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{{基礎情報 天皇
'''守谷藩'''(もりやはん)は、[[下総国]][[相馬郡 (下総国)|相馬郡]]守谷(現在の[[茨城県]][[守谷市]])を居所として、徳川家康の関東入部から[[江戸時代]]前期まで存在した[[藩]]<ref name="kadokawachimei_7277042"/>。[[土岐定政]](菅沼定政)が1万石で入封し、1617年に2代目の[[土岐定義]]が[[摂津国]][[高槻藩]]に移封された。その後、3代目の[[土岐頼行]]が1619年に領地を相馬郡内1万石に移されているが、頼行を「守谷藩主」として扱うかについては解釈が分かれる。頼行は1628年に[[出羽国]][[上山藩]]に移封された。
| 名 = 霊元天皇
| 代数= 第112
| 画像= Emperor Reigen.jpg
| 画像サイズ= 250px
| 説明= 霊元天皇像([[泉涌寺]]蔵)
| 在位= [[1663年]][[3月5日]] - [[1687年]][[5月2日]]
| 和暦在位期間= [[寛文]]3年[[1月26日 (旧暦)|1月26日]] - [[貞享]]4年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]
| 即位礼= 1663年[[6月2日]](寛文3年[[4月27日 (旧暦)|4月27日]])
| 時代= [[江戸時代]]
| 年号= [[寛文]]<br />[[延宝]]<br />[[天和 (日本)|天和]]<br />[[貞享]]
| 政府首脳官職= [[征夷大将軍]]
| 政府首脳人物= [[徳川家綱]]<br />[[徳川綱吉]]
| 首都= [[京都]]
| 皇居= 平安宮([[京都御所]])
| 追号= 霊元院<br />(霊元天皇)
| 諱 = 識仁
| 幼称= 高貴宮
| 別名= 素浄(法名)<br>仙洞様
| 印 =
| 生年= [[1654年]][[7月9日]]([[承応]]3年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]])
| 生地=
| 没年= [[1732年]][[9月24日]]([[享保]]17年[[8月6日 (旧暦)|8月6日]])
| 没地=
| 陵墓= 月輪陵
| 先代= [[後西天皇]]
| 次代= [[東山天皇]]
| 子 = [[栄子内親王]]([[二条綱平]]室)<br />[[憲子内親王 (霊元天皇皇女)|憲子内親王]]([[近衛家熙]]室)<br />朝仁親王([[東山天皇]])<br />[[福子内親王]]([[伏見宮邦永親王|伏見宮]]妃)<br />[[永秀女王]]<br />[[京極宮文仁親王]]<br />梅宮<br />[[勝子内親王]]<br />[[清宮 (霊元天皇皇子)|清宮]]<br />[[覚観法親王|寛隆法親王]]<br />綱宮<br />[[三宮 (霊元天皇皇子)|三宮]]<br />[[尭延法親王]]<br />[[台嶺院宮]]<br />知光院宮<br />[[済深法親王]]<br />[[常磐井宮]]<br />[[作宮]]<br />[[性応法親王]]<br />[[文喜女王]]<br />[[元秀女王]]<br/>[[徳宮]]<br />[[力宮]]<br />[[尊賞法親王]]<br />[[文応女王]]<br />[[嘉智宮]]<br />留宮<br />[[峯宮]]<br />[[有栖川宮職仁親王]]<br />[[吉子内親王]]<br />[[尭恭法親王]]<br />八重宮
| 中宮= [[鷹司房子]]
| 父親= [[後水尾天皇]]
| 母親= [[園国子|藤原国子]]
| 注釈=
}}
 
'''霊元天皇'''(れいげんてんのう、[[1654年]][[7月9日]]〈[[承応]]3年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]〉- [[1732年]][[9月24日]]〈[[享保]]17年[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]〉<ref>{{Kotobank|霊元天皇}}</ref>)は、[[日本]]の第112代[[天皇]](在位: [[1663年]][[3月5日]]〈[[寛文]]3年[[1月26日 (旧暦)|1月26日]]〉- [[1687年]][[5月2日]]〈[[貞享]]4年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]〉)。[[諱]]は'''識仁'''(さとひと)。[[御称号|称号]]は'''高貴宮'''(あてのみや)。
一般的には、土岐氏の転出によって守谷藩は廃藩となったと見なされる。ただし、それ以後に守谷の領主となり、守谷に陣屋を置いた[[堀田正俊]]・[[酒井忠挙]]について「守谷藩主」と叙述する書籍もある。
 
[[後水尾天皇]]の第十九皇子。母は[[内大臣]][[園基音]]の女で後水尾[[典侍]]の藤原国子([[新広義門院]])。養母は父帝の中宮[[東福門院|徳川和子]](東福門院)。
== 藩史 ==
=== 前史 ===
==== 戦国期の守谷領 ====
「守谷」の地名は、古くは「守屋」<ref name="kadokawachimei_7277038"/><ref name="kanseifu291_kokumin580"/><ref name="shimousasouma_ht001480"/>や「森屋」<ref name="kadokawachimei_7277038"/><ref name="shimousasouma_ht001480"/>などとも記された。「守谷」で定着するのは寛政20年(1643年)ごろとされる<ref name="shimousasouma_ht001480"/><ref name="shimousasouma_ht000500"/>(本項では基本的に「守谷」で統一する)。戦国期には[[相馬氏#下総相馬氏|下総相馬氏]]が[[守谷城]]を居城として周辺地域を治めていた<ref name="kadokawachimei_7277038"/>。
 
[[譲位]]後の期間が長いため、[[仙洞|仙洞様]](せんとうさま)とよばれることが多い。[[歌人]]・[[能書家]]でもある。絵を能くし、作品が複数現存している。
永禄10年(1567年)、[[相馬治胤]]は小田原北条氏との和睦の条件として、北条氏庇護下の[[古河公方]][[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]に守谷城を献上することを取り決め、北条氏に守谷城を明け渡した<ref name="shimousasouma_ht000980"/>。
永禄11年(1568年)には北条氏による大規模な改築・拡張を受けた<ref name="shimousasouma_ht000440"/><ref name="shimousasouma_ht000540"/>。義氏は実際に一時期守谷城に移っており<ref name="kadokawachimei_7277038"/><ref name="shimousasouma_ht000980"/>、治胤は[[高井城 (下総国)|高井城]](取手市下高井)などの支城に移ったと見られる<ref name="shimousasouma_ht000980"/>。天正18年(1590年)の小田原合戦において、相馬治胤は北条方に従って小田原城籠城に参加し<ref name="shimousasouma_ht001050"/>、戦後に領地を没収された<ref name="shimousasouma_ht001060"/>。
 
「'''現在の[[皇室]]'''」(うち[[徳仁|今上天皇]]・[[明仁]][[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]及び生まれながらの[[皇族]]<ref>[[親王]]、[[内親王]]、[[女王 (皇族)|女王]]。</ref>)と、[[1947年]]([[昭和]]22年)に[[臣籍降下]](いわゆる皇籍離脱)した「'''[[旧皇族|伏見宮系皇族]]'''及びその男系子孫」の、女系での[[最も近い共通祖先]]である。
==== 守谷入封以前の土岐(菅沼)定政 ====
[[土岐定政|土岐(菅沼)定政]]は美濃[[土岐氏]]の一族で、元は[[明智氏|明智]]を称していたが{{efn|『寛政重修諸家譜』によれば、[[明智頼重]]の子孫という<ref name="kanseifu291_kokumin577"/>。}}、父が討死して一族は離散し、定政は母方の[[菅沼氏]]を頼って[[三河国]]に逃れた<ref name="kanseifu291_kokumin577"/>。定政は菅沼姓を称して徳川家康の近侍となり<ref name="kanseifu291_kokumin578"/>、多くの戦功を挙げた<ref name="kanseifu291_kokumin578-579"/>。天正10年(1582年)に武田家が滅びたのち、[[甲斐国]][[巨摩郡]]切石(現在の[[山梨県]][[南巨摩郡]][[身延町]][[切石 (身延町)|切石]])で1万石の所領を与えられた<ref name="kanseifu291_kokumin579"/>。天正18年(1590年)の[[小田原征伐]]に、菅沼定政は穴山衆を預かって従軍し、小田原落城後は[[関宿城]]守衛の任務にあたった<ref name="kanseifu291_kokumin580"/>。
 
=== 土岐氏3代生涯 ===
=== 儲君 ===
==== 立藩から土岐定義の高槻移封まで ====
承応3年([[1654年]])9月、長兄の[[後光明天皇]]の[[崩御]]以前にその養嗣子に入り、儲君となる。当時、後光明天皇が余りにも急な死に方をしたために[[毒#利用|毒殺]]と噂され、天皇による高貴宮(後の霊元天皇)の養子縁組の意思表示の有無が疑問とされたが、後光明天皇の側近([[勧修寺経広]]・[[三条西実教]]・[[持明院基定]])は天皇が高貴宮の誕生直後より万一に備えて縁組の意向を表明していたと主張している(『宣順公記』承応3年10月17日条){{efn|『後光明院御弔記』には承応3年8月に体調不良を感じた後光明天皇が万一に備えて高貴宮を養子にすることを述べたと記している。}}{{sfn|久保|1998|p=56-57}}。
天正18年(1590年)9月、菅沼定政は相馬郡に領知を移され、守谷(『寛政重修諸家譜』は「守屋」と表記する)を居所とした<ref name="kanseifu291_kokumin580"/>。定政は[[九戸政実の乱]]への出兵に従い、朝鮮出兵に際して[[名護屋城]]に赴いている<ref name="kanseifu291_kokumin580"/><ref name="shimousasouma_ht001480"/>。領内経営にあたる余裕はあまりなかったと見られ、守谷において特段の事績は伝えられていない<ref name="shimousasouma_ht001480"/>。
 
また、高貴宮の生母が後光明天皇の母方の従妹であることや、当時目ぼしい[[親王]]が全て[[宮家]]を継承するか寺院に入ってしまったために、唯一将来が定まっていなかった男子皇族が高貴宮以外にいなかったことから、高貴宮が養嗣子として将来の[[皇位継承]]に備えるのが当時としては一番妥当な判断であったと考えられる。ただし、まだ生後4か月であった高貴宮が直ちに皇位を継ぐのは無理とも判断された。このため、高貴宮が成人するまでの中継ぎの天皇が立てられることになった。[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家綱]]は若年(14歳)であることを理由に[[関白]][[二条光平]]の判断に委ねると伝えていたが、一方で幕閣([[酒井忠勝 (小浜藩主)|酒井忠勝]]・[[松平信綱]]・[[酒井忠清]]・[[阿部忠秋]])は高貴宮が[[元服]]をしたら譲位を受けるという[[後水尾天皇|後水尾法皇]]の方針は了承したものの、その時期を判断するのは徳川将軍家出身である[[東福門院]]であることを明言していた。この結果、高松宮を継承していた花町宮良仁親王が1代限りの中継ぎとして皇位を継承することになった([[後西天皇]]){{efn|高松宮・花町宮共に後の[[有栖川宮]]の前身。宮家自体は後西天皇の子孫に継承されることになった。}}{{sfn|久保|1998|p=51-54}}。
[[文禄]]2年([[1593年]])、菅沼定政は家康の命により「土岐」に名字を復した<ref name="kanseifu291_kokumin580"/>。
 
[[万治]]元年([[1658年]])1月、[[親王宣下]]を受けた。
[[慶長]]2年([[1597年]])3月、土岐定政は守谷で死去し、子の[[土岐定義]]が跡を継いだ<ref name="kanseifu291_kokumin580"/><ref name="kadokawachimei_7277042"/>。定義は慶長7年(1602年)、[[佐竹義宣]]が去った後の常陸国に[[松平康重]]とともに赴いて[[水戸城]]守衛の任に当たり、佐竹旧臣[[車斯忠]]の反乱を鎮圧している<ref name="kanseifu291_kokumin580"/>。その後、定義は[[大番]][[番頭|頭]]に就任している<ref name="kanseifu291_kokumin580"/>。20年にわたり守谷の領主であった定義であるが、領内経営の事績として伝えられることは多くはない<ref name="shimousasouma_ht001490"/>。その一つとしては、慶長3年(1598年)に[[八坂神社 (守谷市)|八坂神社]]を高野村本宿(守谷市[[高野 (守谷市)|高野]])から現在地(守谷市[[本町 (守谷市)|本町]])に遷座していることが挙げられる<ref name="shimousasouma_ht001490"/>。
 
=== 禁闕騒動 ===
[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])、定義は[[摂津国]][[高槻藩]](2万石)に加増移封となった<ref name="kanseifu291_kokumin580"/><ref name="kadokawachimei_7277042"/>。
[[寛文]]2年([[1662年]])12月に元服し、寛文3年([[1663年]])1月、兄の[[後西天皇]]から譲位されて[[践祚]]した。なお、この時、朝廷は[[改元]]を希望したが幕府がこれを拒否したことが[[林鵞峯]]の『改元物語』に記されている{{sfn|久保|1998|p=66}}{{efn|[[久保貴子]]は江戸幕府は天皇の代始改元を否定して将軍の代始改元のみにしようとしていたが、綱吉政権以降はその方針を放棄したとする説を唱えている(ただし、実際に天皇の代始改元を拒否したとみられるのは女帝の[[明正天皇]]と霊元天皇の例のみである){{sfn|久保|1998|p=61・66・236}}。}}。
 
父の後水尾法皇は天皇の即位をきっかけに、[[清涼殿]]・[[紫宸殿]]における仏教祈祷を廃止して禁中での祈祷は[[内侍所]]の[[御神楽]]のみに限定して、国家的な祈祷は上七社([[伊勢神宮]]・[[石清水八幡宮]]・[[賀茂別雷神社]]・[[賀茂御祖神社]]{{efn|賀茂別雷神社(上賀茂神社)・賀茂御祖神社(下賀茂神社)は合わせて1社扱い。}}・[[松尾大社]]・[[伏見稲荷神社]]・[[平野神社]]・[[春日大社]])と七大寺([[延暦寺]]・[[園城寺]]・[[興福寺]]・[[東大寺]]・[[東寺]]・[[仁和寺]]・[[広隆寺]])に固定することにした。これは朝儀再興の一環として中世後期以来の朝廷における祈祷の無秩序状態を解消することを目的としていたが、禁中における仏教色の抑制や将軍家の病気平癒の祈祷が禁中で行われている状況を解消して朝廷権威の回復を目指す意図も含んでおり、法皇が以前から抱いていた構想の実現であったとは言え、後に天皇が目指すことになる朝儀復興と朝廷権威の回復政策の先鞭をつけるものとなった<ref>[[間瀬久美子]]「近世朝廷と寺社の祈祷」(初出:『千葉経済論叢』58号、2018年/所収:間瀬『近世朝廷の権威と寺社・民衆』吉川弘文館、2022年)2022年、P173-178.</ref>。
守谷は[[天領|幕府直轄領]]となり、岡登甚右衛門と浅井八右衛門が代官となった<ref name="shimousasouma_ht001490"/>。
 
また、後水尾法皇は天皇の践祚直前に[[葉室頼業]]・[[園基福]]・[[正親町実豊]]・[[東園基賢]]の4名に新天皇の近侍を命じた。彼らは年寄衆もしくは御側衆と称せられた。彼らは元々法皇の近臣で、特に園と東園は外戚(天皇の母方の伯叔父)であった{{sfn|久保|1998|p=105}}。また、将軍徳川家綱の了承を得て、幼い天皇に代わって[[摂政]][[鷹司信房]]が[[武家伝奏]]の[[飛鳥井雅章]]と正親町実豊と共に[[官位]][[叙任]]を取り決めるように命じ、両伝奏の辞任後は[[摂関家]]の[[九条兼晴]]と[[近衛基熈]]が関与した<ref>{{Cite book|和書|author=[[田中暁龍]]|chapter=近世初期の朝廷法制の変容|title=近世朝廷の法制と秩序|publisher=山川出版社|year=2012|isbn=978-4-634-52015-8|pages=58-59}}</ref>。しかし、朝廷運営の実質的な主導者は、後光明天皇の遺志を後水尾院に伝えた[[三条西実教]]であった{{sfn|石田俊|2011|p=376}}<ref>石田、2021年、P17.</ref>。実教は武家伝奏でもなく、年寄衆や当官の[[公卿]]ですらなかったが、幕府の信任や奥向への影響力を背景に朝廷内で大きな権力を振るった{{sfn|石田俊|2011|p=376-377}}<ref>石田、2021年、P17-18.</ref>。
==== 土岐頼行の相馬郡復領から上山転出まで ====
元和5年(1619年)、[[土岐定義]]は高槻で没した<ref name="kanseifu291_kokumin580"/>。子の[[土岐頼行]](12歳)が跡を継いだが、年少であることを理由として、下総国相馬郡内1万石に減転封された<ref name="kanseifu291_kokumin581"/>。大坂と京の中間に位置する要衝である<ref name="nipponica_92644"/>高槻を預けることが不安視されたとみられる<ref name="moriyashi_ht000150"/>。
 
寛文8年([[1668年]])には、天皇が寵愛していた藤大典侍[[坊城房子]]と、実教が推薦した女官・[[田内小路局]]([[西洞院時良]]の娘{{efn|宮中に出仕した時良の娘は2人いるが、田内小路局は東福門院の推挙で宮中に上がった妹の方である{{harv|石田俊|2011|p=382-383}}(石田、2021年、P22.)。姉の平内侍は勾当内侍を務めていたが、三条西実教と密通して後に中御門天皇の外祖母として遇された西洞院時子([[六条局]])を生んだ{{harv|石田俊|2011|p=377-380}}(石田、2021年、P18-21.)。実教の田向小路局支援は東福門院や平内侍(勾当内侍)との関係によるものか。}})の二人が懐妊した。実教は田内小路局を[[女御]]同様の扱いにしようと画策し、後水尾院が一時的に実教ら関係する五卿の出仕を停止する{{efn|狭義の「禁闕騒動」は、寛文8年12月24日に後水尾院が三条西実教・飛鳥井雅章・正親町実豊・園基福・東園基賢の五卿の天皇への出仕を禁止し、翌日に天皇の取成しで赦免された騒動を指す{{sfn|石田俊|2011|p=382}}(石田、2021年、P21.)。飛鳥井は坊城房子の外祖父。園と東園は天皇の外戚。}}。霊元天皇は実教を排斥しようと[[小倉実起]]を通じて[[中院通茂]]に密命を下したが、中院は時節を待つように諫言している{{sfn|石田俊|2011|p=385}}<ref>石田、2021年、P24.</ref>。結局寛文9年([[1669年]])2月と3月に生まれた両者の子はいずれも皇女であり、天皇と近習、中院通茂、[[京都所司代]][[板倉重矩]]らの間で起請文が取り交わされ収拾が図られた{{sfn|石田俊|2011|p=385}}<ref>石田、2021年、P25.</ref>。幕府は禁裏の奥向を統制する必要に迫られ、[[関白]][[鷹司房輔]]の妹の[[鷹司房子]]を入内させることとした{{sfn|石田俊|2011|p=386}}<ref>石田、2021年、P25-26.</ref>。しかしこの入内は天皇の本意ではなかったと見られ、8月14日には実教を排斥するよう板倉重矩に要求し、聞き入れなければ譲位すると迫った。これを受けて実教は所司代より蟄居を命じられた{{sfn|石田俊|2011|p=387}}<ref>石田、2021年、P26.</ref>。
『寛政重修諸家譜』では、頼行の居所は明示されていない<ref name="kanseifu291_kokumin581"/>。寛永2年(1625年)12月11日に[[領知朱印状]]が交付されているが、1万石の領知のうち下総国相馬郡内では19か村8535石とある<ref name="toride_kikakuten36"/>。ただし具体的な村名は不明である<ref name="toride_kikakuten36"/>。さきに定義の領地であった村々である可能性は考えられ<ref name="toride_kikakuten36"/>、「守谷藩」への復帰とされることもある<ref name="toride_kikakuten23"/>{{sfn|『角川新版日本史辞典』|p=1302}}(次節参照)。
 
江戸幕府は鷹司房子が生んだ皇子が次の皇位を継承することを望んでいた。そのため、天皇と房子の関係が上手く言っておらず、反対に寛文11年(1671年)8月に中納言典侍(小倉実起の娘)が皇子(一宮)を生んだことに神経を尖らせ、武家伝奏の中院通茂・[[日野弘資]]と幕府から派遣されていた[[禁裏附]]は一宮と翌年源内侍([[愛宕福子]])が生んだ[[覚観法親王|二宮]]は事実上皇位継承から外すとする合意を取り決めた{{sfn|石田俊|2011|p=393}}<ref>石田、2021年、P33-34.</ref>。加えて、中納言典侍は嫉妬深く、しかも女御である鷹司房子とも不仲であることを理由に後水尾院は出産に先立って中納言典侍を宮中から退出させ、更に彼女の後ろ盾であった先代からの古参女官である大典侍([[小倉公根]]の娘、中納言典侍の大叔母)も鷹司房子や他の女官と対立を深めたために9月に所労を理由に退出することになった{{sfn|石田俊|2011|p=394}}<ref>石田、2021年、P34.</ref>。しかし、過去に田内小路局と大典侍を推薦した東福門院は彼女たちの退出に憤って所司代からの後任推薦の要請を拒絶し、武家伝奏の中院通茂も新しい典侍が天皇と関係を持つことを恐れて後任の決定自体に消極的であったため、結果的に典侍の数が減少して奥の業務に支障を来し始めた(元々、典侍は4名いたが、先の禁闕騒動で藤大典侍が退出し、今回小倉家の2名が退出したことで高齢の大納言典侍([[四辻季継]]の娘)1名になってしまった){{sfn|石田俊|2011|p=397-398}}<ref>石田、2021年、P35-36.</ref>。中納言典侍と大典侍の退出後、天皇との関係が改善された鷹司房子が懐妊したため、幕府では皇子誕生を期待したが、寛文13年([[1673年]])8月に生まれたのは[[栄子内親王|皇女]]であった{{sfn|石田俊|2011|p=398}}<ref>石田、2021年、P36.</ref>。その後、房子から今後も皇子が誕生しなかった場合には一宮を皇位継承者とすることになった(『基熙公記』延宝9年9月18日条){{efn|『基熙公記』によれば、皇女誕生後に京都所司代の[[永井尚庸]]が江戸に下向する際、武家伝奏の[[花山院定誠]]・[[千種有能]]と協議の上でこの方針が決定されたという。ただし、久保貴子によれば、永井の江戸下向は延宝2年4月と延宝4年10月に確認できるが、前者の時には武家伝奏は中院通茂と日野弘資で、後者の時には京都所司代は[[戸田忠昌]]に交替した後にあたり、時期を確定できないという。ただし、『基熙公記』の記述は延宝9年9月のものであり、基熙の記憶違いの可能性も考慮される。}}{{sfn|久保|1998|p=110-111}}。その一方で、典侍の不足問題に所司代も後水尾院も女院も対処しないことに不満を抱いた天皇は、延宝2年([[1674年]])5月に武家伝奏や禁裏附に無断で[[松木宗条]]の娘の[[松木宗子|宗子]]を典侍に任じた。しかも、翌年9月には彼女が五宮となる皇子(後の東山天皇)を生んだ{{sfn|石田俊|2011|p=399}}<ref>石田、2021年、P37.</ref>。
頼行は元和7年(1621年)、荒廃していた[[愛宕神社 (守谷市)|愛宕神社]](守谷市本町)を再建し<ref name="moriya_kougeihin"/>、壮麗な社殿や拝殿を寄進した<ref name="shimousasouma_ht001500"/>(社殿・拝殿は大正時代に焼失<ref name="shimousasouma_ht001500"/>)。このとき、頼行の家臣である井上九左衛門と賀藤久太夫が奉納した[[鰐口]](守谷市指定文化財)が伝わっている<ref name="moriya_kougeihin"/><ref name="shimousasouma_ht001500"/>。
 
=== 親政期 ===
土岐頼行は、寛永元年(1624年)に[[岩槻城]]守衛を命じられるなど、幕府の公務を務めた<ref name="kanseifu291_kokumin581"/>。『寛政重修諸家譜』によれば寛永5年(1628年)2月、「祖父の忠功」を踏まえて1万5000石を加増され(合計2万5000石)、[[出羽国|出羽]][[上山藩|上山]]に移された<ref name="kanseifu291_kokumin581"/>。『[[徳川実紀]]』では『江城年録』を出典として、寛永4年(1627年)3月14日に「下総国守屋」より上山に転封とする<ref name="jikki_kanei040314"/>。
鷹司房子の入内翌年の寛文10年([[1669年]])からは、霊元天皇が官位叙任を直接取り扱うようになり、即位以来武家伝奏を勤めた飛鳥井雅章と正親町実豊は退任し、中院通茂と日野弘資が後任となった{{sfn|石田俊|2011|p=390-391}}<ref>石田、2021年、P31.</ref>。しかし度々天皇や近習の不行跡事件{{efn|寛文11年5月6日には、天皇が中内侍の頭を鏡で殴打し、出血させる事件を起こしている{{harv|石田俊|2011|p=392}}(石田、2021年、P32.)}}が相次ぎ、幕府は後水尾法皇や年寄衆に近習の統制を、[[東福門院]]に奥向きの統制をそれぞれ求めるようになった。これは年寄衆が「[[議奏]]」として朝廷運営の表舞台に出る契機となった{{sfn|石田俊|2011|p=391}}<ref>石田、2021年、P32.</ref>。
 
しかし寛文年間後期から[[延宝]]年間には東福門院や板倉重矩など朝幕の有力者が次々と世を去り、延宝8年([[1680年]])には後水尾法皇が[[崩御]]、さらに将軍[[徳川家綱]]の死とそれにともなう[[大老]][[酒井忠清]]{{efn|酒井忠清は継室([[姉小路公景]]の娘)を通じ、一定の禁裏奥向へのルートを持っていた{{harv|石田俊|2011|p=395-396・399}}(石田、2021年、P37・45.)}}の失脚によって、枷の外れた霊元天皇は自らの路線を強硬に推し進める事となった。霊元の[[関白]]を軽視した朝廷運営に、[[鷹司房輔]]は「所詮当時の躰、摂家滅亡なり、これすなわち朝廷大乱のあいだ」と嘆いている{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1887 / 34%}}。
==== 「廃藩」の時期について ====
歴史事典など全国的な「藩」の動向を扱う書籍類では一般に、「守谷藩」は譜代大名土岐氏1万石の藩として記され、その転出以後は守谷の地に「藩」は置かれなかったという認識が示されている。ただし、土岐氏の藩とした場合にも、土岐頼行が相馬郡内に移されたことの解釈をめぐり、書籍によって「廃藩」の時期が異なる。
 
延宝9年([[1681年]])2月には女御の鷹司房子の立后と、第一皇子の一宮(後の[[済深法親王|勧修寺宮済深法親王]])にかえ、寵愛する[[松木宗子]]の子の五宮を儲君にすることを認めるよう幕府に伝達した<ref name=kubo112>久保、1998年、P112.</ref>{{sfn|野村玄|2010|p=721}}。幕府もこれを承認し、一宮は[[大覚寺]]に入ることとなったが、外祖父小倉実起は一宮を参内させないなどして抵抗した<ref name=kubo112/>{{sfn|野村玄|2010|p=731}}。9月17日には一宮を小倉邸から移動させて幽閉した<ref name=kubo112/>{{sfn|野村玄|2010|p=721}}。小倉は翌年に[[佐渡国|佐渡]]へ[[流罪|流刑]]となっている<ref name=kubo112/>{{sfn|野村玄|2010|p=721}}([[小倉事件]])。一宮は天皇にとっては庶子であり、後水尾法皇も儲君とするよう内定を下していたが、あくまで女御の鷹司房子が皇子を出産しない場合という条件をつけられた上での内定であった<ref>久保、1998年、P110-111.</ref>{{sfn|野村玄|2010|p=729}}(前述の朝幕合意でも、一宮は一旦は皇位継承の対象から排除されている)。一方で、朝幕間の正式な合意による内定を覆すことには公卿間でも反発が強く、大老[[堀田正俊]]も同意見であった{{sfn|野村玄|2010|p=732}}。しかし将軍[[徳川綱吉]]は天皇の意向を尊重するべきであるとし、一宮排斥と五宮の儲君化を容認した<ref name=kubo112/>{{sfn|野村玄|2010|p=732-733}}。なお、小倉事件直後の11月には「おいは(おいわ)」という仮称で呼び続けられていた五宮の生母の松木宗子が正式に典侍に任ぜられて、大典侍に昇進した四辻季継の娘に代わって大納言典侍と称されることになった{{sfn|石田俊|2011|p=400・403}}<ref>石田、2021年、P38・49.</ref>。
一つは、元和3年(1617年)に定義が高槻に移封されたことにより守谷藩は廃藩になったと見なす記述である。『角川地名大辞典』<ref name="kadokawachimei_7277039"/>や『藩と城下町の事典』{{Sfn|『藩と城下町の事典』|p=160}} がこのような認識となっている。この場合、頼行の「藩」については、相馬郡内に所在するものの居所不詳の藩となる。この見地から、頼行の藩は「'''下総相馬藩'''」<ref name="yamacomi_5250"/>{{efn|『藩と城下町の事典』では「上山藩」の項で、「下総国相馬から土岐頼行が入封」と記す{{sfn|『藩と城下町の事典』|p=84}}。}}と表現されることもある。
 
[[天和 (日本)|天和]]2年([[1682年]])、鷹司房輔が関白を辞した際には本来の順序ならば[[左大臣]]である[[近衛基熙]]を[[関白]]に任じるのが通常の流れであった。しかし2月18日に幕府側から申し入れられたのは[[右大臣]]の[[一条冬経]](兼輝)を関白にするという意向であった<ref name=kubo117>久保、1998年、P117-120.</ref>{{sfn|野村玄|2010|p=721}}。これは霊元天皇が自分に批判的な近衛基熙を排斥する意図があったための措置であり、幕府もこれを承認したものであると考えられている<ref name=kubo117/>{{sfn|野村玄|2010|p=735-736}}。一方で、基熙は綱吉の潜在的なライバルである[[徳川家宣]]の岳父であり、また基熙自身の言動が幕府から無条件に信頼を受ける人物ではなかったことも指摘されている{{efn|基熙は左大臣転任の際、談合しなかったことで京都所司代[[戸田忠昌]]の怒りを買っており、さらに独自に幕府へ関白就任を働きかけている{{harv|野村玄|2010|p=735-736}}}}<ref>久保、1998年、P122.</ref>{{sfn|野村玄|2010|p=735-736}}。
もう一つは、頼行が守谷藩に復帰したとする見解である。『角川新版日本史辞典』の「近世大名配置表」では、定義の代に転出した土岐家は頼行の代に守谷藩に戻り、頼行の転出(寛永4年説をとっている)をもって廃藩となったと記している{{sfn|『角川新版日本史辞典』|p=1302}}。『日本史広辞典』(山川出版社)の一覧表「大名配置」では、1628年に上山藩に移された頼行の前封地が下総守谷とある{{efn|『日本史広辞典』の一覧表「大名配置」は主要な藩のみを扱っており、守谷藩の掲載はない。高槻藩の項目では1617年に土岐定義が「下総守谷」から入封し、1619年に土岐頼行が「下総国内」に転封されたと記す{{sfn|『日本史広辞典』|p=90}}。ただし、上山藩の項目では1628年に土岐頼行が「下総守谷」から入封したことが記されている{{sfn|『日本史広辞典』|p=80}}。なお、安中藩の項目には1667年に堀田正俊が「相模・下総・常陸国内」から入封したとあり、堀田正俊の「守谷藩」は認めていないことになる{{sfn|『日本史広辞典』|p=82}}。}}。
 
天和3年([[1683年]])、五宮朝仁親王(後の[[東山天皇]])の[[立太子礼]]が行われた。これは[[貞和]]4年([[1348年]])の[[直仁親王]]立太子以来335年ぶりの出来事であり、霊元の強い要請を受けた幕府が、今後行われる[[皇太子]]の諸儀式に別途支出を行わないことを条件に承認したものであった{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1887 / 34%}}。[[貞享]]元年([[1684年]])2月25日には譲位の意向を伝えた{{efn|2日前に天皇より譲位の意向を伝えられた摂家衆の一人である近衛基熙は、天皇側近である武家伝奏の[[花山院定誠]]・[[甘露寺方長]]の振る舞いが問題とされ、1月に議奏の[[葉室頼孝]]が蟄居を命じられた件に関連して京都所司代[[稲葉正通]]が調査に乗り出す可能性が出てきたことが直接の原因ではないかと疑っている<ref name="名前なし-1">久保、1998年、P113-114.</ref>。}}が、この際は幕府から拒否された。しかし天皇は貞享3年([[1686年]])閏3月に譲位は了承された<ref>久保、1998年、P122-124.</ref>{{sfn|野村玄|2010|p=738}}{{efn|久保貴子は、霊元天皇は自己を中心とした朝廷の再編成を目指し、朝廷人事を自派で固めた上で朝儀を再興して自己を力を誇示して朝廷の実権を図り、最終的には自己の院政を実現させて自由な立場で朝廷運営を行うことを目指しており、小倉事件・一条冬経の関白任命・東山天皇への譲位もそのための工作の一環であったとする説を唱えている<ref name="名前なし-1"/>。}}。
=== 土岐氏以後の「守谷藩主」 ===
土岐氏以後に当地の領主となり、守谷に支配拠点(陣屋)を置いた[[堀田正俊]]・[[酒井忠挙]]らも「守谷城主(守谷藩主)」として扱われることがある{{efn|堀田正俊の政治思想について検討した論文で小川和也は、正俊は「守谷藩」の藩主であるとしている{{sfn|小川和也|2007|pp=40-41}}。一般的には土岐氏(土岐定義の高槻移封)以後「藩」が存在しなかったとされていることについて触れたうえで{{sfn|小川和也|2007|p=40}}、注釈で「ここには「藩」とは何か、という大きな問題がある」(が詳述する余地がない)としている{{sfn|小川和也|2007|p=79}}。}}。たとえば、川嶋建・石井國宏共著『守谷城と下総相馬氏』(守谷市、2022年)では、土岐定政・定義・頼行の3代に加え堀田正俊・酒井忠挙も「守谷藩主」の歴代に含めている<ref name="shimousasouma_ht001470"/><ref name="shimousasouma_ht000470"/>。
 
=== 朝廷執行部・幕府との対立 ===
土岐頼行の転出後、その旧領1万石は分割され、守谷を含む9000石が旗本[[伊丹康勝]]{{efn|『寛政譜』によれば寛永5年(1628年)、伊丹康勝は加増を受けるとともに、それまでに与えられた領地が移され、下総国相馬郡で9000石を知行したという<ref name="kanseifu276_kokumin480"/>。なお、土岐頼行の正室は伊丹康勝の娘である<ref name="kanseifu291_kokumin581"/><ref name="kanseifu276_kokumin482"/>。}}に、1000石が[[伊丹勝長]](康勝の子)に与えられたと見られる<ref name="toride_kikakuten23"/>。寛永10年(1633年)、康勝は3000石の加増を受けて大名となり、領地を甲斐に移された(甲斐国[[徳美藩]])<ref name="toride_kikakuten23"/><ref name="shimousasouma_ht001500"/>。守谷は幕府直轄領となり、伊丹勝長らによる代官支配となった<ref name="shimousasouma_ht001500"/>{{efn|承応2年(1653年)に康勝が死去すると勝長が家督を継ぎ、相馬郡の1000石の領地は収公された<ref name="toride_kikakuten23"/><ref name="kanseifu276_kokumin481"/>。}}。寛永15年(1638年)から守谷は[[堀田正盛]]領(はじめ[[松本藩]]主、寛永19年(1642年)より[[佐倉藩]]主)となった<ref name="shimousasouma_ht001500"/>。
[[貞享]]4年([[1687年]])、朝仁親王への譲位が行われることとなった。霊元天皇はこれに伴い、長年中断していた即位式と共に行われる大祭[[大嘗祭]]を行うことを強く要望した<ref>久保、1998年、P123-124.</ref>{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1899 / 34%}}。大嘗祭再興については朝廷内にも財源と準備が不足であるとした、[[左大臣]]近衛基熙をはじめとする強い反対派が存在した。更に[[神仏分離]]を唱える[[垂加神道]]を支持してその教義に基づく大嘗祭を行おうとする一条冬経と[[神仏習合]]を唱える[[吉田神道]]を支持する近衛基熙という対立構図も存在していた{{Sfn|山口|2017|p=217}}。
 
幕府が理想とする上皇は朝廷に口出しせず、諸事質素であった[[明正天皇|明正上皇]]の姿であり、霊元も譲位後は「本院御所之格(明正上皇と同じ格)」であることが求められた{{sfn|野村玄|2010|p=742}}。さらに霊元の素行に不信感を持っていた幕府は「当今之御まねヲ不被候儀二仕度候(東宮は霊元天皇の真似をしないようにしたい)」<ref>貞享三年11月7日付[[大久保忠朝]]・[[阿部正武]]・[[戸田忠昌]]・[[牧野成貞]]宛土屋政直書状案、{{harv|野村玄|2010|p=742}}。</ref>という考えもあり、新天皇が霊元の影響を受けないことを望んでいた{{sfn|野村玄|2010|p=742}}。また、幕府は霊元が院政を開始することに反対の意思を示し、譲位後は政務に関与せず関白・武家伝奏・議奏によって朝廷運営が行われることを求めた<ref>『基量卿記』貞享3年12月23日条所引、貞享三年11月23日付土屋政直宛大久保忠朝・阿部正武・戸田忠昌・牧野成貞連名[[老中奉書]]</ref><ref>久保、1998年、P125-127.</ref>。京都所司代[[土屋政直]]は天皇の機嫌を損ねて譲位の手続きが延引することを恐れており{{sfn|野村玄|2010|p=742}}、綱吉も大嘗祭の再興には不安感を持っていたものの、大嘗祭の再興に関しては臨時支出を求めないという霊元側からの申し出もあり、最終的に大嘗祭を容認した{{sfn|野村玄|2010|p=743-744}}。
==== 堀田正俊 ====
慶安4年(1651年)、堀田正盛は将軍徳川家光に殉死した<ref name="shimousasouma_ht001500"/>。正盛の三男の[[堀田正俊]](12歳)は、父の遺領のうちから下総国・常陸国内で1万石を分けられ、従前の知行地3000石{{efn|養母[[春日局]]から継承した知行地<ref name="shimousasouma_ht001510"/><ref name="kanseifu645_kokumin417"/>。相模国高座郡にあった{{sfn|小川和也|2007|p=41}}。}}と合わせて1万3000石の大名となった<ref name="shimousasouma_ht001510"/><ref name="kanseifu645_kokumin417"/>。正俊は守谷に陣屋を構えた<ref name="shimousasouma_ht001510"/>{{efn|『改訂増補 守谷志』では、正俊が幼少であったために守谷城に入らず江戸にとどまったと記すが<ref name="moriyashi_ht000160"/>、大名が「居所(居城・国元)」に赴かないことは必ずしも特異な事態ではない。ごく小規模の藩では、知行地には郷役人のみを配置し、その他の藩士はすべて江戸に在住するという例もある<ref>{{citation|和書|author=[[白峰旬]]|title=『土芥寇讎記』における「居城」・「居所」表記に関する一考察|journal=別府大学大学院紀要|issue=10|year= 2008|url=http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=gk01009|page=108}}</ref>。}}。この頃の正俊の家臣団は士分108人であったが、そのうち92人が江戸詰めで、守谷の陣屋には16人のみが詰めていた{{sfn|小川和也|2007|p=41}}。
 
こうして文正元年([[1466年]])以来219年ぶりの大嘗祭が行われたが、大嘗祭前後の節会が3日から1日に変更され、天皇が[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]で[[禊]]を行う[[御禊行幸]]が幕府の反対で行われないなど、極めて簡略化されたものとなった{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1899 / 34%}}。近衛基熙は御禊行幸の中止は神慮にかなわないとして反対し、霊元の兄の[[尭恕法親王]]もこの大嘗祭は朝廷も幕府も誰一人納得しておらず、神を欺くものであると強く批判した{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1923-1938 / 34-35%}}。このため、次の[[中御門天皇]]即位の際には大嘗祭は行うことはできず、再び中絶することとなる{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1938 / 35%}}。霊元はこの他にも[[石清水八幡宮]][[放生会]]や[[賀茂祭]]の再興を行っている{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1852 / 33%}}。
万治3年(1660年)に正俊は[[奏者番]]に就任するなど{{sfn|小川和也|2007|p=87}}、幕府官僚として活発な活動を見せていた。なお万治3年(1660年)には兄の[[堀田正信]]が幕政を批判して佐倉に無断帰国しており、正盛は上使として佐倉に赴き、兄に佐倉からの退去命令を伝える役目を果たしている{{sfn|小川和也|2007|p=87}}。堀田家の史料「叢翁紀羽林公家譜」によれば、寛文5年(1665年)に正俊は知行地である守谷に赴いている{{sfn|小川和也|2007|p=88}}。正俊が「守谷目付」2人に対して家臣統制と民政の基本方針を示した「目付心得三条」と呼ばれる年月不明の覚書が伝わっているが{{sfn|小川和也|2007|pp=41-42}}、この「[[参勤交代]]」が行われた時期とも推測される{{sfn|小川和也|2007|p=88}}。
 
霊元は[[太上天皇]]となった後、[[仙洞御所]]に入って[[院政]]を開始し、以後仙洞様とよばれるようになる。霊元の院政は後水尾院政と異なり、朝廷の機構を掌握するのではなく、仙洞御所に別個の機構を確立して、そこから朝廷機構に指示を下すというものであり、以降江戸時代の院政の慣行となる{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1710 / 30%}}。仙洞御所では霊元の意思で選定された[[院評定]]が合議を行い、霊元に任じられた[[院伝奏]]が幕府と連絡を取り扱った{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1710 / 30%}}。また朝廷の主宰者であるという意識を強く持っており、東山天皇が成人するまで本来天皇が行う儀式である[[四方拝]]を仙洞御所にて行っている<ref>久保、1998年、P134-135.</ref>{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1721 / 31%}}。
寛文7年(1667年)、正俊は7000石を加増の上で領地を[[上野国]]に移され、[[安中藩]]主となった<ref name="shimousasouma_ht001510"/><ref name="kanseifu645_kokumin417"/>。
 
これら霊元の姿勢は朝廷執行部との確執を生んだ。[[元禄]]元年([[1688年]])10月、霊元と対立していた近衛基熙の正室[[常子内親王]]{{Efn|通称・品宮、霊元天皇の同母姉。}}から霊元に対して基熙が左大臣を辞退する意向であることが伝えられている。表向きの理由は長年左大臣を務めたことで他の者が昇進できなくなっていることや譲位に関連する儀式が終わったことを上げている。しかし、霊元は将来的には基熙が関白に就任すべきであるとして慰留をしながらも、基熙の本心は関白昇進を一条冬経に先を越されたことで面目を失ったからだと指摘し、基熙が関白になれなかったのは「神慮」であると述べて却って基熙を憤慨させている(『基熙公記』元禄元年10月26日条)<ref name=kubo135>久保、1998年、P135-138.</ref>。その一方で、一条冬経{{Efn|貞享4年3月の東山天皇の践祚に伴い摂政に転じるが、2年後の元禄2年3月に再び関白に転じる。}}からも基熙と同様の理由で摂関を辞退したいという意向が元禄元年2月と元禄2年10月に霊元に伝えられているが、霊元は2度とも慰留の意思を伝え、一条冬経が健康問題を理由として(2度目の)辞退の意向が固いと知るや将来の再任を前提としてこれを認めることを伝えている<ref>久保、1998年、P137.</ref>。かくして、元禄3年(1693年)1月、基熙が関白に就任することになった<ref name=kubo135/>。
==== 酒井忠挙 ====
寛文8年(1668年)、[[大老]][[酒井忠清]]の子・[[酒井忠挙]]は、部屋住みのまま下総国・武蔵国・相模国・上野国・常陸国5か国内で2万石を与えられた<ref name="shimousasouma_ht001520"/><ref name="kanseifu59_kokumin320"/>。このうち1万石が守谷周辺に所在し、忠挙は守谷に陣屋を構えた<ref name="shimousasouma_ht001520"/>。寛文10年(1670年)に守谷領への初入部を行い<ref name="shimousasouma_ht001520"/>、翌年には正八幡宮(守谷市本町)に参詣して鏑矢を奉納した<ref name="shimousasouma_ht001520"/>。
 
元禄3年10月、霊元は[[西本願寺]]に対し、門跡(法主)が参内の際には四足門透垣の外で牛車の下轅・乗轅をするように命じた。霊元の在位中は透垣の内で下轅・乗轅を行っていたことから、関白である近衛基熙や武家伝奏の[[千種有維]]・[[柳原資廉]]は困惑した。間もなく、天皇の外祖母である東二条局([[河鰭秀子]]){{Efn|内大臣松木宗条の室で、松木宗子の母。}}の[[口入]]があり、霊元もこれに同調していることが判明する。霊元はこの新規定は西本願寺だけでなく、[[東本願寺]]・[[専修寺]]・[[佛光寺]]などの他の[[浄土真宗]]系の門跡に適用する方針であることを表明した{{Efn|久保貴子は浄土真宗系の寺院は准門跡であったからと解説をしている<ref>久保、1998年、P140.</ref>が、事実関係はやや異なる。[[太田光俊]]の研究によれば、本願寺の東西分裂前の[[永禄]]2年([[1559年]])に、本願寺は歴代の法主が摂関家の猶子になっていることを理由に門跡成を申請して[[正親町天皇]]の勅許を得ていたが、[[豊臣秀吉]]の命令で本願寺が京都に移されて法主の参内が発生すると、京都の諸門跡寺院などから本願寺をはじめとする浄土真宗系寺院の門跡としての資格に疑義が出されるようになった。後水尾・霊元両院も共に浄土真宗系寺院の門跡資格に疑義を持っていたとされ、その結果霊元院政下の元禄13年(1700年)頃に東西本願寺などの浄土真宗系寺院を准門跡とすることが決定された。元禄3年の門跡の下轅・乗轅場所の問題はその過程で起きた事件と言える<ref>太田光俊「本願寺〈門跡成〉と〈准門跡〉本願寺」[[永村眞]] 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3</ref>。いずれにしても、霊元が東西本願寺を含めた浄土真宗系の門跡寺院(開祖の[[親鸞]]は[[名家 (公家)|名家]]格とされた[[日野家]]の出身)と皇族や摂家などの子弟が門主となる古くからの門跡寺院(宮門跡・摂家門跡)との間に格差をつけようとしたと考えられている。合わせて[[門跡#本願寺の門跡成]]も参照のこと。}}。両本願寺などに対する院宣を受けた一条冬経は霊元の考えに賛同はするが先例を調べた上できちんと説明を尽くすことを求め、基熙が先例を改める必要がある場合でも霊元の行為は独断に過ぎると反対した。京都所司代の[[内藤重頼]]も上皇が相談もなくこのような決定を下したことに不満を抱いた。元禄4年(1691年)4月に入ると、西本願寺から基熙と京都所司代[[松平信興]](内藤の後任)に対して門徒たちが納得しないので院宣の撤回の取り成して欲しいとの申し入れがあった。これを受けて4月8日に基熙は霊元と会談して院宣の撤回を申入れて霊元も一度はこれに同意をしたが、12日にはやはり撤回しない意思を表明した。西本願寺は東本願寺と協議をして上皇の院宣について江戸の幕府に訴えることを決め、松平信興も江戸を巻き込む前に院宣を撤回して事態を収めた方が良いと諫言した。5月5日になって霊元も撤回は止むを得ないという判断に傾いたが、一度出された院宣を撤回する訳にも行かず、最終的に5月16日になって基熙や両伝奏が提案した「院宣は撤回しないが、門徒たちの愁訴に応えて憐愍を示す」として透垣の内での牛車の下轅・乗轅を認めることで事態の収拾が図られた。結果的には霊元の院宣が関白以下の公家たちや京都所司代の反対で覆されたことになり、霊元の権威は傷つくことになった<ref>久保、1998年、P139-142.</ref>。
忠挙は守谷領において寛文12年(1672年)以来4回にわたって検地をおこなった<ref name="shimousasouma_ht001520"/>。寛文期に利根川の開鑿が行われ([[利根川東遷事業]]参照)、農地開発がすすめられたことが背景としてあり<ref name="shimousasouma_ht001520"/>、利根川の堤外地が年貢賦課の対象となるなど、年貢増徴が図られた<ref name="shimousasouma_ht001520"/>。[[天和 (日本)|天和]]元年(1681年)、忠挙は酒井家の家督を継いで[[上野国]][[前橋藩]]主となるが、この際に部屋住み時代に与えられた2万石は収公された<ref name="kanseifu59_kokumin320"/>。
 
この騒動の中で、霊元は前関白[[一条冬経]]から朝廷執行部への政務の移譲を迫られた。4月14日、霊元はこれに対し、一般的な政務は移譲するが、重要事項には変わらず関与し続ける方針を示した。さらに院伝奏と院評定に宛て、関白・武家伝奏・議奏の朝廷執行部が霊元と天皇に忠誠を誓う誓詞を出すよう要請した。関白近衛基熙が「天魔の所為」と憤り、武家伝奏千種有維が「落涙の他言語なし、あい共に天を仰ぐのみ、朝廷の零落この日か」と嘆くなど、仙洞御所と朝廷執行部の亀裂はいよいよ深まった<ref>久保、1998年、P145-147.</ref>{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1733-1761 / 31%}}。この事態は幕府にとっても容認できるものではなく、5月23日、近衛基熙邸にて関白・武家伝奏・議奏・京都所司代・[[禁裏附]]という京都における公武の代表者が一堂に会合を開き、改めて譲位後の院政は不可であり、関白が中心として朝廷運営を行うべきであるとする幕府の方針が確認された<ref>石田、2021年、P55-56.</ref>。
『改訂増補 守谷志』などの郷土史的著作では、「最後の城主」[[酒井忠挙]]が天和元年(1681年)に前橋に移ったことにより守谷城は廃城となった、という認識が記される<ref name="moriyashi_ht000170"/><ref name="shimousasouma_ht001520"/>。
 
この会合以降、霊元は表向きでは政治的な発言を控えるようになるが、一方の東山天皇も元禄4年時点でまだ17歳であり、実際には当面の間は近衛基熙が朝廷の運営を行い、並行して京都所司代や禁裏付の支援を受けながら親政への移行準備を進めることとされた<ref>石田、2021年、P56-59.</ref>。霊元上皇は表向きは反対をせず、元禄5年(1692年)には上皇から仙洞御所に持ち出された国史や記録を[[禁裏文庫]]に返還したいとの意向が示され、6月には仙洞御所にある文献の目録が天皇に贈られるが、朝廷内部より禁裏文庫の補修・増築の必要性が指摘されたために実際の返還は親政開始に合わせることになった<ref>石田、2021年、P58-59.</ref>。元禄6年9月12日には天皇の親政開始を前提として議奏の追加([[中御門資熙]]・[[久我通誠]]・[[清水谷実業]])が行われている<ref>石田、2021年、P59.</ref>。
== 歴代藩主 ==
[[#藩史]]節で述べた通り、「藩主」にどこまで含むかには諸説がある。
 
ついに元禄6年([[1693年]])10月23日には、譲位後に霊元が政務に口出ししてはならないという将軍綱吉の意志が伝えられた(ただし、前述のように院政は事実上停止しており、親政への移行作業には京都所司代なども関与している)。これを受けて11月26日には政務の完全な移譲が行われた。しかし霊元上皇は裏面からの介入を諦めようとははしなかった{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1772-1785 / 32%}}。
=== 土岐家 ===
[[譜代大名|譜代]] 1万石
#[[土岐定政|土岐(菅沼)定政]](さだまさ) 従五位下山城守
#[[土岐定義]](さだよし) 従五位下山城守
#[[土岐頼行]](よりゆき) 従五位下山城守
 
東山天皇と近衛基熙が取り組んだのは、霊元の影響力排除であった。基熙は幕府と連携し、元禄13年([[1700年]])までに霊元派の公家を重職から排除している{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1980 / 35%}}。また将軍綱吉も積極的に朝廷支援を行うようになり、[[宝永]]2年([[1705年]])には[[禁裏御料]]を1万石増進し、宝永3年([[1706年]])には[[仙洞御料]]を3千石増進している{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 2028 / 36%}}。しかし、その一方で、綱吉と幕府は東山天皇の生母で霊元が寵愛する[[松木宗子]]とその信任が厚い議奏[[中御門資熙]]を支援して親幕府派に取り込んで、霊元及び基熙の両方を牽制させようとしたことで朝廷は表は資熙が、奥は宗子とその母の東二条局(河鰭秀子)が掌握する結果となり、事態が混沌とすることになった<ref>石田、2021年、P55-66.</ref>。しかし、天皇親政を主張してきた江戸幕府の影響によって霊元に近い筈の宗子や資熙が霊元院政に取って代わる事態は、天皇や基熙から見れば親政実現の障害でしかなく、彼らはこの動きに反発して資熙の排除を幕府に要請するが、京都所司代[[松平信庸 (篠山藩主)|松平信庸]]は宗子と資熙のおかげで朝廷運営が幕府の望ましい方向に向かっていると評価していたために全く話が噛み合わなかった(綱吉自身が生母の[[桂昌院]]や側用人の[[柳沢吉保]]を重用している手前、天皇の生母である宗子や側用人的な立ち位置にある資熙を排除するという選択肢がなかったという見方もある)<ref>石田、2021年、P67-68.</ref>。しかし、基熙の縁戚にあたる[[上臈御年寄]][[右衛門佐局]]を介して天皇の意向が直接綱吉に伝えられたことで、元禄12年([[1699年]])に幕府より資熙に蟄居が命じられて事態が収拾されることになった<ref>石田、2021年、P68.</ref>。また、東山天皇の男子が早世が多く、霊元上皇と松木宗子が寵愛していた三宮(後の[[公寛入道親王]]、母は[[冷泉経子]])に将来の皇位継承への期待が掛けられていたが、同じ頃に三宮の本当の父は[[京極宮文仁親王]]{{Efn|東山天皇は同母弟である京極宮の動きに警戒感を示しており、中御門資熙が蟄居を命じられたのも松木宗子と資熙が天皇を廃位して京極宮を皇位に就けるという風説が流された直後のことであった<ref>石田、2021年、P68-71..</ref>。}}であるという噂が流れていた(『基熙公記』元禄13年3月18日条)。この噂を危惧した東山天皇は霊元の反対{{Efn|『基熙公記』元禄13年3月15日条において櫛笥賀子が四宮にあたる寿宮を生んだ際に霊元と宗子が不快感を示したことに対して近衛基熙は憤慨したことが記されている。東山天皇は寿宮の存在を背景に三宮の出家を決めたが、永禄14年に寿宮が早世し、同年に生まれた同母弟の長宮(中御門天皇)が皇位継承者として浮上することになる。}}を押し切って、元禄13年(1700年)に三宮を[[円満院]][[門跡]]にする方針を示して幕府の了承を得た。翌年、三宮の異母弟で五宮にあたる長宮(後の中御門天皇、母は[[櫛笥賀子]])が誕生し、宝永4年(1707年)には幕府の了承を得て長宮が儲君に立てられた。結果的に小倉事件と同じように父天皇の意向で皇位継承の最有力者が出家させられて、五宮が次期天皇に立てられることになったが、大きな騒動にはならなかった。この時の一連の幕府との交渉で暗躍したのが、中御門資熙の排除をきっかけに天皇との連携を強化した近衛基熙であった<ref>久保、1998年、P170-176.</ref>。
=== 堀田家 ===
譜代 1万3000石
*[[堀田正俊]]
 
=== 酒井家第二次院政 ===
宝永6年12月17日([[1710年]])、9歳の[[中御門天皇]]に位を譲り院政を開始していた東山上皇が[[天然痘|疱瘡]]で急逝し、霊元上皇の院政が再開された<ref>久保、1998年、P176-177.</ref>。
譜代 2万石
*[[酒井忠挙]]
 
しかし、近衛基熙は綱吉のあとを継いだ将軍[[徳川家宣]]の岳父であり、霊元も融和的にならざるを得なかった。基熙の子の[[摂政]][[近衛家熙]]を宝永7年12月に[[太政大臣]]としたほか{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 2028 / 36%}}、[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])8月、家熙の娘である[[近衛尚子|尚子]]を中御門天皇の女御にすることを許し、[[享保]]元年([[1716年]])には女御として入内させている{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 2028 / 36%}}<ref>久保、1998年、P185-186.</ref>。
== 領地 ==
=== 守谷領 ===
守谷は中世の[[相馬御厨]]に含まれる<ref name="kadokawachimei_7277038"/>。「もりや」という地名が確認されるのは、14世紀末から15世紀初頭<ref name="shimousasouma_ht000490"/>{{efn|文書の成立年は未詳<ref name="kadokawachimei_7277038"/>。『角川地名大辞典』は「鎌倉時代後期」としている<ref name="kadokawachimei_7277038"/>。}}に記されたと推定される史料「上総国并下総国内岩松氏本知行分注文」に「北相馬守屋」として現れるのが初出という<ref name="kadokawachimei_7277038"/><ref name="shimousasouma_ht000490"/>。
 
私生活では、60歳を過ぎても中臈の[[松室敦子]]らとの間に子女を儲けているが、その一方で東山上皇に続いて京極宮文仁親王にも先立たれた准后・松木宗子が正徳元年(1711年)10月に突如仙洞御所を去って出家を果たした。江戸幕府と関係を結んで霊元や東山とも一時的に権力を争った彼女に対する朝廷の待遇は冷たく、出家から2か月後に女院の称号を贈ることになったが、女院号については宗子の出家後の法名をそのまま転用した「敬法門院」とした<ref>久保、1998年、P180-181.</ref>。
土岐定政に与えられた1万石の領地には下記の村が含まれていた<ref name="choushi_ht040030"/>。
*現在の[[守谷市]]域:[[乙子 (守谷市)|乙子]]、[[小山 (守谷市)|小山]]、[[鈴塚]]、高野、同地、[[赤法花]]、[[立沢 (守谷市)|立沢]]、[[野木崎]]、[[大木 (守谷市)|大木]]、守谷
*現在の[[取手市]]域:[[戸頭 (取手市)|戸頭]]、米野井、野々井、稲、大鹿、取手、市ノ代、上高井、下高井、貝塚
*現在の[[常総市]]域:坂手、報恩寺、大塚戸、菅生
*現在の[[つくばみらい市]]域:青古新田、長渡呂新田、青木
*現在の[[坂東市]]域:神田山、幸田
 
正徳2年10月、徳川家宣が急逝すると、幼君の権威を強化するため、幕府は朝廷の権威にすがろうとした{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 2134 / 38%}}。霊元は幕府の要請に応じ、後継者である鍋松のために「[[徳川家継|家継]]」の名を与えた{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 2134 / 38%}}。更に正徳4年([[1714年]])4月の[[徳川家康]]百回忌には、自筆の経文を下賜している{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 2134 / 38%}}。9月には皇女[[八十宮]][[吉子内親王]]と家継の婚約を実現させたが{{Efn|近衛基熙は朝廷の権威を傷つけるものであるとして激しく反発したが(『基熙公記』正徳5年7月9日条)<ref name=kubo188>久保、1998年、P188-190.</ref>、娘の天英院([[近衛熙子]])が以前に近衛家が尚子と徳川家継の婚約内定を破棄して入内させたことを苦にしてこの婚約話を推進していることを知って沈黙せざるを得なかったという{{Sfn|山口|2017|pp=211・213-214}}。}}、こちらは家継死去のために実現しなかった<ref name=kubo188/>{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 2145 / 38%}}。こうして霊元が近衛家への厚遇と幕府との連携に転じたことで、近衛家や幕府の不満は和らいでいった{{Sfn|山口|2017|pp=208-216}}。
====守谷城====
[[ファイル:Moriya castle.jpg|200px|thumb|守谷城址石碑(右奥は守谷小学校)]]
{{main|守谷城}}
戦国期の守谷城は、内海あるいは湖沼地帯に突き出した台地上に位置する<ref name="shimousasouma_ht000540"/>、天然の要害であった<ref name="choushi_ht031040"/>。城の大手門は現在の[[守谷市立守谷小学校|守谷小学校]]前に位置していた<ref name="shimousasouma_ht000540"/>。この城の縄張りの説明に用いられる用語(曲輪の名称など)は書籍によってまちまちであるが、『守谷城と下総相馬氏』に従えば、清水門より奥の半島先端部が「城山地区」、清水門と大手門に挟まれた地区が「城内地区」、大手門外が「城下地区」とまとめられている<ref name="shimousasouma_ht000540"/>。
 
しかし霊元自身の近衛家に対する憎悪は残っており、享保17年([[1732年]])2月に書かれ、[[下御霊神社]]に奉納された自筆願文の中で「執政すでに三代」を重ねた「私曲邪佞の悪臣」「邪臣」を神や将軍の力で排除されるよう祈願している。これは基熙の孫に当たる当時の関白[[近衛家久]]{{Efn|家久の母は霊元の第二皇女[[憲子内親王 (霊元天皇皇女)|憲子内親王]]であるため、霊元は自分自身の孫を呪詛していたことになる。}}を指したものと見られている{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 2189-2203 / 39%}}。
「城山地区」は「詰めの城」としての役割を担った中核部分であり<ref name="shimousasouma_ht000560"/>、現代では[[守谷城址公園]]の「城址ゾーン」として、往時の城跡が残されている。「城内地区」は大手門の内側にあたり<ref name="shimousasouma_ht000560"/>、発掘調査では家臣の屋敷や倉庫と考えられる建物遺構などが検出されている<ref name="shimousasouma_ht000560"/>。明治初年の地図には、清水門手前の守谷小学校校庭にあたる場所に「陣屋跡」が記されており、堀田氏以降の陣屋が置かれた可能性がある<ref name="shimousasouma_ht001510"/>。このほか、重臣25人の屋敷があったという「二十五軒」や、家老井上九左衛門の屋敷があったという「九左衛門屋敷」など、土岐氏時代に由来するという地名が残っていた<ref name="choushi_ht040120"/>。「城下地区」は大手門の外側にあって「城下町」として機能した地区である<ref name="shimousasouma_ht000560"/>。南の薬師堂付近には土塁跡があり、総構えがあったと見なされる<ref name="shimousasouma_ht000560"/>。城下地区は、のちの守谷町の中心地となる<ref name="shimousasouma_ht000560"/>。
 
[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]])8月、落飾して'''[[法皇]]'''となる。法名は素浄。これ以降、天皇が法皇になった例は無く、[[日本最後の一覧#天皇・朝廷および律令制に由来する地位・官職|最後の法皇]]となった。
==== 城下町・守谷 ====
[[File:Choshi Kaido in Moriya City 001.jpg|thumb|200px|守谷市本町の旧銚子街道(2009年撮影)]]
{{see also|守谷 (守谷市)|本町 (守谷市)}}
守谷には江戸時代、常陸国[[下館市|下館]]から[[銚子市|銚子]]に至る街道(銚子街道<ref name="kadokawachimei_7277039"/><ref name="choushi_ht040120"/>、房総街道<ref name="kadokawachimei_7277039"/>){{efn|下館から守谷・取手を経由して柏に至る交通路は、現代の[[国道294号]]に引き継がれている。}}が通っており<ref name="kadokawachimei_7277039"/>、この街道に沿う形で小規模ながら町場が発展した<ref name="choushi_ht040120"/>。「城下町」としての役割を終えた後も、守谷は[[在郷町]]として周辺農村との商品流通の中心地として機能した<ref name="kadokawachimei_7277039"/><ref name="choushi_ht040120"/>。
 
[[享保]]2年([[1717年]])、幼年を理由に行われてこなかった(霊元上皇・法皇が代わりに行って来た)中御門天皇の[[四方拝]]実施と共に院政は終了する{{Sfn|山口|2017|p=227}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="kadokawachimei_7277042">{{cite web|url=http://jlogos.com/docomosp/word.html?id=7277042|title=守谷藩(近世)|work=角川日本地名大辞典|accessdate=2023-05-06}}</ref>
<ref name="kadokawachimei_7277039">{{cite web|url=http://jlogos.com/docomosp/word.html?id=7277039|title=守谷町(近世)|work=角川日本地名大辞典|accessdate=2023-05-06}}</ref>
<ref name="kadokawachimei_7277038">{{cite web|url=http://jlogos.com/docomosp/word.html?id=7277038|title=守屋(中世)|work=角川日本地名大辞典|accessdate=2023-05-06}}</ref>
 
享保17年([[1732年]])8月6日、[[崩御]]、宝算78。
<ref name="nipponica_92644">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E6%A7%BB%E8%97%A9-92644|title=高槻藩|work=日本大百科全書(ニッポニカ) |author=藤本篤|accessdate=2023-05-06}}</ref>
 
== 歌道や諸芸の才 ==
<ref name="yamacomi_5250">{{Cite web|和書|url=https://www.yamacomi.com/5250.html|title=~やまがた~藩主の墓標/(23)沢庵と上山との縁|author=加藤貞仁
霊元天皇は、兄の[[後西天皇]]より[[古今伝授]]を受けた歌道の達人であり、皇子である[[一乗院宮尊昭親王]]や[[有栖川宮職仁親王]]をはじめ、[[中院通躬]]・[[武者小路実陰]]・[[烏丸光栄]]などの、この時代を代表する歌人を育てたことでも知られている。後水尾天皇に倣い、勅撰和歌集である『[[新類題和歌集]]』の編纂を[[烏丸光栄]]・[[三条西公福]]・[[水無瀬氏成]]・[[高松重季]]・[[武者小路実陰]]に命じた。
|date=2015-6-26|work=yamacomi|publisher=山形コミュニティ新聞社|accessdate=2023-5-6}}</ref>
 
また、桃山から江戸期にかけての歴朝で後陽成天皇と並ぶ能書の帝王でもある。霊元院の自筆の書は、近臣の手を経て、柳沢家などの極限られた大名家に伝世し、家宝として相伝されている。
<ref name="moriyashi_ht000150">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100040/ht000150|title= 沿革>六、土岐氏居城|work=改訂増補 守谷志(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
<ref name="moriyashi_ht000160">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100040/ht000160|title= 沿革> 七、堀田備中守正俊居城|work=改訂増補 守谷志(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
<ref name="moriyashi_ht000170">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100040/ht000170|title= 沿革> 八、酒井河内守忠擧所領|work=改訂増補 守谷志(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
 
[[有栖川流書道]]は、この天皇の書風から派生したことでも知られる。
<ref name="choushi_ht031040">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100010/ht031040|title= 第三編>第六章>第四節 守谷城>本城の立地|work=守谷町史(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
<ref name="choushi_ht040030">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100010/ht040030|title= 第四編>第一章>第三節 土岐氏の守谷入城>土岐氏の入府
|work=守谷町史(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
<ref name="choushi_ht040120">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100010/ht040120|title= 第四編>第三章>第一節 村落の歴史>守谷町|work=守谷町史(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
 
== 系譜 ==
<ref name="shimousasouma_ht000440">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100050/ht000440|title= 第四章 守谷城>二、守谷城の概況>守谷城の名称は相馬要害・将門城|work=守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
{{ahnentafel top|霊元天皇の系譜|width=100%}}
<ref name="shimousasouma_ht000470">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100050/ht000470|title= 第四章 守谷城>二、守谷城の概況>守谷城の歴史的環境
{{center|{{ahnentafel-compact5
|work=守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
|style=font-size: 90%; line-height: 110%;
<ref name="shimousasouma_ht000490">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100050/ht000490|title= 第四章 守谷城>三、守谷城の築城者|work=守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
|border=1
<ref name="shimousasouma_ht000500">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100050/ht000500|title= 第四章 守谷城>三、守谷城の築城者>古文書にみる「モリヤ」の地名|work=守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
|boxstyle=padding-top: 0; padding-bottom: 0;
<ref name="shimousasouma_ht000540">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100050/ht000540|title= 第四章 守谷城>五、相馬要害から新守谷城の誕生|work=守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
|boxstyle_1=background-color: #fcc;
<ref name="shimousasouma_ht000560">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100050/ht000560|title= 第四章 守谷城>五、相馬要害から新守谷城の誕生>守谷城の縄張|work=守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
|boxstyle_2=background-color: #fb9;
<ref name="shimousasouma_ht000980">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100050/ht000980|title= 第五章 相馬氏の歴代当主>三、七代相馬胤基~二十代治胤>守谷城進上|work=守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
|boxstyle_3=background-color: #ffc;
<ref name="shimousasouma_ht001050">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100050/ht001050|title= 第五章 相馬氏の歴代当主>三、七代相馬胤基~二十代治胤>小田原合戦|work=守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
|boxstyle_4=background-color: #bfc;
<ref name="shimousasouma_ht001060">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100050/ht001060|title= 第五章 相馬氏の歴代当主>三、七代相馬胤基~二十代治胤>浅野長政・木村重茲(しげます)連書禁制状|work=守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
|boxstyle_5=background-color: #9fe;
<ref name="shimousasouma_ht001470">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100050/ht001470|title= 第八章 近世の守谷の支配者>一、近世、守谷藩の成立|work=守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
|1= 1. '''霊元天皇'''
<ref name="shimousasouma_ht001480">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100050/ht001480|title= 第八章 近世の守谷の支配者>二、歴代の支配者>①初代守谷藩主、土岐定政(さだまさ)(一五五一~一五九七)|work=守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
|2= 2. [[後水尾天皇]]
<ref name="shimousasouma_ht001490">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100050/ht001490|title= 第八章 近世の守谷の支配者>二、歴代の支配者>②二代守谷藩主土岐定義(さだよし)(一五八〇~一六一九)|work=守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
|3= 3. [[園国子]]
<ref name="shimousasouma_ht001500">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100050/ht001500|title= 第八章 近世の守谷の支配者>二、歴代の支配者>③三代守谷藩主土岐頼行(よりゆき)(一六〇八~一六八四)|work=守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
|4= 4. [[後陽成天皇]]
<ref name="shimousasouma_ht001510">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100050/ht001510|title= 第八章 近世の守谷の支配者>二、歴代の支配者>④第四代守谷藩主堀田正俊(まさとし)(一六三四~一六八四)|work=守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
|5= 5. [[近衛前子]]
<ref name="shimousasouma_ht001520">{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100050/ht001520|title= 第八章 近世の守谷の支配者>二、歴代の支配者>⑤第五代守谷藩主酒井忠挙(ただたか)(一六四八~一七二〇)|work=守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収)|accessdate=2023-5-6}}</ref>
|6= 6. [[園基音]]
|7= 7. [[谷衛友]]娘
|8= 8. [[誠仁親王]]
|9= 9. [[勧修寺晴子]]
|10= 10. [[近衛前久]]
|11= 11. 宝樹院
|12= 12. [[園基任]]
|14= 14. [[谷衛友]]
|16= 16. [[正親町天皇]]
|17= 17. [[万里小路房子]]
|18= 18. [[勧修寺晴右]]
|19= 19. [[粟屋元子]]
|20= 20. [[近衛稙家]]
|21= 21. [[久我慶子]]
|24= 24. [[園基継]]
|28= 28. [[谷衛好]]
}}}}</center>
{{ahnentafel bottom}}
=== 系図 ===
{{皇室江戸前期}}
 
== 后妃・皇子女 ==
<ref name="moriya_kougeihin">{{Cite web|和書|url=https://www.city.moriya.ibaraki.jp/tanoshimu/rekisibunka/bunkazai/shiteibunkazai/syokai/kougeihin.html|title=指定文化財の紹介 工芸品|publisher=守谷市|accessdate=2023-5-6}}</ref>
* [[中宮]]:[[鷹司房子|藤原(鷹司)房子]](新上西門院)(1653年 - 1712年) - [[鷹司教平]]女
** 第三皇女:[[栄子内親王]](1673年 - 1746年) - [[二条綱平]]室
* 典侍:[[坊城房子|藤原(坊城)房子]](権大納言典侍)(1652年 - 1676年) - [[坊城俊広]]女
** 第二皇女:[[憲子内親王 (霊元天皇皇女)|憲子内親王]](1669年 - 1688年) - [[近衛家熙]]室
* 典侍:藤原氏(中納言典侍)(1653年 - 1691年) - [[小倉実起]]女
** 第一皇子:[[済深法親王]](1671年 - 1701年) - [[勧修寺]]
* 典侍:[[敬法門院]](1658年 - 1732年) - [[松木宗条]]女
** 第四皇子:朝仁親王('''[[東山天皇]]''')(1675年 - 1710年) - '''現在の[[皇室]]'''の先祖に当たる。
** 第五皇女:[[福子内親王]](1676年 - 1707年) - [[伏見宮邦永親王|邦永親王]]('''[[伏見宮]]''')室。'''[[旧皇族]]'''11[[宮家]]の共通先祖である[[邦家親王]]は、福子内親王の男子[[伏見宮貞建親王|貞建親王]]の曾孫(霊元天皇・敬法門院夫妻の来孫)にあたる。
*** 伏見宮系の皇族は男系のみに限る場合は[[室町時代]]の[[貞成親王]](配偶者:[[庭田幸子]]){{efn|霊元天皇から見て9世祖にあたる。}}の代で現在の皇室から分離しているが{{efn|現在の皇室の男系祖先は貞成親王の第一王子で霊元天皇から見て8世祖にあたる[[後花園天皇]]であり、旧皇族の男系祖先は貞成親王の第二王子の[[貞常親王]]である。}}、女系を含めた場合は福子内親王との血縁関係により、霊元天皇・敬法門院夫妻が[[最も近い共通祖先]]であると見なすことができる。
** 第六皇女:[[永秀女王]](1678年 - 1725年)
** 第七皇子:[[京極宮文仁親王]](第6代)(1680年 - 1711年)
** 第七皇女:梅宮(1681年 - 1683年)
** 第八皇女:[[勝子内親王]](1686年 - 1716年)
** 第八皇子:[[清宮 (霊元天皇皇子)|清宮]](1688年 - 1693年)
* [[掌侍]]:[[愛宕福子|源(愛宕)福子]](源内侍局)(1656年 - 1681年) - [[愛宕通福]]女
** 第二皇子:[[覚観法親王|寛隆法親王]](1672年 - 1707年)
** 第四皇女:綱宮(1675年 - 1677年)
* 掌侍:[[五条庸子|菅原(五条)庸子]](少将内侍)(1660年 - 1683年) - [[五条為庸]]女
** 第三皇子:[[三宮 (霊元天皇皇子)|三宮]](1675年 - 1677年) - [[円満院]]
** 第五皇子:[[尭延入道親王]](1677年 - 1718年) - [[天台座主]]
** 第六皇子:[[台嶺院宮]](1679年)
* 掌侍:[[東久世博子|源(東久世)博子]](源中将局)(1672年 - 1752年) - [[東久世通廉]]女
** 第十一皇子:[[徳宮]](1692年 - 1693年)
** 第十二皇子:[[力宮]](1697年)
* 後宮:平氏(多奈井小路局)(? - 1674年) - [[西洞院時良]]女
** 第一皇女:知光院宮(1669年)
* 後宮:[[五条経子|菅原(五条)経子]](菅中納言局)(1673年 - ?) - [[五条為庸]]女
** 第九皇子:[[常磐井宮]]([[桂宮]])[[作宮]](1689年 - 1692年)
** 第十皇子:[[性応法親王]](1690年 - 1712年) - [[大覚寺]]
** 第九皇女:[[文喜女王]](1693年 - 1702年)
** 第十皇女:[[元秀女王]](1696年 - 1752年)
* 後宮:藤原氏(藤式部局)(? - 1746年) - [[今城定淳]]女
** 第十三皇子:[[一乗院|一乗院宮]][[尊賞法親王]](1700年 - 1746年) - [[興福寺]]別当
** 第十一皇女:[[文応女王]](1702年 - 1754年)
* 後宮:[[入江伊津子|藤原(入江)伊津子]](兵衛局)(? - 1763年) - [[入江相尚]]女
** 第十四皇子:[[嘉智宮]](1709年 - 1713年)
** 第十二皇女:留宮(1711年 - 1712年)
* 後宮:[[中将局|安倍氏(中将局)]](1691年 - 1753年) - [[倉橋泰貞]]女
** 第十五皇子:[[峯宮]](1710年 - 1713年)
* 後宮:[[松室敦子|秦(松室)敦子]](右衛門佐局)(? - 1746年 - ) - [[松室重敦]]女、[[岩倉乗具]]猶子
** 第十六皇子:[[有栖川宮]][[有栖川宮職仁親王|職仁親王]](第5代)(1713年 - 1769年)
***[[徳川慶喜]]([[江戸幕府]]第15代[[征夷大将軍]])は職仁親王の曾孫(霊元天皇の玄孫)に当たる。
** 第十三皇女:[[吉子内親王]](1714年 - 1758年) - [[徳川家継]]と婚約
** 第十八皇子:[[尭恭法親王]](1717年 - 1764年) - [[天台座主]]
* 後宮:秦氏(少将局)(1702年 - 1728年) - 南相忠女
** 第十四皇女:八重宮(1721年 - 1723年)
* 後宮:[[松室仲子|秦(松室)仲子]](少納言局)(1707年 - 1751年) - [[松室重仲]]女、[[愛宕通晴]]猶子
** 第十七皇子:[[尊胤法親王 (霊元天皇の皇子)|尊胤法親王]](1715-1740) - 知恩院門跡
 
== 在位中の元号 ==
<ref name="toride_kikakuten36">{{Cite web|和書|url=https://www.city.toride.ibaraki.jp/maibun/bunkakatsudo/rekishi/kikakuten/documents/kikakuten36pdf.pdf|title=取手市埋蔵文化財センター開館15周年記念第36回企画展 大地を切り拓いた人びと|publisher=取手市埋蔵文化財センター|accessdate=2023-5-6|page=2}}</ref>
* [[寛文]]
<ref name="toride_kikakuten23">{{Cite web|和書|url=https://www.city.toride.ibaraki.jp/maibun/bunkakatsudo/rekishi/kikakuten/documents/kikakuten36pdf.pdf|title=第23回企画展 江戸時代の取手 相馬二万石と谷原三万石|publisher=取手市埋蔵文化財センター|accessdate=2023-5-6|page=2}}</ref>
* [[延宝]]
* [[天和 (日本)|天和]]
* [[貞享]]
 
== 諡号・追号・異名 ==
<ref name="kanseifu291_kokumin577">『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/1082719/1/298 国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.577]。</ref>
[[遺詔]]により、[[孝霊天皇]]・[[孝元天皇]]の諡号を採って「霊元院」と[[諡|追号]]される。大正以後は「霊元天皇」と表記される。
<ref name="kanseifu291_kokumin578">『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/1082719/1/299 国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.578]。</ref>
<ref name="kanseifu291_kokumin578-579">『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/1082719/1/299 国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.578-579]。</ref>
<ref name="kanseifu291_kokumin579">『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/1082719/1/299 国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.579]。</ref>
<ref name="kanseifu291_kokumin580">『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/1082719/1/300 国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.580]。</ref>
<ref name="kanseifu291_kokumin581">『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/1082719/1/300 国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.581]。</ref>
<ref name="kanseifu59_kokumin320">『寛政重修諸家譜』巻第五十九「酒井」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/1082717/1/170 国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.320]。</ref>
<ref name="kanseifu645_kokumin417">『寛政重修諸家譜』巻第六百四十五「堀田」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/1082713/1/217 国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.417]。</ref>
 
また、下御霊神社の[[出雲路信直]]・[[出雲路直元|直元]]父子は霊元天皇と親交があった(天皇は退位後に修学院山荘への行幸中、下御霊神社に立ち寄っている)が、崩御の際に直元に対して自分を神として祀るように秘かに伝えた。直元は[[一条兼香]]と相談して、天皇を「'''天中柱皇神'''」の神号で下御霊神社の相殿に祀られた。なお、出雲路信直は[[山崎闇斎]]から[[垂加神道]]を伝授された直弟子で、一条冬経(兼輝)・兼香は垂加神道の理解者であったことから、霊元天皇もその影響を受けた可能性があると言われている{{Sfn|山口|2017|pp=229-230}}。
<ref name="kanseifu276_kokumin480">『寛政重修諸家譜』巻第二百七十六「伊丹」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/1082719/1/250 国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.480]。</ref>
<ref name="kanseifu276_kokumin481">『寛政重修諸家譜』巻第二百七十六「伊丹」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/1082719/1/250 国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.481]。</ref>
<ref name="kanseifu276_kokumin482">『寛政重修諸家譜』巻第二百七十六「伊丹」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/1082719/1/251 国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.482]。</ref>
 
== 陵・霊廟 ==
<ref name="jikki_kanei040314">『大猷院殿御実紀』巻九・寛永四年三月十四日条、[https://dl.ndl.go.jp/pid/772966/1/63 経済雑誌社版『徳川実紀 第二編』p.111]。</ref>
[[File:Tsukinowa-no-misasagi, haisho.JPG|thumb|220px|right|{{center|月輪陵([[京都府]][[京都市]])}}]]
}}
[[天皇陵|陵]](みささぎ)は、[[宮内庁]]により[[京都府]][[京都市]][[東山区]]今熊野泉山町の[[泉涌寺]]内にある'''[[月輪陵・後月輪陵|月輪陵]]'''(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。
 
また[[皇居]]では、[[皇霊殿]]([[宮中三殿]]の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{notelist}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|editor=宮内省図書寮|title=霊元天皇実録|volume=全3|publisher=ゆまに書房|year=2005}}
*{{citation|和書|title=角川新版日本史辞典|publisher=角川学芸出版|year=1996|ref={{SfnRef|『角川新版日本史辞典』}}}}
* {{citationCite book|和書|author=久保貴子|title=日本史広辞典近世の朝廷運営 <small>朝幕関係の展開</small>|publisher=山川出版社岩田書院|series=近世史研究叢書|year=19971998|isbn=4872941152|ref={{SfnRef|『日本史広辞典』久保|1998}}}}
* {{Citation|和書|author=[[山口和夫 (歴史学者)|山口和夫]]|chapter=霊元院政について|editor1=今谷明|editor1-link=今谷明|editor2=高埜利彦|editor2-link=高埜利彦|title=中近世の宗教と国家|publisher=岩田書院|year=1998|isbn=4872941209|pages=311-342}}/所収:{{Cite book|和書|author=山口和夫|title=近世日本政治史と朝廷|publisher=吉川弘文館|year=2017|isbn=9784642034807|ref={{SfnRef|山口|2017}}}}
*{{citation|和書|author=[[二木謙一]]監修、[[工藤寛正]]編|title=藩と城下町の事典|publisher=東京堂出版|year=2004|ref={{SfnRef|『藩と城下町の事典』}} }}
* {{Cite book|和書|author=田中暁龍|title=近世前期朝幕関係の研究|publisher=吉川弘文館|year=2011|isbn=464203448X}}
*{{citation|和書|title=「天和の治」における将軍像と『牧民忠告諺解』 : 大老・堀田正俊の思想|author=小川和也|journal=書物・出版と社会変容|issue=3|year=2007|ref=harv|url=https://hdl.handle.net/10086/16604}}
* {{Cite journal |和書
|author =石田俊
|authorlink = 石田俊
|title = <論説>霊元天皇の奥と東福門院
|journal = 史林
|volume = 94
|issue = 3
|publisher = 史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
|year = 2011
|pages = 371-407
|naid = 120006598593
|ref = harv}}
* {{Cite journal |和書
|author =野村玄
|authorlink = 野村玄
|title = 天和・貞享期の綱吉政権と天皇
|journal = 史林
|volume = 93
|issue = 6
|publisher = 史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
|year =2010
|pages = 719-747
|naid = 120006598565
|ref = harv}}
* {{Cite book|和書|author=藤田覚|authorlink=藤田覚|title=天皇の歴史6 江戸時代の天皇|series=講談社学術文庫|publisher= 講談社 |year=2018|isbn=978-4065116401}}
** {{AmazonKindleLink|1=B07CZCXLZB|2=co.jp|title=天皇の歴史6 江戸時代の天皇|date=2018/5/10}}
* [[石田俊]]『近世公武の奥向構造』吉川弘文館、2021年 ISBN 978-4-642-04344-1
**「霊元天皇の奥と東福門院」(初出:『史林』94-3(2011年))P12-52.
**「元禄期の朝幕関係と綱吉政権」(初出:『日本歴史』725号(2008年)P18-35.)P53-76.
 
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Emperor Reigen}}
* [[十句観音経]]
 
{{s-start}}
== 外部リンク ==
{{s-hou|[[ファイル:Imperial Seal of Japan.svg|25x20px]] [[皇室]]|1654年|7月9日|1732年|9月24日}}
* [[斎藤隆三]]『改訂増補 守谷志』(守谷町、1949年) [https://adeac.jp/moriya-lib/table-of-contents/mp000010-100040/d100040 目次](ADEAC所収)
{{s-roy|jp}}
*『守谷町史』(守谷町史編さん委員会、1985年) [https://adeac.jp/moriya-lib/table-of-contents/mp000030-100010/d100010 目次](ADEAC所収)
{{s-bef|before=[[後西天皇]]<br>(良仁)}}
*川嶋建・石井國宏共著『守谷城と下総相馬氏』(守谷市、2022年) [https://adeac.jp/moriya-lib/table-of-contents/mp000010-100050/d100050 目次](ADEAC所収)
{{s-ttl|title=[[皇位]]<br>[[ファイル:Flag of the Japanese Emperor.svg|border|25x20px]] 第112代[[天皇]]||years=1663年3月5日 - 1687年5月2日<br>{{nowrap|寛文3年1月26日 - 貞享4年3月21日}}}}
{{s-aft|after=[[東山天皇]]<br>(朝仁)}}
{{s-end}}
{{歴代天皇一覧}}
{{天皇項目}}
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:れいけんてんのう}}
{{デフォルトソート:もりやはん}}
[[Category:霊元天皇|*]]
[[Category:下総国江戸時代天皇]]
[[Category:菅沼氏|藩もりや日本の幼帝]]
[[Category:明智土岐家|藩もりや日本の上皇]]
[[Category:守谷市17世紀日本歴史天皇]]
[[Category:18世紀日本の天皇]]
[[Category:後水尾天皇の子女]]
[[Category:赤穂事件関係人物]]
[[Category:日本の能書家]]
[[Category:17世紀の歌人]]
[[Category:18世紀の歌人]]
[[Category:1654年生]]
[[Category:1732年没]]