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{{出典の明記|date=2025-05}}
『'''たちぎれ'''』もしくは『'''たちきれ'''』は、[[古典落語]]の演目の一つ。『'''立ち切れ'''』(または『'''立切れ'''』{{Sfn|佐竹・三田|1970|p=246}}{{Sfn|前田勇|1966|p=215-216}})と漢字で表記されることもあるほか、『'''たちきり'''{{Sfn|東大落語会|1973|pp=279-280}}、『'''立消え'''』(たちぎえ){{Sfn|前田勇|1966|p=215-216}}、『'''たちぎれ線香'''』『'''立切れ線香'''{{Sfn|前田勇|1966|p=215-216}}』(たちぎれせんこう)、『'''線香の立切れ'''』(せんこうのたちぎれ){{Sfn|佐竹・三田|1970|p=246}}{{Sfn|宇井無愁|pp=305-307}}とも{{Efn|『上方落語』下巻は、上方では「たちぎれ」だったものが東京では「たちきり」になったとする{{Sfn|佐竹・三田|1970|p=246}}。}}。また別題として『'''入れ黒子'''』(いれぼくろ)というものもある{{Sfn|東大落語会|1973|pp=279-280}}
 
{{要出典範囲|原話は江戸時代の[[笑話集]]『江戸嬉笑』の一編「[[反魂香 (落語)|反魂香]]」。[[松富久亭松竹#初代|初代松富久亭松竹]]の作といわれる{{誰によってSfn|date佐竹・三田|1970|p=2025246}}{{Sfn|前田勇|1966|p=215-05216}}。もとは[[上方落語]]であるが、{{要出典範囲|[[桂文治 (6代目)|6代目桂文治]]あるいは[[柳家小さん (3代目)|3代目柳家小さん]]により|date=2025-08}}、[[江戸落語|東京]]に移したとされ、東京でも広く演じられる。上方落語の数少ない[[人情噺]]で、東京でも定着し{{Sfn|前田勇|date1966|p=2025215-05216}}
 
遊び好きの商家の若旦那を改心させるために蔵に幽閉し、その間に心を通わせていた[[芸妓|芸者]]が死んでしまう顛末を描いている。一般的な滑稽噺のような抜けた人物が登場せず、くすぐりが非常に少ない。
 
原話として、宇井無愁『落語の根多 笑辞典』は以下2点を挙げる{{Sfn|宇井無愁|pp=305-307}}。
#『御伽草』([[安永 (元号)|安永]]2年・[[1773年]])所収の「魂魄」([[京都|京]]の商店の[[手代]]が[[江戸]]の芸妓に[[三味線]]を贈る約束をしてできあがった物を届けに上がると病死したと聞かされ、墓前に出向いて言葉をかけながら回向すると芸妓の幽霊が現れて三味線を少し爪弾いたものの「ハイお迎ひ冥途から」と消えるという内容)
#『江戸嬉笑(えどきしょう)』([[文化 (元号)|文化]]3年・[[1806年]])所収の「反魂香」(若い息子が芸妓と懇ろになるが芸妓がはしかで他界し、[[反魂香]]を思い出した息子が好物を供えて線香を焚くと芸妓の幽霊が現れたがすぐに「[[閻魔|閻王]]のお迎え」と消えかかり、息子が着物の裾をつかむと「線香モウ立ちやした」と答える内容)
前田勇および東大落語会編『落語事典 増補』は2のみを原話として記している{{Sfn|前田勇|1966|p=215-216}}{{Sfn|東大落語会|1973|pp=279-280}}。。
 
== あらすじ ==
まず演者は、かつて[[芸妓|芸者]]への花代(支払い)を時間で換算するために、[[線香]]が燃えた長さを測っていたことを説明する{{Efn|宇井無愁『落語の根多 笑辞典』には、当時使用されていた「線香場」(芸者の名札の前に線香を立てる、専用のスペース)のイラストが掲載されている{{Sfn|宇井無愁|pp=305-307}}。}}
 
とある商家(上方では[[船場 (大阪市)|船場]]、東京では[[本所 (墨田区)|本所]]か[[日本橋 (東京都中央区)#日本橋(地域)|日本橋]])の若旦那は、それまで遊びを知らず誠実に働いていたが、友達に誘われて花街(上方では[[南地|ミナミ]]、東京では[[深川 (江東区)|深川]]か[[築地]])へ行き、置屋の娘で芸者の小糸(東京では美代吉とも)に出会い、一目惚れをした。
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== 口演での特徴 ==
前記の通りくすぐりが少なく、かつ悲劇的になりすぎないように演じる必要があり、演者には高い技量が要求される{{要出典|date=2025-05}}。[[桂米朝 (3代目)|3代目桂米朝]]は「数百を越える上方落語の中で、最も神聖化されている噺」と評している<ref name="sogen">「たちぎれ線香」『米朝落語全集』第五巻 [[創元社]]、1981年、{{要ページ番号|date=2025-05}}(増補改訂版:2014年)</ref>。また、若旦那が「跡取り息子が丁稚の果ての番頭に乞食にされたら本望じゃ! 見事、甲斐性あったら乞食にせえ!」と一気にまくしたてるさまを番頭が悠然と聞き、煙草を一服吸ってからいさめるシーンについて、「いきり立つ若旦那を前に対して悠々と煙草を吸う、あの演出は誰がかんがえたのでしょうか」と絶賛している<ref name="sogen" />。
 
3代目桂米朝によれば、現在では中堅の落語家がこの噺に挑戦することも多くなっているが、以前は「大師匠」の格でないと高座にかけることを許されず、お囃子方も協力してくれなかったという<ref name="toda">[[戸田学]]『随筆 上方落語の四天王 松鶴・米朝・文枝・春團治』[[岩波書店]] 2011年、{{要ページ番号|date=2025-05}}</ref>。米朝の師匠である[[桂米團治 (4代目)|4代目桂米團治]]は若いころ、師匠の[[桂米團治 (3代目)|3代目桂米團治]]の不在を狙って『たちぎれ』を演じたが、3代目米團治が現れると慌てて切り上げてしまった。高座に上がった3代目米團治は、「今のはほんの立ち切れでございました。それではその続きを」とその後を引き継いで演じた<ref name="toda" />。また、米朝によると、4代目米團治は船場の商家の細かい描写で構成される前半の描写に強いこだわりがあり、商家の慣習や登場人物の立場などを理解して、台詞にそれを出す(たとえば大番頭への旦那の「お座りやす」はほかの番頭と口調が違う)ようにしていたという<ref>[[桂米團治 (5代目)|5代目桂米團治]]・3代目桂米朝「特別対談 桂米朝 x 桂米團治」5代目桂米團治『子米朝』[[ポプラ社]]、2008年、pp.245 - 246。</ref>{{Efn|4代目米團治は、やはり大阪の商家を舞台とした『[[百年目]]』についても、商家の日常や言葉遣いなどについて米朝に語って聴かせたという{{Sfn|小佐田定雄|2015|pp=212-213}}。}}
 
[[佐竹昭広]]・[[三田純市]]の『上方落語』下巻(筑摩書房、1970年)では、「大ネタ中の大ネタ、難物中の難物、とされているが、事実、そういわれるに値い(原文ママ)するだけの名作である」と評されている{{Sfn|佐竹・三田|1970|pp=257-258}}。
 
== バリエーション ==
{{要出典範囲|ヒロインの芸者が病死するのではなく、手紙の誤送をきっかけに、同じくなじみだった別の商家の番頭に殺される、というストーリーがある。この場合、芸者は清純でない女性に描かれ、仏壇のシーンでは若旦那らの前に幽霊の姿になって現れて「地獄でも売れっ子の芸者だ」と説明するといったシーンが追加され、滑稽噺の要素が強くなる。|date=2025-05}}
 
{{要出典範囲|[[桂小文治 (2代目)|桂小文治]](落語睦会の)や、[[桂文枝 (5代目)|5代目文枝]]は、|date=2025-06}}「雪」の三味線の音を中途で切り、線香が消えたこ「ピン」を強調す弾いて止める演出であるが、3代目桂米朝も以前この演出だったものの、のちに音をフェイドアウトさせる演出を取に変更していことで、小糸(4代目桂米團治「スーッと線香立ち消えていく様を表現していになように音が消えるのが本当だと思う」という説に従ったもの){{要出典Sfn|date小佐田定雄|2015|p=2025-05165}}。5代目桂文枝は、唄と三味線を普段の下座の代わりに、[[桃山晴衣]]に依頼し演じたことがある<ref name="totori">[https://tsuchino-oto.hatenablog.com/entry/20110212/1297522859 桃山晴衣の音の足跡(5)語り物と落語] - [[土取利行]]・音楽略記(2011年2月12日)</ref>。若旦那が蔵から出て妓楼に駆けつける際のハメものは、上方落語では「茶屋入り」がもともとの「定石」であったが、のちに廃されて地唄の「雪」のみとなった{{Sfn|佐竹・三田|1970|pp=257-258}}。前記『上方落語』下巻は、「なまじ『茶屋入り』など入れない方がふさわしい」とこの変更を評価している{{Sfn|佐竹・三田|1970|pp=257-258}}
 
[[桂米團治 (5代目)|5代目桂米團治]]は、小米朝の頃、[[落ち]](サゲ)のセリフが飛んでしまい、「仏壇の三味線が燃え尽きました」と言ってサゲてしまったという{{要出典|date=2025-05}}<!--個人ブログなどは[[Wikipedia:信頼できる情報源]]を満たさないため、基本的に出典として使えません(専門家や著名人当人のものは例外)-->。
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== 主な演者 ==
 
=== 物故者 ===
* 3代目桂米朝
**米朝にとっては、学生時代の1944年、東京で上記の小文治が演じたものを聴いたのがこの噺との出会いであった。翌年、陸軍に召集された後、発病して[[姫路市]]の兵庫療養所に入院していた際、他の患者などの前で口演したことが、当時付けていた「病床日記」に記されている{{Sfn|戸田学|2014|pp=49-50}}<ref>{{Cite news|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/culture/dentou/20250804-OYT1T50090/|title=療養中の19歳二等兵・米朝「遂に一席やってしまふ」…初の落語披露は「上方屈指の大ネタ」だった|newspaper=[[読売新聞]]|date=2025-08-04|accessdate=2025-08-09}}</ref>。そののち[[立花家千橘#3代目|3代目立花家千橘]]、師匠の4代目桂米團治の口演を聴きおぼえ、1948年に演じようとしたが、師匠の反対でいったん断念した。その後、後援者の後押しがあって[[戎橋松竹]]の「戎松日曜会・落語新人会」で高座にかけた。客席には師匠の姿があり、終演後に小言を食らうと覚悟した米朝だったが、師匠は叱りもせず「『たちぎれ』とはこんな噺なんや」と、米朝に懇々と教えた<ref name="toda" />。前記のように神聖視されていた大ネタを新人の米朝が口演したことは当時の師匠連に衝撃を与え、「あいつ、えらいことやりよったで。わしらがおって若いもんにやられたままでは恥や。誰かやらなあかん」「しかし、わいあれだけはでけへん」と皆頭を抱えていたら、[[橘ノ圓都]]が「そら残念やなあ」とつぶやいた。「あんたできんのか」と問われて「稽古はしたけど、名人上手聞いてるさかい……」といったん断ったが、「ええがな、やんなはれ」と皆から勧められ、圓都が高座できちんと一席口演した。後年、圓都は以下のように書き残している。{{Quotation|これが機縁となって"たちぎれ"は今も残ったのです。もし米朝が、あの時"たちぎれ"をやっていなかったら、私が意地になってやらなかったら、この噺は姿を消していたことでしょう<ref>{{cite book|和書 |editor=[[神戸新聞]]学芸部 |year=1973 |title=わが心の自叙伝 |volume=5 |publisher=のじぎく文庫 |pages=66-67 |ncid=BN05850391 |ref=harv }}</ref>。}}ただし、[[戸田学]]は「後継に残る一因にはなったであろうが、残された音源を聞く限り、その演出は決していいものとは言えない」と、圓都が演じたことで演目が残ったとはいえないという見解を示している{{Sfn|戸田学|2014|p=107}}。
* 5代目桂文枝<ref name="totori"/>
* [[春風亭柳好#3代目|3代目春風亭柳好]]{{要出典|date=2025-05}}
* [[三笑亭可楽#8代目|8代目三笑亭可楽]]{{要出典|date=2025-05}}
 
=== 現役 ===
{{出典の明記|section=1|date=2025-05}}
* [[笑福亭鶴瓶]]
* [[桂文之助 (3代目)|3代目桂文之助]]
* [[古今亭圓菊 (3代目)|3代目古今亭圓菊]]
* [[古今亭菊之丞]]
* [[柳家さん喬]]
* 5代目桂米團治
 
== 本作品が登場したメディア ==
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 物故者注釈 ===
{{notelist}}
=== 現役出典 ===
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=前田勇|title=上方落語の歴史 改訂増補版|publisher=杉本書店|date=1966|id={{NDLDC|2516101|format=NDLJP}}|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|editor1=[[佐竹昭広]]|editor2=[[三田純市|三田純一]]|title=上方落語|volume=下|publisher=[[筑摩書房]]|date=1970|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/12467058|ref={{SfnRef|佐竹・三田|1970}}}}
* {{Cite book|和書|ref={{SfnRef|東大落語会|1973}}|editor=東大落語会|title=落語事典 増補 |publisher=[[青蛙房]]|year=1973|id={{NDLDC|12431115|format=NDLJP}}}}
* {{Cite book|和書|author=宇井無愁|title=落語の根多 笑辞典|publisher=[[角川書店]]|series=[[角川文庫]]|year=1976|ref=harv|id={{NDLDC|12467101|format=NDLJP}} }}
* {{Cite book|和書|author=戸田学|authorlink=戸田学|title=上方落語の戦後史|publisher=[[岩波書店]]|date=2014-07-30|isbn=978-4-00025987-3|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=小佐田定雄|authorlink=小佐田定雄|title=米朝らくごの舞台裏|publisher=[[筑摩書房]]|series=[[ちくま新書]]|date=2015-04-25|isbn=978-4-480-06826-2|ref=harv}}
 
{{古典落語の演目}}