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{{Infobox Single <!-- プロジェクト:楽曲 をご覧ください -->
{{Otheruses|1989年のルーマニア革命|1944年のルーマニア革命|ルーマニア革命 (1944年)}}
| Name = ハッピー・バースデー
{{Battlebox
| Artist = [[the pillows]]
|battle_name = ルーマニア革命<br/>{{Lang|ro|Revoluţia română}}
| Album = [[ムーンダスト (the pillowsのアルバム)|ムーンダスト]]
|campaign =
| A-side = ハッピー・バースデー
|image = [[ファイル:RomanianFlag-withHole.jpg|180px]]
| B-side = 都会のアリス<br/>クオーター 莫逆の友
|caption = 革命軍が用いた旗。当時の[[ルーマニアの国旗]]から[[共産主義]]を示す[[国章]]が切り取られ、穴が空けられた。
| Released = [[2013年]][[9月16日]]
|conflict = [[東欧革命]]
| Format = [[シングル|マキシシングル]]
|date = [[1989年]][[12月21日]] - [[12月26日|26日]]
| Recorded = 2013年<br/>{{JPN}}
|place = {{ROM1965}}
| Genre = ロック
|result = [[ルーマニア共産党|共産党政府]]の崩壊、[[ニコラエ・チャウシェスク]]の処刑
| Length = 12分32秒
|combatant1 = [[ファイル:Romania flag 1989 revolution.svg|22px]] '''反政府勢力'''<br/>[[救国戦線]]<br/>(ルーマニア国軍ほか)
| Label = [[avex trax]]
|combatant2 = {{Flagicon|ROM1965}} '''共産党政府'''<br/>[[セクリタテア]]
| Producer =
|commander1 = 共産党<br/>・[[イオン・イリエスク]]<br/>反体制派<br/>・[[ペトレ・ロマン]]<br/>国軍<br/>・[[ニコラエ・ミリタル]]<br/>・[[シュテファン・グシェ]]
| Writer = [[山中さわお]]
|commander2 = [[ニコラエ・チャウシェスク]]
| Reviews =
|strength1 =
| Chart position = *週間18位 ([[オリコンチャート|オリコン]])
|strength2 =
| Certification =
|casualties1 =
| Last single = [[エネルギヤ (曲)]]<br/>([[2012年]])
|casualties2 =
| This single = '''ハッピー・バースデー'''<br/>(2013年)
| Next single = '''[[About A Rock'n'Roll Band]]'''<br/>([[2014年]])
| Misc =
}}
「'''ハッピー・バースデー'''」は、[[the pillows]]の35枚目の[[シングル]]。バンド結成記念日である[[2013年]][[9月16日]]に[[avex trax]]から発売された。
'''ルーマニア革命'''(ルーマニアかくめい、{{Lang-ro|Revoluţia română}})は[[1989年]]12月に、[[ルーマニア]]で発生した[[革命]]である。この革命により、[[ルーマニア社会主義共和国]]が打倒され、現在の[[ルーマニア|ルーマニア共和国]]が樹立された。'''ルーマニア民主革命'''や'''ルーマニア政変'''とも言われる。
 
== 概要 ==
約1年間の活動休止期間を経て、前作「[[エネルギヤ (曲)|エネルギヤ]]」から1年9か月ぶりに発売されたシングル。<br/>
1989年、[[東ヨーロッパ]]各国の共産党政府が相次いで打倒された'''[[東欧革命]]'''において唯一、武力により共産党政府が打倒された。
2013年9月16日をもってバンド結成25周年期間に突入する結成25周年記念シングルとして発売された。<br/>
 
表題曲「ハッピー・バースデー」は、“自殺未遂を繰り返す人の心情ってどういうものなんだろう?”という発想が出発点になっており、“死んでもいいと思っても結局死ななかった”という事実に対するある種イヤミの言葉・強烈な皮肉が「ハッピー・バースデー」であるとしている<ref name="cast">笹川清彦「[http://pillows.jp/s/special/special-20130916/ the pillows「ハッピー・バースデー」Special Interview]」 、[[the pillows]]公式HP & [[Interview File Cast]] vol. 48、2013年9月7日。</ref>。<br/>
きっかけは大統領の[[ニコラエ・チャウシェスク]]が命じた民主化デモの武力鎮圧に反対した国防相の[[ワシーリ・ミリャ]]が突然死去(銃撃による死亡)したことから、国軍がチャウシェスクに反旗を翻して民主化勢力を援護し、治安部隊との武力衝突に陥った。革命軍は1週間で全土を制圧しチャウシェスクを処刑し、非共産党政権を樹立した。
また山中は、これまで曲のタイトルにはオリジナリティのある言葉を使うことが多かったが、この曲にはあえて「バイバイ」や「ありがとう」のような日常の言葉を付けたかったとインタビューで答えている<ref name="emtg">EMTG「[https://music.fanplus.co.jp/special/2013090263909a5e2 アニバーサリーシングルは闇から光を求めるthe pillowsらしいバースデー・ソング]」、[[EMTG]]、2013年9月13日。</ref>。<br/>
<gallery>
ファイル:Romanian Revlution 1989 2.jpg|抗議デモに対峙する共産党軍
 
カップリング曲「クオーター 莫逆(ばくげき)の友」は、25周年(1世紀の4分の1)というキーワードを元に詞が書かれた。
ファイル:Romanian Revolution 1989 WeWillWin.jpg|勝利に喜ぶ革命軍
加えて、これまでのピロウズはロゴの剣マークやマスコットキャラクター・バスター君のカラーリングなどで「3」で数えることが多かったが、サポートベーシストの[[鈴木淳 (ベーシスト)|鈴木淳]]や、活動休止期間中に発表した山中のソロアルバム『[[山中さわお|破壊的イノベーション]]』のアルバムツアーに参加したコアなファンも含めて「4」「4分の1」とカウントしたいという意味も込められている<ref name="cast" />。<br/>
ファイル:Romanian Revolution 1989 1.jpg|革命軍の旗を掲げる
</gallery>
{{東欧革命}}
 
初回限定版の特典DVDとして「ハッピー・バースデー」「都会のアリス」のMVが収録されているが、後に「クオーター 莫逆の友」のMVも制作され、2014年発売のMV集『REVIVAL OF MOTION PICTURES』に3曲とも収録された。<br/>
== 前史 ==
[[1945年]][[5月8日]]の[[ヨーロッパ戦勝記念日|敗戦]]によって[[ルーマニア王国]]が崩壊し、[[ソビエト連邦軍]]の占領下で、[[ルーマニア共産党]]による[[一党独裁]]国家である[[ルーマニア社会主義共和国]]が成立した。
 
== 収録曲 ==
ルーマニア社会主義共和国は、他の東欧諸国とは一線を画し、[[ソビエト連邦]]とも一定の距離を維持する独自外交を行っていた。これはルーマニアが産油国であり、ソビエト連邦に依存しなくても独自に[[外貨]]獲得や[[エネルギー]]資源の確保が可能だったためである。ソ連や近隣諸国の影響力を排除した結果、国内におけるチャウシェスクの求心力は高まり、「チャウシェスク王朝」とも言われた個人独裁体制を確立した。
(作詞・作曲:[[山中さわお]])
# ハッピー・バースデー (4:36)
# 都会のアリス (3:26)
# クオーター 莫逆の友 (4:30)
 
== DVD ==
しかしながら、[[1980年代]]に入ると経済政策に失敗し、国内経済の疲弊が始まった。対外債務の返済のために[[飢餓輸出]]が強行された結果国民の生活水準は低下したが、その一方でチャウシェスク自身は[[国民の館]]と呼ばれる豪華な宮殿を建設し、一族を要職に就けるなど国民生活を無視するような政治を続けたためにルーマニア国民の間では独裁政権に対しての不満が日増しに強くなった。こうした状況の中で、[[1989年]]になると、[[六四天安門事件]]が起こり、[[ポーランド]]を皮切りに東ヨーロッパ各国の共産党政権が次々と倒れたとの情報がルーマニアにも入ってくると、次第に民主化を求める機運が高くなっていった。
# ハッピー・バースデー (MV)
# 都会のアリス (MV)
 
== 参考文献・出典 ==
これに対してチャウシェスクは情報統制と反政府勢力の弾圧強化を図り、民主化運動への一切の妥協を拒否すると共に政権の維持に固執した。
{{-脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
{{the pillows}}
== 革命の推移 ==
=== 発端 ===
* '''1989年[[12月16日]]''' - ルーマニア西部の都市・[[ティミショアラ]]で民衆による[[デモ行進|デモ]]が発生。治安警察([[セクリタテア]])がデモ隊に発砲、多数の死傷者が出る(しかし、後になって近所の[[病院]]の死体置き場から盗まれた遺体が現場に転がされていたと言う[[噂]]が広まった)。
** このデモは人権活動家で[[ハンガリー改革派教会]]の[[牧師]][[テケーシュ・ラースロー]](ラースロー・テケーシュ)への[[国外退去]]処分に対する[[マジャル人]]([[ハンガリー]]人)による抗議デモであった。
** ティミショアラを含むルーマニア西部([[バナート]]地方)はハンガリー[[国境]]に近く、[[1919年]]の[[オーストリア・ハンガリー帝国]]が崩壊するまで[[ハンガリー王国]]の領域であった。ルーマニアに留まったハンガリー系住民に対する政府の扱いはあまり良いとは言えず、マジャル人であるラースローの国外退去処分への抗議とともに待遇改善を求めてデモを起こしたのであった。
 
{{Normdaten}}
=== 勃発 ===
{{DEFAULTSORT:はつひいはあすてえ}}
[[ファイル:Romanian Revolution 1989 Demonstrators.jpg|250px|thumb|ブカレストでの抗議デモ]]
[[Category:楽曲 は|つひいはあすてえ]]
* '''[[12月21日]]''' - [[首都]]・[[ブカレスト]]で官製集会の最中に爆発事件が発生する。
[[Category:The pillowsの楽曲]]
** [[ルーマニア共産党]]本部庁舎前の広場(旧王宮広場)で約10万人を動員した[[官製デモ|チャウシェスクを称賛する集会]]が開催された。チャウシェスクの[[演説]]が始まって間もなく、ティミショアラ事件に抗議するルーマニア人参加者が[[爆弾]]を2つ爆発させた(実行犯は警察により[[銃殺|射殺]]。10代の若者2人が[[爆竹]]を爆発させたと言う説もあるが詳細は不明なところが多い)。広場は[[パニック]]状態に陥り、集会は強制的に解散させられた。なお、この集会は国営ルーマニア放送で生中継されていたがチャウシェスクの演説が始まった直後、群集がパニック状態になっている姿を見てたじろぐ姿が映しだされているところで放送が中止された(その後、放送は再開された)。
[[Category:2013年のシングル]]
** 集会の参加者の一部に大学生・市民の一部が合流しチャウシェスク独裁の抗議集会へと発展した。しかしこの政治集会に対しても治安部隊が発砲、多数の死傷者を出す事態となった。軍隊も動員されたが市民の政権に対する不満は頂点に達した。
[[Category:avex traxのシングル]]
** この状態に危機感を抱いたチャウシェスクは国防大臣[[ワシーリ・ミリャ]]に対し軍隊による群集への発砲を指示した。しかしミリャはこの命令を拒否、チャウシェスクの逆鱗に触れその後ミリャは自室で死体となって発見された。翌日、国営ルーマニア放送は「国防大臣が自殺した」と報じたものの市民には「処刑された」との噂が知れ渡った。軍首脳の中にも国防相処刑説が広がり、大統領に反旗を翻すきっかけとなった。同日夜には軍隊が広場に集まる市民の側に立ち、政府機関(ルーマニア共産党本部等)の占拠が始まった。
[[Category:誕生日を題材とした楽曲]]
 
=== 崩壊 ===
[[ファイル:Romanian Revlution 1989 3.jpg|200px|thumb|チャウシェスク夫妻を乗せて大統領宮殿を脱出するヘリコプター]]
 
* '''[[12月22日]]''' - 革命勢力の攻勢は大統領宮殿にまで及びチャウシェスクはブカレストから脱出し政権は崩壊、反体制派勢力は共産党の反チャウシェスク派とともに暫定政権「'''[[救国戦線評議会]]'''」を組織し[[テレビジョン放送局|テレビ]]、[[ラジオ放送局|ラジオ局]]を掌握した。これにより「国営ルーマニア放送」から「自由ルーマニア放送」と改称される。
** チャウシェスクは[[非常事態宣言]]を出し事態に対応しようと試みるが軍隊が革命勢力に参加したことで頓挫、妻の[[エレナ・チャウシェスク|エレナ]]と共に[[ヘリコプター]]での脱出を図った。しかし一連の逃亡劇は反体制側に転じた自由ルーマニア放送他、世界各国の[[マスメディア]]で映像が流されるお粗末なものであった。その後、首相の[[コンスタンティン・ダスカレスク]]は辞任、内閣も総辞職した。チャウシェスク政権時に政権批判をし投獄されていた[[政治犯]]も釈放された。その後、夜になるとブカレスト市内各地で反体制派の軍隊と大統領派の治安警察による激しい銃撃戦(市街戦)が発生。多数の死傷者が出る。
* '''[[12月23日]]''' - 前夜からの市街戦は更に激しくなっていく。大統領派は秘密の地下通路などを利用し国軍、市民への発砲を続ける。救国戦線評議会は発砲してくる大統領派を「[[テロリズム|テロリスト]]」と呼び市民に協力を要請、大統領派の掃討に出る。また市民も[[銃]]をとり大統領派に応戦する。混乱の為、情報が錯綜する中、[[ハンガリー]]から軍の派遣要請の連絡を受けるがこれを拒否。また、ソ連([[ソビエト連邦軍|ソ連軍]])が事態の沈静化の為に介入するがこれも拒否する。そして救国戦線(国軍)によりチャウシェスク夫妻が[[逮捕]]され18時、自由ルーマニア放送(テレビ)で報道された。
** 以前のソ連であれば、(比較的穏健派の[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]が最高指導者の時代でさえ)こうした反政府クーデターへのソ連軍の介入は「問答無用」であり相手国の受け入れの有無はソ連が後から「あったことにする」のが通例だった(例:[[プラハの春]])。しかし、この当時にソ連の最高指導者である[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]は自らの[[新ベオグラード宣言]]による対外公約を守り[[衛星国]]であった東欧の共産国に対しても強権を振るうことはほとんどなかった。
* '''[[12月24日]]''' - ブカレスト市内の市街戦は依然として続く。また、大統領派の逮捕も相次いでいく。
* '''[[12月25日]]''' - チャウシェスク夫妻は[[軍事裁判|特別軍事法廷]]で大量[[虐殺]]と不正蓄財の罪により[[死刑]]判決を受け、即日[[銃殺刑]]が執行された。
** チャウシェスク夫妻が拘禁されていた軍事基地で秘密警察によるチャウシェスク奪回作戦が敢行され、激しい銃撃戦が展開された。当初は軍事裁判ではなくブカレストに連行して通常裁判を実施する予定であったが、秘密警察の抵抗でチャウシェスク夫妻の扱いを早急に結論付けなければならなくなった。
** チャウシェスク生存説が流布される事を恐れた救国戦線は、チャウシェスク夫妻の遺体を各国メディアに公開した。
* '''[[12月26日]]''' - 救国戦線評議会、新指導体制を発表。暫定政権樹立。同日、チャウシェスク夫妻の処刑が発表される。これを機に大統領派の抵抗も終息していく。
 
== 革命後 ==
[[ファイル:CFSN Revolution Roumaine.jpg|250px|thumb|政権樹立発表後のイリエスク]]
[[ファイル:NicolaeCeausescumormant2.JPG|250px|thumb|チャウシェスクの墓]]
チャウシェスクの処刑とルーマニア共産党政権の崩壊を受けて暫定的な革命政権である[[救国戦線評議会]]による政権運営が行われた後、[[1990年]]5月にルーマニアで初となる多数政党制による[[自由選挙]]が行われ、政党に衣替えした救国戦線が勝利を収めた。また後に国民による投票としては初めての大統領選挙が行われ[[イオン・イリエスク]]が[[大統領]]の座に付いた。
 
他の東欧諸国では、自由選挙の下で多かれ少なかれ旧共産党が議席を獲得した。しかし、ルーマニアでは革命後に共産党が消滅し非合法化された(後に撤回)。ルーマニア共産党関係者は、救国戦線に参加して政治生命を保った。地下に潜伏中ではあるが、ルーマニア社会主義労働者党を名乗る勢力がチャウシェスク体制の復活を目指している。
 
[[1999年]]12月、革命10周年に当たって行なわれた[[世論調査]]によると6割を超えるルーマニア国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答え、同国政府を驚かせた。市場経済の停滞と失業者の増加により生活が悪化し、国民の不満が高まる中で各地の[[工場]]や[[炭鉱|炭坑]]では[[ストライキ]]が頻発。その参加者の中には、チャウシェスクの肖像写真とともに「'''チャウシェスク、私たちはあなたが恋しい'''」といった[[プラカード]]を掲げる人も少なくないという。惨殺されるほど嫌われ恐れられた独裁者が、少なくとも最低限度の生活を保障していたことで死後改めて評価されるという皮肉な展開となった。
 
しかし一方でやはり共産・社会主義体制は過去の物と言う観点もあり、「'''我々はとりあえず自由を手に入れた。次は幸福を手にする番だ'''」というスローガンも見受けられるなど評価は定まっていないのが実情である。
 
現在では、革命は「民衆蜂起を利用したチャウシェスク政権内部の共産党官僚による宮廷クーデターだった」という説をはじめさまざまな陰謀説が存在する<ref>[http://www.sukuukai.jp/shiryo/paper14/pdf/3-2.pdf#search='ルーマニア 救国戦線' ルーマニア革命は「市民蜂起に便乗した宮廷クーデター」だった]</ref>。
また、いまだに政府中枢には現在も旧共産党系の人物が残り、1000人もの犠牲者を出した革命時の加害者の追及の不徹底など、国民の間では、まだ革命は終わっていないとの声も多く、旧東欧諸国の中で[[ユーゴスラビア]]と並び、「革命の後遺症」をかかえている。
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Romanian Revolution of 1989}}
* [[1989年のルーマニア革命に関する書籍一覧]]
* [[救国戦線評議会]]
* [[ルーマニア革命 (1944年)]]
* [[人民裁判]]
 
{{DEFAULTSORT:るうまにあかくめい 1989ねん}}
[[Category:ルーマニア社会主義共和国]]
[[Category:ルーマニアの歴史 (1990年-現在)]]
[[Category:ルーマニアの政治|かくめい 1989ねん]]
[[Category:東欧革命]]
[[Category:1989年]]
 
{{Link FA|ro}}
{{Link GA|es}}
 
[[ar:الثورة الرومانية في 1989]]
[[bg:Румънска революция]]
[[ca:Revolució romanesa de 1989]]
[[cs:Rumunská revoluce roku 1989]]
[[de:Rumänische Revolution 1989]]
[[en:Romanian Revolution of 1989]]
[[es:Revolución rumana de 1989]]
[[fi:Romanian vallankumous 1989]]
[[fr:Révolution roumaine de 1989]]
[[ga:Réabhlóid na Rómáine 1989]]
[[gl:Revolución romanesa de 1989]]
[[he:המהפכה הרומנית (1989)]]
[[hr:Rumunjska revolucija 1989.]]
[[hu:1989-es romániai forradalom]]
[[id:Revolusi Rumania 1989]]
[[it:Rivoluzione rumena del 1989]]
[[ko:루마니아 혁명]]
[[nl:Roemeense Revolutie]]
[[nn:Den rumenske revolusjonen i 1989]]
[[no:Den rumenske revolusjonen i 1989]]
[[pl:Rewolucja w Rumunii]]
[[pt:Revolução Romena de 1989]]
[[ro:Revoluția Română din 1989]]
[[ru:Румынская революция (1989)]]
[[simple:Romanian Revolution of 1989]]
[[sk:Rumunská revolúcia v roku 1989]]
[[sl:Romunska revolucija 1989]]
[[sr:Румунска револуција 1989.]]
[[sv:Rumänska revolutionen 1989]]
[[tl:Himagsikang Rumano]]
[[tr:Romanya Devrimi]]
[[uk:Румунська революція 1989]]
[[zh:1989年羅馬尼亞革命]]