「江南殲滅作戦」の版間の差分
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| caption = 戦闘に参加する兵士
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'''江南殲滅作戦'''(こうなんせんめつさくせん)とは、[[日中戦争]]中の[[1943年]]4月から6月の間に行われた、[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]西部での[[日本軍]]と[[国民革命軍|中国軍]]の戦闘である。'''湖北作戦'''とも。中国側呼称は'''鄂西会戦'''。同時に行われた[[日本海軍]]側の作戦名は'''G作戦'''。
日本の[[第11軍 (日本軍)|第11軍]](司令官:[[横山勇]][[中将]])が、[[洞庭湖]]西方の[[長江]]南岸地域に侵攻し、所在の中国軍の撃滅を図った。
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この間、中国軍は、侵攻部隊に対する直接抵抗のほか、警備が手薄になった後方地域への反撃作戦も実施した。日本軍[[第13師団 (日本軍)|第13師団]]の留守部隊の一部(歩兵1個[[大隊]]及び[[山砲]]1個[[中隊]])が、第13歩兵団長の多田保[[少将]]指揮の下で迎撃に向かってきたのを、[[荊門市|荊門]]北方の子陵舗付近で撃破したこともある。この際に中国軍は山砲1門を鹵獲する「大戦果」を上げている<ref>森金、83-85頁。</ref>。
宜昌付近の船舶(大小含めて53隻、約16,000トン)は、漢口第二碇泊場司令官[[里見金二]]大佐が指揮して[[5月27日]]宜昌を出発、[[漢口]]へ向かった。この日から、連合軍航空機の出撃が活発になり、戦場付近の日本軍に損害が現れ始めた。29日、日本軍は目的を達成したとして反転し、作戦を終了した<ref name="rikugun422">『昭和十七・八年の支那派遣軍』、422-423
==結果==
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日本軍の侵攻に対して、中国側はこれを重慶への侵攻の第一歩ととらえて緊張し、激しく抵抗した。中国軍は山間部の要所[[五峰トゥチャ族自治県|漁洋関]]を奪回し、日本軍を前後から攻撃した。やがて日本軍が反転後退していくと、中国軍は戦いに勝利したと受け取った。しかし、この湖北省西部の戦いはアメリカに監視されていた。[[アメリカ合衆国旧陸軍省|アメリカ陸軍省]]は、日本軍の目的は洞庭湖沿岸の食料掠奪と船舶の下航であり、その目的が達成されて自然に退却したのであって、中国側の勝利の発表は大げさである、と考えた。こうしたアメリカの考えに対して、陳誠はアメリカへの電報の中で、日本軍が中国軍に挟撃される危険を冒し、深入りしないだろうと思われていた険しい山地まで侵入して来たことを述べて反論している<ref name="Ray Huang" />。
なお、中国側は、本作戦中に日本軍が
==脚注==
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