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| Background = singer
| Birth_name = {{ruby|丸山寺田 臣吾|まるやまてらだ しんご}}(幼名)
| Alias = {{ruby|丸山 臣吾|まるやま しんご}}(幼名){{ruby|丸山 明宏|まるやま あきひろ}}(本名及び旧芸名)
| Blood = [[ABO式血液型|A型]]
| School_background = 海星中学校
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'''美輪 明宏'''(みわ あきひろ、[[1935年]]〈[[昭和]]10年〉[[5月15日]]<ref name="meiyo"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=M93-3249|title=美輪明宏|publisher=日本タレント名鑑|accessdate=2025-09-08}}</ref> - )は、[[日本]]の[[歌手]]。[[俳優]]・[[演出家]]・[[タレント]]・[[声優]]・[[コメンテーター]]・[[ナレーター]]としても活動している。
 
[[長崎県]][[長崎市]]出身。本名及び[[1971年]]までの芸名は丸山 明宏(まるやま あきひろ)、幼名は臣吾(しんご)。[[愛称]]はマルさん。
 
[[海星中学校・高等学校 (長崎県)|海星中学]]を経て[[国立音楽大学附属中学校・高等学校|国立音楽大学附属高校]]中退した。兄と姉と弟のいる五人兄弟の次男。自らの個人事務所である「株式会社オフィスミワ」所属。身長161[[センチメートル|cm]]。
 
== 略歴 ==
=== 長崎時代(1935年5月15日- 1951年) ===
[[1935年]]([[昭和10年]])[[5月15日]]([[水曜日]])、長崎県長崎市で、寺田作一・ヌメの間に、5人兄弟の次男として誕生する。出生名は寺田臣吾だった。母の実家の跡継ぎとして養子に出され、「丸山臣吾」へと改姓する<ref name=":0">{{Cite web |url=http://www.relnet.co.jp/izuo/kinenko/kinenko19.htm |website=www.relnet.co.jp |access-date=2024-09-03 |title=金光教創立七十五周年記念婦人大会 記念講演  △▼  「ほほえみ」と共に生きる}}</ref><ref>{{Cite web |title=美輪明宏の「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 長崎花街「丸山遊郭」近くにあった生家のカフェ「世界」の隣は芝居小屋「南座」、向いには「近江屋楽器店」と「美術骨董屋」 - 人はどのように「成長」するのか 「心の樹-マインド・ツリー」という方法とアプローチ |url=https://syncrokun2.hatenadiary.org/entry/20101217/1292613582 |website=人はどのように「成長」するのか  「心の樹-マインド・ツリー」という方法とアプローチ |date=2010-12-16 |access-date=2024-09-03 |language=ja |last=syncrokun2}}</ref>。
[[1935年]]([[昭和10年]])[[5月15日]]([[水曜日]])、[[長崎県]][[長崎市]]において、丸山作一・ヌメの間に、5人兄弟の次男として誕生する。
 
美輪の実家は、長崎市内の「[[丸山 (長崎市)|丸山遊廓]]」と呼称された[[遊廓]]の近くで、「世界」という名前の[[カフェー (風俗営業)|カフェー]]や[[料亭]]を経営して成功を収めており、経済的に豊かな環境で育った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asagei.com/excerpt/10818|title=美輪明宏、初体験の相手は「先輩の男子」|publisher=asagei|data=2012-12-11|accessdate=2020-11-25}}</ref>。当時の長崎は[[1941軍国主義]]前で、[[モダニズム]]が世の中を支配していた時代であった。400の歴史のある長崎は、[[オランダ]]、[[ポルトガル]]12月、[[イギリペイン]][[アメイギカ合衆国]]との戦争体制に入った中で父親は「敵性文化商売にする事時局にそぐわぬ」と言われてじめやむ無くカフェーを閉店せざるを得[[中国]]・[[朝鮮人]]ど多様[[人種]]が住んでお、金融業に転業する[[人種差別]]など皆無であった<ref name="red"/>
 
実家は、料亭やカフェーのほか[[風呂屋]]も経営していた。家庭風呂などない時代であり、良家の者も風呂屋に通っていた。立派な身なりの人が[[コート]]からだんだん脱いでいって、さぞかし立派な裸だろうと想像していたら、気の毒なほど貧相な体であったり、逆に[[労働者]]が臭うような[[野良着]]を着て堂々と入ってきたが、ところが裸になると[[アリスティド・マイヨール|マイヨール]]の[[彫刻]]のような素晴らしい体をしていた。それを見た美輪は、「着るものなど嘘っぱちじゃないの!この裸のままが本当の人間なんだ」と感じ、それ以降、人を見るときに[[容姿]]、[[容貌]]、[[年齢]]、[[性別]]、[[国籍]]、着ているもの、持っているものなど目に見えるものは見なさんな、見えないものを見る、それは心だ!そういう意識が幼心に芽生えた<ref name="red"/>。
[[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月9日]]、雲1つない快晴の日、長崎県長崎市本石灰町にある自宅において、当時10歳の美輪は窓際で夏休みの宿題に[[御伽草子]]の「[[万寿姫]]」の絵を描いていた。絵の仕上がりを確認するため、2、3歩後方に下がった時、何千もの[[マグネシウム]]を焚いたような白い光をみた。その直後に、激しい爆発音が聞こえ、家がぐらぐら揺れて傾いた。それは[[原子爆弾]]によるものであった([[長崎市への原子爆弾投下]])。女中に促され2人で布団をかぶるとすぐさま[[空襲警報]]が鳴りだし、その後爆風で机の下に飛ばされていた兄を起こして、3人で防空壕に向かった<ref name="yomiuri">[[讀賣新聞]][[2015年]][[8月9日]]「戦後70年あの夏9」美輪明宏</ref>。6日後の終戦の日に爆心地近くにあった生母の実家へ祖父母を1人で探しに行き、惨状を目の当たりにする<ref group="注釈">2005年のNHKの番組『[[あの日 昭和20年の記憶]]』に被爆者の一人として、インタビューイとして出演した。1945年8月9日の被爆から6日後の同年8月15日に、カフェを営んでいる実家に戻ると店先に水を求めてきた瀕死の被爆者らが押し寄せて、一家総出で水を与えたと証言している。とりわけ女性の被爆者に水を与えたところ、幼い自分を拝んでその死んだ女性の姿に言及すると、涙ぐみ、「まさに地獄ですよ」と、語った。</ref><ref group="注釈">朝日新聞の『祈り ナガサキノート2』では「あの地獄のような光景が私の歌づくりの原点になっています」と語り(これは同書の帯に使用された)、赤子を抱えた母親の死体を見て、美輪の作品のテーマのひとつである「無償の愛」を知ったという。</ref>。
 
カフェーではありとあらゆる人が[[身分]]を隠して来ていたが、そこには[[神父]]もいれば[[教師]]や[[政治家]]もいて、はじめは紳士然としていても酔うほどに正体を現して、[[ホステス]]の[[スカート]]の下や[[着物]]の[[裾]]から手を入れたり頭を突っ込んだりしてひっぱたかれ、頭から酒をかけられてニヤニヤしていたが「この人の昼間の顔何なの?<ref name=":0" />これが本当の姿なんだ」と、ものを見る目がそうなってきたため、心が揺るがなくなった<ref name="red">{{Cite web|date=|url=https://www.youtube.com/watch?v=MnVG9u4NR-I|title=美輪明宏】「 目に見えるものは見なさんな」完全版|publisher=RED Chair|accessdate=2024-7-21}}</ref>。[[1941年]]12月、[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国]]との戦争体制に入った中で父親は「敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」と言われて、やむ無くカフェーを閉店せざるを得なくなり、金融業に転業する。
原爆により、父の貸付先が相次いで破産・他界したため、返済を受けられなくなった美輪一家は貧乏生活を余儀なくされた。その前に美輪の父の後妻が他界しており、父の後々妻も失踪する等の不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と辛い日々を送ることとなった。
 
[[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月9日]]、雲1つない快晴の日、長崎県長崎市本石灰町にある自宅において、当時10歳の美輪は窓際で夏休みの宿題に[[御伽草子]]の「[[万寿姫]]」の絵を描いていた。絵の仕上がりを確認するため、2、3歩後方に下がった時、何千もの[[マグネシウム]]を焚いたような白い光をみた。その直後に、激しい爆発音が聞こえ、家がぐらぐら揺れて傾いた。それは[[原子爆弾]]によるものであった([[長崎市への原子爆弾投下]])。女中に促され2人で布団をかぶるとすぐさま[[空襲警報]]が鳴りだし、その後爆風で机の下に飛ばされていた兄を起こして、3人で防空壕に向かった<ref name="yomiuri">[[讀賣新聞]][[2015年]][[8月9日]]「戦後70年あの夏9」美輪明宏</ref>。6日後の終戦の日に爆心地近くにあった生母の実家へ祖父母を1人で探しに行き、惨状を目の当たりにする<ref group="注釈">2005年のNHKの番組『[[あの日 昭和20年の記憶]]』に被爆者の一人として、インタビュとして出演した。1945年8月9日の被爆から6日後の同年8月15日に、カフェを営んでいる実家に戻ると店先に水を求めてきた瀕死の被爆者らが押し寄せて、一家総出で水を与えたと証言している。とりわけ女性の被爆者に水を与えたところ、幼い自分を拝んでその死んだ女性の姿に言及すると、涙ぐみ、「まさに地獄ですよ」と、語った。</ref><ref group="注釈">朝日新聞の『祈り ナガサキノート2』では「あの地獄のような光景が私の歌づくりの原点になっています」と語り(これは同書の帯に使用された)、赤子を抱えた母親の死体を見て、美輪の作品のテーマのひとつである「無償の愛」を知ったという。</ref>。
 
原爆により、父の貸付先が相次いで破産・他界死去したため、返済を受けられなくなった美輪一家は貧乏生活を余儀なくされた。その前に美輪の父の後妻が他界死去しており、父の後々妻も失踪する等の不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と辛い日々を送ることとなった。
 
終戦後、自身が鑑賞した映画に出演していた[[加賀美一郎]]の[[ボーイソプラノ]]に衝撃を受け、程無くして、声楽とピアノのレッスンを受け始める。海星中学校では、同期に[[西岡武夫]]がいた。
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=== 歌手 丸山明宏 ===
[[File:Forty-years-of-Showa-era-3.png|thumb|left|250px|[[日本劇場]]で「[[メケ・メケ]]」を歌う美輪]]
[[エンリコ・カルーソー]]や[[ベニャミーノ・ジーリ]]の様な[[オペラ]]歌手、コンサート歌手を夢見て、[[1951年]]の春、15歳の美輪は国立音楽高等学校(現在の[[国立音楽大学附属中学校・高等学校|国立音楽大学附属高等学校]])に進学するため上京する。ある時この頃帰省した際音楽学校の教員の勧めで「丸山明宏」改名する。このことについて美輪は「[[SmaSTATION!!]]」内で「小さい頃から家の周りにメイドさんがいろいろいたんだけどその人たち生活占い苦し好きだったのね。で、行と『この子は不幸子で…』た親戚に対し無情に見捨てるよな態度をとのが全部当たったことわけ。『東京激怒し出て大喧嘩散々苦労した。父から絶縁を挙句、野垂れ死にする』ってい渡さ仕送りも全部然ながら止められったわけ美輪は東京で自活する死ぬ、っていうことだけが当めに高等ってないだけで。そのときの私の音楽学校を中退、の先活費が、姓名判断稼ぐたてくれて、『丸山明宏』進駐軍のキャンプ廻りを替わったわけ。」と述懐して歌を披露したいる<ref>{{Cite web |title=SmaSTATION-6 |url=https://www.tv-asahi.co.jp/ss/228/special/top.html |website=www.tv-asahi.co.jp |access-date=2024-09-03}}</ref>2015年時点で「芸歴64年なお1951年(昭和26年)に進駐軍キャンプ廻りでジャズを歌いギャラを頂改名につては霊理学派姓名研究会の伊藤晴康の鑑定に従っいう説もあるプロとしての始ま真偽は定かでない<ref>{{Cite web |title=『美空ひば丸山明宏の二が語の名付け親となている。新宿駅で寝泊りしてた演出家がいた時期もある! #シャンソン』 |url=https://ameblo.jp/jean-marie-v/entry-12817210231.html |website=シャンソンとフランス語と |access-date=2024-09-03 |language=ja}}</ref>
 
ある時、帰省した際に、父が生活が苦しくなった親戚に対して無情に見捨てるような態度をとったことに激怒し、大喧嘩した。父から絶縁を言い渡され、仕送りも当然ながら止められた。美輪は東京で自活するために高等学校を中退し、生活費を稼ぐために進駐軍のキャンプ廻りをして歌を披露した。2015年時点で「芸歴64年、1951年(昭和26年)に進駐軍のキャンプ廻りでジャズを歌いギャラを頂いたことがプロとしての始まり」と本人が語っている。新宿駅で寝泊りしていた時期もある。
 
[[1952年]]、17歳になった美輪は、ゲイバーやバーテンなどのアルバイトにも従事して日当を稼いでいた。その頃、[[銀座]]7丁目にある[[シャンソン]]喫茶「[[銀巴里]]」([[1951年]] - [[1990年]])で美少年([[給仕|ボーイ]])兼歌手募集の張り紙広告を見て応募した。シャンソン喫茶「銀巴里」と歌手として専属契約を交わし、国籍・年齢・性別不詳として売り出す。次第に人気を博し、[[三島由紀夫]]、[[吉行淳之介]]、[[野坂昭如]]、[[大江健三郎]]、[[中原淳一]]、[[遠藤周作]]、[[寺山修司]]、[[なかにし礼]]等、文化人の支持を得る。歌手としての道を歩み始めた頃、父は事業に失敗し、美輪のもとを訪ねて金の無心をしてきた。かつての、父の親戚への無情な仕打ちと同じことを美輪が出来るはずもなく、かといって父を許せない気持ちが消えるはずもなかったが、兄弟の生活を守るために美輪は銀巴里での歌手活動とは別にアルバイトと称してキャバレーや進駐軍キャンプで歌った。
 
[[1957年]]、シャンソン「[[メケ・メケ]]」を日本語で[[カバー]]し、艶麗な容貌で、シャンソンを歌い上げ、一躍人気を博す。[[元禄]]時代の[[小姓]]衣装を洋装に取り入れ、[[レース (手芸)|レース]]地のワイシャツ等を身に纏い[[ユニセックス]]ファッションと<ref group="注釈">「衣装革命」と称し、着飾ったが、この前衛的な美輪の活動も、保守的であった世間からは冷遇され、「丸山明宏を芸能界から追放せよ」と言った内容の批判記事が、全国紙に掲載されたり、見知らぬ人から、石やビール瓶の蓋を投げ付けられた事もあった。</ref>、三島由紀夫が「天上界の美」と絶賛した美貌で、[[マス・メディア]]から「[[神武景気|神武以来]]の美少年」、「シスターボーイ」と評され一世を風靡する<ref name="bijo2">「第二章 天上界の麗人 美輪明宏」({{Harvnb|岡山|2016|pp=55-94}})</ref>。同じ、1957年製作の映画『[[暖流 (小説)|暖流]]』([[増村保造]]監督。[[大映]])に歌手として出演している。
 
「メケメケ」以来のブームは、1年程で沈静化した。その間に、週刊誌にて、自身が[[同性愛者]]である事を公表したことや、旧来のシャンソンのイメージ(美輪曰く「蝶よ花よ、星よ月よに終始する“おシャンソン”」)に無い、自ら和訳した生々しい内容のシャンソンを歌唱した事に対する反発もあり、人気は急落する。そんな逆風の中、作詞・作曲活動を開始した。今もって美輪の主要なレパートリーとなっている「うす紫」、「金色の星」、「ふるさとの空の下」等の音楽作品は、この頃、既に作詞・作曲していた。しかし、その活動は当時の聴衆からも歌謡界からも理解を得られず、レコード化すらできなかった。美輪曰く「人様の情けに生かされた」不遇の時代が続くと共に、吐血等の[[原爆症]]に悩まされ始める事になる。
 
しかし、[[1963年]]には、[[中村八大]]らの助力により日本初となる全作品、自らの作品によるリサイタルを開催した翌、[[1964年]]には、「[[ヨイトマケの唄]]」を初めてステージで披露する。[[1966年]]、前年の内にレコード化された「ヨイトマケの唄」(「ふるさとの空の下で」とのカップリング)が注目され、人気が再燃する。
 
=== 俳優 丸山明宏 ===
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[[1968年]]、自叙伝『紫の履歴書』を発表する。(初版は大光社より)
 
[[江戸川乱歩]]原作、三島由紀夫脚本の舞台作品『[[黒蜥蜴#戯曲版|黒蜥蜴]]』に主演して以降も、『[[椿姫 (小説)|椿姫]]』、『[[マタ・ハリ]]』、[[ジャン・コクトー]]原作『[[双頭の鷲 (戯曲)#日本語版|双頭の鷲]]』といった舞台や『[[黒薔薇の館]]』、『[[雪之丞変化]]』等の映画・テレビドラマでの主演を続ける。また、[[1970年]]からは、[[TBSラジオ]]「[[ズバリ快答!テレフォン身の上相談|ラジオ身の上相談]]」を担当し、芸能人が担当する人生相談としては、異例の25年という長期に渡り続いた。
 
=== 美輪明宏への改名と体調の悪化 ===
[[1971年]]、三島由紀夫の供養のための読経中に『美輪』の字が浮かび、「生前三島氏が三輪神社で修行しいたことに気づき神が与えてくれた名前だ」と思い、姓名判断を調べると、完全無欠な画数だったため、丸山明宏から美輪明宏に改名した<ref>美輪の著書『霊ナァンテコワクナイヨー』(2004年)にて、記述</ref>。「女優引退宣言」(女性役を演じなくなるので、当時こう表現された)を行い、歌手活動に専念する。銀巴里や[[渋谷ジァン・ジァン]]でのライヴや全国各地でのリサイタルを精力的に行い、『[[白呪]]』(1975年)等のアルバムも多数発表した。また、男性役では、映画([[1977年]] [[井上ひさし]]原作『[[日本人のへそ]]』)やドラマ([[1976年]]『さくらの唄』)に出演している。
 
[[1978年]]『[[枯葉の寝床]]』(原作 [[森茉莉]])で舞台活動を再開するが、幼い頃より[[中華料理]]や[[イタリア料理]]、[[肉料理]]中心で食生活を過ごしてきたことによる影響が出始める。この頃より[[慢性気管支炎]]も発症、年々悪化していく。俳優、歌手活動に支障を来たし始め、トークショー等のテレビ出演を控える様になる。しかし、その後も演劇では、[[1979年]]に[[エディット・ピアフ]]の生涯を描いた、自作自演となる『[[愛の讃歌]]』を初演したり、[[1980年]]のTVアニメ「[[メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行]]」では夜の女王役を演じている。
 
[[1983年]]には、舞台『[[毛皮のマリー]]』や『青森県のせむし男』を再演した。更に[[1984年]]には、『双頭の鷲』を再演するが、体調は悪化する一方で、[[1985年]]の『[[大典礼]]』(原作・演出 [[フェルナンド・アラバール]])を最後に[[1993年]]の『黒蜥蜴』再演まで舞台から遠ざかった。この頃の通院時に医師からは「3月の命かもしれない」と告げられたこともあったと[[1989年]][[3月6日]]に出演・放送された「[[笑っていいとも!]]・[[テレフォンショッキング]]」で明かしている。
 
歌手としては、[[1984年]]にパリで、[[1987年]]には、パリ、[[マドリード]]、[[シュトゥットガルト]]でリサイタルを開催し、『[[ル・モンド]]』、『[[リベラシオン]]』を始め多数の新聞・雑誌に紹介・絶賛された。また、[[1986年]]からは[[PARCO劇場]]でのロングリサイタルが開始され、それ以外にも、全国各地でのリサイタル公演を開催し、舞台に立てなくなった後も切れ目なく活動を続けた。
 
[[1990年]]、[[東京芸術劇場]]の[[こけら落し]]公演『[[マリー・ローランサン]]』を演出した。この時、既に『黒蜥蜴』再演の企画は持ち上がっていたが、体調面から断念している。また、この年、40年近く唄い続けて来た銀座のシャンソン喫茶店・銀巴里が閉店となり、美輪は最後の日の「さよならコンサート」で自ら作詞作曲した『いとしの銀巴里』を涙ながらに歌い上げた。この模様を各メディアは挙って大きく報じ、また翌[[1991年]]の映画『黒蜥蜴』のニューヨークでのヒットなども重なり、美輪が曰く、この頃から、「メケメケ、ヨイトマケ、黒蜥蜴に続く四回目のブーム」の時期が訪れ、テレビやCM等への出演が増えた。
 
=== 黒蜥蜴再演 ===
[[1993年]]、1985年の『大典礼』以来、舞台に立てない程に悪化していた持病が、前年に奇跡的に完治した事で、24年ぶりに待望の『黒蜥蜴』を再演<ref group="注釈">『黒蜥蜴』の再演は93年以来[[1994年]]、[[1997年]]、[[2003年]]、[[2005年]]と続けられている。</ref>。前売りのチケットは発売日当日に完売する等、世間から脚光を浴びた。また、この再演時には、自ら主演、演出、美術、衣装、選曲を担当した。以降、上演される舞台は、1994年、1996年の『[[毛皮のマリー]]』以外、全て美輪自身の演出となった。自身が、大道具、小道具、美術・衣装・選曲を務める事が多く、脚本・振り付けを担当した作品(美輪明宏版「椿姫」)や原作まで担当した作品(「愛の讃歌」)もある。
 
[[1994年]]には、海外から演出、照明、音楽等、当代一流のスタッフを招き、舞台『[[毛皮のマリー]]』を再演した。この形式は、[[1996年]]の再演時にも継承されるが、美輪曰く「演出があんまりひどい時は、私が手直しした」との事で、結局、[[2001年]]の再演では、自ら演出する事となる。キャストも美少女を含め、全員男性で演じる本来の形式に戻された。
 
[[1996年]]、三島由紀夫が30年来熱望していた美輪演出・主演による『[[近代能楽集]]より、[[葵上 (戯曲)|葵上]]・[[卒塔婆小町 (戯曲)|卒塔婆小町]]』を上演した。三島を歓喜させた当初のプラン通り、葵上では、舞台デザインに[[サルバドール・ダリ]]と[[尾形光琳]]を取り入れ、音楽は、武満徹の『[[ノヴェンバー・ステップス]]』を取り入れ、99歳の老婆から19歳の美女への早替り(卒塔婆小町)など趣向を凝らした舞台となる。また、その年の秋には『愛の讃歌』を17年ぶりに再演した。
 
===声優としても活動===
[[1997年]]、13年ぶりの『[[双頭の鷲 (戯曲)#日本語版|双頭の鷲]]』再演で[[読売演劇大賞]]優秀賞を受賞した。宮崎駿監督アニメーション映画『[[もののけ姫]]』では、山犬神、モロの君の役で[[声優]]を務め、[[東京スポーツ映画大賞]]助演男優賞を受賞する。「黙れ小僧!」は特に印象的な台詞として多くの人に記憶された。
 
[[1998年]]には、『葵上・卒塔婆小町』を再演、秋には[[デュマ・フィス]]原作「美輪明宏版 [[椿姫 (小説)|椿姫]]」を30年ぶりに再演する。この年2本の芝居を上演したのを最後に、翌年の『双頭の鷲』以降、舞台作品は年1本の上演ペースとなる。一方、美輪が舞台活動を再開した1993年以降、芝居のスケジュールとの調整が必要となり公演がない年(1996、1997年)もあった[[PARCO劇場]]でのロングリサイタルは1998年以降「音楽会」と名を改め、毎年行われる様になる。以来、美輪のステージは春先の芝居、秋の音楽会で定着した。
 
[[2000年]]、銀巴里閉店後、唯一のライブ活動の場となっていた渋谷ジァン・ジァンが閉場となり、2000年3月29日が美輪のジァンジァンにおけるラストライヴとなった(閉場は2000年4月25日)。そして、エディット・ピアフの生涯を描いた舞台『エディットピアフ物語愛の讃歌』を上演した。また、この年、アルバム『[[白呪]]』が再発売される。[[桑田佳祐]]が[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系『[[桑田佳祐の音楽寅さん]]』内で『[[ヨイトマケの唄]]』を歌ったのもこの年である<ref group="注釈">[[2002年]]11月に発売された桑田のベストアルバム『[[TOP OF THE POPS (桑田佳祐のアルバム)|TOP OF THE POPS]]』には[[2000年]]11月30日 - 12月2日に[[パシフィコ横浜]]国立大ホールで行われたライブ「桑田佳祐が選ぶ20世紀ベストソング」からのライブテイクによる「ヨイトマケの唄」が収録されている。これ以降も[[槇原敬之]]や[[米良美一]]を始めとして、多くのアーティストによる優れたカバーが発表されている。長く放送自粛となっていた民放各局(NHKでは自粛対象ではなかった)で放送される機会も増え、美輪自身も[[2006年]][[4月14日]]放送の[[テレビ東京]]『[[たけしの誰でもピカソ]]・祝400回スペシャル』内でこの曲の誕生秘話を語り、フルコーラスを歌っている。</ref>。
 
[[2002年]]に芸能生活50周年を迎える。この年には、三島由紀夫の三十三回忌に際して、『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』を再演している。(相手役は[[宅麻伸]])
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[[2005年]]には、テレビ番組『[[オーラの泉]]』が始まり、「愛の伝道師」として出演している。
 
[[2006年]]、美輪明宏原作、演出、美術、衣装、主演、舞台『エディットピアフ物語愛の讃歌』を再演した
 
[[2007年]]、美輪明宏携帯サイト「美輪明宏 麗人だより」を開設した
 
[[2009年]]、[[劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド&パール アルセウス 超克の時空へ]](劇場版ポケモン第12弾)で[[アルセウス]]を演じる。
 
[[2010年]]、三島由紀夫原作の舞台『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』を再演した。(相手役は木村彰吾、[[岩田知幸]])
 
[[2012年]]、『[[第63回NHK紅白歌合戦]]』に初出場を果たし、「[[ヨイトマケの唄]]」を歌った。77歳での『[[NHK紅白歌合戦]]』初出場は史上最年長で、デビュー60年での初出場も史上最長記録である。歴代出場者全体の年齢から見ても、[[1989年]]の『[[第40回NHK紅白歌合戦]]』に満78歳で出場した[[藤山一郎]]に次ぐ歴代2位<ref>[https://web.archive.org/web/20121209033610/http://mainichi.jp/sponichi/news/20121127spn00m200019000c.html 紅白:77歳・美輪明宏、歴代最高齢初出場「桃色組で出ます」2012年11月27日]</ref>。
 
[[2013年]][[1月24日]]発売の「[[週刊文春]]」で、約8年前に自身の個人事務所「オフィス・ミワ」社長と[[養子縁組]]している事が報じられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20130124-1075839.html|title=美輪明宏に養子がいた「事実です」|publisher=nikkansports.com|date=2013-01-24|accessdate=2013-03-12}}</ref>。美輪の17歳年下で、文学座の研究生だった17歳の頃、美輪の付き人が辞めることとなり、知人の紹介で付き人となって以来、身の回りの世話をするようになった。その後は『青年座』や『青俳』などに在籍、NHK大河ドラマ『[[黄金の日日]]』にも出演経験があり、声優としても活動していた(芸名:藤堂貴也)。「オフィス・ミワ」前社長が高齢のため退任した後、社長に就任し名実ともに美輪を支えてきた。『[[第64回NHK紅白歌合戦]]』に出場し、藤山一郎の持つ最年長出場に並んだ。
 
同じく2013年、フランス人の映画監督による美輪明宏のドキュメンタリー映画が作られ、DVDにもなった。ナレーションはフランスの産業大臣の夫人が担当した。
 
[[2014年]]4月から、美輪明宏主演の舞台『愛の賛歌〜エディット・ピアフ物語』がリバイバルで全国公演される。前回の公演ではこの舞台を見た[[瀬戸内寂聴]]が感激して楽屋を訪れ、「私は今まで映画や舞台をたくさん見てきたが、この芝居が一番感動した」と言って号泣したという。同じく、この舞台を見た[[東山紀之]]も感激して美輪の楽屋を訪れ、「僕、今まで自分がこんなに泣けるとは思わなかったですよ」と言い号泣したという。同年『[[第65回NHK紅白歌合戦]]』に出場し、史上最年長出場記録を打ち立てた<ref group="注釈">ただし、[[1989年]]の『[[第40回NHK紅白歌合戦]]』に出場した[[聖飢魔II]]のメンバーである[[ACE (ミュージシャン)|エース清水長官]]のプロフィール上の年齢は100027歳(当時)であり、プロフィール上の年齢も考慮した場合はそちらが史上最年長になる。</ref>。
 
[[2015年]]、『[[第66回NHK紅白歌合戦]]』に出場を果たし(翌年落選し、これが現在最後の出場となっている)、自身の持つ史上最年長を更新すると同時に史上初の80代での出場となる。なお、当時80歳での美輪の出場は正規枠では最年長出場記録を保持しているものの、正規出場者以外では[[2010年]]の『[[第61回NHK紅白歌合戦]]』に当時83歳で出演した[[熊倉一雄]]がいる。
 
2018年、東京都[[名誉都民]]に顕彰される<ref name="meiyo">{{Cite web|和書|url=https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2018/08/31/13_01.html |title=別紙 平成30年度名誉都民候補者 |date=2018-08-31 |publisher=東京都 |archiveurl=https://archive.ph/PX7V2 |archivedate=2021-03-19 |accessdate=2021-03-19}}</ref>。
 
===脳梗塞からの回復===
[[2019年]][[9月11日]]、軽い[[脳梗塞]]を発症し入院した<ref name="oricon20190911">{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2144265/full/ |title= 美輪明宏、初期の脳梗塞で2週間ほど入院 舞台公演も中止に |newspaper= ORICON NEWS |publisher= oricon ME |date= 2019-09-11 |accessdate= 2019-09-12 }}</ref>。舞台公演が中止になる<ref name="oricon20190911"/>。その後入院から約2か月後の2019年11月17日、TBSラジオ「美輪明宏薔薇色の日曜日」にて仕事復帰した。同年12月17日に[[東京都|東京]]・[[西新宿]]で行われた「明治きのこの山・たけのこの里国民総選挙2019」の結果発表会に出席し公の場での復帰を果たす。
 
[[2022年]]、[[NHK放送文化賞|第73回NHK放送文化賞]]を受賞<ref>{{Cite web|和書|title= 第73回日本放送協会放送文化賞・受賞者資料|publisher= 日本放送協会|date= 2022-03-03|url= https://www.nhk.or.jp/info/pr/toptalk/assets/pdf/kaichou/2022/03/004.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate= 2022-04-05}}</ref>
 
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* 2011年3月28日、『[[徹子の部屋]]』に出演した際には、「いろんな病気をして来て肺を患った時、30代で一気に白髪になった」旨の発言をしている。その後長らく髪の毛を黒く染めていたが、1998年頃より[[風水]]に基づき黄色く染めロング・ヘアーにしている。
* 「好きな食べ物は?」との質問に、「人の悩みを食べて、涙を飲んで生きてるの」と答えた<ref>福岡放送制作 日本テレビ系「新型テレビ」。</ref>。
* 長年、『法華経』を信仰し、[[池上本門寺]]朗子会館で人生相談のボランティアをしていた。恋愛相談などにも乗っているが、本人は独身を貫いている
* かつては[[日産・フィガロ|日産フィガロ]]を愛車にしていた。
 
=== 交友関係 ===
* 長崎[[海星中学校・高等学校 (長崎県)|海星中学校]]時代の同級生に[[西岡武夫]](第28代[[参議院議長]])がり、両者は西岡が亡くなるまで親交が深かった。美輪は、西岡の荒々しい性格と行動力に一目置いていた事や、西岡の純粋さを好んでいた事を語っている<ref>[http://mainichiwww.jp/photo/archive/news/2011asyura2.com/11/05senkyo121/20111106k0000m010089000cmsg/742.html 西岡議長死去:評伝 「ミスター一徹」を悼む=岩見隆夫]{{リンク切れ|date=2015年3月}}<!-- http://mainichi.jp/photo/archive/news/2011/11/05/20111106k0000m010089000c.html --> 毎日新聞 2011年11月6日閲覧</ref>。
* 銀巴里時代から数多くの作家([[三島由紀夫]]、[[江戸川乱歩]]、[[川端康成]]、[[澁澤龍彦]]、[[吉行淳之介]]、[[瀬戸内寂聴]]、[[藤島泰輔]]、[[なかにし礼]]、[[大江健三郎]]等)や画家([[東郷青児]]、[[中原淳一]]、[[横尾忠則]]等)、演劇人([[中村勘三郎 (17代目)|十七代目中村勘三郎]]、[[中村勘三郎 (18代目)|十八代目中村勘三郎]]、[[杉村春子]]、[[水谷八重子 (初代)|初代水谷八重子]]、[[水谷八重子 (2代目)|二代目水谷八重子]]、[[赤木圭一郎]]、[[田宮二郎]]、[[寺山修司]]、[[蜷川幸雄]]、[[坂東玉三郎 (5代目)|五代目坂東玉三郎]]、[[渡辺えり]]など)、作曲家([[池辺晋一郎]]など)、歌手([[フレディ・マーキュリー]]、[[吉井和哉]]等)と交流を深める。
* 『[[薔薇族]]』初代編集長の[[伊藤文學]]とは、同誌創刊時(1971年)に美輪が[[第二書房]]を訪れて祝福する等の間柄であった。その時、美輪はロールスロイスを運転して、ボロ家の第二書房に買い行き、その数年後には、豪華な門灯を贈っている<ref>月刊『薔薇族』編集長 伊藤文學の談話室より。</ref>。伊藤は1970年代半ばに美輪が新宿5丁目のQフラットビルに開いたクラブ「巴里」の客であり、巴里に触発された伊藤は同じビルの向かいに「談話室 祭」を開店させている<ref>伊藤文學のひとりごと。</ref>。2005年4月には『[[薔薇族]]』復刊号で美輪と伊藤は対談している。
* スピリチュアルカウンセラー[[江原啓之]]に信頼を置き、[[霊能者]][[木村藤子]]とも親交関係を築いており、金銭目的で占い師、霊能者を自称する輩が殆どである中で「数少ない本物」であると認めている<ref>[[中居正広の金曜日のスマたちへ|中居正広のキンスマ!波瀾万丈スペシャル!]] 2007年12月28日</ref>。
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* 華道家の[[假屋崎省吾]]は美輪明宏のおっかけ(本人公認)を自認しており、美輪から「美を紡ぎ出す手を持つ人」と評されたことを誇りにしている。
* 交友関係にあった作曲家・[[古賀政男]]の最後の門下生であった[[佳山明生]]の名付け親でもある(本名の丸山明宏より苗字と名前のそれぞれ一文字ずつとったもの)。
* 1994年に刊行された[[弁護士]]の[[福島瑞穂]](のちに[[参議院議員]]、[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]党首の[[福島瑞穂]][[参議院議員]](当時はまだ国会議員ではない)との対談では、意気投合し、美輪の側から食事に誘い、交流を続けていくことで一致して終わっている<ref>福島瑞穂ほか『出すぎた杭は打たれない 福島瑞穂対談集(シリーズ女の決断)』NTT出版, 1994年</ref>。2013年の福島のツイッター上の投稿では、新幹線の車内で美輪が福島に声をかけ、社会情勢について意見交換をしたエピソードが紹介されている<ref>福島みずほツイッター、2013年11月16日23:54投稿 https://twitter.com/mizuhofukushima/status/401725063411412992</ref>。
* [[水木しげる]]とも交流があり、美輪は水木の絵や漫画が大好きで、[[1998年]]には、水木の作画活動50周年を記念して刊行された『[[妖鬼化|水木しげる妖怪原画集 妖鬼化(むじゃら)]]』(ソフトガレージ出版)で美輪は水木と対談もしており、[[妖怪]]・[[音楽]]・[[音]]・[[幸福]]・吉凶禍福・人生の体験など幅広い談義となり、2002年に刊行された美輪の著書の一つである『ああ正負の法則』(パルコ出版)でも、美輪はこの時の水木との対談や同じ意見を述べている。
* しかしその一方で同じLGBTの当事者である[[おすぎとピーコ]]に対しては、[[おすぎ]]が口にする「どうせ私たちはオカマだから。」という物言いに対し、「自分は同性愛に対する偏見に対して闘ってきたのに、あの二人はテレビで、偏見に満ちた蔑称である“オカマ”と言う言葉を自分達から連呼して、あえて笑われ者になる事で、同性愛者への偏見を助長している。折角同性愛が市民権を得てきたのに、歴史が逆戻りする事になる。その根性が実に卑しい。消えてしまえばいい。この、馬鹿者どもが!」と厳しく批判、「昔はコンサートや舞台公演等に招待していたが、今は絶縁している。」と語り、ある時期から会っていない事を公表している<ref>2007年12月28日放送「中居正広の金スマ!波瀾万丈スペシャル」にて</ref>。
 
=== その他 ===
* [[講談社]]発行の月刊誌「[[月刊現代|現代]]」で、2007年9月号から2008年1月号までノンフィクション作家・[[豊田正義]]が、美輪明宏の評伝を連載した。タイトルは『オーラの素顔』。美輪の少年時代から始まり、[[赤木圭一郎]]との哀恋、三島由紀夫や寺山修司との芸術的交流、江原啓之との出会い、『[[オーラの泉]]』の裏話まで、美輪の人生が精緻な取材で描かれており、単行本化されている。
*インタビューで「若さと、オッパイがでかい、可愛いだけの水着の巨乳のお姉ちゃんはいりません」「[[巨乳]][[美女]]は[[小池栄子]]さん以外ダメ」と巨乳ヘイト、グラビアアイドル差別を[[女性自身]]インタビューで発言<ref>[[光文社]]の同誌の2007年一月号特別編より</ref>。
* [[SAPIO]]のインタビューで、楯の会の青年が楽屋にきたことがあり、いきなり「申し訳ありませんっ」と土下座したという。美輪が「どうなすったの?」って聞いたら、「三島先生や川端(康成)先生のような方がオカマごときのファンなのはけしからんから、いいかげんなものだったらメチャクチャにしてやろうと思った」という。でも彼は、「コンサートは泣けて仕方なかった。天才たちがファンになったのは分かりました。申し訳ない」と言われたという。
* 三島由紀夫は、「君の欠点は、僕に惚れないことだ」と言っており、映画『[[黒蜥蜴#映画(戯曲版)|黒蜥蜴]]』では、美輪とのキスシーンがあるとの事で台詞のない役を引き受けたほどであった。ある時、美輪のコンサートにバラの花束を直に差し入れに来たが、ただならぬ様子があったものの問いただすことが出来なかったという。そして、[[三島由紀夫事件]]が起きて、これが今生の別れとなってしまったという。
175 ⟶ 182行目:
# 丸山明宏デラックス (1969年、SKD-10)
# [[別れのブルース]] おんなと愛を唄う(SKD-20)
# [[日本心中歌謡史]](1973年)
# [[白呪]](1975年、2000年、2006年、2011年)
# [[BRAVA DIVA MIWA]](2013MIWA(2013年12月)
 
=== ベスト・アルバム ===
# 華麗な世界(1973年、SKA-60)
212 ⟶ 220行目:
# 全曲集 2022(2021年9月8日)
# 全曲集 (2022年9月7日)
# 全曲集 (2025年1月1日)
 
=== 企画アルバム ===
# 丸山明宏”魅惑の古賀メロ”を唄う(1971年1月5日)
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=== 映画 ===
* [[永すぎた春]](1957年) - シャンソン歌手 役
* [[暖流 (小説)#1957年版|暖流]](1957年) - KRテレビ(現在のTBS)に出演中の歌手
* [[女であること]](1958年) - 歌手 (オープニングで同名主題歌を歌う)
* 東京野郎と女ども(1958年) - 舶来のシスターボーイ
* [[北原怜子|蟻の街のマリア]](1958年) - ジャン
* 愛情の都(1958年) - 歌手 役(銀座のクラブの出演歌手として歌う)
* 体当りすれすれ娘(1959年) - 佐伯登
* 新婚列車(1959年) - 君島登
* 未婚(1959年) - 四人組仙吉
* 激闘(1959年) - 香港ジョー
* 夜の配役(1959年) - 吉岡
* 愛の濃淡(1959年) - ロロ
* 続べらんめえ芸者(1960年) - 小柳明
* 銀座退屈娘(1960年) - 大沢ジロー
* 風流滑稽譚 [[仙人部落]](1961年) - 洗濯屋の小僧
* [[猟人日記 (戸川昌子)|猟人日記]](1964年) - 本人
* [[黒蜥蜴#映画(戯曲版)|黒蜥蜴]](1968年[[松竹]] [[深作欣二]]監督) - 黒蜥蜴(緑川夫人)
* [[黒薔薇の館]](1969年、松竹、深作欣二監督) - 藤尾竜子
* [[女賭博師壷くらべ]](1970年、[[大映]]、[[井上芳夫]]監督) - 竜神のお松
* [[書を捨てよ町へ出よう]](1971年、[[日本ATG]]、[[寺山修司]]監督) - 地獄のマヤ
* [[バカ政ホラ政トッパ政]](1976年、[[東映]]、[[中島貞夫]]監督) - シャンソン歌手
* [[日本人のへそ]](1977年、日本ATG、[[須川栄三]]監督) - 会社員、偽学生=ヤクザ、助教授(3役)
* [[TAKESHIS']](2005年、松竹/オフィス北野、[[北野武]]監督) - 大物歌手(本人)
* 美輪明宏ドキュメンタリー ~黒蜥蜴を探して~(原題:Miwa, à la recherche du lézard noir)(2010年、フランス、パスカル=アレックス・ヴァンサン監督)
* ドキュメンタリー映画『追憶』(2016年) - ナレーション <ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/202403|title=ペリリュー島の戦いをつづるドキュメンタリー公開、ナレーションは美輪明宏|newspaper=映画ナタリー|date=2016-09-20|accessdate=2016-09-20}}</ref>
* [[長崎-閃光の影で-]](2025年、アーク・エンタテインメント) - 語り<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/621430|title=映画「長崎-閃光の影で-」に南果歩・美輪明宏ら参加、主題歌は福山雅治が手がける|website=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2025-04-25|accessdate=2025-04-25}}</ref>
 
=== テレビドラマ ===
* [[魅惑の宵]](1959年10月2日 - 1961年4月7日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])
* [[パノラマ劇場]] 第27話「野良猫天国」(1960年11月6日、[[日本放送協会NHK総合テレビジョン|NHK総合]])
* [[創作劇場]] 「銀座の山賊」(1962年11月10日、NHK)NHK総合)
* プロ(1963年8月24日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])
* [[NHK劇場]] 「恋すれば物語」(1964年12月18日、NHK)NHK総合)
* [[夜の配当]](1965年9月4日 - 25日、[[TBSテレビ|TBS]])
* [[プレイガール (テレビドラマ)|プレイガール]] 第1話「男無用の女ども」(1969年4月7日、[[東映]] / [[テレビ東京|東京12チャンネル]])
* [[五番目の刑事]] 第11話「白バラは白夜に散った」(1969年12月11日、東映 / [[テレビ朝日|NET]]) - 万里小路霞
* [[雪之丞変化#雪之丞変化(1970年)|雪之丞変化]](1970年4月6日 - 6月29日、[[松竹]] / フジテレビ) - 中村雪之丞 / 闇太郎
* [[非情のライセンス]] 第1シリーズ 第23話「兇悪のシャンソン」(1973年9月6日、東映 / NET) - [[国際刑事警察機構|ICPO]]捜査官・サリー丸山
* [[さくらの唄 (テレビドラマ)|さくらの唄]](1976年、TBS)
* [[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]
** [[草燃える]](1979年) - 火見王
** [[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]](2005年) - [[鬼一法眼]]
* [[ニュードキュメンタリードラマ昭和 松本清張事件にせまる]] 第23回「三島由紀夫自決事件」(1984年9月13日、[[国際放映]] / [[テレビ朝日|ANB]]) - 証言者として出演
* [[西遊記 (1994年のテレビドラマ)|西遊記]] (1994年、日本テレビ) - 提婆達多の声
* [[連続テレビ小説]] 「[[花子とアン]]」(2014年、NHK) - ナレーション
* [[命売ります#連続テレビドラマ|命売ります(2018年1月13日小説]] - 3月24日、BSテレ東「[[花子とアン]]」(2014年、NHK総合) - ナレーション
* [[命売ります#テレビドラマ|命売ります]](2018年1月13日 - 3月24日、[[BSテレビ東京|BSテレ東]]) - ナレーション
* [[大江戸もののけ物語]](2021年、[[NHK BSプレミアム]]) - 語りナレーション
 
=== バラエティ他 ===
324 ⟶ 337行目:
* [[地球は女で回ってる?]](日本テレビ)
* [[国分太一・美輪明宏・江原啓之のオーラの泉]](2005年 - 2009年、テレビ朝日系)
* [[NHK人間講座]]「人生 愛と美の法則」(2005年2月 - 3月、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]) - 月曜日の講義
* [[知るを楽しむ]]・私のこだわり人物伝「[[寺山修司]]」(NHK教育、2006年4月)
* [[極上の月夜]](日本テレビ、2006年10月 - 2007年3月)
* 「ビートたけしが斬る!実録!大河スペシャル 昭和の真相 1989年! 『つづく。で終る物語』」(2007年12月26日、テレビ朝日系)
* 「ブラボー!ニッポン 美輪明宏からの遺言…」(2008年1月8日、TBS)
* [[未来観測 つながるテレビ@ヒューマン]](NHK)(NHK総合) - サポーター(月1回程度出演)
* [[クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!]](日本テレビ系) - 初期準レギュラー
* [[ありえへん∞世界]](2010年10月 - 、テレビ東京系)
* [[美輪乃湯]](2011年6月11日-2015、[[NHKワンセグ2]]、[[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]])
* [[ミュージック・ポートレイト]](2011年7月30日、NHK Eテレ)
* [[ネプの超法則!!]](2012年10月20日 - 2013年1月26日、TBS)
* 真夏の夜の美輪明宏スペシャル(2013年8月21日、NHK)NHK総合)
* [[SONGS (テレビ番組)|SONGS]] 美輪明宏(2013年9月21日、NHK)NHK総合)
* BSプレミアム「100年インタビュー美輪明宏」(2013年12月30日 NHK BS)
* 奇跡の絶景 霊峰富士(2014年1月12日、[[BS-TBS)TBS]]) - ナレーション
* [[ニュースな晩餐会]](2014年10月-2015年8月、フジテレビ) - 主宰者
* [[にほんごであそぼ]](2016年4月 -2021 、NHK Eテレ) - みわサンの声 <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2065925/full/|title=美輪明宏、子ども番組初登場 Eテレ『にほんごであそぼ』新キャラクターに|publisher=ORICON STYLE|date=2016-01-27|accessdate=2016-01-27}}</ref>
355 ⟶ 368行目:
!備考
|-
|[[2012年]]||[[第63回NHK紅白歌合戦|第63回]]<ref group="注釈">最年長初出場歌手(当時77歳)</ref>||初||[[ヨイトマケの唄]]||21/25||[[和田アキ子]]||
|-
|[[2013年]]||[[第64回NHK紅白歌合戦|第64回]]||2||ふるさとの空の下に||19/23||[[石川さゆり]]||
|-
|[[2014年]]||[[第65回NHK紅白歌合戦|第65回]]<ref group="注釈">最年長出場歌手記録更新(当時79歳、昨年までは[[藤山一郎]]が1位)</ref>||3||[[愛の讃歌]]||22/23||[[中島みゆき]]||トリ前
|-
|[[2015年]]||[[第66回NHK紅白歌合戦|第66回]]||4||ヨイトマケの唄(2回目)||23/26||[[レベッカ (バンド)|レベッカ]]||
379 ⟶ 392行目:
 
=== ラジオ ===
* 「[[ズバリ快答!テレフォン身の上相談]]」([[1970年]] - [[1996年]]、[[TBSラジオ]]
* 「[[美輪明宏 薔薇色の日曜日]]」([[2003年]] - 2020年3月29日<ref>{{Cite web|和書|title=16年半の歴史に幕〜「愛と別れ」のお話|url=https://www.tbsradio.jp/468275|work=TBSラジオ|date=2020-03-29|accessdate=2020-03-29}}</ref>、[[TBSラジオ]]
* 「金色の時間」(2021年1月1日、[[NHK-FM放送|NHK-FM]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/radio/magazine/article/radiru-lab/E0Hr9YTs3b.html |title=お正月は美輪明宏と「金色の時間」をご一緒に |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.ph/QULHU |archivedate=2021-03-19 |accessdate=2021-03-19}}</ref>
* 「美輪明宏の薔薇色の人生」(2023年6月4日 - 、TBSラジオ)
439 ⟶ 452行目:
*『おだやかに生きるための人生相談』朝日新聞出版(2019年9月6日)
*『ほほえみを忘れずに。ルンルンでいきましょう』家の光協会(2020年12月16日)
*『私の人生論 目に見えるものは見なさんな』毎日新聞出版(2024年6月10日)
*『愛のモヤモヤ相談室』大和書房(2024年10月27日)
*『あなたの人生を導く-美輪ことば』中央公論新社(2024年11月)
*『令和を生きぬく貴方たちへ 未来世代が輝くミワちゃま語り20』光文社(2025年9月)
 
=== 共著 ===
472 ⟶ 489行目:
{{ウィキポータルリンク|音楽|[[画像:Xmms.png|45px|Portal:音楽]]}}
* [https://o-miwa.co.jp/ 公式ホームページ]
* [https://web.archive.org/web/20201101011317/https://www.tbsradio.jp/barairo/ TBSラジオ「美輪明宏 薔薇色の日曜日」]{{リンク切れ|date=2022年7月}}
* [https://web.archive.org/web/20001204094600/http://www.the-shinjuku.ne.jp/CONTENTS/BUSICUL/PEOPLE/KONOHITO/MIWA/index.html THE SHINJUKU インタビュー この人の新宿]
* {{NHK人物録|D0009071429_00000}}
522 ⟶ 539行目:
[[Category:長崎原爆の被爆者]]
[[Category:丸山遊廓|人]]
[[Category:長崎県国立音楽大学附属高等学校出身の人物]]
[[Category:長崎市出身の人物]]
[[Category:1935年生]]
[[Category:存命人物]]