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{{日本の大学
| 大学名 = 慶應義塾大学
| ロゴ = Keio University logo, ja and en 3.svg
| 画像 = Old Keio University Library 3.jpg
| 画像説明 = [[慶應義塾図書館旧館]](国の[[重要文化財]])
| pxl = 250px
| 大学設置年 = [[1920年]]
| 創立年 = [[1858年]]
| 創立者 = [[福澤諭吉]]
| 学校種別 = 私立
|
| 本部所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[三田 (東京都港区)|三田]]二丁目15番45号
| 緯度度 = 35 |緯度分 = 38 |緯度秒 = 56.2 |N(北緯)及びS(南緯) = N
| 経度度 = 139 |経度分 = 44 |経度秒 = 34.5 |E(東経)及びW(西経) = E
| キャンパス = 三田([[東京都]][[港区 (東京都)|港区]])<br />日吉([[神奈川県]][[横浜市]][[港北区]])<br />矢上(神奈川県横浜市港北区)<br />信濃町(東京都[[新宿区]])<br />[[慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス|湘南藤沢]](神奈川県[[藤沢市]])<br />芝共立(東京都港区)<br />浦和共立([[埼玉県]][[さいたま市]][[緑区 (さいたま市)|緑区]])<br />新川崎タウンキャンパス(神奈川県[[川崎市]][[幸区]])<br />殿町タウンキャンパス(神奈川県川崎市[[川崎区]])<br />鶴岡タウンキャンパス([[山形県]][[鶴岡市]])<br />慶應丸の内シティキャンパス(東京都[[千代田区]])<br />慶應大阪シティキャンパス([[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]])
| 学部 = [[慶應義塾大学大学院文学研究科・文学部|文学部]]<br />[[慶應義塾大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]]<br />[[慶應義塾大学大学院法学研究科・法学部|法学部]]<br />[[慶應義塾大学大学院商学研究科・商学部|商学部]]<br />[[慶應義塾大学大学院医学研究科・医学部|医学部]]<br />[[慶應義塾大学大学院理工学研究科・理工学部|理工学部]]<br />[[慶應義塾大学総合政策学部|総合政策学部]]<br />[[慶應義塾大学環境情報学部|環境情報学部]]<br />[[慶應義塾大学看護医療学部|看護医療学部]]<br />[[慶應義塾大学大学院薬学研究科・薬学部|薬学部]]<!--公式ホームページ(https://www.keio.ac.jp/ja/academics/undergraduate/)の学部紹介順でお願いします。 -->
| 研究科 = [[慶應義塾大学大学院文学研究科・文学部|文学研究科]]<br />[[慶應義塾大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学研究科]]<br />[[慶應義塾大学大学院法学研究科・法学部|法学研究科]]<br />[[慶應義塾大学大学院社会学研究科|社会学研究科]]<br />[[慶應義塾大学大学院商学研究科・商学部|商学研究科]]<br />[[慶應義塾大学大学院医学研究科・医学部|医学研究科]]<br />[[慶應義塾大学大学院理工学研究科・理工学部|理工学研究科]]<br />[[慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科|政策・メディア研究科]]<br />健康マネジメント研究科<br />[[慶應義塾大学大学院薬学研究科・薬学部|薬学研究科]]<br />[[慶應義塾大学大学院経営管理研究科|経営管理研究科]]<br />システムデザイン・マネジメント研究科<br />メディアデザイン研究科<br />[[慶應義塾大学大学院法務研究科|法務研究科]]<!--公式ホームページ(https://www.keio.ac.jp/ja/academics/graduate/)の学部紹介順でお願いします。 -->
|ウェブサイト = {{Official URL}}
}}
'''慶應義塾大学'''(けいおうぎじゅくだいがく、[[英語|英]]: Keio University)は、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]に本部をおく[[日本]]の[[私立大学]]。[[大学の略称|略称]]は'''慶應'''(けいおう)、'''慶大'''(けいだい)。「應」が[[字体|旧字体]]のため、[[報道]]などでは「慶応」と表記されることもある。
== 概説 ==
<gallery widths="240px">
ファイル:慶應義塾之目的1896.png|慶應義塾之目的<br />福沢諭吉書。明治29年年11月3日の[[時事新報]]紙上に社説として掲載された。慶應義塾では、この文章を「慶應義塾之目的」と称している。
ファイル:KCL King's Building 3 Final.jpg|慶應義塾のモデルとなった[[英国国教会]]の[[キングス・カレッジ・スクール]]があった[[キングス・カレッジ・ロンドン]]([[:en:King's Building, London|King's Building]] in the [[:en:Strand Campus|Strand Campus]]、[[1831年]]竣工<br />
ファイル:Keio University Tokyo 1869.jpg|[[文久]]2年(1862年)、[[江戸]][[築地]]鉄砲洲[[中津藩]][[中屋敷]]内にあった蘭学塾「慶應義塾」<br />(画面中央左側築山下の平地)
ファイル:Edo Atagoshita Shinzenza 1860.jpg|図中央に有馬家控屋敷([[有馬侶四郎]])とあるのが慶應義塾に当たり、東には[[浜離宮恩賜庭園|浜御殿]]がある。[[江川英龍]]の「[[江川太郎左衛門]]鉄砲調練所」が隣接しており、この江川家屋敷に「分塾」があった。
</gallery>
慶應義塾大学は、[[中津藩]]士の[[福澤諭吉]]が1858年([[安政]]5年)に[[岡見清熙|岡見彦三]]の推挙による藩命から[[江戸]][[築地]]鉄砲洲(現在の[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[明石町 (東京都中央区)|明石町]])の中津藩[[中屋敷]]内の蘭学塾「一小家塾」で講師に就いたことを起源に持つ<ref name="Fukuo-jiden">慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション [https://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/fukuzawa/a52/116 『福翁自傳』]([[時事新報社]]、1899年)153-157頁</ref><ref name="keio-tsukiji">慶應義塾大学 [https://www.tsushin.keio.ac.jp/column/relation/entry/relation_064701.html 東京都「慶應義塾発祥の地記念碑」]</ref><ref name="kamakou-sinbun">{{PDFlink| 鎌高新聞 [https://www.pen-kanagawa.ed.jp/kamakura-h/gaiyou/documents/kamakou_sinbun22.pdf 『福沢諭吉と鎌倉』]}}第22号(神奈川県立鎌倉高等学校 校長室,2023年1月19日)</ref><ref name="stained_glass_20140127">慶應義塾大学 ステンドグラス [https://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/2014/281.html 『慶應義塾維持会の起源とその活動』]2014年1月27日</ref><ref>[https://www.ic.keio.ac.jp/intl_student/scholarship/dfaward.html 日本で最古の高等教育機関] 慶應義塾大学国際センター</ref>{{Efn|慶應義塾は[[開成所]]に先駆けて進級制度を導入して、[[箕作塾]]の約3倍の塾生が集まり、江戸最大の塾となっていた(明治四年六月『新聞雑誌』第五号、[[石河幹明]])。[[適塾]]は浪華仮病院([[大阪大学]])に改組されたが、[[咸宜園]]、[[松下村塾]]、[[鳴滝塾]]には連続性が無く、幕末の洋漢学塾の中で現在まで発展することができたのは慶應義塾だけである([[天野郁夫]]『大学の誕生〈上〉』ISBN 4121020049 第一章 72頁参照)}}{{Efn|なお、[[明治政府]]が「国家ノ須要」な大学([[帝国大学]])として整備したのは[[昌平坂学問所]]を源流に持つ[[東京大学]]であり、最初に[[学士]]([[農学士]])を授与した機関は、[[開拓使仮学校]]である。}}。淵源は、1796年([[寛政]]8年)設置の[[国学]][[藩校]]「[[進脩館]]」まで遡り<ref>[http://syou.oita-ed.jp/nakatu/nanbu/syoudamontonakatushigakou.pdf 生田門と中津市学校]</ref>、1839年(天保10年)に開塾した「[[象山書院]]」及び[[江川英龍]]の「韮山塾<ref>[http://www.nirako-dosokai.org/melmaga/rekishi/sakurai4.html 江川家の江戸屋敷]</ref>」等旧私塾の流れを汲む{{Efn|福澤は[[明治六大教育家]]に数えられ、福澤が開校した慶應義塾は同じく六大教育家に数えられる[[中村正直]]の[[同人社]]、[[近藤真琴]]の[[攻玉塾]]とともに[[明治六大教育家#三大義塾|三大義塾]]と称された(関口直佑「明治初期における東京の私塾」『早稲田大学社会科学研究科社学研論集』12号(197ページ)。}}。
1863年(文久3年)、蘭学塾から[[英学]]塾に変わると、旧幕臣の[[吉田賢輔]]等を教授に迎え、さらに[[1866年]]([[慶応]]2年)、[[親藩]]である[[紀州藩]]([[紀州徳川家]])の命を受けて藩士を迎えて塾舎内に「[[紀州塾]]」を開設<ref>[https://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/1997/207.html 「紀州塾」]</ref><ref>[http://www.keiocampus.net/archives/2006/11/post_956.html 塾統~慶應義塾の伝統第40回「塾長経験・歴代最長」鎌田栄吉]</ref>{{Efn|紀州藩は親藩だったために、幕末には[[長州征伐]]に出陣したりするのだが、地理的環境から[[京都]]、[[大阪]]を通じて反幕勢力の状態も知り、彼らに倣って早くから英学を採り入れたのである。[[鎌田栄吉]]の自伝によると廃藩前に紀州藩で
キングス・カレッジ・ロンドン(KCL)は、[[1829年]]に[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]の命を受けて[[英国国教会]]によって[[サマセット・ハウス]]の一角に創設された大学で、同時に同校に進学する生徒を育成するジュニア部門として[[パブリックスクール]]であるキングス・カレッジ・スクール(KCS)が創設された。キングス・カレッジ・スクール(KCS)はキングス・カレッジ・ロンドン(KCL)の階下に置かれ、当初85人の生徒をもって設立されている<ref name="mita-hyoron-201008"/>。KCLが作られたサマセット・ハウスの一角は、現在もKCLの{{仮リンク|ストランド・キャンパス|en|Strand Campus}}であり、サマセット・ハウス本館は[[1990年]]より[[コートールド・ギャラリー]](Courtauld Gallery)という美術館になっている。一方、KCLの階下にあったKCSは[[1843年]]には約500名の生徒を数えて狭隘な状況に置かれており、都会の真ん中という不適当な環境にもあって、[[1897年]]にロンドン南西郊外の[[ウィンブルドン (ロンドン)|ウィンブルドン]]に移転し、それ以後はKCLとの特別な関係はなくなっている<ref name="mita-hyoron-201008"/>。|group="注釈"|name="KCS-1862"}}。塾名は、[[元号|年号]]の「慶應」とパブリックスクールの訳語である共立学校を意味する「義塾」をとって定めた<ref name="keio-encyclopedia-7"/><ref name="mita-hyoron-201008"/>{{Efn|慶應義塾大学の名は旧字体の「慶應」の他、新字体の「慶応」や、「广」の部分以外をKとOに置き換えた「广+K」「广+O」からなる造字で表記することもある。なお「广+K」「广+O」の造字は、遅くとも1936年(昭和11年)には既に慶應義塾大学の学生の間で使われていた<ref>「東京ことば(28) ABC文体 乱れても遊び感覚」『[[読売新聞]]』朝刊1987年10月16日付23頁</ref>。}}{{Efn|この創設に際しモデルとしたのは、1862年5月(文久2年4月)に[[文久遣欧使節]]として[[イギリス]]滞在中の福澤が、医師の{{仮リンク|トーマス・チェンバース|en|Thomas King Chambers}}の案内で訪問した[[イングランド国教会|英国国教会]]が設立した[[パブリックスクール]]の[[キングス・カレッジ・スクール]]である}}。
1871年(明治4年)に、三田(港区三田)の[[島原藩]][[中屋敷]]跡地を貸し下げられ(翌年払い下げを受ける)、現本部所在地に移った。明治以後、官公私立問わず、近代日本の教育制度、大学制度の立ち上げモデルになり、また後に私立大学となる学校の中で最初に授業料を徴収した<ref name="stained253">[https://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/2007/253.html {{Nowiki|[ステンドグラス] 福澤諭吉の好奇心 〜身近で意外な福澤先生の足跡〜}}]</ref><ref name="mame12">[https://www.keio.ac.jp/ja/about/history/encyclopedia/12.html{{Nowiki|[慶應義塾豆百科] No.12 授業料}}]</ref>。[[廃藩置県|廃藩]]後の1880年(明治13年)までの生徒の割合は、[[慶應義塾の三藩]](越後長岡藩、紀州藩、中津藩)を中心とした[[士族]]が十中八九であった<ref>『慶應義塾入社生徒表』[[1882年]]</ref>。[[1873年]](明治6年)に「[[慶應義塾医学所]]」を開設<ref>[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehyakka/23.html [慶應義塾豆百科] No.23 慶應義塾医学所]</ref>。同年10月には分校「[[大阪慶應義塾]]」<ref>[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehyakka/27.html [慶應義塾豆百科] No.27 大阪慶應義塾]</ref>と「京都慶應義塾」([[京都集書院]])<ref>[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehyakka/29.html [慶應義塾豆百科] No.29 京都慶應義塾]</ref>を設立。また福澤諭吉や[[松下元芳]]が塾頭を務め、塾生が一部移籍してきた[[適塾]]([[大阪大学大学院医学系研究科・医学部|大阪帝国大学医学部]])から受けた影響は特に大きく、[[大阪]]とのゆかりが深い。
1873年(明治6年)に[[修業年限]]を定めて正則・変則両科を新設。1875年(明治8年)に本科・予備科となる。1876年(明治9年)に[[土佐]][[立志学舎]]([[高知県]])の運営に参画。1877年(明治10年)に[[神戸商業講習所]]([[兵庫県]])を開校。同年に本科第三等以上修了者に[[徴兵令|徴兵]]免役の指令が出され、1896年(明治29年)に改正徴兵特典適用、1899年(明治32年)に[[大日本帝国海軍|海軍]]少主計候補生(主計[[少尉]]候補生)の受験資格を得た。1878年(明治11年)には分校「[[三菱商業学校]]([[明治義塾]])」設置に参画。1879年(明治12年)に専門教育課程として[[慶應義塾夜間法律科|夜間法律科]]([[専修学校 (旧制)]]へ改組:後の[[専修大学]])、[[理学科]]、[[支那語科]]、[[簿記講習所]]を設置。1880年(明治13年)には[[興亜会]]へ参画。その他、主な関連校に[[藍謝堂]]([[高島学校]])や[[高山歯科医学院]]、[[耕余義塾]]、[[亮天社]]、[[三田英学校]]、[[長岡洋学校]]等がある。[[西南戦争]]が起きた1877年(明治10年)頃から多くの塾生が郷里に帰郷した為、慶應義塾は経営難に陥り、福澤も一時は[[廃校|廃塾]]を真剣に考えたが、義塾存続を望む門人らの尽力により1880年(明治13年)に「慶應義塾維持法案」を作成して財政立て直しを行い、翌年には「慶應義塾仮憲法」が制定され、慶應義塾は理事委員中心の組織経営へと移行した。さらに1889(明治22年)には「慶應義塾規約」が制定されて社頭と塾長の職掌が明確化されたほか、今日まで続く[[慶應義塾評議員会|評議員会]]の制度が設けられるなどの組織改革が行われた。
1890年(明治23年)に'''大学部'''([[文学部|文学]]・[[理財]]・[[法学部|法律]]の三科)を開設し{{Efn|大学部設置までの[[文部省]]による学校区分は「各種学校」(『文部省年報』)となっている。}}、従来の正科・別科を[[慶應義塾普通部|普通部]]とした。1898年(明治31年)に[[慶應義塾幼稚舎|幼稚舎]]・普通学科・大学科の一貫教育体制が確立。同時に大学科に政治科を開設した。晩年の福澤諭吉は義塾経営の第一線からは半ば退いていたが、大学部存廃問題のような重要局面では影響力を行使し、1897年(明治30年)8月から一時塾長に復帰した<ref>『慶應義塾百年史』 中巻(前)、189-201頁</ref>。福澤は1901年(明治34年)2月3日に没した。同月6日に宮中から祭粢料一千円が遺族に下賜され、7日に[[衆議院]]は哀悼決議案を議決した<ref>[[石河幹明]] 『福澤諭吉伝 第四巻』 [[岩波書店]]、1932年、371頁</ref>。
1904年(明治37年)に大学部が[[専門学校令]]による専門学校となり、1907年(明治40年)に学校組織が[[財団法人]]として認可された。大学部文学科は1901年(明治34年)に一度廃止されたが3年後に復活し、[[永井荷風]]を主幹として、[[文芸雑誌]]『[[三田文学]]』を1910年(明治43年)に創刊。卒業生は明治初期、官吏、教育界が主流であったが、[[明治十四年の政変]]の後、漸次に[[経済人]]、[[実業家]]が勃興するようになる。また、1880年(明治13年)に日本最古の社交倶楽部「[[交詢社]]」を設立した<ref>[http://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehyakka/38.html [慶應義塾豆百科] No.38 交詢社]</ref>。1912年(明治45年)に煉瓦造の[[慶應義塾図書館旧館|創立五十年紀念図書館]]が開館。その[[ゴシック・リヴァイヴァル建築|ゴシック式]]の建築美は慶應義塾のシンボルとなった。慶應義塾に理科系教育部門を開設したいという希望は福澤の存命中からあり、明治末から大正初期に工学科開設案が出たこともあったが<ref>『慶應義塾百年史』 中巻(前)、796-805頁</ref>、最終的に[[医学部|医学科]]を開設することに決定し、[[1917年]]([[大正]]6年)に[[北里柴三郎]]を学長<ref name="keio150">慶應義塾150年史資料集編纂委員会編『慶應義塾150年史資料集 第2巻』(慶應義塾、2016年)426頁</ref>に迎えて医学科予科の授業を開始。翌年看護婦養成所(看護医療学部の起源)を附設した。
1920年(大正9年)には[[大学令]]による日本最初の私立大学([[旧制大学]])として新発足し{{Efn|大正8年8月8日申請、大正9年2月5日、認可第一号『創立百二十五年 慶應義塾年表 第56頁』。修業年限は予科3年、学部3年(医学部は4年)とし、大学院は年限を定めず。}}、[[慶應義塾大学大学院文学研究科・文学部|文学部]]、[[慶應義塾大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]]、[[慶應義塾大学大学院法学研究科・法学部|法学部]]、[[慶應義塾大学大学院医学研究科・医学部|医学部]]の4学部からなる[[総合大学]]となり、[[大学予科|予科]]と[[大学院]]を附設した。このとき、学事に関する最高意思決定機関として大学評議会が設けられ<ref>『慶應義塾百年史』付録(335頁)</ref>、同年11月には[[四谷区]][[信濃町 (新宿区)|西信濃町]]に[[慶應義塾大学病院]]も開院した。従来からの専門学校令による課程は高等部(当初は[[大学専門部 (旧制)|専門部]])に改組され、1945年([[昭和]]20年)に廃止されるまでに4,419名の卒業生を送り出した<ref>『慶應義塾百年史』中巻(後)853-859頁</ref>。[[関東大震災]]の被害復旧の目途が立った大正末期頃から校地拡張の議が起こり、1934年(昭和9年)に日吉キャンパスを開設した。
1936年(昭和11年)に米国諸大学を視察した[[小泉信三]]塾長は工学教育の必要性を痛感し、その立案に着手したところ、塾員・[[藤原銀次郎]]も同様の企画を進め、適当な時期にこれを義塾に寄附する意向を示したため、義塾はその計画をすべて藤原に譲ることとし、1939年(昭和14年)に旧制[[藤原工業大学 (旧制)|藤原工業大学]]が日吉構内に開校した。その後、旧制藤原工大は当初の構想通りに慶應へ寄附され、1944年(昭和19年)に[[慶應義塾大学大学院理工学研究科・理工学部|慶應義塾大学工学部]]となった。[[太平洋戦争]]下の1942年(昭和17年)に[[中国大陸]]および[[南方]]の農業開発を目指して[[農学部]]を増設しようとしたことがあり([[慶應義塾獣医畜産専門学校|獣医畜産専門学校]])、戦後の1947年(昭和22年)には獣医師の免許を得ていた。戦時下の[[空襲]]で三田・日吉・信濃町の各キャンパスは甚大な被害を受け、さらに終戦後まもなく[[アメリカ軍|米軍]]によって日吉を接収されたため、戦後の大学再建には大きな困難を伴った。
1949年(昭和24年
2021年(令和3年)に、[[高山歯科医学院]]を前身とする学校法人[[東京歯科大学]]と2023年(令和5年)4月を目途に歯学部統合および法人の合併に協議を開始したが、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]を踏まえ、統合目途を設けずに協議を継続する
2023年([[令和]]5年)現在の大学は'''10学部'''、大学院は'''14研究科'''となっている<ref>[https://www.keio.ac.jp/ja/research/campus/ 研究紹介:<nowiki>[慶應義塾]</nowiki>] 2023年7月25日閲覧。</ref>。[[2000年代]]以降に研究所や社会人教育拠点などの全国展開も行われ、丸の内・大阪の両シティキャンパス、新川崎・殿町・鶴岡の各タウンキャンパスが設けられた。
== 大学の特徴 ==
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=== 塾訓、目的 ===
{{Main|慶應義塾}}
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; 兵法
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慶應義塾では新[[銭座]]時代から心身共に健康を保つ手段として学生の[[体育]]を奨励し、1892年(明治25年)の[[體育]]會(体育会)を創設<ref>[https://www.keio.ac.jp/ja/about/history/encyclopedia/49.html {{Nowiki|[慶應義塾豆百科] No.49 体育会の創設}}]</ref>によって専門家を雇って指導にあたらせた。初めは[[乗馬]]が主であり、1878年(明治11年)から[[剣術]]稽古が始まり、1894年(明治27年)には[[神道無念流]]の[[根岸信五郎]]を師範に招いた。のち[[柔術]]、[[ボート競技|端艇]]、陸海軍操練、[[弓術]]、[[歩行|徒歩]]の各部が加わった。
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[[戦中]]の様子を窺うことのできる重要な資料として、[[大日本帝国海軍]](旧海軍)との間には深い関わりがある(当時の塾長は[[小泉信三]])。[[1944年]]3月に[[軍令部]]第三部が[[日吉 (横浜市)|日吉]]校舎に入ると、次いで寄宿舎に[[連合艦隊]]司令部が、後に[[海軍省]]と[[海軍航空本部]]、[[海軍艦政本部]]の[[日吉台地下壕]]が構築され、日吉は実質的な海軍の中枢となった。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])における[[台湾沖航空戦]]、[[レイテ沖海戦]]、[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]の出撃([[坊ノ岬沖海戦]])などの命令はこの日吉台地下壕から発せられたものであった<ref>[http://hiyoshidai-chikagou.net/ 日吉台地下壕保存の会]</ref>。
ここまでの経緯としては、[[盧溝橋事件]]をきっかけに[[日中戦争]]([[支那事変]])が勃発すると、大学内でも[[配属将校]]はもちろん、[[特別高等警察]](特高)が来るようになった。授業では[[自由主義]]や[[共産主義]]は厳しく弾圧され、[[国防学|国防論]]などの[[軍国主義]]的な講義が増え、[[学校教練|教練]]も次第に厳しくなっていった(慶應義塾は当時の小泉信三塾長などが学究的に共産主義に不協和なスタンスをとったため<ref>小泉信三は1949年(昭和24年)『[[共産主義批判の常識]]』を上程している。</ref>、特高などによる監視はそれほど厳しくはなく、塾生は比較的自由に学問に取り組むことができた<ref>[https://web.archive.org/web/20090607140513/http://sankei.jp.msn.com/life/education/090412/edc0904121656000-n1.htm 「全国初の海軍地下壕施設を発掘 慶応日吉キャンパス」] MSN産経(2009年4月12日)</ref><ref>[
海軍省と慶應義塾が大学校舎を貸与する契約を結んだ背景には、まず1943年12月の[[学徒出陣]]が挙げられる。文系学生の徴兵猶予が無くなり、在学中でも20歳に達すると徴兵されたことから、校舎のほとんどが空き教室となっていた。小泉信三の長男[[小泉信吉]]の同級生が軍令部第三部第五課に在籍しており、本土空襲に備えて移転先を探していた軍令部の依頼を取り次ぐ形で、日吉校舎の貸与を小泉学長に願い出ている。また[[文部省]]からも各大学に余裕のある建物を国に貸与するよう通達もでていたことから小泉学長もこれを承諾した<ref>『慶應義塾 歴史散歩 キャンパス編』122頁</ref>。
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{{See also|慶應義塾}}
=== 前史 ===
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* [[寛政]]{{0}}9年(1797年) - [[豊前国]][[中津藩]]第5代藩主[[奥平昌高]]が[[藩校]][[進脩館]]を設置。
* [[天保]]{{0}}9年(1838年) - [[緒方洪庵]]が[[大阪|大坂]][[船場 (大阪市)|船場]]で[[適塾]]を開く<ref>[http://www.keio-up.co.jp/mita/r-shiseki/s0811_1.html 慶應義塾機関誌|三田評論 第29回 適塾と緒方洪庵] 2008年11月</ref>。
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=== 慶應義塾 ===
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* 慶応4年/[[明治]]元年(1868年)
** 4月 - [[木村芥舟|木村摂津守]]の世話により芝新銭座に移転{{Efn|現在の港区浜松町1丁目([https://www.keio.ac.jp/ja/about/history/ 歴史:[慶應義塾]])。}}{{Efn|慶応3年6月に鉄砲洲一帯が[[外国人居留地]]に指定され、中津藩中屋敷も立ち退かねばならなくなったため(『慶應義塾百年史』上巻 236頁)。}}、英学塾「'''[[慶應義塾]]'''」を創設{{Efn|それまでは藩中では「蘭学所」、世間では「福澤塾」と呼んでいた(『慶應義塾百年史』上巻 17頁)。}}。『慶應義塾之記』を発表<ref>[https://www.keio.ac.jp/ja/about/history/encyclopedia/7.html <nowiki>[慶應義塾豆百科]</nowiki> No.7 塾名の由来]</ref>。
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=== 慶應義塾大学部 ===
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* 1890年(明治23年)
** 1月 - 大学部が発足し、文学・理財・法律の三科を設置。従来の正科・別科を[[慶應義塾普通部|普通部]]とした。
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** 4月 - 理財学会発足。
** 9月 - 寄宿舎内に消費組合を設立<ref>『慶應義塾百年史』中巻(前)727-729頁</ref>。
** 11月 - [[慶應義塾中等部#綱町グラウンド|三田綱町球場]]を開設。最初の[[早慶戦|慶早野球戦]]を同球場で開催。
* 1904年(明治37年)
** 1月 - 大学部が[[専門学校令]]による[[旧制専門学校|専門学校]]となる。
364 ⟶ 356行目:
=== 旧制慶應義塾大学 ===
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* 1920年(大正9年)
** 2月 - [[大学令]]による'''慶應義塾大学'''([[旧制大学|旧制]])設立認可<ref>『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954364/2 官報]』1920年2月6日</ref>。
477 ⟶ 469行目:
** 4月 - 医学部附属看護婦養成所と産婆養成所が合併し、看護婦産婆養成所となる<ref name="gakuin">[https://www.keio.ac.jp/ja/about/history/encyclopedia/75.html <nowiki>[慶應義塾豆百科]</nowiki> No.75 厚生女子学院]</ref>。農学研究所を設ける(1948年廃止)。空襲により日吉キャンパス被災。
** 5月 - 空襲により三田・四谷の両キャンパス被災{{Efn|このとき[[三田大講堂]]も焼失した([https://www.keio.ac.jp/ja/news/2015/osa3qr000001bvsw.html [特集]戦中、戦後の義塾をめぐって(2)]) 2020年10月14日閲覧。}}。
** 7月 - [[戦時教育令]]および同施行規則に基づき学徒隊規程制。図書館蔵書を[[長野県]][[更級郡]][[稲荷山町]](現在の[[千曲市]])にあった[[稲荷山宿#史跡|高村家別邸]]([[高村象平]])に疎開。
** 9月 - 米軍によって日吉キャンパスが接収される。高等部廃止{{Efn|最終の在学生は1946年9月まで在籍(『慶應義塾百年史』付録 386頁)}}。
** 10月 - 旧陸軍[[登戸研究所]]跡地を借用(登戸仮校舎、1950年まで)<ref>『慶應義塾百年史』中巻(後)1052-1054頁</ref><ref>[https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p00000o50em.pdf 2 「登戸」以降の跡地 - 明治大学]</ref>。
505 ⟶ 497行目:
=== 新制慶應義塾大学 ===
==== 20世紀 ====
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* 1949年(昭和24年)
** 4月 - [[学制改革]]により[[新制大学]]となる。工学部が[[北多摩郡]][[小金井市|小金井町]]に移転<ref name="沿革">[https://www.st.keio.ac.jp/about/history.html 「沿革」|慶應義塾大学理工学部]</ref>。第一・第二高校を統合、[[慶應義塾高等学校|慶應義塾高校]]設置。
541 ⟶ 533行目:
** 4月 - 大学院博士課程(5研究科)を設置。
** 7月 - 海外留学制度復活{{Efn|戦争の影響で1938年以降は留学生の派遣を中断していた(『慶應義塾百年史』下巻 68-69頁)。}}。
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[[ファイル:
* 1954年(昭和29年)1月 - 三田キャンパスに福澤諭吉胸像を設置<ref>『慶應義塾百年史』下巻 24頁</ref>。
* 1956年(昭和31年)
617 ⟶ 611行目:
** 4月 - 工学部に数理工学科を設置。伊勢慶應病院開院(2003年閉院。現・[[伊勢ひかり病院]])。
** 12月 - 図書館の[[ステンドグラス]]復元。
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* 1975年(昭和50年)
** 9月 - 中等部にてユニコン像復元<ref name="unicorn" />。
673 ⟶ 667行目:
** 4月 - 三田キャンパス東館竣工。「幻の門」を移設<ref>[https://www.keio.ac.jp/ja/about/history/encyclopedia/81.html [慶應義塾豆百科]No.81 幻の門]</ref>。文学部5学科を人文社会学科に統一<ref name="flet" />。 [[K2タウンキャンパス|新川崎タウンキャンパス]]開設。
** 第1回矢上祭を開催<ref name="festival"/>。
** 12月 - 大晦日に[[慶應義塾#世紀送迎会|世紀送迎会]](第2回)開催。
==== 21世紀 ====
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* 2001年(平成13年)
** 4月 - 看護短大を[[慶應義塾大学看護医療学部|看護医療学部]]に改組。[[慶應義塾大学先端生命科学研究所|先端生命科学研究所]]設立。丸の内シティキャンパス開設。福澤公園に旧制四学校(商業学校・商工学校・工業学校・高等部)記念碑を建立。
751 ⟶ 745行目:
** 5月 - 医学部開設100年記念事業による慶應義塾大学病院グランドオープン<ref>[https://www.hosp.keio.ac.jp/oshirase/hosp/detail/41927/ 正面玄関がオープンし慶應義塾大学病院はグランドオープンを迎えました(写真を更新して再掲) | 病院からのお知らせ | 慶應義塾大学病院]</ref>。
** 7月 - [[慶應義塾中等部#綱町グラウンド|綱町グラウンド]]が[[日本野球聖地・名所150選]]に選定される。
* 2023年(令和5年)11月 - 予防医療センターが[[麻布台ヒルズ森JPタワー|麻布台ヒルズ]]に移転<ref>[https://www.hosp.keio.ac.jp/oshirase/hosp/detail/42816/ 予防医療センターが麻布台ヒルズに拡張移転しました | 病院からのお知らせ | 慶應義塾大学病院] 2023年12月28日閲覧。</ref>。
* 2025年(令和7年)3月 - 三田キャンパス北別館竣工<ref>[https://www.keio.ac.jp/ja/news/2025/3/24/27-165703/ 慶應義塾大学三田キャンパスに北別館が完成-社会とともに未来の課題に挑む新たな知の拠点:<nowiki>[慶應義塾]</nowiki>] 2025年3月31日閲覧。</ref>。
== 基礎データ ==
=== 所在地 ===
東京都と神奈川県に6[[キャンパス]]を擁するほか、全国各地にタウンキャンパスなどを展開している<ref>[https://www.keio.ac.jp/ja/about/campus/ キャンパス:<nowiki>[慶應義塾]</nowiki>]</ref>。
[[
* 三田キャンパス([[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]、{{ウィキ座標|35|38|57.3|N|139|44|34.2|E|region:JP-13_type:edu|位置|name=三田キャンパス}})
* 日吉キャンパス([[神奈川県]][[横浜市]][[港北区]]、{{ウィキ座標|35|33|16.3|N|139|38|55.3|E|region:JP-14_type:edu|位置|name=日吉キャンパス}})
794 ⟶ 789行目:
==== 校旗・校色 ====
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[[黄色|イエロー]] (Yellow{{color|#f1c400|■}})、[[青|ブルー]] (Blue{{color|#001e62|■}})、[[赤|レッド]] (Red{{color|#c63527|■}}) の三色を[[スクールカラー|ブランドカラー]]としている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keio.ac.jp/ja/assets/download/about/learn-more/logo/index/guideline.pdf |format=PDF |title=慶應義塾のシンボルをさらにご愛用いただくために |accessdate=2020-02-19 |publisher=慶應義塾大学}}</ref>。[[旗|校旗]](塾旗)はペンマークのイエローを含んだブランドカラー三色の色使いであることから、三色旗とも呼ばれている。しかし実際には青と赤の2色を3段に配したもので、例えば青、白、赤の[[フランスの国旗]]のように、3色からなるものではない<ref>[https://www.keio.ac.jp/ja/about/history/encyclopedia/51.html {{Nowiki|[慶應義塾豆百科] No.51 『三色旗』}}]</ref>。明治27年11月26日に[[日清戦争]]における[[旅順口区|旅順口]]陥落の祝賀として[[カンテラ行列]]を行った際に掲げられていたものが最初であるとされる。なお現在、大学紋章、ペンマーク、塾旗は、それぞれ[[特許庁]]に商標登録されており、慶應義塾および慶應義塾大学のサービスマークとして法的に保護されている。
891 ⟶ 886行目:
:前身の[[理財#理財(学)科|理財科]]は1890年に開設された。[[大学令]]による大学となった1920年(大正9年)、理財科は[[慶應義塾大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]]に改称。授業科目は経済学系統と商学系統の科目群に分類されており、1938年(昭和13年)には経済学科と商業学科が設置されたが、1946年(昭和21年)に経済・商業の2学科制は廃止された<ref>[http://koara-a.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=Keio_mitalib_A_37728_K1_1-B {{Nowiki|[koara-a]慶應義塾百年史. 別巻, 大学編}}]</ref>。
[[環境経済学]]などの他の大学ではあまり開講されていない学問分野もある。Professional Career Programme (PCP) という、経済学教育を[[英語]]で行うということを特色としたプログラムが用意されている。授業はもとより、[[教員]]や[[ティーチングアシスタント|TA]]との連絡や会話も英語で行われている。これによって、英語力の強化と経済学を強みにしたキャリア構築の可能性を学生に提供している。PCPとしては、国内外の[[専門大学院]]進学の基礎となる力を身につけることを目標に掲げている。また、[[東京
<!--
* PEARL(Programme in Economics for Alliances, Research and Leadership)
911 ⟶ 906行目:
{{main|慶應義塾大学大学院法学研究科・法学部}}
;法律学科
:[[英米法]]を日本語で教授する夜間法律科を旧[[長州藩|山口藩]]士[[児玉淳一郎]]の発案で、1879年(明治12年)12月に日本で初めて発足させたもの(最初の講義は[[相馬永胤]])が法律学科の源流となっている{{Efn|まもなく相馬永胤ら講師陣が、慶應義塾から独立して[[専修学校 (旧制)|専修学校]](現:[[専修大学]])を設立したため、慶應義塾夜間法律科は閉鎖することとなった。}}。夜間法律科が[[専修学校 (旧制)|専修学校]](現:専修大学)として分離独立した後、1890年(明治23年)に大学部法律科として再出発し、[[ハーバード大学]]の教員を迎え入れた。なお、法学部における成績優秀者は、[[慶應義塾大学大学院法学研究科・法学部|慶應義塾大学大学院法学研究科]]の入学試験が免除される。免除制度は存在しないものの、かかる成績優秀者の中には[[慶應義塾大学大学院法務研究科]](法科大学院)へ合格・進学し、[[司法試験]]を経て[[法曹]]になる者も一定数存在する。法学研究科および法務研究科(法科大学院)については、以下の該当項目を参照。
;政治学科
947 ⟶ 942行目:
=== 医学部 ===
{{main|慶應義塾医学所|慶應義塾大学大学院医学研究科・医学部}}
[[
;医学所
:福澤諭吉は若い頃から[[西洋医学]]に関心を持っていた。[[適塾]]では医学、物理学の蘭学書でオランダ語を学び、医学的知識を身につけていった。 1859年、[[咸臨丸]]でアメリカに行った時、福澤は[[サンフランシスコ]]で民間病院を見学した。1861年、[[文久遣欧使節|文久遣欧使節団]]のメンバーとして[[フランス第二帝政|フランス]]の首都[[パリ]]や[[ドイツ帝国]]、[[ロシア帝国]]を訪れた時も、福澤は各地の病院施設を熱心に見学した。福澤は「西洋医学」の普及こそ日本に必要だと感じていた。
957 ⟶ 952行目:
;医学科
[[
:1917年(大正6年)4月、慶應義塾大学部に[[医学科]]が開設され、初代の医学科学長<ref name=keio150/><ref>「一、大学部本科各科ニ学長一名ヲ置ク」(慶應義塾 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940248/65 慶應義塾総覧 大正6年]』120頁)</ref>には[[北里柴三郎]]が就任した。北里は理想的な医学教育機関を作る為に、教授陣メンバーに[[学校法人北里研究所|北里研究所]]の所員を中心とする[[北島多一]]ら門下生と、[[秦佐八郎]]、[[志賀潔]]らを加え、医学科予科の授業を三田山上で開始した。同年11月、慶應義塾は[[四谷区|四谷]]の陸軍用地を購入し、1919年(大正8年)4月、医学科本科1年の授業を四谷の新校舎で開始した<ref>『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464338/146 慶應義塾七十五年史]』223頁</ref>。1920年(大正9年)、慶應義塾大学部医学科は[[大学令]]により「[[慶應義塾大学医学部]]」に昇格し(医学部長は北里が続けて就任)、[[慶應義塾大学病院|大学病院]]が新たに開院した。北里柴三郎は「予は福澤先生の門下では無いが、先生の恩顧を蒙つたことは門下生以上である。故に不肖報恩の一端にもならんかと、進んで此の大任を引受けたのである。」と語り<ref>[[宮島幹之助]]、[[高野六郎]]編 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209236/77 北里柴三郎伝]』([[北里研究所]]、1932年)101頁</ref>、1928年(昭和3年)まで医学部長として慶應医学部を陣頭指揮し、その後も顧問として慶應医学部を支え続けた。また、慶應義塾大学部医学科の開設の時には、[[皇室]]から三万円、[[三井財閥]]から十万円の支援金を受けた。このように慶應義塾大学医学部は私立の中では唯一[[旧制医学専門学校]]からの昇格ではない私立医学部である。1906年(明治39年)に[[南満州鉄道|南満州鉄道株式会社]]他[[満州国]]に大日本帝国が進出すると、教授・[[金井章次]]との関係から[[南満医学堂]]、[[満鉄衛生研究所]]に多くの教授を送り込んだ<ref>{{Cite book|和書 |author=田中耕司 |date=2006-10-18 |title=岩波講座「帝国」日本の学知〈第7巻〉実学としての科学技術 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4000112574}}</ref>。
:慶應義塾大学では看護学系が[[慶應義塾大学看護医療学部|看護医療学部]]として分かれているため、医学部に医学科のみが置かれている。慶応医学部は、6年教育であり、日吉キャンパスで主に一般教養を、信濃町キャンパスで医学を学ぶ。2001年度入学生までは信濃町キャンパスが2年の秋学期一部から(2年次の秋学期の特定曜日のみ信濃町で解剖学などの実習)だったため、旧制大学時代に倣って1,2年を予科1、2と呼び、3、4、5、6年を学1、2、3、4と呼ぶ。基礎医学と[[臨床医]]学の連携の下、患者側の視点に立った臨床のための医学の発展を目的として設立されている<ref>[https://www.hosp.keio.ac.jp/ 慶應義塾大学病院]</ref>。医学部6年生の夏休みにアメリカの[[アメリカ合衆国の医学教育#
==== 沿革 ====
965 ⟶ 960行目:
* 1873年(明治{{0}}6年) - 慶應義塾内に「[[慶應義塾医学所]]」が開設される。所長は慶應義塾出身の医師[[松山棟庵]]。また、[[杉田玄端]]を呼んで[[尊王舎]]を訓練の場所とした。
* 1880年(明治13年) - 慶應義塾医学所が閉鎖される。
[[
* 1916年(大正{{0}}5年) - 慶應義塾大学部に医学科の設立認可。
* 1917年(大正{{0}}6年) - 慶應義塾大学部医学科が開設される<ref group="注釈">当初は三田の旧普通部教室を主に使用した(『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464338/146 慶應義塾七十五年史]』223頁)。</ref>。[[北里柴三郎]]が学長に就任<ref name=keio150/>。
992 ⟶ 987行目:
{{main|藤原工業大学 (旧制)|慶應義塾大学大学院理工学研究科・理工学部}}
;藤原工業大学
:[[
:1936年(昭和11年)、慶應義塾の塾長[[小泉信三]]は[[ハーバード大学]]創立300年祝典に参列するために渡米した。そこで、小泉は各地の諸大学を視察し、急激に発展向上しつつあった工学一般の世界の趨勢を目撃し、慶應義塾も工学部設立が急務であることを実感した。これにより、当時、慶應義塾の理事であった[[槇智雄]]が中心となって工学部の設立の為の研究調査を開始することになった。一方、[[王子製紙 (初代)|王子製紙]]の社長であり塾員でもあった[[藤原銀次郎]]は、各国の製紙工業などをつぶさに視察し、その長短を比較研究して、日本の製紙工業はもとより、日本の工業界全体の発展の為に自分は何をするべきか思いを巡らせていたが、たまたま1935年(昭和10年)、[[アラスカ州|アラスカ]]に出張した帰途、[[スタンフォード大学]]を見学し、この大学の歴史、教育、研究、大学の使命・社会貢献などに深い感銘を受けた。さらに日本国内の各大学の工学部も視察してその大学の特色を詳しく研究した。やがて、藤原は自分の思い描く理想的な工業大学を日本に設立して、それがあたかもスタンフォード大学のスタンフォードたらんとすることを密かに考えた。また、藤原はかねてより評議員として慶應義塾の教育にも深い関心を持っていた。こうして慶應義塾の意図するところと藤原の意図するところが一致した。小泉信三と藤原銀次郎との間では工業大学の設置構想について折衝が始まり、財団法人[[藤原工業大学 (旧制)|藤原工業大学]]の創立、その大学の教育・研究は慶應義塾が担当し、校舎は日吉の慶應義塾構内に建設することが決まった。そして、ついに、1939年(昭和14年)5月26日、国から設置の認可が下りて、同年6月17日、藤原銀次郎が理事長、小泉信三が学長、槇智雄が理事、となって「[[藤原工業大学 (旧制)|藤原工業大学]]」が開校した。当初は[[機械工学科]]・[[電気工学科]]・[[応用化学科]]の3学科だけの私立単科工業大学であったが、創立後、大学の一応の目的を達成した時、または藤原銀次郎が亡くなった時はこの藤原工業大学の全部が慶應義塾に寄付されることとなった。
1,002 ⟶ 997行目:
==== 沿革 ====
[[
* 1939年(昭和14年) - 藤原銀次郎により[[藤原工業大学 (旧制)|藤原工業大学]](機械工学科・電気工学科・応用化学科)が開校。
* 1944年(昭和19年) - 藤原工業大学が慶應義塾に寄付され慶應義塾大学工学部となる。
1,033 ⟶ 1,028行目:
=== 総合政策学部・環境情報学部 ===
[[
{{main|慶應義塾大学総合政策学部|慶應義塾大学環境情報学部}}
;総合政策学科、環境情報学科
1,064 ⟶ 1,059行目:
=== 薬学部 ===
[[
{{main|共立薬科大学|慶應義塾大学大学院薬学研究科・薬学部}}
医学部、看護医療学部、理工学部などと連携することで、創薬から臨床までを一貫して追求できる環境が整っている。前身は[[共立薬科大学]]。
1,091 ⟶ 1,086行目:
== 通信教育課程 ==
{{See also|慶應義塾大学通信教育課程}}
[[
通信教育課程には、文学部・経済学部・法学部がある{{Efn|大学側が公式に行っていることは学位授与とそれに伴う教職課程であり、また、通信教育課程そのものは各学部に属するが、便宜上この箇所に項目を設け、まとめて記載する。}}。公益財団法人私立大学通信教育協会に加盟している。
1,118 ⟶ 1,113行目:
* 日本の大学に2年以上在籍し、[[卒業所要単位]]として62単位以上修得している者。
* {{lang|en|Associate Degree}}の資格を有している外国の短期大学卒業者。
* 出身学科に関係なく、一般教育科目の人文・自然・社会の領域から18単位を一律に認定される。なお、[[専修学校]]専門課程([[専門学校]])修了者は
|}
{|class=wikitable
1,211 ⟶ 1,206行目:
== 附属機関 ==
=== 附属研究所 ===
[[
[[
* [[慶應義塾大学経済研究所]]
* 慶應義塾総合研究推進機構
1,232 ⟶ 1,227行目:
=== 附属センター ===
[[
[[
[[
* 研究支援センター本部
** 三田研究支援センター
1,270 ⟶ 1,265行目:
-->
=== メディアセンター ===
[[
[[
[[
慶應義塾大学では[[大学図書館|図書館]]をメディアセンターと呼び、主要6キャンパスのメディアセンターで様々な書籍やデジタルコンテンツの公開を行っている<ref>[https://www.lib.keio.ac.jp/about/overview.html 概要・沿革 | 慶應義塾大学メディアセンター]</ref>。
* メディアセンター本部
1,291 ⟶ 1,286行目:
=== 博物館など ===
[[
* [[慶應義塾大学アート・センター|慶應義塾大学アート・スペース]]<ref>[http://www.art-c.keio.ac.jp/kuas/ 慶應義塾大学アート・センター(KUAC)]</ref>
: 三田キャンパス南別館1階に開設された小美術館。
1,301 ⟶ 1,296行目:
: 前身は1966年に開園した旧共立薬科大学浦和薬用植物園。
[[
=== 出版会 ===
1,512 ⟶ 1,507行目:
=== 部活動・クラブ活動・サークル活動 ===<!--
各大学によって、活動の呼称や範囲が異なっているので、学生組織の規約または大学事務局発行の資料などに基づいて適切な節名とする。-->
[[
[[体育会系|体育会]]の正式名称は「慶應義塾體育會」(けいおうぎじゅくたいいくかい)である。「慶應義塾大学体育会」としている文献が存在するが、正式名称では「大学」の語は使用しない。
[[2023年]]現在、43部59部門が所属しているが<ref>[https://www.uaa.keio.ac.jp/about/student_headquarter.html 体育会本部|慶應義塾体育会] 2023年8月24日閲覧。</ref>、[[大学スポーツ協会]]には非加盟。
1,521 ⟶ 1,516行目:
* 戦後は[[大阪大学]]、[[一橋大学]]との間でスポーツ交流戦を行う構想があったが、実現していない。
[[ファイル:Keio Univ. baseball team ca. 1928–29.jpg|200px|thumb|[[慶應義塾体育会野球部]](1928-29年頃)]]
[[ファイル:Sokeisen Spring 2008 - Waseda and Keio Universities' players.JPG|200px|thumb|[[慶早戦]](2008年春)]]
[[ファイル:Rugby Keio University vs Doshisha University.JPG|200px|thumb|ラグビー慶應対同志社定期戦(2015年)]]
[[ファイル:ソッカー部グランド.jpg|200px|thumb|ソッカー部グラウンド(日吉)]]
==== 野球 ====
[[慶應義塾体育会野球部|野球部]]([[硬式野球]]部)は[[東京六大学野球連盟]]に加盟している。東京六大学野球が発祥する大元となった[[早慶戦|慶早戦]]の盛り上がりがきっかけとなり、ラグビー部や端艇部(ボート競技)等でも慶早戦が行われるようになった。詳細は「[[早慶戦|慶早戦]]」参照。
==== 陸上 ====
1,540 ⟶ 1,535行目:
大学では應援指導部Majorettes、チアリーダーズUNICORNS、チア&ソングリーダーズUNICORNSの3団体が存在する。
==== スケート(ホッケー・フィギュア・スピード) ====
1923年創部。毎年1月と5月に行われる[[ホッケー]]部門の慶早戦が有名。
1,550 ⟶ 1,543行目:
==== アメリカンフットボール ====
[[慶應義塾體育會アメリカンフットボール部|アメリカンフットボール部]]の愛称はユニコーンズ(UNICORNS)である。[[関東学生アメリカンフットボール連盟]]に所属している。
==== バスケットボール ====
[[慶應義塾體育會バスケットボール部ユニコーンズ|バスケットボール部]]の愛称もユニコーンズ(UNICORNS)。[[全日本学生バスケットボール選手権大会]]初代王者でもある。
==== 剣道 ====
[[慶應義塾體育會剣道部|剣道部]]は1878年創部で、日本中で同大学柔道部に次ぐ古い歴史を持つ部活動とされている。
==== 馬術 ====
1,569 ⟶ 1,557行目:
==== テニス ====
慶應義塾大学硬式庭球[[同好会]]連盟という[[テニス]][[クラブ活動|サークル]]連盟がある。2018年時点で23サークルから成り立ち、公称会員数3000人強。
==== 園遊会 ====
園遊会は、学位授与式(卒業式)の後に開催される卒業パーティーである。2008年3月までは慶應義塾大学卒業準備委員会が主催をしていた。パーティーで行われる抽選大会の1等賞品は毎年通例として外車であった。このような豪華な賞品を出すことについて、一部卒業生や大学教職員の間からは必ずしも賛同の声ばかりが寄せられるわけではなかった。2006年時点、会費は2万円強で参加は任意である。賞品はOBが役員を務める企業からの寄付が多い。卒業準備委員会の粗雑な財務管理や園遊会参加後の卒業生の行為による苦情から、2009年3月からの園遊会の開催は一旦中止となり現卒業準備委員会も解散することとなった<ref>『[[週刊新潮]]』2008年10月30日号に、園遊会中止についての記事が掲載されている。</ref>。
なお、解散した卒業準備委員会とは別の団体が、2009年3月以降も(非公式ではあるが)毎年有志により園遊会を存続させるための活動を行っている<ref>[
=== その他 ===
==== 旧学校教練 ====
[[
* 1925年([[大正]]14年)公布の[[陸軍現役将校学校配属令]]により、[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]の[[役種|現役]][[将校]]が配置され、慶應義塾その他の大学で[[学校教練]](軍事教練)を受け持った。
1,623 ⟶ 1,611行目:
=== 大学関係者組織 ===
<!--※「大学関係者で組織される諸組織」の定義と範囲についてはプロジェクト:大学/大学同窓組織・保護者組織・学生組織の記事独立基準参照。ただし、学生自治会は「学生生活」節で、出版関係組織など大学本部が自ら掌握している組織は「附属機関」節で、それぞれ解説する。なお、この基準で範囲外となっている組織については次節「社会との関わり」において解説するが、その際は「社会との関わり」節の掲載基準に適合していることを条件とする。また、範囲外の組織であり、かつ別記事において解説されている組織に関しては「関連項目」節でリンクを行う。-->
[[
慶應義塾では、在学生を「塾生」{{Efn|在学生向けの通達([https://web.archive.org/web/20170522165832/http://www.gakuji.keio.ac.jp/life/spring_vacation2016-2017.html 例])には「塾生諸君」と記載されるほか、在学生用のWebサイトは「[http://www.gakuji.keio.ac.jp/ 塾生HP]」という名称である。しかし、[http://www.gakuji.keio.ac.jp/mita/mado/ 三田学生部] のように「学生」の語が用いられるケースもある。}}、卒業生を「塾員」{{small|([https://www.keio.ac.jp/ja/about/assets/data/kiyaku.pdf 慶應義塾規約] 第30条)}}、この二者に加えて教員などを合わせた関係者全てを「(義塾)社中」と呼ぶ。また、福澤諭吉を除いては敬称を「君(くん)」とする習慣がある{{Efn|学内の掲示や公式文書、式典などでは実際に「君」が用いられるが、一般と同様に、日常の会話においては学生が教職員を「君」と呼ぶことはない。}}。これは、慶應義塾において「先生」は創立者たる福澤諭吉ただ一人であるという思想から発生したもの<ref name="mame18">[https://www.keio.ac.jp/ja/about/history/encyclopedia/18.html {{Nowiki|[慶應義塾豆百科] No.18 君(くん)}}]</ref>で、現在も構内掲示などの教員名は「-君」表示になっているほか、慶應義塾の公式文書においてもしばしば「君」表記が使用される<ref name="mame18" />。明治期においては生徒は教師に向かっては「さん」付けが一般で、それ以外は[[塾長]]、[[教頭]]、その他の古参[[教員]]でも等しく「--さん」が一般に用いられた<ref>[[小泉信三]]1966『私の履歴書』</ref>。
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=== 大学関係者一覧 ===
<!--※大学関係者の一覧はWikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 大学/人物一覧記事についてで協議されたように大学の記事自体には挿入せず別に記事を作成する。ここでは、人物一覧記事へのリンクを列挙する。なお、大学の人物一覧記事に関してはプロジェクト:大学/人物一覧記事についての基準に従うこと。-->
{{See|慶應義塾大学の人物一覧|Category:慶應義塾大学出身の人物}}
== 施設 ==
1,680 ⟶ 1,645行目:
!備考
|-
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|三田キャンパス[[
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|東京都港区<br/ >[[三田 (東京都港区)|三田]]2-15-45
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
1,715 ⟶ 1,680行目:
[[国道1号]]線沿い。
|-
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|日吉キャンパス[[
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|神奈川県横浜市<br/ >港北区日吉4-1-1
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
1,742 ⟶ 1,707行目:
[[慶應義塾高等学校]]がキャンパス内に併設されている。また、駅を挟んだ向かい側に[[慶應義塾普通部]]がある。慶應義塾大学の学生の間には、他のキャンパスへの進級後に日吉キャンパスの授業を再履修する意味を表す「来日」、留年して日吉キャンパスに留まる意味を表す「在日」、他のキャンパスに進級できず慶應を去る意味を表す「日没」という俗語がある。
|-
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|矢上キャンパス[[
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|神奈川県横浜市<br/ >港北区日吉3-14-1
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
1,756 ⟶ 1,721行目:
藤原工業大学の将来のキャンパス用地として戦前から藤原銀次郎が用意していた土地に、1972年に工学部(現在の理工学部)が小金井キャンパスから移転して開設された。なお、藤原工業大学の校舎は、開校時には日吉キャンパス内(現在の日吉図書館、第4校舎付近)に設けられていたが、戦災を受け、戦後は[[小金井市]]に移転した。
|-
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|信濃町キャンパス[[
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|東京都新宿区<br/ >信濃町35
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
1,772 ⟶ 1,737行目:
構内に「慶應稲荷大明神」が存在し、受験シーズンには慶應諸学校受験者の参拝が見られる。
|-
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|湘南藤沢キャンパス (SFC)[[
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|神奈川県藤沢市<br/ >[[遠藤 (藤沢市)|遠藤]]5322
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
1,788 ⟶ 1,753行目:
{{Main|慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス}}
|-
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|芝共立キャンパス[[
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|東京都港区<br/ >芝公園1-5-30
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
1,808 ⟶ 1,773行目:
|style="vertical-align:top"|
|-
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|[[K2タウンキャンパス|K{{sup|2}}タウンキャンパス]][[
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|神奈川県川崎市[[幸区]]
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
1,815 ⟶ 1,780行目:
新川崎タウンキャンパス、神奈川県[[川崎市]]と共同設置
|-
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|殿町タウンキャンパス<ref>[https://www.keio.ac.jp/ja/news/2016/osa3qr000001l03b.html {{Nowiki|慶應義塾大学と川崎市が殿町タウンキャンパスにおける連携協定を締結:[慶應義塾]}}]</ref>[[
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|川崎市[[殿町 (川崎市)|殿町地区]]
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
1,822 ⟶ 1,787行目:
|style="vertical-align:top"|
|-
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|鶴岡タウンキャンパス<br />(略称はTTCK<ref>{{lang-en-short|Tsuruoka Town Campus of Keio}}</ref>)[[
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|山形県[[鶴岡市]]
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
1,830 ⟶ 1,795行目:
|style="vertical-align:top"|
|-
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|慶應大阪シティキャンパス<br />(略称はKOCC)[[
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|大阪府大阪市北区
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
1,837 ⟶ 1,802行目:
2008年5月、[[大阪大学医学部附属病院]]跡地に整備されていた再開発地域([[ほたるまち]])にある「[[堂島リバーフォーラム]]」に「慶應大阪リバーサイドキャンパス」が開設された<ref>[https://www.keio.ac.jp/ja/news/2008/kr7a43000000b8uo.html {{Nowiki|慶應大阪リバーサイドキャンパス開設 ニュース:[慶應義塾]}}]</ref>。明治8年まであった「大阪慶應義塾」以来となる大阪での拠点である。慶應義塾を創立した福澤の学んだ[[適塾]](後の[[大阪大学]])が大阪に所在していたことから、ゆかりの地でのキャンパス開設といえよう。2013年5月、[[大阪駅]]北口の[[グランフロント大阪]]ナレッジキャピタル内に移転し、慶應大阪シティキャンパス(KOCC)と改称している。
|-
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|慶應丸の内シティキャンパス<br />(略称はMCC)[[
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|東京都千代田区<br/ >[[丸の内]]三菱ビル
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
1,846 ⟶ 1,811行目:
=== 学生食堂 ===
慶應義塾では三田移転前の芝新銭座時代から食堂があり、塾生はそこで単に食事をとるだけでなく西洋式のマナーも学んだとされる<ref>[[:
* 三田キャンパス
[[
:
:: 生協食堂(西校舎地下1階 [[猪熊弦一郎]]の[[壁画]]「デモクラシー」が設置されている)
:: 山食(西校舎中階 [[1991年]]に旧学生ホールから移転)
:: ザ・カフェテリア(南校舎4階)
:: カフェ八角塔([[慶應義塾図書館旧館|図書館旧館]]1階)
:: ファカルティクラブ(北館1階 塾員・教職員限定)
:: 社中交歡 萬來舍(南校舎3階 塾員・教職員限定)
* 日吉キャンパス
[[
:日吉キャンパスでは[[1934年]](昭和9年)にコテージ風の大食堂が開店した。この食堂は日吉の予科生から「赤屋根食堂」と呼ばれて親しまれたが、米軍接収中の[[1946年]](昭和21年)に焼失した。その後は[[慶應義塾高等学校|塾高]]の食堂として再建されたが、[[1973年]](昭和48年)頃に解体された。
:日吉返還後の食堂経営を委託された田沼文蔵は公募によって店名を「[[グリーンハウス (フードサービス)|グリーンハウス]]」と決定した。その後グリーンハウスは大学外での給食事業に乗り出し、国内有数の給食事業会社へと発展した。
1,876 ⟶ 1,841行目:
* 矢上キャンパス
[[
:: 矢上食堂(生協食堂 厚生棟1・2階)
:: 矢上ベーカリー(創想館1階)
1,901 ⟶ 1,866行目:
==== 日吉寮 ====
* 慶應義塾大学が設置する唯一の大学学部生向けの男子寮。正式名称は'''慶應義塾大学日吉寄宿舎'''。2011年10月26日に[[横浜市認定歴史的建造物]]に認定された<ref>[https://kohoku.keizai.biz/headline/417/ 慶応日吉キャンパスの寄宿舎、市の歴史的建造物に認定 - 港北経済新聞]</ref>。
[[
その歴史は古く慶應義塾の創設期
現在の設備は、慶應義塾[[大学予科]]が[[神奈川県]][[横浜市]][[日吉 (横浜市)|日吉]]に移転した際に併せて設置された。[[谷口吉郎]]に設計を依頼し、日吉キャンパス南側台地に1937年(昭和12年)建設された。高台の頂上にあり建物からは絶景が望まれた。完成のもので北寮、中寮、南寮の3棟があり、さらに当時としては大変珍しい自家熱による寮生向けの円形浴場棟(通称「ローマ風呂」)が設置された。風呂からは遠く横浜の桜木町に至るまでの広大な田園風景が見えたといい、[[東洋]]一の学生寮」と呼ばれるにふさわしいものであったという。これには、慶應義塾を開いた福澤諭吉が学生寮と学生自治を重視していた点が影響されている。
1,923 ⟶ 1,888行目:
=== 国宝 ===
[[
* 秋草文壺 - 1942年(昭和17年)4月、[[川崎市]][[幸区]]南加瀬の[[白山古墳]]の墳丘裾部から出土した[[平安時代]]後期の[[渥美窯|渥美焼]]の[[壺]]。[[東京国立博物館]]に寄託されている<ref>[https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/203699 文化遺産オンライン]</ref>。
=== 重要文化財 ===
[[
* 建造物
** [[三田演説館]] - 1967年(昭和42年)指定
1,951 ⟶ 1,916行目:
* [[慶應義塾大学大学院経済学研究科|経済学研究科]] - [[CEMS]]
* [[慶應義塾大学大学院社会学研究科|社会学研究科]] - [[南オーストラリア大学]]
* [[慶應義塾大学大学院理工学研究科・理工学部|理工学研究科・理工学部]] - [[エコール・サントラル]]、[[ルーヴァン・カトリック大学]]、
* [[慶應義塾大学大学院経営管理研究科|経営管理研究科]] - [[HECパリ]]、ESSEC、[[オットー・バイスハイム経営大学院]]
* [[慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科|政策・メディア研究科]] - [[復旦大学]]、[[延世大学校]]
* [[慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科|メディアデザイン研究科]] - CEMS
* [[慶應義塾大学大学院法務研究科|法務研究科]] -
=== 外国オフィス ===
2,050 ⟶ 2,015行目:
* 慶應義塾大学
* [[早稲田大学]]
* 東京
* [[東京大学]]
|
2,134 ⟶ 2,099行目:
=== 幻の李登輝の講演 ===
同大学文化団体連盟に所属する経済新人会というサークルが、2002年11月、[[台湾]]から前[[中華民国総統]]の[[李登輝]]を迎える講演会を企画した<ref>{{Cite web|和書|author=
|title=李登輝さんは日本に悪いことをしたのですか |work=金美齢ホームページ |publisher=[[自由民主党 (日本)|自由民主党]] |accessdate=2008-12-01}}</ref>。[[中国共産党]]の介入で、日本政府が来日に必要な[[査証|ビザ]]発給を拒否する構えを示したため、李登輝は訪日を断念して実現しなかった。
=== ラジオ番組 ===
[[日経ラジオ社]]にて1958年より『慶應義塾の時間』(月曜-木曜 22:00-22:
|url=http://www.keio.ac.jp/ja/press_release/2008/kr7a430000008n4t.html
|title=慶應義塾 「デジタル時代の知の構築」への取り組み 慶應義塾大学通信教育課程ラジオ放送授業「慶應義塾の時間」放送開始50 年を記念し、特別企画をラジオNIKKEIでオンデマンド配信(7/10 開始) |publisher=慶應義塾 |accessdate=2014-11-28}}</ref>が、2013年度をもって廃止され、ネットによる受講者向けのオンデマンド配信に移行した。その後、2014年4月から9月にかけては木曜日に「キャンパス info. DOCTORS」と題し、慶應義塾大学卒業の医師によるトークや講義を放送していた。
2,148 ⟶ 2,113行目:
=== 出世力 ===
* [[ダイヤモンド社]]の2006年年9月23日発行のビジネス誌『[[週刊ダイヤモンド]]』94巻36号(通巻4147号)「出世できる大学」と題された特集の出世力ランキング(日本の全上場企業3,800社余の代表取締役を全調査<ref>{{Cite news|和書|url=https://www.otaru-journal.com/2006/11/5_25/|title=小樽商大を経済誌が高評価!出世できる大学全国第5位!|newspaper=[[小樽ジャーナル]]|publisher=小樽ジャーナル社|date=2006年11月6日}}</ref><ref>[https://mazba.com/10369/ 週刊ダイヤモンド「出世できる大学」 神戸商科大学は5位、大阪市立大学は27位 大阪府立大学は14位]</ref>)で、慶應義塾大学は、2006年時点で存在する全国の744大学中、第3位にランキングされた<ref>[http://univrank.blog.shinobi.jp/ランキング/出世できる大学ランキング 出世できる大学ランキング 週間ダイヤモンド「大学出世ランキング」] 2024年4月閲覧</ref>。
== 脚注 ==
2,162 ⟶ 2,127行目:
* 慶應義塾『[https://dl.ndl.go.jp/pid/9580572 図説・慶応義塾百年小史:1858-1958]』1958年(昭和33年)
* 慶應義塾『[https://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?accessRestrictions=internet&accessRestrictions=ooc&accessRestrictions=inlibrary&collection=A00001&collection=A00002&collection=A00003&collection=A00014&collection=A00015&collection=A00017&collection=A00016&collection=A00019&collection=A00121&collection=A00024&collection=A00152&collection=A00150&collection=A00122&collection=A00162&collection=B00000&keyword=%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE%E7%99%BE%E5%B9%B4%E5%8F%B2&fullText=false&creator=%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE&publisher=%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE&eraType=AD&publicationFrom=1958-00-00&publicationTo=1969-00-00&identifierItem=ISBN&includeVolumeNum=false&pageNum=0&pageSize=20&sortKey=SCORE&displayMode=list 慶應義塾百年史]』全6巻、1958-1969年(昭和33-44年)
* 『慶応義塾125年』編集委員会
* 慶應義塾福澤研究センター
* 三田商学研究会編[{{NDLDC|777715}} 『慶應義塾出身名流列伝』][[近代デジタルライブラリー]] 1909年(明治42年)
* 慶應義塾福澤研究センター
* 加藤三明、山内慶太、大澤輝嘉 編著『慶應義塾 歴史散歩 キャンパス編』慶應義塾大学出版会、2017年 ISBN 978-4-7664-2469-0
* 加藤三明、山内慶太、大澤輝嘉 編著『慶應義塾 歴史散歩 全国編』慶應義塾大学出版会、2017年 ISBN 978-4-7664-2470-6
2,195 ⟶ 2,160行目:
== 外部リンク ==
* {{Official website|https://www.keio.ac.jp/}}
* [http://koara-a.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/listitem.php?index_id=8829 慶應義塾史コレクション - 慶應義塾百年史上巻・中巻(前)・中巻(後)・下巻・別巻, 大学編・付録(2008年3月27日)]
* [http://www.fmc.keio.ac.jp/ 慶應義塾福沢研究センター]
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