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{{別人|x1=自転車選手の|浅田顕}}
'''浅田 彰'''(あさだ あきら、[[1957年]][[3月23日]] - )は、[[日本]]の[[批評|批評家]]<ref>[http://realkyoto.jp/article/ho-tzu-nyen_asada/ あいちトリエンナーレ2019 対談:ホー・ツーニェン×浅田彰《旅館アポリア》をめぐって]</ref>、[[哲学者]]<ref>https://book.asahi.com/article/11612797</ref>。[[学位]]は[[修士|経済学修士]]([[京都大学]]・[[1981年]])。[[京都芸術大学]]大学院芸術研究科教授<ref>{{Cite web |title=浅田 彰 {{!}} 教員紹介 |url=https://www.kyoto-art.ac.jp/info/teacher/detail/0774158 |website=京都芸術大学 |access-date=2025-05-18 |language=ja}}</ref>。[[京都大学]]助手時代に発表した『[[構造と力]]』『逃走論』がベストセラーとなり、以後さまざまな分野での批評・編集活動で知られる
 
== 来歴概要 ==
[[兵庫県]][[神戸市]]出身。両親は[[産婦人科医]]。1979年[[京都大学経済学部]]卒業。1981年[[京都大学大学院経済学研究科・経済学部|同大学院経済研究科]]博士課程中退。[[京都大学人文科学研究所|同大学人文科学研究所]]助手を経て、1989年より[[京都大学経済研究所|同経済研究所]]助教授。2008年より[[京都造形芸術大学]]大学院長、のち同大学院学術研究センター所長<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%B5%85%E7%94%B0%E5%BD%B0-1049521]</ref>を経て、2020年より[[京都芸術大学]]大学院附置機関 [https://icakyoto.art/ ICA Kyoto]所長。2025年より同大学院芸術研究科教授
 
1983年、京都[[京都大学人文科学研究所|大学人文科学研究所]]助手時代に、[[構造主義]]と[[ポスト構造主義]]の思想を一貫した見取り図のもとに再構成する『[[構造と力]]』を発表。思想書としては異例の15万部を超すベストセラーとなり<ref name=":0" />、同時期に『チベットのモーツァルト』を発表した[[中沢新一]]などとともに、いわゆる「[[ニュー・アカデミズム]]」の旗手として一般メディアを舞台に幅広い批評活動を開始した<ref>「浅田彰」([[上田正昭]]ほか監修『日本人名大辞典』講談社、2001)</ref>。
;『構造と力』
1983年、京都大学人文科学研究所助手時代に、[[構造主義]]と[[ポスト構造主義]]の思想を一貫した見取り図のもとに再構成する『[[構造と力]]』を発表。思想書としては異例の15万部を超すベストセラーとなり<ref name=":0" />、同時期に『チベットのモーツァルト』を発表した[[中沢新一]]などとともに、いわゆる「[[ニュー・アカデミズム]]」の旗手として一般メディアを舞台に幅広い批評活動を開始した<ref>「浅田彰」([[上田正昭]]ほか監修『日本人名大辞典』講談社、2001)</ref>。
 
当時の日本では、[[ロラン・バルト]]や[[ミシェル・フーコー|フーコー]]、[[クロード・レヴィ=ストロース|レヴィ=ストロース]]などのフランス現代思想が盛んに紹介されていたが、思想家ごとの紹介にとどまることが多く、彼らを思想史全体に位置づける試みはほとんど行われていなかった<ref name=":0" />。そうした状況の中浅田が『構造と力』において、デリダの脱構築の哲学や、[[ドゥルーズ/ガタリ|ドゥルーズとガタリ]]が用いた[[ジャック・ラカン|ラカン]]派精神分析の思想など様々な潮流を俯瞰し再構成してみせたため<ref>浅田彰『構造と力―記号論を超えて』勁草書房、1983</ref>、同書はフランス現代思想に対する「知の見取り図」として受容されることになった<ref>[[安藤礼二]]「浅田彰 ─ 「知」への切断と介入」(『[[大航海]]』 (55), 102-105, 2005)</ref><ref name=":0">「浅田彰」(『日本大百科全書』小学館、2018)</ref>。
 
;『逃走論』
翌1984年には、一般誌などに寄稿したエッセイを集めた『逃走論』を発表。同書では[[ドゥルーズ/ガタリ|ドゥルーズとガタリ]]、また[[カール・マルクス|マルクス]]などの思想を従来のように正面から一点集中的に読み解こうとするだけではなく、多面的な視点を相互に移動しながらテクストに向き合う姿勢が必要だと説いた<ref name=":1">浅田彰『逃走論 ─ スキゾ・キッズの冒険』ちくま文庫、1986</ref>。この対比を、浅田は特定の価値観や立場・見方に固執するパラノイア([[偏執病|偏執狂]])型と物事に固執しないスキゾフレニア([[統合失調症]])型に二分したが<ref name=":1" />、これは「パラノからスキゾへ」というキャッチフレーズとして、当時の流行語となり<ref name=":0" />、第一回新語・流行語大賞において新語部門の銅賞に選ばれた<ref>「現代用語の基礎知識」選 ユーキャン「[https://www.jiyu.co.jp/singo/index.php?eid=00001 第1回新語・流行語大賞]」</ref>。
 
;=== 『逃走論』 以後の批評活動 ===
1984年から87年まで雑誌『[[GS たのしい知識|GS]]』で活動したのち、90年代は[[柄谷行人]]とともに思想誌『[[批評空間]]』の編集委員<ref>その総目次は[https://w.atwiki.jp/aabiblio/pages/2.html 浅田彰aabiblio @ ウィキ]</ref>を務め、『季刊思潮』『InterCommunication』『Any』といった思想誌の編集にかかわっている。
 
;『逃走論』 以後の批評活動
『逃走論』 以後の浅田の著作は、対談・短いエッセイなどの再構成が中心となり、叢書の編集や芸術祭・映画祭の監修など幅広い分野で活動を続けている<ref name=":0" />。浅田の師の一人である[[数学者]]の[[森毅]]は、浅田の本領は、一見無関係なものを関連づけ、全体の中に位置づけ直して新たな光を当てる広義の「編集」行為にあると指摘している<ref>森毅『世話噺数理巷談』平凡社、1985</ref>。また浅田の紹介・評価がきっかけとなって、多くの思想家やアーティストが注目を浴びることになった<ref>たとえば[[スラヴォイ・ジジェク]]は、『批評空間』で日本で初めて特集記事が組まれ、[[青山真治]]の映画『[[EUREKA (映画)|EUREKA]]』も浅田の評価がきっかけとなった。</ref>。
 
20081984から87年まで雑誌『[[GS たのしい知識|GS]]』で活動したのち90年代は[[柄谷行人]]とともに思想誌『[[批評空間]]』の編集委員<ref>その総目次は[https://w.atwiki.jp/aabiblio/pages/2.html 浅田彰aabiblio @ ウィキ]</ref>を務め、さらに『季刊思潮』『InterCommunication』『Any』といった思想誌の編集にかかわった。1989年より[[京都大学経済研究所|同経済研究所]]助教授。2008年に[[京都大学経済研究所]]准教授を退職し、[[京都造形芸術大学]]大学院長に就任した[https://web.archive.org/web/20080511121959/http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20080430bk07.htm][http://www.kyoto-art.ac.jp/graduate/about/gpresident.html]。のち同大学院学術研究センター所長<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%B5%85%E7%94%B0%E5%BD%B0-1049521]</ref>を経て、2020年より[[京都芸術大学]]大学院附置機関 [https://icakyoto.art/ ICA Kyoto]所長。2025年より同大学院芸術研究科教授
 
== 主な編集・批評活動 ==
 
* [[中上健次]]全集(集英社、1995-6 年)の編集委員を務めた。作家が始めた「熊野大学」にもたびたび参加した。
2012年から[[ウェブメディア]]の[https://realkyoto.jp/ REALKYOTO]で評論を発表していた。2020年末に同メディアは更新を停止し、[https://icakyoto.art/ ICA京都]のサイト内ウェブマガジンREALKYOTO FORUMに移行され、浅田はICA京都の所長に就任した。就任にあたって、「たんなるジャーナリスティックな情報でも、アカデミックな論考でもない、グローバルなアート・シーンの具体的現実にアクセスし、またそれについて深く考えたいと思っているすべての⼈に注⽬していただければ、そして積極的に参加していただければ幸いです」との文章を発表した<ref>{{Cite web|和書|title=DIRECTOR’S MESSAGE|STAFF|ABOUT|ICA京都 |url=https://icakyoto.art/about/message/ |website=ICA京都 |accessdate=2022-03-11}}</ref>。
* 1984 年から 2023 年まで[[坂本龍一]]と対話やコラボレーションを重ねている。『TV WAR』(つくば科学博、 1985 年)や、[[ダムタイプ]]の高谷史郎らと制作された『LIFE』(1999 年)ではコンセプト・デザイナーを務めた。坂本が音楽史を見直すプロジェクト 『schola』シリーズにも協力。関連して、[[渡邊守章]]を中心に坂本龍一・高谷史郎・白井剛・寺田みさこらと「マラルメ・プロジェクト」と題するマルチメディア・パフォーマンスを 2010 年から 2012 年まで京都芸術大学内の[[春秋座]]で3度にわたって上演した。2021 年 11 月 7 日には病気療養中の坂本龍一の代役として「radio sakamoto」(J-WAVE)で BTS に関する講義を行なっている。
* [[磯崎新]]と 1985 年に『現代思想』で対談して以来コラボレーションを続け、1991 年から 2000 年にかけて建築と哲学の対話の場として毎年世界各地で開かれた「Any コンファレンス」には主催者の一人の磯崎とともに参加、両名で会議録の日本語版(NTT 出版)の編集も行なった。 『現代思想 2020 年 3 月臨時増刊 総特集=磯崎新』(2019)年でもこれまでのコラボレーションを踏まえ新たに対話を行なった。
* [[ダニエル・リベスキンド]]の要請でオランダの[[フローニンゲン|フローニンゲン市]]に一連のシンボルを建築するプロジェクト(「Books ofGroningen」、1990 年)にウィリアム・フォーサイスや[[ハイナー・ミュラー]]らと参加、シンボルの一つを高谷史郎と共作した。
* 1995 年から 2007 年まで文学界新人賞、2005 年から 2010 年まで[[新潮新人賞]]の選考委員を務めた。
* 1996 年度から 2006 年度まで[[放送大学]]で渡邊守章・渡辺保とともに 「演劇を読む」「表象文化研究――文化と芸術表象」の講義を担当、テキストは放送大学教育振興会から刊行された。
* 2012年から[[ウェブメディア]]の[https://realkyoto.jp/ REALKYOTO]で評論を発表していた。2020年末に同メディアは更新を停止し、[https://icakyoto.art/ ICA京都]のサイト内ウェブマガジンREALKYOTO FORUMに移行され、浅田はICA京都の所長に就任した。就任にあたって、「たんなるジャーナリスティックな情報でも、アカデミックな論考でもない、グローバルなアート・シーンの具体的現実にアクセスし、またそれについて深く考えたいと思っているすべての⼈に注⽬していただければ、そして積極的に参加していただければ幸いです」との文章を発表した<ref>{{Cite web|和書 |title=DIRECTOR’S MESSAGE|STAFF|ABOUT|ICA京都 |url=https://icakyoto.art/about/message/ |website=ICA京都 |accessdate=2022-03-11}}</ref>。
* 「[[横浜トリエンナーレ|ヨコハマトリエンナーレ]]」アーティスティック・ディレクター選考委員長として、2020 年にラクス・メディア・コレクティヴ、2023年(2024年3月15日~6月9日に延期し開催)にリウ・ディン(刘鼎)&キャロル・インホワ・ルー(盧迎華)、キャロル・オンホワをアーティスティック・ディレクターに選んでいる。
* 「[[あいちトリエンナーレ2019]]」展示の一部である 「表現の不自由展・その後」 が保守派の批判を受けて中断に追い込まれたあと、芸術監督の[[津田大介]]と京都のアートスペース「浄土複合」でその問題に関するトークセッションを行なった<ref>{{Cite web |title=芸術/表現の場は今、いかに可能か対談:浅田 彰×津田大介構成:編集部|TALKS & INTERVIEWS|REALKYOTO FORUM|ICA京都 |url=https://icakyoto.art/realkyoto/talks/82277/ |website=ICA京都 |access-date=2025-05-31}}</ref>ほか、参加アーティストのホー・ツーニェンと公開対談<ref>{{Cite web |title=対談:ホー・ツーニェン×浅田 彰《旅館アポリア》をめぐって構成:編集部|TALKS & INTERVIEWS|REALKYOTO FORUM|ICA京都 |url=https://icakyoto.art/realkyoto/talks/82230/ |website=ICA京都 |access-date=2025-05-31}}</ref>を行なった。
 
== 略歴 ==
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*経済学部・大学院経済学研究科の出身で、元々は[[経済学者]]を名乗り、専攻は[[経済学]]としていた。ほかに[[経済思想史]]に関する論文を執筆したこともある。しかし経済学関係の業績はもとより80年代後半以降からは経済学関係の著作は皆無で、現在は経済学者は「廃業」したと述べている{{要出典|date=2021年8月}}。
*経済学に関する体系的業績や著作は一つも残しておらず、このことを[[吉本隆明]]が厳しく批判している。吉本は、浅田が「学生の学力がここ10年くらいで劇的に落ちている。[[文部省]]は権威主義的な詰め込み教育を維持したほうがよかった」と言っていることについて、「最近の学生の学力のレベルが低いというより、むしろ、浅田彰のレベルが低い、というべきじゃないでしょうか。浅田彰は、専門だという[[理論経済学]]の分野でも、学者としてちっとも優秀じゃないですよ<ref>吉本隆明{{Cite book|和書|year=2000|month=9|title=超「20世紀論」上|publisher=アスキー|isbn=978-4756135698|ref=吉本2000a}}199頁</ref>。」「つまらない専門外のことはいう浅田彰<ref>吉本隆明{{Cite book|和書|year=1999|month=8|title=私の「戦争論」|publisher=ぶんか社|isbn=978-4821106844|ref=吉本1999a}}167頁</ref>」と評している。
*2008年まで20年に渡り、[[京都大学経済研究所]]に[[准教授|助教授]]([[准教授]])のまま勤務していたが、教授に昇任できなかった。結局、『[[週刊文春]]』[[2008年]][[3月27日]]号「19年間"助教授"の末、浅田彰が京大を飛び出した」記事は、「学内で『穀つぶし』と言われたわけではないでしょうが(笑)、これ以上の出世、要は教授になることはないと見限ったのかもしれませんね」「八〇年代半ば以降、対談集や芸術批評などを除けばまったくと言っていいほど著作を発表していません。そういう意味では学者としての業績は残してない」と報じられた。
 
=== 天皇制について ===
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== 著作 ==
*『[[構造と力]]――記号論を超えて』([[勁草書房]], 1983年;[[中公文庫]]、2023年)
**[[中公文庫]]より文庫化,2023年
*『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』([[筑摩書房]], 1984年)
*『ヘルメスの音楽』(筑摩書房, 1985年)