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'''美輪 明宏'''(みわ あきひろ、[[1935年]]〈[[昭和]]10年〉[[5月15日]]<ref name="meiyo"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=M93-3249|title=美輪明宏|publisher=日本タレント名鑑|accessdate=2025-09-08}}</ref> - )は、日本の[[歌手]]。[[俳優]]・[[演出家]]・[[タレント]]・[[声優]]・[[コメンテーター]]・[[ナレーター]]としても活動している。
[[長崎県]][[長崎市]]出身。本名及び[[1971年]]までの芸名は丸山 明宏(まるやま あきひろ)で、幼名は臣吾(しんご)。[[愛称]]はマルさん。
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== 略歴 ==
=== 長崎時代(1935年5月15日- 1951年) ===
[[1935年]]([[昭和10年]])[[5月15日]]([[水曜日]])、長崎県長崎市で、寺田作一・ヌメの間に、5人兄弟の次男として誕生する。出生名は寺田臣吾だった。母の実家の跡継ぎとして養子に出され、「丸山臣吾」へと改姓する
美輪の実家は、長崎市内の「[[丸山 (長崎市)|丸山遊廓]]」と呼称された[[遊廓]]の近くで、「世界」という名前の[[カフェー (風俗営業)|カフェー]]や[[料亭]]を経営して成功を収めており、経済的に豊かな環境で育った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asagei.com/excerpt/10818|title=美輪明宏、初体験の相手は「先輩の男子」|publisher=asagei|data=2012-12-11|accessdate=2020-11-25}}</ref>。当時の長崎は[[軍国主義]]前で、[[モダニズム]]が世の中を支配していた時代であった。400年の歴史のある長崎は、[[オランダ]]、[[ポルトガル]]、[[スペイン]]、[[イギリス]]をはじめ、[[中国]]・[[朝鮮人]]など多様な[[人種]]が住んでおり[[人種差別]]など皆無であった<ref name="red"/>。
実家は、料亭やカフェーのほか[[風呂屋]]も経営していた。家庭風呂などない時代であり、良家の者も風呂屋に通っていた。立派な身なりの人が[[コート]]からだんだん脱いでいって、さぞかし立派な裸だろうと想像していたら、気の毒なほど貧相な体であったり、逆に[[労働者]]が臭うような[[野良着]]を着て堂々と入ってきたが、ところが裸になると[[アリスティド・マイヨール|マイヨール]]の[[彫刻]]のような素晴らしい体をしていた。それを見た美輪は、「着るものなど嘘っぱちじゃないの!この裸のままが本当の人間なんだ」と感じ、それ以降、人を見るときに[[容姿]]
カフェーではありとあらゆる人が[[身分]]を隠して来ていたが、そこには[[神父]]もいれば[[教師]]や[[政治家]]もいて、はじめは紳士然としていても酔うほどに正体を現して、[[ホステス]]の[[スカート]]の下や[[着物]]の[[裾]]から手を入れたり頭を突っ込んだりしてひっぱたかれ、頭から酒をかけられてニヤニヤしていたが「この人の昼間の顔何なの?<ref name=":0" />これが本当の姿なんだ」と、ものを見る目がそうなってきたため、心が揺るがなくなった<ref name="red">{{Cite web|date=|url=https://www.youtube.com/watch?v=MnVG9u4NR-I|title=美輪明宏】「 目に見えるものは見なさんな」完全版|publisher=RED Chair|accessdate=2024-7-21}}</ref>。[[1941年]]12月、[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国]]との戦争体制に入った中で父親は「敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」と言われて、やむ無くカフェーを閉店せざるを得なくなり、金融業に転業する。
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=== 歌手 丸山明宏 ===
[[File:Forty-years-of-Showa-era-3.png|thumb|left|250px|[[日本劇場]]で「[[メケ・メケ]]」を歌う美輪]]
[[エンリコ・カルーソー]]や[[ベニャミーノ・ジーリ]]の様な[[オペラ]]歌手、コンサート歌手を夢見て、[[1951年]]の春、15歳の美輪は国立音楽高等学校(現在の[[国立音楽大学附属中学校・高等学校|国立音楽大学附属高等学校]])に進学するため上京する。この頃、音楽学校の教員の勧めで「丸山明宏」に改名する。このことについて美輪は「[[SmaSTATION!!]]」内で「小さい頃から家の周りにメイドさんがいろいろいたんだけど、その人たちが占いが好きだったのね。で、行くと『この子は不幸な子で…』っていうのが全部当たったわけ。『東京に出て、散々苦労した挙句、野垂れ死にする』って言われて、全部当たったわけ。死ぬ、っていうことだけが当たってないだけで。そのときの私の音楽学校の先生が、姓名判断を勧めてくれて、『丸山明宏』に替わったわけ。」と述懐している
ある時、帰省した際に、父が生活が苦しくなった親戚に対して無情に見捨てるような態度をとったことに激怒し、大喧嘩した。父から絶縁を言い渡され、仕送りも当然ながら止められた。美輪は東京で自活するために高等学校を中退し、生活費を稼ぐために進駐軍のキャンプ廻りをして歌を披露した。2015年時点で「芸歴64年、1951年(昭和26年)に進駐軍のキャンプ廻りでジャズを歌いギャラを頂いたことがプロとしての始まり」と本人が語っている。新宿駅で寝泊りしていた時期もある。
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「メケメケ」以来のブームは、1年程で沈静化した。その間に、週刊誌で自身が[[同性愛者]]である事を公表したことや、旧来のシャンソンのイメージ(美輪曰く「蝶よ花よ、星よ月よに終始する“おシャンソン”」)に無い、自ら和訳した生々しい内容のシャンソンを歌唱した事に対する反発もあり、人気は急落する。そんな逆風の中、作詞・作曲活動を開始した。今もって美輪の主要なレパートリーとなっている「うす紫」、「金色の星」、「ふるさとの空の下」等の音楽作品は、この頃、既に作詞・作曲していた。しかし、その活動は当時の聴衆からも歌謡界からも理解を得られず、レコード化すらできなかった。美輪曰く「人様の情けに生かされた」不遇の時代が続くと共に、吐血等の[[原爆症]]に悩まされ始める事になる。
しかし、[[1963年]]には、[[中村八大]]らの助力により日本初となる全作品、自らの作品によるリサイタルを開催した。[[1964年]]には、「[[ヨイトマケの唄]]」を初めてステージで披露する。[[1966年]]、前年の内にレコード化された「ヨイトマケの唄」
=== 俳優 丸山明宏 ===
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歌手としては、[[1984年]]にパリで、[[1987年]]には、パリ、[[マドリード]]、[[シュトゥットガルト]]でリサイタルを開催し、『[[ル・モンド]]』、『[[リベラシオン]]』を始め多数の新聞・雑誌に紹介・絶賛された。また、[[1986年]]からは[[PARCO劇場]]でのロングリサイタルが開始され、それ以外にも、全国各地でのリサイタル公演を開催し、舞台に立てなくなった後も切れ目なく活動を続けた。
[[1990年]]、[[東京芸術劇場]]の[[こけら落とし]]公演『[[マリー・ローランサン]]』を演出した。この時、既に『黒蜥蜴』再演の企画は持ち上がっていたが、体調面から断念している。また、この年、40年近く唄い続けて来た銀座のシャンソン喫茶店・銀巴里が閉店となり、美輪は最後の日の「さよならコンサート」で自ら作詞作曲した『いとしの銀巴里』を涙ながらに歌い上げた。この模様を各メディアは挙って大きく報じ、また翌[[1991年]]の映画『黒蜥蜴』のニューヨークでのヒットなども重なり、美輪が曰く、この頃から、「メケメケ、ヨイトマケ、黒蜥蜴に続く四回目のブーム」の時期が訪れ、テレビやCM等への出演が増えた。
=== 黒蜥蜴再演 ===
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[[2015年]]、『[[第66回NHK紅白歌合戦]]』に出場を果たし(翌年落選し、これが現在最後の出場となっている)、自身の持つ史上最年長を更新すると同時に史上初の80代での出場となる。なお、当時80歳での美輪の出場は正規枠では最年長出場記録を保持しているものの、正規出場者以外では[[2010年]]の『[[第61回NHK紅白歌合戦]]』に当時83歳で出演した[[熊倉一雄]]がいる。
2018年、東京都[[名誉都民]]に顕彰される<ref name="meiyo">{{Cite web|和書|url=https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2018/08/31/13_01.html |title=別紙
===脳梗塞からの回復===
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* 「好きな食べ物は?」との質問に、「人の悩みを食べて、涙を飲んで生きてるの」と答えた<ref>福岡放送制作 日本テレビ系「新型テレビ」。</ref>。
* 長年、『法華経』を信仰し、[[池上本門寺]]朗子会館で人生相談のボランティアをしていた。
* かつては[[日産・フィガロ|日産フィガロ]]を愛車にしていた。
=== 交友関係 ===
* 長崎[[海星中学校・高等学校 (長崎県)|海星中学校]]時代の同級生に[[西岡武夫]](第28代[[参議院議長]])がおり、両者は西岡が亡くなるまで親交が深かった。美輪は、西岡の荒々しい性格と行動力に一目置いていた事や、西岡の純粋さを好んでいた事を語っている<ref>[http://
* 銀巴里時代から数多くの作家([[三島由紀夫]]、[[江戸川乱歩]]、[[川端康成]]、[[澁澤龍彦]]、[[吉行淳之介]]、[[瀬戸内寂聴]]、[[藤島泰輔]]、[[なかにし礼]]、[[大江健三郎]]等)や画家([[東郷青児]]、[[中原淳一]]、[[横尾忠則]]等)、演劇人([[中村勘三郎 (17代目)|十七代目中村勘三郎]]、[[中村勘三郎 (18代目)|十八代目中村勘三郎]]、[[杉村春子]]、[[水谷八重子 (初代)|初代水谷八重子]]、[[水谷八重子 (2代目)|二代目水谷八重子]]、[[赤木圭一郎]]、[[田宮二郎]]、[[寺山修司]]、[[蜷川幸雄]]、[[坂東玉三郎 (5代目)|五代目坂東玉三郎]]、[[渡辺えり]]など)、作曲家([[池辺晋一郎]]など)、歌手([[フレディ・マーキュリー]]、[[吉井和哉]]等)と交流を深める。
* 『[[薔薇族]]』初代編集長の[[伊藤文學]]とは、同誌創刊時(1971年)に美輪が[[第二書房]]を訪れて祝福する等の間柄であった。その時、美輪はロールスロイスを運転して、ボロ家の第二書房に買い行き、その数年後には、豪華な門灯を贈っている<ref>月刊『薔薇族』編集長 伊藤文學の談話室より。</ref>。伊藤は1970年代半ばに美輪が新宿5丁目のQフラットビルに開いたクラブ「巴里」の客であり、巴里に触発された伊藤は同じビルの向かいに「談話室 祭」を開店させている<ref>伊藤文學のひとりごと。</ref>。2005年4月には『[[薔薇族]]』復刊号で美輪と伊藤は対談している。
* スピリチュアルカウンセラー[[江原啓之]]に信頼を置き、[[霊能者]][[木村藤子]]とも親交関係を築いており、金銭目的で占い師、霊能者を自称する輩が殆どである中で「数少ない本物」であると認めている<ref>[[中居正広の金曜日のスマたちへ|中居正広のキンスマ!波瀾万丈スペシャル!]] 2007年12月28日</ref>。
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* 1994年に刊行された[[弁護士]]の[[福島瑞穂]](のちに[[参議院議員]]、[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]党首)との対談では、意気投合し、美輪の側から食事に誘い、交流を続けていくことで一致して終わっている<ref>福島瑞穂ほか『出すぎた杭は打たれない 福島瑞穂対談集(シリーズ女の決断)』NTT出版, 1994年</ref>。2013年の福島のツイッター上の投稿では、新幹線の車内で美輪が福島に声をかけ、社会情勢について意見交換をしたエピソードが紹介されている<ref>福島みずほツイッター、2013年11月16日23:54投稿 https://twitter.com/mizuhofukushima/status/401725063411412992</ref>。
* [[水木しげる]]とも交流があり、美輪は水木の絵や漫画が大好きで、[[1998年]]には、水木の作画活動50周年を記念して刊行された『[[妖鬼化|水木しげる妖怪原画集 妖鬼化(むじゃら)]]』(ソフトガレージ出版)で美輪は水木と対談もしており、[[妖怪]]・[[音楽]]・[[音]]・[[幸福]]・吉凶禍福・人生の体験など幅広い談義となり、2002年に刊行された美輪の著書の一つである『ああ正負の法則』(パルコ出版)でも、美輪はこの時の水木との対談や同じ意見を述べている。
* しかしその一方で同じLGBTの当事者である[[おすぎとピーコ]]に対しては、[[おすぎ]]が口にする「どうせ私たちはオカマだから。」という物言いに対し、「自分は同性愛に対する偏見に対して闘ってきたのに、あの二人はテレビで、偏見に満ちた蔑称である“オカマ”と言う言葉を自分達から連呼して、あえて笑われ者になる事で、同性愛者への偏見を助長している。折角同性愛が市民権を得てきたのに、歴史が逆戻りする事になる。その根性が実に卑しい。消えてしまえばいい。この、馬鹿者どもが!」と厳しく批判、「昔はコンサートや舞台公演等に招待していたが、今は絶縁している。」と語り、ある時期から会っていない事を公表している<ref>2007年12月28日放送「中居正広の金スマ!波瀾万丈スペシャル」で</ref>。2人はこの件に関し、「私たちは美輪さんと違って容貌に恵まれていないから、受け入れてもらうにはそういうアプローチしかできない。美貌に恵まれた人には美貌に恵まれなかった私たちの気持ちはわからない」としている。
=== その他 ===
* [[講談社]]発行の月刊誌「[[月刊現代|現代]]」で、2007年9月号から2008年1月号までノンフィクション作家・[[豊田正義]]が、美輪明宏の評伝を連載した。タイトルは『オーラの素顔』。美輪の少年時代から始まり、[[赤木圭一郎]]との哀恋、三島由紀夫や寺山修司との芸術的交流、江原啓之との出会い、『[[オーラの泉]]』の裏話まで、美輪の人生が精緻な取材で描かれており、単行本化されている。
*インタビューで「若さと、オッパイがでかい、可愛いだけの水着の巨乳のお姉ちゃんはいりません」「[[巨乳]][[美女]]は[[小池栄子]]さん以外ダメ」と巨乳ヘイト、グラビアアイドル差別を[[女性自身]]インタビューで発言<ref>[[光文社]]の同誌の2007年一月号特別編より</ref>。
* [[SAPIO]]のインタビューで、楯の会の青年が楽屋にきたことがあり、いきなり「申し訳ありませんっ」と土下座したという。美輪が「どうなすったの?」って聞いたら、「三島先生や川端(康成)先生のような方がオカマごときのファンなのはけしからんから、いいかげんなものだったらメチャクチャにしてやろうと思った」という。でも彼は、「コンサートは泣けて仕方なかった。天才たちがファンになったのは分かりました。申し訳ない」と言われたという。
* 三島由紀夫は、「君の欠点は、僕に惚れないことだ」と言っており、映画『[[黒蜥蜴#映画(戯曲版)|黒蜥蜴]]』では、美輪とのキスシーンがあるとの事で台詞のない役を引き受けたほどであった。ある時、美輪のコンサートにバラの花束を直に差し入れに来たが、ただならぬ様子があったものの問いただすことが出来なかったという。そして、[[三島由紀夫事件]]が起きて、これが今生の別れとなってしまったという。
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# 丸山明宏デラックス (1969年、SKD-10)
# [[別れのブルース]] おんなと愛を唄う(SKD-20)
#
# [[白呪]](1975年、2000年、2006年、2011年)
#
=== ベスト・アルバム ===
# 華麗な世界(1973年、SKA-60)
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# 全曲集 2022(2021年9月8日)
# 全曲集 (2022年9月7日)
# 全曲集 (2025年1月1日)
=== 企画アルバム ===
# 丸山明宏”魅惑の古賀メロ”を唄う(1971年1月5日)
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* 美輪明宏ドキュメンタリー ~黒蜥蜴を探して~(原題:Miwa, à la recherche du lézard noir)(2010年、フランス、パスカル=アレックス・ヴァンサン監督)
* ドキュメンタリー映画『追憶』(2016年) - ナレーション <ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/202403|title=ペリリュー島の戦いをつづるドキュメンタリー公開、ナレーションは美輪明宏|newspaper=映画ナタリー|date=2016-09-20|accessdate=2016-09-20}}</ref>
* [[長崎-閃光の影で-]](2025年、アーク・エンタテインメント) - 語り<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/621430|title=映画「長崎-閃光の影で-」に南果歩・美輪明宏ら参加、主題歌は福山雅治が手がける|website=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2025-04-25|accessdate=2025-04-25}}</ref>
=== テレビドラマ ===
* [[魅惑の宵]](1959年10月2日 - 1961年4月7日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])
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* プロ(1963年8月24日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])
*
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* [[プレイガール (テレビドラマ)|プレイガール]] 第1話「男無用の女ども」(1969年4月7日、[[東映]] / [[テレビ東京|東京12チャンネル]])
* [[五番目の刑事]] 第11話「白バラは白夜に散った」(1969年12月11日、東映 / [[テレビ朝日|NET]]) - 万里小路霞
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** [[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]](2005年) - [[鬼一法眼]]
* [[ニュードキュメンタリードラマ昭和 松本清張事件にせまる]] 第23回「三島由紀夫自決事件」(1984年9月13日、[[国際放映]] / [[テレビ朝日|ANB]]) - 証言者として出演
* [[西遊記 (1994年のテレビドラマ)|西遊記]] (1994年、日本テレビ) - 提婆達多の声
* [[連続テレビ小説]] 「[[花子とアン]]」(2014年、NHK総合) - ナレーション
* [[命売ります#テレビドラマ|命売ります]](2018年1月13日 - 3月24日、[[BSテレビ東京|BSテレ東]]) - ナレーション
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*『私の人生論 目に見えるものは見なさんな』毎日新聞出版(2024年6月10日)
*『愛のモヤモヤ相談室』大和書房(2024年10月27日)
*『あなたの人生を導く-美輪ことば』中央公論新社(2024年11月)
*『令和を生きぬく貴方たちへ 未来世代が輝くミワちゃま語り20』光文社(2025年9月)
=== 共著 ===
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{{ウィキポータルリンク|音楽|[[画像:Xmms.png|45px|Portal:音楽]]}}
* [https://o-miwa.co.jp/ 公式ホームページ]
* [https://web.archive.org/web/20201101011317/https://www.tbsradio.jp/barairo/ TBSラジオ「美輪明宏 薔薇色の日曜日」]
* [https://web.archive.org/web/20001204094600/http://www.the-shinjuku.ne.jp/CONTENTS/BUSICUL/PEOPLE/KONOHITO/MIWA/index.html THE SHINJUKU インタビュー この人の新宿]
* {{NHK人物録|D0009071429_00000}}
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[[Category:丸山遊廓|人]]
[[Category:国立音楽大学附属高等学校出身の人物]]
[[Category:長崎
[[Category:1935年生]]
[[Category:存命人物]]
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