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{{基礎情報 天皇
{{出典の明記|date=2014年12月}}
| 名 = 霊元天皇
{{基礎情報 会社
| 代数= 第112
|社名=安宅産業
| 画像= Emperor Reigen.jpg
|英文社名=ATAKA & CO., LTD.
| 画像サイズ= 250px
|ロゴ=
| 説明= 霊元天皇像([[泉涌寺]]蔵)
|画像=
| 在位= [[1663年]][[3月5日]] - [[1687年]][[5月2日]]
|画像説明=
| 和暦在位期間= [[寛文]]3年[[1月26日 (旧暦)|1月26日]] - [[貞享]]4年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]
|種類=[[株式会社]]
| 即位礼= 1663年[[6月2日]](寛文3年[[4月27日 (旧暦)|4月27日]])
|機関設計=
| 時代= [[江戸時代]]
|市場情報=
| 年号= [[寛文]]<br />[[延宝]]<br />[[天和 (日本)|天和]]<br />[[貞享]]
|略称=AC
| 政府首脳官職= [[征夷大将軍]]
|国籍={{JPN}}
| 政府首脳人物= [[徳川家綱]]<br />[[徳川綱吉]]
|本社郵便番号=
| 首都= [[京都]]
|本社所在地=[[大阪府]][[大阪市]]東区[[今橋 (大阪市)|今橋]]5-14<ref group="注">現:大阪市[[中央区 (大阪市)|中央区]]今橋4-5。[[銀泉]]淀屋橋ビルが立地する。</ref>
| 皇居= 平安宮([[京都御所]])
| 本社緯度度 = |本社緯度分 = |本社緯度秒 = |本社N(北緯)及びS(南緯) =
| 追号= 霊元院<br />(霊元天皇)
| 本社経度度 = |本社経度分 = |本社経度秒 = |本社E(東経)及びW(西経) =
| 諱 = 識仁
| 本社地図国コード =
| 幼称= 高貴宮
|本店郵便番号=
| 別名= 素浄(法名)<br>仙洞様
|本店所在地=
| 印 =
| 本店緯度度 = |本店緯度分 = |本店緯度秒 = |本店N(北緯)及びS(南緯) =
| 生年= [[1654年]][[7月9日]]([[承応]]3年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]])
| 本店経度度 = |本店経度分 = |本店経度秒 = |本店E(東経)及びW(西経) =
| 本店図国コード =
|設立 没年= [[19041732年]][[79月24日]]([[享保]]17年[[8月6日 (旧暦)|816日]]
| 没地=
|業種=[[卸売業]]
| 陵墓= 月輪陵
|法人番号=
| 先代= [[後西天皇]]
|統一金融機関コード=
| 次代= [[東山天皇]]
|SWIFTコード=
| 子 = [[栄子内親王]]([[二条綱平]]室)<br />[[憲子内親王 (霊元天皇皇女)|憲子内親王]]([[近衛家熙]]室)<br />朝仁親王([[東山天皇]])<br />[[福子内親王]]([[伏見宮邦永親王|伏見宮]]妃)<br />[[永秀女王]]<br />[[京極宮文仁親王]]<br />梅宮<br />[[勝子内親王]]<br />[[清宮 (霊元天皇皇子)|清宮]]<br />[[覚観法親王|寛隆法親王]]<br />綱宮<br />[[三宮 (霊元天皇皇子)|三宮]]<br />[[尭延法親王]]<br />[[台嶺院宮]]<br />知光院宮<br />[[済深法親王]]<br />[[常磐井宮]]<br />[[作宮]]<br />[[性応法親王]]<br />[[文喜女王]]<br />[[元秀女王]]<br/>[[徳宮]]<br />[[力宮]]<br />[[尊賞法親王]]<br />[[文応女王]]<br />[[嘉智宮]]<br />留宮<br />[[峯宮]]<br />[[有栖川宮職仁親王]]<br />[[吉子内親王]]<br />[[尭恭法親王]]<br />八重宮
|事業内容=
| 中宮= [[鷹司房子]]
|代表者=猪崎久太郎(代表取締役会長)<br />市川政夫(代表取締役社長)
| 父親= [[後水尾天皇]]
|資本金=116億9,300万円
| 母親= [[園国子|藤原国子]]
|発行済株式総数=
| 注釈=
|売上高=1兆399億800万円(半期)
|営業利益=
|経常利益=12億5,200万円(半期)
|純利益=13億7,600万円(半期)
|純資産=
|総資産=
|従業員数=3,498人
|支店舗数=
|決算期=
|会計監査人=
|所有者=
|主要株主=
|主要部門=
|主要子会社=
|関係する人物=
|外部リンク=
|特記事項=数値等は1975年3月期のもの<ref>『崩壊―ドキュメント・安宅産業』p.13</ref>
}}
 
'''霊元天皇'''(れいげんてんのう、[[1654年]][[7月9日]]〈[[承応]]3年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]〉- [[1732年]][[9月24日]]〈[[享保]]17年[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]〉<ref>{{Kotobank|霊元天皇}}</ref>)は、[[日本]]の第112代[[天皇]](在位: [[1663年]][[3月5日]]〈[[寛文]]3年[[1月26日 (旧暦)|1月26日]]〉- [[1687年]][[5月2日]]〈[[貞享]]4年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]〉)。[[諱]]は'''識仁'''(さとひと)。[[御称号|称号]]は'''高貴宮'''(あてのみや)。
'''安宅産業株式会社'''(あたかさんぎょう)は、かつて存在した[[日本]]の[[商社|総合商社]]。[[1904年]]に創業され、戦後の十大総合商社([[三菱商事]]・[[三井物産]]・[[住友商事]]・[[伊藤忠商事]]・[[丸紅]](丸紅飯田)・[[日商岩井]](日商)・[[トーメン]]・[[双日|ニチメン]]・[[兼松江商]](兼松)・安宅産業の一角にも数えられていたが、[[オイルショック|第1次オイルショック]]によってカナダの製油所プロジェクトが失敗したことで巨額の損失を被り、[[1977年]][[10月1日]]、[[伊藤忠商事]]に救済される形で吸収合併され消滅した。
 
[[後水尾天皇]]の第十九皇子。母は[[内大臣]][[園基音]]の女で後水尾[[典侍]]の藤原国子([[新広義門院]])。養母は父帝の中宮[[東福門院|徳川和子]](東福門院)。
== 概要 ==
[[1904年]][[7月1日]]に[[安宅弥吉]]によって安宅商会として創業され、戦前から戦後にかけて[[官営八幡製鐵所]]の指定問屋4社([[三井物産]]、[[三菱商事]]、[[岩井商店]]、安宅産業)の1社となるなど、十大[[総合商社]]の一角として最大売上高2兆6千億円を誇る大企業であった。元々は「堅実」の社風を特色としていたが、同業他社との売上競争の中で原油取引など新規事業に[[リスク]]を無視して進出するようになり、最終的にはそれが破綻の原因となった。
 
[[譲位]]後の期間が長いため、[[仙洞|仙洞様]](せんとうさま)とよばれることが多い。[[歌人]]・[[能書家]]でもある。絵を能くし、作品が複数現存している。
== 歴史 ==
=== 創業 ===
[[安宅弥吉]]は[[1895年]][[東京商科大学 (旧制)|高等商業学校]](現・[[一橋大学]])卒業後、いったん日本海陸保険(現・[[損害保険ジャパン]])に入社したものの、すぐに[[日下部商店]](個人商店)へ入店、[[香港]]支店(現地では日森(ヤッシャム)洋行という商号を使用していた)支店長として赴任した。当初は香港からの米の輸入と大連向けの木材・雑貨輸出程度だった支店の取扱商品を、[[砂糖]]、[[鉛]]、[[亜鉛]]、[[石炭]]、[[棉花]]、[[帆布]]、[[塗料]]など多数の品目に広げた。特に砂糖は、独自で有力[[華僑]]と[[ジャワ島]]から砂糖の直接買い付けルートを開拓するなど、市場で名前を知られる存在となっていた。そして、単なる雇われ支店長から、日森洋行(香港支店)の共同経営者という立場になった。
 
「'''現在の[[皇室]]'''」(うち[[徳仁|今上天皇]]・[[明仁]][[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]及び生まれながらの[[皇族]]<ref>[[親王]]、[[内親王]]、[[女王 (皇族)|女王]]。</ref>)と、[[1947年]]([[昭和]]22年)に[[臣籍降下]](いわゆる皇籍離脱)した「'''[[旧皇族|伏見宮系皇族]]'''及びその男系子孫」の、女系での[[最も近い共通祖先]]である。
しかし、[[1904年]]に[[日露戦争]]が勃発すると、当初戦局への悲観論から株価が暴落したため、日下部商店と関係の深かった[[松本重太郎]]が経営する百三十銀行や松本商店が[[倒産]]した。そのあおりを食って日下部商店も事実上破綻し、法的にはその香港支店にすぎなかった日森洋行も閉鎖を余儀なくされた。
 
== 生涯 ==
そこで弥吉は自ら個人商店として安宅商会を創業し、本店を[[大阪市]][[東区 (大阪市)|東区]][[船越町 (大阪市)|船越町]]に(その後すぐに同区[[高麗橋]]に移転)構えた。創業にあたっては、弥吉が自ら開拓した砂糖を除いて日下部商店/日森洋行の旧来の取扱品ならびに客先には手を付けず、すべて新規に開拓することを旨とした。その傍らで旧日下部商店の整理にも尽力し、整理が完了した後も破綻後まもなくして病没した日下部商店店主の遺族に援助を続けたという。
=== 儲君 ===
承応3年([[1654年]])9月、長兄の[[後光明天皇]]の[[崩御]]以前にその養嗣子に入り、儲君となる。当時、後光明天皇が余りにも急な死に方をしたために[[毒#利用|毒殺]]と噂され、天皇による高貴宮(後の霊元天皇)の養子縁組の意思表示の有無が疑問とされたが、後光明天皇の側近([[勧修寺経広]]・[[三条西実教]]・[[持明院基定]])は天皇が高貴宮の誕生直後より万一に備えて縁組の意向を表明していたと主張している(『宣順公記』承応3年10月17日条){{efn|『後光明院御弔記』には承応3年8月に体調不良を感じた後光明天皇が万一に備えて高貴宮を養子にすることを述べたと記している。}}{{sfn|久保|1998|p=56-57}}。
 
また、高貴宮の生母が後光明天皇の母方の従妹であることや、当時目ぼしい[[親王]]が全て[[宮家]]を継承するか寺院に入ってしまったために、唯一将来が定まっていなかった男子皇族が高貴宮以外にいなかったことから、高貴宮が養嗣子として将来の[[皇位継承]]に備えるのが当時としては一番妥当な判断であったと考えられる。ただし、まだ生後4か月であった高貴宮が直ちに皇位を継ぐのは無理とも判断された。このため、高貴宮が成人するまでの中継ぎの天皇が立てられることになった。[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家綱]]は若年(14歳)であることを理由に[[関白]][[二条光平]]の判断に委ねると伝えていたが、一方で幕閣([[酒井忠勝 (小浜藩主)|酒井忠勝]]・[[松平信綱]]・[[酒井忠清]]・[[阿部忠秋]])は高貴宮が[[元服]]をしたら譲位を受けるという[[後水尾天皇|後水尾法皇]]の方針は了承したものの、その時期を判断するのは徳川将軍家出身である[[東福門院]]であることを明言していた。この結果、高松宮を継承していた花町宮良仁親王が1代限りの中継ぎとして皇位を継承することになった([[後西天皇]]){{efn|高松宮・花町宮共に後の[[有栖川宮]]の前身。宮家自体は後西天皇の子孫に継承されることになった。}}{{sfn|久保|1998|p=51-54}}。
その一方で、旧日下部商店から引き取った社員や中途入社で入った社員が、経営が厳しい折に給与値上げの交渉をしてきたり、弥吉の目の届かない東京支店で勝手な取引をして損を出したことが発覚したりなどした。<br/>そのため弥吉は「信頼できる部下は自分で育てなくてはならない」という思いを強くし、郷里から小学校の卒業生を紹介してもらい学費を出して上級の学校に進学させ、卒業後は安宅商会で働かせるという制度を始めた。<br/>これは実際に美談であるものの、後に社内において非公式権力として隠然たる力を誇った「安宅ファミリー」の母体となり、その大多数は給費生制度によって入社した「安宅家恩顧」の社員で占められてていた。
 
[[万治]]元年([[1658年]])1月、[[親王宣下]]を受けた。
弥吉の経営哲学を表した言葉として「蛙跳び経営」がある。蛙は1回跳ぶと、次に跳ぶ前にはいったん身を縮めて力をためる。それと同じように、一歩一歩着実に地歩を固めながら進む、というものであった。他の会社が痛手を受けたような時期、例えば[[鈴木商店]]が多額の損失を出した[[第一次世界大戦]]直後の不況の局面においても、弥吉は「深追いは何より禁物」として[[在庫]]ならびに買い[[ポジション]]をすべて整理するように強力に指示していた。この時は社内の一部に「まだいける」として指示に従わなかった者があり、多少の損をかぶることもあったが、全体としては適切な時期に適切な整理を行うと共に、攻めるべき局面では攻めの経営を行うことで業績を伸ばしていった。
 
=== 会社組織へ禁闕騒動 ===
[[寛文]]2年([[1662年]])12月に元服し、寛文3年([[1663年]])1月、兄の[[後西天皇]]から譲位されて[[践祚]]した。なお、この時、朝廷は[[改元]]を希望したが幕府がこれを拒否したことが[[林鵞峯]]の『改元物語』に記されている{{sfn|久保|1998|p=66}}{{efn|[[久保貴子]]は江戸幕府は天皇の代始改元を否定して将軍の代始改元のみにしようとしていたが、綱吉政権以降はその方針を放棄したとする説を唱えている(ただし、実際に天皇の代始改元を拒否したとみられるのは女帝の[[明正天皇]]と霊元天皇の例のみである){{sfn|久保|1998|p=61・66・236}}。}}。
[[1919年]][[11月13日]]には株式会社へ改組した。
 
父の後水尾法皇は天皇の即位をきっかけに、[[清涼殿]]・[[紫宸殿]]における仏教祈祷を廃止して禁中での祈祷は[[内侍所]]の[[御神楽]]のみに限定して、国家的な祈祷は上七社([[伊勢神宮]]・[[石清水八幡宮]]・[[賀茂別雷神社]]・[[賀茂御祖神社]]{{efn|賀茂別雷神社(上賀茂神社)・賀茂御祖神社(下賀茂神社)は合わせて1社扱い。}}・[[松尾大社]]・[[伏見稲荷神社]]・[[平野神社]]・[[春日大社]])と七大寺([[延暦寺]]・[[園城寺]]・[[興福寺]]・[[東大寺]]・[[東寺]]・[[仁和寺]]・[[広隆寺]])に固定することにした。これは朝儀再興の一環として中世後期以来の朝廷における祈祷の無秩序状態を解消することを目的としていたが、禁中における仏教色の抑制や将軍家の病気平癒の祈祷が禁中で行われている状況を解消して朝廷権威の回復を目指す意図も含んでおり、法皇が以前から抱いていた構想の実現であったとは言え、後に天皇が目指すことになる朝儀復興と朝廷権威の回復政策の先鞭をつけるものとなった<ref>[[間瀬久美子]]「近世朝廷と寺社の祈祷」(初出:『千葉経済論叢』58号、2018年/所収:間瀬『近世朝廷の権威と寺社・民衆』吉川弘文館、2022年)2022年、P173-178.</ref>。
[[1942年]]5月、弥吉は[[大日本帝国陸軍|陸軍]]とのいざこざが原因となって安宅商会社長を退任し、後任には次男の[[安宅重雄]]を指名した。長男の[[安宅英一]]ではなく、10歳年下である次男の重雄を社長としたのは、英一が自身も[[ピアノ]]を演奏するなど[[音楽]]に興味があったこともあって数多くの[[芸術家]]の[[パトロン]]となり、月に当時の金額で1万円以上も(当時の大学卒の平均的な初任給は40円だった)浪費していたこと、さらには学生時代([[神戸高等商業学校]](現・[[神戸大学]])卒)から靴ひもすら[[家事使用人|使用人]]に結ばせるような「殿様気質」を持っており、堅実を信条とする弥吉が「英一には守成の才はないのではないか」という危惧を抱いたためと言われている。また、英一自身も、「社長なんて面倒なことはかなわん」と重雄に社長業を譲ったとも言われている。
 
また、後水尾法皇は天皇の践祚直前に[[葉室頼業]]・[[園基福]]・[[正親町実豊]]・[[東園基賢]]の4名に新天皇の近侍を命じた。彼らは年寄衆もしくは御側衆と称せられた。彼らは元々法皇の近臣で、特に園と東園は外戚(天皇の母方の伯叔父)であった{{sfn|久保|1998|p=105}}。また、将軍徳川家綱の了承を得て、幼い天皇に代わって[[摂政]][[鷹司信房]]が[[武家伝奏]]の[[飛鳥井雅章]]と正親町実豊と共に[[官位]][[叙任]]を取り決めるように命じ、両伝奏の辞任後は[[摂関家]]の[[九条兼晴]]と[[近衛基熈]]が関与した<ref>{{Cite book|和書|author=[[田中暁龍]]|chapter=近世初期の朝廷法制の変容|title=近世朝廷の法制と秩序|publisher=山川出版社|year=2012|isbn=978-4-634-52015-8|pages=58-59}}</ref>。しかし、朝廷運営の実質的な主導者は、後光明天皇の遺志を後水尾院に伝えた[[三条西実教]]であった{{sfn|石田俊|2011|p=376}}<ref>石田、2021年、P17.</ref>。実教は武家伝奏でもなく、年寄衆や当官の[[公卿]]ですらなかったが、幕府の信任や奥向への影響力を背景に朝廷内で大きな権力を振るった{{sfn|石田俊|2011|p=376-377}}<ref>石田、2021年、P17-18.</ref>。
しかし、重雄は[[京都帝国大学]][[文学部]][[哲学科]]出身で、英一のような浪費癖はなく堅実ではあったものの、[[哲学]]専攻という学究肌の人物で、商売に精力を傾けるタイプではなかった。それも手伝って、社内は重雄をもり立てる方向ではまとまらず、重雄派と英一派の2つの派閥が生まれることになった。英一派の中心となったのが[[猪崎久太郎]]取締役であった。[[1927年]]から英一がロンドンに留学した際に猪崎が同地に駐在していた縁もあり、さらには英一を担ぐことによって一気に出世の階段を駆け上ることを狙う猪崎と、実務を担うのは面倒だが安宅産業の実権は握りたい英一の利害が一致したこともあり、猪崎の発言力は増す一方であった。
 
寛文8年([[1668年]])には、天皇が寵愛していた藤大典侍[[坊城房子]]と、実教が推薦した女官・[[田内小路局]]([[西洞院時良]]の娘{{efn|宮中に出仕した時良の娘は2人いるが、田内小路局は東福門院の推挙で宮中に上がった妹の方である{{harv|石田俊|2011|p=382-383}}(石田、2021年、P22.)。姉の平内侍は勾当内侍を務めていたが、三条西実教と密通して後に中御門天皇の外祖母として遇された西洞院時子([[六条局]])を生んだ{{harv|石田俊|2011|p=377-380}}(石田、2021年、P18-21.)。実教の田向小路局支援は東福門院や平内侍(勾当内侍)との関係によるものか。}})の二人が懐妊した。実教は田内小路局を[[女御]]同様の扱いにしようと画策し、後水尾院が一時的に実教ら関係する五卿の出仕を停止する{{efn|狭義の「禁闕騒動」は、寛文8年12月24日に後水尾院が三条西実教・飛鳥井雅章・正親町実豊・園基福・東園基賢の五卿の天皇への出仕を禁止し、翌日に天皇の取成しで赦免された騒動を指す{{sfn|石田俊|2011|p=382}}(石田、2021年、P21.)。飛鳥井は坊城房子の外祖父。園と東園は天皇の外戚。}}。霊元天皇は実教を排斥しようと[[小倉実起]]を通じて[[中院通茂]]に密命を下したが、中院は時節を待つように諫言している{{sfn|石田俊|2011|p=385}}<ref>石田、2021年、P24.</ref>。結局寛文9年([[1669年]])2月と3月に生まれた両者の子はいずれも皇女であり、天皇と近習、中院通茂、[[京都所司代]][[板倉重矩]]らの間で起請文が取り交わされ収拾が図られた{{sfn|石田俊|2011|p=385}}<ref>石田、2021年、P25.</ref>。幕府は禁裏の奥向を統制する必要に迫られ、[[関白]][[鷹司房輔]]の妹の[[鷹司房子]]を入内させることとした{{sfn|石田俊|2011|p=386}}<ref>石田、2021年、P25-26.</ref>。しかしこの入内は天皇の本意ではなかったと見られ、8月14日には実教を排斥するよう板倉重矩に要求し、聞き入れなければ譲位すると迫った。これを受けて実教は所司代より蟄居を命じられた{{sfn|石田俊|2011|p=387}}<ref>石田、2021年、P26.</ref>。
[[1943年]][[1月1日]]には社名を安宅産業株式会社に変更<ref name="hokai46">『崩壊―ドキュメント・安宅産業』p.46</ref>。
 
江戸幕府は鷹司房子が生んだ皇子が次の皇位を継承することを望んでいた。そのため、天皇と房子の関係が上手く言っておらず、反対に寛文11年(1671年)8月に中納言典侍(小倉実起の娘)が皇子(一宮)を生んだことに神経を尖らせ、武家伝奏の中院通茂・[[日野弘資]]と幕府から派遣されていた[[禁裏附]]は一宮と翌年源内侍([[愛宕福子]])が生んだ[[覚観法親王|二宮]]は事実上皇位継承から外すとする合意を取り決めた{{sfn|石田俊|2011|p=393}}<ref>石田、2021年、P33-34.</ref>。加えて、中納言典侍は嫉妬深く、しかも女御である鷹司房子とも不仲であることを理由に後水尾院は出産に先立って中納言典侍を宮中から退出させ、更に彼女の後ろ盾であった先代からの古参女官である大典侍([[小倉公根]]の娘、中納言典侍の大叔母)も鷹司房子や他の女官と対立を深めたために9月に所労を理由に退出することになった{{sfn|石田俊|2011|p=394}}<ref>石田、2021年、P34.</ref>。しかし、過去に田内小路局と大典侍を推薦した東福門院は彼女たちの退出に憤って所司代からの後任推薦の要請を拒絶し、武家伝奏の中院通茂も新しい典侍が天皇と関係を持つことを恐れて後任の決定自体に消極的であったため、結果的に典侍の数が減少して奥の業務に支障を来し始めた(元々、典侍は4名いたが、先の禁闕騒動で藤大典侍が退出し、今回小倉家の2名が退出したことで高齢の大納言典侍([[四辻季継]]の娘)1名になってしまった){{sfn|石田俊|2011|p=397-398}}<ref>石田、2021年、P35-36.</ref>。中納言典侍と大典侍の退出後、天皇との関係が改善された鷹司房子が懐妊したため、幕府では皇子誕生を期待したが、寛文13年([[1673年]])8月に生まれたのは[[栄子内親王|皇女]]であった{{sfn|石田俊|2011|p=398}}<ref>石田、2021年、P36.</ref>。その後、房子から今後も皇子が誕生しなかった場合には一宮を皇位継承者とすることになった(『基熙公記』延宝9年9月18日条){{efn|『基熙公記』によれば、皇女誕生後に京都所司代の[[永井尚庸]]が江戸に下向する際、武家伝奏の[[花山院定誠]]・[[千種有能]]と協議の上でこの方針が決定されたという。ただし、久保貴子によれば、永井の江戸下向は延宝2年4月と延宝4年10月に確認できるが、前者の時には武家伝奏は中院通茂と日野弘資で、後者の時には京都所司代は[[戸田忠昌]]に交替した後にあたり、時期を確定できないという。ただし、『基熙公記』の記述は延宝9年9月のものであり、基熙の記憶違いの可能性も考慮される。}}{{sfn|久保|1998|p=110-111}}。その一方で、典侍の不足問題に所司代も後水尾院も女院も対処しないことに不満を抱いた天皇は、延宝2年([[1674年]])5月に武家伝奏や禁裏附に無断で[[松木宗条]]の娘の[[松木宗子|宗子]]を典侍に任じた。しかも、翌年9月には彼女が五宮となる皇子(後の東山天皇)を生んだ{{sfn|石田俊|2011|p=399}}<ref>石田、2021年、P37.</ref>。
[[第二次世界大戦]]の終結で、海外にも有していた61の支店・出張所と6つの直営生産会社は閉鎖となった。また、[[資本金]]の3倍に及ぶ戦時補償特別税も課せられたため、創業以来40年にわたって築き上げてきた資産のすべてを失うことになった。これによって、[[1946年]]には他の商社と同様に[[会社経理応急措置法]]による特別経理会社に指定され、[[企業再建整備法]]に基づく再建案の審査を受けることになった。だが、[[三菱本社]]や[[三井本社]]のように[[過度経済力集中排除法]]によって解体されることはなかった<ref name="hokai46" />。
 
=== 親政期 ===
そうした折に、戦争責任問題もあり、英一を担ごうとする猪崎の工作もあって、弥吉の前で重雄社長と英一の兄弟が話し合いを持った。その結果、[[1945年]]10月に重雄は他の多くの取締役と共に退任し、後任として[[神田正吉]]が社長に就任する事になった。英一は猪崎を社長に据えるよう重雄に迫ったが、重雄は「神田を社長にしないのであれば僕は退任しない」としてこれを拒否。猪崎は副社長となり、ロンドン仕込みの英語を駆使して社長の神田を尻目に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]との交渉などで活躍して社内の実権を握っていった。この時の猪崎の部下に、後に安宅崩壊のきっかけを作る[[高木重雄]]がいた。
鷹司房子の入内翌年の寛文10年([[1669年]])からは、霊元天皇が官位叙任を直接取り扱うようになり、即位以来武家伝奏を勤めた飛鳥井雅章と正親町実豊は退任し、中院通茂と日野弘資が後任となった{{sfn|石田俊|2011|p=390-391}}<ref>石田、2021年、P31.</ref>。しかし度々天皇や近習の不行跡事件{{efn|寛文11年5月6日には、天皇が中内侍の頭を鏡で殴打し、出血させる事件を起こしている{{harv|石田俊|2011|p=392}}(石田、2021年、P32.)}}が相次ぎ、幕府は後水尾法皇や年寄衆に近習の統制を、[[東福門院]]に奥向きの統制をそれぞれ求めるようになった。これは年寄衆が「[[議奏]]」として朝廷運営の表舞台に出る契機となった{{sfn|石田俊|2011|p=391}}<ref>石田、2021年、P32.</ref>。
 
しかし寛文年間後期から[[延宝]]年間には東福門院や板倉重矩など朝幕の有力者が次々と世を去り、延宝8年([[1680年]])には後水尾法皇が[[崩御]]、さらに将軍[[徳川家綱]]の死とそれにともなう[[大老]][[酒井忠清]]{{efn|酒井忠清は継室([[姉小路公景]]の娘)を通じ、一定の禁裏奥向へのルートを持っていた{{harv|石田俊|2011|p=395-396・399}}(石田、2021年、P37・45.)}}の失脚によって、枷の外れた霊元天皇は自らの路線を強硬に推し進める事となった。霊元の[[関白]]を軽視した朝廷運営に、[[鷹司房輔]]は「所詮当時の躰、摂家滅亡なり、これすなわち朝廷大乱のあいだ」と嘆いている{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1887 / 34%}}。
戦後処理の中で[[公職追放]]をおそれた安宅家は、合計で85%以上を保有していた株式をほとんどすべて手放した。しかし、GHQの占領体制が終焉を迎え、他の[[財閥]]指定を受けた一族が株を取り戻して支配力を回復したのに対して、安宅家は株の取り戻しに動かず、保有株式は全発行株数の2%にも満たない状況が続いていた。そのような状況の中で[[1955年]]に英一は会長に就任したが、彼は不思議な威圧感を持つ人物であり、社内ではワンマンとして絶対的権力をふるっていた猪崎も英一の前に出るとその言いなりになる状況であった。こうして、実際の社業の切り盛りは猪崎社長が行うが、人事権は創業家というだけで大株主でもない英一会長が保持するという二重権力体制が確立されていく。英一は「経営のことはわからんが、人間の判断はわしがする」と言い放ち、社員の採用試験でも最終的な判断を下したことはもちろん、重要人事も英一会長が反対すると流れてしまう状況が続いた。
 
延宝9年([[1681年]])2月には女御の鷹司房子の立后と、第一皇子の一宮(後の[[済深法親王|勧修寺宮済深法親王]])にかえ、寵愛する[[松木宗子]]の子の五宮を儲君にすることを認めるよう幕府に伝達した<ref name=kubo112>久保、1998年、P112.</ref>{{sfn|野村玄|2010|p=721}}。幕府もこれを承認し、一宮は[[大覚寺]]に入ることとなったが、外祖父小倉実起は一宮を参内させないなどして抵抗した<ref name=kubo112/>{{sfn|野村玄|2010|p=731}}。9月17日には一宮を小倉邸から移動させて幽閉した<ref name=kubo112/>{{sfn|野村玄|2010|p=721}}。小倉は翌年に[[佐渡国|佐渡]]へ[[流罪|流刑]]となっている<ref name=kubo112/>{{sfn|野村玄|2010|p=721}}([[小倉事件]])。一宮は天皇にとっては庶子であり、後水尾法皇も儲君とするよう内定を下していたが、あくまで女御の鷹司房子が皇子を出産しない場合という条件をつけられた上での内定であった<ref>久保、1998年、P110-111.</ref>{{sfn|野村玄|2010|p=729}}(前述の朝幕合意でも、一宮は一旦は皇位継承の対象から排除されている)。一方で、朝幕間の正式な合意による内定を覆すことには公卿間でも反発が強く、大老[[堀田正俊]]も同意見であった{{sfn|野村玄|2010|p=732}}。しかし将軍[[徳川綱吉]]は天皇の意向を尊重するべきであるとし、一宮排斥と五宮の儲君化を容認した<ref name=kubo112/>{{sfn|野村玄|2010|p=732-733}}。なお、小倉事件直後の11月には「おいは(おいわ)」という仮称で呼び続けられていた五宮の生母の松木宗子が正式に典侍に任ぜられて、大典侍に昇進した四辻季継の娘に代わって大納言典侍と称されることになった{{sfn|石田俊|2011|p=400・403}}<ref>石田、2021年、P38・49.</ref>。
この状態は英一が[[1965年]]8月に会長を退任後、「相談役社賓」という不思議な肩書きに退いた後も続き、会社の表向きの指揮命令系統とは別に、200人とも300人ともいるといわれた安宅家に忠誠を誓う「安宅ファミリー」と呼ばれる安宅家にゆかりのある社員の一団が隠然たる力を持つことになった<ref>『崩壊―ドキュメント・安宅産業』p.55 - 56</ref>。英一は長男の[[安宅昭弥]]を取締役として安宅産業に入社させ、ゆくゆくは社長にしたいと考えていた。その番頭として安宅ファミリーの頂点に立つ柴田芳雄を専務に据え、管理財務本部長と人事総務本部長を兼任させ社内の実権を一手に集めるなど、安宅ファミリーの影響力は公然たるものがあった。
 
[[天和 (日本)|天和]]2年([[1682年]])、鷹司房輔が関白を辞した際には本来の順序ならば[[左大臣]]である[[近衛基熙]]を[[関白]]に任じるのが通常の流れであった。しかし2月18日に幕府側から申し入れられたのは[[右大臣]]の[[一条冬経]](兼輝)を関白にするという意向であった<ref name=kubo117>久保、1998年、P117-120.</ref>{{sfn|野村玄|2010|p=721}}。これは霊元天皇が自分に批判的な近衛基熙を排斥する意図があったための措置であり、幕府もこれを承認したものであると考えられている<ref name=kubo117/>{{sfn|野村玄|2010|p=735-736}}。一方で、基熙は綱吉の潜在的なライバルである[[徳川家宣]]の岳父であり、また基熙自身の言動が幕府から無条件に信頼を受ける人物ではなかったことも指摘されている{{efn|基熙は左大臣転任の際、談合しなかったことで京都所司代[[戸田忠昌]]の怒りを買っており、さらに独自に幕府へ関白就任を働きかけている{{harv|野村玄|2010|p=735-736}}}}<ref>久保、1998年、P122.</ref>{{sfn|野村玄|2010|p=735-736}}。
=== 破綻へ ===
{{main|安宅産業破綻}}
[[1966年]]に[[住友商事]]との合併話が持ち上がった。戦後にスタートした同社は当時まだ規模が小さく、[[メインバンク]]が安宅と同じ[[住友銀行]](現・[[三井住友銀行]])であったこともあり、[[堀田庄三]]住銀頭取が働きかけたものである<ref>『崩壊―ドキュメント・安宅産業』p.53</ref>。猪崎社長も乗り気で話を進め、合併比率1:1、社名は「住友安宅商事」、社長は住友の[[津田久]]、会長は猪崎久太郎と合併覚書調印寸前まで漕ぎつけたが、最終的に「安宅ファミリー」の反対でわずか1ヶ月半で流産となった<ref name="hokai54">『崩壊―ドキュメント・安宅産業』p.54</ref>。それまで英一の支持をバックに社内では絶対的なワンマンとして君臨していた猪崎社長は、この件がきっかけとなって同年末に会長に祭り上げられた。
 
天和3年([[1683年]])、五宮朝仁親王(後の[[東山天皇]])の[[立太子礼]]が行われた。これは[[貞和]]4年([[1348年]])の[[直仁親王]]立太子以来335年ぶりの出来事であり、霊元の強い要請を受けた幕府が、今後行われる[[皇太子]]の諸儀式に別途支出を行わないことを条件に承認したものであった{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1887 / 34%}}。[[貞享]]元年([[1684年]])2月25日には譲位の意向を伝えた{{efn|2日前に天皇より譲位の意向を伝えられた摂家衆の一人である近衛基熙は、天皇側近である武家伝奏の[[花山院定誠]]・[[甘露寺方長]]の振る舞いが問題とされ、1月に議奏の[[葉室頼孝]]が蟄居を命じられた件に関連して京都所司代[[稲葉正通]]が調査に乗り出す可能性が出てきたことが直接の原因ではないかと疑っている<ref name="名前なし-1">久保、1998年、P113-114.</ref>。}}が、この際は幕府から拒否された。しかし天皇は貞享3年([[1686年]])閏3月に譲位は了承された<ref>久保、1998年、P122-124.</ref>{{sfn|野村玄|2010|p=738}}{{efn|久保貴子は、霊元天皇は自己を中心とした朝廷の再編成を目指し、朝廷人事を自派で固めた上で朝儀を再興して自己を力を誇示して朝廷の実権を図り、最終的には自己の院政を実現させて自由な立場で朝廷運営を行うことを目指しており、小倉事件・一条冬経の関白任命・東山天皇への譲位もそのための工作の一環であったとする説を唱えている<ref name="名前なし-1"/>。}}。
猪崎の後を継いだ越田左多男社長は、専務時代には[[液化石油ガス|LPG]]計画を慎重に検討した結果、リスクが大きいと判断。即座にやめさせるなど慎重な経営スタンスを貫き、社長に就いてからは外部から新しい血を入れることによって淀んだ経営体質にカツを入れようと関係銀行に若手の派遣を要請した<ref name="hokai54" />。しかし、これは「安宅ファミリー」にとって面白くなかったらしく、任期半ばで[[更迭]]され、[[1969年]]には市川政夫が社長に就任した。
 
=== 朝廷執行部・幕府との対立 ===
市川が社長に就任してからも英一を中心とした「安宅ファミリー」の力は強く、人事もままならない状態は続いた。さらに、引き続き会長にとどまった猪崎と市川は折り合いが悪く、「安宅ファミリー」=英一、会長の猪崎のどちらも後ろ盾に持っていなかった市川は、一方でしがらみなく安宅産業を近代的株式会社として脱皮させるべく努力を続けることができたが、その努力も度々重要人事に関する英一の介入で進まない状況となり、他方では引き続き社長の座に座り続けるためには売上競争に身をやつさざるを得ない状況に置かれていた。当時、[[総合商社]]の規模は利益よりも[[売上高]]で測られており、売上ベースで総合商社下位グループから抜け出させることが、市川の社長としての地位を安泰にするために課せられた至上命令であった。
[[貞享]]4年([[1687年]])、朝仁親王への譲位が行われることとなった。霊元天皇はこれに伴い、長年中断していた即位式と共に行われる大祭[[大嘗祭]]を行うことを強く要望した<ref>久保、1998年、P123-124.</ref>{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1899 / 34%}}。大嘗祭再興については朝廷内にも財源と準備が不足であるとした、[[左大臣]]近衛基熙をはじめとする強い反対派が存在した。更に[[神仏分離]]を唱える[[垂加神道]]を支持してその教義に基づく大嘗祭を行おうとする一条冬経と[[神仏習合]]を唱える[[吉田神道]]を支持する近衛基熙という対立構図も存在していた{{Sfn|山口|2017|p=217}}。
 
幕府が理想とする上皇は朝廷に口出しせず、諸事質素であった[[明正天皇|明正上皇]]の姿であり、霊元も譲位後は「本院御所之格(明正上皇と同じ格)」であることが求められた{{sfn|野村玄|2010|p=742}}。さらに霊元の素行に不信感を持っていた幕府は「当今之御まねヲ不被候儀二仕度候(東宮は霊元天皇の真似をしないようにしたい)」<ref>貞享三年11月7日付[[大久保忠朝]]・[[阿部正武]]・[[戸田忠昌]]・[[牧野成貞]]宛土屋政直書状案、{{harv|野村玄|2010|p=742}}。</ref>という考えもあり、新天皇が霊元の影響を受けないことを望んでいた{{sfn|野村玄|2010|p=742}}。また、幕府は霊元が院政を開始することに反対の意思を示し、譲位後は政務に関与せず関白・武家伝奏・議奏によって朝廷運営が行われることを求めた<ref>『基量卿記』貞享3年12月23日条所引、貞享三年11月23日付土屋政直宛大久保忠朝・阿部正武・戸田忠昌・牧野成貞連名[[老中奉書]]</ref><ref>久保、1998年、P125-127.</ref>。京都所司代[[土屋政直]]は天皇の機嫌を損ねて譲位の手続きが延引することを恐れており{{sfn|野村玄|2010|p=742}}、綱吉も大嘗祭の再興には不安感を持っていたものの、大嘗祭の再興に関しては臨時支出を求めないという霊元側からの申し出もあり、最終的に大嘗祭を容認した{{sfn|野村玄|2010|p=743-744}}。
このような状況の中で、売上向上のために社運を賭けた[[カナダ]]における精油所プロジェクトが[[1973年]]の[[オイルショック]]を機に[[1975年]]に破綻し、1000億円以上にのぼる貸付金・売上債権が焦げ付く事となった。その結果、住銀の主導の下での解体・再編を経て、安宅産業は[[1977年]]10月に伊藤忠商事に[[合併 (企業)#吸収合併|吸収合併]]され、70年以上にわたる歴史に幕を閉じた。
 
こうして文正元年([[1466年]])以来219年ぶりの大嘗祭が行われたが、大嘗祭前後の節会が3日から1日に変更され、天皇が[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]で[[禊]]を行う[[御禊行幸]]が幕府の反対で行われないなど、極めて簡略化されたものとなった{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1899 / 34%}}。近衛基熙は御禊行幸の中止は神慮にかなわないとして反対し、霊元の兄の[[尭恕法親王]]もこの大嘗祭は朝廷も幕府も誰一人納得しておらず、神を欺くものであると強く批判した{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1923-1938 / 34-35%}}。このため、次の[[中御門天皇]]即位の際には大嘗祭は行うことはできず、再び中絶することとなる{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1938 / 35%}}。霊元はこの他にも[[石清水八幡宮]][[放生会]]や[[賀茂祭]]の再興を行っている{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1852 / 33%}}。
戦後、商社は試行錯誤しながら企業規模に相応しい近代的な経営体制へと組織を改めて行った。例えば伊藤忠商事では小菅宇一郎社長が[[大本営]][[参謀]]だった[[瀬島龍三]]をスカウトし、総合商社に相応しい組織づくりを瀬島は自己の使命とした<ref>『崩壊―ドキュメント・安宅産業』p.52</ref>。一方で、安宅産業は従来は堅実経営で世評を勝ち得ていたが、安宅家3代目の昭弥が専務に就任した頃から社風が急激に変わり<ref name="hokai51" />、損を出してでも売上を取りに行くような無理な取引、創業家による個人的コレクションへの社費の支出、各事業部門が独自に進めた[[ゴルフ場]]開発をはじめとする本部統制・リスク管理体制の欠如など、およそ近代的経営とは無縁な[[大福帳]]的ファミリー経営が罷り通っていたことが経営破綻で明らかとなった<ref name="hokai51">『崩壊―ドキュメント・安宅産業』p.51</ref>。安宅産業の経営破綻によって、日本の総合商社は三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、[[丸紅]]、[[住友商事]]、[[双日|日商岩井]]、[[豊田通商|トーメン]]、[[双日|日綿實業]]、[[兼松|兼松江商]]の9大商社に再編されていくことになる。
 
霊元は[[太上天皇]]となった後、[[仙洞御所]]に入って[[院政]]を開始し、以後仙洞様とよばれるようになる。霊元の院政は後水尾院政と異なり、朝廷の機構を掌握するのではなく、仙洞御所に別個の機構を確立して、そこから朝廷機構に指示を下すというものであり、以降江戸時代の院政の慣行となる{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1710 / 30%}}。仙洞御所では霊元の意思で選定された[[院評定]]が合議を行い、霊元に任じられた[[院伝奏]]が幕府と連絡を取り扱った{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1710 / 30%}}。また朝廷の主宰者であるという意識を強く持っており、東山天皇が成人するまで本来天皇が行う儀式である[[四方拝]]を仙洞御所にて行っている<ref>久保、1998年、P134-135.</ref>{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1721 / 31%}}。
[[1990年]]、安宅産業の元役職員によってアタカコーポレーション(本社:東京都)が設立され、英一の孫に当たる安宅一弥が2014年に同社社長に就任している。
 
これら霊元の姿勢は朝廷執行部との確執を生んだ。[[元禄]]元年([[1688年]])10月、霊元と対立していた近衛基熙の正室[[常子内親王]]{{Efn|通称・品宮、霊元天皇の同母姉。}}から霊元に対して基熙が左大臣を辞退する意向であることが伝えられている。表向きの理由は長年左大臣を務めたことで他の者が昇進できなくなっていることや譲位に関連する儀式が終わったことを上げている。しかし、霊元は将来的には基熙が関白に就任すべきであるとして慰留をしながらも、基熙の本心は関白昇進を一条冬経に先を越されたことで面目を失ったからだと指摘し、基熙が関白になれなかったのは「神慮」であると述べて却って基熙を憤慨させている(『基熙公記』元禄元年10月26日条)<ref name=kubo135>久保、1998年、P135-138.</ref>。その一方で、一条冬経{{Efn|貞享4年3月の東山天皇の践祚に伴い摂政に転じるが、2年後の元禄2年3月に再び関白に転じる。}}からも基熙と同様の理由で摂関を辞退したいという意向が元禄元年2月と元禄2年10月に霊元に伝えられているが、霊元は2度とも慰留の意思を伝え、一条冬経が健康問題を理由として(2度目の)辞退の意向が固いと知るや将来の再任を前提としてこれを認めることを伝えている<ref>久保、1998年、P137.</ref>。かくして、元禄3年(1693年)1月、基熙が関白に就任することになった<ref name=kubo135/>。
経営破綻によって、所謂安宅コレクションの内、[[速水御舟]]の作品106点は、住銀の[[樋口廣太郎]]常務が、[[山種美術館]]の運営母体である[[SMBCフレンド証券|山種証券]](現・[[SMBC日興証券]])の[[山崎富治]]社長に購入を依願し<ref>{{Cite web|和書|title=私の履歴書復刻版 安宅合併頼み伊藤忠に日参 眠れぬ夜過ごす 元アサヒビール社長 樋口広太郎(21)|website=NIKKEI STYLE|publisher=[[日経BP|日経BP社]]|date=2017-04-06|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO14555500X20C17A3000000?channel=DF170320167060|accessdate=2018-11-10}}</ref>、[[1976年]]に美術館を運営する山種美術財団に有償一括譲渡された<ref>『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』p.97</ref>。また、残りの965件、約1000点の東洋陶磁コレクションは、住銀の主導の下に[[住友グループ]]21社が、総額152億円を大阪市文化振興基金に寄付。市はその寄付金で約1000点のコレクションを買い取り、寄付金の積立に伴う運用利息で、コレクションを収蔵・展示する[[大阪市立東洋陶磁美術館]]を[[中之島公園]]に建設した<ref>『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』 p.85 - 97</ref>。
 
元禄3年10月、霊元は[[西本願寺]]に対し、門跡(法主)が参内の際には四足門透垣の外で牛車の下轅・乗轅をするように命じた。霊元の在位中は透垣の内で下轅・乗轅を行っていたことから、関白である近衛基熙や武家伝奏の[[千種有維]]・[[柳原資廉]]は困惑した。間もなく、天皇の外祖母である東二条局([[河鰭秀子]]){{Efn|内大臣松木宗条の室で、松木宗子の母。}}の[[口入]]があり、霊元もこれに同調していることが判明する。霊元はこの新規定は西本願寺だけでなく、[[東本願寺]]・[[専修寺]]・[[佛光寺]]などの他の[[浄土真宗]]系の門跡に適用する方針であることを表明した{{Efn|久保貴子は浄土真宗系の寺院は准門跡であったからと解説をしている<ref>久保、1998年、P140.</ref>が、事実関係はやや異なる。[[太田光俊]]の研究によれば、本願寺の東西分裂前の[[永禄]]2年([[1559年]])に、本願寺は歴代の法主が摂関家の猶子になっていることを理由に門跡成を申請して[[正親町天皇]]の勅許を得ていたが、[[豊臣秀吉]]の命令で本願寺が京都に移されて法主の参内が発生すると、京都の諸門跡寺院などから本願寺をはじめとする浄土真宗系寺院の門跡としての資格に疑義が出されるようになった。後水尾・霊元両院も共に浄土真宗系寺院の門跡資格に疑義を持っていたとされ、その結果霊元院政下の元禄13年(1700年)頃に東西本願寺などの浄土真宗系寺院を准門跡とすることが決定された。元禄3年の門跡の下轅・乗轅場所の問題はその過程で起きた事件と言える<ref>太田光俊「本願寺〈門跡成〉と〈准門跡〉本願寺」[[永村眞]] 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3</ref>。いずれにしても、霊元が東西本願寺を含めた浄土真宗系の門跡寺院(開祖の[[親鸞]]は[[名家 (公家)|名家]]格とされた[[日野家]]の出身)と皇族や摂家などの子弟が門主となる古くからの門跡寺院(宮門跡・摂家門跡)との間に格差をつけようとしたと考えられている。合わせて[[門跡#本願寺の門跡成]]も参照のこと。}}。両本願寺などに対する院宣を受けた一条冬経は霊元の考えに賛同はするが先例を調べた上できちんと説明を尽くすことを求め、基熙が先例を改める必要がある場合でも霊元の行為は独断に過ぎると反対した。京都所司代の[[内藤重頼]]も上皇が相談もなくこのような決定を下したことに不満を抱いた。元禄4年(1691年)4月に入ると、西本願寺から基熙と京都所司代[[松平信興]](内藤の後任)に対して門徒たちが納得しないので院宣の撤回の取り成して欲しいとの申し入れがあった。これを受けて4月8日に基熙は霊元と会談して院宣の撤回を申入れて霊元も一度はこれに同意をしたが、12日にはやはり撤回しない意思を表明した。西本願寺は東本願寺と協議をして上皇の院宣について江戸の幕府に訴えることを決め、松平信興も江戸を巻き込む前に院宣を撤回して事態を収めた方が良いと諫言した。5月5日になって霊元も撤回は止むを得ないという判断に傾いたが、一度出された院宣を撤回する訳にも行かず、最終的に5月16日になって基熙や両伝奏が提案した「院宣は撤回しないが、門徒たちの愁訴に応えて憐愍を示す」として透垣の内での牛車の下轅・乗轅を認めることで事態の収拾が図られた。結果的には霊元の院宣が関白以下の公家たちや京都所司代の反対で覆されたことになり、霊元の権威は傷つくことになった<ref>久保、1998年、P139-142.</ref>。
== 歴代社長 ==
{|class="wikitable"
|-
!代
!氏名
!期間
!備考
|-
|1
|[[安宅弥吉]]
|創業 - 1942年5月
|
|-
|2
|安宅重雄
|1942年5月 - 1945年10月
|
|-
|3
|神田正吉
|1945年10月 - 1957年11月
|
|-
|4
|猪崎久太郎
|1957年11月 - 1966年11月
|
|-
|5
|越田左多男
|1966年11月 - 1969年11月
|
|-
|6
|市川政夫
|1969年11月 - 1976年7月
|
|-
|7
|小松康
|1976年7月 - 1977年10月
|[[住友銀行]]出身
|-
|}
 
この騒動の中で、霊元は前関白[[一条冬経]]から朝廷執行部への政務の移譲を迫られた。4月14日、霊元はこれに対し、一般的な政務は移譲するが、重要事項には変わらず関与し続ける方針を示した。さらに院伝奏と院評定に宛て、関白・武家伝奏・議奏の朝廷執行部が霊元と天皇に忠誠を誓う誓詞を出すよう要請した。関白近衛基熙が「天魔の所為」と憤り、武家伝奏千種有維が「落涙の他言語なし、あい共に天を仰ぐのみ、朝廷の零落この日か」と嘆くなど、仙洞御所と朝廷執行部の亀裂はいよいよ深まった<ref>久保、1998年、P145-147.</ref>{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1733-1761 / 31%}}。この事態は幕府にとっても容認できるものではなく、5月23日、近衛基熙邸にて関白・武家伝奏・議奏・京都所司代・[[禁裏附]]という京都における公武の代表者が一堂に会合を開き、改めて譲位後の院政は不可であり、関白が中心として朝廷運営を行うべきであるとする幕府の方針が確認された<ref>石田、2021年、P55-56.</ref>。
== 関係会社 ==
国内163社、国外61社の合計224社の関係会社を抱えていた<ref>『崩壊―ドキュメント・安宅産業』p.126</ref>。
=== 主な関係会社 ===
* 豊鋼材工業 - 1977年、伊藤忠商事による安宅産業の吸収合併を機に、伊藤忠商事系列となる。2001年、[[伊藤忠丸紅鉄鋼]]の発足に伴い、関連会社となる。
* 仁田産業
* 大安製鋼 - 1987年8月、清本鐵工の製鋼部門と統合。九州製鋼に商号変更。
* 仁科電線 - 1976年6月、[[和議]]申請。
* 安宅建設工業 - 安宅産業の経営破綻によって、1977年12月、[[日立造船]]が経営参加。同社の水処理部門を継承。翌年、社名をアタカ工業に変更。2006年10月、同系列[[大機エンジニアリング]]と合併し[[アタカ大機]]となる。2014年4月、親会社の日立造船に吸収合併。
* 安宅マシンツール
* 三精輸送機 - 2014年1月、[[三精テクノロジーズ]]に商号変更。
* 東京原子工業 - 1976年10月、倒産。
* アタカ衣料、- [[伊藤萬]](現・[[日鉄住金物産|日鉄物産]])に営業権を譲渡。
* 日本衣料 - 自主廃業。
* アタカフーズ
* 柴田産業 - 1977年9月、[[全日空商事]]が全株取得。現:ANAフーズ。
* 三宝合成
* 中村合板 - 1977年4月、[[会社更生法]]の適用を申請。子会社に日本ハードボード工業(現・[[ニチハ]])。
* 福井化学工業 - 1976年7月、安宅産業が全株(全体の69.13%)を[[レンゴー]]に売却。
* 国永紙業 - 2008年、[[日本製紙]]の完全子会社となる。
* 安宅興産
* [[昭和リース]] - [[協和銀行]](現・[[りそな銀行]])などと共に設立。2016年12月1日、[[新生銀行]]の[[完全子会社]]となる。
* 協和自動車 - 自主廃業。
* [[ロイヤル・モータース]] - グループ企業の一つ。[[西武流通グループ]]の[[西武自動車販売]]より[[フィアット]]と[[フェラーリ]]の輸入代理権を引き継ぐが、フェラーリは販売せず。
* 大洋フェリー - 1986年3月、名門カーフェリーと合併。[[名門大洋フェリー]]となる。
* 品川燃料 - 1998年4月、[[シナネン]]に商号変更。2015年10月、持株会社体制に移行。
* トーヨド建設 - 1984年12月、[[積水ハウス]]が資本参加。1989年6月、積水ハウス木造に商号変更。 1995年8月、積水ハウスに吸収合併。
*出典<ref>『崩壊―ドキュメント・安宅産業』p.127 - 134</ref>。
 
この会合以降、霊元は表向きでは政治的な発言を控えるようになるが、一方の東山天皇も元禄4年時点でまだ17歳であり、実際には当面の間は近衛基熙が朝廷の運営を行い、並行して京都所司代や禁裏付の支援を受けながら親政への移行準備を進めることとされた<ref>石田、2021年、P56-59.</ref>。霊元上皇は表向きは反対をせず、元禄5年(1692年)には上皇から仙洞御所に持ち出された国史や記録を[[禁裏文庫]]に返還したいとの意向が示され、6月には仙洞御所にある文献の目録が天皇に贈られるが、朝廷内部より禁裏文庫の補修・増築の必要性が指摘されたために実際の返還は親政開始に合わせることになった<ref>石田、2021年、P58-59.</ref>。元禄6年9月12日には天皇の親政開始を前提として議奏の追加([[中御門資熙]]・[[久我通誠]]・[[清水谷実業]])が行われている<ref>石田、2021年、P59.</ref>。
== 伊藤忠商事との合併前に分離して発足した会社 ==
 
* 安宅繊維 - 1976年12月、繊維の国内販売部門を分離して、資本金10億円で発足。後に伊藤萬繊維販売に商号変更。1978年、[[伊藤萬]]に吸収合併。
ついに元禄6年([[1693年]])10月23日には、譲位後に霊元が政務に口出ししてはならないという将軍綱吉の意志が伝えられた(ただし、前述のように院政は事実上停止しており、親政への移行作業には京都所司代なども関与している)。これを受けて11月26日には政務の完全な移譲が行われた。しかし霊元上皇は裏面からの介入を諦めようとははしなかった{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1772-1785 / 32%}}。
* 安宅建材 - 1976年12月、建材の国内販売部門を分離して、資本金4億円で発足。[[2006年]]4月、[[住友林業]]と合併。
 
* 安宅地所 - 1977年5月、住宅(マンション開発・分譲)部門を分離し安宅地所として発足。1984年9月、[[総合地所]]に商号変更。2017年4月、[[長谷工不動産ホールディングス]]の子会社となる。
東山天皇と近衛基熙が取り組んだのは、霊元の影響力排除であった。基熙は幕府と連携し、元禄13年([[1700年]])までに霊元派の公家を重職から排除している{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 1980 / 35%}}。また将軍綱吉も積極的に朝廷支援を行うようになり、[[宝永]]2年([[1705年]])には[[禁裏御料]]を1万石増進し、宝永3年([[1706年]])には[[仙洞御料]]を3千石増進している{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 2028 / 36%}}。しかし、その一方で、綱吉と幕府は東山天皇の生母で霊元が寵愛する[[松木宗子]]とその信任が厚い議奏[[中御門資熙]]を支援して親幕府派に取り込んで、霊元及び基熙の両方を牽制させようとしたことで朝廷は表は資熙が、奥は宗子とその母の東二条局(河鰭秀子)が掌握する結果となり、事態が混沌とすることになった<ref>石田、2021年、P55-66.</ref>。しかし、天皇親政を主張してきた江戸幕府の影響によって霊元に近い筈の宗子や資熙が霊元院政に取って代わる事態は、天皇や基熙から見れば親政実現の障害でしかなく、彼らはこの動きに反発して資熙の排除を幕府に要請するが、京都所司代[[松平信庸 (篠山藩主)|松平信庸]]は宗子と資熙のおかげで朝廷運営が幕府の望ましい方向に向かっていると評価していたために全く話が噛み合わなかった(綱吉自身が生母の[[桂昌院]]や側用人の[[柳沢吉保]]を重用している手前、天皇の生母である宗子や側用人的な立ち位置にある資熙を排除するという選択肢がなかったという見方もある)<ref>石田、2021年、P67-68.</ref>。しかし、基熙の縁戚にあたる[[上臈御年寄]][[右衛門佐局]]を介して天皇の意向が直接綱吉に伝えられたことで、元禄12年([[1699年]])に幕府より資熙に蟄居が命じられて事態が収拾されることになった<ref>石田、2021年、P68.</ref>。また、東山天皇の男子が早世が多く、霊元上皇と松木宗子が寵愛していた三宮(後の[[公寛入道親王]]、母は[[冷泉経子]])に将来の皇位継承への期待が掛けられていたが、同じ頃に三宮の本当の父は[[京極宮文仁親王]]{{Efn|東山天皇は同母弟である京極宮の動きに警戒感を示しており、中御門資熙が蟄居を命じられたのも松木宗子と資熙が天皇を廃位して京極宮を皇位に就けるという風説が流された直後のことであった<ref>石田、2021年、P68-71..</ref>。}}であるという噂が流れていた(『基熙公記』元禄13年3月18日条)。この噂を危惧した東山天皇は霊元の反対{{Efn|『基熙公記』元禄13年3月15日条において櫛笥賀子が四宮にあたる寿宮を生んだ際に霊元と宗子が不快感を示したことに対して近衛基熙は憤慨したことが記されている。東山天皇は寿宮の存在を背景に三宮の出家を決めたが、永禄14年に寿宮が早世し、同年に生まれた同母弟の長宮(中御門天皇)が皇位継承者として浮上することになる。}}を押し切って、元禄13年(1700年)に三宮を[[円満院]][[門跡]]にする方針を示して幕府の了承を得た。翌年、三宮の異母弟で五宮にあたる長宮(後の中御門天皇、母は[[櫛笥賀子]])が誕生し、宝永4年(1707年)には幕府の了承を得て長宮が儲君に立てられた。結果的に小倉事件と同じように父天皇の意向で皇位継承の最有力者が出家させられて、五宮が次期天皇に立てられることになったが、大きな騒動にはならなかった。この時の一連の幕府との交渉で暗躍したのが、中御門資熙の排除をきっかけに天皇との連携を強化した近衛基熙であった<ref>久保、1998年、P170-176.</ref>。
* 安宅木材 - 1977年5月、発足。
 
* 安宅農水産 - 1977年5月、発足。伊藤萬と提携を結ぶ。1980年、伊藤萬の完全子会社となる。
=== 第二次院政 ===
*出典<ref>『崩壊―ドキュメント・安宅産業』p.133、244 - 245</ref><ref>「イトマンの軌跡 第4部 河村商法の功罪(12)」『読売新聞』大阪本社朝刊 1991年4月18日</ref>。
宝永6年12月17日([[1710年]])、9歳の[[中御門天皇]]に位を譲り院政を開始していた東山上皇が[[天然痘|疱瘡]]で急逝し、霊元上皇の院政が再開された<ref>久保、1998年、P176-177.</ref>。
 
しかし、近衛基熙は綱吉のあとを継いだ将軍[[徳川家宣]]の岳父であり、霊元も融和的にならざるを得なかった。基熙の子の[[摂政]][[近衛家熙]]を宝永7年12月に[[太政大臣]]としたほか{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 2028 / 36%}}、[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])8月、家熙の娘である[[近衛尚子|尚子]]を中御門天皇の女御にすることを許し、[[享保]]元年([[1716年]])には女御として入内させている{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 2028 / 36%}}<ref>久保、1998年、P185-186.</ref>。
 
私生活では、60歳を過ぎても中臈の[[松室敦子]]らとの間に子女を儲けているが、その一方で東山上皇に続いて京極宮文仁親王にも先立たれた准后・松木宗子が正徳元年(1711年)10月に突如仙洞御所を去って出家を果たした。江戸幕府と関係を結んで霊元や東山とも一時的に権力を争った彼女に対する朝廷の待遇は冷たく、出家から2か月後に女院の称号を贈ることになったが、女院号については宗子の出家後の法名をそのまま転用した「敬法門院」とした<ref>久保、1998年、P180-181.</ref>。
 
正徳2年10月、徳川家宣が急逝すると、幼君の権威を強化するため、幕府は朝廷の権威にすがろうとした{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 2134 / 38%}}。霊元は幕府の要請に応じ、後継者である鍋松のために「[[徳川家継|家継]]」の名を与えた{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 2134 / 38%}}。更に正徳4年([[1714年]])4月の[[徳川家康]]百回忌には、自筆の経文を下賜している{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 2134 / 38%}}。9月には皇女[[八十宮]][[吉子内親王]]と家継の婚約を実現させたが{{Efn|近衛基熙は朝廷の権威を傷つけるものであるとして激しく反発したが(『基熙公記』正徳5年7月9日条)<ref name=kubo188>久保、1998年、P188-190.</ref>、娘の天英院([[近衛熙子]])が以前に近衛家が尚子と徳川家継の婚約内定を破棄して入内させたことを苦にしてこの婚約話を推進していることを知って沈黙せざるを得なかったという{{Sfn|山口|2017|pp=211・213-214}}。}}、こちらは家継死去のために実現しなかった<ref name=kubo188/>{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 2145 / 38%}}。こうして霊元が近衛家への厚遇と幕府との連携に転じたことで、近衛家や幕府の不満は和らいでいった{{Sfn|山口|2017|pp=208-216}}。
 
しかし霊元自身の近衛家に対する憎悪は残っており、享保17年([[1732年]])2月に書かれ、[[下御霊神社]]に奉納された自筆願文の中で「執政すでに三代」を重ねた「私曲邪佞の悪臣」「邪臣」を神や将軍の力で排除されるよう祈願している。これは基熙の孫に当たる当時の関白[[近衛家久]]{{Efn|家久の母は霊元の第二皇女[[憲子内親王 (霊元天皇皇女)|憲子内親王]]であるため、霊元は自分自身の孫を呪詛していたことになる。}}を指したものと見られている{{sfn|藤田覚|2018|Kindle版、位置No.全5609中 2189-2203 / 39%}}。
 
[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]])8月、落飾して'''[[法皇]]'''となる。法名は素浄。これ以降、天皇が法皇になった例は無く、[[日本最後の一覧#天皇・朝廷および律令制に由来する地位・官職|最後の法皇]]となった。
 
[[享保]]2年([[1717年]])、幼年を理由に行われてこなかった(霊元上皇・法皇が代わりに行って来た)中御門天皇の[[四方拝]]実施と共に院政は終了する{{Sfn|山口|2017|p=227}}。
 
享保17年([[1732年]])8月6日、[[崩御]]、宝算78。
 
== 歌道や諸芸の才 ==
霊元天皇は、兄の[[後西天皇]]より[[古今伝授]]を受けた歌道の達人であり、皇子である[[一乗院宮尊昭親王]]や[[有栖川宮職仁親王]]をはじめ、[[中院通躬]]・[[武者小路実陰]]・[[烏丸光栄]]などの、この時代を代表する歌人を育てたことでも知られている。後水尾天皇に倣い、勅撰和歌集である『[[新類題和歌集]]』の編纂を[[烏丸光栄]]・[[三条西公福]]・[[水無瀬氏成]]・[[高松重季]]・[[武者小路実陰]]に命じた。
 
また、桃山から江戸期にかけての歴朝で後陽成天皇と並ぶ能書の帝王でもある。霊元院の自筆の書は、近臣の手を経て、柳沢家などの極限られた大名家に伝世し、家宝として相伝されている。
 
[[有栖川流書道]]は、この天皇の書風から派生したことでも知られる。
 
== 系譜 ==
{{ahnentafel top|霊元天皇の系譜|width=100%}}
{{center|{{ahnentafel-compact5
|style=font-size: 90%; line-height: 110%;
|border=1
|boxstyle=padding-top: 0; padding-bottom: 0;
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|boxstyle_3=background-color: #ffc;
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|1= 1. '''霊元天皇'''
|2= 2. [[後水尾天皇]]
|3= 3. [[園国子]]
|4= 4. [[後陽成天皇]]
|5= 5. [[近衛前子]]
|6= 6. [[園基音]]
|7= 7. [[谷衛友]]娘
|8= 8. [[誠仁親王]]
|9= 9. [[勧修寺晴子]]
|10= 10. [[近衛前久]]
|11= 11. 宝樹院
|12= 12. [[園基任]]
|14= 14. [[谷衛友]]
|16= 16. [[正親町天皇]]
|17= 17. [[万里小路房子]]
|18= 18. [[勧修寺晴右]]
|19= 19. [[粟屋元子]]
|20= 20. [[近衛稙家]]
|21= 21. [[久我慶子]]
|24= 24. [[園基継]]
|28= 28. [[谷衛好]]
}}}}</center>
{{ahnentafel bottom}}
=== 系図 ===
{{皇室江戸前期}}
 
== 后妃・皇子女 ==
* [[中宮]]:[[鷹司房子|藤原(鷹司)房子]](新上西門院)(1653年 - 1712年) - [[鷹司教平]]女
** 第三皇女:[[栄子内親王]](1673年 - 1746年) - [[二条綱平]]室
* 典侍:[[坊城房子|藤原(坊城)房子]](権大納言典侍)(1652年 - 1676年) - [[坊城俊広]]女
** 第二皇女:[[憲子内親王 (霊元天皇皇女)|憲子内親王]](1669年 - 1688年) - [[近衛家熙]]室
* 典侍:藤原氏(中納言典侍)(1653年 - 1691年) - [[小倉実起]]女
** 第一皇子:[[済深法親王]](1671年 - 1701年) - [[勧修寺]]
* 典侍:[[敬法門院]](1658年 - 1732年) - [[松木宗条]]女
** 第四皇子:朝仁親王('''[[東山天皇]]''')(1675年 - 1710年) - '''現在の[[皇室]]'''の先祖に当たる。
** 第五皇女:[[福子内親王]](1676年 - 1707年) - [[伏見宮邦永親王|邦永親王]]('''[[伏見宮]]''')室。'''[[旧皇族]]'''11[[宮家]]の共通先祖である[[邦家親王]]は、福子内親王の男子[[伏見宮貞建親王|貞建親王]]の曾孫(霊元天皇・敬法門院夫妻の来孫)にあたる。
*** 伏見宮系の皇族は男系のみに限る場合は[[室町時代]]の[[貞成親王]](配偶者:[[庭田幸子]]){{efn|霊元天皇から見て9世祖にあたる。}}の代で現在の皇室から分離しているが{{efn|現在の皇室の男系祖先は貞成親王の第一王子で霊元天皇から見て8世祖にあたる[[後花園天皇]]であり、旧皇族の男系祖先は貞成親王の第二王子の[[貞常親王]]である。}}、女系を含めた場合は福子内親王との血縁関係により、霊元天皇・敬法門院夫妻が[[最も近い共通祖先]]であると見なすことができる。
** 第六皇女:[[永秀女王]](1678年 - 1725年)
** 第七皇子:[[京極宮文仁親王]](第6代)(1680年 - 1711年)
** 第七皇女:梅宮(1681年 - 1683年)
** 第八皇女:[[勝子内親王]](1686年 - 1716年)
** 第八皇子:[[清宮 (霊元天皇皇子)|清宮]](1688年 - 1693年)
* [[掌侍]]:[[愛宕福子|源(愛宕)福子]](源内侍局)(1656年 - 1681年) - [[愛宕通福]]女
** 第二皇子:[[覚観法親王|寛隆法親王]](1672年 - 1707年)
** 第四皇女:綱宮(1675年 - 1677年)
* 掌侍:[[五条庸子|菅原(五条)庸子]](少将内侍)(1660年 - 1683年) - [[五条為庸]]女
** 第三皇子:[[三宮 (霊元天皇皇子)|三宮]](1675年 - 1677年) - [[円満院]]
** 第五皇子:[[尭延入道親王]](1677年 - 1718年) - [[天台座主]]
** 第六皇子:[[台嶺院宮]](1679年)
* 掌侍:[[東久世博子|源(東久世)博子]](源中将局)(1672年 - 1752年) - [[東久世通廉]]女
** 第十一皇子:[[徳宮]](1692年 - 1693年)
** 第十二皇子:[[力宮]](1697年)
* 後宮:平氏(多奈井小路局)(? - 1674年) - [[西洞院時良]]女
** 第一皇女:知光院宮(1669年)
* 後宮:[[五条経子|菅原(五条)経子]](菅中納言局)(1673年 - ?) - [[五条為庸]]女
** 第九皇子:[[常磐井宮]]([[桂宮]])[[作宮]](1689年 - 1692年)
** 第十皇子:[[性応法親王]](1690年 - 1712年) - [[大覚寺]]
** 第九皇女:[[文喜女王]](1693年 - 1702年)
** 第十皇女:[[元秀女王]](1696年 - 1752年)
* 後宮:藤原氏(藤式部局)(? - 1746年) - [[今城定淳]]女
** 第十三皇子:[[一乗院|一乗院宮]][[尊賞法親王]](1700年 - 1746年) - [[興福寺]]別当
** 第十一皇女:[[文応女王]](1702年 - 1754年)
* 後宮:[[入江伊津子|藤原(入江)伊津子]](兵衛局)(? - 1763年) - [[入江相尚]]女
** 第十四皇子:[[嘉智宮]](1709年 - 1713年)
** 第十二皇女:留宮(1711年 - 1712年)
* 後宮:[[中将局|安倍氏(中将局)]](1691年 - 1753年) - [[倉橋泰貞]]女
** 第十五皇子:[[峯宮]](1710年 - 1713年)
* 後宮:[[松室敦子|秦(松室)敦子]](右衛門佐局)(? - 1746年 - ) - [[松室重敦]]女、[[岩倉乗具]]猶子
** 第十六皇子:[[有栖川宮]][[有栖川宮職仁親王|職仁親王]](第5代)(1713年 - 1769年)
***[[徳川慶喜]]([[江戸幕府]]第15代[[征夷大将軍]])は職仁親王の曾孫(霊元天皇の玄孫)に当たる。
** 第十三皇女:[[吉子内親王]](1714年 - 1758年) - [[徳川家継]]と婚約
** 第十八皇子:[[尭恭法親王]](1717年 - 1764年) - [[天台座主]]
* 後宮:秦氏(少将局)(1702年 - 1728年) - 南相忠女
** 第十四皇女:八重宮(1721年 - 1723年)
* 後宮:[[松室仲子|秦(松室)仲子]](少納言局)(1707年 - 1751年) - [[松室重仲]]女、[[愛宕通晴]]猶子
** 第十七皇子:[[尊胤法親王 (霊元天皇の皇子)|尊胤法親王]](1715-1740) - 知恩院門跡
 
== 在位中の元号 ==
* [[寛文]]
* [[延宝]]
* [[天和 (日本)|天和]]
* [[貞享]]
 
== 諡号・追号・異名 ==
[[遺詔]]により、[[孝霊天皇]]・[[孝元天皇]]の諡号を採って「霊元院」と[[諡|追号]]される。大正以後は「霊元天皇」と表記される。
 
また、下御霊神社の[[出雲路信直]]・[[出雲路直元|直元]]父子は霊元天皇と親交があった(天皇は退位後に修学院山荘への行幸中、下御霊神社に立ち寄っている)が、崩御の際に直元に対して自分を神として祀るように秘かに伝えた。直元は[[一条兼香]]と相談して、天皇を「'''天中柱皇神'''」の神号で下御霊神社の相殿に祀られた。なお、出雲路信直は[[山崎闇斎]]から[[垂加神道]]を伝授された直弟子で、一条冬経(兼輝)・兼香は垂加神道の理解者であったことから、霊元天皇もその影響を受けた可能性があると言われている{{Sfn|山口|2017|pp=229-230}}。
 
== 陵・霊廟 ==
[[File:Tsukinowa-no-misasagi, haisho.JPG|thumb|220px|right|{{center|月輪陵([[京都府]][[京都市]])}}]]
[[天皇陵|陵]](みささぎ)は、[[宮内庁]]により[[京都府]][[京都市]][[東山区]]今熊野泉山町の[[泉涌寺]]内にある'''[[月輪陵・後月輪陵|月輪陵]]'''(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。
 
また[[皇居]]では、[[皇霊殿]]([[宮中三殿]]の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{notelist}}
=== 注 ===
 
<references group="注" />
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|editor=宮内省図書寮|title=霊元天皇実録|volume=全3|publisher=ゆまに書房|year=2005}}
* 安宅産業株式会社社史編集室編『安宅産業六十年史』安宅産業、1968年。
* {{Cite book|和書|author=久保貴子|title=近世の朝廷運営 <small>朝幕関係の展開</small>|publisher=岩田書院|series=近世史研究叢書|year=1998|isbn=4872941152|ref={{SfnRef|久保|1998}}}}
* [[阿部牧郎]]『小説 安宅産業』[[ダイヤモンド社]]、1977年。
* {{Citation|和書|author=[[山口和夫 (歴史学者)|山口和夫]]|chapter=霊元院政について|editor1=今谷明|editor1-link=今谷明|editor2=高埜利彦|editor2-link=高埜利彦|title=中近世の宗教と国家|publisher=岩田書院|year=1998|isbn=4872941209|pages=311-342}}/所収:{{Cite book|和書|author=山口和夫|title=近世日本政治史と朝廷|publisher=吉川弘文館|year=2017|isbn=9784642034807|ref={{SfnRef|山口|2017}}}}
* 塩田長英『安宅産業研究 苦悩する総合商社』ダイヤモンド社、1977年。
* {{Cite book|和書|author=田中暁龍|title=近世前期朝幕関係の研究|publisher=吉川弘文館|year=2011|isbn=464203448X}}
* [[日本経済新聞社]]特別取材班編『崩壊―ドキュメント・安宅産業』[[日本経済新聞社]]、1977年。
* {{Cite journal |和書
* [[邦光史郎]]『安宅一族 安宅産業の秘められた系譜』[[産経新聞出版|サンケイ出版]]、1978年。
|author =石田俊
* [[日本放送協会|NHK]]取材班編『ある総合商社の挫折』「ベスト・ノンフィクション」[[現代教養文庫]]、1993年。ISBN 4390114603
|authorlink = 石田俊
* [[西川善文]]『ザ・ラストバンカー <small>西川善文回顧録</small>』[[講談社]]、2011年。 ISBN 978-4-06-216792-5
|title = <論説>霊元天皇の奥と東福門院
|journal = 史林
|volume = 94
|issue = 3
|publisher = 史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
|year = 2011
|pages = 371-407
|naid = 120006598593
|ref = harv}}
* {{Cite journal |和書
|author =野村玄
|authorlink = 野村玄
|title = 天和・貞享期の綱吉政権と天皇
|journal = 史林
|volume = 93
|issue = 6
|publisher = 史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
|year =2010
|pages = 719-747
|naid = 120006598565
|ref = harv}}
* {{Cite book|和書|author=藤田覚|authorlink=藤田覚|title=天皇の歴史6 江戸時代の天皇|series=講談社学術文庫|publisher= 講談社 |year=2018|isbn=978-4065116401}}
** {{AmazonKindleLink|1=B07CZCXLZB|2=co.jp|title=天皇の歴史6 江戸時代の天皇|date=2018/5/10}}
* [[石田俊]]『近世公武の奥向構造』吉川弘文館、2021年 ISBN 978-4-642-04344-1
**「霊元天皇の奥と東福門院」(初出:『史林』94-3(2011年))P12-52.
**「元禄期の朝幕関係と綱吉政権」(初出:『日本歴史』725号(2008年)P18-35.)P53-76.
 
== 関連項目 ==
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* [[メッセンジャー (1999年の映画)]] - 劇中、高級ファッションブランドのインポーターを手がける総合商社として「安宅物産」の社名が登場する。
* [[十句観音経]]
* [[私をスキーに連れてって]] - 上記と同様、主人公の勤務する会社の社名が「安宅物産」となっている。
 
== 外部リンク ==
* [http://atakajp.com/ アタカコーポレーション]
 
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{{s-hou|[[ファイル:Imperial Seal of Japan.svg|25x20px]] [[皇室]]|1654年|7月9日|1732年|9月24日}}
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{{s-ttl|title=[[皇位]]<br>[[ファイル:Flag of the Japanese Emperor.svg|border|25x20px]] 第112代[[天皇]]||years=1663年3月5日 - 1687年5月2日<br>{{nowrap|寛文3年1月26日 - 貞享4年3月21日}}}}
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[[Category:かつて存在した大阪府の企業霊元天皇|*]]
[[Category:かつて存在した日本江戸時代卸売企業天皇]]
[[Category:大阪市中央区日本歴史幼帝]]
[[Category:伊藤忠商事日本歴史上皇]]
[[Category:かつて存在した17世紀日本の商社天皇]]
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