「江南殲滅作戦」の版間の差分
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| battle_name = 江南殲滅作戦
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日本の[[第11軍 (日本軍)|第11軍]](司令官:[[横山勇]][[中将]])が、[[洞庭湖]]西方の[[長江]]南岸地域に侵攻し、所在の中国軍の撃滅を図った。
==立案と戦闘の経過==
作戦の目的は、第11軍占領地域の安定化と、[[宜昌市|宜昌]]より下流の長江の水上交通路確保にあった。太平洋方面を重視して中国での戦線拡大は嫌っていた[[大本営]]も、宜昌に滞留中の船舶11隻(合計1万数千トン)の有効活用のために作戦に同意した<ref name="morikane7375">森金、73-75頁。</ref>。またこの時期、中国軍が増水した長江への[[機雷]]の敷設や放流を行うとの情報があったため、[[遣支艦隊#第一遣支艦隊|第一遣支艦隊]]は水路啓開隊を編成して航路の安全確保を図ることにした<ref name="kaigun">『中国方面海軍作戦(2)昭和十三年四月以降』、385-386頁。</ref>。作戦検討段階では「二号作戦」の仮称でも呼ばれており、これは第11軍にとって1943年の2番目の作戦との意味だと推測される<ref>『昭和十七・八年の支那派遣軍』、369頁</ref>。
[[4月9日]]から15日の第1期作戦、5月5日からの第2期作戦、5月18日からの第3期作戦の三段階で侵攻は行われた。第1期作戦は戸田[[支隊]]([[第40師団 (日本軍)|第40師団]]の一部)を中心に[[第3師団 (日本軍)|第3師団]]や[[独立混成第17旅団]]が参加し、[[華容県|華容]]・[[石首市|石首]]から南下して洞庭湖北岸の三仙湖までを占領した。ついで第2期作戦では[[第13師団 (日本軍)|第13師団]]や[[第58師団 (日本軍)|第58師団]]の各一部も加わって、[[枝江市|枝江]]南方の西斉・煖水街付近での包囲戦を行い、中国第87軍(第55・第43・新編第22師団)の主力を撃破した。第3期作戦では、日本軍は[[西陵峡]]にまで到達した<ref name="morikane7375" />。
西陵峡にある石牌要塞は長江[[三峡]]における要所で、もしここを日本軍に突破されると中国軍は後方[[巴東県|巴東]]にある第6戦区司令部が脅かされ、さらには[[重慶]]への障壁を失うことになる。第6戦区司令長官[[陳誠]]は、配下の防衛軍(第18軍の第11師団)に死守を命じた。防衛軍には砲兵、工兵、通信兵などの特科兵連隊が配属され、また、この戦いの後半から始まった航空兵力([[第14空軍 (アメリカ軍)|アメリカ第14空軍]])の支援を受けられたことは、これまでの中国軍には無いことであった<ref name="Ray Huang"> 黄仁宇、326-328頁。</ref>。
この間、中国軍は、侵攻部隊に対する直接抵抗のほか、警備が手薄になった後方地域への反撃作戦も実施した。日本軍[[第13師団 (日本軍)|第13師団]]の留守部隊の一部(歩兵1個[[大隊]]及び[[山砲]]1個[[中隊]])が、第13歩兵団長の多田保[[少将]]指揮の下で迎撃に向かってきたのを、[[荊門市|荊門]]北方の子陵舗付近で撃破したこともある。この際に中国軍は山砲1門を鹵獲する「大戦果」を上げている<ref>森金、83-85頁。</ref>。
宜昌付近の船舶(大小含めて53隻、約16,000トン)は、漢口第二碇泊場司令官[[里見金二]]大佐が指揮して[[5月27日]]宜昌を出発、[[漢口]]へ向かった。この日から、連合軍航空機の出撃が活発になり、戦場付近の日本軍に損害が現れ始めた。29日、日本軍は目的を達成したとして反転し、作戦を終了した<ref name="rikugun422">『昭和十七・八年の支那派遣軍』、422-423頁。</ref>。作戦期間中、第1遣支艦隊の水路啓開隊は約60個の機雷を処分した。<ref name="kaigun" />
==結果==
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