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{{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}}
{{日本の寺院
{{基礎情報 会社
|名称 = 甲斐善光寺
| 社名 = 株式会社クィーンズアベニュー
|画像 = [[File:Kai-Zenkoji-temple Kofu-city Yamanashi Japan.JPG|280px]]<br />本堂(重要文化財)
| 英文社名 = Queen's Ave Co.,Ltd.
{{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=12|frame-align=center|frame-width=230}}
| 種類 = [[株式会社]]
|所在地 = 山梨県甲府市善光寺3-36-1
| 市場情報 = 非上場
|位置 = {{coord|35|39|57.6|N|138|35|34.5|E|region:JP-19_type:landmark_scale:10000|display=inline,title}}
| 国籍 = {{JPN}}
|山号 = 定額山
| 郵便番号 = 102-0083
|宗派 = [[浄土宗]]
| 本社所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|千代田区]][[麹町]]2-2-4 麹町セントラルビル5F
|本尊 = [[善光寺式阿弥陀三尊|善光寺如来]](秘仏、重要文化財)
|創建年 設立 = [[永禄1994年]]元年4月創業[[15581989年]]8月
| 業種 = サービス業
|開基 =[[武田信玄]]
| 事業内容 = タレント・アーティスト・インフルエンサーの育成、マネジメント及びプロモーション
|正式名 = 定額山 浄智院 善光寺
| 代表者 = 澤栗洸紀([[代表取締役]])
|別称 = 甲斐善光寺、甲州善光寺、甲府善光寺
角島美緒([[取締役社長]])
|札所等 = [[甲斐百八霊場]]1番
| 従業員数 = 6名
|文化財 = 本堂、山門、銅造阿弥陀三尊像ほか(重要文化財)<br />絹本著色浄土曼荼羅図ほか(県指定文化財)
| 資本金 = 4000万円
| 売上高 =
| 関係する人物 =
| 外部リンク = https://www.queens-ave.com/
| 特記事項 =
}}
'''クィーンズアベニュー'''(Queen's Ave.)は、[[東京都]][[港区 (東京都)|千代田区]]に本社を置く、[[日本]]の[[芸能事務所]]である。旧[[代表取締役]]は、前島真理奈。旧名は「クィーンズアベニューアルファ」。
{{Location map|Japan Mapplot|coordinates={{Coord|35.666|138.592917}}|caption=甲斐善光寺|width=256}}
{{右|
[[File:Kai-Zenkoji-temple main gate.JPG|thumb|山門(重要文化財)]]
}}
[[File:Kai Zenkouji Temple from the gate.jpg|thumb|本堂を山門から見る]]
 
'''甲斐善光寺'''(かいぜんこうじ)は、[[山梨県]][[甲府市]]善光寺にある[[浄土宗]]の[[寺院]]。山号は定額山(じょうがくざん)。正式名称は定額山浄智院善光寺(じょうがくざんじょうちいんぜんこうじ)と称する。[[長野県]][[長野市]]にある[[善光寺]]をはじめとする[[善光寺 (曖昧さ回避)|各地の善光寺]]と区別するため甲斐善光寺と呼ばれることが多く、'''甲州善光寺'''(こうしゅうぜんこうじ)、'''甲府善光寺'''(こうふぜんこうじ)とも呼ばれている。
 
== 立地と地理的・歴史的景観 ==
所在する甲府市善光寺は[[甲府盆地]]北縁に位置する<ref name="#1">『善光寺北遺跡 山梨県埋蔵文化財センター調査報告』1992年、p.2</ref>。周囲には板垣山や大笠山、[[愛宕山 (甲府市)|愛宕山]]などが近接し、高倉川など小河川が流れる<ref name="#1"/>。
 
一帯には善光寺北遺跡・北原遺跡など[[縄文時代]]の遺跡がわずかに分布するが、甲府盆地北縁地域は[[古墳時代]]後期に開発が進み、[[横穴式石室]]を持つ[[群集墳]]が分布する<ref name="#2">『善光寺北遺跡 山梨県埋蔵文化財センター調査報告』1992年、p.3</ref>。また、[[平安時代]]から中世の遺跡も分布しており<ref name="#2"/>、付近には甲府市[[酒折]]の[[酒折宮]]や甲府市東光寺町の[[東光寺 (甲府市)|東光寺]]など、古代・中世の寺社が分布する。
 
板垣郷は甲斐四郡のうち山梨郡に属し、中世初頭に表門郷(うわとごう)から分離して成立した<ref name="#3">『山梨県の地名』、p.366</ref>。平安時代後期に甲斐国へ土着した[[甲斐源氏]]の一族のうち[[武田氏]]の勢力範囲で、[[武田信義]]の子・[[板垣兼信|兼信]](板垣三郎)が本拠を構え板垣姓を称した<ref name="#3"/>。『甲斐国志』に拠れば、善光寺三丁目の字「殿屋敷」は兼信の[[居館]]跡とする伝承がある<ref name="#3"/>。武田氏の一族・[[甲斐一条氏]]の領した一条郷にも近い。戦国期には甲府市東光寺の[[東光寺 (甲府市)|東光寺]]、甲斐善光寺、甲府市酒折、甲府市国玉一帯を含む地域であったと考えられている<ref name="#3"/>。
 
近世には板垣村となり、甲府市善光寺一 - 三丁目、善光寺、城東三丁目・五丁目、朝気一 - 二丁目、里吉一丁目、砂田町、酒折三丁目の地域を含む<ref>『山梨県の地名』、p.365</ref>。[[1875年]](明治8年)には[[里垣村]]の大字名。[[1937年]](昭和12年)には甲府市善光寺町(現・善光寺3丁目)となり、現在に至る。
 
== 甲斐善光寺の創建と展開 ==
=== 第三次川中島の戦いと信濃善光寺 ===
[[ファイル:Takeda Harunobu.jpg|170px|thumb|武田信玄]]
[[ファイル:Zenkoji02s3200.jpg|thumb|信濃善光寺]]
甲斐善光寺は[[永禄]]元年([[1558年]])、甲斐国国主[[武田信玄]]によって[[山梨郡]]板垣郷(甲府市善光寺)に創建された。開山は信濃善光寺大本願三十七世の鏡空。
 
『[[高白斎記]]』に拠れば、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[大永]]3年([[1523年]])6月10日・大永7年([[1527年]])7月8日には甲斐守護・[[武田信虎]]が信濃善光寺に参詣している<ref>笹本(2007、p.319</ref>。信虎は当時、敵対する甲斐の有力[[国衆]]や他国勢力と抗争を繰り広げており、信濃善光寺への参詣は信虎が国内を留守にできるほど甲斐の統一的状況が生まれていたとも評価されている<ref>笹本(2007)、pp.319 - 320</ref>。また、信虎個人の宗教的動機のほか、大永4年([[1524年]])2月には[[上野国]]の[[関東管領]]・[[上杉憲房 (戦国時代)|上杉憲房]]と[[相模国]]・[[北条氏綱]]の抗争に介入して関東へ出兵しており、大永7年6月には信濃[[佐久郡]]の[[伴野貞慶]]を援助するために国外へ出兵していることから、政治的動機も指摘される<ref name="#4">笹本(2007)、p.319</ref>。
 
天文10年([[1541年]])6月14日には信虎嫡男の晴信(信玄)が信虎を追放し、家督を相続する。晴信は天文年間から[[信濃侵攻]]を本格化させ、北信濃の国衆を庇護する[[越後国|越後]]の長尾景虎(宗心、[[上杉謙信]])と衝突し、北信濃(長野県長野市南郊)において五次に渡る[[川中島の戦い]]を繰り広げる。
 
天文24年([[1555年]])7月の第二次合戦では戦火が信濃善光寺に及んだ。善光寺別当の初代・[[栗田永寿 (初代)|栗田永寿]]は天文12年([[1553年]])の武田氏の北信濃侵攻では長尾景虎に属していたが、『[[勝山記]]』によれば永寿は武田氏の支援を受け、[[旭山城]](長野市)に籠城して長尾方と戦っており、これ以前から武田氏と接触があったと考えられている<ref name="#5">笹本(2007)、p.320</ref><ref name="#6">鈴木(2015)、p.287</ref>。
 
『勝山記』によれば、天文24年7月23日には[[村上義清]]・[[高梨政頼]]が長尾景虎を頼り越後へ亡命すると、信濃へ出兵していた景虎は同日に善光寺へ陣を張った<ref name="#7">『上杉氏年表』、p.96</ref>。『勝山記』によれば、これに対し武田晴信は旭山城に籠城する[[栗田氏]]に兵三千・[[弓]]八百張・[[鉄砲]]三百挺を支援した<ref name="#7"/>。
 
『勝山記』によれば、同年改元後の弘治元年閏10月15日には[[駿河国]]・[[今川義元]]の仲介により武田・長尾間の和睦が成立し、上杉方の城は破却され武田・上杉双方は撤退し第三次川中島の戦いは終結した<ref name="#7"/>。
 
=== 甲斐善光寺の創建 ===
景虎は第三次川中島の戦いの終結後、信濃善光寺・大御堂本尊の善光寺如来や寺宝を越後へ持ち帰り、永禄初年頃には直江津([[新潟県]][[上越市]])に如来堂を建設した<ref name="#5"/><ref name="#7"/>。これにより直江津は信濃からの移住者が居住し、[[町場]]として発展している<ref name="#7"/>。なお、景虎が越後へ持ち帰った善光寺如来は本尊像ではなく、本尊像は旭山城へ籠城した栗田氏により避難されていたとも考えられている<ref name="#8">片桐(2007)、p.92</ref>。
 
これに対し、晴信は弘治3年2月15日に信濃善光寺北西の水内郡・[[葛山城 (信濃国)|葛山城]](長野市)を落とし一帯を勢力下に置くと、善光寺別当の[[栗田寛久]]に命じ信濃善光寺本尊の阿弥陀如来像や寺宝を甲斐国甲府へ移転させ、栗田氏らも甲府へ転居した<ref>笹本(2007)、pp.320 - 321</ref>。善光寺別当[[栗田氏]]も武田方と上杉方に分裂している。
 
晴信は信濃善光寺本尊の善光寺如来を信濃佐久郡祢津に移すと、三年後の永禄元年に甲斐へ持ち帰っている<ref name="#8"/>。[[甲州市]]塩山・[[向嶽寺]]の『塩山向嶽庵小年代記』・永禄元年([[1558年]])条に拠れば、同年9月15日に善光寺如来は甲斐に到着し、甲斐の領民は狂喜したという<ref>笹本(2007)、p.318</ref>。また、『[[王代記]]』では善光寺如来は同年9月25日に到着したとし、同年10月3日から板垣郷で普請が開始されたことを記している<ref name="#4"/>。永禄元年の甲斐善光寺創建には信濃善光寺の三七世住職・鏡空上人が本願主になっている<ref>柴辻(2015)、p.280</ref>。同年には栗田永寿も板垣郷に移住し、大下条([[甲斐市]]大下条)に在国領を与えられ永禄8年までに死去している<ref name="#6"/>。
 
甲斐善光寺の造営は長期に渡り、善光寺如来は仮堂に収められ、永禄8年([[1565年]])に本堂が完成し、入仏供養が行われたという<ref name="#4"/>。その後も、[[元亀]]年間に至るまで造営は続いた<ref name="#4"/>。
 
三世住職は西誉空遠(せいよく うおん)で、永禄11年([[1568年]])に[[朝比奈泰熙]]の母が寄進した浄土曼荼羅図の補修を行っている<ref>柴辻(2015)、pp.416 - 417</ref>。
 
=== 近世の甲斐善光寺 ===
天正10年([[1582年]])3月には[[織田信長]]・[[徳川家康]]連合軍による[[武田征伐]]が行われ、[[武田勝頼]]は滅亡する。信長は戦後に残党狩りを行い、甲府で多くの武田家臣を処刑しているが、『[[甲陽軍鑑]]』等によれば、甲斐善光寺では勝頼異母弟の[[葛山信貞]]、郡内領主・[[小山田氏]]の当主[[小山田信茂]]、小山田一族の[[小山田行村|小山田八左衛門尉]]、山県同心の[[小菅五郎兵衛]]らが処刑されたという<ref>平山優『天正壬午の乱 本能の変と東国戦国史』(2011年)p.58</ref>。[[小山田信茂]]に同行した[[武田信堯]]も処刑された。
 
武田氏の滅亡後、信長嫡男の[[織田信忠]]により善光寺如来は美濃国[[岐阜城]]城下([[岐阜県]][[岐阜市]])に移転される<ref name="#9">片桐(2007)、p.94</ref>。同年6月に[[本能寺の変]]により信長・信忠親子が討たれると、善光寺如来は信長次男・[[織田信雄|信雄]]により[[尾張国]][[清州城]]城下([[愛知県]][[清須市]])へ移転される<ref name="#9"/>。さらに天正11年([[1583年]])6月には善光寺如来は[[徳川家康]]により[[三河国]]吉田・[[遠江国]]浜松を経て、甲斐善光寺へ戻された<ref name="#9"/>。
 
[[京都]]では文禄5年([[1596年]])閏7月13日に発生した[[慶長伏見地震]]により京都の[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])が損壊する。慶長2年(1597年)7月には[[豊臣秀吉]]の要請により、大仏の代わりとして善光寺如来が京へもたらされ、同年7月18日に大仏殿に安置された<ref>片桐(2007)、pp.94 - 95</ref>。その後秀吉は病を患い、それは善光寺如来の祟りではないかとする風説が流布したので、慶長3年(1598年)には信濃善光寺へ戻されている<ref>片桐(2007)、p.95</ref>。ただし秀吉はその直後死去した。
 
江戸時代には浄土宗に帰依していた[[徳川氏]]の庇護を受け、浄土宗甲州触頭となる。
 
江戸時代中後期には甲斐国古関村丸畑([[南巨摩郡]][[身延町]])出身の木食僧・[[木喰]]が甲斐善光寺を訪れる<ref name="#10">『生誕290年 木喰展-庶民の信仰・微笑仏-』(2007年)、p.216</ref>。木喰は諸国を廻国し木喰仏と呼ばれる多くの木像を残し、[[寛政]]12年([[1800年]])には日本一周を達成し、故郷の丸畑で四国堂を創建している<ref>近藤暁子「山梨の木喰仏」『生誕290年 木喰展-庶民の信仰・微笑仏-』(2007年)、p.190</ref>。
 
木喰は最晩年の[[文化 (元号)|文化]]5年([[1808年]])4月に甲府市城東の[[教安寺 (甲府市)|教安寺]]において七観音([[甲府空襲]]で焼失)を制作したのを最後に記録からは見えないが、甲斐善光寺に伝来する「阿弥陀如来図」は文化5年3月21日の作で、阿弥陀如来の図像のほか6首の[[和歌]]が記されている<ref name="#10"/>。
 
<!--最初の移転地は[[祢津村]](現長野県[[東御市]])であったが、その後甲斐国内の法城寺を経て永禄元年に板垣郷へ移された。この地が移転先に選ばれたのはこの附近に信濃善光寺の由来にかかわりのある[[本田善光]]についての伝説があるからだといわれており、今でも甲斐善光寺の北1kmほどの場所には本田善光の墓とされる「善光塚」がある。-->
 
== 善光寺町の形成 ==
善光寺町は中世期に甲斐善光寺の建立に伴い計画的に成立した[[門前町]]で、中世の武田城下町、近世の甲府城下町に含まれ、中世から近世へと連続的に継承された町場として知られる<ref name="#11">伊藤(1998)、p.30</ref>。善光寺町は甲斐善光寺の創建に伴い建設された計画的な街場で、信濃善光寺町と甲斐善光寺町は寺庵の構成や本町と横町によるT字型の街路構成や規模などの点で共通性を持つことが指摘される<ref>伊藤(1998)、p.44</ref>。
 
近世期における善光寺の境内は、本堂を取り囲む供僧屋敷や[[塔頭]]が立地している如来敷地(境内)と[[参道]]、本堂北側の本坊、庫裏、書院などが所在する本坊屋敷(大勧進屋敷)、三門外の「三門外坊舎屋敷」「白袴屋敷」から成る供僧屋敷、および[[耕地]]や[[山林]]で構成される<ref>伊藤(1998)、pp.30 - 33</ref>。
 
「甲斐善光寺文書」に含まれる[[慶長]]6年([[1601年]])の拝領免許地の面積は1万364坪と1万3500坪の二種類の数値が記録されており、後者は参道の面積を含むものであると考えられている<ref name="#11"/>。また、元禄3年(1690年)の町絵図(甲府町年寄・坂田家文書)に拠れば、甲州街道から参道の入口には[[木戸]]が存在していた<ref name="#11"/>。
 
戦国期には、[[天正]]9年([[1581年]])[[武田勝頼]]定書(善光寺大本願・栗田文書)に拠れば、善光寺町は善光寺別当・[[栗田氏]]の支配で、町屋敷は諸役を免許され近世期の上宿の前身となった上町では門前市が開催されていたことが記されている<ref name="#12">伊藤(1998)、p.43</ref>。天正期の[[徳川家康]]・[[羽柴秀勝]]・加藤光泰らの[[寄進状]]、[[文禄]]3年([[1594年]])[[浅野幸長]]寄進状などがあり、戦国期・近世初頭の天正から文禄年間には善光寺町一円が善光寺の所領であったと考えられている<ref name="#11"/>。
 
慶長6年(1601年)の「善光寺町屋敷帳」([[山梨県立博物館]]所蔵)に拠れば、戦国期の善光寺町は、本町に大規模な短冊形地割の屋敷地が均質に分布している。屋敷地は三門内にも分布し、この点は後述の貞享期の町並に見られる二極分化が起きていないことが指摘される<ref name="#12"/>。
 
近世後期における善光寺町は、[[文化 (元号)|文化]]3年([[1808年]])『[[甲州道中分間絵図]]』に拠れば[[甲州街道]]から分岐する参道(大門通)に沿って門前町が再形成されている<ref name="#13">伊藤(1998)、p.41</ref>。門前町は三門前の上宿、木戸の配置された本宿、木戸外にあたる街道沿いの板垣村から構成され、天正・文禄期と異なり三門付近と甲州街道沿いに分離した空間構成を特徴としている<ref name="#13"/>。こうした景観は元禄3年の町絵図でも同様であり、17世紀後半段階から形成されたものであると考えられている<ref name="#13"/>。
 
また、貞享元年([[1684年]])の[[検地帳]]「甲州万力筋板垣村御検地」(山梨県立博物館所蔵)に拠れば、三門内の供僧屋敷が善光寺境内地に含まれているのに対し、三門外・木戸内の上町・本町は板垣村に含まれ村方支配となっていたことが確認される<ref name="#13"/>。文禄期から貞享期にかけて善光寺町は分離し、屋敷群が三門前と街道沿いに二極分化していたと考えられている<ref name="#13"/>。
 
屋敷地割は全体的に表間口が狭く奥行きの深い短冊形地割が多いが、屋敷規模は甲州街道沿いよりも上宿・本宿の方が大きいことが指摘される<ref name="#13"/>。住民構成に関しても上宿・本宿は屋敷規模の大きい年寄層や大工棟梁など有力町人が居住するのに対し、三門内には屋敷規模が小さく、善光寺に供奉する供僧・平坊主僧が多く居住する対比が指摘される<ref>伊藤(1998)、pp.4 - 42</ref>。
 
江戸後期の甲斐国地誌・『[[甲斐国志]]』に拠れば、こうした門前町の空間構成は甲州道中の整備に伴い参道付近の「本郷」と呼ばれる地域から住民が街道沿いに移住したため形成されたという<ref name="#13"/>。
 
== 伽藍 ==
[[File:Kai Zenkoji-1.jpg|thumb|昭和初期の本堂<ref>甲斐保勝協会編『甲斐勝景写真帳』昭和初期の「定額山善光寺」昭和7年(1932年)発行、国立国会図書館蔵書、平成29年10月21日閲覧</ref>]]
*本堂 - 金堂とも称する<ref>[http://www.kai-zenkoji.or.jp/4/ 善光寺公式サイト「歴史と宝物」]</ref>。当初永禄8年([[1565年]])に完成し桁行およそ50[[メートル]]、梁間がおよそ22メートル、高さがおよそ23メートルと信濃善光寺のものとほぼ同じくらいの大きさであったが[[宝暦]]4年([[1754年]])2月の火災によって失われ、現在の本堂は[[寛政]]8年([[1796年]])8月に再建されたものである。寛政8年の再建は明和3年(1766年)から30年を要し、このことから工事の遅延を意味する「善光寺普請」の言葉が生じたという<ref>池田友治「善光寺」『山梨百科事典』山梨日日新聞社、1989年</ref><ref>秋山敬「甲斐善光寺の造営と「善光寺普請」」『武田氏研究 第44号』武田氏研究会、2011年</ref>。
 
:善光寺に特有の撞木造で、桁行がおよそ38メートル、梁間はおよそ23メートル、高さが26メートルと最初のものに比べると規模は小さくなっているがそれでも[[東日本]]においては最大級とも言われる[[木構造 (建築)|木造]]建築物である。[[昭和]]30年([[1955年]])6月22日に[[重要文化財]]に指定された。
 
:本堂中陣天井には巨大な龍2頭が描かれている。廊下の部分は吊り天井になっていて、手をたたくと多重反射による共鳴が起こり、「'''日本一の鳴き龍'''」と呼ばれている。
 
:本堂下には「心」の字をかたどる「'''お戒壇廻り'''」もあり、暗闇の中の鍵を触れることによって、御本尊様と御縁を結ぶと言われている。
 
*山門 - 本堂とともに焼失したがのちに再建され現在のものは桁行およそ17メートル、梁間およそ7メートル、棟高およそ15メートルとなっている。門の両脇には未完成の[[金剛力士]](仁王)像が祀られている。山門も本堂と同日に重要文化財に指定された。
 
== 文化財 ==
[[File:Kai-Zenkoji-temple hall of a Buddhist temple inside №2.JPG|thumb|本堂入口]]
[[File:Kai-Zenkoji-temple hall of a Buddhist temple inside №1.JPG|thumb|本堂内部]]
 
現在の[[本尊]]は銅造阿弥陀三尊像である。これはかつての本尊の前立像であったが、この本尊が信濃善光寺に再度移されるにあたって新しく本尊とされたと伝わり、昭和48年([[1973年]])6月6日に重要文化財に指定された。[[秘仏]]であるが平成9年([[1997年]])からは7年毎に開帳が行われることとなり、現在に至る。
 
重要文化財としてはそのほかに、[[文禄]]年間に当地を治めていた[[浅野長政]]が、それぞれ現在の甲府市中心部の光増寺と現在の[[韮崎市]]の大仏堂から移したものと伝わる木造阿弥陀三尊像2組がある。これらは明治39年(1906年)、重要文化財(当時の国宝)に指定されている。
 
当寺は以上のほかに山梨県指定[[文化財]]4件、甲府市指定文化財8件を含む多数の文化財を所有している。これらの文化財の一部は境内に昭和57年([[1982年]])に建てられた宝物館で公開されている。
 
===重要文化財(国指定)===
*本堂 附:厨子1基・棟札2枚 棟札によれば寛政元年(1789年)の上棟。竣工は寛政8年(1796年)と伝える。
*山門 附:棟札1枚 棟札によれば明和4年(1767年)の上棟
*銅造阿弥陀如来及両脇侍立像
:現在の甲斐善光寺の本尊像で、本堂内陣厨子内に安置される<ref name="#14">鈴木(1998年)、〈表紙解説〉</ref>。[[善光寺式阿弥陀三尊]]像で、左脇侍像の右足[[枘]](ほぞ)前面に[[建久]]6年([[1195年]])の年記があり<ref name="#14"/>、左足枘には「我伍足」の文字が刻まされている。前者は造立された年代であると考えられているが、後者の文字の意味は不明<ref>鈴木(1998)、p.2p</ref>。銅造であるが、[[木型]]ではなく土型で鋳造されたと言われ、両手は別に[[鋳造]]し枘(ほぞ)により組み合わされている<ref name="#15">鈴木(1998)、p.29</ref>。往古には[[鍍金]](ときん)が施されていた<ref name="#15"/>。
 
:『[[善光寺縁起]]』に拠れば、建久5年に[[尾張国]]の僧・定尊が夢告により信濃善光寺の本尊像を写した金銅像の造立を発願し、6万9000人の鬼神を集めて信濃善光寺の本尊を実見し、造立したという<ref name="#14"/>。武田氏滅亡後に信濃善光寺の本尊像が信濃へ戻されると、甲斐善光寺の本尊となったと考えられている<ref name="#14"/>。
 
:鎌倉時代から南北朝時代に盛んに造られた善光寺式阿弥陀三尊像で、他の同時期の善光寺式像の中尊像が左手を下に下げ印を結んでいるのに対し、甲斐善光寺像は左腕を直角に曲げて印を結んでいる点が特徴とされる<ref>鈴木(1998)、p.28</ref>。鎌倉時代に善光寺式像の形式が整う以前の平安後期(藤原末期)の特徴を備えているとも評される<ref name="#15"/>。
*木造阿弥陀如来及両脇侍像 - 12世紀前半。宝物館所在。<ref>年代は[http://www.kai-zenkoji.or.jp/4/ 善光寺公式サイト「歴史と宝物」]による。次項も同様。</ref>
*木造阿弥陀如来及両脇侍像 - 12世紀後半。非公開。
 
===山梨県指定有形文化財===
*木造源頼朝坐像
:木造、[[玉眼]](亡失)、彩色。信濃善光寺の大檀那でもあった[[源頼朝]]の木像。像高は95.8センチメートル。[[冠]]、強装束で着座する坐像。胎内背面に[[文保]]3年([[1319年]])の銘文(意趣文)には年記があり、頼朝の[[命日]]である[[正治]]元年([[1199年]])正月13日の日付が記されることから、最古の頼朝像とされる<ref name="#16">近藤暁子「源頼朝坐像」『甲斐源氏 列島を駆ける武士団』(山梨県立博物館、2010)、p.148</ref>。さらに、意趣文には二度の火災に遭遇したと記されており、これは信濃善光寺の[[文永]]5年([[1268年]])と[[正和]]2年([[1313年]])の火災を指すと考えられ、本像の年代も再興時の文保3年とする説と、火災時の修理がなされた文永5年以前とする説がある<ref name="#16"/>。
*絹本著色浄土曼荼羅図 一幅:[[鎌倉時代]]製作
*絹本著色善光寺如来絵伝 二幅
:室町時代(15世紀後半代)の善光寺如来絵伝。寸法は第一幅が縦146.5センチメートル、横81.5センチメートル。第二幅が縦145.8センチメートル、横82.0センチメートル。両幅裏には元和3年(1617年)に[[徳川忠長]]を檀主として補修が行われた修理銘がある。平安時代に成立し、鎌倉期から作例が見られる[[善光寺縁起]]の縁起絵。二幅の大画面が霞で6-7段に区分され、各幅20場面前後の事績が画面上部から順に描かれている。戦国期の移転に際して信濃からもたらされたものであると考えられており、善光寺境内や如来像が描かれていない点から、一幅が欠損している可能性が指摘されている。なお、甲斐善光寺には近世期の善光寺如来絵伝も伝来している。
*銅鐘:[[正和]]2年([[1313年]])鋳造
 
===甲府市指定文化財===
*木造法然上人坐像
:室町時代の作か。像高は76.8センチメートル。[[玉眼]]嵌入。武田信玄による将来と伝わる。
*加藤光泰墓
:金堂東北の一角に所在する[[墓所]]。天正19年(1591年)に[[豊臣秀勝|羽柴秀勝]]の岐阜転封に伴い豊臣大名として甲斐へ入った[[加藤光泰]]の墓。光泰は[[文禄]]2年([[1593年]])に朝鮮出兵の陣中で死去しており甲斐善光寺へ葬られた。[[墓石]]は江戸時代中期に建立された[[五輪塔]]。光泰の没後、甲斐には加藤氏に代わり[[浅野氏]]が入る。
*木造蓮生法師坐像
:室町時代の作か。像高は83.8センチメートル。寄木造。玉眼嵌入。武田信玄による将来と伝わる。蓮生は[[熊谷直実]]の法名で、法然に帰依した直実が[[元久]]元年([[1204年]])に鳥羽の阿弥陀像の前で上品往生願書を読んだ際の姿。
*木造玄和居士坐像
:鎌倉時代の作。像高は89.5センチメートル。寄木造。玉眼嵌入。若い僧の像で、像内墨書から玄和居士像と称されるが、玄和については不明。
*木造本田善光坐像
*木造本田善光夫人坐像
*木造[[源実朝]]坐像:鎌倉時代末期作と推定、最古の実朝像
*麻布朱地著色地蔵十王図 一幅
 
== 像内納入品の発見 ==
=== 発見された和鏡 ===
[[2005年]](平成17年)11月1日から[[2006年]](平成18年)3月19日には山梨県[[笛吹市]]御坂町の[[山梨県立博物館]]においてシンボル展「重要文化財善光寺阿弥陀三尊像」が開催された。浅野長政が寄進した木造阿弥陀三尊像を展示した企画で、これに際して同博物館の[[考古学]]や[[保存科学]]、[[美術史]]を専門とする学芸員の共同研究により像の調査が行われた。
 
[[エックス線]]撮影装置を用いた非破壊検査により観音菩薩像の足元付近、勢至菩薩像の顔部に円形平板状の納入物が発見された<ref name="#17">中山・沓名・近藤(2007)、p.3</ref>。納入物は画像解析から[[鏡]]の[[紐]]、文様の影像が認められ、[[和鏡]]と判明した<ref name="#17"/>。
 
観音菩薩立像内の和鏡は無縁・無圏の円鏡で、直径8センチメートル前後と推定され、同じ形式の和鏡よりも小さい<ref name="#18">中山・沓名・近藤(2007)、p.4</ref>。中心部の[[鈕]](つまみ)には紐(ひも)を通すための孔がある<ref name="#17"/>。周囲の鈕座(ちゅうざ)<!--漢音は「じゅう」だが、ここは慣用音の「ちゅう」でよいのでは?-->には放射状に花弁文様が巡り、花弁文様は斜めに連続して風車状となっている<ref name="#17"/>。このような形式は12世紀中葉・後半に特徴的な「'''捩菊座鈕'''」(ねじりぎくざちゅう)と呼ばれる<ref name="#17"/>。周囲の文様は[[ハギ|萩]]や[[ススキ]]など秋の植物、飛翔する鳥などが描かれ、古代から中世前期の和鏡に多い「秋草双鳥鏡」((あきくさそうちょうきょう)と見られている<ref name="#18"/>。
 
勢至菩薩立像内の和鏡も同様に無縁・無圏の円鏡で、直径は同じく8センチメートル前後と推定されている<ref name="#18"/>。中心には鈕がある<ref name="#18"/>。鈕座外縁には花弁文様があり、12世紀から14世紀に特徴的な「'''花蕊座鈕'''」(かずいざちゅう)と呼ばれる<ref name="#18"/>。鈕の周囲には、下方に流水文・水草、右側上部に[[尾長鳥]]とも見られる飛翔する鳥2羽が描かれ、「水草流水双鳥鏡」と判断された<ref name="#18"/>。
 
=== 同形式の和鏡との比較 ===
像内から発見された和鏡は、同形式の和鏡が直径105センチメートル前後であるこに比べて小さく、また同形式の和鏡が単圏で外縁に沿って縁取りされていることが多いのに対し、発見された和鏡は無縁・無圏であることが特徴であると指摘される<ref name="#18"/>。また、鏡面と鈕座の比率も同形式の和鏡と異なり、文様展開も外部で切断されている点が指摘される<ref name="#18"/>。
 
このため、発見された和鏡は本来は有縁・有圏であったものが納入に際して加工された可能性が想定されているが、2007年時点では類例の所見がなく、その背景は不明<ref name="#19">中山・沓名・近藤(2007)、p.7</ref>。
 
=== 鏡の納入に関する背景 ===
仏像胎内の納入品は古代、平安時代後期から鎌倉時代にかけて盛んに行われ、様々なものが納入された事例が見られる<ref name="#19"/>。鏡の納入は、現在・[[京都府]][[京都市]][[右京区]]嵯峨<!--釈迦堂藤ノ木町-->に所在する[[清凉寺]]の本尊である釈迦如来像の事例が知られる<ref name="#19"/>。これは優填王思慕像(うでんおうしぼぞう)の模刻で、入宋した東大寺僧・[[奝然]](ちょうねん)の依頼により[[北宋]]・[[雍熙]]2年([[985年]])に制作された。同像は像内に多数の納入品が収められていたが、その中に「線刻水月観音鏡像」が含まれる。以来、像内に鏡を納入した事例は平安後期から鎌倉時代にかけて多数見られる<ref>中山・沓名・近藤(2007)、pp.7 - 8</ref>。
 
鏡は古くは[[古墳]]の[[副葬品]]としても出土し、古代には寺社の[[鎮壇具]]としても用いられていることから、呪術的意味合いがあると考えられている<ref>中山・沓名・近藤(2007)、p.10</ref>。[[密教]]においては[[満月]]の姿を菩薩心に通じるものとして、仏像の胸部に「[[月輪]]」(がちりん)の納入が盛んに行われた<ref>中山・沓名・近藤(2007)、p.9</ref>。鏡もこれと同様に、仏の本体・仏の心の象徴と解釈する思想があったとする説もある<ref>中野政樹『日本の美術42 和鏡』(1969年)</ref>。
 
一方で、納入品は仏の魂の象徴としての意味のほかに、結縁者ゆかりの遺愛品を納入する事例もあることから、発見された和鏡納入の背景には双方の可能性が考えられているが、像内には他の納入品が見られないことから、前者の可能性が指摘される<ref>中山・沓名・近藤(2007)、pp.9 - 10</ref>。
 
== 燈籠仏 ==
=== 灯籠仏の由来 ===
甲斐善光寺には「'''燈籠仏(とうろうぶつ)'''」と呼ばれる仏像が伝来している。これは像高5センチメートル(一寸八分)ほどの一光三尊阿弥陀如来像で、普段は[[燈籠]]に収められ、[[秘仏]]として扱われている<ref name="#20">石川(1998)、p.48</ref>。江戸時代に甲斐善光寺で発行された縁起に拠れば、願い事を占う際に用いられる仏像で、甲斐善光寺発行・年未詳の[[一枚刷り]]「'''善光寺燈籠仏縁起'''」(山梨県立博物館所蔵「甲州文庫」)、[[享保]]7年([[1722年]])の写本「'''甲陽善光寺略縁起 附 灯篭仏略縁起'''」(「甲州文庫」)に拠れば、願い事が叶うなら重くなってください」と念じて持ち上げると、願い事が叶う場合には重くなり、叶わない場合は軽くなるという<ref name="#20"/>。
 
燈籠仏の存在は[[宝永]]3年([[1706年]])の[[荻生徂徠]]『峡中紀行』に記され、[[甲府藩]]主・[[柳沢氏]]家臣であった荻生徂徠は宝永2年([[1705年]])9月14日に田中省吾とともに甲斐善光寺を訪れ、燈籠仏を実見したという<ref name="#21">石川(1998)、p.50</ref>。[[宝暦]]2年([[1752年]])の[[甲府勤番|甲府勤番士]]・野田成方『[[裏見寒話]]』においても触れられ、燈籠仏の拝見には金銭を徴収していたと記されている<ref name="#21"/>。
 
ほか、[[天明]]年間の[[加賀美遠清]]『甲陽随筆』、[[文化 (元号)|文化]]11年([[1814年]])の『[[甲斐国志]]』、[[嘉永]]3年([[1850年]])の宮本定市『甲斐之手振』などの[[随筆]]・[[地誌]]類にも存在が記されている。幕末には嘉永年間の大森快庵『甲斐叢記』(出版は[[1893年]](明治28年))において触れられている<ref name="#22">石川(1998)、p.52</ref>。
 
=== 文学における灯籠仏 ===
文学では[[川柳]]において、宝暦8年([[1758年]])の「川柳評万句合」で「''かるい事かな、かるい事かな''」の前句に続いて、「''起請よりとうろう仏で深くなり''」と詠んでいる<ref name="#21"/>。川柳の句集である『[[誹風柳多留]]』(はいふうやなぎだる)には燈籠仏を詠んだものが二首あり、[[文政]]6年([[1823年]])の七十八編では「''とぼされもせず持ち上げるとうほ仏''」、文政8年([[1825年]])の八十七編では「''燈籠仏何の願ひか後家もちあげ''」がある<ref name="#23">石川(1998)、p.51</ref>。
 
また、[[文政]]8年([[1825年]])に発演された[[鶴屋南北]]『[[東海道四谷怪談]]』の除幕における台詞に燈籠仏が登場する<ref name="#23"/>。除幕では薬売りの'''直助'''が主人公・'''お岩'''の妹・'''お袖'''を恋慕し、身分違いのお袖を口説く<ref name="#23"/>。お袖は[[身分]]の軽重を問題にするが、これに対する直助の台詞に「''何だナ、軽い重いのと、灯籠仏様へ願かけでもしやアしまいし''」と「灯籠仏」が登場する<ref name="#23"/>。この台詞は、役者も意味を理解せずに使用していたという<ref>石川(1998),p.51</ref>。
 
燈籠仏は歌舞伎や川柳において登場することから江戸においても知名度があり、その背景には江戸における出開帳があったと考えられている<ref name="#23"/>。江戸における燈籠仏の出開帳は記録に残る限りでは明暦2年([[1656年]])、享保7年([[1722年]])、宝暦元年([[1751年]])、文化12年([[1815年]])、[[天保]]7年([[1836年]])の五回が確認されている<ref name="#23"/>。また、嘉永元年([[1848年]])の「燈籠尊御参内御上京之記」(『善光寺文書』)では、これとは別に幕末には毎年江戸や[[京都]]における[[開帳]]が行われてたことが記されている<ref name="#23"/>。
 
地元においても天保6年([[1835年]])の「甲府柳町始の燈籠仏御開帳御通達にかかる回状」(「甲州文庫」)等によれば、幕末には甲斐国内においても出開帳が行われていた<ref name="#23"/>。また、幕末期に[[甲州弁]]で記された[[俳書]]「''へえけえ一分集へえだああら百韻''」では「''燈籠仏う持ち挙げてみず''」と詠まれている<ref>石川(1998)、pp.51-52</ref>。
 
=== 燈籠仏の衰退 ===
明治6年([[1873年]])10月18日には山梨県令・[[藤村紫朗]]が教部省に稟議(りんぎ)し、山梨県庁から「山梨郡善光寺燈籠仏を以って吉凶禍福を卜するを禁ず」の通達が出され、燈籠仏を用いた占いが禁止される<ref name="#22"/>。
 
県の通達により燈籠仏の信仰は衰微し、[[1903年]](明治36年)の佐野通正編『甲斐繁盛記』では燈籠仏を本尊の別称と記している<ref name="#22"/>。一方で、[[1897年]](明治30年)に甲府市[[酒折]]に築かれた[[庭園]]「[[不老園]]」では、成否を燈籠仏によって占ったという<ref>不老園内の口碑に拠る、石川(1998)、p.52</ref>。[[1919年]](大正8年)には[[土屋操]]が『甲斐史蹟』において、明治39年の内務省による古社寺保存会の宝物調査で燈籠仏の開封が行われたと記している<ref>石川(1998)、pp.52 - 53</ref>。
 
[[1925年]](大正14年)には山梨県立第一高等女学の[[校友会誌]]『松のしらべ』において燈籠仏の伝承が記されている<ref name="#24">石川(1998)、p.53</ref>。[[1936年]](昭和11年)には[[土橋里木]]が『続甲斐昔話集』において燈籠仏の伝承を記している<ref name="#24"/>。土橋は同書いおいて甲州弁では頑固者の意味で「燈籠仏」が用いられたとしている<ref name="#24"/>。
 
== 美術における甲斐善光寺 ==
=== 歌川広重「甲州日記」 ===
江戸後期の[[天保]]12年([[1841年]])には浮世絵師の[[歌川広重]]が[[甲府道祖神祭礼]]の幕絵制作のため甲府城下を訪れ、甲府近郊・甲斐名所の[[スケッチ]]を行う。広重の甲州滞在記である『[[甲州日記]]』にはこの時のスケッチが数多く含まれ、「旅中、心おほえ」の十八丁・十九丁には甲斐善光寺のスケッチが存在する。
 
右頁には甲斐善光寺の全景が描かれ、左頁には11月分の10日間の日記が始まる。画中には「カラカネヌレ仏」「善光寺」「敷石山丁程」「両側塔中」「四方ハフツクリ(破風造)」と善光寺式の建築様式の特徴が記されている。[[太田記念美術館]]所蔵の『江戸近郊図写生帖』にも類似したスケッチがある。
 
=== 三代豊国「甲州善光寺境内之図初午」 ===
==== 「初午の図」の概要 ====
[[歌川国貞|三代歌川豊国]]([[1786年]] - [[1865年]]、国貞)には甲斐善光寺を描いた三枚続きの[[美人画]]『'''甲州善光寺境内之図初午'''』(初午の図)がある。後述の甲府市個人所蔵本では、出版元は[[地本問屋]]の柴明神前・和泉屋市兵衛、[[署名]]は「左図・右図に「香蝶楼豊国画」、中央図には「一陽斎豊国画」。年代は豊国の改名時期と伝来した甲府市個人家の画帳扉裏に「[[嘉永]]4年([[1851年]])」とあることから、同年と[[天保]]15年(=弘化元年、[[1844年]])の間と推定され<ref>野口二郎『甲斐拾遺』</ref>、さらに「衣笠」「浜」の[[改印]]の使用時期から弘化4年([[1847年]])から嘉永5年([[1852年]])の間と推定されている<ref>石川(1993)、p.2</ref>。
 
== 来歴 ==
山梨県内では[[1938年]](昭和13年)に「峡中浮世絵展」に甲府市の個人所蔵本が出展され、郷土史家の[[野口二郎 (甲府市長)|野口二郎]]により紹介される。戦後には[[1967年]]([[昭和]]42年)には郷土史家の[[上野晴朗]]も同じ甲府市個人所蔵本を『甲州風土記』で紹介している。伝本は甲府市所蔵本のほか、[[国立劇場]]に中央図を欠いた左図・右図があるほか、[[山梨県立博物館]]所蔵本もある。なお、[[静嘉堂文庫]]・[[紙の博物館]]所蔵本では表題を「'''王子稲荷初午祭ノ図'''」と改め、[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[岸町 (東京都北区)|岸町]]の[[王子稲荷神社]]を描いた図としている。
創業当初は[[モデルエージェンシー]]としてスタートしたが、[[立河宜子]]が[[クラリオンガール]]に選ばれたのをきっかけに[[タレント]]志向を強化。その後も[[小橋めぐみ]]、[[鮎河ナオミ]]などの人気タレントを多数輩出。1999年から2003年ごろまでは毎年夏にオーディションを兼ねたイベントを開催していた。
 
その後、[[中島礼香]]の引退や小橋、鮎河などの主要タレントが相次いで離脱。その後[[平子理沙]]、[[前田つばさ]]の移籍加入などが発表された。
==== 三図の描写 ====
三図にはそれぞれ複数の人物が描かれ、左図には[[婦人]]に従う[[少年]]、中央図には[[娘]]と[[幼児]]、右図には[[虚無僧]]が描かれている。「初午の図」では描かれる人物の衣装がそれぞれ当時の[[歌舞伎]]俳優の意匠を現している点が特徴とされる<ref>石川(1993)、p.4</ref>。左図では[[半天]]姿の[[お歯黒]]を付けた婦人が左を向き、大きな[[絵馬]]を持つ。婦人には「正一位 村田氏」と描かれた[[幟]](のぼり)を担いだ[[片肌脱ぎ]]の少年が従っている。
 
現在は俳優、声優のマネジメントだけでなくインフルエンサーマネジメントも手がけ幅広い分野での活動をサポートしている。
婦人の半天の柄は「括猿(くくりざる)」で、弘化元年に襲名した[[市川小團次 (4代目)|四代目市川小團次]]を現す。少年の着物の柄は「火災宝珠」で、役者ではないが歌舞伎の演目・[[義経千本桜]]において忠信(源九郎狐)が[[狐]]の姿に戻る際の衣装に使用される。婦人の絵馬には川の流れる風景と[[和歌]]「''見はたせば町のかなめの扇橋つゝく柳のみとりうつくし 邯鄲園''」と記されている。石川博は当初、「扇橋」は甲府城下・甲斐国には存在せず、江戸[[深川 (江東区)|深川]](東京都[[江東区]])の[[扇橋]]もしくは江戸王子稲荷付近の[[石神井用水|音無川]]の風景である可能性を想定した<ref>石川(1993)、pp.8 - 9</ref>。その後、郷土史家の[[飯田文彌]](専門は近世史)により『[[裏見寒話]]』巻四に記される連雀町から片羽町に架かる「扇橋」の存在を指摘され、甲府城下の様子を描いた可能性もあると訂正している<ref>石川(1998)、p.54</ref>。作者の「邯鄲園(かんたんその)」については不明。
 
== 所属タレント ==
少年の幟の「村田氏」について、『[[甲府買物独案内]]』では甲府城下において村田(村田屋)を名乗る複数の商家が記録されており、甲府魚町([[甲府市]][[中央 (甲府市)|中央]])の[[書肆]](しょし)・村田屋孝太郎などが知られる。三代豊国は村田屋孝太郎と交流があり、[[安政]]以前に甲府を訪れているとされる。なお、甲府近郊の名所を描いた浮世絵には、甲府市太田町の[[一蓮寺]]を描いた弘化4年([[1848年]])から嘉永5年([[1851年]])の刊行と推定される[[歌川国芳]]『'''甲州一蓮寺地内 正木稲荷之略図'''』があり、同図でも「村田」の語句が記されている。
=== 女性タレント ===
[[ファイル:Kama Wa Nu inverted.jpg|thumb|right|200px|(参考)鎌わぬ]]
*[[生田輝]]
中央図では[[駒下駄]]を履き派手な[[簪]](かんざし)を刺した娘が右向きで幼児を背負う。幼児は小さな絵馬を持ち、絵馬には狐と[[宝珠]]が描かれている。背景には「正一位王子稲荷大明神」の幟が立つ。娘の着物は「鎌の絵」と「○(輪)」と「ぬ」で「かまわぬ」と読む。「かまわぬ」は[[市川團十郎 (7代目)|七代目市川團十郎]]とその一門が用いたもので、江戸市中において[[手ぬぐい]]の模様になるなど流行したという。中央図では「かまわぬ」のほかに「蝙蝠(こうもり)」「瓢箪(ひょうたん)」「牡丹(ぼたん」の模様もあり、これらも同様に團十郎を意味する。婦人・幼児の上部には和歌「''灯籠のみかげもそひて寺の名のよき光りある三つのともし火 吉相廼岡女''」が記される。作者の「吉相廼岡女」については不詳<ref name="#25">石川(1993)、p.10</ref>。「灯籠」は稲荷に奉納される石灯籠のほかに、甲斐善光寺の灯籠仏を指す可能性が考えられている<ref name="#25"/>。
*[[角島美緒]]
*[[妃鳳こころ]]
*[[川口果恋]]
*松本 彩楓
*[[大畑杏雛]]
*柊木みずほ
*平ひなの
*天野依吹
 
=== 男性タレント ===
右図は[[袈裟掛]]、[[深編笠]]に[[尺八]]を持った虚無僧が左を向いている。虚無僧の顔は女性的に描かれ、女虚無僧である可能性も指摘される<ref>石川(1993)、p.3</ref>。虚無僧の[[小袖]]には[[かきつばた]]が描かれ、[[岩井粂三郎]](いわいくめさぶろう)・[[岩井半四郎]]を意味する。同時代には[[岩井半四郎 (8代目)|三代目岩井粂三郎]](八代目岩井半四郎)がいる。
*[[中村龍介]]
*浜崎たつや
*ゆうき
*有村優磨
*[[参川剛史]]
*[[佐々木仁 (俳優)|佐々木仁]]
*井上タケル
 
=== 声優 ===
江戸後期には2月の[[初午]]に稲荷詣りを行う[[稲荷信仰]]が加熱し、特に江戸の王子稲荷の初午の賑いは知られる。甲斐善光寺では現在では初午祭りは廃れているが、[[若尾謹之助]]『甲州年中行事』に拠れば江戸時代には初午の賑いがあり、絵馬の奉納が行われたという。また、三代豊国をはじめ浮世絵師も絵馬を手がけている。
*[[生田輝]]
*星谷実可子
*よしのエイミーウォーカー
 
=== インフルエンサー ===
== 交通アクセス ==
鉄道利用の場合
*[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[中央本線]]の[[酒折駅]]下車、徒歩約15分。
*[[東海旅客鉄道]](JR東海)[[身延線]]の[[善光寺駅]]下車、徒歩約10分。善光寺駅の近くからは全長およそ500メートルの参道が延びている。
自動車利用の場合
*[[中央自動車道]]の[[一宮御坂インターチェンジ]]または[[甲府昭和インターチェンジ]]からが近い。
 
* 2すとりーと
== 拝観 ==
* サメニンジャー
*8:30〜16:30 本堂・宝物館共通500円
* エルビアンTV
* ごめんあそばせ
* くれちゃんねる(Kure-channel)
* 作っちゃお!by なかやまちえこ
* 根本弥生/ねもやよ
* アリムラユマ
 
== かつて所属していたタレント ==
== 参考文献 ==
*[[立河宣子]]         
* 『甲斐路 No.89』山梨郷土研究会、1998年
*[[小橋めぐみ]]
** 笹本正治「戦国大名と善光寺」
*[[鮎河ナオミ]]
** 吉原浩人「『甲斐善光寺縁起』と『善光寺記録』」
*[[坂井ひろみ]]
** 飯田文彌「御開帳とその意味」
*[[中島礼香]]
** 鈴木麻里子「表紙解説」「善光寺如来について」
*[[森瑠花]]
** 石川博「燈籠仏や浮世絵に見る近世の善光寺」『甲斐路 No.89』山梨郷土研究会、1998年
*[[中川愛海]]
** 伊藤裕久「甲斐善光寺境内の建築と町」『甲斐路 No.89』山梨郷土研究会、1998年
*中島知子(オセロ)
* 池享・矢田俊文編『増補改訂版 上杉氏年表 為景・謙信・景勝』高志書院、2007年(初出は2003年)
*[[KING (アイドルグループ)|KING]]
** 片桐昭彦「武田信玄と上杉謙信」
*[[平子理沙]]
* 石川博「三代豊国の「初午の図」をめぐって」『甲斐路 No.77』山梨郷土研究会、1993年
*[[長谷川理恵]]
* [[笹本正治]]「善光寺の甲斐移転『山梨県史』山梨県、2007年
*[[岡山外潤]]
* 柴辻俊六「鏡空上人」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
*[[西村紗也香]]([[toutou]])
* 柴辻俊六「西誉空遠」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
*[[西村麻理香]](toutou)
* 鈴木将典「栗田永寿(初代)」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
*[[川村亜紀]]
* 中山誠二・沓名貴彦・近藤暁子「善光寺阿弥陀三尊像の脇侍像にみる像内納入鏡」『山梨県立博物館 研究紀要 第1集』山梨県立博物館、2007年
*[[椋名凛]]
* [[吉原浩人]]『ものがたり甲斐善光寺』戎光祥出版,2003.
*[[松本千明]]
*[[長谷川桃]]
*[[上口耕平]]
*[[柳田衣里佳]](引退)
*[[前川笑理]]
*[[義達祐未]](引退)
*[[松本美姫子]]
*[[増田葵]]
*[[小橋宏美]]
*[[林裕子]](引退)
*[[髙橋蘭]](引退)
*[[渡辺大貴]]
*[[伊澤麻璃也]]
*[[雨野美咲]](引退)
*[[蒲生麻由]]
*[[橘杏]]
*[[白井那奈]]
*桂亜沙美
*[[よっこ]]
*[[桜井千寿]]
*[[雪中梨世]]
*[[渡邊さくら]]
*[[生澤芹夏]]
*[[古屋舞華]]
*[[鈴丘めみ]]
*[[森香]]
*[[西村そら]]
*[[小林結衣]]
*[[山崎詩乃]]
*[[小田彩央怜]]
*[[谷田貝京子]]
*[[上野裕子]]
*[[西川風花]]
*[[脇村杏奈]]
*[[朝岡亜美]]
*[[秦野萌希]]
*[[山崎詩乃]]
*[[市井優]]
*[[村上友愛]]
*[[髙尾光]]
*[[ちゃき]]
*[[西村由花]]
*[[長倉正明]]
*[[田上晃吉]]
*[[伊藤竜翼]]
*[[椎名敦士]]
*[[柴田義之]]
 
== 脚注特徴 ==
*[[男性]][[タレント]]に比べて、[[女性]]タレントのほうが多い。
{{脚注ヘルプ}}
*募集しているタレントは、男女共に8歳から20歳までの若手が中心である。
{{Reflist|30em}}
 
== 関連項目会社 ==
* [[日本の寺院一覧]]
* [[:Category:日本の寺の画像|日本の寺の画像一覧]]
* [[甲斐国の仏教]]/[[甲斐百八霊場]]
* [[善光寺 (諏訪市)]] - 諏訪市・善光寺(長野県内の善光寺3ヶ寺の1つ)。
* [[善光寺縁起]]
 
== 外部リンク ==
*[https://www.queens-ave.com/ クィーンズアベニュー公式ホームページ]
{{Commonscat|Kai Zenkoji}}
* {{Official website|http://www.kai-zenkoji.or.jp/}}
*[https://www.city.kofu.yamanashi.jp/senior/bunkazai/003.html 善光寺] - 甲府市
*[https://www.youtube.com/watch?v=2INuZ8jfBQM Kai Zenkoji Temple / 甲斐善光寺 4K] - 甲斐善光寺協力の動画
 
{{Buddhism2company-stub}}
 
{{DEFAULTSORT:くいいんすあへにゆうあるふあ}}
{{Normdaten}}
[[Category:日本の芸能プロダクション]]
{{DEFAULTSORT:かいせんこうし}}
[[Category:浄土宗渋谷区寺院企業]]
[[Category:甲府市の寺]]
[[Category:甲府市の重要文化財]]
[[Category:重要文化財 (建造物)]]
[[Category:江戸時代の建築]]
[[Category:山梨県指定有形文化財]]
[[Category:山梨県内の市町村指定有形文化財]]
[[Category:美人画]]
[[Category:武田信玄]]
[[Category:甲斐百八霊場]]