「マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ (1738-1789)」の版間の差分
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{{基礎情報 皇族・貴族
| 人名 = マリア・アンナ
| 各国語表記 = {{lang|de|Maria Anna
| 家名・爵位 = [[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]
| 画像 = Meister der Erzherzoginnen-Porträt - Erzherzogin Maria Anna.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = オーストリア大公女マリア・アンナの肖像画([[マルティン・ファン・マイテンス]]画・1760年代)
| 続柄 =
| 称号 =
| 全名 = {{Collapsible list|title=一覧参照|{{Lang|de|Maria Anna Josepha Antonia}}<br/>マリア・アンナ・ヨーゼファ・アントニア}}
| 身位 =
| 敬称 =
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| 宗教 = [[キリスト教]][[カトリック教会]]
| サイン =
}}{{出典の明記| date = 2023年5月}}
'''マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ'''({{Lang-de|Maria Anna
== 生涯 ==
=== ウィーン時代 ===
{{出典の明記| date = 2023年5月| section = 1}}
マリア・アンナの誕生は、男児の誕生を望む皇帝一家と[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]国民を落胆させた。[[1740年]]から男児誕生までの間、彼女はマリア・テレジアの[[推定相続人]]と目されたが、[[1741年]]の弟[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ]]の誕生により、完全に日陰へと追いやられることとなった。
母マリア・テレジアは娘の中では[[マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1742-1798)|マリア・クリスティーナ]](ミミ)やマリア・エリーザベト(リースル)を偏愛したが、マリア・アンナは母からの愛情を得ることができなかった。病気がちだった彼女には、結婚による[[ハプスブルク=ロートリンゲン家|ハプスブルク家]]の外交に貢献することが期待できなかったことが原因の一つとしてあげられる。加えて彼女は成長するにつれ背中の湾曲が目立つようになり、周囲から「せむしの皇女」との侮蔑と揶揄を受けるようになっていた。
マリア・アンナは絵画、ダンスやバレエ、音楽の才に恵まれ、ウィーン造形美術アカデミーやフィレンツェ芸術アカデミーに迎え入れられた。集中力、記憶力、勤勉さにおいても弟ヨーゼフを凌駕したが、未来の皇帝よりも優れた才能を持った皇女の存在は宮廷で疎まれた。[[1757年]]に大病を患ってからは、医師から楽しみとしていたダンスや狩猟などの運動を禁じられてしまった。
宮廷において彼女と同じく日陰者の身であった父フランツ・シュテファン(皇帝ではあったものの
ヨーゼフの[[パルマ公国|パルマ]]公女[[マリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマ|マリア・イザベラ]]との結婚を、実妹たちに次ぐ新たなライバルの出現とマリア・アンナは受け止め、マリア・イザベラに冷たく接した。このことがヨーゼフが姉を嫌悪し、フランツ・シュテファンが娘を遠ざける原因となった。[[1763年]]にマリア・イザベラが[[天然痘]]でこの世を去ると、マリア・アンナは再び父との親しい関係を取り戻したが、[[1765年]]に最愛の父が亡くなると、その安寧な生活にも終止符が打たれた。
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=== クラーゲンフルト時代 ===
{{出典の明記| date = 2023年5月| section = 1}}
[[1780年]]にマリア・テレジアが死去するや、かねてよりマリア・アンナを深く憎悪していた弟帝ヨーゼフによって彼女は事実上宮廷より追放され、[[1781年]]4月にクラーゲンフルトの城館へ居を移した。この転居に際して、それまでに収集された鉱物は[[ブダペスト|ブダ]]の大学へ、膨大な蔵書は[[ウィーン大学]]やその他の科学研究施設へ売却することを余儀なくされた。
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マリア・アンナは私財を投じて、修道院付属の病院の施設の改善にも励んだ。ヨーゼフは彼女の財政支援の要請に冷淡な態度を取っていたが、[[1783年]]に現地を訪問し、病院の感じの良さと修道院の闊達な雰囲気に感銘を受け、病院へ支援を行うようになった。
また、ケルンテン州知事を通して、マリア・アンナは匿名で貧者や病人への支援を行った。熱心な社会福祉活動と学術活動の結果、彼女はケルンテン住民の敬愛を受けるようにな
=== 晩年 ===
{{出典の明記| date = 2023年5月| section = 1}}
[[File:Grab Maria Anna.JPG|thumb|right|マリア・アンナの墓碑、2007年撮影。]]
[[1789年]]の春から病床に伏した後、同年[[11月19日]]、彼女のために祈りを捧げる住民たちが城館の周囲を取り囲む中、マリア・アンナは望み通り[[エルジェーベト (ハンガリー王女)|聖エリーザベト]]の祝日に亡くなった。墓碑には生前から用意されていた文言が[[ラテン語]]で刻まれた。
:{{lang|la|MARIA ANNA}}(マリア・アンナ)
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:{{lang|la|DENATA DIE XIX NOV:}}
:{{lang|la|MDCCLXXXIX}}(1789年11月19年没)
:{{lang|la|[[Requiescat in pace|REQUIESCAT IN PACE]]}}(安らかに眠れ)
マリア・アンナの遺産は全てエリーザベト修道院に遺贈された。私有物や居城も売却され、その収入が修道院へと納められた。ヨーゼフ帝の個人的なはからいにより、[[相続税]]に対する免除率が最高の25%に設定された。
== フリーメイソンとの関わり ==
[[ファイル:Ignaz_von_Born.jpg|thumb|right|150px|イグナーツ・フォン・ボルン]]{{出典の明記| date = 2023年5月| section = 1}}
父帝フランツ・シュテファンが[[フリーメイソン]]であったため、マリア・アンナも愛する父の影響を受けフリーメイソンに対して深い好意を持っていた。ウィーン時代、マリア・アンナはウィーンにおけるフリーメイソン活動の中心人物である鉱物学者[[イグナーツ・フォン・ボルン]]とともに自然史の編纂を行うと同時に、ボルンの研究に対して投資をした。また、彼女はフリーメイソンのウィーン支部にも沢山の贈答を行った。
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こうした文化人との交流が、マリア・アンナに遺跡の発掘と保護への意欲を芽生えさせ、[[1783年]]に開始された[[ツォルフェルト]]平野の発掘調査に彼女は3万[[グルデン]]の投資をし、[[古代ローマ]]時代の{{仮リンク|ヴィルヌーム|de|Virunum}}遺跡が発掘された。
== マリア・アンナが登場する作品 ==
*[[みやのはる]]『[[ラ・マキユーズ~ヴェルサイユの化粧師~]]』 - 『[https://comic-walker.com/comicbridge/ COMIC BRIDGE online]』([[KADOKAWA]])で連載された漫画。過去のフランスにタイムスリップした後マリア・テレジアによってオーストリアまで連行された主人公(化粧品開発の研究者)と交流を持つ<ref>{{Cite web|和書|title=ラ・マキユーズ~ヴェルサイユの化粧師~ 4 |無料試し読みなら漫画(マンガ)・電子書籍のコミックシーモア |url=https://www.cmoa.jp/title/212314/vol/4/ |website=www.cmoa.jp |access-date=2023-05-12 |quote=琉花たちが連れ去られた先はヨーロッパ随一の名門皇家、ハプスブルク家だった。
フランス王太子との歴史的婚姻を控えた皇女、マリー・アントワネットの顔の傷を消すように命じられた琉花は科学に長けた第二皇女、マリア・アンナの助けを得るうちに深い友情を築く。}}</ref>。その学識の深さで主人公を感嘆させる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
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*{{仮リンク|アンナビシュル城|de|Schloss Annabichl}} - 夏に別荘として用いられた
== 外部リンク ==
{{
{{Normdaten}}
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[[Category:障害を持つ王侯貴族]]
[[Category:フリーメイソン]]
[[Category:キリスト教の修道女]]
[[Category:18世紀のカトリック聖職者]]
[[Category:18世紀オーストリアの女性]]
[[Category:1738年生]]
[[Category:1789年没]]
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