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'''上覧相撲'''(じょうらんずもう)は、[[征夷大将軍|将軍]]の観戦する[[大相撲]]のこと。
==概要==
広義には、[[鎌倉時代]]や[[室町時代]]にも上覧相撲は行われていた。これは[[日本武術|武芸]]としての相撲の技を、
鎌倉時代には『[[吾妻鏡]]』に相撲奉行という役名が出てくるが、これは上覧相撲の進行、事務の監督など行ったものであり、勝負を裁いたものではない<ref name="4gumi">大空出版『相撲ファン』vol.06 p103</ref>。
狭義の上覧相撲は、興行としての[[勧進相撲]]の成立した[[江戸時代]]、11代将軍[[徳川家斉]]と12代[[徳川家慶]]の時代に、いずれも[[江戸城]]吹上で計7回催されたものを指して言う。▼
▲狭義の上覧相撲は、興行としての[[勧進相撲]]の成立した[[江戸時代]]、11代
*[[寛政]]3年([[1791年]])[[6月11日 (旧暦)|6月11日]] *家斉▼
:[[吉田司家]]の吉田追風、町奉行池田筑後守から認められず、6月10日になって[[老中]]戸田采女正から行司を命じられた。▼
:[[谷風梶之助 (2代)]]、[[小野川喜三郎]]が[[横綱土俵入り]]を披露▼
:[[雷電爲右エ門|雷電爲右衞門]]が[[陣幕嶋之助|陣幕]]に公式の土俵で初黒星。▼
:雷電が幕下力士5人掛けを披露▼
:[[阿武松緑之助|阿武松]]と[[稲妻雷五郎|稲妻]]が横綱土俵入り▼
寛政3年の最初の上覧相撲は、[[大坂相撲]]や[[京都相撲]]に遅れをとっていた江戸相撲が、これを挽回するために企図した側面も強い。興行政策上のものだった[[横綱]]制度も、上覧を得て権威づけがなされることになった。▼
力士を[[抱え (相撲)|抱え]]る諸大名にすると、「上様の覚えめでたき」を得られるかどうかがかかっていた。各力士は主君からその旨を厳しく申し付けられ、場合によっては抱えを解かれることさえあった。そのため、上覧相撲は[[本場所]]以上の真剣勝負の場となり、当時よくあった[[預り (相撲)|預り]]や[[無勝負 (相撲)|無勝負]]も、上覧にかぎっては適用されなかった。
幕府側の思わくとしては上覧相撲によって「[[寛政の改革]]」で娯楽を制限された庶民の不満をかわしつつ、江戸相撲側に対して相撲興行の地位を確たるものにする絶好の機会を与えるというものがあったとされる<ref name="ref1">『相撲』2014年3月号 95頁</ref>。
==上覧相撲の一覧==
▲:[[吉田司家]]の吉田追風、町奉行・池田筑後守から認められず、[[6月10日 (旧暦)|6月10日]]([[7月10日]])になって[[老中]]・戸田采女正から行司を命じられた。
▲:[[谷風梶之助 (2代)|谷風]]、[[小野川喜三郎|小野川]]が[[横綱土俵入り]]を披露(公式の横綱土俵入りはこれが初めて)。
:谷風 - 小野川の結びの一番で小野川が「待った」、行司・吉田追風は「呼吸は合っていた、これを嫌った小野川は気合いですでに負けている」として谷風に軍配をあげる。幕閣の説得にもついに応じず、公式の勝負付にも「キマケ」(気負け)の表記が残る<ref name="ref1"/>。
*寛政6年([[1794年]])5月
*文政6年([[1823年]])4月
:結びの一番で阿武松が「待った」、寛政3年(1791年)の小野川の「気負け」を覚えていた将軍・家斉は、「なぜ稲妻の勝ちにならない?」と側用人に質したという。
*天保14年[[9月25日 (旧暦)|閏9月25日]]([[1843年]][[11月16日]]) - [[不知火諾右エ門|不知火]]が横綱土俵入り。
*嘉永2年[[4月18日 (旧暦)|4月18日]]([[1849年]][[5月10日]]) - [[秀ノ山雷五郎|秀ノ山]]が横綱土俵入り。
=== 備考 ===
▲寛政3年(1791年)の最初の上覧相撲は、[[大坂相撲]]や[[京都相撲]]に遅れをとっていた江戸相撲が
== 脚注 ==
<references />
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▲{{Sumou-stub}}
[[
[[Category:征夷大将軍]]
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