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{{基礎情報 武士
{{Infobox 革命家
| = 助川 久蔵
| 画像 =[[画像: Kyuuzou Sukegawa.jpg|180px]]
| 画像サイズ = 180px
| 画像説明 = 助川久蔵徳類 (1813 - 1898)
|通称=毎之、徳類
| 時代 = 江戸時代末期([[幕末]])
| = [[文化 (元号)|文化]]10年2月15日
|生地=[[常陸国]]那珂郡[[大賀村 (茨城県)|大賀村]]
| = [[明治31年]]7月20日
|通称 別名 = 毎之、徳類
|没地=[[常陸国]]那珂郡[[大賀村 (茨城県)|大賀村]]
|活動 幕府 = [[要人警護江戸幕府]]
| 主君 = [[徳川斉脩]]、[[徳川斉昭]]、[[徳川慶篤]]、[[徳川昭武]]
|組織=本圀寺党([[天狗党の乱|天狗党]])
| = [[水戸藩]]
| 氏族 = [[助川氏]]
| 父母 = 助川杢衛門徳満、鹿島美奈
| 妻 = 諸澤みよ
}}
 
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'''助川久蔵''' (すけがわ きゅうぞう、[[文化 (元号)|文化]]10年([[1813年]])2月15日 - [[明治]]31年([[1898年]])7月20日)は、江戸時代後期から末期の[[水戸藩]]士。字は毎之、のちに徳類(のりよし)。姓は「[[助川氏|介川]]」とも。幕末動乱期を[[天狗党の乱|天狗党]]の一派「本圀寺党」の一員として生きた。
 
== 来歴 ==
[[常陸国]]那珂郡[[大賀村 (茨城県)|大賀村]]生まれ。助左衛門徳頭を祖父、杢衛門徳満を父、旧姓・鹿島美奈を母とする。若くして士分格となり、[[文政]]12年(1829年)10月、第8代水戸藩主[[徳川斉脩]]が江戸で早世した際には、水戸への御通棺を16歳の[[徒士]]として警護した<ref>『松戸市史 史料編2』(近世諸家文書、1973)</ref>。
 
[[天保]]11年(1840年)、27歳時点で[[小十人]]目附、15石4人扶持<ref>長島尉信編「江水御規式帳」(1840年)、『幕末日本と徳川斉昭』(茨城県立歴史館、2008)</ref>。
 
== 天狗党の乱 ==
[[元治]]元年(1864年)、[[水戸藩]]は大きく[[天狗党の乱|天狗党]]と[[諸生党]]の二派に分かれ、幕府や他藩を巻きこんでの内紛状態にあった。いわゆる'''「[[天狗党の乱]]」'''である<ref>『水戸市史 中巻五』(水戸市史編纂近現代専門部会、1972)</ref>。
 
[[水戸城]]にたてこもった[[諸生党]]・[[市川弘美|市川三左衛門]]らを鎮撫するため、8月4日、水戸へ向かった[[宍戸藩]]主・[[松平頼徳]]の駕籠脇を、久蔵は務めた。しかし道中、[[天狗党の乱|天狗党]]の一軍(大発勢)を同行させた頼徳の入を、市川ら[[諸生党]]が拒絶。逆に発砲してきたため、頼徳軍は[[那珂湊]]まで退却した。だが、[[諸生党]]勢の追撃をうけて、これと衝突し、久蔵も数日間の戦闘を戦うことになる。その後は100名余での領内廻村を命じられ、各村の鎮撫にあたる中、[[諸生党]]の一団とたびたび遭遇して、戦闘を行った<ref name="茨城県参事 関 新平宛 国家関係事蹟書1874">茨城県参事 [[関新平|関 新平]]宛 国家関係事蹟書(1874)</ref>。
 
== 石名坂の合戦、金沢の合戦 ==
そのころ[[諸生党]]との争いを避けたい[[松平頼徳]]は[[諸生党]]への対応に苦慮し、多賀郡[[助川海防城|助川城]]の城主・[[山野辺義芸]]に応援を求めていた。応ずるべきか否か、[[助川海防城|助川城]]内ではなかなか意見がまとまらなかった。しかしが、再三の要請を受け義芸は決起。8月23日、[[山野辺義芸]]はついに100余人を率いて[[水戸城]]へ向かった。これは[[市川弘美|市川三左衛門]]の元、[[水戸城]]で人質同然となっていた[[徳川斉昭]]夫人らを解放するためでもあった。ところが、市川ら[[諸生党]]は那珂川の渡しを押しつぶし、山野辺軍の入城も拒絶。山野辺家の家老・[[大江勝永|寒河江忠左衛門]]が説得を試みるも受け入れられず、逆に山野辺軍への攻撃開始された<ref name="ReferenceA">鈴木 彰『助川海防城 - 幕末水戸藩の海防策 -』(崑書房、1978)</ref>。
 
この時、[[大江勝永|寒河江忠左衛門]]の長男・寒河江延之進が馬で駆けつけ、「寺門登一郎ら[[諸生党]]が[[助川海防城|助川城]]に迫りつつある」と急を告げたため、山野辺軍は急遽やむを得ず反転<ref>神永敏子『幕末水戸藩士の眠る丘』(風濤社、1997)</ref>。8月24日、石神外宿まで引き返してきたところで、頼徳軍に参加していた150人余と合流した<ref name="『助川海防城と陣屋・番所・台場』助川海防城跡保全会、2007">『助川海防城と陣屋・番所・台場』(助川海防城跡保全会、2007)</ref>。
 
帰路、[[諸生党]]との激しい合戦に勝利を収めた石名坂で、久蔵は[[山野辺義芸]]への拝謁を許され、金沢の合戦を経て、8月25日、[[助川海防城|助川城]]に辿りついた<ref> name="茨城県参事 [[関新平|関 新平]]宛 国家関係事蹟書(1874)<"/ref>。
 
== 助川城脱出 ==
ところが直後、[[山野辺義芸]]は幕府から逆賊と見なされてしまう。[[天狗党の乱|天狗党]]と行動を共にしていた頼徳軍と義芸が合流したこと、また、山野辺家がもともと水戸藩改革派の重鎮であったことを理由に、[[市川弘美|市川三左衛門]]が幕府の天狗党追討軍総督・[[田沼意尊]]と相図った結果だった<ref>鈴木 彰『助川海防城 - 幕末水戸藩の海防策 -』(崑書房、1978)<name="ReferenceA"/ref>。
 
差し向けられた[[二本松藩]]・[[磐城平藩]]・[[常陸松岡藩]]の追討軍に、[[諸生党]]の各隊、および動員された各村の人足をくわえた1000余名の大軍によって、8月28日、[[助川海防城|助川城]]は完全包囲される<ref> name="『助川海防城と陣屋・番所・台場』(助川海防城跡保全会、2007)<"/ref>。久蔵は仲間とともに城を脱出(日時不明)。9月8日、久慈郡中染村に至り、敵と接戦するも、食糧は尽きて疲労困憊、みな散り散りになったところを捕縛され、牢に入れられた。
 
なお、[[助川海防|助川城]]では9月6日、[[山野辺義芸]]と家来たちが他日を期して投降。[[大江勝永|寒河江忠左衛門]]以下わずか25名の有志が城に残って、籠城戦を3日間にわたり繰り広げたが、9月9日、ついに落城した。また、[[天狗党の乱|天狗党]]に同情的だった[[松平頼徳]]は、[[田沼意尊]]に責任を追及され、「賊魁」という汚名のもと、10月5日、切腹して果てさせられた<ref>鈴木 彰『助川海防城 - 幕末水戸藩の海防策 -』(崑書房、1978)<name="ReferenceA"/ref>。
 
== 本圀寺党の帰還 ==
捕縛された大発勢の中には、陣屋預けや寺社預けになって生き延びた者が多い一方で、頼徳軍から投降した者には処刑された者、獄中死した者が少なくない<ref>『日本主義 近代のあけぼのと水戸藩 —その輝きと陰影』(白陽社、2010)</ref>。久蔵がなぜ許され、出牢できたかは不明だが、[[攘夷]]派[[志士]]としてではなく、用心要人警護や暴徒鎮圧の名目でする立場だったことが一因と考えられる。入牢百日余にして、久蔵は帰村を申し渡され、以降潜伏。[[慶應]]元年(1865年)5月、京都へ赴き、本圀寺党に加わった<ref name="茨城県参事 関 新平宛 国家関係事蹟書1874"/>(同様に、天狗党の西上から離脱して京都に潜伏、のち本圀寺党に加わった藩士に[[高橋多一郎]]の実弟・[[鮎沢伊太夫]]がいる<ref>『水戸市史 中巻五』水戸市史編纂委員会(1990)</ref>)
入牢百日余にして、久蔵は帰村を申し渡され、以降潜伏。[[慶應]]元年(1865年)5月、京都へ赴き、本圀寺党に加わった<ref>茨城県参事 [[関新平|関 新平]]宛 国家関係事蹟書(1874)</ref>。
 
本圀寺党とは京都六条の[[本圀寺]]を宿所にし、当時12歳で[[禁裏御守衛総督|御所守衛]]の任に就いていた[[徳川昭武]]の元、禁中を守衛していた水戸藩兵の一団である。とはいえ、[[天狗党の乱|天狗党]]派閥だったため、[[諸生党]]の支配下にある国許からは充分な補給金穀の仕送りが行われず、その生活は困窮を極めていた<ref>須見 裕『徳川昭武 万博殿様一代記』(中公新書、1984)</ref><ref>小野寺龍太『幕末の魁、維新の殿』(弦書房、2012)</ref>。
 
本圀寺党に対して、帰国と水戸の[[諸生党]]鎮圧の[[勅旨され]]がくだったのは、維新[[王政復古]]が成立した後の[[明治]]元年(1868年)2月。久蔵は仲間300余名の本圀寺勢のひもにして水戸へり、[[諸生党]]を[[西白河郡|奥州白川]]まで追討した。同年10月には、[[水戸城]]奪還を期してのため再来襲した[[諸生党]]と[[弘道館戦争]]を戦い、これに勝利。久蔵はその後、[[大賀村 (茨城県)|大賀村]]へ帰村し、以後は農業に務めて、明治31年(1898年)7月に没した<ref> name="茨城県参事 [[関新平|関 新平]]宛 国家関係事蹟書(1874)<"/ref>。
 
== 婚姻・子孫 ==
旧姓・諸澤みよとの間に三男一女を設けた。孫の助川 壽は明治39年(1906年)、茨城県巡査となったのを皮切りに、[[大正]]から[[昭和]]初期にかけて、大子分署長、松原の各署署長、[[土浦警察署]]長、[[水戸警察署]]長を歴任<ref>『日本警察新聞』第737号、1928)</ref><ref>『茨城人名録』(いはらき新聞社、1939)</ref><ref>前田香径『明治大正の水戸を行く』(いはらき新聞社、1959)</ref>。なお不思議な縁というべきか、助川 壽の孫のひとりは生前、東京都内で開業医として働き、偶然、近所に居住していた[[山野辺義芸]]の後裔で、元・[[幕末と明治の博物館|常陽明治記念館]]関係者のかかりつけ医となっている。
 
== 参考文献 ==
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
{{DEFAULTSORT:すけかわ きゆうそう}}
[[Category:幕末水戸藩の人物]]
[[Category:幕末の人物]]
[[Category:1813年生]]
[[Category:1898年没]]