「立志社の獄」の版間の差分
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== 概要 ==
挙兵の後は[[大阪鎮台]]を攻める計画だったが、3000挺の銃器を購入するための資金調達に手間取る間に、西郷軍が敗退、計画そのものも露見する事態となり<ref>谷是、『高知県謎解き散歩』、株式会社新往来社、2012年5月11日発行、P103。</ref>、[[明治]]10年([[1877年]])8月に事件が発覚して林をはじめとする首謀者や[[片岡健吉]]ら高知在住の幹部が逮捕され、翌年8月に[[大審院]]において有罪判決が下った。
この事件については立志社の指導者である[[板垣退助]]・[[後藤象二郎]]らは無関係で片岡も林ら過激な首謀者の巻き添えとなった<ref>『自由党史』板垣退助監修、五車楼</ref>。林や大江は板垣が決起すると考えていたが、板垣は「もはや武装決起して政府を変える時代では無い」と言う考えを貫いた。のちに若き[[頭山満]]が来高し、板垣に武装決起を促した時も同様に答えて、逆に言論を以って世の中を変えるべきことを諭した。[[頭山満]]はそれがきっかけとなり、一度、帰郷ののち再び来高して[[自由民権運動|自由民権]]の思想を学んだ<ref>「[[頭山満]]先生が福岡郊外の平尾で開墾をしておられたところへ、後年[[大隈重信]]に爆弾を投じることになる[[来島恒喜]]が「[[大久保利通]]が東京紀尾井坂で刺客にやられた([[紀尾井坂の変]])」という報告を持ってきた。頭山先生は「それじゃ板垣が立つ(武装決起)であろうから、自分はすぐ土佐に行く」と言い残して、そのまま土佐に向かわれた。ところが[[板垣退助]]には挙兵の考えはなく「もはやその時にあらず」と語る。何故かと食い下がる頭山に「徳川が皇室の権威を掠めていた時代ならば、敢然蹴って武装蜂起しこれを斃すに怯むべきはあらざれど、王政復古し今や正位に御一人を戴く世にあって、兵を挙ぐるは、朝敵賊徒の謗りを逃る事を避けられまい」と。「然らばどうされるのか」と訊く問いに板垣は、[[自由民権運動|自由民権]]の旗印で言論をもって藩閥と戦う決意を語った。すなわち立憲政治の妙諦を説き、民選議員の性質を論じ、国会開設の急務を主張し、言論の力で藩閥を倒さなければいかぬ」という堂々たる理論であった。頭山先生は大いに感じ入り、ともに民権運動をやろうという事で、その演説会を県下各所で開き、大いに自由民権の必要性を論じられたのである。(『頭山満伝』)</ref>。
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