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| 主 = [[田所祐]]<ref name="jbis" /><ref name="優駿-2001-11-5357" />
| 調 = [[坂口正大]]([[栗東トレーニングセンター|栗東]])<ref name="jbis" /><ref name="優駿-2001-11-5357" />
| 厩 = 足立信之<ref name="優駿-1996-2-1819">『優駿』1996年2月号 18-19頁</ref>
| 績 = 21戦8勝<ref name="jbis" /><ref name="優駿-2001-11-5357" />
| 金 = 8億1039万円<ref name="jbis" /><ref name="優駿-2001-11-5357" />
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'''マヤノトップガン'''(欧字名:{{Lang|en|Mayano Top Gun}}、[[1992年]][[3月24日]] - [[2019年]][[11月3日]])は、[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]<ref name="jbis" >{{Cite web|和書|title=マヤノトップガン|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000255813/|website=JBISサーチ|accessdate=2021-04-14}}</ref>。
[[1995年]]の[[JRA賞年度代表馬]]、[[JRA賞最優秀3歳牡馬|JRA賞最優秀4歳牡馬]]
== 概要 ==
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=== 誕生までの経緯 ===
[[ファイル:BLUSHING GROOM.jpg|サムネイル|231x231ピクセル|母父:[[ブラッシンググルーム]]]]
[[ファイル:Brian's Time.jpg|サムネイル|224x224ピクセル|父:[[ブライアンズタイム]]]]
==== 川上牧場 ====
川上牧場は、[[北海道]][[新冠町]]の牧場である。1966年に川上景吉が拓き、牛と競走馬生産の兼業を営んでいたが<ref name="優駿-1996-2-4244">『優駿』1996年2月号 42-44頁</ref>、1960年代に高校を卒業した川上悦夫が18歳で継ぐと、牛をすべて売却して兼業を辞め、繁殖牝馬2頭から始まる競走馬生産専業牧場に生まれ変わった<ref name="優駿-1993-8-24">『優駿』1993年8月号 24頁</ref>。借金を背負った状態からのスタートで継いでしばらくは馬主の仔分けの管理に甘んじたが、次第に自己所有の繁殖牝馬を増やし、悦夫自らが考えた配合論の実践に勤しむようになっていた<ref name="優駿-1996-2-4244" />。
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==== アルプミープリーズ ====
アルプミープリーズは、父[[ブラッシンググルーム]]、母父[[ヴェイグリーノーブル]]のアメリカ産の牝馬である。1986年の[[パリ大賞典|パリ大賞]](G1)や1987年の{{仮リンク|サンセットハンデキャップ|en|Sunset Handicap}}(G1)を優勝したスウィンク(父:リロイ)の半姉であり、競走馬デビューせずにアメリカで繁殖牝馬となり初仔と2番仔を産んだ後、1988年に日本にもたらされた<ref name="優駿-1996-1-140143">『優駿』1996年1月号 140-143頁</ref> 。輸入後は北海道新冠町の[[資生園早田牧場|早田牧場新冠支場]]に繋養され、3番仔を産んだ<ref>{{Cite web|和書|title=アルプブルボン |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000219189/ |website=JBISサーチ |access-date=2022-12-19}}</ref>。
18歳から血統について学んだ川上はこの頃は[[ハイペリオン系]]や[[リボー]]を好んでおり、ハイペリオンの血を引くブラッシンググルームかヴェイグリーノーブルの血が入った繁殖牝馬を探し求めていた<ref name="優駿-1996-2-4244" />。アルプミープリーズに出会ったのはその頃である。川上曰く「馬を見たらこれはどうかなと思えるような馬」という外見であり当時は牧場の経営も厳しかったが、それに構わず購入を強行<ref name="優駿-1996-2-4244" /> <ref name="優駿-1997-9-7880" />。迎え入れて初年度の1989年、2年目の1990年は、共に[[イルドブルボン]]と交配し、4番仔5番仔の牝馬を産んでいる<ref name="優駿-1996-1-140143" />。
1991年、川上はハイペリオン系の牝馬には[[ヘイルトゥリーズン系]]の種牡馬が合うだろうと考え、ヘイルトゥリーズン系でありリボーの血も持つ種牡馬である[[ブライアンズタイム]]を交配相手に選ぶ<ref name="優駿-1996-1-140143" />。川上は後に「うまく配合すれば、素晴らしいステイヤーが出来ると確信していた<ref name="優駿-1996-2-4244" />」と振り返っている。受胎を経て1992年3月24日、アルプミープリーズの6番仔となる[[栗毛]]の[[牡馬]](後のマヤノトップガン)が誕生する<ref name="優駿-1996-1-140143" />。
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=== 幼駒時代 ===
[[ファイル:Masahiro-Sakaguchi20101107.jpg|サムネイル|[[坂口正大]]]]
6番仔の出来は良く、牧場でも高い評価が与えられていた。1993年、牧場の先輩にあたる[[ナリタタイシン]]がクラシック三冠競走第一弾の皐月賞を制した事でGI初勝利となった牧場は多くの取材を受けたが、そのとき川上は今後の期待馬を問われた際にこの6番仔の名を挙げていたという<ref name="優駿-1997-9-7880" />。6番仔は怪我とも無縁で、順調に育っていた。首が低かったが、これは牧場では人間が鼻をしきりに撫でていたために首を下げる回数が多く、それが癖になって首の位置が低くなったと川上は述べている<ref name="優駿-1997-9-7880" />。
6番仔は、産まれる前から[[栗東トレーニングセンター]]所属の[[坂口正大]]調教師の管理が内定していた。1991年秋、牧場を訪れた坂口は姉の5番仔に好印象を持ち、管理を申し出たが既に先約がいたために諦め<ref name="優駿-1997-6-4144">『優駿』1997年6月号 41-44頁</ref>、代わりに腹に宿っている6番仔を取り置きしていた<ref name="優駿-2001-11-5357" />。坂口はその6番仔を同じく調教師であった父の代から関わり、自身の仲人を務めるなど密な関係にあった馬主の[[田所祐]]に紹介する<ref name="優駿-1997-9-7880" />。田所は相馬眼に自信が無い事と飛行機が苦手である事から自らは北海道入りせず、馬選びは全て坂口に任せていた<ref name="優駿-1996-2-100102">『優駿』1996年2月号 100-102頁</ref>。こうして6番仔は田所の所有馬となった。
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マヤノトップガンは3歳となった1994年3月、坂口厩舎に入厩した<ref name="優駿-1997-6-4144" />。しかし調教を始めると直ちに右前肢に骨瘤{{Efn|山本徹美によれば外側<ref name="優駿-1996-2-100102" />、井口民樹によれば内側<ref name="優駿-2001-11-5357" />。}}をきたして調教続行不能となり、厩舎からの退場を余儀なくされた<ref name="優駿-1996-1-7678" />。北海道に戻り、[[門別町]]のクローバーファームで放牧休養。骨瘤は放牧地にある川で冷やして癒され、秋になって再入厩したが骨瘤のために脚部への負担の小さいプール調教で主に鍛えられた<ref name="優駿-2001-11-5357" />。そのためデビューは年明けの4歳になってからと大幅に遅れる事となった<ref name="優駿-1996-1-7678" />。
== 競走馬時代 ==
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==== 条件馬時代 ====
1995年1月8日、[[京都競馬場]]の[[新馬戦]](ダート1200メートル)にてデビューを果たした。[[武豊]]が騎乗し単勝オッズ1.0倍の1番人気に推されたが、のちの桜花賞馬[[ワンダーパヒューム]]に敗れる5着だった<ref name="優駿-1996-1-7678">『優駿』1996年1月号 76-78頁</ref>。それから田原成貴、武が騎乗し、同条件の未勝利とに臨むも連続3着。武が騎乗した4戦目、3月25日の同条件の未勝利戦にて、好位追走から差し切りを果たし、初勝利を挙げた。
続いて500万円以下に臨み、初戦は3着。2戦目となる5月28日、武がアメリカの[[ケンタッキーダービー]]に挑戦したために田原が起用され、以後田原が引退まで主戦を務めることになる<ref name="優駿-2001-11-5357" />。[[中京競馬場]]の500万円以下(ダート1700メートル)にて、後方に7馬身差をつけて2勝目を挙げた<ref name="優駿-1996-1-7678" />。
この頃からマヤノトップガンの脚部不安が解消され、中京のダート競走が少なくなった季節に差し掛かったのもあり、900万円以下からは芝に転向する<ref name="優駿-1997-6-4144" />。6月18日のロイヤル香港ジョッキークラブトロフィー(芝2000メートル)こそフェアダンス{{Efn|後に出世し、1996年の[[府中牝馬ステークス]](GIII)にて、[[サクラキャンドル]]に次ぐ2着。同年の[[エリザベス女王杯]](GI)にて、[[ダンスパートナー]]に次ぐ2着。そのほか[[オープン競走]]を3勝するなど、通算成績29戦6勝<ref>{{Cite web|和書|title=フェアダンス |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000260890/ |website=JBISサーチ |access-date=2022-12-19}}</ref>。}}に敗れる3着だったが、続く7月9日の中京のやまゆりステークス(芝1800メートル)では好位から抜け出し、3勝目を挙げた。この勝利をきっかけに坂口は、マヤノトップガンのスケールの大きさを認めるようになり、クラシック三冠競走の最終戦である菊花賞を強く意識するようになった。やまゆりステークスの優勝馬では1989年の[[バンブービギン]]が菊花賞を制するという前例もあり、坂口はバンブービギンを参考にして菊花賞を目指すことにした<ref name="優駿-1996-1-7678" />。
続いて重賞初挑戦、菊花賞の[[トライアル競走]]である9月17日の[[神戸新聞杯]](GII)に臨んだ。東京優駿優勝馬[[タヤスツヨシ]]の始動戦であり、1.3倍の1番人気に支持される一方、マヤノトップガンは13.5倍の5番人気だった<ref>{{Cite web|和書|title=神戸新聞杯|1995年9月17日 |url=https://db.netkeiba.com/race/199508060411/ |website=netkeiba.com |access-date=2022-12-24}}</ref>。平均ペースの好位を追走、直線で先頭に立ち、後方外から忍び寄るタヤスツヨシを突き放すことには成功したが、ゴール寸前で背後から追い上げた7番人気の[[タニノクリエイト]]に半馬身差し切られて2着<ref name="優駿-1995-11-2224">『優駿』1995年11月号 22-24頁</ref>。重賞勝利は逃したものの、菊花賞への優先出走権を確保した<ref name="優駿-1995-11-146147">『優駿』1995年11月号 146-147頁</ref>。
しかし菊花賞には直行しなかった。この頃のマヤノトップガンには神戸新聞杯の様に終いが甘く、坂口は本番の3000メートルという距離に対して不安があった<ref name="優駿-1997-6-4144" /><ref name="優駿-1995-11-2224" />。そこで、距離延長も兼ねて関西で行われるもう一つのトライアル競走である10月15日の[[京都新聞杯]](GII)にも出走する事にした<ref name="優駿-1995-11-2224" />。タヤスツヨシとの再戦となり、タヤスツヨシが再び1番人気に推されてマヤノトップガンは2番人気に甘んじたが、オッズは2.7倍と4.4倍にまで縮まっていた<ref>{{Cite web|和書|title=京都新聞杯|1995年10月15日 |url=https://db.netkeiba.com/race/199508070411/ |website=netkeiba.com |access-date=2022-12-24}}</ref>。
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==== 菊花賞 ====
11月5日、クラシック三冠競走最終戦の菊花賞(GI)に参戦する。これまでのクラシックは、皐月賞を[[ジェニュイン]]が、東京優駿をタヤスツヨシが制していた。どちらも故障離脱はしていなかったが、ジェニュインは[[天皇賞(秋)]]に出走して不在、タヤスツヨシは参戦こそしたもののトライアルを連敗して
{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=R3tfmSU8aQw&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1995年 菊花賞(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]|video2=[https://www.youtube.com/watch?v=HkTqq17lF5A&ab_channel=%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AC%E7%AB%B6%E9%A6%AC%E3%80%90%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%80%91 1995年 菊花賞(GI)<br />レース映像 関西テレビ競馬公式YouTubeチャンネルによる動画]}}
マヤノトップガンはスタートから好位の4番手につけ、平均ないしスローペースを追走<ref name="優駿-1995-12-1819" /><ref name="優駿-1996-1-140143" />。2周目の第3コーナーから最終コーナーにかけて前の3頭が垂れた事でマヤノトップガンが進出する形に。単独先頭を奪取しながら最終コーナーを通過、そのまま直線での押し切りを目指した<ref name="優駿-1996-1-140143" />。後方勢ではダンスパートナーやトウカイパレス、[[ホッカイルソー]]らが追い上げており、接近を許したがマヤノトップガンは失速することなくリードを守り切り<ref name="優駿-1995-12-1819" /><ref name="優駿-2002-10-6263" />、後方に1と2分の1馬身差をつけて決勝線を通過した<ref name="優駿-1996-1-140143" />。
マヤノトップガンは重賞初勝利がG1タイトルの菊花賞となった。走破タイム3分4秒4は前年の3分4秒6を上回る菊花賞レコード<ref name="優駿-1995-12-1819" />。また田原はこれがクラシック三冠競走初勝利となった<ref>『優駿』1995年12月号 6頁</ref>。
また坂口はこれがGI競走初勝利だった。管理馬の菊花賞は1978年に出走した[[キャプテンナムラ]]の2着が最高成績であり、それ以降は出走すら叶わなかったが
<gallery widths="280px">
MayanoTopGun-1995-11-5.jpg|菊花賞出走時
56th-kikka-shou1.jpg|表彰式
</gallery>
==== 有馬記念 ====
1月のデビューから菊花賞まで12戦を走り、既に疲れが出ていたが放牧には出ず、暮れの[[有馬記念]]出走を目指した。ただ状態が悪いままに臨んで凡走することは菊花賞馬の面目を失いかねなかった<ref name="優駿-2001-11-5357" />。坂口は5着以内に入る見込みがあるなら面目は保てると考えており、状態を直前まで慎重に見極め、1週間前に参戦を決断した<ref name="優駿-1997-6-
12月24日の有馬記念(GI)は12頭立てのレースとなった。人気の中心は前年の覇者[[ナリタブライアン]]と2着の[[ヒシアマゾン]]だった。前年にクラシック三冠と有馬記念を制したナリタブライアンはこの年春に故障。復帰後の天皇賞(秋)とジャパンカップはそれぞれ12着と6着に敗退したがそれでも人気は根強かった。GI2勝の牝馬ヒシアマゾンは、この年の秋に[[オールカマー]]と[[京都大賞典]]を連勝し、ジャパンカップでは[[ランド (ドイツの競走馬)|ランド]]に次ぐ2着になっていた<ref name="優駿-1996-2-1012">『優駿』1996年2月号 10-12頁</ref>。
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直線では馬場の最も内側で逃げ粘り、外から迫り来るナリタブライアンらに抵抗する。するとたちまちナリタブライアンらが失速、マヤノトップガンの独走状態のまま後方に2馬身差をつけて逃げ切りを果たした <ref name="優駿-1996-2-1012" />。連勝でのG12勝目となったが、4歳馬による有馬記念優勝は前年のナリタブライアンに続いて史上10頭目。また1976年の[[トウショウボーイ]]以来となる、デビューした年と同年の有馬記念制覇となった<ref name="優駿-1996-2-144146" />。
この年は有馬記念の前まで年間でGIを2勝した馬が存在しなかったために[[JRA賞年度代表馬]]の行方が注目されていたが、マヤノトップガンが有馬記念を制して唯一のGI2勝馬となっていた<ref name="優駿-1996-2-6">『優駿』1996年2月号 6頁</ref>。そして行われた[[JRA賞]]の投票では、
[[JRA賞最優秀3歳牡馬|最優秀4歳牡馬]]{{Efn|その他は[[ジェニュイン]]3票、[[タヤスツヨシ]]1票<ref name="優駿-1996-2-1819" />。}}に。さらに全177票中160票で年度代表馬にも選出された{{Efn|その他は[[ヒシアマゾン]]7票、[[ライブリマウント]]3票、[[サクラチトセオー]]2票、[[バブルガムフェロー]]1票、該当馬なし4票<ref name="優駿-1996-2-1819" />。}}<ref name="優駿-1996-2-1819" />。
=== 5歳(1996年) ===
==== 阪神大賞典 ====
前年は使い詰めだったため年明けは疲労回復に専念。春の目標は[[天皇賞(春)]]に定め、当初は[[産経大阪杯]]からの始動が予定されていた。しかし田原の助言を受けて天皇賞(春)へ「よりゆったりとしたローテーションで」([[石田敏徳]])臨むために、[[阪神大賞典]]を前哨戦に変更する。その阪神大賞典はナリタブライアンも始動戦に選んでおり、新旧の年度代表馬による対決となった。レース当日のマヤノトップガンは疲労回復を優先したために調教が捗らず、万全とは言えない出来だった。人気は2頭の年度代表馬に集中し、小差でマヤノトップガンが1番人気となった<ref name="優駿-1996-4-3638">『優駿』1996年4月号 36-38頁</ref> <ref name="優駿-1997-6-4144" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=U-THqWjAJLY&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1996年 阪神大賞典(GII)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}
{{main|第44回阪神大賞典}}
<gallery widths="280px">
Brian and topgun.jpg|手前: ナリタブライアン、奥: マヤノトップガン
</gallery>
==== 天皇賞(春)====
続いて本番の天皇賞(春)(GI)。調教をあまりせずに臨んだ阪神大賞典にてナリタブライアンに小差の2着となったことから、坂口はもっと調教で強化し、万全で臨めばどこまで突き抜けられるだろうかと考え、「必要なステップを踏まずに、自分の気持ちだけで<ref name="優駿-1997-6-
{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=YlSttKAM338&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1996年 天皇賞(春)(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}
スタートから先行して、スローペースを追走
==== 宝塚記念 ====
天皇賞(春)の後は[[宝塚記念]]を目指すことになったが、まずは機嫌を取り戻す必要があった<ref name="優駿-2001-11-5357" />。そこで[[石川県]][[小松市]]の小松温泉牧場にて、疲労回復とストレスを緩和させるための短期放牧を挟んだ<ref name="優駿-1996-8-4648">『優駿』1996年8月号 46-48頁</ref>。七夕の日に行われた宝塚記念(GI)ではナリタブライアンは故障離脱、サクラローレルは一足早い休養、ヒシアマゾンや[[ステージチャンプ]]も離脱するなど有力馬が相次いで回避。7月上旬開催という試みで期待された4歳クラシック優勝馬の参戦もなかった<ref name="優駿-1996-9-132134">『優駿』1996年9月号 132-134頁</ref> <ref name="優駿-1996-8-4648" />。GI優勝馬はマヤノトップガンの他にダンスパートナー、[[レガシーワールド]]、[[ヤマニンパラダイス]]の3頭がいたがいずれも勢いに欠けており、メンバーは手薄と考えられていた<ref name="優駿-1996-9-132134" />。そんな中、マヤノトップガンは2.0倍の1番人気となる。次いで[[カネツクロス]]、ダンスパートナー、サンデーブランチが人気となった<ref name="優駿-1996-8-4648" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=RzFhHlZagbw&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1996年 宝塚記念(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}レースはスタートからカネツクロスが大きく逃げる展開になり、マヤノトップガンは平均ペースの3番手で追走。第3コーナーから進出開始し、最終コーナーをカネツクロスに並びかけながら通過すると軽く促されただけで鋭い伸びを見せ、直線に入ってまもなく先頭を奪取。カネツクロスなどの抵抗もなく、独走状態で後方に1馬身半差をつけて決勝線を通過した<ref name="優駿-1996-8-4648" /><ref name="優駿-1996-9-132134" />。
この勝利により、1984年のグレード制導入以降史上18頭目となるGI3勝馬となる。また春秋グランプリの連覇は1992年の[[メジロパーマー]]以来史上7頭目となった<ref name="優駿-1996-9-144">『優駿』1996年9月号 144頁</ref>。
<gallery widths="280px">
MayanoTopGun-1996-7-7.jpg|宝塚記念出走時
</gallery>
==== 天皇賞(秋) ====
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続いて10月27日、目標の天皇賞(秋)に臨んだが、サクラローレルや重賞4連勝中の[[マーベラスサンデー]]、前年の[[朝日杯3歳ステークス]]を制したものの皐月賞の直前に故障し、復帰した秋は菊花賞ではなく天皇賞に臨んだ4歳馬の[[バブルガムフェロー]]らに次ぐ4番人気と評価を落としていた。それでも当日の状態は良く、田原が厩務員の足立に「今日の(マヤノ)トップガンはちょっと違う<ref name="優駿-1996-12-12">『優駿』1996年12月号 12頁</ref>」と伝えるほどだった。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=AyWCkC8ZaKk&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1996年 天皇賞(秋)(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}
レースではスタートから先行したが、絶好位をバブルガムフェローに奪われ、その直後を追走。直線では外からスパートしてバブルガムフェローに並びかけ、先頭を奪取したがすぐに盛り返されて逆転、半馬身後れを取る2着に敗れた<ref name="優駿-1996-12-16">『優駿』1996年12月号 16頁</ref><ref>『優駿』1996年12月号 130頁</ref>。田原はこの敗戦について「もしバブルガムフェローと枠順が逆だったら(中略)間違いなく主導権を握っていただろう(中略)そうなれば向こうが仕掛けるのを見てから追い出すことができたはず<ref name="優駿-1996-12-16" />」と述べ、バブルガムフェローに騎乗した蛯名も少しの運を味方にしたことを勝因に挙げるほどの接戦だった<ref name="優駿-1996-12-12" />。
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==== 阪神大賞典 ====
6歳となったマヤノトップガンは、この年限りでの引退が決定する<ref
スタートから最後方に着くとそのまま留まり、2周目の第3コーナーから外をまくって進出。最終コーナーまでに好位に上がり、直線に入ってまもなく先頭を奪取。そのまま独走となり後方に3馬身半差をつけて決勝線を通過、半年ぶりの勝利を挙げた<ref name="優駿-1997-5-58">『優駿』1997年5月号 58頁</ref> <ref>『優駿』1997年5月号 143頁</ref>。
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しかし悩み抜いて編み出した田原の騎乗法は、世間のみならず関係者にも受け入れられなかった。田原以外には逃げ先行がマヤノトップガンの持ち味という先入観が依然として凝り固まっており、この方法は一回きりの奇策であり、本番は正攻法で臨むだろうと捉えられた。田原の後ろ盾は少なかったが、サクラローレルの管理調教師で田原との親交が深かった[[小島太]]調教師や調教師を引退したばかりの[[浅見国一]]からの支持、共感を得ていた。特に浅見との懇談の中では、新人時代の田原が浅見厩舎のヤマニンミノルに騎乗した際、第3コーナーの坂の下りでの進出は我慢して最終コーナーを最後方で通過し、直線で外から追い上げて勝利した過去の例を挙げて認識を共にしている<ref name="優駿-1997-9-111113" />。
後ろ盾が少ない状況で、脚質転換の決断をするために田原は自らを追い込んでいた。自意識を無くして苦悩から逃れ、無意識にその決断ができるように三日間徹夜をして半病人を目指したり、アメリカの俳優[[アル・パチーノ]]の演技を大量に見て、役者になり切ろうとしていた。天皇賞(春)に向けた記者からの取材を受けた際には、鶴木遵に「人を煙に巻くような禅問答」と言わしめた応対で記者を戸惑わせている<ref name="優駿-1997-10-110112">『優駿』1997年10月号 110-112頁</ref>。{{Quotation|'''記者''':天皇賞の{{Ruby|競馬|レース}}展開についてはどう思ってますか?<br/>'''田原''':うーん、展開ね…展開を考えた時点でボクの中では狂ってくるし…あくまでも自然の流れというか、マヤノトップガンの走りの中に、展開がはまってくるというか…展開の中に自然とボクとマヤノトップガンがいたというか……ゴメンネ、巧くは表現できないや<br/>'''記者''':相手馬はどの馬でしょう?<br/>'''田原'''::サクラローレルも強いし、三強の闘いと言われているけれど、ボクにはあくまでもマヤノトップガンとボクなんだよね<br/>'''記者''':……<br/>'''田原''':サクラローレルも確かに強い。でもね、サクラローレルとマーベラスサンデーは、ボクとマヤノトップガンなんだよね。ボクがマヤノトップガンがどうであるかで、サクラローレルもマーベラスサンデーも変わってくるんだよね。いや{{Ruby|競馬|レース}}そのものが変わるというのではなくて、ボクとマヤノトップガンとの気持ちやコミュニケーションや意志の持ち方で、そのときどきのサクラローレルとマーベラスサンデーが違うし……違うといっても変だけれど、ゴメンナサイネ、でも違うんです。ボクとマヤノトップガンがどうであるかで、サクラローレルはいろんなサクラローレルがいるわけです<br/>'''記者''':それは、田原さんとマヤノトップガンの走りをするということですね?<br/>'''田原''':勿論、そりゃそうです<br/>'''記者''':前走の阪神大賞典の競馬で得たものも大きかったでしょうね<br/>'''田原''':いや、そのことでは何も変わっていないです。4歳で勝った有馬記念と、阪神大賞典は、ボクは一緒と思ってるし…一緒なんですよ。要するに形とか位置取りとかじゃなくて、マヤノトップガンがゲートを出て、あくまでもボクとマヤノトップガンがどうあるかであって、そのどうあるかは作戦とかではなくて、今この瞬間にどうあるかであって、うーん、それは全てがどうあるかにつながるし、うーん、さっき聞かれたサクラローレルとマーベラスサンデーはどうなるかにつながるし、やっぱり大事なんです。それなんです……}}坂口はやはり逃げ先行がマヤノトップガンの持ち味であると考えており、天皇賞(春)の直前に田原に対して先行するように指示する<ref name="優駿-1997-6-
阪神大賞典後のマヤノトップガンは前年に比べて疲労も少なく、万全な状態に仕上がっていた。この頃の坂口は、マヤノトップガンに合った仕上げ方を見つけていたという<ref name="優駿-1997-6-
==== 天皇賞(春) ====
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!'97天皇賞春<ref>{{Cite web|和書|title=天皇賞(春)|1997年4月27日 |url=https://db.netkeiba.com/race/199708030410/ |website=netkeiba.com |access-date=2022-12-23}}</ref>
|2.1(1人)
|{{Color|darkblue|2着}}
|'''3.7(2人)'''
|'''{{Color|darkred|1着}}'''
|4.1(3人)
|{{Color|darkgreen|3着}}
|}
4月27日、天皇賞(春)では16頭が出走する中、サクラローレルとマヤノトップガン、そしてマーベラスサンデーの3頭が「'''三強'''」として持ち上げられた<ref name="優駿-1997-6-7">『優駿』1997年6月号 7頁</ref>。サクラローレルは有馬記念の後に軽い骨折が判明して休養しており、前哨戦を用いずに直行してきた<ref>『優駿』2020年10月号 123頁</ref>。マーベラスサンデーは産経大阪杯で始動し、[[ロイヤルタッチ]]や[[イシノサンデー]]らを相手に優勝していた<ref name="優駿-2004-7-
スタートからマヤノトップガンは阪神大賞典と同じく後方の内側を進んだ。まもなく前に行きたがったが内側には進路がなく、行きあぐねた事で落ち着きを取り戻し、折り合いをつけて追走を行った<ref name="優駿-2004-7-
この天皇賞(春)の勝利でGI競走4勝目を成し遂げた。走破タイム3分14秒4は1993年のライスシャワーの3分17秒1を2.7秒更新するレースレコードであり、また1993年の[[ダイヤモンドステークス]](GIII)で[[マチカネタンホイザ]]が記録した芝3200メートルの日本レコード3分16秒8をも2.4秒更新した。田原は14回目の騎乗で天皇賞(春)初勝利となった<ref name="優駿-1997-6-149">『優駿』1997年6月号 149頁</ref>。
これまでのGI3勝は牝馬が1番人気となる菊花賞や意表を突いて逃げた有馬記念、有力馬欠場多数の宝塚記念等相手関係や田原の好判断の賜物だと考えられ、マヤノトップガンの実力は正当に評価されていなかった。しかし天皇賞(春)での4勝目と、その勝ちっぷりにて実力を証明した形になった<ref name="優駿-1998-1-6">『優駿』1998年1月号 6頁</ref>。坂口は以下の様に述べている<ref name="優駿-1997-6-
<gallery widths="280px">
115th-tennousho.jpg|ゴール前
MayanoTopGun-1997-4-27sb.jpg|表彰式
</gallery>
==== 引退 ====
天皇賞(春)の後は宝塚記念を見送り、夏休みに。秋は天皇賞(秋)やジャパンカップ出走を目指していた<ref name="優駿-1997-9-7880" />。しかし9月25日、左前脚浅[[屈腱炎]]を発症。程度は軽かったがこの秋の出走が不能となり、前倒しでの引退となった<ref name="優駿-1997-11-5">『優駿』1997年11月号 5頁</ref>。11月30日の昼休み、阪神競馬場にて[[引退試合|引退式]]が行われた<ref name="優駿-1998-1-6" />。
<gallery widths="280px">
MayanoTopGun-1997-11-30i.jpg|引退式
</gallery>
== 種牡馬時代 ==
競走馬引退後は、種牡馬となり、北海道新冠町の[[優駿スタリオンステーション]]で繋養された<ref name="優駿-2001-11-5357" />。初年度から81頭、2年目には三桁に。3年目こそ89頭に戻ったが、4年目以降は再び三桁の繁殖牝馬を集め、ピーク時には150頭を超えることもあったが12年目の2009年の100頭を最後に右肩下がりとなり、15年目の2012年には50頭、2014年には4頭まで減少<ref name="JBIS-種牡馬成績" />。翌2015年3月11日付で[[用途変更]]<ref>{{Cite web|和書|title=マヤノトップガンが種牡馬引退 {{!}} 馬産地ニュース |url=https://uma-furusato.com/news/80928.html |website=競走馬のふるさと案内所 |access-date=2022-12-22}}</ref>。種牡馬を引退した後も優駿スタリオンステーションに残り、功労馬として過ごした。2019年11月3日、老衰のために27歳で死亡した<ref>{{Cite news |title=マヤノトップガンが死ぬ 有馬記念などG1を4勝 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK20266_V01C19A1000000/ |newspaper=日本経済新聞 |date=2019-11-05 |access-date=2022-12-22}}</ref>。
17年の種牡馬生活では、日本国内において1116頭の産駒が血統登録された。2001年から2021年まで出走し、そのうち15頭が重賞優勝を成し遂げている<ref name="JBIS-種牡馬成績" />。複数の重賞を優勝した産駒も輩出し、[[プリサイスマシーン]](母父:[[サンデーサイレンス]])は、2003年から2004年にかけて[[中日新聞杯]]を連覇した他に[[スワンステークス]]、[[阪急杯]]も制して重賞4勝<ref name="JBIS-プリサイスマシーン">{{Cite web|和書 |title=プリサイスマシーン |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000619986/ |website=JBISサーチ |access-date=2022-12-18}}</ref>。[[メイショウトウコン]](母父:[[ジェイドロバリー]])は、[[平安ステークス]]、[[東海ステークス]]、[[エルムステークス]]を制した他に、[[地方競馬]]の[[名古屋大賞典]]、[[ブリーダーズゴールドカップ]]も優勝した<ref name="JBIS-メイショウトウコン">{{Cite web|和書 |title=メイショウトウコン |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000737083/ |website=JBISサーチ |access-date=2022-12-18}}</ref>。さらに重賞2勝のチャクラ(母父:[[カーリアン]])、[[トップガンジョー]](母父:[[ゴールデンフェザント]])などがいる<ref name="JBIS-チャクラ" /><ref name="JBIS-トップガンジョー" />。
また産駒の牝馬も多数繁殖牝馬となり、[[ブルードメアサイアー]]としての産駒の重賞優勝も多数存在する。中でも[[キャッスルトップ]](父:[[バンブーエール]])は2021年[[ジャパンダートダービー]](JpnI)を優勝し、GI級競走優勝を果たしている<ref name="JBIS-キャッスルトップ" />。
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=== 重賞優勝産駒 ===
==== グレード制及びダートグレード重賞優勝馬 ====
*1999年産
**[[
**[[プリサイスマシーン]](2003年、04年[[中日新聞杯]]、2006年[[スワンステークス]]、2007年[[阪急杯]])- 母父:[[サンデーサイレンス]]<ref name="JBIS-プリサイスマシーン" />
*2000年産
**[[チャクラ (競走馬)|チャクラ
*2002年産
**[[
**[[メイショウトウコン]](2007年[[平安ステークス]]、[[東海ステークス]]、[[エルムステークス]]、2008年[[名古屋大賞典]]、[[ブリーダーズゴールドカップ]])- 母父:ジェイドロバリー<ref name="JBIS-メイショウトウコン" />
**[[ホッコーパドゥシャ]]
*2003年産
**[[キングトップガン
*2007年産
**[[デンコウオクトパス
**マサノブルース
*2008年産
**[[ムスカテール]]
*2010年産
**[[メイショウアイアン
====
* 1999年産
** マヤノグレイシー(2009年[[イヌワシ賞]])- 母父:[[ジェイドロバリー]]<ref>{{Cite web|和書 |title=マヤノグレイシー |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000611942/ |website=JBISサーチ |access-date=2022-12-18}}</ref>
* 2002年産
** ヨウヨウ(2004年[[フローラルカップ]])- 母父:[[カコイーシーズ]]<ref>{{Cite web|和書 |title=ヨウヨウ |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000737728/ |website=JBISサーチ |access-date=2022-12-18}}</ref>
** マヤノパワフル(2005年[[のじぎく賞]])- 母父:[[コンキスタドールシエロ]]
* 2005年産
**ウルトラエナジー(2008年[[クイーンカップ (福山競馬)|福山クイーンカップ]])- 母父:アレミロード<ref>{{Cite web|和書 |title=ウルトラエナジー |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000884560/ |website=JBISサーチ |access-date=2022-12-18}}</ref>
*2008年産
**マヤノクレド(2015年[[オータムカップ (笠松競馬)|オータムカップ]]、[[東海菊花賞]]、[[東海ゴールドカップ]])- 母父:[[キンググローリアス]]<ref>{{Cite web|和書 |title=マヤノクレド |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001088560/ |website=JBISサーチ |access-date=2022-12-18}}</ref>
*2010年産
**アラマサシャープ(2013年[[高知優駿]])- 母父:[[コマンダーインチーフ]]<ref>{{Cite web|和書 |title=アラマサシャープ |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001119687/ |website=JBISサーチ |access-date=2022-12-18}}</ref>
<!-- ==== チャクラ ====
{{馬齢新}}{{競走馬簡易血統表
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==== ブルードメアサイアーとしての産駒 ====
===== グレード制及びダートグレード重賞優勝馬 =====
GI級競走は、競走名を'''太字強調'''にて示す。
*2012年産
**[[ブラゾンドゥリス]](2017年[[黒船賞]]、2021年*[[御厨人窟賞]])- 父:[[ノボジャック]]<ref>{{Cite web|和書|title=ブラゾンドゥリス |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001151777/ |website=JBISサーチ |access-date=2022-12-18}}</ref>
*2013年産
**[[ワンダーリーデル]](2019年[[武蔵野ステークス]])- 父:[[スタチューオブリバティ]]<ref>{{Cite web|和書|title=ワンダーリーデル |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001172133/ |website=JBISサーチ |access-date=2022-12-18}}</ref>
*2018年産
**[[キャッスルトップ]](2021年'''[[ジャパンダートダービー]]''')- 父:[[バンブーエール]]<ref name="JBIS-キャッスルトップ">{{Cite web|和書|title=キャッスルトップ |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001261746/ |website=JBISサーチ |access-date=2022-12-18}}</ref>
===== 地方重賞優勝馬 =====
*2007年産
**シャイニングサヤカ
*2011年産
**タイセイバンデット
*2012年産
**
== エピソード ==
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|ref1 = <ref name="jbis_p">{{Cite web|和書|title=血統情報:5代血統表|マヤノトップガン |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000255813/pedigree/ |website=JBISサーチ |access-date=2017-8-26}}</ref>
|mlin = [[ロベルト系]]
|ref2 = [
|flin =
|FN = [[14号族|14-a]]
|