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| battle_name = 江南殲滅作戦
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| caption = 戦闘に参加する兵士
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| casualties2 =遺棄体25:30,510766人<br/>[[捕虜3]]:4,646279人
|}}
'''江南殲滅作戦'''(こうなんせんめつさくせん)とは、[[日中戦争]]中の[[1943年]]4月から6月の間に行われた、[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]西部での[[日本軍]][[国民革命軍|中国軍]]の戦闘である。'''江南殲滅湖北作戦'''とも。中国側呼称は'''鄂西会戦'''。同時に行われた[[日本海軍]]側の作戦名は'''G作戦'''。
 
日本の[[第11軍 (日本軍)|第11軍]](司令官:[[横山勇]][[中将]])が、[[洞庭湖]]西方の[[長江]]南岸地域に侵攻し、所在の中国軍の撃滅を図った。
 
==立案と戦闘の経過==
==概要==
作戦の目的は、第11軍占領地域の安定化と、[[宜昌市|宜昌]]より下流の長江の水上交通路確保にあった。太平洋方面を重視して中国での戦線拡大は嫌っていた[[大本営]]も、宜昌に滞留中の船舶11隻(合計1万数千トン)の有効活用のために作戦に同意した<ref name="morikane7375">森金、73-75頁。</ref>。またこの時期、中国軍が増水した長江への[[機雷]]の敷設や放流を行うとの情報があったため、[[遣支艦隊#第一遣支艦隊|第一遣支艦隊]]は水路啓開隊を編成して航路の安全確保を図ることにした<ref name="kaigun">『中国方面海軍作戦(2)昭和十三年四月以降』、385-386。</ref>。作戦検討段階では「二号作戦」の仮称でも呼ばれており、これは第11軍にとって1943年の2番目の作戦との意味だと推測される<ref>『昭和十七・八年の支那派遣軍』、369頁</ref>。
 
[[4月9日]]から15日の第1期作戦、5月5日からの第2期作戦、5月18日からの第3期作戦の三段階で侵攻は行われた。第1期作戦は戸田[[支隊]]([[第40師団 (日本軍)|第40師団]]の一部)を中心に[[第3師団 (日本軍)|第3師団]]や[[独立混成第17旅団]]が参加し、[[華容県|華容]]・[[石首市|石首]]から南下して洞庭湖北岸の三仙湖までを占領した。ついで第2期作戦では[[第13師団 (日本軍)|第13師団]]や[[第58師団 (日本軍)|第58師団]]の各一部も加わって、[[枝江市|枝江]]南方の西斉・煖水街付近での包囲戦を行い、中国第87軍(第55・第43・新編第22師団)の主力を撃破した。第3期作戦では、日本軍は[[西陵峡]]にまで到達した<ref name="morikane7375" />。
 
西陵峡にある石牌要塞は長江[[三峡]]における要所で、もしここを日本軍に突破されると中国軍は後方[[巴東県|巴東]]にある第6戦区司令部が脅かされ、さらには[[重慶]]への障壁を失うことになる。第6戦区司令長官[[陳誠]]は、配下の防衛軍(第18軍の第11師団)に死守を命じた。防衛軍には砲兵、工兵、通信兵などの特科兵連隊が配属され、また、この戦いの後半から始まった航空兵力([[第14空軍 (アメリカ軍)|アメリカ第14空軍]])の支援を受けられたことは、これまでの中国軍には無いことであった<ref name="Ray Huang"> 黄仁宇、326-328。</ref>。
 
この間、中国軍は、侵攻部隊に対する直接抵抗のほか、警備が手薄になった後方地域への反撃作戦も実施した。日本軍[[第13師団 (日本軍)|第13師団]]の留守部隊の一部(歩兵1個[[大隊]]及び[[山砲]]1個[[中隊]])が、第13歩兵団長の多田保[[少将]]指揮の下で迎撃に向かってきたのを、[[荊門市|荊門]]北方の子陵舗付近で撃破したこともある。この際に中国軍は山砲1門を鹵獲する「大戦果」を上げている<ref>森金、83-85頁。</ref>。
 
宜昌付近の船舶(大小含めて53隻、約16,000トン)は、漢口第二碇泊場司令官[[里見金二]]大佐が指揮して[[5月27日]]宜昌を出発、[[漢口]]へ向かった。この日から、連合軍航空機の出撃が活発になり、戦場付近の日本軍に損害が現れ始めた。29日、日本軍は目的を達成したとして反転し、作戦を終了した<ref name="rikugunrikugun422" >『昭和十七・八年の支那派遣軍』、422-423頁。</ref>。作戦期間中、第1遣支艦隊の水路啓開隊は約60個の機雷を処分した。<ref name="kaigun" />
 
==結果==
作戦後、日本軍がまとめた戦果の概要は、中国軍の遺棄死体2530,510766[[捕虜]]34,646279、[[要塞砲]]([[野砲]]級)3門、山砲98門、[[対戦車砲|速射砲]]9門、[[迫撃砲]]2048門などの鹵獲、飛行機の撃墜鹵獲など13機であった<ref name="rikugun436">『昭和十七・八年の支那派遣軍』、436頁。</ref>。対して、日本の損害は戦死者535、771人と戦傷者2,066746人でうち戦死馬153者157人と戦傷者238人は空襲による損害であった(6月10日まで)<ref name="rikugunrikugun436">『昭和十七・八年の支那派遣軍』、422-423項。< /ref>
 
日本軍の侵攻に対して、中国側はこれを重慶への侵攻の第一歩ととらえて緊張し、激しく抵抗した。中国軍は山間部の要所[[五峰トゥチャ族自治県|漁洋関]]を奪回し、日本軍を前後から攻撃した。やがて日本軍が反転後退していくと、中国軍は戦いに勝利したと受け取った。しかし、この湖北省西部の戦いはアメリカに監視されていた。[[アメリカ合衆国旧陸軍省|アメリカ陸軍省]]は、日本軍の目的は洞庭湖沿岸の食料掠奪と船舶の下航であり、その目的が達成されて自然に退却したのであって、中国側の勝利の発表は大げさである、と考えた。こうしたアメリカの考えに対して、陳誠はアメリカへの電報の中で、日本軍が中国軍に挟撃される危険を冒し、深入りしないだろうと思われていた険しい山地まで侵入して来たことを述べて反論している<ref name="Ray Huang" />。
 
なお、中国側は、本作戦中に日本軍が{{仮リンク|廠窖虐殺事件|en|Changjiao massacre}}を起こしたと非難している。中国側の主張によると、5月9日から12日の4日間に湖南省[[南県]]廠窖鎮で、中国軍人および民間人合わせて3万人以上が殺害され、3千人以上が負傷、2千人以上が強姦されたという。中国側は、[[南京事件 (代表的なトピック)|南京虐殺]]に次ぐ日中戦争中で2番目の規模の虐殺事件であり、[[太平洋戦争]]期では最大の虐殺事件であると主張している<ref>{{Cite web|author=明星 |date=2005-08-28 |url=https://web.archive.org/web/20071206155934/http://news.xinhuanet.com/focus/2005-08/28/content_3377018.htm |title=日军侵华第二大惨案:厂窖惨案一天屠杀一万人(图) |publisher=[[新華社|新華網]] |accessdate=2007-12-06}}</ref>。
 
==脚注==
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==参考文献==
* 森金千秋 『常徳作戦―幻の重慶攻略』 図書出版社、1983年。
* [[防衛研究所|防衛研修所]]戦史室 『中国方面海軍作戦(2)昭和十三年四月以降』 [[朝雲新聞社]][[戦史叢書]]〉、1975年。
* 防衛研修所戦史室 『昭和十七・八年の支那派遣軍』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1972年。
* 黄仁宇、[[北村稔]]ほか訳 『{{lang|zh|蔣}}介石 マクロヒストリー史観から読む{{lang|zh|蔣}}介石日記』 東方書店、1997年。
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[[Category:日中戦争の作戦と戦い]]
 
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[[Category:日中戦争の作戦と戦い]]
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[[Category:1943年の中国]]
[[fr:Bataille de l'ouest d'Hubei]]
[[Category:湖北省の歴史]]
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