#転送 [[シリーン]]
'''日本のサッカー'''(にほんのサッカー)では、[[日本|日本国内]]における[[サッカー|サッカー競技]](蹴球)について記述する。
== 名称 ==
日本では'''サッカー'''という名称で呼ばれ、漢字では'''蹴球'''という文字が当てられる。
日本にサッカーが伝来した1900年代初頭から1940年代にかけては、Footballをカタカナにした'''フートボール'''、Association Footballをカタカナにした'''アッソシエーションフットボール'''<ref name="bookguide">出典: 「[https://web.archive.org/web/20081012041526/http://fukuju3.hp.infoseek.co.jp/book1.htm 日本サッカー・ブックガイド - 明治・大正・昭和戦前期]」、2007年4月7日 (土) 09:06 (UTC)閲覧、[https://web.archive.org/web/20080501134341/http://fukuju3.hp.infoseek.co.jp/ 日本サッカーブック・ガイド]</ref>、Associationをカタカナにした'''アソシエーション'''<ref name="tonan">出典:[[中島敦]]、「[http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/1741_17364.html 斗南先生]」(初出1942年)、2007年3月15日 (木) 14:24 (UTC)閲覧、[http://www.aozora.gr.jp/ 青空文庫]</ref> など様々な呼び方が行われた。
蹴球という漢字の当て方もこの頃から存在した。蹴球という漢字は、[[蹴鞠]]からヒントを得ているが、実際サッカーが日本にもたらされた当初は、このスポーツは西洋人が行う蹴鞠の一種であるとみなされていた。更に「蹴球」という言葉が使われだした当初は「蹴球」と「蹴鞠」の使用が未分化であった。これは概念として「蹴球」と「蹴鞠」が未分化であった事を示している。「蹴球」という概念が「蹴鞠」別個に成立するのは、日本人が本格的にサッカーの受容を始めるのを待たねばならず、「蹴球」という呼び方が、完全に「蹴鞠」と分かれて確立するのもこれに沿っている。また、この蹴球とアッソシエーションフットボールを併せて'''ア式蹴球'''という呼び方もなされた。
原語の「Soccer」は1960年代頃から使われ始めた。「As'''soc'''iation」の「soc」 に「er」を 加えたもので、その造語法はかつてのイングランドの学生たちのスラングによく見られたものであり、1889年頃、「Rugger (Rugby footballの略称)」 の対語としてオックスフォード大学の学生たちが使い始めたものである。これ以外にも'''ソッカー'''という読みの例も存在する。
蹴球という言葉は戦後すぐの1946年に「蹴」の文字が当用漢字外となったことからマスメディアで使用できなくなった。当時はアメリカの占領下にあったが、アメリカでは一般的に「フットボール」とは「[[アメリカンフットボール]]」を指し、アソシエーション・フットボールは「サッカー」と呼称されていたこともあり、日本でも「サッカー」名称が使用されるようになった。
「サッカー」が一般化する前に創設したクラブではラグビーとの区別のため様々な名称が使われており、[[慶應義塾体育会ソッカー部|慶應義塾]]におけるサッカー部の名称は「ソッカー部」であるが、これは先に創部した「蹴球部(ラグビー部)」との区別のためあえて命名された<ref>[http://keio-soccer.com/club/144.html ソッカー部について]</ref>。このほかにも[[早稲田大学ア式蹴球部|早稲田]]<ref>[http://www.waseda-afc.jp/guide/faq よくあるご質問] - 早稲田大学ア式蹴球部</ref>、[[東京大学運動会ア式蹴球部|東京大学]]、[[一橋大学]]は「ア式蹴球部」である。なお早大ラグビー部の正式名称は「ラグビー蹴球部」である。
== 歴史 ==
=== 伝来 ===
日本へのサッカーの伝来は、[[1872年]]に[[神戸市]]の[[旧居留地#神戸|外国人居留地]]で行われた試合が最初という説と1866年[[横浜市]][[山手 (横浜市)|山手]]で[[イギリス軍]]が行った試合が初という説がある。試合の内容としては「軍人」VS「市民」「横浜市民3年以上」VS「横浜市民3年以下」などの編成であった。
[[1873年]]、[[東京市]][[京橋区]][[築地]]の[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学寮]]において、イギリス海軍中佐(Commander)[[アーチボルド・ルシアス・ダグラス]] を団長とする、イギリス海軍軍事顧問団(the Second British Naval Mission to Japan)が紹介した<ref>出典: 「[http://www.jfa.or.jp/archive/fanzone/faq/soccer/answer/index.html#answer2 JFAサッカーQ&A サッカーが日本に伝来したのはいつ?]」2007年4月25日 (水) 19:26 (UTD)閲覧、[http://www.jfa.or.jp/ 日本サッカー協会公式サイト]</ref> のを最初とする説もあるがはっきりしない。もう一つの説として、[[1874年]]、工学部工学寮(現在の[[東京大学工学部]])の[[スコットランド]]人の測量技師ライマー・ジョーンズが体育教育の一環としてサッカーを教えたという説もある。なお、日本サッカー協会はダグラス"少佐"起源説を支持している。その後は[[神戸市|神戸]]、[[横浜市|横浜]]を中心とした外国との交易港のある街では[[イギリス人]]を中心とする外国人によるサッカークラブが創設され、サッカーが行われていた。こうした港湾都市において最初の伝来が見られたことは[[スペイン]]の[[バルセロナ]]、[[イタリア]]の[[ジェノヴァ]]、[[ブラジル]]の[[リオデジャネイロ]]と同一の例には枚挙の暇がない事である。
1870年代末になって[[富国強兵]]の一環として国民の健康な身体の維持、軍事教練の一環として「[[体育]]」、「体操」という概念の発芽が見られるようになった。[[1879年]]に体育教育の教員養成過程として設立されたのが[[体操伝習所]]である。体操伝習所の[[坪井玄道]]は[[1885年]]に著した『戸外遊戯法』の中でアソシエーション式フットボールを「フートボール」として紹介している。
また、サッカーが最初に[[師範学校]]、神戸市の[[兵庫師範学校|御影師範学校]]で受容されたのは非常に重要な事であった。[[近畿地方]]がサッカー先進地となり、師範学校の交流を通じて[[東京高等師範学校]](以下、東京高師)(現、筑波大学)をはじめ全国の師範学校もこれに追随する事に影響した。東京高師が日本最古のサッカーチームとして立ち上がることとなる。(1896)(元、筑波大学体育会蹴球部)そして[[1917年]][[10月21日]]には、近畿の師範学校を中心として近畿蹴球大会が開催された。
この教員養成を行う師範学校で普及した事は、部員たちが卒業し各地で教員となることによって、波及的に全国の[[旧制中等教育学校|中等学校]]や[[旧制高等学校|高等学校]]に広まって行くという事に影響した。この中でも、やはり近畿地方では比較的サッカーの受容が早く、しかも府県内の中等学校で広範囲に行われた。中等学校でのサッカーの広まりを受けて、[[1918年]]に[[大阪府]]豊中村(現[[豊中市]])の[[豊中グラウンド]]で[[第1回日本フートボール優勝大会]]が実施された。これが現在も続く[[全国高等学校サッカー選手権大会]]の始まりである。高校選手権は1975年まで、大阪、[[兵庫県|兵庫]]両府県を中心とする近畿地方で開催されていた。
[[女子]]サッカーは、[[1920年]]代に[[香川県立丸亀高等学校|香川県立丸亀高等女学校]]の生徒たちが運動会の際、袴姿でサッカーをする様子を撮影した写真が現存しているが<ref>[http://www.asahi.com/national/update/1129/OSK201111290165.html 元祖なでしこ? はかまでサッカー写真発見 香川・丸亀] [[朝日新聞|asahi.com]] 2011.11.30付記事</ref>、その後、[[1960年]]代から現代サッカーを行う女性が少しずつ見られはじめていった。
=== 黎明期 ===
1917年、[[筑波大学蹴球部|東京高等師範学校]]が第3回[[極東選手権競技大会]]の[[極東選手権競技大会サッカー競技|サッカー競技]]に出場した。これが、初めて日本を代表するチームが、国際試合を行った事例とされる。結果は[[中華民国]]代表に0対5、[[サッカーフィリピン代表|フィリピン]]代表に2対15と敗れた<ref>{{Cite web|url=http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/history.php?year=1917 |title=日本サッカーアーカイブ ホーム > 日本サッカー史 > 1917(大正6年) |publisher=日本サッカーアーカイブ | accessdate=2014-5-3}}</ref>。1918年になると、[[全国高等学校サッカー選手権大会|全国高校サッカー選手権大会]]の前身となる[[日本フットボール優勝大会|日本フートボール大会]]が開催されるなど、この頃には数多くの国内大会が開かれるなど、この頃にはサッカーは日本国内である程度、普及していた。
また、1921年9月10日に[[日本サッカー協会]]の前身である大日本蹴球協会が創設され、また[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯全日本サッカー選手権大会]]の前身でもあるア式蹴球全国優勝競技会が開催されるなど、現在の日本のサッカーの基礎を形作るとも言える組織や大会も姿を見せていた。1923年の第6回極東選手権の試合は、日本で初めての[[国際Aマッチ]]の試合として認定されている<ref>{{Cite web|url= http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/history.php?year=1923 |title=日本サッカーアーカイブ ホーム > 日本サッカー史 > 1923(大正12年) |publisher=日本サッカーアーカイブ | accessdate=2014-5-3}}</ref>。1927年の第8回極東選手権で、日本代表はフィリピンを破り、国際大会で初めての勝利を手にする<ref>{{Cite web|url= http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/history.php?year=1927 |title=日本サッカーアーカイブ ホーム > 日本サッカー史 > 1927(昭和2)年 |publisher=日本サッカーアーカイブ | accessdate=2014-5-3}}</ref>。
1936年、日本代表は[[1936年ベルリンオリンピック|ベルリンオリンピック]]にて初めて[[1936年ベルリンオリンピックのサッカー競技|オリンピックのサッカー競技]]に出場した。ここで、日本代表は優勝候補の一つであった[[サッカースウェーデン代表|スウェーデン]]代表に勝利した([[ベルリンの奇跡]])。
[[1954 FIFAワールドカップ・予選]]で初めて日本はW杯の予選に参加した。なお、中華民国が出場を辞退したため日本は[[サッカー大韓民国代表|韓国]]と対戦するも、1分1敗の結果となり本戦出場は成らなかった。[[1960年ローマオリンピック]]にも出場したが、予選で敗退した<ref name="joc_fairplay">{{Cite web|url= http://www.joc.or.jp/olympism/fairplay/football.html |title=日本サッカー草創期に開花した世界レベルの技とフェアプレー精神 |publisher=[[日本オリンピック委員会]] | accessdate=2014-5-17}}</ref>。
1964年、日本代表は[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]に出場した。日本代表はグループDで戦い、ここでアルゼンチン代表を逆転で破るなどでグループDの争いに勝ち抜き、ベスト8の成績を残した<ref name="joc_fairplay" /><ref>{{Cite web|url= http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=274 |title=1964年東京オリンピック「アルゼンチンに逆転勝利」 |publisher=賀川サッカーライブラリー | accessdate=2014-5-17}}</ref>。
1965年、[[日本サッカーリーグ]](JSL)が開幕した。
1968年、日本代表は[[1968年メキシコシティーオリンピック|メキシコシティーオリンピック]]に出場し、3位決定戦で開催国の[[サッカーメキシコ代表|メキシコ]]代表を破り[[銅メダル]]を獲得した。これは、オリンピックのサッカーではアジア勢初のメダルだった。また、日本代表の[[スポーツマンシップ]]には賞賛の声が寄せられ[[フェアプレー賞]]を受賞した<ref name="joc_fairplay" />。この大会で[[釜本邦茂]]が大会得点王を獲得している。
{{Main|1968年メキシコシティーオリンピックのサッカー競技}}
だが、1970年代から1980年代は国際的な大会で目立った活躍を残せなかった<ref name="nippon2014-4-10">{{cite news |title=サッカー日本代表の歴史 |newspaper= nippon.com|date=2014-4-10|url=http://www.nippon.com/ja/features/h00052/ |accessdate=2014-5-17}}</ref>。一方で、この時期には日本国内でさまざまな改革が行われており、後に日本サッカーが躍進する切っ掛けとなった時代でもあった<ref>{{cite news |title=1970~80年代の日本サッカー |newspaper=ライブドアニュース |date=2012-7-25|url=http://news.livedoor.com/article/detail/6790230/ |accessdate=2014-5-17}}</ref>。
1972年、東京で日本初の[[女子サッカー]]クラブとなる[[FCジンナン]]が発足した。
=== 1993年以降 ===
1993年、[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)が創設・開始された。1996年には[[Jリーグ百年構想]]を打ち出し、長期的な視点に立った日本のサッカーレベルの引き上げ、日本の[[サッカー文化]]の向上を目標に掲げた。
1997年11月、[[ジョホールバルの歓喜|1998 FIFAワールドカップ アジア第3代表決定戦]](ジョホールバルの歓喜)で[[サッカーイラン代表|イラン]]代表を破り、W杯初出場を決めた。[[1998 FIFAワールドカップ]](本戦)は3戦全敗に終わったが、[[中山雅史]]が[[サッカージャマイカ代表|ジャマイカ]]代表戦で日本代表としてのW杯初得点を記録した。
[[2002 FIFAワールドカップ]]の[[サッカーロシア代表|ロシア]]代表戦でW杯初勝利を挙げた。なお、1998年大会から[[2018 FIFAワールドカップ|2018年大会]]まで6大会連続でW杯本戦に出場しており、2002年大会および[[2010 FIFAワールドカップ|2010年大会]]、2018年大会は決勝トーナメントへ進出した。
元日本代表でW杯にも出場した[[名波浩]]がインタビューの中で「日本のサッカーは着実にレベルを上げており、かつて夢とも言われていたワールドカップ出場も今や『出場して当たり前』と呼ばれるほどとなっている」と自らコメントしている<ref>{{Cite web|url=http://www.j-league.or.jp/summary/2013/20th-1.html|title=Jリーグ - 20周年コラム 世界から見たJリーグの現在地 第1回: 名波 浩 |publisher=[[日本プロサッカーリーグ]] | accessdate=2014-5-17}}</ref>。
女子サッカーにおいては[[サッカー日本女子代表]]は世界トップクラスの実力を備えており、[[2011年]]の[[2011 FIFA女子ワールドカップ|ドイツワールドカップ]]では優勝を果たしている。他にも[[2012年ロンドンオリンピック]]で[[銀メダル]]に輝き、[[2014 AFC女子アジアカップ]]で優勝するなど数々のタイトルを獲得している。
[[2022 FIFAワールドカップ]]では、W杯優勝経験のある強豪ドイツ・スペインと同組の[[死の組|「死の組」]]グループEに入るも、その2チームを撃破し2勝1敗でグループEを首位で突破、2大会連続の決勝トーナメント進出を果たした。決勝トーナメント1回戦のクロアチア戦ではPK戦で惜しくも敗れ、史上初のベスト8進出は叶わなかった。
== 統括組織 ==
現在、日本国内におけるほぼ全てのサッカー競技に関する事象を統括している統括組織が'''「[[公益法人|公益財団法人]][[日本サッカー協会]]」'''(Japan Football Association; JFA)である。
[[1921年]][[9月10日]]に前身となる'''「大日本蹴球協会」'''が設立され、[[1929年]][[5月17日]]に、[[国際サッカー連盟]](FIFA)に加盟した<ref name="日本サッカー史">{{Cite book|和書|author=後藤健生|authorlink=後藤健生|year=2007|title=日本サッカー史 日本代表の90年|volume=|publisher=[[双葉社]]}}</ref><ref name="JFA沿革・歴史">[http://www.jfa.jp/about_jfa/history/ JFA沿革・歴史-JFA公式HP]</ref>。ただ、[[1940年]]頃には[[第二次世界大戦]]の戦局が次第に激しくなり、サッカーを含めた欧米型のスポーツ競技は「敵性文化の象徴」という理由から当時の日本政府によって次々と国内で行われる事が廃止された影響もあり、ほぼ同時期に「大日本蹴球協会」がFIFAを脱退することになった<ref name="JFA沿革・歴史" />。[[1942年]]4月、戦況悪化で大日本體育協會が[[財団法人]][[日本スポーツ協会|大日本体育会]]に再編成され、「大日本蹴球協会」は、他競技団体と共にその部会(「蹴球部会」)となり一時消滅した<ref name="日本サッカー史" /><ref name="JFA沿革・歴史" />。1945年9月2日、第二次世界大戦終結。第二次世界大戦終結後の[[1945年]][[11月13日]]、FIFAに会費が払えなかったため、FIFAから資格停止処分を受けた<ref>轡田三男 「サッカーの歴史 天皇杯全日本選手権 (6)」『サッカーマガジン』 ベースボール・マガジン社、1968年8月号、112頁</ref><ref name="ReferenceA">日本蹴球協会編 『日本サッカーのあゆみ』 講談社、1974年、150頁。</ref><ref>松岡完 『ワールドカップの国際政治学』朝日新聞社、1994年、P85</ref>。[[1947年]][[4月1日]]に、'''「日本蹴球協会」'''へと名称変更した上で再発足し<ref name="日本サッカー史" /><ref name="JFA沿革・歴史" />、[[1950年]][[9月23日]]にFIFAに同名称で再加盟した<ref name="JFA沿革・歴史" /><ref name="ReferenceA"/>。[[1974年]][[8月31日]]に[[財団法人]]となり、'''「財団法人日本サッカー協会」'''(JFA)に名称変更した。このことにより、協会誕生より53年間の[[権利能力なき社団|任意団体]]状態から脱却した<ref name="JFA沿革・歴史" /><ref>{{Cite book|和書|year=2003|title=[[サッカー批評]]issue20 - 改革を進める日本サッカー協会|volume=|publisher=[[双葉社]]}}[https://web.archive.org/web/20030920135840/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/other/column/200309/0912hihy_00.html Web版サッカー批評(Vol.11)-スポーツナビ2003年9月12日]</ref>。2012年4月1日よりJFAは、[[財団法人]]から[[公益法人|公益財団法人]]へ移行し、[[文部科学省]]から完全に独立した<ref name="JFA沿革・歴史" /><ref>[http://www.jfa.or.jp/jfa/column/2/2012/20120401.html 小倉純二日本サッカー協会会長コラム「今日もサッカー日和」第31回-日本サッカー協会公式HP_2012年4月2日]</ref>。
日本サッカー協会(JFA)は、サッカーに携わる全ての人々を「サッカーを愛する仲間=サッカーファミリー」として迎え入れ、JFAからメリットを積極的に提供することでサッカーファミリーの拡大を推進。2015年には、サッカーファミリーは526万になりました。新たに設定した「JFAの目標2030」では、2030年にサッカーファミリーが800万人になることを目標に掲げている。[http://www.jfa.jp/about_jfa/organization/databox/ 2019年度の情報]は次の通り。サッカー登録チーム数は27,670チーム、選手数は878,072人、監督者数は10,433人、審判員数は、281,125人となる。
{{main|日本サッカー協会}}
== 試合 ==
1888年(明治21年)[[旧居留地#神戸|神戸旧居留地]]の内外人公園([[東遊園地]])で行われた、[[神戸レガッタ・アンド・アスレチッククラブ]]と[[横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ|横浜クリケット・アンド・アスレチッククラブ]]との試合が、日本最古のサッカー公式試合として記録に残っている<ref group="注">結果は2-1で神戸・レガッタ・アンド・アスレチッククラブが勝利。</ref>。また、東京高師が関東地方最初のサッカーチームを結成した当初は関東地方では他の日本人チームは存在せず、試合相手は外国人チームが常であった。
この他にも東京高師は他校(主に同じ[[師範学校]])を訪問してサッカーの指導を行うなど、その普及にも努めた。その結果[[1906年]]([[明治]]39年)に[[東京府師範学校]](後に[[東京府青山師範学校]]と改称。以下青山師範とする)でもサッカー部が誕生し、翌年[[6月1日]]には東京高師と青山師範の間で日本人チーム同士による関東地方最初の試合が行われた。これは試合時間が40分×3で行われるなど練習試合の意味合いが強いものであったが、同年[[11月16日]]には90分での試合が両校の間で実施されており、これが関東地方での最初の対抗戦であったと考えられる。
== チーム ==
[[1889年]]、神戸市の[[兵庫師範学校|兵庫県尋常師範学校]](後の御影師範学校、現在の[[神戸大学]])にサッカーチームが創設された。これが、日本では最初となる日本人だけのチームである。また、関東地方では[[1896年]]には高等師範学校(1902年[[東京高等師範学校]]に改称、現在の[[筑波大学]]、以下東京高師とする)に「[[筑波大学蹴球部|フートボール部]]」が創設された。
{{main|日本サッカー協会チーム登録種別}}
== 大会 ==
[[1922年]]、大学チームの定期的な試合の開催によるレベルアップを狙って日本で最初のリーグ戦である「専門学校蹴球リーグ戦」が実施された。参加したのは東京高師の他、[[早稲田大学ア式蹴球部|早稲田]]、[[東京大学ア式蹴球部|東京帝国大学]]、[[東京商科大学 (旧制)|東京商科大学]](現[[一橋大学]])など4チームであった。このリーグは[[1925年]]に「ア式蹴球東京コレッヂリーグ」となり、[[早稲田大学ア式蹴球部|早稲田]]、東京帝大、東京商大に加えて、[[慶應義塾体育会ソッカー部|慶應義塾]]、[[法政大学体育会サッカー部|法政]]、[[東京農業大学]]が1部に所属した。これが[[関東大学サッカーリーグ戦]]のルーツになっている。また、関西地区でも1924年に関西専門学校ア式蹴球リーグ(現在の[[関西学生サッカーリーグ]])が創設され、[[関西学院大学体育会サッカー部|関西学院]]、[[関西大学体育会サッカー部|関西大学]]、[[神戸商業大学 (旧制)|神戸高商]]の3校が創設時に所属した。
現在、日本国内には[[プロフェッショナルスポーツ|プロ]]サッカー[[リーグ戦|リーグ]]である「[[日本プロサッカーリーグ]]」(Jリーグ)、[[アマチュア]]サッカーリーグの最高峰である「[[日本フットボールリーグ]]」(JFL)などのサッカーリーグが存在している。また、日本国内の[[高校サッカー]]部によって行われている「[[全国高等学校サッカー選手権大会]]」は国内で行われている数多のアマチュアサッカー大会の中でも著名な大会である。なお、J1・J2に所属する全チーム・JFLの前期リーグ戦終了時点の1位チーム・[[総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント]]の優勝チーム・J3に所属するチームを含む各都道府県の代表チームらによって行われる「[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯全日本サッカー選手権大会]]」(天皇杯)は日本国内で行われるサッカー大会としては最大規模のサッカー大会である。
{{see also|日本サッカーのリーグ構成 (1種)|日本のサッカー大会一覧}}
なお、大会によっては各登録カテゴリーにおいて重要な位置づけの大会が幾つか存在する。例えば、Jリーグに加盟するチームにとっては「Jリーグ」、「天皇杯」、「[[Jリーグカップ]]」の3大会が3大タイトルと言われている。ただ、登録カテゴリーが同じであっても、大会によっては対象チームを限定している大会もあるので注意が必要である。例えば、[[日本サッカー協会チーム登録種別#第2種|第2種(U-18)登録チーム]]の大会としては、第2種登録の全てのチームに参加資格がある[[高円宮杯 JFA U-18サッカーリーグ|高円宮杯U-18サッカーリーグ]]のほかに、第2種登録チームのうち高校サッカー部のみを参加対象に限定している「全国高等学校サッカー選手権大会」や、同じく第2種登録[[クラブチーム]]のみを参加対象に限定している「[[日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会]]」がある。
{{see also|日本サッカー協会チーム登録種別}}
== 審判員 ==
{{main|審判員 (サッカー)}}
== 指導者 ==
{{main|日本サッカー協会指導者ライセンス}}
== 日本代表(男子サッカー) ==
{{main|サッカー日本代表}}
== 女子サッカー ==
{{main|女子サッカー#日本}}
== フットサル ==
{{main|日本のフットサル}}
== 競技人口 ==
日本サッカー協会が発表した統計によると、サッカーの2010年度の登録選手数は900,880人<ref>[http://www.jfa.or.jp/jfa/databox/player/year/index.html 年度別登録数-日本サッカー協会公式HP]</ref>、登録チーム数は28,588チームにものぼる。内訳は男子サッカーの場合(シニアを除く)、2010年度の登録選手数は856,425人、登録チーム数は26638チーム。女子サッカーの場合(シニアを除く)、2010年度登録選手数は25,278人、登録チーム数は1,226チーム。シニアの場合、2010年度の登録選手数は19,177人、登録チーム数は724チーム<ref>[http://www.jfa.or.jp/jfa/databox/team/year/index.html チーム年度別登録数-日本サッカー協会公式HP]</ref>。フットサルの2010年度の登録選手数は125,608人である(日本サッカー協会は2008年まで男女別で記録していたが、現在は男女合わせての記録)<ref>[http://www.jfa.or.jp/jfa/databox/futsal_player/year/index.html フットサル個人年度別登録数-日本サッカー協会公式HP]</ref>。日本サッカー協会に登録していない選手やチームも数多く、実数はさらに多いと推測される。
「平成28年社会生活基本調査 生活行動に関する結果」によれば、過去1年間にサッカーをした人は、野球や卓球よりも少なく、サッカーの行動者率は若い人ほど高く、社会人になると急激に落ち込み、会社で管理職になる頃には大半の人が離れてしまっている現状である<ref>{{Cite web|title=卓球やバドミントン以下…実は日本でサッカー競技人口が驚くほど少ない理由|url=https://biz-journal.jp/2018/06/post_23580.html|website=ビジネスジャーナル/Business Journal {{!}} ビジネスの本音に迫る|accessdate=2020-02-13|last=山田稔}}</ref>。一方で、40歳以上の選手を対象とするシニアサッカーへの関心が高まっている<ref>{{Cite web|title=60過ぎてもボールを追いかけたい!いまシニアサッカーチームが熱い|url=https://serai.jp/hobby/315099|website=サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト|date=2018-06-03|accessdate=2020-02-13|language=ja}}</ref>。
日本国内では、[[静岡県]]が特にサッカーが盛んな土地として知られる<ref>{{Cite web|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/kids/graph/kyoiku.html |title=統計/教育・スポーツ |publisher=[[静岡県]] | accessdate=2014-6-14}}</ref>。静岡県は数々の名選手を輩出しており、[[2009年]]まで、Jリーグの選手の出身地では静岡県がトップであった。また[[1998年]]の[[1998 FIFAワールドカップ|フランスワールドカップ]]では、代表22人のうち9人が静岡県の出身者であった<ref>{{cite news |title=W杯「静岡出身2人」時代は変わった、「関西から9人」を誇りに思う 運動部長・野瀬吉信 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2014-6-14 |url=http://sankei.jp.msn.com/west/west_sports/news/140614/wsp14061407000001-n1.htm |accessdate=2014-6-14}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
<references />
== 関連項目 ==
* [[世界のサッカー]]
* [[日本サッカー協会]]
* [[日本のサッカー大会]]
* [[日本のサッカー選手一覧]]
* [[日本のサッカー競技場一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jfa.jp/ 日本サッカー協会公式HP]
* [http://archive.footballjapan.jp/ 日本サッカーアーカイブ 賀川浩]
* [https://web.archive.org/web/20151025180747/http://rekishi.shukyu.net/ サッカーの歴史 日本のサッカー]
{{日本のサッカー}}
{{日本のスポーツ}}
{{日本関連の項目}}
{{アジアの題材|サッカー|mode=3}}
{{各年のサッカー}}
[[Category:日本のサッカー|*]]
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