「両統迭立」の版間の差分
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亀山はしばらく在位のまま政務を執り、文永11年([[1274年]])には皇太子世仁(8歳、[[後宇多天皇]])に譲位した。
一方、[[治天]]の地位を逃した後深草は不満を募らせ、後宇多が即位すると抗議のため上皇の待遇を辞退して[[出家]]しようとした。後嵯峨は、膨大な
==== 定着 ====
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==== 後日談 ====
冷泉流皇統から天皇が即位することはなくなったが、その血統は女系を通じて後年に影響を残した。三条と妍子の間に生まれた[[陽明門院|禎子内親王]]が皇太子敦良の妻となり、第2王子尊仁親王を産んでいる。尊仁は父[[後朱雀天皇|後朱雀]]の死後、遺詔により異母兄の[[後冷泉天皇]]の皇太子に立てられ、後冷泉が皇子を遺さずに死亡すると、跡を継いで天皇([[後三条天皇]])となった。彼の追号「後三条」は、彼が外祖父三条の後継者であることを意味しており、生前自ら定めたものだという説もある(『[[栄花物語]]』)。また、後三条の妻のひとりに小一条院の息子[[源基平]]の娘[[源基子|基子]]がおり、第2皇子[[実仁親王 (平安時代)|実仁親王]]と第3皇子[[輔仁親王]]を産んでいる。実仁は、異母兄[[白河天皇]]の即位にあたり皇太子に立てられたが即位の機会を得ずに早世した。同母弟として実仁の身代わりとみなされた輔仁は、皇太子にはなれなかったものの、長寿を保った祖母禎子(陽明門院)の庇護の下、白河とその子[[堀河天皇]]の皇位継承上のライバルとして一時は政界に
なお、後一条→後朱雀、後冷泉→後三条と、その後も2度にわたって兄弟間の皇位継承が行われていることは、両統迭立による不安定な政局を再現する可能性を含むものであり不可解である。ただ、2度とも兄に皇子が生まれなかったことによってその可能性は結果的に回避されている。後朱雀の立太子は、小一条に代わる皇太子を即座に擁立する必要があったためと推測されるが、後三条の立太子は、そのような緊急性がなく、しかも当時の関白[[藤原頼通]]の反対を押し切ってのものであった。後三条の立太子を
==日本以外の国の両統迭立の例==
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