわらず白人であるかのように扱われる[[名誉人種|名誉白人]]として認められ、[[日本]]は南アフリカ政府や南アフリカ企業と深いつながりを持つことになった。また、世界的に[[脱植民地化]]時代に突入していたにもかかわらず、このように露骨な人種主義政策をとり続けたために、域内のアフリカの新興独立国から国際的に孤立したため<ref group="注釈">南アフリカは[[アフリカ統一機構]] (OAU) への加盟を認められなかった。</ref>、同様に域内で孤立していた白人国家[[ローデシア]]や、アフリカにおける[[ポルトガル海上帝国|植民地帝国]]の維持を続ける[[ポルトガル]]、そして強固に[[反共]]政策をとっていた[[中華民国]]([[台湾]])や、[[汎アラブ主義]]の波に対抗していた[[イスラエル]]との結びつきを深めた<ref>水野隆徳『秘密同盟ネクサス―「南ア・イスラエル・台湾」驚異のサバイバル戦略』[[駸々堂出版]]、1987年</ref>。
 
[[ファイル:SafrikaIMG 8414.JPG|thumb|left|220px|[[ロベン島]]にある[[刑務所]]。刑務所は反[[アパルトヘイト]]運動により反逆罪として逮捕された政治犯の[[強制収容所]]として使われ、[[ネルソン・マンデラ]]や[[ウォルター・シスル]]、{{ill2|ロバート・ソブクウェ|en|Robert Sobukwe}}らが収監された。ロベン島は1999年、[[ユネスコ]]の[[世界文化遺産]]に登録された。]]
[[1966年]]にフルウールトが暗殺されたあと、[[バルタザール・フォルスター]]が次代の首相に就任した。フォルスター政権成立に前後して同年8月より占領していた[[ナミビア]]でも独立を目指す[[南西アフリカ人民機構]](SWAPO)による[[ナミビア独立戦争]]([[1966年]] - [[1990年]])が始まった。
 
[[1974年]]に[[ポルトガルの植民地戦争|植民地戦争]]によって疲弊したポルトガルで[[カーネーション革命]]が勃発し、[[エスタード・ノーヴォ]]体制が崩壊して左派政権が誕生して植民地の放棄を打ち出すと、近隣の旧ポルトガル植民地だった[[アンゴラ]]と[[モザンビーク]]は[[社会主義国]]として新たなスタートを切り、両国は南アフリカとローデシアの白人支配に対する[[ブラックアフリカ]]諸国の最前線である{{仮リンク|フロントライン諸国|en|Frontline States}}となった。南アフリカとローデシアは強行に国内を引き締める一方、両国に対して直接・間接の軍事介入を行い、両国を苦しめた。さらに国内でも、1976年に[[ソウェト蜂起]]が勃発し、この黒人蜂起に対するフォルスター首相の対応は国際的な批判を浴びてさらに国内では政治[[不祥事|スキャンダル]]で追い込まれて辞することになり、軍事介入を主導してきた強硬派で国防相だった[[ピーター・ウィレム・ボータ|P・W・ボータ]]が後継の首相に就任した。
 
[[1980年]]、ローデシアは[[ローデシア紛争]]の末に白人政権が崩壊して新たに黒人国家[[ジンバブエ]]が成立し、反共のための戦いから脱落した。一方、南アフリカ防衛軍による直接介入が行われていたアンゴラでも、[[キューバ]]やブラックアフリカ諸国に支援された[[アンゴラ共和国軍|アンゴラ政府軍]]の抵抗が続き、戦争は泥沼の様相を呈していた。国内でも[[1980年代]]にはボータは首相職を廃止して[[南アフリカ共和国の大統領]]に就任して強権を振るい、反体制運動も激しくなり、さらにそれまでの[[反共]]的姿勢から南アフリカを優遇していた[[西側諸国]]からも国際的に経済制裁を受け、南アフリカ内外で反アパルトヘイト運動が高まった。1988年には第二次世界大戦後のアフリカで最も大規模な戦いの一つだった{{仮リンク|クイト・クアナヴァレの戦い|en|Battle of Cuito Cuanavale}}でアンゴラ=キューバ連合軍に敗北し、この戦いをきっかけに南アフリカは[[キューバ軍]]のアンゴラからの撤退と引き換えに占領していたナミビアの独立を認めた。軍事介入の失敗により、アパルトヘイト体制は風前の灯火となっていた。
 
このような情勢の悪化から辞任したボータ大統領の後任である[[フレデリック・ウィレム・デクラーク|デ・クラーク]]大統領は冷戦の終結した[[1990年代]]に入ると、アパルトヘイト関連法の廃止、人種主義法の全廃を決定するとの英断を下した。また、同時に1970年代から1980年代にかけて6発の[[核兵器]]を密かに製造・配備をしていたが、[[核拡散防止条約]]加盟前に全て破棄していたことを[[1993年]]に発表した。
 
[[1994年]][[4月]]に同国史上初の全人種参加の総[[選挙]]が実施され、[[アフリカ民族会議]](ANC)が勝利し、[[ネルソン・マンデラ]]議長が[[南アフリカ共和国の大統領]]に就任した。副大統領にANCの[[ターボ・ムベキ]]と国民党党首の[[フレデリック・ウィレム・デクラーク|デ・クラーク]]元大統領が就任した。アパルトヘイト廃止に伴い[[イギリス連邦]]と国連に復帰し、[[アフリカ統一機構]](OAU)に加盟した。マンデラ政権成立後、新しい[[憲法]]を作るための制憲議会が始まり、[[1996年]]には新憲法が採択されたが国民党は政権から離脱した。
 
南アフリカ国内と南西アフリカ(ナミビア)にはかつて、黒人を「外国人」として扱うため、国際社会からは[[国家の承認]]を受けていない[[バントゥースタン]](ホームランド)と呼ばれる「国家」や[[自治区]]が南アフリカ政府により樹立されたが、ナミビア独立やアパルトヘイト崩壊の過程で全て消滅した。
 
アパルトヘイトが撤廃された[[21世紀]]になっても依然として[[人種]]間失業率格差が解消されないでいた理由は、アパルトヘイトが教育水準格差をも生み出していたことが最も大きな要因と考えられる。アパルトヘイト撤廃によって即日雇用平等の権利を得たとしても、当時の労働人口の中心となる青年層はすでに教育水準の差が確定してしまっており、アパルトヘイト時代に教育を受ける機会を得られなかった国民は、炭坑労働者など、雇用が不安定な業種にしか職を求めることができなかった。さらに、鉱山は商品市況によって炭鉱労働者の雇用または解雇を頻繁に行うこともあり、黒人の失業率は白人のそれと比べて非常に高い統計結果が出てしまうのである。しかし、撤廃後12年以上が経過し、教育を受ける世代が一巡したことで、白人・黒人間の[[失業率]]格差は縮小しつつある。また政府は、単純労働者から[[情報技術|IT]]技術者の育成など技術労働者へ教育プログラムなどを用意し、国民のスキルアップに努めている。今後、失業率の問題は、[[人種]]間[[失業率]]格差から、数十あると言われる各部族間格差を縮小させるような政策が期待されているが、犯罪率も高く、多くの[[過激派]]組織も活動している点は否定できない<!--どの人種・民族の右翼なのか パンアフリカニスト会議、アザニア人民機構など極左もあるため「過激派」とします-->。また、事実上パスポートなしで移民を受け入れる政策をとってからは、特に隣国ジンバブエからの移民が急増し、国内に住む黒人の失業率が増加する結果となり、大規模な移民排斥運動も起こり始めている<ref>2010年6月6日放送 [[NHKスペシャル]]『アフリカンドリーム 第3回 移民パワーが未来を変える』より。</ref>。さらに、黒人への優遇政策によりこれまで要職に就いていた白人が[[逆差別|押し出される]]格好になり、白人の失業率が上昇することになった<ref>{{Cite web|url=http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/100601.html |title=BS世界のドキュメンタリー〈シリーズ 南アフリカ 第2週 変革の中で〉プア ホワイト|date=2010-06-01|accessdate=2013-10-28}}</ref>。
 
[[イギリス領インド帝国|同じ英国領だったインド]]からの移住者の子孫である[[インド系南アフリカ人]]と黒人の間にも相互不信があり、前大統領[[ジェイコブ・ズマ]]への有罪判決を発端に2021年7月に発生した暴動では、ダーバン北郊でインド系が多く暮らすフェニックス地区が黒人暴徒に襲撃され、自警団との銃撃戦が発生した<ref name="読売20210726">「南ア暴動 人種対立の影/黒人、インド系 相互不信に」『[[読売新聞]]』朝刊2021年7月26日(国際面)</ref>。
 
== 政治 ==
{{Main|南アフリカ共和国の政治|:en:Politics of South Africa}}
アフリカでも数少ない[[複数政党制]]が機能する[[民主主義]]国家の一つである。議会は[[両院制]]で、いずれも任期5年の[[全国州評議会]](90名、上院)[[国民議会 (南アフリカ)|国民議会]](400名、下院)で構成される。[[元首]]たる[[南アフリカ共和国の大統領]]は、国民議会の議決により選出される。
 
* [[2018年]][[2月15日]]、国民議会(下院)は[[アフリカ民族会議]](ANC)の[[シリル・ラマポーザ]]を大統領に選出した。
 
[[2019年南アフリカ総選挙]]では、アフリカ民族会議が過半数の議席を獲得した<ref>{{Cite web
|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/05/d2c5855bdc449303.html |title=与党が総選挙勝利、現職大統領再任の見込み(南アフリカ共和国)ビジネス短信―ジェトロの海外ニュース |accessdate=2022-10-19}}</ref>。
 
[[複都制]]を採用しており、立法府は[[ケープタウン|ケープタウン市都市圏]]、行政府は[[プレトリア|ツワネ都市圏]](プレトリア)、司法府は[[ブルームフォンテーン]]に置かれている。
 
=== 立法 ===
{{Main|南アフリカ共和国の議会}}
[[ファイル:Capetownparlament.jpg|200px|right|thumb|議会議事堂(ケープタウン)]]
アパルトヘイト撤廃後に6度の総選挙が実施され、反アパルトヘイト闘争を主導した[[アフリカ民族会議]](ANC)が[[:w:2004 South African general election|2004年総選挙]]の時は、7割近い得票で圧勝していたが、次回以降の選挙では経済停滞と高失業率を背景に得票率が低下し<ref name="AR57">{{Cite journal|和書|author=牧野久美子 |title=2019年総選挙を控えた南アフリカの政治情勢|journal=アフリカレポート(Africa Report)|volume=57|pages=47-51|publisher=[[アジア経済研究所]]|date=2019|language=日本語|url=https://doi.org/10.24765/africareport.57.0_47 |doi=10.24765/africareport.57.0_47 |accessdate=2020-05-16}}</ref>、[[2019年南アフリカ総選挙|2019年総選挙]]では57.50%と、6割を切っている。<br />[[アフリカーナー]]や[[リベラル]]派に支持基盤を持つ[[民主同盟]](DA)、アフリカ民族会議(ANC)の青年同盟のリーダーであった[[:en:Julius Malema|ジュリアス・マレマ]]がANCを離脱して[[2013年]]7月に立ち上げた[[経済的解放の闘士]](EFF)、[[クワズールー・ナタール州]]を地盤とする[[インカタ自由党]](IFP)が続くが、全議席の約6割をANCが占めている。しかし、憲法改正の際、国会議員の3分の2以上の賛成が必要となるため、憲法改正させるためにアフリカ民族会議が他党との協力をしなければならなくなる可能性が高くなる<ref name="AR57" />。また得票率低下が今後進んでいった場合、ANCは少数与党として政権運営をするか、他党と連立しなければならない状況になる可能性も高くなる。
{{See also|南アフリカ共和国の政党}}
 
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|+ style="font-size: 110%; font-weight: bold;"|[[南アフリカ共和国の議会|南アフリカ議会]]の会派構成
|-
!style="width: 50%;" rowspan=2|政党名
!style="width: 25%;" colspan=2|全国州評議会<br />(上院)
!style="width: 25%;" rowspan=2|国民議会<br />(下院)
|-
!常任議員
!特別議員
|-
![[アフリカ民族会議]](ANC)
|29
|25
|230
|-
![[民主同盟]](DA)
|13
|7
|84
|-
![[経済的解放の闘士]](EFF)
|9
|2
|44
|-
![[インカタ自由党]](IFP)
|1
|1
|14
|-
![[w:Freedom Front Plus|自由戦線プラス]](FF Plus)
|2
|1
|10
|-
![[w:African Christian Democratic Party|アフリカ・キリスト教民主党]](ACDP)
|0
|0
|4
|-
![[w:United Democratic Movement|統一民主運動]](UDM)
|0
|0
|2
|-
![[w:African Transformation Movement|アフリカ変革運動]]
|0
|0
|2
|-
![[w:Good (political party)|グッド]]
|0
|0
|2
|-
![[w:African Independent Congress|アフリカ独立会議]](AIC)
|0
|0
|2
|-
![[国民会議 (南アフリカ)|国民会議]](COPE)
|0
|0
|2
|-
![[国民自由党 (南アフリカ)|国民自由党]](IFP)
|0
|0
|2
|-
![[w:Pan Africanist Congress|パンアフリカニスト会議]](PAC)
|0
|0
|1
|-
![[w:Al Jama-ah|アル・ジャマア]](ALJAMA)
|0
|0
|1
|-
!計
!54
!36
!400
|}
 
=== 行政 ===
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国政府|en|Government of South Africa}}}}
[[ファイル:Uniegebou.jpg|thumb|250px|right|行政府庁舎の[[ユニオンハウス]]([[プレトリア]])]]
[[行政]]の中心地はプレトリア(ツワネ市都市圏)である。元首にして行政府の長である大統領は議会から選出され、[[内閣]]を組織する([[大統領制#議会から大統領を選出する制度|大統領制]])。
 
=== 司法 ===
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の司法|en|Judiciary of South Africa}}}}
[[1994年]]に設置された[[憲法裁判所]]のほか、最高裁判所を筆頭とする[[三審制]]の[[司法]]制度である。司法府は[[ブルームフォンテーン]]に置かれている。
 
== 国際関係 ==
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の国際関係|en|Foreign relations of South Africa}}}}
[[ファイル:Diplomatic missions of South Africa.png|thumb|520px|南アフリカ共和国が外交使節を派遣している諸国の一覧図]]
冷戦中の南アフリカ共和国は[[人種主義]]に基づくアパルトヘイト体制維持を掲げたため、[[ブラックアフリカ]]をはじめとする国際社会から孤立し、わずかに[[イスラエル]]や[[中華民国]]([[台湾]])などが友好国として存在するのみだった。しかし、[[南部アフリカ]]における[[反共]]の砦と自らを規定していたため、実際は軍事面において[[西側諸国]]との友好関係も保っていた。このような反共政策を背景にして[[アンゴラ内戦]]([[1974年]] - [[2002年]])に直接介入したり、[[モザンビーク内戦]]([[1977年]] - [[1992年]])での[[モザンビーク民族抵抗運動]](RENAMO)支援を通して周辺の社会主義黒人政権に不安定工作を発動したが、世界的な反アパルトヘイトキャンペーンと[[東側諸国]]の勢力低下により強硬政策は頓挫した。そのため、アンゴラ、モザンビーク両国に干渉することをやめ、1990年にはアンゴラからの[[キューバ軍]]の撤退と引き換えに占領していた[[ナミビア]]の独立を認めた。
 
[[フレデリック・ウィレム・デクラーク]]大統領がアパルトヘイト体制を葬った後、1994年に[[ネルソン・マンデラ]]を首班としたANC政権が成立。南アフリカ共和国は[[アフリカ統一機構]](OAU)に加盟し、国際社会に合流した。
 
=== 日本との関係 ===
{{Main|日本と南アフリカの関係}}
* 在留日本人数 - 1,505人(2017年10月時点)<ref name="#1">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/s_africa/data.html#section6 外務省 南アフリカ基礎データ]</ref>
* 在日南アフリカ人数 - 942人(2018年12月時点)<ref name="#1"/>
在留邦人数は1997年10月には3,517名いたが、2017年では42.8%と半数以下となっている。ヨハネスブルクには[[日本人学校]]もある。また、ごく少数だが、[[永住者]]や[[在南アフリカ日本人|日系人]]も存在する。
 
[[ケープ植民地]]入植者にはオランダ人[[ヤン・ファン・リーベック]]によって、[[出島|長崎の出島]]から連れてこられたハポンと呼ばれる日本人家族が含まれていたという説もある<ref>[http://www.jsj.org.za/springbok/africa%20seminar/Lecture%204.pdf 悲劇の国 南アフリカ]</ref>。
 
公式記録として残る南アフリカに初めて入国した日本人は、[[慶応]]2年(1865年)1月にケープタウンに立ち寄った[[江戸幕府]]の[[ロシア帝国]]派遣留学生ら6名で、移住者としては、1898年([[明治]]31年)に入植した[[古谷駒平]]らが最初期にあたる([[在南アフリカ日本人]]参照)。
 
== 軍事 ==
{{Main|南アフリカ国防軍}}
[[南アフリカ国防軍]] (South African National Defence Force; SANDF)は[[南アフリカ陸軍|陸軍]]・[[南アフリカ海軍|海軍]]・[[南アフリカ空軍|空軍]]の三軍と[[南アフリカ総合医療部隊]]から構成される。
 
かつて[[冷戦]]時代に存在した[[南アフリカ防衛軍]] ([[:en:South African Defence Force|South African Defence Force; SADF]])は、アパルトヘイト体制維持のために国内の[[アフリカ民族会議]](ANC)や占領していた[[ナミビア]]の[[南西アフリカ人民機構]](SWAPO))のゲリラとの非正規戦、およびアンゴラの社会主義政権とアンゴラに介入したキューバ軍との戦いに従事していた。現在の南アフリカ国防軍は、アパルトヘイト体制崩壊後の1994年に再編成されたものである。
 
=== 民間軍事会社 ===
アパルトヘイト終了後の軍縮などにより、南アフリカ国内外にて不正規戦や秘密工作を行った軍人達が(特にアンゴラの元[[難民]]である黒人兵士達は[[アフリカ民族会議]]の圧力により、軍基地跡地の貧しい地域に居住することを余儀なくされた)大量に職を失った。南アフリカ国防軍不正規戦部隊の出身である元軍人らが[[エグゼクティブ・アウトカムズ]]という[[民間軍事会社]]を設立し、冷戦終了後内戦が勃発したアンゴラや[[シエラレオネ]]などで戦い、同社が解散したあとは、[[赤道ギニア]]にてエグゼクティブ・アウトカムズの元社員らが[[クーデター]]未遂を起こして逮捕された。
 
ほかにも、南アフリカ国防軍出身者は[[イラク戦争]]でもイギリスの民間軍事会社に警備要員として雇用されており、ハート・セキュリティ社に所蔵している元南アフリカ警察出身のGrey Branfield(銃撃戦により死亡)と元[[自衛官]]の日本人と一緒に勤務していた4人の警備要員(全員銃撃戦により死亡)、エリニュス社に所属している南西アフリカ警察不正規戦部隊出身のFrançois Strydom([[自爆テロ]]により死亡)と秘密警察出身のDeon Gouws(同じ自爆テロにより負傷)など、1,000人程度が確認されている。
 
== 地理 ==
{{Main|[[南アフリカ共和国の地理]]|:en:Geography of South Africa}}
[[ファイル:Sf-map.png|260px|right|thumb|南アフリカ共和国の地図]]
[[ファイル:South Africa Topography.png|thumb|地形図]]
[[ファイル:South Africa sat.jpg|thumb|衛星写真、白い空洞の部分は[[レソト王国]]]]
アフリカ大陸最南部に位置し、ナミビア、ボツワナ、ジンバブエ、モザンビーク、エスワティニと国境を接し、レソトを囲んでいる。南西部は[[大西洋|南大西洋]]に面し、南部から東部にかけては[[インド洋]]に面するため2,500キロメートルという長い海岸線を有する。国土の全体が高地になっていて、高地から海岸へは[[南部アフリカ大断崖]]と呼ばれる[[断崖]]をほぼ経るので、海岸平野は狭い。内陸は[[カルー]]と呼ばれる広大な平坦地で、人口は少ない。北西部は[[ナミブ砂漠]]の延長部である。東部には[[ドラケンスバーグ山脈]]が連なる。国の最高地点はレソトとの国境にあるマハディ山([[標高]]3,450メートル)である。
 
=== 気候 ===
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の気候|en|Climate of South Africa}}}}
夏期は[[10月]]から[[3月]]、冬期は[[5月]]から[[8月]]である。地域による差はあるが、1年を通じて気候は比較的温暖で日照時間が長い。
 
しかし、海岸部以外は高地なため同緯度の国に比べやや気温は低い。国全体の平均気温は、冬が0 - 15[[セルシウス度|度]]、夏が20 - 40度と差が大きい。内陸高地の冬の気温は[[氷点下]]になることもあり、ドラケンスバーグ山脈のような高い山の山頂では降雪もある。東部の海岸は高度も低く、[[暖流]]の[[モザンビーク海流]]が流れているために暖かい。西部の海岸は[[寒流]]の[[ベンゲラ海流]]の影響を受けて気温はそれほど上がらない。
 
[[雨季]]は11月から3月。東と西で雨の降り方が大きく違う。東部は[[季節風]]の影響で夏に雨が降るが、南西の海岸はいわゆる[[地中海性気候]]で、[[移動性低気圧]]により冬に雨が多い。降雨量は東側から西側にいくにしたがって少なくなる。
 
内陸部は高原地帯であるためそれほど暑くはならない。
 
=== 動植物 ===
* [[国鳥]]は、[[ハゴロモヅル]]
* [[国花]]は、[[キングプロテア]](アフリカーンス名: [[:af:suikerbos<!-- リダイレクト先の「[[:af:Protea]]」は、[[:ja:プロテア]] とリンク -->|suikerbos]])
* 国の動物は、[[スプリングボック]]
 
南アフリカには特色ある生物種からなる[[生態系]]が形成されている。植物は多様な環境に適応した[[ベンケイソウ科]]や[[トウダイグサ科]]、[[ハマミズナ科]]の[[多肉植物]]やトランスヴァール地方に[[花#花の庭と花畑|花畑]]を形成する[[ガーベラ]]や[[ユリオプスデージー]]など[[キク科]]の植物、あるいは[[エリカ属|エリカ]]や[[クンシラン]]などは珍奇な姿や美しい花から園芸植物として世界中で栽培されている。南アフリカの国土は全世界のわずか2%ほどにすぎないが、世界の植物の10%近く、約2万4,000種類の原産国となっている。また、脊椎動物の約7%、昆虫の約5.5%、海洋生物の約15%にとっての生息地ともなっている<ref>{{Cite news|url=http://www.capetownnews.jp/2010/01/year-of-biodiversity/ |title=2010 国際生物多様性年-南アフリカにて環境関連イベント多数開催 |newspaper=ケープタウン新聞 |date=2010-01-11}}{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。
<gallery>
ファイル:Anthropoides paradisea Prague.jpg|ハゴロモヅル
ファイル:Protea nerifola close.jpg|プロテア
ファイル:Springbok Namibia.jpg|スプリングボック
</gallery>
{{-}}
 
== 地方行政区画 ==
{{main|南アフリカ共和国の州|南アフリカ共和国の地方自治体}}
 
===主要都市===
{{Main|南アフリカ共和国の都市の一覧}}
主要な都市は[[プレトリア]](首都)、[[ケープタウン]](首都)、[[ブルームフォンテーン]](首都)、[[ヨハネスブルグ]]、[[ダーバン]]、[[ソウェト]]、[[ポート・エリザベス]]がある。
 
== 経済 ==
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の経済|en|Economy of South Africa}}}}
通貨は[[ランド (通貨)|ランド]]。
 
銀行業は初期においては[[スタンダードチャータード銀行|スタンダード銀行]]と[[バークレイズ]]に支配されていた。1987年時点では、[[JSE|ヨハネスブルク証券取引所]]に上場していた全企業の83%を、''[[:en:Sanlam|Sanlam]]''、''[[:en:Old Mutual|Old Mutual]]''、[[アングロ・アメリカン]]、''[[:en:Rembrandt Group|Rembrandt Group]]'' の4財閥が支配していた<ref>北川勝彦「[https://hdl.handle.net/10112/4484 [研究ノート]南アフリカ経済史研究の課題]」『關西大學經済論集』2001年 50巻 4号 pp.363-383, [[関西大学|關西大学]]經済學會</ref>。
 
2012年には[[マリカナ鉱山における労使対立]]が起こった。[[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、2018年の[[国内総生産|GDP]]は3,681億ドルである。1人あたりのGDPは6,353ドルで、アフリカ全体(データの無い[[ソマリア]]除く)ではボツワナに次いで6位に位置する。[[購買力平価]]ではそれぞれ7,897億ドル、1万3,629ドルとなる<ref name="imf201910" />。しかし、2014年時点の[[ジニ係数]]は63([[世界銀行]]調べ)と、世界で最も格差が大きい国の一つである<ref name="wb">{{Cite web|author=世界銀行|url=https://data.worldbank.org/indicator/SI.POV.GINI|title=GINI index (World Bank estimate)(ジニ係数 世界銀行予測)|date=2019|website=World Bank Open Data|format=Excel|accessdate=2020-05-04 }}</ref>。
 
=== 主要産業 ===
[[農業]]は[[果樹]]・[[穀類]][[栽培]]と[[牧畜]]が主体である。同国はアフリカ大陸で最大の[[トウモロコシ]]生産国であり、2009 - 2010年度には400万トンの[[生産]]過剰となっている。また、南アフリカの[[砂糖]]([[サトウキビ]])は[[世界金融危機]]の出端から年に十数%の割合で高騰していった。
 
伝統的な[[作物]]としての[[果物]]には[[グアバ]]や[[アボカド]]があり、これらは南アの重要な生産物となっている。現在は[[パン]]などの[[主食]]用として[[コムギ|小麦]]もつくっている。
 
最近では[[マカダミア]]の栽培に力を入れており、毎年約4,000ヘクタールが新たに[[植林]]されている。その背景には[[中華人民共和国|中国]]での旺盛な需要があり、生産量は1996年の3,000トンから2015年には4万トンを超えるまでになっている<ref>{{Cite web|url=https://www.cnn.co.jp/business/35111573.html|title=南アでマカダミアナッツ栽培がブーム、中国需要が後押し|publisher=CNN.co.jp|date=2017-12-07|accessdate=2017-12-24}}</ref>。
{{also|{{仮リンク|南アフリカ共和国の農業|en|Agriculture in South Africa}}}}
 
[[酒造]]は[[ワイン]]を手がけており、ワイン作りはケープタウン付近で特に盛んで輸出もされている。
{{also|南アフリカ共和国のワイン}}
 
[[メリノ種]]の[[ウール|羊毛]]は[[オーストラリア]]に次ぐ生産量を誇る。[[皮革]]用の牝羊も飼われているが、最高級品は[[胎児]]を取り出して剥ぐため、[[動物愛護団体|愛護団体]]などから[[批判]]を受けている。
 
[[鉱業]]生産物は金、ダイヤモンド、[[プラチナ]]、[[ウラン]]、[[鉄鉱石]]、[[石炭]]、[[銅]]、[[クロム]]、[[マンガン]]、[[石綿]]。豊富な鉱物資源を誇り、特に金は世界の産出量の半分を占める。この豊富な産金力を背景に[[クルーガーランド金貨]]を発行していたが、現在は限定品としてのみわずかに販売されている。[[石油]]の産出はない。
{{also|{{仮リンク|南アフリカ共和国の鉱業|en|Mining industry of South Africa}}}}
 
[[工業]]は[[食品産業]]、[[製鉄]]、[[化学工業]]、[[繊維産業]]、[[自動車]]などの分野で盛んである。
 
近年、ダイムラー・クライスラー(現・[[ダイムラー (自動車メーカー)|ダイムラー]])社が[[ダーバン]]市内に自動車製造工場を建設。[[メルセデス・ベンツ]]の、特に[[対面交通|右ハンドル仕様]]を製造している。これらの車両は南アフリカ向けのみならず、多くが輸出に割り振られている。また[[トヨタ自動車]]、[[BMW]]、[[フォルクスワーゲン]]や[[日産自動車]]なども輸出拠点として同国に工場を置いている。なおこれらの拠点は東海岸の[[ポートエリザベス]]に多く存在している。
{{also|{{仮リンク|南アフリカ共和国の自動車産業|en|Automotive industry in South Africa}}}}
 
[[国内総生産|GDP]]成長率は2010年に3.0%、2015年に1.5%<ref>{{Cite web|author=独立行政法人日本貿易振興機構(JETRO=ジェトロ)|authorlink=日本貿易振興機構|url=https://www.jetro.go.jp/world/africa/za/stat.html|title=南アフリカ共和国 統計|date=2020-02-20|format=Excel|accessdate=2020-05-16 }}</ref>と低成長ながら堅調な成長が続いている。[[JSE]]は世界的な証券取引所である。
 
アパルトヘイト廃止後に[[電力]]需要が急増したにもかかわらず、[[発電所]]の建設が10年以上行われなかったため、2007年頃から電力不足が問題となっている。2008年1月には南アフリカ電力公社 ([[:en:Eskom|Eskom]])は[[計画停電]]を実施し、当時資源高により好調だったプラチナ[[鉱山]]の操業が制限される事態となり、金やプラチナの相場を高騰させた。これを解消するため、Eskomは近隣諸国からの送電や発電所の増設を計画しているが、電力不足は2015年頃までは解消されない見込みである。
{{also|{{仮リンク|南アフリカ共和国のエネルギー|en|Energy in South Africa}}}}
 
[[2010年]]8月、公務員[[ストライキ7]]が発生した。[[労働組合]]側(COSATU)は、公務員賃金の8.6%引き上げと住宅手当1,000ランド(約1万円)の新設の要求であった。政府側の最終回答はそれぞれ7%、700ランドにとどまっている。
 
[[失業]]が大きな問題となっており、2011年の[[国勢調査]]では失業率は29.8%であった<ref>{{Cite news | url =http://sankei.jp.msn.com/world/news/121230/mds12123020350005-n1.htm | title =猛暑の採用テストで6人死亡 南ア、30度越えの中、4キロ走も | newspaper = [[産経新聞]] | date = 2012-12-30 }}</ref>。その後、持ち直す局面もあったが、2019年第3・四半期の失業率は29.1%となっている<ref>{{Cite web |date= 2019-10-29|url=https://jp.reuters.com/article/safrica-economy-unemployment-idJPKBN1X8127 |title=南ア失業率、第3四半期は29.1% 11年来の高水準 |publisher= [[ロイター]]|accessdate=2019-10-29}}</ref>。
 
== 交通 ==
[[ファイル:Cape Town Waterfront.jpg|thumb|250px|[[ビクトリア&アルフレッド・ウォーター・フロント]]はテーブル湾に面した港で、ショッピング・センター、レストラン、ホテルなどが集まる[[ケープタウン]]の新しい観光スポットである。]]
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の交通|en|Transport in South Africa}}}}
=== 道路 ===
{{節スタブ}}
 
=== 鉄道 ===
{{Main|南アフリカ共和国の鉄道}}
 
=== 海運 ===
{{節スタブ}}
 
=== 空運 ===
{{See|南アフリカ共和国の空港の一覧}}
* [[南アフリカ航空]]
 
== 国民 ==
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の人口統計|en|Demographics of South Africa}}}}
 
=== 人口 ===
[[ファイル:South Africa 2011 population density map.svg|thumb|240px|南アフリカ共和国の人口分布図]]
2021年の推計によると、人口は6,014万人。[[後天性免疫不全症候群]] (AIDS=エイズ)による死者や白人層の国外流出が多いため、他のアフリカ諸国に比べると人口増加率は低く、2008年には人口が減少している。現在では平均寿命は2021年推計で64.38歳となっている。黒人層に限ればさらに低くなる。
 
=== 民族 ===
{{bar box
|title=人種構成
|titlebar=#ddd
|float=left
|bars=
{{bar percent|[[バントゥー系民族]]([[黒人]])|Purple|79.4}}
{{bar percent|[[南アフリカ共和国の白人|白人]]|blue|9.2}}
{{bar percent|[[カラード (南アフリカ共和国)|カラード]]|orange|8.8}}
{{bar percent|[[アジア系南アフリカ人|アジア系]]|green|2.6}}
}}
2009年の推計によると、[[人種]]の割合は[[黒人]](79.3%)、[[南アフリカ共和国の白人|白人]](9.1%)、[[カラード (南アフリカ共和国)|カラード]]([[混血]])(9.0%)、[[アジア系南アフリカ人|アジア系]](2.6%)<ref>[http://www.statssa.gov.za/publications/P0302/P03022009.pdf Midyear population estimates: 2009 Statistics South Africa 23 February 2010]</ref>。
 
黒人は[[ズールー人]]、[[コサ人]]、[[ツワナ人]]、[[ソト人]](南ソト人)、{{仮リンク|ペディ人|en|Pedi people}}(北ソト人)、[[スワジ人]]、{{仮リンク|ヴェンダ人|en|Venda people}}、{{仮リンク|北ンデベレ人|en|Northern Ndebele people|label=ンデベレ人}}、[[ツォンガ人]]の[[バントゥー系民族]]で非常に多様であり、アパルトヘイト撤廃後は民族間の対立が深刻化している。
 
[[カラード (南アフリカ共和国)|カラード]]は中央部から西部にかけての広い範囲に分布し、多くが[[アフリカーンス語]]を[[母語]]としている。他に[[カポイド|コイサン人種]]の先住民である[[サン人]]、[[コイコイ人]]がいるが、多くは混血したため数は少ない。
 
白人の大半は[[イギリス系南アフリカ人|イギリス系]]と[[アフリカーナー]]で、そのほかに[[ポルトガル系南アフリカ人|ポルトガル系]]や[[ユダヤ系南アフリカ人|ユダヤ系]]、[[ギリシャ]]や[[ドイツ]]にルーツを持つ者などがいる。白人は1940年ごろには全人口の約20%を占めていたとされるが、1994年には13.6%、2009年には9.1%にまで低下した。アパルトヘイトの廃止以降、[[逆差別]]や失業、犯罪などから逃れるために国外への流出が続いており、1995年以来、国外に移民した白人はおよそ80万人に及ぶ<ref>[http://www.economist.com/world/mideast-africa/displaystory.cfm?story_id=12295535 White flight from South Africa | Between staying and going], The Economist, September 25, 2008</ref>。2009年、白人人口447万人の約10%にあたる約40万人<ref>[http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/100601.html NHK BS 世界のドキュメンタリー]</ref>が貧困層となっており、[[プアホワイト]]と呼ばれる層が出現している。[[アフリカーナー]]が急減する一方、[[イギリス系南アフリカ人|イギリス系]]は増加傾向にある。
 
[[アジア系南アフリカ人]]の大多数は[[インド系南アフリカ人|インド系]]で100万人に達し、多くが[[クワズール・ナタール州]]に住む。近年は{{仮リンク|中国系南アフリカ人|en|Chinese South Africans}}(およそ10万人)が急増し、黒人との対立を引き起こしている。最近はジンバブエから300万人が流入するなど、周辺国から約500万人の[[不法移民]]が流入し、治安悪化の原因となっている。
 
=== 言語 ===
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の言語状況|en|Languages of South Africa}}}}
{{bar box
|title=母語話者(南アフリカ共和国)<ref name="#2">[http://www.statssa.gov.za/Census2011/Products/Census_2011_Census_in_brief.pdf 南アフリカ共和国 センサス2011]</ref>
|titlebar=#ddd
|float=right
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{{bar percent|[[南アフリカ英語|英語]]|orange|9.6}}
{{bar percent|[[ズールー語]]|#7FE000|22.7}}
{{bar percent|[[コサ語]]|#800080|16.0}}
{{bar percent|[[アフリカーンス語]]|#0080C0|13.5}}
{{bar percent|[[北ソト語]]|#FF00FF|9.1}}
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{{bar percent|[[ツォンガ語]]|#00C0C0|4.5}}
{{bar percent|その他|black|9.1}}
}}
 
[[ファイル:South Africa municipalities by language 2001.png|thumb|300px|right
|南アフリカに於ける言語の分布<br />
{{legend|#0080C0|[[アフリカーンス語]]}} <!--blue-->
{{legend|#FF00FF|[[北ソト語]]}} <!--pink-->
{{legend|#7F7F7F|[[ソト語]]}} <!--grey-->
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{{legend|#87870E|[[ヴェンダ語]]}} <!--olive-->
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{{legend|#7FE000|[[ズールー語]]}} <!--green-->
]]
[[ファイル:Stellenbosch Magistrate's Office (entrance).JPG|thumb|[[アフリカーンス語]]、[[英語]]、[[コサ語]]の3か国語による表記。]]
[[公用語]]は[[南アフリカ英語|英語]]、[[アフリカーンス語]]、[[バントゥー諸語]]([[ズールー語]]、[[コサ語]]、[[北ソト語]]、[[ソト語]]、[[スワジ語]]、[[南ンデベレ語]]、[[ツォンガ語]]、[[ツワナ語]]、[[ヴェンダ語]])の11言語。しかし、実質的には公用語として機能しているのは英語のみといえる。
 
1994年の現憲法制定以前はアフリカーンス語と英語が公用語であり両言語が政府、国会、経済、教育、標記、メディアにおいてもほぼ平等に使われていた。1994年の新憲法ではアフリカ諸語の保護育成のための[[多言語]]主義を掲げ、バントゥー諸語9言語が公用語に追加されたが、それまで共通語として機能していたアフリカーンス語を含め公用語の地位は形骸化している。エリート層主体で英語一本化の傾向が強まった結果、[[多言語]]主義の理念とはかけ離れつつあり<ref>[http://www.aa.tufs.ac.jp/documents/jrp/jrp157_03ja.pdf 「多言語状況の比較研究」(平成20年度第3回研究会)][[東京外国語大学]]アジア・アフリカ言語文化研究所</ref>、多言語主義を推奨する機関である[[汎南アフリカ言語委員会]](PANSALB)もほとんど機能不全に陥っている。
 
宗主国イギリスから見た場合に対立する被支配者階層でもあった貧しいボーア人(アフリカーナー)に政治的実権を握らせ、アパルトヘイト政策を行わせることで黒人に対して優位に立たせ、支配階級であるイギリス系への憎悪を軽減させていた。そのアフリカーナーがアパルトヘイトの象徴として政治から失脚したことでアフリカーンス語の地位は低下。一方、宗主国イギリスの言葉である英語の地位はアパルトヘイト撤廃後には大きく上昇と対照的な様態をなしており、英国は宗主国であったにもかかわらず途中からアパルトヘイト反対へ転じたことで、アパルトヘイトの責任を免れ英語が黒人層にまで浸透した。実質的に公用語から剥奪されたアフリカーンス語は公共の場や公的機関、メディア、教育での使用が制限されたことで家庭内や同一コミュニティ内で使われるに過ぎない言語にまで地位が転落するなど、南アフリカ西部の大半の地域において最大の話者数でありながら、その地位は危機的状況にあるとされ、このままいくと言語としては消滅の危機にあるとされる。
 
==== 英語 ====
{{Main|南アフリカ英語}}
[[英語圏]]であるとされる南アフリカであるが、実際には[[南アフリカ英語|英語]]はおもに[[ヨハネスブルク]]や[[ケープタウン]]、[[ダーバン]]を代表とする大都市を中心に、イギリス系を中心とした白人やインド系など全人口の9.6%の人の[[第一言語]]に過ぎず、90%前後の大多数の国民にとっては教育で学ぶ言語である。しかし、イギリスの植民地時代に普及した英語が[[共通語]]的役割を果たし、[[南アフリカ共和国の議会]]や政府の公式言語として全土で使用されているが、貧困層を中心に十分に理解できない層も多く、ある程度の英語を理解できる層は全人口の半数程度に過ぎない<ref>[http://www.kyoto-seika.ac.jp/event/kiyo/pdf-data/no23/kusunose.pdf 南アフリカの言語政策――マルチリンガリズムへの道] [[京都精華大学]] 楠瀬佳子</ref>。全人口に占める割合は2011年のセンサス統計では9.6%と、2001年のセンサス統計の8.2%より大幅に増加しており、[[第一言語]]話者数は2001年の367万3,000人から2011年には489万2,623人まで増加した。主に黒人層の間で社会的価値の低いバントゥー諸語話者から社会的成功のために必須な英語話者へと変化していることが大きいとされる<ref>[http://www.dailymaverick.co.za/article/2013-04-24-sas-shifting-language-landscape/#.UedhDY30GSo SA's shifting language landscape “Afrikaans and English no longer ‘white languages’ Daily Maverick]</ref>。
 
人種別にみると、インド系の86.1%(109万4,317人)、白人の35.9%(160万3,575人)、カラードの20.8%(94万5,847人)の母語となっており、黒人の母語話者(116万7,913人)は黒人人口の2.9%に過ぎないが、近年は急増傾向にある。
 
==== アフリカーンス語 ====
[[オランダ語]]を元に[[マレー人]]奴隷の持ち込んだ[[マレー語]]や英語、バントゥー諸語の影響を受けた[[ゲルマン語派]]の言語である。英語よりも第一言語話者が多く、[[北ケープ州]]と[[西ケープ州]]を中心に[[アフリカーナー]]と[[カラード (南アフリカ共和国)|カラード]]が在住する地域で広く話されている。南アフリカの国土の半分ほどを占める西部地域はアフリカーンス語地域となっており、特に農村部での広がりが目立つ。南アフリカの地名には[[ボーア人]](アフリカーナー)が開拓した土地が多いためにアフリカーンス語のものが多い。
 
以前はアフリカーンス語も英語と並んで共通語としての役割を担っており、事実上の二言語国家体制を敷いていたが、アパルトヘイト撤廃後は、[[ソウェト蜂起]]に代表されるようにアパルトヘイトという負のイメージの象徴としてのアフリカーンス語<ref group="注釈">これをきっかけに、人種差別の圧政言語の象徴としてのアフリカーンス語に対して白人層が使用していたに過ぎない植民地支配の象徴でもある英語が、より自由な解放言語との印象を根付かせたことが現在の英語一本化へとつながっている。</ref>への[[逆差別]]も発生しており、それまで政治的に支配していたアフリカーナーが失脚したことで、その地位は急速に低下している。
 
アフリカーンス語の地名や通りの名は英語やバントゥー諸語の名に変えられ、以前は二言語併記であった政府の公式文書のほか、[[南アフリカ航空]]や[[南アフリカ旅客鉄道公社]]など企業名からも排除された。政界ではかつて[[国民党 (南アフリカ)|国民党]]が支配していたためアフリカーンス語が政界の中心言語であったが、現在は完全に排除されている。国営の[[南アフリカ放送協会]]のテレビ放送も、以前は半分の番組がアフリカーンス語で制作されていたが、現在ではほとんどが英語に変わった。教育機関などにおいても、それまでアフリカーンス語で教育を行っていた学校の閉鎖や英語化が行われ、アフリカーンス語話者にとって母語での教育という選択肢も奪われている。国内の多くの大学でもそれまで行われてきたアフリカーンス語による教育が廃止・削減され、英語へと変わっており、国内最高学府でありアフリカーンス語のみで教育が行われていた[[ステレンボッシュ大学]]においても、英語の使用が認められアフリカーンス語使用率はどんどん縮小している。それに対して、アフリカーンス語話者は教育の地位を奪われていると反発しており、新たなアフリカーンス語の大学の設置運動に対しても黒人がアパルトヘイトの復活であると激しく反発しているなど社会問題となっている。
 
このように、白人の[[アフリカーナー]]のみならず、カラードや一部の黒人などの白人以外の母語でもあり、それまで共通語としても機能していたアフリカーンス語の排除は問題となっており、結果としてアフリカーンス語話者の英語化や海外への大量流出を引き起こしている。このままいくと、およそ国内に第一言語として約600万人、第二言語として約1,000万人もいるアフリカーンス語話者も将来的には国内から絶滅することが危惧されている。
 
上記の事情にもかかわらず、2011年センサスによると、人口に占める割合は13.5%と2001年のセンサスに比べ0.2%増加した。[[第一言語]]話者数も2001年の598万3,000人から2011年には685万5,082人へと増加した。人種別にみると、カラードの75.8%(344万2,164人)、白人の60.8%(271万0,461人)の母語となっており、黒人の母語話者(60万2,166 人)も全体の黒人人口の1.5%に過ぎないものの実数では決して少なくないなど、母語話者数ではカラードが最大を占める等、白人だけの言語とは言えなくなっている。「アパルトヘイトを行った白人の抑圧の言語」というレッテルが間違いであると分かる。
 
==== バントゥー諸語 ====
新言語憲法で公用語に[[バントゥー諸語]]で南バントゥー語群に属する[[ズールー語]]、[[コサ語]]、[[スワジ語]]、[[南ンデベレ語]]、[[北ソト語]]、[[ソト語]]、[[ツワナ語]]、[[ツォンガ語]]、[[ヴェンダ語]]の9言語が指定された。実際、ほとんどの黒人にとっての第一言語・日常言語となっている。中でもズールー語は国内でもっとも多くの人に話されているが、それでも全体の22.7%に過ぎず、それも東部に限定される。コサ語、スワジ語、ンデベレ語、南ンデベレ語もズールー語と同じングニ諸語に属し意思疎通には問題ない。また、北ソト語、ソト語、ツワナ語はソト・ツワナ語群に属し類似性が高い。
 
鉱山労働者によって生み出された{{仮リンク|ファナガロ語|en|Fanagalo}}というズールー語を基盤に英語やアフリカーンス語を混ぜたバンツゥー系の[[ピジン言語]]([[リングワ・フランカ]])もあるが、近年は政府により英語が共通語として強化されているために衰退傾向にある。実際に、2011年のセンサスでは2001年センサスと比較すると、南ンデベレ語、ツォンガ語、ヴェンダ語のみが増加し、それ以外の割合はすべて低下したことから、バントゥー諸語から英語話者へと変わりつつある傾向が見られる。バントゥー諸語話者の黒人層の間では貧困から抜け出すためには英語の習得が必要不可欠となり、その結果、黒人言語の衰退を招くと言う悪循環を招きつつあり、一向に黒人言語の地位は低いままで、状況は改善されていない。黒人エリート層ほどバントゥー諸語を軽視し、英語を重視する傾向が強くなっており、その点では植民地支配を脱してもなお宗主国の言語をより一層重視しているほかの[[ブラックアフリカ]]諸国と共通した問題がある。
 
==== 言語統計 ====
'''南アフリカで使用される言語(2011年統計)'''<ref name="#2"/><ref>[http://www.southafrica.info/about/people/language.htm#.UedNBI30GSo 南アフリカの言語]</ref>
{| class="wikitable" style="margin: 1em 1em 1em 0; background: #f9f9f9; border: 1px #aaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 95%; text-align: left"
!style="background-color:#E9E9E9"|言語
!style="background-color:#E9E9E9" align=right|話者人口
!style="background-color:#E9E9E9" align=right|%
!style="background-color:#E9E9E9" align=right|話者が多い州(州全体の中の割合)
|-
|[[ズールー語]]||align=right|11,587,374||align=right|22.7%||[[クワズール・ナタール州]]77.8%、[[ムプマランガ州]]24.1%、[[ハウテン州]]19.8%
|-
|[[コサ語]]||align=right|8,154,258||align=right|16.0%||[[東ケープ州]]78.8%、[[西ケープ州]]24.7%、[[フリーステイト州]]7.5%、ハウテン州6.6%、[[北西州 (南アフリカ)|北西州]]5.5%、[[北ケープ州]]5.3%
|-
|[[アフリカーンス語]]||align=right|6,855,082||align=right|13.5%||北ケープ州53.8%、西ケープ州49.7%、フリーステイト州12.7%、ハウテン州12.4%、東ケープ州10.6%、北西州9.0%、ムプマランガ州7.2%
|-
|[[英語]]||align=right|4,892,623||align=right|9.6%||西ケープ州20.2%、ハウテン州13.3%、クワズール・ナタール州13.2%、東ケープ州5.6%
|-
|[[北ソト語]] ||align=right|4,618,576||align=right|9.1%||[[リンポポ州]]52.9%、ハウテン州10.6%、ムプマランガ州9.3%
|-
|[[ツワナ語]]||align=right|4,067,248||align=right|8.0%||北西州63.4%、北ケープ州33.1%、ハウテン州9.1%、フリーステイト州5.2%
|-
|[[ソト語]]||align=right|3,849,563||align=right|7.6%||フリーステイト州64.2%、ハウテン州11.6%、北西州5.8%
|-
|[[ツォンガ語]]||align=right|2,277,148||align=right|4.5%||リンポポ州17.0%、ムプマランガ州10.4%、ハウテン州6.6%
|-
|[[スワジ語]]||align=right|1,297,046||align=right|2.5%||ムプマランガ州27.7%
|-
|[[ヴェンダ語]]||align=right|1,209,388||align=right|2.4%||リンポポ州16.7%
|-
|[[南ンデベレ語]]||align=right|1,090,223||align=right|2.1%||ムプマランガ州10.1%
|-
|その他の言語||align=right|1,062,913||align=right|2.1%||
|-
|'''合計'''||align=right|'''50,961,443'''||align=right|'''100.0%'''||
|}
 
'''都市圏で使用される言語(2011年統計)'''<ref>[http://census2011.adrianfrith.com/ 南アフリカ共和国 センサス2011]</ref>
{| class="wikitable" style="margin: 1em 1em 1em 0; background: #f9f9f9; border: 1px #aaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 95%; text-align: left"
!style="background-color:#E9E9E9"|都市圏名
!style="background-color:#E9E9E9"|人口
!style="background-color:#E9E9E9"|母語話者の割合%
|-
|[[ヨハネスブルク]]||align=right|4,434,827||align=left|[[ズールー語]]23.41%、[[英語]]20.10%、[[ソト語]]9.61%、[[ツワナ語]]7.68%、[[アフリカーンス語]]7.28%、[[北ソト語]]7.26%、[[コサ語]]6.83%、ツォンガ語6.58%
|-
|[[ケープタウン]]||align=right|3,740,026||align=left|[[アフリカーンス語]]35.7%、[[コサ語]]29.8%、英語28.4%
|-
|[[エテクウィニ都市圏|エテクウィニ]]||align=right|3,442,361||align=left|[[ズールー語]]62.82%、英語26.77%、[[コサ語]]3.91%、[[アフリカーンス語]]1.72%
|-
|[[エクルレニ]]||align=right|3,178,470||align=left|[[ズールー語]]28.81、英語11.99%、[[アフリカーンス語]]11.92%、[[北ソト語]]11.40%、[[ソト語]]10.02%、[[コサ語]]8.02%、[[ツォンガ語]]6.63%、[[ツワナ語]]2.87%
|-
|[[ツワネ]]||align=right|2,921,488||align=left|[[北ソト語]]19.91%、[[アフリカーンス語]]18.83%、[[ツワナ語]]15.05%、[[ツォンガ語]]8.64%、英語8.58%、[[ズールー語]]8.51%、[[南ンデベレ語]]5.74%、[[ソト語]]5.28%
|-
|[[ネルソン・マンデラ・ベイ]]||align=right|1,152,115||align=left|[[コサ語]]53.92%、[[アフリカーンス語]]29.34%、英語13.46%
|-
|[[バッファローシティー (南アフリカ)|バッファローシティー]]||align=right|755,200||align=left|[[コサ語]]78.83%、英語11.00%、[[アフリカーンス語]]7.17%
|-
|[[マンガウング]]||align=right|747,431||align=left|[[ソト語]]53.27%、[[アフリカーンス語]]16.23%、[[ツワナ語]]12.64%、[[コサ語]]9.91%、英語4.31%
|-
|}
 
'''おもな地区・旧都市で使用される言語(2011年統計)'''
{| class="wikitable" style="margin: 1em 1em 1em 0; background: #f9f9f9; border: 1px #aaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 95%; text-align: left"
!style="background-color:#E9E9E9"|地域・都市名
!style="background-color:#E9E9E9"|人口
!style="background-color:#E9E9E9"|母語話者の割合%
|-
|[[ヨハネスブルク]]||align=right|957,441||align=left|[[英語]]31.14%、[[ズールー語]]19.60%、[[アフリカーンス語]]12.11%、[[コサ語]]5.23%、[[南ンデベレ語]]4.95%、[[北ソト語]]4.45%、[[ソト語]]4.51%、[[ツワナ語]]4.10%、ツォンガ語3.28%
|-
|[[ダーバン]]||align=right|595,061 ||align=left|[[英語]]49.75%、[[ズールー語]]33.12%、[[コサ語]]5.92%
|-
|[[ケープタウン]]||align=right|433,688||align=left|[[英語]]67.68%、[[アフリカーンス語]]22.53%
|-
|[[サントン]]||align=right|222,415||align=left|[[英語]]63.91%、[[アフリカーンス語]]7.40%、[[ズールー語]]6.29%
|-
|[[プレトリア]]||align=right|741,651||align=left|[[アフリカーンス語]]47.67%、[[英語]]16.38%、[[北ソト語]]8.02%、[[ツワナ語]]5.44%
|-
|[[ポート・エリザベス]]||align=right|312,392||align=left|[[アフリカーンス語]]40.19%、[[英語]]33.25%、[[コサ語]]22.24%
|-
|[[ブルームフォンテーン]]||align=right|256,185||align=left|[[アフリカーンス語]]42.53%、[[ソト語]]33.36%、[[英語]]7.47%、[[コサ語]]7.10%、[[ツワナ語]]5.87%
|-
|[[ステレンボッシュ]]||align=right|155,733||align=left|[[アフリカーンス語]]67.66%、[[コサ語]]20.78%、英語7.22%
|-
|[[キンバリー]]||align=right|96,977||align=left|[[アフリカーンス語]]55.48%、[[ツワナ語]]18.74%、英語15.56%
|-
|[[ネルスプロイト]]||align=right|58,672||align=left|[[アフリカーンス語]]40.19%、英語33.25%、[[スワジ語]]20.2%
|-
|[[ソウェト]]||align=right|1,271,628||align=left|[[ズールー語]]37.07%、[[ソト語]]15.53%、[[ツワナ語]]12.87%、[[ツォンガ語]]8.86%、[[コサ語]]8.68%、[[南ンデベレ語]]4.95%、[[北ソト語]]5.14%、[[ヴェンダ語]]4.48%
|-
|[[ピーターマリッツバーグ]]||align=right|223,448||align=left|[[ズールー語]]57.03%、英語28.94%
|-
|[[ポロクワネ]]||align=right|628,999||align=left|[[北ソト語]]80.36%、[[アフリカーンス語]]5.45%
|-
|[[ルステンブルク]]||align=right|549,575||align=left|[[ツワナ語]]53.93%、[[アフリカーンス語]]9.91%、[[コサ語]]9.60%、[[ツォンガ語]]5.60%、英語5.35%
|-
|[[イースト・ロンドン]]||align=right|267,007||align=left|[[コサ語]]61.77%、英語21.21%、[[アフリカーンス語]]13.25%
|-
|}
 
=== 結婚 ===
[[一夫多妻]]の習慣がある[[部族]]に限って複数の女性と婚姻関係を結ぶことが認められており、第12代大統領の[[ジェイコブ・ズマ]]は3人の妻がいることでも有名である。
 
伝統的に慣習法では、結婚した女性はその夫の家族姓を称することができるが義務ではなく、[[夫婦別姓]]を選択することも可能である。
 
2006年からは、同性同士の結婚([[同性婚]])も認められるようになった。
 
=== 宗教 ===
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の宗教|en|Religion in South Africa}}}}
2015年のセンサスによれば、人口の約86%がキリスト教徒、[[アニミズム]]や[[祖先崇拝]]・伝統的なアフリカの宗教が5.4%、イスラム教徒が1.9%、他の宗教が1.5%、[[無宗教]]が5.2%であった<ref name=2019cia/>。その他の宗教として[[インド系南アフリカ人]]の[[ヒンドゥー教]]や、[[南アフリカ共和国のユダヤ人の歴史|ユダヤ系南アフリカ人]]の[[ユダヤ教]]などが存在する。
 
=== 教育 ===
[[ファイル:Old Arts Faculty Building, University of Pretoria.jpg|right|thumb|200px|[[プレトリア大学]]]]
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の教育|en|Education in South Africa}}}}
アパルトヘイト時代には黒人は事実上[[義務教育]]の対象ではなく、今日まで続く深刻な貧困の原因となっている。アパルトヘイト撤廃後、膨大な国家予算を教育費に充て、黒人への教育が強化され[[就学率]]は95%まで上昇した。しかしながら、成人の過半数はまともな教育を受けてこなかったために、深刻な失業率などをもたらす原因として大きな問題となっている。
 
[[教授言語]]は、[[初等教育]]は各民族語で受け、3年次より外国語としての[[英語]]教育が開始され、初等教育4年次より、中等・高等教育まで基本的にすべての科目の教授言語は英語(少数はアフリカーンス語)となる。社会参加に必要な英語やアフリカーンス語を十分に理解する層は全人口の半数以下に過ぎず、アフリカ諸語しか話せない層への社会参加を阻んでいるなど、大きな問題となっている。
 
2017年の推計によれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は87.0%(男性:87.7%、女性:86.5%)である<ref name=2019cia>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/sf.html CIA World Factbook "South Africa"]2020年5月25日閲覧。</ref>。2018年の教育支出はGDPの6.2%だった<ref name=2019cia/>。
 
[[大学]]は全部で23あり、[[ケープタウン大学]]、[[プレトリア大学]]、[[ステレンボッシュ大学]]、{{仮リンク|ウィットウォーターズランド大学|en|University of the Witwatersrand}}などが著名である。ステレンボッシュ大学、フリーステート大学、北西大学、プレトリア大学ではアフリカーンス語でも授業が行われている。しかし、[[ソウェト蜂起]]に発するようにアパルトヘイトの象徴ともされるアフリカーンス語による授業は縮小傾向にあり、英語にとって代わられつつある。特に[[経済的解放の闘士]](EFF)のような黒人過激派政党によりアフリカーンス語で行う学校への襲撃等も頻発し社会問題となっている<ref>{{Cite web|url=https://mg.co.za/article/2018-01-17-hoerskool-overvaal-parent-assaulted-as-eff-members-protest-outside-school |title=EFF and ANC protestors injured, arrested during Hoërskool Overvaal protest Mail & Guardian|date=2018-01-17|accessdate=2019-10-06}}</ref>。その対象は初中等教育にも及び、それらの過激派はアフリカーンス語学校の存在は黒人差別であるとしてアフリカーンス語学校の英語化を主張している。このような動きから国内のアフリカーンス語による教育は衰退の危機にあり、人口規模では白人を超え最大話者数のカラードの大半の母語ともされるアフリカーンス語の教育からの排除は新たな分断の懸念をもたらしている。
 
=== 保健 ===
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の保健|en|Health in South Africa}}}}
 
==== 医療 ====
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の医療|en|Healthcare in South Africa}}|{{仮リンク|南アフリカ共和国の精神医療|en|Mental health care in South Africa}}}}
{{節スタブ}}
南アフリカ共和国は医学において、世界で初めて[[心臓移植]]を行った国でもある。[[1967年]]12月、黒人の女性ドナーより提供を受けて心臓病の白人の男性に移植を行った。背景には南アフリカに横たわる黒人と白人の差別があった<ref>[[吉村昭]]著『神々の沈黙―心臓移植を追って』([[文春文庫]])および『消えた鼓動―心臓移植を追って』([[ちくま文庫]])</ref>。
 
==== HIV/AIDSの蔓延 ====
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国のHIV/AIDS|en|HIV/AIDS in South Africa}}}}
[[ヒト免疫不全ウイルス|HIV]]の陽性率は非常に高く、15 - 49歳女性のHIV感染率が2019年で22.83%(STATISTICAL RELEASE P0302 Mid-year population estimates 2020(南アフリカ統計局)<ref name="P0302">{{Cite report|author=南アフリカ統計局|date=2020-07-09|title=STATISTICAL RELEASE P0302 Mid-year population estimates 2020|url=http://www.statssa.gov.za/publications/P0302/P03022020.pdf|pages=3,7,24|format=PDF|accessdate=2020-09-19}}</ref>)、妊産婦HIV感染率が2011年で29.5%(The 2011 National Antenatal Sentinel HIV & syphilus prevalence survey in South Africa(National Department of Health of South Africa)<ref>The 2011 National Antenatal Sentinel HIV & syphilus prevalence survey in South Africa, National Department of Health of South Africa http://www.doh.gov.za {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120103092543/http://doh.gov.za/ |date=2012-01-03}}</ref>)となっており、2020年時点で国民全体の約13.01%(約776万人)がHIVに感染している<ref name="P0302" />。感染経路として成人は性交渉による感染が多い。
 
エイズの蔓延によって、2010年までに国民全体の[[平均寿命]]は40歳以下に低下すると予想されていたが、エイズによる死者数が2006年(27万5,100人、死者に占める割合:約39.6%)をピークに減少したため、2020年の平均寿命は男性で64.6歳、女性は71.3歳となっている<ref name="P0302" />。
 
== 治安 ==
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国における犯罪|en|Crime in South Africa}}}}
2019年4月~2020年3月における[[犯罪]]統計によれば、[[コンタクト・クライム]]([[殺人]]、[[強盗]]、[[傷害]]、[[性犯罪]]等の身体に直接係わる犯罪)の発生件数は、前年比で0.7%増加し、殺人については、1日辺りの発生件数は殺人58件、同未遂51件と高い水準にある。また、性犯罪1.7%、強盗2.8%、殺人1.4%、暴行2.1%と、各種犯罪が増加しており、コンタクト・クライムの悪化傾向が顕著となっている。強盗の発生数を主要手口別に見た場合、一般住宅を狙った侵入強盗が最も多く、次いで[[ショッピングモール]]等における屋内強盗、[[カージャック]]の順に多く発生しており、2012年以降増加傾向が続いている事が確認されている。カージャック被害は前年より若干減少しているものの高止まりの状況であり、凶悪犯罪の増加は、南アフリカ国民だけでなく、日本人を含む外国人の生活および治安を直に脅かすものとなっている。
 
更には[[誘拐]]も年々増加しており、ヨハネスブルクが所在するハウテン州、ダーバンが所在するクワズール・ナタール州、ケープタウンが所在する西ケープ州で顕著となっている。
 
これらの事から、アフリカ大陸国家における犯罪事案では強盗、性的、カージャック目的で起こされる事件が最も多いことが報告されている<ref>{{Cite web|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_122.html#ad-image-0|title=南アフリカ共和国 危険・スポット・広域情報(海外安全ホームページ)|accessdate=2022-10-08|publisher=外務省}}</ref>。
{{節スタブ}}
 
=== 犯罪問題 ===
アパルトヘイト廃止後に起きた失業問題により、南アフリカでは急速に治安が悪化した。現在、[[ヨハネスブルグ]]をはじめとして南アフリカの都市では、殺人、強盗、強姦、麻薬売買などの凶悪犯罪が昼夜を問わず多発している。凶悪犯罪においても、軒並み世界平均件数と比べて異常に高い犯罪率となっている。
 
[[2018年]][[9月11日]]に公表された南アフリカ政府公式統計によると、2017年4月から2018年3月までに殺害された人々の数は計2万336人で、2016年4月から2017年3月まで前回の統計における1万9,016人から増加し、1日に約57人が殺害されている。犯罪発生率は前回の統計から6.9%増加し、アパルトヘイト廃止後最悪となった。[[:en:Bheki Cele|ベキ・ツェレ]]警察相は2018年9月に「南アフリカは平和であり、戦争も起きていないが、戦争に近い域にある」「毎日乗り物を乗っ取られたり、強盗やレイプに遭ったり、殺害される 」など、平時にもかかわらず戦時レベルの治安であることが普通になっていることへの強い危機感を述べている<ref name=":0">{{Cite news|title=南アフリカ、殺人事件の死者は1日当たり57人「戦争に近い域」 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3189269|accessdate=2019-09-07|language=ja-JP|work=[[AFP通信]]}}</ref>。
 
その発表後の南アフリカ犯罪統計(南アフリカ警察当局発表)<ref>{{Cite web|author=[[:en:South African Police Service|南アフリカ警察]]|url=https://www.saps.gov.za/services/crimestats.php|title=CRIME STATISTICS: INTEGRITY(犯罪統計:完全な状態)|format=Excel,PDF|accessdate=2020-09-19}}</ref>によると、2019年4月 - 2020年3月までに警察が把握しただけで2万1,325件の[[殺人]]既遂事件が、未遂事件は1万8,635件が発生しており、発表後も既遂事件は増加している(前年統計に比べ既遂は1.4%増加、未遂は1.8%減少)。1日に既遂は約58.4件、未遂は約51.1件が被害が発生している計算である。更に人口10万人当たりは、未遂を含め68.24件と日本(950件、0.75件/10万人[2019年]<ref name="population-f">{{Cite web|last=総務省統計局|title=令和2年3月報 (令和元年10月確定値,令和2年3月概算値)|url=https://www.stat.go.jp/data/jinsui/pdf/202003.pdf
|date=2020年3月23日|accessdate=2020年7月19日}}</ref><ref name="R1 zantei hanzaitoukei">{{Cite web|author=警察庁刑事局捜査支援分析管理官|authorlink=警察庁刑事局|title=平成31年1月~ 令和元年12月犯罪統計【確定値】|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00130001&tstat=000001137147&cycle=0&year=20190&month=0|date=2020年2月10日|accessdate=2020年2月10日}}</ref>)の約91倍となっている。<br />[[強盗]]認知件数は19万5,815件であり、1日の強盗発生数は約536.5件に上った。その内、武器を使用した強盗は14万3,990件で7割以上が拳銃などの武器が使用されたと発表されている。中には、全員が[[自動小銃]]で武装した強盗グループといった、現場の警察官では対応が出来ないケースもある。さらにほとんどの場合、犯罪者は発砲をまったく躊躇しないためきわめて危険である。<br />[[強姦]]については、認知件数は4万2,289件であり、発生率についても72.22件/10万人となっており、日本(1,405件、1.11件/10万人[2019年]<ref name="population-f" /><ref name="R1 zantei hanzaitoukei" />)の約65倍である。更に、強姦以外の性犯罪を含めた場合、5万3,293件であり、発生率は91.01件/10万人となっており、日本(6,305件、5.00件/10万人[2019年]<ref name="population-f" /><ref name="R1 zantei hanzaitoukei" />)の約18倍である。
 
南アフリカの男性の4人に1人を上回る27%が、「過去に成人女性または少女をレイプしたことがある」と回答している<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/090619/mds0906190901001-n1.htm 「南ア男性の4人に1人がレイプ経験者 研究機関調査」]『[[産経新聞]]』2009年6月19日</ref>。また、比較的安全と思われる高級ホテルの中ですら、従業員が鍵を開けて客室に侵入し、女性旅行客をレイプし殺害するといった事件も発生している。2010年11月26日に発表された、ヨハネスブルグやハウテン州などで南アフリカ政府によって行われた調査によると、男性は3人に1人を上回る37.4%が過去に女性をレイプした経験があると回答(男性の7%が集団レイプの経験があると回答)、さらに女性は25.3%がレイプされた経験があると回答した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/101127/mds1011271706003-n1.htm 「3人に1人レイプ認める 南ア男性、性暴力が蔓延」]『産経新聞』2010年11月27日</ref>。被害者の中には報復や二次被害を恐れて報告しないケースもあるため、実際にはさらに多いと思われる。
 
警察当局では治安改善を図るため、警察官の大量採用や防犯カメラの設置などの対策を実施しているが、依然として治安の悪い状態が続いている<ref>{{cite news |title=若者が少女を集団レイプ、携帯で映した動画出回る 南ア |newspaper=[[CNN]] |date=2013-4-19 |url=http://www.cnn.co.jp/world/30006304.html|accessdate=2013-5-1}}</ref>。
 
上記のように凶悪犯罪が多発していることから、警察で捜査の時間を確保するため軽犯罪の取り締まりは手薄となっている。特に不法滞在者に関しては数が多すぎるため、半ば放置されている<ref name=":1">{{Cite web|title=衝撃の結末…!17年間逃亡を続けた猟奇殺人犯がコロナ禍に劇的逮捕された「全真相」(原 雄一) @gendai_biz|url=https://gendai.media/articles/-/83969|website=現代ビジネス|accessdate=2021-07-04}}</ref>。このため他国の犯罪者が逃亡先として南アフリカを選択する事例もある。
{{See also|{{仮リンク|南アフリカ犯罪博覧会|en|Crime Expo South Africa}}}}
 
=== 白人への攻撃激化 ===
2017年には72人の白人が殺害されている。2011年から毎年増加し始めているこの問題への対策を求めて、南アフリカ政府に白人数百人がデモを行っている<ref>{{Cite web|title=南アで白人農民の殺害相次ぐ、今年に入って72人 抗議のデモ|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3153041|website=www.afpbb.com|accessdate=2021-07-04|language=ja}}</ref>。2017年12月には与党アフリカ民族会議(ANC)の新議長に就任したシリル・ラマポーザ副大統領が国民の8割以上を占める黒人のために、[[ジンバブエ]]では農地を荒廃させて経済も崩壊させた「白人の土地の取り上げ」を行うことを明言した<ref>{{Cite web |title=南ア男性4人に1人が「レイプ経験ある」、調査報告 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2612876 |website=www.afpbb.com |access-date=2023-01-12 |language=ja}}</ref>。1998年から2016年末までに農家,1187人、その家族490人、農場従業員147人、農場にいた24人、少なくとも1848人が殺害されている。2010年に経済的解放の闘士(EFF)の党首ジュリアス・マレマ(Julius Malema)は「革命的な歌だが、今は大量虐殺を宣告する」「白人を殺す」と謳っている。白人農家が殺害・追放されたジンバブエと同様の道を辿ることが危惧されている<ref>‘Bury them alive!’: White South Africans fear for their future as horrific farm attacks escalate [http://www.news.com.au/finance/economy/world-economy/bury-them-alive-white-south-africans-fear-for-their-future-as-horrific-farm-attacks-escalate/news-story/3a63389a1b0066b6b0b77522c06d6476]</ref>。
 
これを受け、スィドランダーズ(Suidlanders、「南の民」の意味)なる白人の互助団体がインターネット上で誕生したほか、南アフリカ共和国(の白人社会)と伝統的に関係の深いイスラエルの元軍人などから、イスラエル発祥の[[クラヴ・マガ]]や射撃といった護身術のトレーニングを受けるなど、白人が政府に頼らず自衛を進めていく動きが出ている。
 
=== 警察 ===
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の警察|en|South African Police Service}}}}
南アフリカの警察組織・警備会社は上述の犯罪問題により、強力な武装化をしている場合が多い{{要出典|date=2018年3月}}。たとえば、一般警察官としての通常の携行装備である[[拳銃]]や[[警棒]]以外で[[ライフル銃]]や[[スタンガン]]、時には[[手榴弾]](俗語でパイナップル)を所持している場合がある。また、南アフリカで活動する[[警備会社]]は9,000以上で、働く[[警備員]]の数は40万人と、警察官や国防軍の兵士よりも多いとされている<ref>{{cite news|title=Bigger than the army: South Africa's private security forces|url=http://edition.cnn.com/2013/02/08/business/south-africa-private-security|publisher=[[CNN]]|accessdate=3 May 2013|date=8 February 2013}}</ref>。
 
=== 人権 ===
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国における人権|en|Human rights in South Africa}}}}南アフリカは死刑を廃止しており、日本人の殺人犯が国内に不法滞在した事例では、日本の死刑制度を理由に引き渡しには[[死刑]]を求刑しないという確約を要求している<ref name=":1" />。{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|南アフリカ共和国における人身売買|en|Human trafficking in South Africa}}|{{仮リンク|プリズム・プロジェクト|en|Prizm Project}}}}
 
== マスコミ ==
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国のメディア|en|Mass media in South Africa}}}}
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|南アフリカ共和国のメディアの一覧|en|List of South African mass media}}}}
 
== 文化 ==
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の文化|en|Culture of South Africa}}}}
{{節スタブ}}
 
=== 食文化 ===
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国の料理|en|South African cuisine}}}}
{{節スタブ}}
{{See also|南アフリカ共和国のワイン}}
 
=== 文学 ===
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ文学|en|Literature of South Africa}}}}
{{See also|アフリカ文学}}
[[ファイル:J.M. Coetzee.JPG|thumb|180px|[[ノーベル文学賞]]受賞作家、[[J・M・クッツェー]]]]
南アフリカは[[ナイジェリア]]と同様に、ブラックアフリカでは例外的に出版業の生産、流通システムが確立しており、自国内に文学市場が存在する国である<ref>砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]編 [[明石書店]] 2002年12月</ref>。
 
文字による南アフリカ文学は、南アフリカの強固なアパルトヘイトの影響により、白人文学と黒人文学に分離したものとして考えられている<ref>小林信次郎「アフリカ文学 黒人作家を中心として」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志編 明石書店 2002年12月</ref>。20世紀半ば頃から都市黒人によってアパルトヘイトを描いた文学が文字によって生み出されるようになり、1970年代の[[黒人意識運動]]([[スティーヴ・ビコ]])以降もこの潮流は基本的には途絶えることはなかった。代表的な黒人作家としては『我が苦悩の二番通り』(1959年) の[[エスキア・ムパシェーレ]]、『[[アマンドラ]]』(1980年)で[[ソウェト蜂起]]を描いた女性作家の[[ミリアム・トラーディ]]、『愚者たち』(1983年)の[[ジャブロ・ンデベレ]]、[[マジシ・クネーネ]]、ANCの活動家であり、アパルトヘイト政権によって処刑された詩人の[[モロイセ]]が、白人作家としては『[[ツォツィ]]』の[[アソル・フガード]]、女性作家の[[メナン・デュ・プレシス]]などの名が挙げられる。また、[[ノーベル文学賞]]受賞作家として『保護管理人』(1974年)の[[ナディン・ゴーディマー]]と『マイケル・K』(1983年)や『恥辱』(1999年)の[[J・M・クッツェー]]の名が挙げられる。
 
=== 音楽 ===
{{Main|南アフリカの音楽}}
{{節スタブ}}
[[ポピュラー音楽]]においては、1930年代に[[アフリカ系アメリカ人]]の音楽の影響を受け、{{仮リンク|マラビ (音楽)|en|Marabi|label=マロンボ}}や{{仮リンク|クウェラ|en|Kwela}}と呼ばれるダンス音楽が成立した。
 
現代[[ポピュラー音楽]]の[[ミュージシャン]]としては、男性のみによる[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]グループの[[レディスミス・ブラック・マンバーゾ]]、女性シンガーであり、「パタ・パタ」で知られる[[ミリアム・マケバ]]、[[ブレンダ・ファッシー]]([[:en:Brenda Fassie|Brenda Fassie]])、[[イヴォンヌ・チャカ・チャカ]]([[:en:Yvonne Chaka Chaka|Yvonne Chaka Chaka]])などが世界的にもよく知られている。
 
[[シクスト・ロドリゲス]]([[:en:Sixto Rodriguez]])が人気である。
 
=== 映画 ===
{{See also|アフリカ映画}}
南アフリカ出身の特に著名な映像作家として『[[ツォツィ]]』(2005年)の[[ギャヴィン・フッド]]の名が挙げられる。また南アフリカを舞台にしたSF映画『[[第9地区]]』は2009年度の[[アカデミー賞]]の各部門にノミネートされた。
 
その他に国外の映像作家によって南アフリカを描いた映画として、
* [[リチャード・アッテンボロー]]『[[遠い夜明け]]』(1987年)
* [[ジョン・ブアマン]]『[[イン・マイ・カントリー]]』(2004年)
* [[ビレ・アウグスト]]『[[マンデラの名もなき看守]]』(2007年)
* [[トム・ホッパー]]『[[ヒラリー・スワンク IN レッド・ダスト]]』(2007年)
* [[クリント・イーストウッド]]『[[インビクタス/負けざる者たち]]』(2009年)
などが挙げられる。
 
=== 世界遺産 ===
{{main|南アフリカ共和国の世界遺産}}
南アフリカ共和国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が4件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が3件、[[複合遺産 (世界遺産)|複合遺産]]が1件存在する。
 
<gallery mode="packed">
ファイル:St Lucia Estuary ISS006-E-38182.jpg|[[イシマンガリソ湿地公園]] - (1999年、自然遺産)
ファイル:SterkfonteinCave.jpg|[[南アフリカの人類化石遺跡群]] - (1999年、文化遺産)
ファイル:Robben island from table mountain.jpg|[[ロベン島]] - (1999年、文化遺産)
ファイル:Drakensburgmountains.jpg|[[マロティ=ドラケンスバーグ公園]] - (2000年・2013年、複合遺産)
ファイル:MapungubweHill.jpg|[[マプングブエ]]の文化的景観 - (2003年、文化遺産)
ファイル:Fynbos.jpg|[[フィンボス|ケープ植物区系地方の保護地区群]] - (2004年、自然遺産)
ファイル:Vredefort Dome STS51I-33-56AA.jpg|[[フレデフォート・ドーム]] - (2005年、自然遺産)
ファイル:Tylecodon paniculatus-PICT2534.jpg|[[リフタスフェルト]]の文化的・植物的景観 - (2007年、文化遺産)
</gallery>
 
=== 祝祭日 ===
{| style="text-align:left;" class="wikitable"
|-
! colspan="7" style="font-weight:bold; font-size:120%;" | 祝祭日
|-
| style="background:#efefef;" | 日付
| style="background:#efefef;" | 日本語表記
| style="background:#efefef;" | 現地語表記
| style="background:#efefef;" | 備考
|-
|[[1月1日]]||元日||New Year's Day||
|-
|[[3月21日]]||人権の日||Human Rights Day||
|-
|[[移動祝日]]||[[聖金曜日]]||Good Friday||
|-
|移動祝日||[[復活祭]]月曜日||Easter Monday||
|-
|[[4月12日]]||家族の日||Family Day||
|-
|[[4月27日]]||[[自由の日 (南アフリカ)|自由の日]]||Freedom Day||
|-
|[[5月1日]]||[[メーデー]]||Workers' Day||
|-
|[[6月16日]]||青年の日||Youth Day||
|-
|[[8月9日]]||女性の日||National Women's Day||
|-
|[[9月24日]]||伝統文化継承の日||Heritage Day||
|-
|[[12月16日]]||和解の日||Day of Reconciliation||
|-
|[[12月25日]]||[[クリスマス]]||Christmas Day||
|-
|[[12月26日]]||親善の日||Day of Goodwill||
|}
 
== スポーツ ==
{{Main|南アフリカ共和国のスポーツ}}
{{See also|オリンピックの南アフリカ選手団}}
[[ファイル:First game of the 2010 FIFA World Cup, South Africa vs Mexico.jpg|thumb|200px|right|[[2010 FIFAワールドカップ]]開幕戦「[[サッカー南アフリカ代表|南アフリカ]]対[[サッカーメキシコ代表|メキシコ]]」]]
[[ファイル:Vuvuzela blower, Final Draw, FIFA 2010 World Cup.jpg|thumb|200px|[[ブブゼラ]]を吹く南アフリカのサポーター (2010年)]]
 
=== サッカー ===
{{Main|{{仮リンク|南アフリカ共和国のサッカー|en|Soccer in South Africa}}}}
[[サッカー]]は[[イギリス]]統治時代にもたらされて以降、南アフリカで1番人気の[[スポーツ]]となっている。[[南アフリカ共和国サッカー協会]](SAFA)によって構成される[[サッカー南アフリカ共和国代表]]は、「バファナ・バファナ」の愛称で国民から親しまれており、これは[[ズールー語]]で「少年たち」を意味する。[[アフリカネイションズカップ]]においては10度の出場歴があり、自国開催となった[[アフリカネイションズカップ1996|1996年大会]]では初優勝に輝いている。
 
[[2010年]]には'''[[アフリカ大陸]]初'''となる『[[2010 FIFAワールドカップ]]』が開催された。開幕戦では強豪[[サッカーメキシコ代表|メキシコ代表]]を相手に、[[シフィウェ・チャバララ]]の大会第1号ゴールなどで引き分けるなど健闘したが<ref>[http://www.daily.co.jp/soccer/2010/06/13/0003085641.shtml チャバララ開幕弾!南アはドロー発進] デイリースポーツ、2010年6月12日</ref>、その後連敗し[[FIFAワールドカップ|W杯]]史上初となる開催国のグループリーグ敗退となった。さらに同国の[[サッカー文化 #サポーター|サポーター]]が応援時に使用した'''[[ブブゼラ]]'''という[[楽器]]も<ref>{{Cite web|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2737292?pid=5906670|title=ブブゼラの「発明者」は南アの教会創始者、メーカー1社と合意|date=2010-06-23|accessdate = 2010-06-27}}</ref>、世界中で話題となった。
 
=== ラグビー ===
南アフリカ国内ではサッカーが老若男女問わず圧倒的に人気となっているが、2番目に盛んなのはこの[[ラグビーユニオン|ラグビー]]である。[[ラグビー南アフリカ共和国代表]]は[[ラグビーワールドカップ|ワールドカップ]]には、自国開催となった[[ラグビーワールドカップ1995|1995年大会]]で初優勝を果たした。さらに[[ラグビーワールドカップ2007|2007年フランス大会]]や[[ラグビーワールドカップ2019|2019年日本大会]]でも優勝するなど、[[ラグビーニュージーランド代表|ニュージーランド代表]]と並び世界トップクラスの実力を誇っている。
 
=== クリケット ===
南アフリカでは[[クリケット]]も人気スポーツのうちの一つである。[[2003年]]には[[クリケット・ワールドカップ|ワールドカップ]]を[[ジンバブエ]]や[[ケニア]]と共同開催した。[[ジャック・カリス]]は南アフリカを代表する選手であり、クリケットの歴史の中においても屈指のオールラウンダーである<ref>[https://www.bbc.co.uk/programmes/articles/2V6BjFgdJ5KcfVHhR3bwBLz/the-greatest-cricketer-of-all-time-your-votes-revealed The Greatest Cricketer of All Time – your votes revealed!] [[BBC]]. 2020年6月15日閲覧。</ref>。
 
=== モータースポーツ ===
[[file:Toyota Hilux Dakar Rally, IAA 2017, Frankfurt (1Y7A3203).jpg|200px|thumb|right|TOYOTA GAZOO Racing SAの[[トヨタ・ハイラックス]] (2017年)]]
かつて[[フォーミュラ1|F1]]・[[南アフリカグランプリ]]と、[[ロードレース世界選手権|ロードレース]](WGP)・[[南アフリカグランプリ (ロードレース)|南アフリカグランプリ]]が開催されていた。特にF1は[[1962年]]から長きに渡り開催されていたが、[[アパルトヘイト]]政策への抗議もあり[[1985年]]のレースを最後に中断。のちに復活したが現在は終了している。[[1979年]]のF1ワールドチャンピオンの[[ジョディー・シェクター]]は同国出身であり、[[1975年]]の同グランプリを制している。なお、[[カーデザイナー]]としてF1で一時代を築いた[[ロリー・バーン]]と[[ゴードン・マレー]]の両者も同国出身である。
 
未舗装路が多いため[[ラリー]]、[[ラリーレイド]]、[[エンデューロ]]、[[モトクロス]]といったオフロード系カテゴリの人気が高い。南アフリカラリー選手権は1960年代から開催され、その頃から日本車も多数活躍した。国際戦としてはIRC([[インターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ]])の開幕初年度の第一戦が[[ズールー]]で行われ、その後一世を風靡する[[スーパー2000]]規定の初陣を飾った。2017年公開の邦画『[[OVER DRIVE (映画)|OVER DRIVE]]』では、南アフリカでチャンピオンマシンとなった[[トヨタ・ヤリス]](当時の日本名は[[ヴィッツ]])のスーパー2000規定車両が輸入されて主人公のマシンのモデルとして用いられた。
 
ラリーレイド(クロスカントリー)では同国で人気が高く製造も行われているバッキー([[ピックアップトラック]]の同国での呼び名)によって争われることが多い。また[[トヨタ]]と[[日産自動車|日産]]は南アフリカ法人主体のチームでラリーレイドの国際戦に参戦し、トヨタは2022年に[[ダカール・ラリー]]と[[世界ラリーレイド選手権]]の両方を制覇した。レッドラインやセンチュリー・レーシングといった有力なコンストラクターも多く抱えており、ランドの安さもあいまって他国のプライベーターからの人気も高い。2018年ダカールでは、トップ10のうち実に5台が南アフリカで製造されたクロスカントリーカーであった<ref>[https://www.news24.com/news24/bi-archive/sa-bakkie-manufacturers-win-at-dakar-2018-5 The Dakar race shows that the toughest bakkies in the world are South African]</ref>。
 
[[2008年]]には[[国際自動車連盟|FIA]]公認の[[ソーラーカーレース]]である「[[サウス・アフリカン・ソーラー・チャレンジ]]」が開催された。プレトリアをスタートしケープタウンやダーバンを経て、プレトリアに戻るルートで計4,000キロ以上の一般公道を走行する。
 
== 著名な出身者 ==
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|25em|refs=
<ref name="imf201910">{{Cite web|url=https://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2019/02/weodata/weorept.aspx?sy=2017&ey=2024&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=199&s=NGDP%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CNGDPDPC%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=29&pr.y=12|title=World Economic Outlook Database, October 2019|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2019-10|accessdate=2020-05-16}}</ref>
}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=小林信次郎|authorlink=小林信次郎|translator= |editor=岡倉登志|editor-link=岡倉登志|others= |chapter=アフリカ文学――黒人作家を中心として |title=ハンドブック現代アフリカ |series= |edition |date=2002年12月 |publisher=[[明石書店]] |___location=[[東京]] |id= |isbn= |volume= |page= |pages= |url= |ref=小林(2002)}}
* {{Cite book|和書|author=砂野幸稔|authorlink=砂野幸稔|translator= |editor=岡倉登志|others= |chapter=アフリカ文化のダイナミズム |title=ハンドブック現代アフリカ |series= |edition |date=2002年12月 |publisher=明石書店 |___location=東京 |id= |isbn= |volume= |page= |pages= |url= |ref=砂野(2002)}}
 
== 関連項目 ==
{{colbegin|2}}
* [[南アフリカ関係記事の一覧]]
* [[日本と南アフリカの関係]]
* [[南アフリカ標準時]]
* [[南アフリカ国防軍]]
* [[南アフリカ連邦]]
* [[南アフリカ共和国のスポーツ]]
** [[サッカー南アフリカ共和国代表]]
** [[ラグビー南アフリカ共和国代表]]
** [[オリンピックの南アフリカ選手団]]
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== 外部リンク ==
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* 政府
** [https://www.gov.za/ 南アフリカ共和国政府] {{en icon}}
** [http://www.sajapan.org/ 駐日南アフリカ共和国大使館] {{ja icon}}
* 日本政府
** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/s_africa/ 日本外務省 - 南アフリカ共和国] {{ja icon}}
** [https://www.za.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在南アフリカ共和国日本国大使館] {{ja icon}}
* 観光
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* その他
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** {{CIA World Factbook link|sf|South Africa}} {{en icon}}
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** {{wikiatlas|South_Africa}} {{en icon}}
 
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