「羽田野敬雄」の版間の差分
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[[File:Hada Hachimangu Shrine ac (2).jpg|thumb|left|羽田八幡宮の拝殿]]
寛政10年(1798年)2月14日、[[三河国]][[宝飯郡]]西方村(現・[[愛知県]][[豊川市]][[御津町 (愛知県)|御津町]]西方)の上層農家の四男として生まれた{{sfn|羽田野敬雄研究会|1994|p=508}}。父親は山本兵三郎茂義、幼名は兵作茂雄{{sfn|愛知教育文化振興会|1997|p=12}}。父親は読書好きであり、幼少期から父親が読む[[軍記物]]を聞いて育った{{sfn|愛知教育文化振興会|1997|p=12}}。8歳から12歳までは隣村の医師について手習いを行った{{sfn|愛知教育文化振興会|1997|p=12}}。2人の兄も父親や敬雄と同じように読書家だった{{sfn|羽田八幡宮文庫史編集委員会|1998|p=2}}。8歳から12歳までは近隣の[[御馬村]]の医師・南条春林の手習いに通った{{sfn|羽田野敬雄研究会|1994|p=508}}{{sfn|愛知教育文化振興会|1997|p=12}}。内気な性格だったため友人は少なく、父や兄を師として[[大学 (書物)|大学]]、[[論語]]、[[唐詩選]]などを学んでいる{{sfn|愛知教育文化振興会|1997|p=12}}。父親や南条が好んだ[[俳諧]]に親しみ、[[越前国]][[大野藩]]主・[[土井利知]]の門に入って「連波楼文英」を名乗っている{{sfn|羽田野敬雄研究会|1994|p=508}}。
21歳だった文政元年(1818年)には[[渥美郡]]羽田村(現・[[豊橋市]])の神主である羽田野上総敬道の養子となった{{sfn|愛知教育文化振興会|1997|p=12}}。9月23日には敬道の娘で15歳の美寿との婚儀を行い、羽田野家第7代となって養父の跡を継いだ{{sfn|羽田野敬雄研究会|1994|p=508}}。羽田神明宮(現・湊神明社)と別宮・[[羽田八幡宮]]の神主となり、名を常陸敬雄と改めた{{sfn|愛知教育文化振興会|1997|p=12}}。敬道は50歳の時に西宿(現・豊橋市花田町西宿)の秋葉社から羽田野家に入った人物である{{sfn|羽田野敬雄研究会|1994|p=506}}。広大な新田を有する資産家だった敬道は、羽田八幡宮の本殿・拝殿・神主屋敷などを一新し、神域は一変したとされている{{sfn|羽田八幡宮文庫史編集委員会|1998|p=3}}。高齢だった敬道は当初から養子を迎えることを検討しており、文化10年(1813年)には[[遠江国]][[豊田郡]]半場村から養子を迎えているが、4年ほどして不縁となっていた{{sfn|羽田野敬雄研究会|1994|p=506}}。
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敬雄の没後には蔵書の多くが売却されたが、その大部分は後に買い戻された{{sfn|日外アソシエーツ編集部|2005|p=55}}。やがて豊橋市図書館の所蔵物となって[[豊橋市中央図書館]]に「羽田文庫」が開設された。羽田八幡宮文庫創立150周年にあたる1998年(平成10年)には、羽田八幡宮が羽田八幡宮文庫址の土地を買い戻している。蔵書の一部は西尾市の[[西尾市岩瀬文庫]]にも所蔵されており{{sfn|東三高校日本史研究会|1983|p=104}}、約10,000冊が豊橋市中央図書館に、約1,000冊が岩瀬文庫に所蔵されている<ref name=mainichi20001021>「文化財保護審、『羽田八幡宮文庫』を選定 社務所離れなど3点」毎日新聞、2000年10月21日</ref>{{Refnest|group="注釈"|この他にも、[[新城市]]の[[新城図書館]](牧野文庫)・[[早稲田大学図書館]]・[[天理大学附属天理図書館]]・[[明治大学]]図書館(蘆田文庫)に、旧蔵書が所蔵されている{{sfn|豊橋市中央図書館|2009|p=281}}。}}。
2000年(平成12年)12月4日には「羽田八幡宮社務所離れ(旧羽田野家住宅主屋)」<ref>[
== 子女 ==
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}}
* {{Cite book|和書|year=2009|title=豊橋市中央図書館所蔵 羽田八幡宮文庫旧蔵本目録 |publisher=豊橋市中央図書館 |ref={{Harvid|豊橋市中央図書館|2009年}}}}
* {{Cite book|和書|author=
== 関連項目 ==
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