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{{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}}
{{chembox
{{基礎情報 会社
| Name = メタンフェタミン
| 社名 = 株式会社クィーンズアベニュー
| ImageFile = Methamphetamine-2D-skeletal-.svg
| 英文社名 = Queen's Ave Co.,Ltd.
| ImageSize = 180px
| 種類 = [[株式会社]]
| ImageAlt = メタンフェタミンの構造式
| 市場情報 = 非上場
| IUPACName = (''S'')-''N''-メチル-1-フェニルプロパン-2-アミン
| 国籍 = {{JPN}}
| OtherNames = ''N''-メチルアンフェタミン
| 郵便番号 = 102-0083
| Section1 = {{Chembox Identifiers
| 本社所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|千代田区]][[麹町]]2-2-4 麹町セントラルビル5F
| CASNo = 537-46-2
| 設立 = [[1994年]]4月(創業[[1989年]]8月)
| KEGG = D08187 }}
| 業種 = サービス業
| Section2 = {{Chembox Properties
| 事業内容 = タレント・アーティスト・インフルエンサーの育成、マネジメント及びプロモーション
| Formula = C<sub>10</sub>H<sub>15</sub>N
| 代表者 = 澤栗洸紀([[代表取締役]])
| MolarMass = 149.24
角島美緒([[取締役社長]])
| Appearance =
| 従業員数 = 6名
| BoilingPt = 212<ref>"Hazardous Substances Data Bank", [[:en:United States National Library of Medicine|NLM (US)]]</ref>
| 資本金 = 4000万円
| Boiling_notes = }}
| 売上高 =
| 関係する人物 =
| 外部リンク = https://www.queens-ave.com/
| 特記事項 =
}}
'''クィーンズアベニュー'''(Queen's Ave.)は、[[東京都]][[港区 (東京都)|千代田区]]に本社を置く、[[日本]]の[[芸能事務所]]である。旧[[代表取締役]]は、前島真理奈。旧名は「クィーンズアベニューアルファ」。
[[ファイル:Crystal Meth.jpg|thumb|right|メタンフェタミン]]
'''メタンフェタミン'''({{lang-en|methamphetamine, methylamphetamine}})は、[[アンフェタミン]]の窒素原子上に[[メチル基]]が置換した構造の[[有機化合物]]である。間接型アドレナリン受容体刺激薬として中枢神経興奮作用はアンフェタミンより強く、強い中枢興奮作用および[[精神依存|精神依存性]]、[[耐性 (薬理学)|薬剤耐性]]がある<ref name="takeuchi"/>。日本では商品名'''ヒロポン'''で販売されているが<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.info.pmda.go.jp/go/pack/1151001F1020_1_02/ |title=ヒロポン/ヒロポン錠 |accessdate=2022-8-26 |publisher=[[医薬品医療機器総合機構]] |website=医薬品医療機器情報提供ホームページ |archive-date=2018-10-12 |archive-url=https://web.archive.org/web/20181012134858/http://www.info.pmda.go.jp/go/pack/1151001F1020_1_02/ |deadlinkdate=2022-8}}</ref>、現在は「限定的な医療・研究用途での使用」のみに厳しく制限されている。
 
== 来歴 ==
日本では[[覚醒剤取締法]]を制定し、[[覚醒剤]]の取扱いを行う場合の手続きを規定するとともに、それ以外の流通や使用に対しての罰則を定めている<ref name="takeuchi">{{Cite book|和書|author=竹内孝治|coauthors=岡淳一郎|year=2011|title=最新基礎薬理学[第3版]|publisher=廣川書店|page=50|isbn=978-4-567-49452-6}}</ref>。メタンフェタミンはこの取締法における'''フェニルメチルアミノプロパン'''であり、日本で[[薬物乱用]]されている覚醒剤である{{sfn|覚醒剤中毒|1980|p=9}}。
創業当初は[[モデルエージェンシー]]としてスタートしたが、[[立河宜子]]が[[クラリオンガール]]に選ばれたのをきっかけに[[タレント]]志向を強化。その後も[[小橋めぐみ]]、[[鮎河ナオミ]]などの人気タレントを多数輩出。1999年から2003年ごろまでは毎年夏にオーディションを兼ねたイベントを開催していた。
 
その後、[[中島礼香]]の引退や小橋、鮎河などの主要タレントが相次いで離脱。その後[[平子理沙]]、[[前田つばさ]]の移籍加入などが発表された。
== 俗称・異称 ==
{{Main|覚醒剤#名称}}
日本語では、'''シャブ'''、'''エス''' (S)、'''スピード''' (speed) などの俗称で呼ばれる。英語では'''アイス'''(ice)、'''メス'''(meth)、'''クリスタル・メス'''(crystal meth)などの俗称がある。
<!--
諸言語の俗称として、{{Lang|zh|冰毒}}(中国語)などが挙げられる。-->
 
現在は俳優、声優のマネジメントだけでなくインフルエンサーマネジメントも手がけ幅広い分野での活動をサポートしている。
== 歴史 ==
1888年(明治21年)に日本の薬学者[[長井長義]]が『[[麻黄]]研究物質第33号』として合成して、1893年(明治26年)に薬学雑誌に発表した<ref name="naid130003911750">{{Cite journal |和書|author=中原雄二 |date=1990 |title=世界における覚せい剤の乱用の現状と問題点 |journal=衛生化学 |volume=36 |issue=2 |pages=100-108 |naid=130003911750 |doi=10.1248/jhs1956.36.100 |url=https://doi.org/10.1248/jhs1956.36.100}}</ref>。1919年(大正8年)に[[緒方章]]が結晶化に成功した。
 
== 所属タレント ==
覚醒作用や依存性は、合成に成功した当時は発見されず<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.health.ne.jp/library/detail?slug=hcl_column150111 |title=009:覚せい剤を開発したのは日本人? |accessdate=2022-8-26 |publisher=シミックソリューションズ |website=HelC |date=2015-1-5 |author=望月吉彦}}</ref>に発見以後も注目されていなかったが{{sfn|覚醒剤中毒|1956|p=17}}、1938年に[[ナチス・ドイツ]]が薬剤のペルビチン (Pervitin) として用いると、1940年に嗜癖性と1954年までに20数例の[[覚醒剤精神病|精神病]]がそれぞれ[[西ドイツ]]、[[スイス]]、[[チェコスロバキア]]などから{{sfn|覚醒剤中毒|1956|pp=4-5}}報告された。[[第二次世界大戦]]時は、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]と[[枢軸国|枢軸国軍]]の双方で、航空機や潜水艦の搭乗員を中心に士気向上や疲労回復の目的で用いられ、[[アメリカ陸軍]]刑務所で、従業員と受刑者約1,000人のうち約25[[パーセント]] (%) が乱用{{sfn|覚醒剤中毒|1956|pp=4-5}}した。
=== 女性タレント ===
*[[生田輝]]
*[[角島美緒]]
*[[妃鳳こころ]]
*[[川口果恋]]
*松本 彩楓
*[[大畑杏雛]]
*柊木みずほ
*平ひなの
*天野依吹
 
=== 男性タレント ===
[[大日本帝国]]でも戦時の勤労状態や工場の能率向上のために使われ<ref name="UN1968">{{Cite journal |author=Masamutsu Nagahama |date=1968|title=A review of drug abuse and counter measures in Japan since World War II|url=https://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/bulletin/bulletin_1968-01-01_3_page004.html|journal=U.N. Bulletin on Narcotics|volume=20|issue=3|pages=19-24}}</ref>、[[1945年]]([[昭和]]20年)8月15日の[[日本の降伏]]後に、[[日本軍]]保有品のヒロポン注射剤{{sfn|覚醒剤中毒|1980|pp=41-42}}が市場に放出され、非行少年や売春婦に乱用が拡散{{sfn|覚醒剤中毒|1980|p=10}}した。
*[[中村龍介]]
*浜崎たつや
*ゆうき
*有村優磨
*[[参川剛史]]
*[[佐々木仁 (俳優)|佐々木仁]]
*井上タケル
 
=== 声優 ===
日本は、1949年(昭和24年)に一般人の製造を禁止するが、密造品が広まり{{sfn|覚醒剤中毒|1980|p=10}}ヒロポンなどのラベルが貼られた{{sfn|覚醒剤中毒|1956|p=16}}。1949年10月に[[厚生省]][[次官]]通知で各製造会社に製造の自粛を要請し、1950年(昭和25年)に製造会社ごとに製造数を割り当てたが、[[富山化学工業]]は5万本の割当に800万本も製造するなど効果はなかった<ref>「興奮剤の乱造に厳罰」『朝日新聞』昭和26年2月1日</ref>。[[東京大学医学部附属病院]]神経科で1946年(昭和21年)9月に、[[東京都立松沢病院]]で1948年(昭和23年)3月に{{sfn|覚醒剤中毒|1956|pp=8-11}}、それぞれはじめて中毒患者が入院した。1951年(昭和26年)に覚せい剤取締法が制定されると、1952年までに入院患者数は激減し{{sfn|覚醒剤中毒|1956|pp=8-11}}、1954年に5万5,000人超であった検挙者数は1957年に1,000人を下回ったが、1971年(昭和46年)に1万人を超えた{{sfn|覚醒剤中毒|1980|p=11}}。
*[[生田輝]]
*星谷実可子
*よしのエイミーウォーカー
 
=== インフルエンサー ===
従来は国内で密造されていたが、1970年(昭和45年)に[[大韓民国]]、[[イギリス領香港]]、[[中華民国]]、[[ポルトガル領マカオ]]、[[タイ王国]]から密輸入が増加すると[[暴力団]]が販売を掌握した{{sfn|覚醒剤中毒|1980|pp=13, 24-26}}。終戦直後から販売価格が高額化すると、若年者ではなく[[暴力団]]や[[水商売]]人らに流行して違法性を認知して使用した{{sfn|覚醒剤中毒|1980|pp=41-42}}。[[携帯電話]]や国外在住者や知人らを介して元締めの暴力団と接触せずに入手が可能になると、1995年から再び流行した<ref name="kenkyukai">{{Citation|和書|author=覚醒剤研究会|date=2010|title=覚醒剤大百科|publisher=[[データハウス]]|pages=32-33|isbn=978-4781700427}}</ref>。日本国内の薬物事犯は[[覚醒剤]]事案の検挙が最も多く、2007年([[平成]]19年)に1万2,000人が検挙されるなど、日本は[[薬物依存症]]の治療が進まずに乱用が続いている<ref>{{Cite book|和書|author=松本俊彦|chapter=第5章 薬物依存に対する治療プログラム Matrix ModelとSMARPP|title=薬物依存とアディクション精神医学|publisher=金剛出版|date=2012|isbn=978-4772412391|pages=61-81}}</ref>。{{See also|#ヒロポン史}}
 
* 2すとりーと
== 作用 ==
* サメニンジャー
メタンフェタミンは、[[血液脳関門]]を易々と通り越して、[[大脳]]の[[中枢神経]]を刺激し覚醒させる作用があるため、医療用途としては[[うつ病]]・[[精神病]]などの虚脱状態や各種の[[昏睡]]・嗜眠状態などの改善・回復に用いられる。
* エルビアンTV
* ごめんあそばせ
* くれちゃんねる(Kure-channel)
* 作っちゃお!by なかやまちえこ
* 根本弥生/ねもやよ
* アリムラユマ
 
== かつて所属していたタレント ==
小胞体のドーパミン貯蓄を阻害して、シナプス前細胞の細胞質におけるドーパミン濃度を上昇させると共に、[[ドーパミントランスポーター]]を逆流させることにより、神経終末から[[ドーパミン]]、[[ノルアドレナリン]]、[[セロトニン]]などの[[アミン]]類を遊離させ、間接的に神経を興奮させる。さらに、[[モノアミン酸化酵素]]の阻害作用によって、シナプス間隙におけるアミン類の濃度を上昇させる作用を併せ持つ<ref>A Practical Guide to the Therapy of Narcolepsy and Hypersomnia Syndromes. Neurotherapeutics (2012) 9:739–752</ref>。
*[[立河宣子]]         
*[[小橋めぐみ]]
*[[鮎河ナオミ]]
*[[坂井ひろみ]]
*[[中島礼香]]
*[[森瑠花]]
*[[中川愛海]]
*中島知子(オセロ)
*[[KING (アイドルグループ)|KING]]
*[[平子理沙]]
*[[長谷川理恵]]
*[[岡山外潤]]
*[[西村紗也香]]([[toutou]])
*[[西村麻理香]](toutou)
*[[川村亜紀]]
*[[椋名凛]]
*[[松本千明]]
*[[長谷川桃]]
*[[上口耕平]]
*[[柳田衣里佳]](引退)
*[[前川笑理]]
*[[義達祐未]](引退)
*[[松本美姫子]]
*[[増田葵]]
*[[小橋宏美]]
*[[林裕子]](引退)
*[[髙橋蘭]](引退)
*[[渡辺大貴]]
*[[伊澤麻璃也]]
*[[雨野美咲]](引退)
*[[蒲生麻由]]
*[[橘杏]]
*[[白井那奈]]
*桂亜沙美
*[[よっこ]]
*[[桜井千寿]]
*[[雪中梨世]]
*[[渡邊さくら]]
*[[生澤芹夏]]
*[[古屋舞華]]
*[[鈴丘めみ]]
*[[森香]]
*[[西村そら]]
*[[小林結衣]]
*[[山崎詩乃]]
*[[小田彩央怜]]
*[[谷田貝京子]]
*[[上野裕子]]
*[[西川風花]]
*[[脇村杏奈]]
*[[朝岡亜美]]
*[[秦野萌希]]
*[[山崎詩乃]]
*[[市井優]]
*[[村上友愛]]
*[[髙尾光]]
*[[ちゃき]]
*[[西村由花]]
*[[長倉正明]]
*[[田上晃吉]]
*[[伊藤竜翼]]
*[[椎名敦士]]
*[[柴田義之]]
 
== 特徴 ==
メタンフェタミンの反復使用は、[[ドーパミントランスポーター]] (DAT) や[[ドーパミン受容体|ドーパミンD<sub>1</sub>受容体]]を減少させる。抗生物質[[ミノサイクリン]]の前投与と併用によって、DATの減少やD<sub>1</sub>受容体の減少を抑えることができる<ref name="pmid16712806">{{cite journal |author=Kenji Hashimoto, ''et al''. |title=Protective effects of minocycline on the reduction of dopamine transporters in the striatum after administration of methamphetamine: a positron emission tomography study in conscious monkeys. |journal=[[:en:Biological Psychiatry (journal)|Biological Psychiatry]]. |volume=61 |issue=5 |pages=577-81 |date=2007-3-1 |url=http://www.biologicalpsychiatryjournal.com/article/S0006-3223(06)00395-7/abstract |doi=10.1016/j.biopsych.2006.03.019 |pmid=16712806}}</ref>。
*[[男性]][[タレント]]に比べて、[[女性]]タレントのほうが多い。
*募集しているタレントは、男女共に8歳から20歳までの若手が中心である。
 
=== 効能・効果関連会社 ===
* [[ナルコレプシー]]、各種の昏睡、傾眠、嗜眠、もうろう状態、インスリンショック、鬱病・鬱状態、統合失調症の遅鈍症の改善
* 手術中・手術後の虚脱状態からの回復促進及び麻酔からの覚醒促進
* 麻酔剤の急性中毒、睡眠剤の急性中毒の改善
 
== 副作用など外部リンク ==
*[https://www.queens-ave.com/ クィーンズアベニュー公式ホームページ]
[[不安]]、[[興奮]]、[[頭痛]]、[[不眠]]、[[振戦]]、[[動悸]]、多汗、口渇が起こったり、[[味覚異常]]や[[蕁麻疹]]などの過敏症状が起こることがある。
 
{{company-stub}}
[[覚醒剤精神病]]:用量用法から逸脱して、覚醒剤乱用によって生じる幻覚妄想状態を主とする[[精神病]]。覚醒剤精神病の妄想は、関係妄想を中心に、被害・追跡・注察・嫉妬妄想・[[フラッシュバック]]からなり、幻覚は[[幻聴]]が主である。
 
===重大な副作用===
* 依存性
 
その他の副作用(頻度不明)
* 精神神経系:興奮、情動不安、眩暈、不眠、多幸症、振戦、頭痛
* 循環器:心悸亢進、頻脈、血圧上昇
* 消化器:食欲不振、口渇、不快な味覚、下痢、便秘
* 過敏症:[[蕁麻疹]]
* 生殖器系:[[勃起不全]]、[[性欲]]変化
 
== 依存性 ==
{{See also|SMARPP}}
[[ファイル:Nogales_CBP_Officers_Seize_$377K_in_Hard_Drugs_(48749211542).jpg|サムネイル|自動車のタイヤに隠されていたメタンフェタミン(メキシコ-アメリカ国境)]]
乱用開始から依存に至るまでの期間は、約30ヶ月とされており、[[メチルフェニデート]]の平均9.2ヶ月と比較すると長い<ref>日本臨牀 2015 (73) 9</ref>。
 
物質依存の形成は、個人の置かれている環境に大きく影響を受けるが、遺伝的要因も関係している。メタンフェタミンでは、双子を用いた研究により、遺伝的要因は約4-7割程度と考えられており<ref>Kendler KS, Jacobson KC, Prescott CA et al., Phamacotherapy of methabphetamine addiction: an update. Subst Abus 29:31-49, 2008。Kendler KS, Karkowski LM, Neale MC et al., Illicit psychoactive substance use, heavy use, abuse, and dependence in a US population-based sample of male twins. Arch Gen Psychiatry 57:261-259, 2000</ref>、メタンフェタミン依存に関わる遺伝子を明らかにすることで、メタンフェタミン依存の分子神経生物学的理解を進めるべく、研究が行なわれている。
 
メタンフェタミンの精神的依存は、他の依存性薬物と同様、[[報酬系]]が大きな役割を果たしている。報酬系は、[[中脳]]腹側被蓋野から[[側坐核]]及び前頭葉皮質に投射する[[A10神経]]と呼ばれる中脳辺縁ドーパミン神経系からなる。この神経の興奮による神経終末からの[[ドーパミン]]の遊離に引き続き、側坐核のドーパミン濃度の上昇が起こり、これを心地よいと感じる。メタンフェタミンは種々の機構により、側坐核局所で作用することによって、同部位のドーパミン濃度を上昇させ、報酬系を賦活させて依存を形成する。
 
[[抗生物質]]・[[ミノサイクリン]]の前投与により、覚醒剤特有の高揚感が阻止され、精神依存を抑制したとの研究報告がある<ref name="kisioka_pdf">{{Cite report|title=研究課題名:「依存症のメカニズム解明」 クロス・アディクションの病態生理を担う 脳内ミクログリア活性化機構の解明|author=岸岡史郎|author2=三谷隆彦|author3=木口倫一|author4=小林悠佳|accessdate=2022-08-26|publisher=和歌山県 |url=https://www.pref.wakayama.lg.jp/bcms/prefg/022100/daigaku/documents/kisioka.pdf|format=PDF}}</ref>。しかし、高揚感を感じなかったにもかかわらず、[[薬物依存|再使用欲求]]に変化がなかったとの報告もあり、覚醒剤の[[習慣性医薬品|習慣性]]([[身体的依存]])が示唆される<ref name="47news.jp_2010-12-14_minocycline">{{Cite news|title=覚せい剤による障害改善 抗生剤ミノサイクリンで|newspaper=[[47NEWS]]|date=2010-12-14|access-date=2016-8-22|url=http://www.47news.jp/feature/medical/2010/12/post-469.html|archive-url=https://web.archive.org/web/20160707024849/http://www.47news.jp/feature/medical/2010/12/post-469.html|archive-date=2016-7-7|agency=[[共同通信]]}}</ref>。ミノサイクリンは、[[ドーパミン拮抗薬|ドーパミン拮抗作用]]が示されておらず、覚醒剤などの多幸感・高揚感は、ドーパミンと無関係であると示唆される<ref name="kisioka_pdf" />。[[薬剤耐性|薬剤耐性菌]]を生む問題があり、[[感染症]]においても[[抗菌薬]]の適正使用が言われ、感染症でもない状況での抗生物質の不適切使用は戒められる<ref>{{cite report|author=厚生労働省健康局結核感染症課|title=抗微生物薬適正使用の手引き 第一版|publisher=厚生労働省 |date=2017-06-01|url=https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10900000-Kenkoukyoku/0000166612.pdf|format=pdf|accessdate=2017-12-10}}</ref>。
 
== ヒロポン ==
{{Redirect|ヒロポン|パントマイミストのHIRO-PON|が〜まるちょば|愛称がひろぽんの福田浩子|Cotton (アイドルグループ)}}
'''ヒロポン''' ({{Lang|en|Philopon}}) とは、[[大日本製薬]](現・[[住友ファーマ]])によるメタンフェタミンの商品名。同社の[[登録商標]]の第364236号の1である。成分名は塩酸メタンフェタミン。剤型は結晶あるいは粉末、または錠剤である<ref group="注釈">かつてはアンプル(注射液)もあったが現在は廃止されている。</ref>。ヒロポンの名は、[[ギリシア語]]の {{Lang|grc|Φιλόπονος}}(ピロポノス/労働を愛する)が由来である<ref>大日本製薬六十年史』p.128, 大日本製薬六十年史編纂委員会, 1957. 国立国会図書館デジタルコレクション[https://dl.ndl.go.jp/pid/2426462] (参照 2023-08-17)</ref>。{{main|覚醒剤#日本での覚醒剤の歴史|住友ファーマ#主力事業・製品}}
 
{{#time:Y}}年現在、[[処方箋医薬品]]として「ヒロポン」「ヒロポン錠」が製造されており、都道府県知事から施用機関の指定を受けた医療機関からの注文に対応している。また本薬品に関しては、製造業者から施用機関までの流通過程、施用した患者までが包装単位で記録保管されるなど、他の医薬品とは別格の極めて厳しい管理がなされている。治療上薬剤を投与する場合は[[処方箋]]の交付が[[医師法]]第22条で義務付けられているが、覚醒剤を投与する場合は例外的に処方箋を交付する必要がない。また、医師が自身に覚醒剤を自己処方することは禁じられている。
 
=== ヒロポン史 ===
==== 市販開始 ====
[[ファイル:Pervitin (MMM Corones).jpg|thumb|250px|ドイツにおけるメタンフェタミン市販薬「Pervitin」]]
欧米諸国においては、日本に先駆けてメタンフェタミンやアンフェタミンによる覚醒剤の市販が開始された。特に製薬会社[[グラクソ・スミスクライン|スミス、クライン、フレンチ]]が販売したアンフェタミンの[[吸入器]]「{{仮リンク|ベンゼドリン|en|Benzedrine}}」は大ヒット商品となり、欧米諸国で愛用されていた<ref>{{cite news |title=Benzedrine Sulfate|date=2022-8-24 |url=https://www.addictiongroup.org/drugs/stimulants/benzedrine/ |accessdate=2022-9-12}}</ref>。
同盟国であった[[ナチス・ドイツ|ナチス統治下のドイツ]]においては、[[1936年ベルリンオリンピック]]で、アメリカの選手が使用した「ベンゼドリン」の効果に着目が集まると、1937年にメタンフェタミン製剤の「ぺルビチン」が発売されて、ドイツ国民に広まっていった。同じスポーツ選手のほかにも、一般労働者はおろか家庭の主婦や[[ダイエット]]目的の女性までもが愛用するようになっていた<ref>{{cite news|title=「ヒトラーは薬物中毒だった」ドイツ人作家が描く新たなナチス像|newspaper=47NEWS|date=2019-6-5|url=https://nordot.app/507449169787913313|accessdate=2022-8-26|agency=共同通信}}</ref>。当時のドイツ人が気軽にメタンフェタミンを口にしていた典型的な例としては、洋菓子[[プラリネ]]にメタンフェタミンを混ぜ込んだ「メタンフェタミン入りプラリネ」が市販され、「毎日の家事がいっそう楽しくなります」などとの宣伝文句で商業誌で広告されていた{{sfn|ノーマン・オーラー|2018|p=55}}。
 
日本においても、欧米諸国に追随してアンフェタミンやメタンフェタミン製剤が、疲労倦怠感を除き眠気を飛ばすという目的の一種の強壮剤である「'''除倦覺醒劑'''」として販売された。日本人の長井がメタンフェタミンを発表したこともあり、あたかも日本で「覺醒劑」が開発されたという誤認もあるが、薬の[[知的財産権]]の概念が乏しかった当時によくあったこととして、日本におけるメタンフェタミン製剤は先に市販していた外国の製剤のコピー品であり、1940年(昭和15年)に[[参天製薬|参天堂]]が「'''ホスピタン'''」を発売したのを皮切りにして、日本の製薬会社各社がそれに続いた。「ヒロポン」は「ホスタピン」に遅れて1941年(昭和16年)に販売が開始された<ref>{{Cite journal|和書|author=佐藤哲彦 |title=医学的知識の構成について:「覚せい剤研究」の転換 |journal=文学部論叢 |ISSN=03887073 |publisher=熊本大学 |year=1998 |month=mar |issue=60 |page=18 |naid=110000948193 |url=https://hdl.handle.net/2298/9729}}</ref>。ほかにも[[小野薬品工業]]が「'''ネオパンプロン'''」、[[富山化学工業]]「'''ネオアゴチン'''」を発売した。
 
のちに「ヒロポン」が最大のシェアを確保したため「ヒロポン」という商品名がアンフェタミン系をも含む覚醒剤の代名詞となってしまい、販売していた[[大日本製薬]]も[[太平洋戦争]]後に編纂された[[社史]]で「ヒロポンというのは当社の商標であるが、今ではヒロポンという名が覚醒剤の総称のようになっているのは、当社としては甚だ迷惑なことである」と嘆いていたほどである{{sfn|ぺルビチンと独日関係|2021|p=611}}。しかし、遅れて発売された「ヒロポン」が、いつ最大シェアを獲得してその名前が広まったのかは、はっきりしておらず、戦前、戦中の研究者たちの論文においては、メタンフェタミンやアンフェタミンは海外製品を含めて商品名で呼ばれていたり、一括して「覚醒アミン」などとも呼ばれているが、ヒロポンを代名詞のように扱っていることはない<ref>{{Cite journal|和書|author=佐藤哲彦 |title=医学的知識の構成について:「覚せい剤研究」の転換 |journal=文学部論叢 |ISSN=03887073 |publisher=熊本大学 |year=1998 |month=mar |issue=60 |page=18-32 |naid=110000948193 |url=https://hdl.handle.net/2298/9729}}</ref>。その様子が転換するのは、戦後の1947年(昭和22年)に、覚醒剤が市中に蔓延してその弊害が問題となり始めてから、研究者の論文でも「ヒロポンのごとき覚醒アミン」や「ヒロポンを代表する覚醒剤」などの記述がされ、その後は研究論文においても覚醒剤を「ヒロポン」と記述するものも目立つようになった<ref name="名前なし-20231105133521">{{Cite journal|和書|author=佐藤哲彦 |title=医学的知識の構成について:「覚せい剤研究」の転換 |journal=文学部論叢 |ISSN=03887073 |publisher=熊本大学 |year=1998 |month=mar |issue=60 |page=32-39 |naid=110000948193 |url=https://hdl.handle.net/2298/9729}}</ref>。
 
市販が遅れた日本における覚醒剤研究については、先んじて市販していた他国を追随する形になり、メタンフェタミンの[[副作用]]などの毒性も深く研究されることはなかった{{sfn|日本における覚せい剤犯罪の創出|1996|p=63}}。覚醒剤研究の一例として下記のような論文も発表されているが
{{Quotation |之を服用すれば心氣を爽快にし、疲勞を防ぎ、睡魔を拂ふ等の興奮効果があり、しかも習慣性、蓄積作用等がないので、現在歐米各國の民間に於て興奮劑乃至能率増進劑として好んで使用されてゐる。即ち[[アメリカ合衆国|米國]]では {{en|Benzedrine}}、[[デンマーク]]では {{en|Mecodrin}}、[[ハンガリー|ハンガリア]]では {{en|Aktedron}} 等の名稱を以て盛に賣出されて居る。時局柄、產業、事務等各方面に於ける本劑の利用も或は一顧の價値あらんかと、ここに御紹介する次第である。}}
と、先に市販されている他国の例も出して、除倦覚醒効果が強く有用な薬品であるとしていた一方で、常習性はないと分析していた。また不眠、食思不振、頭痛、焦燥感などの副作用も臨床実験で報告されていたが、効果・副作用を分ける基準が、主として被験者の主観によるものが大きいとして特に問題にされていなかった<ref>{{Cite journal|和書|author=佐藤哲彦 |title=医学的知識の構成について:「覚せい剤研究」の転換 |journal=文学部論叢 |ISSN=03887073 |publisher=熊本大学 |year=1998 |month=mar |issue=60 |page=29 |naid=110000948193 |url=https://hdl.handle.net/2298/9729}}</ref>。
 
==== ナチス・ドイツでの使用 ====
[[ファイル:Achtelstuecke Schokolade.jpg|thumb|200px|ドイツ空軍パイロットが眠気覚ましのために食べていたショカコーラ、ただしこれにはメタンフェタミンは入っていない]]
[[ファイル:Leonardo Conti in U.S. custody.jpg|thumb|200px|メタンフェタミンを規制しようとした国家社会主義ドイツ医師連盟会長レオナルド・コンティ。降伏後にアメリカ陸軍通信部隊に逮捕された際の[[マグショット]]。この後自殺している]]
[[第二次世界大戦]]開戦直前に、[[ドイツ国防軍]]において兵士の疲労についての研究が繰り返されていたが、そこでも重宝されることとなったのがメタンフェタミンであった。生理学者オットー・F・ランケ博士が行った実験では、メタンフェタミンは[[カフェイン]]などと比較しても覚醒効果は極めて高く、また疲労を克服する効果もあった。しかし、メタンフェタミンを投与された被験者は、他の薬剤を投与された被験者に比べると、明らかに作業の効率が落ちたり、判断力が低下するといった副作用もあったが、軍隊にとっては、兵士が自分で判断せずに命令に従順に従う方が都合がよかったので、メタンフェタミンは軍で使用するには最適な薬品であると結論付けられた{{sfn|ノーマン・オーラー|2018|p=70}}。
 
やがて、第二次世界大戦が開戦すると、ドイツ軍は[[電撃戦]]で瞬く間にヨーロッパを席巻したが、その勝利の要因の一つがメタンフェタミン錠剤の「ぺルビチン」であった。進軍スピード重視の電撃戦においては、兵士を輸送する輸送部隊の運転手は夜を徹して運転し続けなければならなかったので、大量の「ぺルビチン」が支給された。また、最前線で戦う兵士には「ぺルビチン」の他にも、メタンフェタミンと[[モルヒネ]]の混合薬が投与されて、「眠気と痛み知らず」の無敵の兵士にさせられ、ドイツ軍の戦争初期の快進撃に貢献した{{sfn|ぺルビチンと独日関係|2021|p=612}}。特に大きな効果を発揮したのが1940年5月の[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]であり、[[アルデンヌの森]]を不眠不休で強行突破する奇襲作戦の際には、ドイツ軍[[機甲部隊]]の将兵に、夜間に「ぺルビチン」を2錠を短い間隔で服用し、さらに必要であれば2~3時間後にもう1~2錠服用せよといった指示がなされていた。「ぺルビチン」で覚醒したドイツ軍機甲部隊は、計画通りアルデンヌの森を突破して勝利を決定づけたため、ドイツ軍がフランス軍に勝利した要因の一つが潤沢な「ぺルビチン」であった<ref>{{cite news |title=High Hitler: how Nazi drug abuse steered the course of history |newspaper=Guardian News & Media Limited |date=2016-10-15 |url=https://www.spiegel.de/geschichte/raetselhaftes-ende-a-946501.html |accessdate=2023-10-21}}</ref>。
 
ドイツ軍の「ぺルビチン」使用については、特に軍中央から指示された目安などはなく、前線の各部隊にその運用は任されていた。ある部隊では、夜間任務につく兵士に対して1日3~4錠が配給された{{sfn|ぺルビチンと独日関係|2021|p=612}}。旺盛な「ぺルビチン」の需要に対して、ドイツ国内での製造が強化され、1940年4月〜7月の4か月の間には3500万錠が製造されて前線に送られた。その錠剤は見た目がチョコに見える事から「Panzerschokolade」(戦車チョコレート)と呼ばれたが、ラベルに「Stimulans」(覚醒剤)と表示され「不眠を維持したいときに服用すること。2錠あたり3〜8時間の睡眠の代わりになる。」と効果が説明されていた<ref>{{cite news |title=The Nazi Death Machine Hitler's Drugged Soldiers |newspaper=[[SPIEGEL Gruppe]] |date=2005-6-05 |url=https://www.spiegel.de/international/the-nazi-death-machine-hitler-s-drugged-soldiers-a-354606.html |accessdate=2022-8-18}}</ref>。
 
兵士も軍から無理やり「ぺルビチン」を投与させられていたわけではなく、むしろ積極的に摂取していた。軍支給分では足らずに家族から取り寄せる兵士もいたほどで、戦後に[[ノーベル文学賞]]を受賞した[[ハインリヒ・ベル]]も、第二次世界大戦での従軍中に家族に対して「ぺルビチン」を無心する手紙を送っている。その手紙によれば、ベルの戦友たちも任務の辛さから常に「ぺルビチン」を欲しがっており、ベルと同様にドイツ国内の家族に向けて「ぺルビチン」を送るよう依頼する手紙を送っていたという{{sfn|ぺルビチンと独日関係|2021|p=612}}。
 
ドイツ軍のなかでもっとも「ぺルビチン」を活用したのが[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]であり<ref>{{Cite journal|author=EMCDDA |title=Methamphetamine A European Union perspective in the global context |format=PDF |publisher=European Monitoring Centre for Drugs and Drug Addiction|date=2009年}}</ref>、「ぺルビチン」は「パイロットの塩」との別名で呼ばれ、「塩」に例えられるほどの必需品として乱用されて、電撃戦におけるドイツ空軍活躍の原動力ともなっている。[[バトルオブブリテン]]では、[[ドーバー海峡]]を挟んだ長距離の航空作戦となったことから、疲労回復と長時間の覚醒のためにドイツ空軍パイロットが「ぺルビチン」を常用していた<ref>{{Cite web |url=https://worldwarwings.com/the-hidden-risk-faced-by-german-pilots-during-wwii/ |title=The Hidden Risk Faced By German Pilots During WWII |accessdate=2022-8-26 |website=World War Wings |language=en}}</ref>。また、「ぺルビチン」と同様な眠気覚ましとして、ドイツ空軍パイロットが、カフェインを多く含有したチョコレートである[[ショカコーラ]]に加えて<ref>{{cite news |title=High Hitler: how Nazi drug abuse steered the course of history |newspaper=Guardian News & Media Limited |date=2016-10-15 |url=https://www.spiegel.de/geschichte/raetselhaftes-ende-a-946501.html |accessdate=2023-10-21}}</ref>、メタンフェタミン入りチョコレートを食べており、のちにその情報を知った日本陸軍がヒロポン入りチョコレートを製作している{{sfn|日本空軍が創った機能性食品|p=16}}。
 
戦前から大々的に「ぺルビチン」を主として様々な形でメタンフェタミンを使用してきたドイツであったが、軍などによる臨床試験に加えて、各地に設けられた[[強制収容所]]で[[ユダヤ人]]や[[捕虜|戦争捕虜]]などに対する人体実験などによって{{sfn|ぺルビチンと独日関係|2021|p=635}}、その毒性が次第に明らかになってきていた。そこで、[[精神障害者]]や[[身体障害者]]を虐殺した[[T4作戦]]を主導した、{{仮リンク|国家社会主義ドイツ医師連盟|en|National Socialist German Doctors' League}}会長の医師で、[[ナチス・ドイツ]]の保健大臣でもあった{{仮リンク|レオナルド・コンティ|en|Leonardo Conti}}[[親衛隊中将]]が、メタンフェタミンの副作用を認識し「服用によって得られるメリットはその後の悪影響によって完全に相殺されてしまう」と指摘して、1939年11月にはドイツ国内において[[処方箋]]が必要な薬品とし、さらに軍に対してその毒性を説明し続けて、1941年6月12日には「阿片法」を改定し、メタンフェタミンを規制薬品とすることに成功した。しかし、タイミングが悪いことに、規制が強化されて間もなくの1941年6月22日に[[独ソ戦]]が開戦すると、この規制は骨抜きにされて、軍はおろかドイツ国内でも消費量は逆に激増していった{{sfn|ぺルビチンと独日関係|2021|p=619}}。コンティがメタンフェタミンの規制に拘ったのは、ナチス・ドイツが理想とした「公衆衛生を国是とする」という「健康[[ユートピア]]」構想に忠実に従っただけであるが、戦況の悪化により余裕がなくなったナチス・ドイツは、理想より実際の戦果を優先し、軍と対立したコンティは1944年に失脚することになった{{sfn|ぺルビチンと独日関係|2021|p=622}}。その後のコンティは、既述の通りT4作戦に関与した他にも、強制[[不妊手術]]、[[中絶]]、[[安楽死]]を積極的に推進し、強制収容所での人体実験にも多数かかわったため、戦後に連合軍から[[戦犯者|戦犯]]容疑で逮捕されたが、[[ニュルンベルク裁判]]で裁かれる前に自殺している<ref>{{cite news |title=Nazi-Arzt im falschen Grab |newspaper=[[SPIEGEL Gruppe]] |date=2008-5-31 |url=https://www.spiegel.de/geschichte/raetselhaftes-ende-a-946501.html |accessdate=2023-10-21}}</ref>。
 
ナチス・ドイツのメタンフェタミン依存は国民や一般兵士から、国家の幹部にまで及んでおり、総統の[[アドルフ・ヒトラー]]も持病の[[パーキンソン病]]治療のために毎日メタンフェタミンを注射されていたという証言もあり<ref>{{Cite news|title=Hitler's Nazi Troops Took Crystal Meth To Stay Awake, Heinrich Böll's Letters Reveal|newspaper=[[ハフポスト]]|date=2013-6-3|url=https://www.huffingtonpost.co.uk/2013/06/03/hitler-nazi-crystal-meth-heinrich-boll_n_3377033.html|accessdate=2022-8-26|language=en}}</ref>、大戦末期にヒトラーが重度の体調不良で、致命的な判断ミスを犯し続けたのは、メタンフェタミン中毒によるものとの指摘もある。1945年になって連合軍の爆撃によって「ぺルビチン」の工場が破壊されて供給が滞ると、ヒトラーは[[禁断症状]]に苦しながら、[[4月30日]]に[[総統地下壕]]の一室で、夫人の[[エヴァ・ブラウン]]とともに自殺を遂げた<ref>{{cite news |title=High Hitler: how Nazi drug abuse steered the course of history |newspaper=Guardian News & Media Limited |date=2016-10-15 |url=https://www.spiegel.de/geschichte/raetselhaftes-ende-a-946501.html |accessdate=2023-10-21}}</ref>。
 
==== 日本軍での使用 ====
[[ファイル:Hiropon.jpg|thumb|250px|一般に市販されていたメタンフェタミン製剤ヒロポンの広告。疲労防止や回復といった効果が強調されている。]]
日本で覚醒剤が発売されてまもなく[[太平洋戦争]]が開戦したため、ドイツ等のヨーロッパ諸国のように一般市民に蔓延する前に軍事目的に利用されることとなった。その目的は、[[厚生省]]薬務課長の覚醒剤の製造認可に関する国会での質疑応答の通り、「ヒロポン等につきましては、特別に製造許可をいたしました当時は、戦争中でありましたので、非常に疲労をいたしますのに対して、急激にこれを回復せしめるという必要がございましたものですから、さのような意味で特別な目的のため許したわけでございます」と「疲労回復」や「眠気解消」が目的であった<ref name="名前なし_3-20231105133521">第7回衆議院厚生委員会第11号 1950年3月9日 星野政府委員答弁</ref>。薬学の専門家からも、メタンフェタミン自体が鎮咳剤[[エフェドリン]]の[[誘導体]]として開発された経緯もあり、初めは咳止め効果を期待していたが、覚醒効果の方が顕著だったため、主に眠気解消剤として夜間作業に関わる兵士用、特に夜間に飛行する[[パイロット (航空)|パイロット]]に使用されていたという指摘があっている{{sfn|薬物乱用防止の知識とその教育|2000|p=10}}。なお既述の通り、ヒロポンという商品名が覚醒剤の代名詞のようになったのは戦後のことと思われるが<ref name="名前なし-20231105133521"/>、戦中の証言や回想についても、その多くが覚醒剤全般のことをヒロポンと呼んでいる。これは証言や回想の殆どが戦後しばらく経過してからのもので、ヒロポンが覚醒剤の代名詞として定着していたからだと思われるが、ここでは証言や回想通りに記述する。
 
「ぺルビチン」などの覚醒剤を積極的に使用していたドイツ軍と比較すると、日本軍におけるヒロポンの使用については証言が限られており、その例としては、日本海軍の[[撃墜王]]の一人[[坂井三郎]]が、最前線の[[ラバウル]]で連日出撃を繰り返していた時に疲労回復薬として[[ブドウ糖]]を注射されていたが、戦後に注射をしていた軍医と再会した際に、そのブドウ糖の注射の中にはヒロポンも混入されていたと聞いたという。坂井らは注射を打たれたところが黒ずんでしまうまで、注射を打ち続けられたが、何となく元気になったような効果はあっても、特に副作用などはなかった{{sfn|零戦の真実|2021|pp=234-235}}。また、[[横須賀海軍航空隊]]では主に夜間任務に就くパイロットたちにヒロポン投与の臨床試験をしており、その効果についてパイロットたちからデータを収集していたが結果は良好で、パイロットたちからも好評だったという。しかし、理由は不明であるが暫くしてヒロポン投与は取りやめとなっている{{sfn|日本軍兵士|2017|p=111}}。同様な臨床試験は他でも行われており、海軍軍医の竹村多一少佐と横沢弥一郎大尉は疲労状態にある46人の兵士にヒロポンを投与しているが、その結果、被験者は30分~1時間以内に疲労を忘れ爽快を感じ、その副作用は一部の被験者が食欲の減退をうったえた程度で殆ど問題ないと判定し、「これを第一線兵士に用いれば、大いにその指揮を鼓舞するもの」と報告している。しかし、肝心の常習性については「これが長期連用による影響は今後の研究に待つ」とし考慮していなかった{{sfn|日本軍兵士|2017|p=119}}。
 
日本軍におけるヒロポンの使用証言については事実誤認もあった。横須賀海軍航空隊所属の[[夜間戦闘機]][[月光 (航空機)|月光]]に搭乗していた[[大日本帝国海軍]]のパイロット[[海軍少尉|少尉]]・[[黒鳥四朗]](偵察員・銃手)と[[准士官|飛行兵曹長]]・[[倉本十三]](操縦士)のペアが、夜間出撃時に軍医から[[ナチス・ドイツ]]からの輸入品で夜間視力が向上するという「暗視ホルモン」を注射され、6機もの[[B-29 (航空機)|B-29]]を撃墜破するなどの活躍をし[[エース・パイロット]]となったが、戦後にしばらく経ってから原因不明の体調不良に悩まされるようになり、その原因を探っていくうちに、戦時中に注射した軍医から「暗視ホルモン」はヒロポンであったと聞いたという証言をしている<ref>渡辺洋二『重い飛行機雲 太平洋戦争日本空軍秘話』(文春文庫、1999年) ISBN 4-16-724908-1 四十五年目の真実 p9—35 〔初出:文林堂『航空ファン』1996年1月号〕</ref>。しかし「暗視ホルモン」については、戦後に[[GHQ]]に[[海軍航空技術廠]]が作成した成分表が接収されており、その資料によれば、「暗視ホルモン」の成分は、牛や豚の[[脳下垂体]]から抽出された[[メラノフォーレンホルモン]]とされ、ナチス・ドイツからの輸入品ではなく日本国内で製造され、[[台湾沖航空戦]]で既に使用されており、メタンフェタミンは含まれていない{{sfn|台湾沖航空戦|2017|p=210}}。黒鳥の証言も一定しておらず、「暗視ホルモン」がヒロポンであったと知ったのは、40年間にも渡って謎の体調不良に悩まされ、ようやく症状が改善した数年後に、戦時中に黒鳥らに注射した元軍医から真相を告げられて謝罪されたという証言と{{sfn|相可文代|2023|p=82}}、謎の体調不良を診察した元陸軍軍医の医師から「そりゃヒロポン」ですよと言われて、「暗視ホルモン」がヒロポンであったと知ったという証言がある{{sfn|日本軍兵士|2017|p=179}}。
 
また既述の通り、日本軍がヒロポンの効果として重要視したものの一つが、パイロットの夜間視力の向上であったにもかかわらず{{sfn|ぺルビチンと独日関係|2021|p=635}}、夜間出撃を任務とした陸海軍航空隊において、海軍横須賀海軍航空隊以外では殆どヒロポン使用の証言は見られない。[[沖縄戦]]において連合軍に占領された飛行場攻撃を主任務としていた[[芙蓉部隊]]で、同部隊の指揮官[[美濃部正]]少佐の自伝や回想においても、ヒロポンに対する記述や言及は全くない{{sfn|大正っ子の太平洋戦記|2017|pp=1-400}}{{sfn|彗星夜襲隊|2003|pp=13-285}}{{sfn|相可文代|2023|p=232}}。美濃部は芙蓉部隊のパイロットの夜間視力向上策として、薬などを使用するのではなく、午前0時に起床、1時に朝食、6時に昼食、11時に夕食、午後4時に夜食といった、「猫日課」と称した昼夜を逆転させた生活を送らせていたり{{sfn|彗星夜襲隊|2003|p=90}}、電灯使用を制限してパイロットに暗闇を凝視させて夜間視力を強化するといったような、効果が不明な対策を行っていた{{sfn|ウォーナー|1982a|p=260}}。
 
戦時中のヒロポンの投与方法について日本政府の公式見解は、「大体、戦争中に陸軍・海軍で使っておりましたのは、全て錠剤でございまして、飛行機乗りとか、或いは軍需工場、軍の工廠等におきまして工員に飲ませておりましたもの、或いは兵隊に飲ましておりましたものはすべて錠剤でございました、今日問題になっておりますような注射薬は殆ど当時なかったと私は記憶しております。」と戦後の国会質問で厚生省薬務課長が答弁している通り、飲用が主で注射は殆どなかったとしている<ref name="名前なし_4-20231105133521">第7回参議院予算委員会議事録10号 1949年11月30日 重松一郎政府委員答弁</ref>。使用実績についても、勤労奉仕していた旧制都立武蔵高等女学校の女学生が、連日に渡って徹夜での工場勤務が続く中で、眠気覚ましにヒロポンを飲用していたように{{sfn|相可文代|2023|p=85}}、戦時中のヒロポンは民間でも使用されており、軍で限定的に使用されているものでもなかったと答弁している<ref name="名前なし_4-20231105133521"/>。
 
==== ヒロポンと特別攻撃隊 ====
[[ファイル:Kushiraheiwakoen.jpg|thumb|250px|串良海軍基地跡の串良平和公園]]
かつてより、「普通、命は惜しいもの。異様な興奮状態にならなければ自らの命を絶つことはできない」などと、[[特別攻撃隊]]の隊員を興奮させて、死に対する恐怖に麻痺させるため軍がヒロポンを利用していたとの主張もあるが<ref>{{cite news|title=これだけあった〝特攻隊員に覚醒剤〟外道の証拠 「チョコ包むの見た」証言から元教員が追跡|newspaper=47NEWS|date=2021-8-15|url=https://nordot.app/798767547706327040|accessdate=2022-8-26|agency=共同通信|last=真下|first=周}}</ref>、これも記述の日本軍全般におけるヒロポンの使用実績と同様に事実相違のものも多い。歴史学者[[吉田裕 (歴史学者)|吉田裕]]は、「よく戦後の特攻隊に関する語りの中で、出撃の前に覚醒剤を打って死への恐怖感を和らげて出撃させたんだという語り・証言がたくさんあるんですけれども、これは正確ではないようです。覚醒剤を使っていたのは事実のようです。日本のパイロットは非常に酷使されていて(中略)疲労回復とか夜間の視力の増強ということで覚醒剤を大量に使っていて」と史実とは異なると指摘している<ref>{{Cite web|和書|url=https://jinkotsu731.web.fc2.com/datas/lecture_record/20070722-lec01.htm |title=「医学史から見た戦争と軍隊」吉田 裕(一橋大学教授) |accessdate=2022-8-26 |publisher=軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会 |date=2007-7-22}}</ref>。
 
事実誤認の例としては、医学者の[[内藤裕史]]が多数の論文等を参照して日本軍によるヒロポンの使用について自身の著書に記述しているが、そのなかにヒロポンと[[緑茶]]の粉末を混合したものが「猫の目錠」と呼ばれて勤労奉仕の労働者に支給され、軍隊向けには「突撃錠」と呼ばれて支給されたとしているが、内藤の著書でメタンフェタミンの皮下注射については、夜間攻撃、薄暮攻撃のパイロットに対して眠気覚ましに注射したという記述はあっても、「突撃錠」の服用についての記述は特にない{{sfn|相可文代|2023|p=63}}。それにもかかわらず、内藤の記述を曲解して「お茶の粉末にヒロポンを混入して固めた「突撃錠」「猫目錠」と呼ばれた錠剤を特攻隊員は配給され、服用してから敵艦に特攻したとも言われる」などと事実とは異なる話が広まっている<ref>{{Cite news|title=暴力団ミニ講座|publisher=松江地区建設業暴力追放対策協議会|url=https://www.web-sanin.co.jp/gov/boutsui/mini30.html|accessdate=2023-10-22}}</ref>。そもそも「突撃錠」や「猫の目錠」なる呼称については内藤の著書やその引用以外では見かけることはない。
 
[[陸軍航空技術研究所]]で航空[[糧秣]]の開発に携わった技官の[[岩垂荘二]]によれば、1943年(昭和18年)にドイツ空軍が「メタンフェタミン入りチョコレート」をパイロットに食させて大きな効果が挙がっているという情報を、航空技術研究所員兼糧秣本廠員[[川島四郎]]大佐が聞きつけて、日本陸軍でもヒロポンを混合した[[チョコレート]]を[[大日本製菓]]に製造を依頼し、航空糧秣として支給したことがあったが{{sfn|日本空軍が創った機能性食品|p=16}}<ref>{{Cite journal|和書|author=西川伸一 |title=戦後直後の覚せい剤蔓延から覚せい剤取締法制定に至る政策形成過程の実証研究 |journal=明治大学社会科学研究所紀要 |ISSN=0389-5971 |publisher=明治大学社会科学研究所 |date=2018-10-31 |volume=57 |issue=1 |pages=1-24 |naid=120006594870 |url=https://hdl.handle.net/10291/19952}} p.4 より</ref>、この「ヒロポン入りチョコレート」について、[[茨木市]]の[[茨木カンツリー倶楽部]]を接収して設営された大阪陸軍[[糧秣]]支廠茨木支廠で、[[勤労奉仕隊]]として軍用糧秣の[[チョコレート]]の包装作業に携わった女子学生が、上級生から「これは特攻隊が最後に食べるもので何か入っているみたいだ」と教えられ、実際に口にしたところ「カッと身体があつく」なり、入っているのは何かの薬品ではないかと疑って、帰宅して父親にそのことをたずねると「ヒロポンでも入っていたのだろうか」と言われので、自分が包装しているのは、特攻隊員に食べさせる「ヒロポン入りチョコレート」であると知ったとする証言がある{{sfn|相可文代|2023|p=22}}。
 
しかし、陸軍航空隊は航空糧秣としてほかにも、抹茶、[[ブドウ糖]]などをチョコレートに混合し、[[ビタミンC]]の接取と高空飛行における酸素不足軽減を目的とする「航空チョコレート」を製造してパイロットに支給していたことや{{sfn|日本空軍が創った機能性食品|p=114}}、[[陸軍航空技術研究所]]において、他にも指定工場となっていた[[明治製菓]]に依頼して様々なチョコレートも試作しており{{sfn|日本空軍が創った機能性食品|p=29}}、女学生が包装したのが「ヒロポン入りチョコレート」であったのかは特定できない。陸軍航空技術研究所で「ヒロポン入りチョコレート」に携わった技官岩垂によれば、既述の通り「ヒロポン入りチョコレート」は、陸軍で航空特攻が開始される1944年(昭和19年)の前年に製造されており、特攻隊員向けに製造されたものではなく、岩垂は特攻隊員に支給されたとは記述しておらず、他にも特攻隊員に支給されたという証言も見当たらない{{sfn|日本空軍が創った機能性食品|p=17}}{{sfn|相可文代|2023|p=57}}。
 
日本海軍においても、同じく茨木市にあった[[安威村|安威]]にあった海軍の地下トンネルに「麻薬入りチョコレート」が備蓄されたとの記録があり、それも「ヒロポン入りチョコレート」であったとの推測もあるが{{sfn|相可文代|2023|p=38}}、日本海軍では「ヒロポン入りチョコレート」の製造の記録や証言がないのに対して、戦前からチョコレートを製造販売していた大東製薬工業(戦後に[[大東カカオ]]に商号変更)が、海軍省からパイロットと[[潜水艦]]乗組員のための特別なチョコレートの製造を発注され、パイロット向けとしては「居眠り防止食」と称した、眠気覚醒のためにチョコレートにカフェインを混ぜたものを製造して納入しており{{sfn|チョコレートの世界史|2010|p=227}}、これを「ヒロポン入りチョコレート」と混同している可能性が高い。この製法は、ドイツ空軍のパイロットが好んで口にしていたショカコーラと同じであったが<ref>{{Cite web|和書|url=https://macaro-ni.jp/6616|title=驚異のカフェイン量!噂の眠気覚ましチョコ「ショカコーラ」ってなんだ?|website=macaro-ni|date=2020-04-08|accessdate=2023-10-21}}</ref>、日本においては、[[マレーシア|マレー]]から軍用に輸送されていた[[カカオ]]が、「居眠り防止食」を製造していた頃には制海権の喪失で日本本土への輸送が困難になっていたため、カカオの代わりに[[ユリ]]や[[チューリップ]]の[[球根]]や[[オクラ]]、[[チコリー]]などの[[代用品]]を用いた粗悪なチョコレートによって製造されるようになっていった{{sfn|チョコレートの世界史|2010|p=227}}。
 
元海軍軍医の蒲原博が、太平洋戦争末期の[[沖縄戦]]で、鹿児島の[[串良町|串良]]基地から出撃する特攻隊員にヒロポン注射をしていたと証言しており<ref name=":0" />、串良基地から出撃した[[徳島海軍航空隊]]の練習機「[[白菊 (航空機)|白菊]]」で編成された神風特別攻撃隊「徳島白菊隊」に所属していた[[沓名坂男]]一等飛行兵曹が、出撃直前に何らかの注射をされ出撃したが帰還し、戦後になってヒロポンに関するマスコミ報道を見て、自分たちが打たれたのはヒロポンであったと知ったなどという証言もあるが<ref name=":0">{{Cite news|title=これだけあった〝特攻隊員に覚醒剤〟外道の証拠 「チョコ包むの見た」証言から元教員が追跡|newspaper=[[共同通信社]]|date=2021-8-15|url=https://www.47news.jp/6664246.html|accessdate=2023-10-15}}</ref>、同じ「徳島白菊隊」の他の特攻隊員からは、出撃時の注射の証言はなく<ref>{{Harvnb|島原落穂|1990|pp=1-23}}</ref>、第五航空艦隊司令部付将校として配属された[[野原一夫]]少尉も、「徳島白菊隊」の出撃を見守っていたが、ヒロポンに関する証言はしていない<ref>{{Harvnb|野原一夫|1987|pp=224-226}}</ref>他に[[串良町|串良]]基地から出撃しながら生還した特攻隊員や、[[高知海軍航空隊]]の同じ「白菊」で編成された「菊水白菊隊」の隊員や、出撃の様子を見ていた関係者からも、特攻隊員が何等かの注射をされていたという証言は見られない{{sfn|語られざる特攻基地・串良|2006|pp=99-104}}{{sfn|高知海軍航空隊 白菊特別攻撃隊|2001|pp=105-108}}{{sfn|特攻の海と空|2007|pp=50-51}}{{sfn|特攻の記録|2011|loc=電子版, pp=566-572}}<ref>{{cite news|title=元特攻隊員の証言|newspaper=時事ドットコムニュース|date=2015-7-10|url=https://www.jiji.com/jc/v4?id=201507specialattackcorps0001|accessdate=2022-9-11|agency=時事通信社}}</ref>{{sfn|特攻 最後の証言|2013|pp=371-379}}{{sfn|艦攻艦爆隊|2019|pp=351-360}}。
 
同じ頃に小説家[[志賀直哉]]の推薦で、作家の[[川端康成]]、[[新田潤]]、[[山岡荘八]]が、臨時[[従軍記者|海軍報道班員]]として[[鹿児島県]][[鹿屋航空基地]]に赴き取材を行っている<ref>{{Harvnb|高戸|1994|pp=219-220}}</ref><ref>「第四章 戦時下の川端康成――自己変革の時代(一)第五節 鹿屋特攻基地」({{Harvnb|森本・上|2014|pp=528-538}})</ref>。そのなかで川端は、戦中に殆ど特攻に関する記事は書かなかった代わりに、戦後になってからこのときの詳細な回想を行っているが、ヒロポンについての証言はなく<ref>「敗戦のころ」(新潮 1955年8月号)。{{Harvnb|随筆3|1982|pp=7-9}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref>、山岡については、特攻兵器「[[桜花 (航空機)|桜花]]」を運用する[[神雷部隊]]の隊員と寝起きをともにするなど密着した取材を行い、[[日本放送協会|NHK]]が全国放送した神雷部隊の隊員らの様子を伝える[[ラジオ放送]]の司会や解説もしているが<ref>{{Harvnb|加藤浩|2009|p=398}}</ref>、戦後になっても「小説太平洋戦争」などの著書で、特攻隊員のヒロポン使用についての記述や言及はない<ref>{{Harvnb|山岡荘八⑤|1987|p=295}}</ref><ref>{{Harvnb|山岡荘八⑤|1987|pp=548-550}}</ref>。
 
同じころに陸軍においても、[[第6航空軍 (日本軍)|第6航空軍]]に所属して特攻出撃しながら[[喜界島]]に不時着し、その後に本土に帰還して[[振武寮]]に収容された第22振武隊[[大貫健一郎]]少尉が、出撃前の宴会で、飛行時の眠気覚ましなどとして「航空元気酒」と名付けられたヒロポン入りの酒も準備されていたと回想しているが{{sfn|相可文代|2023|p=72}}、「航空元気酒」については、陸軍航空技術研究所の技官岩垂が詳細な[[レシピ]]を保管しており、それによれば、[[焼酎]]に[[味醂]]、[[シロップ]]、[[ビタミンB群|ビタミンB]]剤、[[キャラメル|カラメル]]に加えて、[[浜防風]]、[[陳皮]]、[[ニッケイ属|桂皮]]など和漢医薬20種を混合したものであり、ヒロポンは一切入っていない{{sfn|日本空軍が創った機能性食品|pp=76-78}}。陸軍の認識としては「[[健康酒|薬用酒]]」であり、パイロットにも大変好評で大量に生産されている{{sfn|日本空軍が創った機能性食品|p=10}}。「航空元気酒」の[[ラベル]]も多数現存しており、それによると「甘美の酒に特殊の精力剤10数種を加へたる物にして疲労を慰し頓に元気を出す」「空中勤務後に服用し疲労回復に充てる事が望ましい」「飛行勤務時は高高度飛行での低温による氷結を防止するためポケットの奥で保管すること」との注意書きがあり、眠気覚ましの効果を期待したものではなく、疲労回復を目的とした[[栄養ドリンク]]として飲用されていた<ref>「航空元気酒」ラベル</ref>。
 
陸軍特攻隊の「[[と号部隊]]」の「[[振武隊]]」にも、海軍の川端らと同様に報道班員の[[高木俊朗]]が特攻隊員と寝食を共にして密着取材しており、[[慶應義塾大学]]から[[学徒出陣]]して特攻隊員に志願した[[上原良司]]少尉からは<ref>{{Harvnb|山岡荘八⑤|1987|p=548}}</ref>、戦後に書籍『[[きけ わだつみのこえ]]』に掲載されて有名になる[[絶筆]]「所感」を託されたりしているが{{Sfn|高木俊朗II|2006|p=90}}、戦後になって作家に転身し、「特攻基地知覧」や「陸軍特別攻撃隊」などの著書で特攻を厳しく批判しているなかでも、ヒロポンに対する言及も記述も一切ない{{sfn|相可文代|2023|pp=85-86}}。
 
既述の通り、特攻隊員のヒロポン使用については確定的な記録や証言がなく、[[九州大学]]教授の[[熊野直樹]]は、メタンフェタミンが日本軍において使用されたことについては否定できないとしながらも、その使用目的はドイツ軍と同様に「睡眠抑制」「疲労回復」「夜間視力の向上」であったとしており、特攻隊員の死への恐怖を和らげるなどという効果については言及していない{{sfn|ぺルビチンと独日関係|2021|p=635}}。元中学校社会科教員であった[[相可文代]]も、勤労奉仕の女学生がヒロポン入りと思われるチョコレートの包装に携わったという証言を聞いて、特攻隊員のヒロポン使用を疑って調査したが、「ヒロポン入りチョコレート」を食べたという証言は皆無で、ヒロポンを使用したという証言すらも限定的であったため、これまで特攻隊員とヒロポンの関係について大きく取り上げられることはなかったと指摘している{{sfn|相可文代|2023|p=86}}。また、日本政府の公式見解も記述の通り、メタンフェタミンの製造許可の目的は「疲労回復」や「眠気解消」である<ref name="名前なし_3-20231105133521"/>。
 
特攻隊員がヒロポンを使用していたという話が蔓延した経緯として、戦後の[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による日本軍の貯蔵医薬品の開放指令により<ref>{{Cite web |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9885453 |title=SCAPIN-389: CUSTODY AND DISTRIBUTION OF JAPANESE MILITARY MEDICINAL NARCOTIC STOCKS 1945/12/04 |publisher=国立国会図書館 |accessdate=2022-08-18}}</ref>、旧日本軍の貯蔵医薬品と一緒に大量に開放されたメタンフェタミンは、一般社会へ爆発的に広まり中毒者が激増し社会問題化したが、他の多くの社会問題と同様にヒロポンも暗黒時代であった戦時中の象徴であったとする主張がなされるようになり、事実とは異なる証言や回顧が巷に氾濫する事となったからであった{{sfn|覚醒剤の社会史(2006)|p=251}}。
 
その例として、自らもヒロポン中毒で苦しんだ[[漫才師]]の[[ミヤコ蝶々]]が「あれ(ヒロポン)を打つと怖いものなしになるから、なんでも来いという気持ちになる。特攻隊の人たちは、あれ(ヒロポン)を打たれて出撃させられたそうですね」などと、自分の体験を踏まえて、伝聞で特攻隊員がヒロポンを打たれていたと聞いたとする証言をしていたり{{sfn|相可文代|2023|p=65}}、同じく自らも薬物中毒で苦しんだ経験を持つフランス文学者[[平野威馬雄]]が、戦時中に軍需関係の会社の従業員していた人物より戦後の1949年に聞いた「頭がよくなる薬が手に入った。これは部外秘というやつで、陸海軍の特攻隊の青年だけに飲ませる“はりきり”薬で、ヒロポンという名前だ。長くない命に最後まで緊張した精神を維持させる薬だ。」という話を紹介しているが、一般に流通していたヒロポンを「部外秘」としたり、特攻隊の青年だけに飲ませていたり注射したといったような、事実に反した話が広まっていた<ref>{{Cite journal |和書 |author=[[平野威馬雄]] |title=ヒロポン禍 戦後作家の生態 |year=1949 |journal=世界評論 |publisher=世界評論社 |page=68}}</ref>。これは軍部を非人道的機関と位置づけ、覚醒剤禍の元凶として批判すべき対象とした際に、特攻隊員がその象徴として利用されていたことの例の一つであったとされている{{sfn|覚醒剤の社会史(2006)|p=251}}。
 
また近年においても、[[太平洋学会]]会長で元(株)[[東急エージェンシー]]社長の[[新井喜美夫]]が、既述の「ヒロポン入りチョコレート」を某製菓会社が製造していたことをその会社の某重役から聞いた際に、「特攻隊員に出撃命令が出た際にそのヒロポン入りチョコレートを与えて、ヒロポンの効果が出始めたころを見計らって出撃志願を募り、ヒロポンで興奮した特攻隊員は我先にと出撃志願した」などと著書に書いているが、これは本人も書いている通りにまったくの夢想であるなど{{sfn|相可文代|2023|p=71}}、事実に反した印象が広まっていることがうかがえる。
 
==== 戦後 ====
[[ファイル:Mainichi Graphic clipping (24 November 1954 issue).jpg|thumb|200px|覚醒剤密造・販売の摘発の様子]]
ヒロポンを含む覚醒剤は「[[本土決戦]]兵器」の一つとして量産され、終戦時には大量に備蓄されていた。[[日本の降伏|日本の敗戦]]により、一旦は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]に押収されたが、のちに1945年12月4日付連合国最高司令官指令[[SCAPIN|SCAPIN-389]]「CUSTODY AND DISTRIBUTION OF JAPANESE MILITARY MEDICINAL NARCOTIC STOCKS」において「1、この司令部が定める期日には、この司令部が定める金額の日本軍用医薬品麻薬備蓄の一部は、米軍によって認可された医薬品卸売業者の管理下に放出される。」との日本軍用医薬品麻薬の開放指令により、他の医療品とともに覚醒剤も大量に市場に流出した<ref>{{Cite web |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9885453 |title=SCAPIN-389: CUSTODY AND DISTRIBUTION OF JAPANESE MILITARY MEDICINAL NARCOTIC STOCKS 1945/12/04 |publisher=国立国会図書館 |accessdate=2020-02-06}}</ref>。
 
戦後になるとヒロポンを含む覚醒剤は、以前の「疲労回復」や「眠気解消」といった目的に加え、精神を昂揚させる効果によって、[[酒]]や[[タバコ]]の様な[[嗜好品]]の一つとして蔓延した。その蔓延の大きな要因となったのは、市場に大量に供給されたことによる価格の安さであり、ヒロポンの値段は注射10本入りで81円50銭で、[[闇市]]でも100円以上で買えた。その頃の日本酒の並等酒はl升で645円であったため、嗜好品としての入手し易さは際立っていたといえる{{sfn|戦後直後の覚せい剤蔓延から覚せい剤取締法制定に至る政策形成過程の実証研究|2018|p=6}}。そして既述の通り、メタンフェタミンとアンフェタミンの製剤の覚醒剤は、のちに製造が規制されるまでは23社が24の商品名で製造販売していたのにもかかわらず{{sfn|戦後直後の覚せい剤蔓延から覚せい剤取締法制定に至る政策形成過程の実証研究|2018|p=5}}、いつしか、[[商標の普通名称化|大日本製薬の一商標に過ぎなかったヒロポンが、そのシェアの大きさから覚醒剤の代名詞の様に呼ばれるようになった。]]この頃にヒロポンが広く市民生活に入り込んできた例として、[[長谷川町子]]が『[[週刊朝日]]』に1949年4月10日号から同年12月15日号まで連載した[[漫画]]「[[似たもの一家]]」で、「ヒロポン」という回が存在しており、主人公の作家[[伊佐坂難物]]が所有していたヒロポンを近所の子供が誤飲してしまうというエピソードになっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.infoseek.co.jp/article/magmix_165868/ |title=昔は薬局で覚醒剤が買えた? 『サザエさん』でヒロポンを飲んだのは誰だ |publisher=楽天インフォシーク |accessdate=2023-10-22}}</ref>。
 
芸人、役者、ミュージシャンなどの芸能人は好んでヒロポンを使用し、[[新宿末廣亭]]の初代席亭[[北村銀太郎]]によれば、楽屋にはヒロポンの[[アンプル]]が200~300本常備されていて、殆どの出演者が接取していたという。当時芸能界で活動した[[コロムビア・トップ]]も、[[参議院]]議員に転身後[[国会 (日本)|国会]]において、ヒロポンが蔓延した当時の芸能界を証言したことがある<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=110114410X01119840626 参議院会議録情報 第101回国会 社会労働委員会 第11号]。議事録では本名の下村泰名義で記録されている。https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=110114410X01119840626&spkNum=344&single
</ref>{{efn|この質疑において、楠木繁夫、柳家三亀松、霧島昇、樋口静夫、三門順子などの実名を挙げている}}。そのほか、[[ビートたけし]]なども芸能界によるヒロポン蔓延について様々な場において触れており、例えば[[三波伸介 (初代)|初代三波伸介]]や[[東八郎]]の早世の原因にあげている<ref>{{Cite news|title=芸人ヤク中暴露…立川談志、覚せい剤逮捕を見抜いていた!?|newspaper=[[夕刊フジ]]|date=2010-8-19|url=https://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20100819/enn1008191200001-n1.htm|access-date=2022-8-26}}</ref>。[[歌手]]で[[俳優]]の[[ディック・ミネ]]も、第3代[[日本歌手協会]]会長時に出版した著書で、[[落語家]]の[[柳家三亀松]]、[[漫才|漫才師]]の[[ミスワカナ・玉松一郎|ミス・ワカナ]]、歌手の[[笠置シヅ子]]、[[岡晴夫]]らのヒロポン常用について記述し、芸能界へのヒロポン蔓延に対して警鐘を鳴らしている{{sfn|ディック・ミネ|1986|pp=245-251}}。作家の中にも蔓延しており、[[船山馨]]のように自らがヒロポン中毒であったと[[カミングアウト]]した作家の他にも、流行作家の多くがヒロポンに頼って作品を執筆しており、[[朝日新聞]]が社説[[天声人語]]で「戦後派文学、肉体派文学はほとんどヒロポン文学といつてよいほど、ヒロポン中毒の頭脳の中からはき出されたものである」などと指摘したこともあった{{sfn|戦後直後の覚せい剤蔓延から覚せい剤取締法制定に至る政策形成過程の実証研究|2018|pp=6-7}}。
 
戦前、戦中と異なり、より効果が強い注射による摂取が増加してきたことによって、[[精神刺激薬精神病|覚醒剤中毒症]]の症状はより激化する傾向となっており、終戦直後の[[1946年]](昭和21年)には早くも慢性覚せい剤中毒者が東京大学神経科に入院し、[[精神医学]]会からも「注射薬も費出されるということになってしまいまして、注射に頼る人が大分出て来た。こうなってから私どもが全く思いがけなかった程癖になる人、受醒剤の嗜癖の状態というべきことが起ってきたのであります」「相当量続けて使っているという人に著しい精神症状呈して来るものがあるということに気付いたのであります」などと乱用による[[薬物依存症]]発生の指摘があっているが{{sfn|日本における覚せい剤犯罪の創出|1996|p=63}}、これらの薬物依存症の患者はヒロポン中毒者の略で「ポン中」などと呼ばれていた<ref>[http://zokugo-dict.com/30ho/poncyu.htm  『ポン中(ぽんちゅう)』の意味] 日本語俗語辞書 2022年8月24日</ref>。加えて、中毒者が行う不潔な[[注射器]]の使い回しは、[[ウイルス性肝炎]]の伝染機会を増加させ、[[輸血後肝炎]]が感染拡大する遠因となった。
 
芸能界や文学界にヒロポンが蔓延する中で、[[1947年]](昭和22年)に作家[[織田作之助]]や[[漫才師]][[ミスワカナ・玉松一郎|ミスワカナ]]がヒロポンの大量摂取により死亡したと報道されると(両名の死因については諸説あり){{sfn|日本における覚せい剤犯罪の創出|1996|p=62}}、世間の注目度が増して、ようやくその毒性についての研究が進むことになった。同年の内科学会においては「一般健康人が本剤を使用するのは大いに注意する要がある。我々の調査でも本剤は習慣性があり投與量増加しなければ効果なく、又疲労感は一時的にはないが後より強い疲労現はれ、注意散漫し集中的な仕事は出来ない。中事生等盛んに試験中にのんでゐるが尿意を常に催し、集中した勉強は出来ない」「私は本剤の如きは飽迄、医師の監督の下に慮方し又剤薬として管理される要あるを提唱する」と、学生が受験勉強用に飲用するなど、国民が広く使用している実態と、毒性に対して効果は限定的であり、医師の管理の元に使用すべきとの提言もなされている{{sfn|日本における覚せい剤犯罪の創出|1996|p=63}}。
[[File:Hayashida Juro and Ashinoya Gangyoku.JPG|thumb|200px|ヒロポンを互いに注射する姿の漫才の[[林田十郎]](左)と[[芦乃家雁玉]](右)。1948年]]
 
ヒロポンが社会問題化するなかで、その規制が本格的に議論されるようになるのは、[[1949年]](昭和24年)に入ってからとなった。10月24日の[[参議院]]厚生委員会において、ヒロポンに対する言及が初めて行われたものの、その後の11月25日の参議院本会議においては「この頃はやるヒロポンの注射であるのでありまして、果して結果がいいかどうか。これはその麻藥を使用するところの医者が藪医者であるか名医であるかに全くよるのでありまして、」と処方次第との答弁があっている<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/simple/detail?minId=100615254X01919491125&spkNum=22&current=282#s22 参議院会議録情報 第6回国会 本会議 第19号 昭和24年11月25日]</ref>{{sfn|日本における覚せい剤犯罪の創出|1996|p=63}}。このヒロポンは医学的には有用であるという見方は、規制反対派の論拠となり、[[1950年]](昭和25年)12月8日付[[読売新聞]]社説「[[編集手帳]]」においては「ヒロポン禍は事実である」としながらも、「ヒロポンそれ自体が有害なのではない。それが医療の範囲を超えて乱用されたことに問題がある」と原因はヒロポンでなく悪用する方だと指摘し「近代科学に目をそむける未開人の意識であり、科学に対する野蛮な鎖国である」などとヒロポンの全面的製造禁止法案の議論を進める国会に釘をさしている{{sfn|戦後直後の覚せい剤蔓延から覚せい剤取締法制定に至る政策形成過程の実証研究|2018|p=8}}。
{{main|覚醒剤取締法#経緯|大日本住友製薬#商標}}
 
しかし、根強い有用論はあっても、国会でヒロポンが取り上げられてからは、規制の方向に大きく舵をきられていくこととなる。厚生省も着々と規制を進めており、1949年3月に薬事法の施行規則改正でヒロポンなどの覚醒剤を[[劇薬]]に指定すると、生産数量を旬報で報告をさせるなどの措置を講じ{{sfn|戦後直後の覚せい剤蔓延から覚せい剤取締法制定に至る政策形成過程の実証研究|2018|p=11}}、9月には、メタンフェタミンとアンフェタミンそれぞれの錠剤を「国民医薬品集」から削除して、製造を厚生省大臣の許可制とした。さらに、10月には各都道府県知事あてに事務次官通牒発出し、製薬業者に注射剤の製造自粛を勧告したが、それまでの生産分の[[ストック]]や密造によって市中には大量のヒロポンや他社の覚醒剤が流通しており、乱用に歯止めがかからなかった。当時、都市には戦火で身寄りを失ったいわゆる浮浪児が多数路上生活していたが<ref>{{Cite news|title=戦争が生んだ「浮浪児」は3万5000人 当事者が語る路上生活|newspaper=[[デイリー新潮]]|date=2020-8-15|author=石井光太|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2020/08151100/?all=1|access-date=2022-8-26|authorlink=石井光太}}</ref>、その浮浪児のヒロポン乱用は止まらず、40~50本も乱用しているような子供もいたという<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/100615261X01019491130/27 参議院会議録情報 第6回国会 予算委員会 第10号 昭和24年11月30日]</ref>。
 
浮浪児や[[不良行為少年|不良少年]]らは、ヒロポン欲しさに犯罪を犯すようになっていたので、ヒロポンが[[少年犯罪]]激増の元凶となっていた。1949年(昭和25年)の警察の見解として「少年ヒロポン患者薬代欲しさから盗みやユスリ・・都内に『ヒロポン禍』が目立ってふえ、とくにこれに伴う青少年犯罪が激増しつつある」「恐るべきヒロポン禍薬欲しさのスリ窃盗犯罪青少年の半数は中毒」「青少年のカクセイ剤中毒患者は毎年増加の傾向にある、法規制の改正により製造を中止する以外ない」という発表があっている{{sfn|日本における覚せい剤犯罪の創出|1996|p=67}}。1949年に警視庁保安部が補導した青少年のうち半数がヒロポン中毒であり、補導されていない青少年を含めると、東京都内だけでも青少年のヒロポン中毒者は15,000人に達すると予想された。それでも恐るべき数であったが、翌年の1950年になると、[[文部省]]の推計でその数は倍の30,000人なった{{sfn|戦後直後の覚せい剤蔓延から覚せい剤取締法制定に至る政策形成過程の実証研究|2018|pp=6-7}}。2022年(令和4年)で日本全国で検挙された覚醒剤事犯の検挙者数は6,289人であり、東京都内の青少年のみでその約5倍のヒロポン中毒者がいたことになる<ref>{{Cite news|title=薬物乱用防止に関する情報|publisher=[[厚生労働省]]|url=https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iyakuhin/yakubuturanyou/index.html|access-date=2023-10-21}}</ref>。
 
そして、ヒロポンなどの覚醒剤規制を決定づける凶悪少年性犯罪が発生する。1949年から1950年(昭和25年)にかけて[[埼玉県]]で少年百数十名による集団強姦事件が発生したが、検挙された加害者の少年の殆どが、ヒロポンと同じメタンフェタミン製剤「ネオアゴチン」の常習者であり、過度の使用の結果いずれも中毒症に陥り、幻覚、幻聴、被害妄想の症状が現れていることが判明、また、捜査の過程で「ネオアゴチン」の製造が厚生大臣から認可された販売制限量を超えていたことも判明し、製造会社は[[薬事法]]違反の行政処分を受けている{{sfn|日本における覚せい剤犯罪の創出|1996|p=69}}。この凶悪事件は世間を震撼させて、覚醒剤の害悪性を広く国民に知らしめることとなった{{sfn|戦後直後の覚せい剤蔓延から覚せい剤取締法制定に至る政策形成過程の実証研究|2018|p=10}}。
 
少年の集団強姦事件が明るみに出ると、ついに厚生省は、1950年2月に「医師、歯科医師又は、獣医師の処方せん又はその指示」がなければ覚醒剤は購入できないという、現行法制下で可能なもっとも厳しい規制を決定した。しかし、これでも効果は限定的なもので、浮浪児らヒロポン中毒の少年たちは、劇薬として医師の処方箋や指示がないと入手できなくなったヒロポンを、薬局などを脅迫して入手したり、医師に対しても頼み込んだり、ときには脅迫までして1か月~1年といった長期に渡る処方箋や指示書を発行させて覚醒剤を入手し続けた{{sfn|戦後直後の覚せい剤蔓延から覚せい剤取締法制定に至る政策形成過程の実証研究|2018|p=10}}。
 
現行法では対応できないのは明らかとなっており、全面的な禁止に向けて新たな法律の制定が必要という認識が国会内にも広まっていった。参議院厚生委員会を中心に議論が深まっていったが、衆議院大蔵委員会の公聴人質疑において、[[朝鮮戦争特需]]への対応で、特に製鉄所や造船関係の工場では、深夜残業が当たり前となっており、工場労働者に会社側がヒロポンを支給させて長時間勤務を強いているという実情も明らかにされた。覚醒剤問題は、少年犯罪だけでなく労働環境の悪化の元凶ともなっており、国による早急な対応が求められた。そして、ついに1951年5月18日、[[覚せい剤取締法]]案が参議院厚生委員会の議員4人を発議者として国会に提出され、6月13日には衆議院本会議で可決し、30日に公布され、同年 7月30日に施行された{{sfn|戦後直後の覚せい剤蔓延から覚せい剤取締法制定に至る政策形成過程の実証研究|2018|p=}}。同法により日本では「限定的な医療・研究用途での使用」を除き、覚醒剤の使用・所持がすべて厳禁されている{{efn|ここで言う「限定的な医療・研究用途での使用」とは、同法により規定された少数の研究・医療機関への販売や、[[統合失調症]]や[[ナルコレプシー]]の治療等である}}。{{main|覚醒剤#日本における法規制|覚醒剤取締法#刑罰}}
 
[[覚せい剤取締法]]が施行されても、覚醒剤中毒者による凶悪事件は後をたたず、[[1954年]](昭和29年)[[4月19日]]に、授業中の小学校内で生徒が覚醒剤中毒者によって殺害されるといった衝撃的な[[文京区小2女児殺害事件]]が発生。さらに同年[[6月25日]]には中毒者が通行人5人を川に投げ落として幼児3人が死亡する事件も発生<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=97-98|isbn=9784816922749}}</ref>するなど中毒者による殺人事件が続発、より取り締まりが強化されていくこととなった{{sfn|日本における覚せい剤犯罪の創出|1996|p=70}}。この年、販売組織などを通じた調査が行われ、全国の常習者は285万人と推定された<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=103|isbn=9784816922749}}</ref>。
 
ヒロポンは[[#効能・効果]]に記載の通り、覚せい剤取締法における「限定的な医療・研究用途での使用」として[[ナルコレプシー]]や[[鬱病]]などの症状の[[治療]]のために[[住友ファーマ]]で生産・販売が続けられ、[[日本薬局方]]上は[[処方薬]]([[処方箋医薬品]])の[[覚醒剤]]として残っている。その投与方法は、1回2.5〜5mg、1日10〜15mgを経口投与するとされているが、重要な注意事項として「反復投与により薬物依存を生じるので、観察を十分に行い、用量及び使用期間に注意し、慎重に投与すること。」「本剤投与中の患者には、自動車の運転など危険を伴う機械の操作に従事させないよう注意すること。」「治療の目的以外には使用しないこと。」が徹底され、厳格な管理のもとで使用されている<ref>{{Cite news|title=ヒロポン錠の基本情報|newspaper=[[日経メディカル]]|date=|url=https://medical.nikkeibp.co.jp/inc/all/drugdic/prd/11/1151001F1020.html|access-date=2023-10-21}}</ref>。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=立津政順、後藤彰夫、藤原豪共著|title=覚醒剤中毒|publisher=医学書院|date=1956|ref={{sfnRef|覚醒剤中毒|1956}} }}
* {{Cite book|和書|author=山下格、森田昭之助|title=覚醒剤中毒|publisher=金剛出版|date=1980|ref={{sfnRef|覚醒剤中毒|1980}} }}
*佐藤哲彦『覚醒剤の社会史』東信堂、2006年。
* {{Cite book|和書|author=佐藤哲彦 |title=日本における覚せい剤犯罪の創出 |publisher=ソシオロジ編集委員会・社会学研究会 |year=1996 |ref={{sfnRef|日本における覚せい剤犯罪の創出|1996}} }}
* {{Cite book|和書|author=佐藤哲彦 |title=覚醒剤の社会史 : ドラッグ・ディスコース・統治技術 |publisher=東信堂 |year=2006 |NCID=BA77017677 |id={{NDLJP|11231164}} |naid=500000321680 |ISBN=978-4887136717 |hdl=2433/144650 |ref={{harvid|覚醒剤の社会史(2006)}} }}
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* {{Cite book|和書|author=高木俊朗 |title=戦記作家高木俊朗の遺言 |volume=1 |date=2006-07 |publisher=文藝春秋企画出版部 |isbn=9784160080249|ref={{SfnRef|高木俊朗Ⅰ|2006}} }}
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*{{Citation|和書|author=[[森本穫]]|date=2014-09|title=魔界の住人 川端康成――その生涯と文学 上巻|publisher=勉誠出版|isbn=978-4585290759|ref={{Harvid|森本・上|2014}}}}
*{{Citation|和書|author=森本穫|date=2014-09|title=魔界の住人 川端康成――その生涯と文学 下巻|publisher=勉誠出版|isbn=978-4585290766|ref={{Harvid|森本・下|2014}}}}
* {{Cite book |和書 |author=加藤浩 |year=2009-11 |title=神雷部隊始末記 人間爆弾「桜花」特攻全記録 |publisher=[[Gakken|学研パブリッシング]] |isbn=978-4054042025 |ref={{SfnRef|加藤浩|2009}}}}
* {{Cite book |和書 |author=野原一夫|authorlink=野原一夫 |year=1987 |title=宇垣特攻軍団の最期 |publisher=講談社|isbn=978-4062026086 |ref={{SfnRef|野原一夫|1987}}}}
*{{Citation|和書|date=1982-02|title=川端康成全集第28巻 随筆3|publisher=新潮社|isbn=978-4106438288|ref={{Harvid|随筆3|1982}}}}
* {{Cite book |和書 |author=山岡荘八|authorlink=山岡荘八 |year=1987-1 |title=小説 太平洋戦争⑤ |publisher=講談社 |series=講談社文庫 |isbn=978-4061950962 |ref={{SfnRef|山岡荘八⑤|1987}}}}
*{{Citation|和書|editor=羽鳥徹哉|date=1994-09|title=作家の自伝15 川端康成|publisher=日本図書センター|isbn=978-4-8205-8016-4|ref={{Harvid|作家の自伝|1994}}}}
* {{Cite book|和書|author=美濃部正|authorlink=美濃部正|year=2017|title=大正っ子の太平洋戦記(復刻版)|publisher=方丈社 |isbn=978-4908925153|ref={{SfnRef|大正っ子の太平洋戦記|2017}} }}
*{{Citation|和書|author=[[高戸顕隆]]|date=1994-10|title=海軍主計大尉の太平洋戦争――私記ソロモン海戦・大本営海軍報道部|publisher=[[光人社]]|isbn=978-4-7698-2227-1|ref={{Harvid|高戸|1994}}}}
* {{Cite book |和書 |author=[[ノーマン・オーラー]] |year=2018 |title=ヒトラーとドラッグ:第三帝国における薬物依存 |publisher=白水社 |isbn=978-4560096512 |ref={{SfnRef|ノーマン・オーラー|2018}}}}
* {{Cite book |和書 |author=デニス・ウォーナー |year=1982a |title=ドキュメント神風 |volume=上 |publisher=時事通信社 |asin=B000J7NKMO |ref={{SfnRef|ウォーナー|1982a}} }}
* {{Cite book |和書 |author=デニス・ウォーナー |year=1982b |title=ドキュメント神風 |volume=下 |publisher=時事通信社 |asin=B000J7NKMO |ref={{SfnRef|ウォーナー|1982b}} }}
* {{Cite book |和書 |author=ディック・ミネ |year=1986 |title=あばよなんて、まっぴらさ!歌も女も、生涯現役 |publisher=東都書房 |isbn=978-4886680440 |ref={{SfnRef|ディック・ミネ|1986}}}}
== 関連項目 ==
* [[長井長義]]
* [[藤田まこと]]
* [[メスマウス]]
* [[ダメ。ゼッタイ。]]
* [[祭りの準備]]
* [[愛国ポルノ]] - 韓国における近似の概念として「国」と「ヒロポン」のかばん語「グクポン」が存在する。
 
== 外部リンク ==
* {{PDFlink|[https://pins.japic.or.jp/pdf/newPINS/00006946.pdf 医薬品情報データベース ヒロポン添付文書]}} 日本医薬情報センター
* [https://web.archive.org/web/20150403221310/http://www.nihs.go.jp/hse/yakudoku/metham.html メタンフェタミン] - [[国立医薬品食品衛生研究所]]のページ。検査法。
* [https://web.archive.org/web/20160508124240/http://www.e-pharma.jp/dirbook/contents/data/prt/115100AA1022.html ヒロポン 医薬品情報・検索 イーファーマ]
* {{脳科学辞典|記事名=覚せい剤}}
* {{kotobank}}
 
{{DEFAULTSORT:くいいんすあへにゆうあるふあ}}
{{authority control}}
[[Category:日本の芸能プロダクション]]
{{DEFAULTSORT:めたんふえたみん}}
[[Category:アルカロイド渋谷区の企業]]
[[Category:フェネチルアミン]]
[[Category:覚醒剤]]
[[Category:精神刺激薬]]
[[Category:ドーパミン受容体作動薬]]
[[Category:ノルアドレナリン・ドーパミン放出薬]]
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