「後套進攻作戦」の版間の差分
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| battle_name=後套進攻作戦(五原作戦)
| campaign=日中戦争
| image=[[File:Battle of West Suiyuan.jpg|Battle of West Suiyuan|300px]]
| caption=中国第35軍団
| conflict=[[日中戦争]]
| date=[[1940年]]([[昭和]]15年)[[1月]] - [[3月]]
| place=[[綏遠省]][[五原県|五原]]周辺
| result=一次:日本軍の勝利、二次:中国軍の勝利
| combatant1={{JPN1889}}
| combatant2={{CHN1928}}
| commander1=[[岡部直三郎]]
| commander2=[[傅作義]]
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| casualties2=不詳
|}}
'''後套進攻作戦'''(こうとうしんこうさくせん)とは、[[日中戦争]]中の[[1940年]]([[昭和]]15年)1月から3月までの間、[[日本]]の[[駐蒙軍]]により二次に亘って行われた、[[綏遠省]]後套地区([[五原県|五原]]地方)への進攻作戦である。当初の作戦秘匿名は'''八号作戦'''。別名の'''五原作戦'''(ごげんさくせん)でも知られる。
== 背景 ==
[[1939年]](昭和14年)12月、[[冬季攻勢 (1939-1940年)|冬季攻勢]]の一環として[[傅作義]]将軍の指揮する第35軍が、[[騎兵集団]]司令部の駐屯する[[包頭市|包頭]]を襲撃した。傅作義軍は日本軍の反撃で退却したが、[[1940年]]1月には再び包頭の攻撃を企図して、主力軍(約3万)の拠点である[[五原県|五原]]周辺で活動を活発化させた。
駐蒙軍は、後套地区<ref>後套地区とは、黄河南岸地区([[オルドス地方]])を前套地区と呼ぶのに対比した用語で、黄河北岸の五原地方を意味する。</ref>への攻勢をとって傅作義軍の根拠地を撃砕する作戦の許可を上級司令部に求めた。五原は、駐蒙軍に課せられた作戦制限線の西方300キロにあり、駐蒙軍はかねてから攻略を希望していた。[[大本営]]は作戦を認可し、[[北支那方面軍]]は、中国軍を撃破した後は作戦制限線に撤退するよう命令した。しかし、第26師団長・[[黒田重徳]]中将と騎兵集団長・[[小島吉蔵]]中将は、五原の永久占領を希望する意見書を提出するなど、軍司令部の中では永久占領を主張する[[田中新一]]参謀長らと、それを不可とする[[岡部直三郎]]軍司令官との間で意見の対立が表面化していた。<ref name="rikugun9597">『支那事変陸軍作戦(3)昭和十六年十二月まで』 95-97頁。</ref>
== 交戦兵力 ==
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[[Category:日中戦争の作戦と戦い]]
[[Category:1940年の戦闘]]
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[[Category:バヤンノール市]]
[[Category:1940年の中国]]
[[Category:1940年1月]]
[[Category:1940年2月]]
[[Category:1940年3月]]
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